はてなキーワード: 不可侵とは
猫を3匹飼っている。それぞれ個性的で、性格も鳴き声も行動もだいぶ異なる可愛い奴らだ。この3匹でアイドルグループを組んだら売れると思うし、猫界のPerfumeとか呼ばれるようになるかもしれない。親バカだけど。
①黒白はちわれ
最年長の猫。唯一の雑種。私が小学生の頃からの付き合い。歳をとるうちに私にめちゃくちゃ懐くようになって、ここ数年毎日一緒に寝ている。入れないように部屋を閉めておくとジャンプで扉を開けてベッドに飛び乗ってくる猛者。
暖かい場所と私に撫でてもらうことが大好き。撫でるとすぐにごろごろ喉を鳴らし、私の首の上やお腹の上で寝ようとする。息苦しいので優しくどかすと不満げな感じでまた同じ場所に来る。しつこいけど可愛い。
老猫なのによく1匹で廊下運動会を開催しており、ダダダダダ!!!!!!!ドドドドンンンンンドン!!!!!!!!みたいな音を響かせている。
目に入れても痛くないほど可愛いが嘔吐をすることが多いため、3日に1度はその音で起こされるしベッドシーツを洗わなければいけないのでやばい。
1年前遺伝性の乳がんであることが発覚した。2回ほどの手術を経て今では元気に運動会ジャンプマンだ。できるだけ長生きして欲しい。
大柄なメインクーン。母にめちゃくちゃ懐いており、反対に父のことはめちゃくちゃ嫌い。私のことはそこそこ好きなようだ。家の人間以外には絶対懐かないタイプ。
死ぬほど天邪鬼で気分屋。一番猫らしい猫とも言う。機嫌が悪い時に触ると烈火のごとく怒りだしシャーが止まらないが(このせいで従兄弟からは名前ではなく「シャーちゃん」と呼ばれている)、そこそこ機嫌がいい時に撫でるとごろごろ喉を鳴らしたり目を細めて微かに鳴いたりとめちゃくちゃ可愛い。
夕方4時くらいから餌を欲しがりだすのだが、その時の様子がほかの猫より必死なため、妖怪えさほしがりというあだ名を付けられている。ちょっと枯れた感じの、あんまり可愛くない鳴き声でンァーオ!!!!ギャン!!とか言いながら足元にまとわりつくのが印象的。
運動神経が悪く、高いジャンプが出来ないため、私の二段ベッドに登ってこられない唯一の猫。寒い冬とかにベッドに乗せてやると満足そうにブランケットをふみふみしている。可愛い。
③白黒はちわれ
かなり太っている立ち耳スコティッシュフォールド。1匹目に比べると白い部分が多いため白黒、黒白で呼び分けられている。
犬みたいな性格の猫で、人恋しい!人間だいすき!ほかの猫とも遊びたい!僕だよー僕だよーねーねーみたいな自己顕示欲と構ってオーラがすごい奴。1匹目と2匹目はお互い不可侵だったのに、3匹目はがんがん他猫のプライベートスペースに突っ込んでいくためよく怒られている。
とても人懐っこい猫で、家の人間以外にもがんがん寄っていってこすって懐いてごろごろして~な我が家では初めてのタイプのすごい奴。でかい図体の全体重をかけて行われるこすりは強烈で、かなりの重量感がある。かわいい。
かまってやるとすぐに喉を鳴らし、可愛い声でンミャァーオと鳴き、足元をくるくる回り、時には膝の間にむりむり入ってきて座ったりと、猫カフェで飼われていたらめちゃくちゃ人気者になったのでは?と感じさせるポテンシャルがある。まあうちの猫なんですけどね!!!!!どこにもあげないけどね!!!!!!
しかしすぐ懐くがすぐ飽きるため、かまって!かまって!とアピールしていた2分後には「じゃあもう僕行くんで.......」みたいな感じでふらっといなくなったりする。不思議。
ゾーニングすればいいんだよ。お互い不可侵でさ。そうすれば不快な思いせず、好きなコンテンツ味わえるよ。
献血ポスターも、学校で配られるプリントで使われてるような当たり障りのないイラストを使おうが、宇崎ちゃんをも上回るパイオツカイデーで訴求内容が献血なのかおっぱいなのか分からん絵でもいいじゃん。おっと掲示する場を間違えるなよ?
