はてなキーワード: キロバイトとは
名前のよくしられたJTC勤務だけど、
・社用PCのログがものすごく細かく取られている(ログファイルが大きくて業務に影響するくらい)
・ウイルス対策と称して複数のソフトウェアがファイルやいろんなログの監視をしている
等、情セキ部門担当責められないためにものすごく費用をかけて業務効率も犠牲にしている。
メール、チャット、WEBの閲覧ログ等も全部詳細にとっているはずだ。
さすがにパスワードは各システム統合されて一日に100回もパスワードを打つということはなくなったけれど、
(でも多いと30~40回くらいは打っていると思う。)
その割に事故は減らない。個人スマホの持ち込み管理は緩いし紙の持ち帰りも厳しくない。
情セキ部門は「そこは自分たちが責めを負うところではないので」と考えているのだろう。典型的なJTCクソサラリーマン仕草だ。
無料WEBで調べものをする機会は結構ある。そのときに、WEBページを100ページ閲覧したとき、
読みたい、意味のあるテキストはせいぜい数百キロバイトだ。でも実際のトラフィックは数百メガバイト、正味に欲しいデータ量の1000倍を
発生させてしまう。(正確にはもうちょっと小さいだろうが)無駄な広告、バナー、広告動画プレビューみたいなものを一緒にダウンロードするせいだ。広告動画プレビューみたいなものは画面を占有し、注意も占有し、業務効率を下げる。なので広告ブロッカー等でオフにしたい。
しかし、未承認ソフトウェアはセキュリティの懸念があり使うなということでEDGEでBINGを素で使えと言われ滅茶苦茶能率が悪い。
実際の必要なデータの1000倍のトラフィックが社内LANに暗号化されて流れているのを無駄と思わないのであろうか。
「そこは自分たちが責めを負うところではないので」と考えているのだろうな。
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
有能な和歌山県知事がホームページで良いこと書いてるのに、スマホに非対応で読みづらすぎる。ちゃんと読めるようにしといてよ。
最近における新型コロナウィルスの感染拡大ぶりは凄まじく、毎日全国のほとんどの県で2ケタの感染者が報告され、それも結構多くの県で3ケタを記録するなど、これまでになかったような感染状況となっています。救いはワクチンの接種が早かったからだと思いますが、高齢者の罹患が少なく、高齢者は重症化しやすいので、重症者の割合が過去に比べて低いということです。しかし、そのワクチンが国からの配分量が少なくなり、接種スケジュールが大幅に遅れています。また、若いからと言って重症化しないということはなく、かつ、(和歌山県は全国で唯一全員入院を死守していますのでいいのですが)自宅等でケアーを受けないで療養していると、一定の比率で重症化する人がいるわけですから、命も危険な状態になるところがどんどん増えてきていると思います。
和歌山県も、8月15日には51人の感染と、感染の抑え込みに四苦八苦している状況です。今のところ、強力な保健医療行政が頑張って、県民には、特定のリスクの高い行為への注意喚起はするけれど、一般的な外出、行動の自粛、すなわち一般的な人流抑制はしていません。ただ、これもこれ以上感染が拡大すると、発動しないといけないかもしれません。楽観はできませんが、科学的、合理的に必要な対策は迅速に打つつもりです。
その中で再び様々なデータも出てきましたし、現在、打っている対策の合理性の説明を県民にも改めて説明しないといけませんし、国全体の動向を見ていると誠に遺憾と思われるところがありますので、オムニバス形式でいくつかに分けて、最近時におけるコロナの状況と対策について述べさせていただきます。
8月2日、厚生労働省は、コロナの感染拡大に伴って病床、特に重症病床のひっ迫を防ぐためと称して、入院基準の見直しを行いました。本来なら、コロナは感染力の強い、かつ、重症化リスクのかなり高い感染症であることから、感染が確認された人はすぐ病院に隔離して、医療看護を行い、病状が悪化した時に備えてよくウォッチしながら、悪化した時はさらに高度な医療措置を加えるとともに、ほかの人にこれ以上うつして、感染拡大が起きることを防ぎ、さらに他の人との接触の履歴、行動履歴をよく聞いて、感染している可能性の高い人を割り出して、検査をして、万一感染していたらその人も隔離するし、濃厚接触者などはしばらく自宅にいてもらって他の人との接触を断ってもらうというような積極的な疫学調査をするわけです。また、この備えとして日頃から保健所の統合オペレーションができるようにし、病院にもお願いして各種コロナ病床を用意しておいてもらい、さらにはこの後詰めとしてホテルのベッドも確保しておくというようなことも行政がやるわけです。(なお、和歌山県ではホテルはコロナが治りかけてもう病状が悪化しないと判断される場合に、病院の出口として使用する方針ですが、幸いまだ一回も使わずに済んでいます。他県では感染者をいきなりホテルに収容する、いわば入り口として位置付けているところが多いようです。)和歌山県は、今に至るまでずっとこの本来のやり方を忠実に守っています。
ところが、今は、感染者があまりに多いため、東京などでは余程の重症者でないと入院はさせてもらえず、ホテルも満杯で、自宅で療養を余儀なくされている人が多数に上っています。このような状況で、厚労省は入院基準を改めると発表しました。あくまでも感染が爆発して、入院などがおぼつかない地域においてということでありますが、入院は「重症患者や特に重症化リスクの高いものに重点化。自宅・宿泊療養者の急変に備え、空床を確保。入院患者以外は自宅療養を基本とし、家庭内感染の恐れや自宅療養ができない場合に宿泊療養を活用。」というものでありまして、これに関して各方面から批判が出て大騒動になっています。
これまではどうであったかと言いますと、「重症化リスクの高いものを中心に幅広く、原則入院で対応。無症状・軽症患者は原則として宿泊療養施設で療養・健康管理。無症状・軽症患者のうちやむを得ず宿泊療養を行えないものを自宅療養で対応。」でありました。
しかし、現実は感染者が多すぎて、上記の「やむを得ず」に自宅療養を余儀なくされている人が圧倒的に多いのであります。したがって、どこが変わったかというと「やむを得ず自宅で」が「原則として自宅で」ということになったわけで、現状に原則を合わせたということだと私は思います。
私は、この改変には反対です。とは言え、現実に東京都などで入院やホテル療養をさせようとしたとしても感染者の数が多すぎてできないでいる保健所などの行政を責めようとは思いません。病院やホテルに入れたくても入れられないのだから、「やむを得ず」で違法状態とは言えません。しかし、それを原則を変えていわば正当化もしくは追認してしまうというのは別の話です。
何故ならば、このような正当化、追認によって、結果として次のような方向にインセンティブが働くからです。
まず、それでいいんだとなったら、行政にとって、病床やホテルをもっと確保しなければならないという動機がなくなります。また、ひょっとすると、本来なら入院して病状を経過観察しなければならない人なのだから、クリニックなどと協力して自宅療養をしている人のウォッチ体制をきちんと作ろうというプレッシャーもなくなるかもしれません。行政の行動原理は、どうすればクライエントである国民若しくは都道府県民の命や利益を守れるかということであるべきで、行政側が容易にできるかできないかではありません。
次に、自宅療養は、命を守るということからすると、かなりリスクの伴う方法です。和歌山県の現実のデータから見て、コロナ患者は発症から4~6日で肺炎になることがあり、その数日後くらいから酸素吸入を必要とするようになることがかなりあり(これを国基準では中等症と言いますが、命にかかわるものなので和歌山県では重症と称しています。)、その中には、ICUに入ってもらわなければすぐに命にかかわるような本当の重症になる人も一定割合いるからです。発見された時に無症状ないし軽症だからといって、それがずっと続くわけではありません。(だから命を守るため和歌山県は全員入院にこだわっているのです。)
行政が対応不能だからといって原則を変えるのは間違っています。それに対応不能なのは東京都など限られた都道府県です。和歌山県は現に全員入院ですし、他の多くの県も感染者の処遇は手厚くしています。少なくとも旧基準で十分でしょう。原則との乖離があまりにも目立っているところは、東京など首都圏とあと少しではないでしょうか。どうも国は東京都のことしか見えていないような気がします。東京都、首都圏など大変な所には、現状を追認してあげるのではなく、よりうまくいっている地方圏などのやり方を参考に、技術的に保健医療行政のやり方をアドバイス、指導するといった方法をとるべきでしょう。
1と並んで厚労省から退院基準の見直しが連絡されました。これも何度か変遷していますが、これまでは有症状の場合、「①発症日から10日間経過し、かつ、症状軽快後72時間経過した場合、退院可。」としていました。その基準を満たさなくても医師の判断で退院が可能になり、自宅療養・宿泊療養にうつることができるようになりました。これは賛成です。異論はありません。