そのカテゴライズされたゾーンの中で、男女問わずハラスメントが起きてしまったら、みんなで救済しようよ。騙されてその中に入ってしまったかも知れないし。
....と、馬鹿な事を申してしまい、誠に申し訳ございません。上記のような事が問題じゃねえよって話でございますし、仕事のストレスを発散したかっただけです。もしこのような日記でも「ははは」と笑い飛ばしていただけますと助かります。
自己投影というところ以外私が書いたのか?ってくらい元増田に共感してしまった
元増田と違って自己投影じゃなく夢主作るタイプだけど同担拒否夢女子としてちょっと言及せずにはいられなかった
過激派と同担拒否をまとめるな!!!おい!!!まとめんなよそこ!!!!誰とも関わらずツイッターの鍵垢で一人空しく夢ツイを壁に投げてる同担拒否夢女もいんだよ!!!
最近本当にこの誤解をしている人が多いね…夢主作るタイプの中でも同担拒否と明記してるだけで避けられることの多いこと
元増田も下の方で書いてたけど、夢って本人の夢で本人だけに需要があるもの、まさにエゴなんだよね
夢主作ってる人間だと特に自分の夢主と推しのカプが一番になるから、他人の作る夢主だとどうしても解釈違いになってしまって…
解釈が違う同担と話してても気をつかってしまって楽しくないし、自分の夢は自分のもので他人の夢は他人のものとしてお互い不可侵にしてほしいから同担拒否名乗ってるんだけど、なぜか過激派に分類されてしまって他担すら仲良くしてもらえなくて悲しい
腐向けで言うと攻は同じでも受が全く違うキャラのカプの人々は相容れないのはわかってもらえるのに、夢に変換されるとなぜか同担と仲良くしない同担拒否がおかしいみたいになってるの、ちょっとね
同担拒否夢女子だって他担とは仲良くしたいんです!!!!!!!!!!
最近ツイッターも年齢低めの人が増えたのもあって夢女子界隈も大変だよ。
がっつり自己投影夢ツイを公開垢で小便漏らすみたいにダラダラダラダラ垂れ流したりこれまた公開垢なのに夢絵アイコンにしたりもう大変だよ。夢女子やめてくれ。体感、すとぷりと某歌い手の夢女子に多い気がする。私の体感なので気にはしないで。
私が謝ることではないけどなんかごめん、夢主作るタイプの夢垢が特にこういうの多い気がする
若い子が入りやすい空気があるのもあるんだよね…小説や漫画をかかなくても夢主を好きなように作って簡単にプロフ作るだけで夢やってまーすな夢女子がTwitterに大量にいるから
女の子しか描けなくても、まともな文や漫画がなくても夢主の設定作るだけで同じような仲間がいてすぐ繋がれる環境ができてしまっているんだよね
Twitterという性質上仕方のないことなのかもしれないけれど、設定や夢主を量産してるだけの人は本当に…なんなんだろうと思ってしまうよ
あとこれは夢主作るタイプだけの話だと思うけど、推しよりも夢主カワイイだけの人が多くてね、そこもすごくモヤる
自分の創作キャラがカワイイっていうのは百歩譲ってわかるけど、結局それは推しがいなくてもいいんじゃないかって人ばっかりで
夢主が原作の設定ぶち壊しの個人の萌えを詰め込んだだけのキャラだったり、テンプレのような低身長、ロリ顔、巨乳、天然な逆ハー夢主とか
夢主カワイイのはわかるけど、ただただ夢主を推すばっかりで、一切原作キャラが出てこない夢垢をみると本当に何を見せられてるんだろうって虚無がすごい
あとえろ系になると原作キャラが竿や白濁だけでメインが夢主になりがちだけど、それも結局自分の思うカワイイ夢主が描きたいんですね原作必要?ってものばかり…