さっそく、和歌山県では10日を7日に改め、「②発症日から7日間経過し、かつ、症状軽快後72時間経過した場合、退院可。」としました。また、無症状者の場合も、検体採取日から10日間経過した場合退院可であったものを、10日を7日に改めるということになりました。何故かというと、これまでのデータからこれは科学的に正しいと和歌山県は分かっているからです。和歌山県のこれまでの事例では、感染者が他者に感染させたと推定されるタイミングは、発症後最長7日です。むしろ発症前にも結構うつしていて、発症後は4日もあればほとんどうつさなくなりますが、変異株で一例だけ発症後7日というのがありました。それでも7日です。だからこれ以後はうつさないという判断をしていますので、国の基準改定は賛成です。むしろ、発症の4日前から他者にうつしている例もあるので、和歌山県の積極的疫学調査では行動履歴の調査でその辺を念頭に置いて前広に調べています。
今回の第五波の感染爆発において、高齢者の罹患率が著しく低いというのは明らかにワクチンのためだと思います。そういう意味で、もう少し政府の対策を評価してあげるべきところもあると私は思います。何故ならば、国は、今年の初めに3億回分のワクチンを確保したと発表し、まず県自身が医療従事者に接種し、次に市町村が65歳以上の高齢者に接種せよ、その後、60歳以上及び基礎疾患のある人、そして一般の人と順番をつけて接種を実施しました。
この第五波の猛威を考えると、もし、この政策なかりせば、現状はもっと阿鼻叫喚の地獄になっていたと思います。この国の政策を受けて、和歌山県は、早くから県と各市町村が緊密に連絡をとり、接種体制を整えスタートダッシュをしましたが、他県では医者が協力してくれないので接種できないなどと言って、中々その進捗がはかばかしくない所もありました。そもそも医療関係者は真っ先にワクチンを接種しているのに、かつ国民がそれを望んでいるのに、接種に協力しない医師が多いなんて信じられません。行政が理をもって頼めば協力するのは当たり前だと思います。現に和歌山県ではそうなっています。ところが進捗がはかばかしくないところがあるというので、菅総理が7月末までに高齢者への2回の接種を完了させよと厳命を下しました。そのおかげで全国的に接種が進んだと思います。
そういう意味では、いつも政府が無策だ、けしからん、コロナがこうなるのも悪いのは皆政府だというばかりでなく、専門家やマスコミもそして野党の方々は、このようによくやった所はよくやったと褒めて差し上げたらどうかと私は思います。
しかし、良いことばかりではありません。3億回分確保と言っていたのが、契約もしていなかったというお粗末ぶりで、今に至るまで量が確保できず、接種体制を整えて、そのまま突っ走れば、9月中には接種が全て完了するはずだった和歌山県でも、ワクチンの配分が無いために、各市町村が接種スケジュールを後ろ倒しにせざるを得なくなっています。すなわち、予約を制限せざるを得なくなっているのです。
この点は本当に政府の罪は重いと思います。無いものは仕方がないというかもしれませんが、それでも、次の2点は、もう少しなんとかしてほしかったと思っています。
一点目は日本への供給量、供給スピードを増やす努力をもっとやる余地はなかったのかということです。既に一時は欧米でだぶつき感が出ていた中で、支払いが確実な日本に特別に先に回すということが、企業として本当にできなかったか、当事者でないので、とやかく言うのは失礼になるかもしれませんが、私の経験では疑問です。例えば、政府とファイザー社との交渉ぶりが報道に出たことはほとんどありません。外務省も経産省も厚労省も動いているという感はなく、唯一、菅総理が直接ファイザー首脳と交渉という報道が2回あっただけです。元役人として言えば、総理にだけ交渉させ、他の要人が一回も渡米すらしていないというのは信じられません。
二点目は本当に足りなくなった8月に入って、接種で今まで先行していた当県はじめ成績優秀県が大幅に配分を削られました。接種が遅い所に合わせて、終期を統一していこうという、日本人得意の悪習についに入ったかとしか言いようがありません。和歌山県などが接種が早かったのは伊達や酔狂でも偶然でもありません。それこそ全県をあげて皆で力を合わせてスピードアップに取り組んだからです。菅総理や河野大臣の掲げるワクチン接種の早期完了を達成しようと死に物狂いで努力したからです。それを先行している所はもういいだろう、遅い所が追いつくまで待っていろと言われたら、もう立つ瀬がありません。努力する者は報われるというエートスが壊れたら、人は皆堕落します。働いても働かなくても、勉強してもしなくても、練習してもしなくても、努力してもしなくても、最後は皆同じというのは人間の持つ向上心を一番破壊する行為です。私は時として日本人に現れるこういう何でも平等マインドがいずれ政府を覆うのではないか、そうして努力して先行している県がパニッシュされるのではないかということを常に恐れていました。そのため、常に河野大臣などに早くできる所は早く終わらせればいいではありませんか、早いからと言って絶対に不利に扱わないで下さいねと申し上げてきました。でも、ついにその恐れが現実になりました。日本でモラルが廃れた瞬間のように思いました。
ファイザーやモデルナのワクチンは95%と発表されてきました。とても優秀です。でもあんまりよく効きすぎて、私も含めて2回打ってしばらくしたら100%うつらないし、重症化しないと思い始めていました。
しかし、和歌山県でも1回目が終わった人はもちろん、2回目が終わった人もボツボツ感染が出始めました。和歌山県では私に全数報告されますから、結構いるものだなぁ、ひょっとしたら実はワクチンは効かないのではないかと思ったこともあります。しかし、そうではありません。和歌山県の調査によりますと、やはり、2回接種を受けた人のおおよそ95%は感染をしていません。または、ワクチンを2回受けた人の感染リスクはそうでない場合の5%になっているということです。また、重症化(又は中等症化)している人はもっと少ないように思います。8月12日、和歌山県はデータを公表しましたので、詳細はそちらへ。PDF形式を開きます新型コロナワクチンの効果等について(PDF形式 2,051キロバイト)
ワクチンがこれだけ効くのに、ワクチンを打ちたくないという人がいます。どうやら、副反応が恐ろしい、本当に効くのかよくわからない、実際に2回打ってもかかる人がいるではないか。そんな不安があるものは、まず他の人に打ってもらって、様子を見て、大丈夫だったら自分も打とうといった理由によるものと思います。
確かに1つ1つとると、ワクチンに伴うそういったリスクも0ではないかもしれません。しかし、人間の長所は、そういうリスクが0でない時でも、色々な状況から比較衡量でどうすべきかを判断できることです。それぞれのリスクがどのくらい1つ1つ重そうで、かつ発生確率がどのくらいで、もし、それを避けると別のリスクがこれこれの損害と確率で襲ってくるが、そうするとどっちの方が得かということです。2回打ってもかかる人はいるけれど、打たない時の感染リスクに比べて5%ぐらいだし、重くなるリスクはものすごく少ない。一方、打たない時は感染リスクが20倍で、感染したら重くなる可能性も高い。また、東京都などでは、感染が分かっても自宅でいて下さいと言われるだけで医療加護が十分できないこともあり得るから、ひょっとしたら命に関わる。どうも若くても症状が重くなる場合もあるようで、軽くても後遺症に苦しんでいる人がいるようだ…ということぐらい考えられないのかなぁと私は思います。
それに自分のことばかりを考えないのが人間の人間たる所以でしょう。ワクチンを打つということは、家族や同僚など、人にうつすリスクも少なくなるということですし、かかった時に必死で世話をしてくれる行政や病院の方々の苦労も大幅に減るということです。和歌山県のように保健医療行政がまだ頑張って持ちこたえていて、感染防止と感染者の医療加護を何とか出来ているところでも、行政や医療関係者の苦労は筆舌に尽くせません。ずっと働いてくれているのです。ましてや、保健所や医療機関があまりの数の感染者と次々に現れる重症者にほとんどマヒ状態になって苦しんでいる都道府県の関係者の苦労と心痛はいかばかりでしょうか。それを避けるように努力するのも立派な社会人の姿だと思います。
このところワクチン接種に対するテレビなどの論調は明らかに変わってきました。以前は打たぬ自由を強調して報道していたのが、感染の拡大とともに打たないと危ういという方向になってきていると思います。そうすると、そういうテレビを見ている人は今までよりもコロナ感染を恐れて接種を希望する人が増えるような気がします。でも少し遅いかも。これまでと違い政府のワクチンの配給が遅れがちになってきました。 Permalink | 記事への反応(2) | 09:51
赤ちゃんかよ👶
下記のようにガチでファミコン実機/互換機用の新作を作るわけじゃなきゃ擬似的にやってんだから、
何したってスーファミより上に決まってんだろ。ついでにどう見てもファミコンモチーフじゃん
https://news.denfaminicogamer.jp/news/180907c
そもそもファミコンは特殊チップとか基盤からとか当たり前なので
興味がなきゃ知らないのは当たり前だと思うけど嘘ゴリ押す理由ナニよ?