まず創作者本人にしか需要ないただ夢主がただえろい格好してるだけの絵を夢絵として公開垢で垂れ流すの、本当にやめてほしさある
またみてきたので書く。
歌舞伎町:
本作の主要な舞台であり、水商売の一大拠点でもある。また隣接する地域には、コリアンタウンである新大久保があり、本作とのコラボキャンペーン商品を出しているロッテの本社もこの地区にある。スペシャルスポンサーである日清の東京本社もある。
代々木:
代々木駅のあたりは北参道と言われていて、明治神宮の敷地まですぐそこだ。神宮野球場といえばヤクルトスワローズだ。ビニール傘をふる観戦ファンの応援の動きは、本作でてるてる坊主のついた傘を振る動きの元ネタだろう。
また、明治神宮の広い敷地を超えた先には代々木公園があり、そこにはNHKの社屋がある。
銀座:
廃ビルのモデルは代々木会館だが、屋上の神社は銀座の朝日稲荷神社といわれている。
また、隣接する汐留には、日本テレビの本社がある。さらには、電通、朝日新聞の本社もあり、本作のスペシャルスポンサーのソフトバンクの本社もある。
お台場:
最初の依頼の舞台となるお台場といえばフジテレビの社屋だ。天然水でタイアップCMを出しているサントリーのビルもある。
六本木:
花火の依頼で浴衣で登場したシーンが六本木ヒルズだ。テレビ朝日の本社がある。バイトルを運営する株式会社dipの本社もこの地域だ。
高級クラブをはじめとする夜の街でもある。
芝公園:
須賀が娘と面会した公園だ。ところで新海作品には東京タワーがあまり出てこない、という指摘が以前からあった。今作で珍しく描かれているのは、放送の象徴という意味合いがあるのではないか。
さて、ここで確認しておきたいのは、話題になっているこの指摘だ
https://twitter.com/gentledog/status/1156039018594750465
“スポンサー企業は色々登場するんだけど、ヤフー知恵袋はゴミみたいな回答しか返ってこないし、バイトルはろくに仕事を紹介してくれないし、バニラトラックが走る街で未成年が無理やりホテルに連れ込まれそうになるしで「金は貰ったがそれはそれだ!」という作り手の強い意志が伝わってくる。”
まず、特にテレビ放送において、スポンサーを不利にするような表現ができない現状がある。
競合製品を写すことができず、不自然なボカシがかけられる場面をご覧になったことがあるだろう。
そしてそれを端的に示すような、こんな出来事がリークされている
歌舞伎町近くのスタジオアルタでの放送内容であり、お天気お姉さんが発言した内容でもある
このような現状に一石を投じるべく、先鋒となって、スポンサー製品の失礼にあたるようなことをあえて盛り込んでいったのではないか。
ところで、田端が何を意図しているのかなかなかこじつけられなかったのだが、やや強引なのを承知で進めていく。
田端には『株式会社ジェイアール貨物・不動産開発』の本社がある。注目してほしいのはこの不動産の部分だ。
フジテレビが赤字転落、もはや不動産会社がテレビ局を経営している状態
https://biz-journal.jp/2017/12/post_21616.html
放送事業は急速に儲からない事業となってきているのだ。インフルエンサーとしての力は絶大であるにもかかわらずだ。
作中依頼が多くなりすぎて引き受けるのを止めた端緒として「テレビに出ちゃって」というセリフとともに描かれてもいる。
(うろ覚えなのだけど、陽菜のアパートと須賀の事務所にテレビが無かった気がしていて、もしそうだったら現在の生活ではiPadはあってもテレビは..
みたいな方向でも書こうと思っていたのですがやめときます。もう一回観ようと思いますが、いやテレビあったわという方はコメント等で教えてください。)
結局「ゾーニングが不要」だと思ってる人って多分ほとんどいないんだよね。
本当に議論すべきことは「ゾーニングは必要か?」ではなく、「ゾーニングとはどうあるべきか?」「個人の私的領域はどこに線引きされるのか?どこまでが不可侵の領域で、何をしたら侵犯したことになるのか?」「公共とは一体何なのか?どうあるべきか?」ということだと思う。
例えば、個人の服装は基本的には不可侵の私的領域に含まれるだろう。一方、全裸で街を歩けば他人の領域を侵害したと見做され逮捕されるだろう。それが正しい規制のあり方かどうかはわからないけど、私的領域と公共の違いって、それほど明確になってないよね。その辺りにズレがあるように思える。
作品名は敢えて隠して書いていこうと思う
好きで1○年前にハマってからというもの、原作も劇場版もアニメも本誌も追っている
いつからだろうか、その作品がどんどん腐女子に人気になってきた
前からそう言うのあったのは知ってたけど、
その作品が好きだって言うと腐女子だって周りに決め付けられるのがとても嫌だった
極めつけに嫌だと嫌悪感を感じたのは、そのCPが関係ない映画を見に行った時に起こった
映画館の中で「○○×□□は最高ー!」と叫んでる人たちがいたのだ
寧ろなんとなく神聖不可侵な物を汚すようで罪悪感すら感じていました
ただの長年の原作ファンだったはずなのに、そのキャラの虜になってしまった
キャラ自体は嫌いではなかったけど、ずっとキャラを見る度にモヤモヤしてた
今までの自分の気持ちを裏切るようで辛かったけど、見たらモヤモヤが晴れた気がした
そして専用垢まで作ってしまった
まだ、ハマるまでには至ってないけど前程の嫌悪感は薄れた
ごめんね……
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
安倍首相を醜く描くことで庶民のイメージを悪化させることに一定の意味はある
でも陳腐化させた敵と戦っても勝てない
官渡の戦いで袁紹が曹操を過小評価していなかったら、田豊沮授の持久策を選択したかもしれない
ドアを蹴破っても崩れないと仮定したらヒトラーはソ連への不可侵を破らなかったかもしれない
敵の戦力を過小に見積もってもいいことは何もない…正しくとらえるからこそ、対抗策は生まれていく
安倍政権に対してはまずは、金融政策へは一級品との評価を与え、そこから財政拡大への道筋をつけられなかったことを批判すべきではないか
さて財政拡大するためには、社会保障問題をどうするかという問題がのしかかってくる
ここを無視して財政拡大を進める選択肢もあるだろう。しかしその根拠を作り出すのは難しい。
デフレや国債の強さは根拠になりそうだが、銀行や日銀が買い手であることが担保になっていることは否定出来ず、金融政策の転換でA+からさらに低下する可能性がある。
そうなると財政赤字を増やせないなら社会保障費を削り、先進技術への投資をすべきと言う話になる。
しかしこれは確実に票田が失われる。なので、安倍政権は出来ないでいる。逆に立憲は社会保障費を削り、なおかつ支持を集めることができるだろうか?
「立憲ならこういう社会が実現する」の仮定は、政権が存続されうる票田を獲得するという根拠がないと意味のないものだ
どこから票を集めるのか?についてて議論することが政権獲得に不可欠なものだが、市中での立憲支持層は労働者としてのポジショントークに終始し、安倍政権の金融政策を評価することすら出来ないでいることが多い
※本文には「コードギアス 復活のルルーシュ」のネタバレを含む。
10年前のR2放送時物語が終盤に差し掛かり最終回というものを意識した時、本当に比喩ではなく毎週の楽しみであり、
生き甲斐だったコードギアスが終わるという切なさを感じつつ、その分素晴らしいものをみれるのではないか
という期待感もあった。
この素晴らしい物語が終わってほしくないという気持ちが重なる、そんな期間だった。
ルルーシュがスザクと行った本当のゼロレクイエム、ナナリーがフレイヤでやろうとしていたこと
この二つの類似性に打ち震え、あの悲しい最後のシーンはルルーシュ・スザク・ナナリーの物語を終わらせるにふさわしい、
素晴らしいもので、それまで見てきたどんな作品の最終回よりも美しいと思った。
それまでの話数は放送後何度も見返したが、
私にとって不可逆で不可侵の素晴らしい思い出だった。
最終回放送から8年後、西暦2016年にそのコードギアスが、ルルーシュが復活するとの特報が出る。
思い返せば亡国のアキトシリーズの放映や、パチンコ化などのメディアミックスの情報は、
アニメ放送後も途切れることはなく、コードギアスは死なないコンテンツになったのだと気付くべきだったのかもしれない。
情報は少しずつ鮮明になり、総集編としての劇場版3部作が放映されたのちに
与える変更点を加えつつ次々と公開していく。
そしてルルーシュが死んでから10年がったった昨日、西暦2019年2月9日、平成最後の冬に
ルルーシュは死んだのに。
美しく、そして気高く世界から憎しみを無くすために文字通り命をかけた主人公は
もういないはずで、それでも世界は続いていたのに。
復活
肉体が蘇るわけではないよ。
ルルーシュがいない世界で必死に、彼が求めた願いを実現するために
それでもよかったのではないかと考えた。
だがし復活したのだ、
策を練り、有無を言わせぬ迫力で味方を鼓舞し、指示を出す。
あれがルルーシュだということに異論を唱えるファンはいないだろう。
それほどまでに素晴らしくルルーシュだった。
詰め込まれており、それでいて色褪せない、新鮮さも感じることのできる、素晴らしいストーリだった。
完結した作品であるはずという思いが強い人が多いのではないか。
感情を抱いていた。
だけれども、観て、楽しんでしまうのだ。
どんなに抗おうとしていたとしても、
観終わった後に私がどんな感想を抱こうが、
それは全くもって否定できない。
観ないわけにはいかない。
すぐに決めることはできなかった。
少しでもこの胸のつかえがとれないかと
監督のインタビューのタイトルに「批判を覚悟で制作に踏み切った」とあった。
冷静になってみればそれはそうだろうという感想だ。
物語を美しく終わらせるのではなく、
解釈する私の様な人間から批判が出るのは覚悟していただかなくてはならないだろう。
とらえている人が多いように感じる。
また、劇場でも終幕後に涙を流し、
良かったと感想を漏らす人も多くいた。
どんなに賛否両論の意見が出たとしても、「賛」の意見が出続ける限り
今後も興行収入を伸ばし続けるであろう。
向けられる覚悟がないといけない。
「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけ」だ。
しかし、「復活」でルルーシュはこのセリフを否定するかのような言動を行う。
C.C.と同じ、撃たれてもその命を失うことがない
L.L.にはその覚悟がない。
人とは違う理で生きている。その悲しさを物語っているのかもしれない。
円盤を購入するという行為に我々は「支援」という意識を持って行っていたと思う。
我々の支援なしには生き続けることができないと、
その支援が乏しく、延命や繁栄をすることができずに死んでいったコンテンツを
観ていたからこそ、そうした感情が行動させていたのではないか。
私が「復活」を劇場で鑑賞した際に
本作でも重要な役割を担う「玉城真一郎」のクレジットを見た時だ。
ご存知の方もいると思うが、「玉城真一郎」をTVシリーズで演じていた、
もちろん総集編の劇場版で「玉城真一郎」を演じた演者の方の演技は
素晴らしく、引けをとっているだとか、優劣があるといいたいのではない。
その悲しさは、当然のことながら亡くなった人はもう「復活」しない
実際私もそうだった。こんなことを書くと現実とフィクションを理解していないと
否定されそうではあるのだが、私が10年前に愛した「コードギアス」には
壮大で近未来的なSFとしての要素もありながら、リアリティがあったのだ。
死にゆく人間を救うことはできない。そんな現実を突きつけられるような、悲しい物語だったのだ。
だからこそ私たちは最終話でゼロの剣に貫かれたルルーシュを見たとき、
そこにリアリティを、死んだ人間は蘇らないという現実をフィクションの
私は10年前の最終話でルルーシュの死によって完結した素晴らしい物語を
味わうことができたこと。
デザートのような続編を味わえたと、いうところだろうか。
何とか消化吸収に努めないといけないのだろうか。
吐き出したところで、何にもならないのだから。
同じく「死なない」コンテンツに「復活」した。
母性、それは現代日本で不可侵たる聖域と言っても過言じゃないだろう
現代日本の母性主義は右派も左派も同居できてしまう構造を持っており、誰にもどうしようもない存在になってしまっている
子供も悪影響があるからと右派は保守的に、女性性の消費だと左派は革新的に様々な娯楽を一緒になり規制しようとしてきたし、実際に悪書追放運動などで規制した
それらを考える際、右派左派とわけて考えること自体が誤っているのかも知れない
彼女らは右派でなく左派でもない母性主義者と解したほうが納得できる面が多い
そして何に驚くかと言えば、そんな母性主義者たちと一緒になってツイッターやはてなの左派女性は同調して物事を話すことだ
20☓☓年の日本ではクリエイターの権利は神聖不可侵のものとされていた。日本のコンテンツを海外に売り込もうという政府の意向と、表現の自由を最大限にしたいというクリエイターおよびそのファンの願望が合致したのである。保守派の議員が表現規制を推進しようとした時代はとうの昔に終わり、いまや与党の中枢は表現の自由戦士で占められていた。
刑法が改正されて「クリエイター侮辱罪」が制定され、表現の自由を侵害するフェミニストの一斉弾圧が行われた。それは表現の自由の侵害であると主張した憲法学者や弁護士たちも逮捕された。
現在、逮捕された彼/彼女たちは思想改造のため、強制収容所に収監され、萌え絵やエロ絵に囲まれて生活している。しかし、その一部は弾圧を逃れ、「隠れフェミ」として地下活動に励んでいるとされていた。警察はいまもその行方を追っている。
街角でも、萌え絵やエロ絵に対する批判はいっさい禁止され、公共の場に氾濫するエロ絵に「違和感」でも表明しようものなら、即座に密告され、逮捕・収監される状況になっていた。コミケでは、エロ絵のバッグが大々的に復活し、終了後のりんかい線やゆりかもめには幼女の裸のイラストが溢れる事態となった。
渋谷の大通りに幼女の裸体イラストの広告が大々的に掲示されたときには、CNNやBBCは「二次元ポルノ大国日本」として報じたが、そうした記事をSNSで紹介するだけでも「出羽守」「売国奴」とみなされ、たちまち糾弾の対象となった。
街角の書店はほぼ全滅し、大規模書店が大都市の中心地にみられるだけになっていたが、そのなかで大部分の書籍の表紙は萌え絵になっていた。夏目漱石や森鴎外などの小説の表紙は言うでもなく、ハンナ・アレント『人間の条件』の表紙は当然のごとくデフォルメされた美少女アレントであり、アリストテレス『ニコマス倫理学』の表紙にはニコニコしながらマスをかいている美少女のイラストが描かれていた。フェミニストの書籍は言うまでもなく大部分が発行禁止になっていたが、ストロッセンや初期の牟田和恵などの著作は大々的に宣伝されていた。
この頃になると、全国民のあいだで「二分間憎悪」が行われるようになっていた。ある時刻になると、街角のスクリーンや各々のスマホの画面に「パブリック・エネミー」が現れる。それを国民全員で罵倒するという儀式である。
そのパブリック・エネミーには、かつて名を馳せ、いまは地下で活動しているとされるフェミニストが選ばれていた。そのフェミニストたちがスクリーンに登場するや否や、国民は男女を問わず「フェミナチ!」「全体主義者!」「表現の自由の敵!」といった罵詈雑言をぶつけるのである。二分間憎悪の最後には、そうしたフェミニストたちが性的に陵辱されるアニメが映し出された。これも「表現の自由」により擁護される表現なのであった。
そうした体制に違和感をもち、密かに「隠れフェミ」に関心をもった女性がいた。やがて彼女は『フェミニズムと表現の自由』なる著作を手に入れ、その内容に惹かれていく。だが、実は「隠れフェミ」は彼女のような異端者を駆り出すための仕掛けにすぎず、『フェミニズムと表現の自由』もその餌にすぎなかった。
熾烈な拷問の結果、彼女はクリエイターへの忠誠を誓って解放される。彼女はただ処刑されるのを待つだけの身である。彼女が見上げると、そこには巨大な幼女の裸体のイラストが掲げてあった。そうして彼女は泣きながら、自分がそれを愛していることに気づくのであった。