父ちゃん母ちゃんがゲーム好きで家にファミコンもあった(わざわざ捨ててない)
歳の離れた兄弟・従兄弟がいたのでファミコンもあった(わざわざ捨ててない)
ある程度大きくなってから、ファミコンブーム・レトロゲーブーム・エミュブームに乗った
そういうヤツがいたら困んのか?
まあ、もうそろそろロボもドローンもハードは重要じゃなくてアプリケーションやソフトウェアの方が重要になって来るからなあ。
ドローンの安定性ってつい昨日位まではメーカーによって全然異なるみたいな感じだったと思うけど、今はどのメーカーもメチャ安定した飛行出来るようになっとるやろ。
アレも、ドローンに関する超低レベルな部分を一括で制御してくれるチップが量産されて10ドル未満で手に入るようになったからやで。
ロボはまだ二足歩行なりの部分はパッケージされてないけど、需要が増えればいずれそうなる。
そうなってしまえば、キロバイトオーダーのメモリ空間の中でえっちらおっちらする必要なんてのうなるんやで。
その時に、身につけたC言語のスキルなりはどうなると思う? 腐るわ。
やから、別にハードウェアの性能を100パーセント活かそうなんて考えへん方がええんや。
器は乗り換えていけばいいんよ。
萌え絵は出回り始めていたが需要に供給が追いついていなかった時代に、一番早くエロと結びつけて売り出せたのがあの業界だった
それからお話をちゃんと作れるやつが偶然在籍していたメーカーがストーリーものエロゲを作って、萌え絵+ストーリーという組み合わせの供給不足に飢えていた消費者をさらに呼び込めた
んで現在の話だが
DMMでフルプライスのもいくつか買ってみましたけどね、今はそりゃ売れねえよこんなもん
萌え絵+エロを求めてる人間はエロ漫画やエロ同人ソフトを買うし、萌え絵+ストーリーはもう漫画でもラノベでもアニメでもいくらでもある
翻ってフルプライスエロゲは、シナリオだの変なオープニングだの音楽だのつけてボリュームがあるように見せかけてるだけで、すさまじくコスパが悪い
キロバイトいくらで請け負ってる木っ端ライターが書いた寒い台詞とかどうでもいいから抜けるシーンさっさと出せよって感想しか出てこない
ネット上で全CG全シーンコンプしたセーブデータが出回ってるのも当然
なんで嵩上げのための不要物でこっちの手間をさらに増やすわけ?
二千円未満でエロシーンだけがっつり入っててしかもアニメーションするような同人作品がごろごろあるのに、3倍4倍の値段でごてごて張りぼてだらけのソフトなんて買うわけねえよ
ていうか好きな絵師が原画やってる作品に関しては涙を呑んでその値段出してもいいですけど最初からCG・シーン閲覧モード全開放にしといてください
(実際にワンボタンでいきなり全開放できるソフトがあって、このメーカーわかってるじゃねえかと思いつつも、それって自己否定じゃないのかと複雑な気分)
同人の良質なCG集とかヌキオンリーのゲームはダウンロード販売で売れまくってるからな
ブルーオーシャンにあぐらをかいて張りぼて満載のものを作り続けていたら供給が増えてきたところで売れなくなったっていう、当たり前のことが起きただけ
原画さんと彩色担当さんだけがあんたらの財産、それを水増しして五千円以上で売るようなビジネスモデルはもう終わったって気づいてくれ
スマートフォンが普及する前、いわゆるガラケーの時代にもアプリゲームは大量に制作された。
有名どころでは「チャリ走」か。
当時ケータイを持っていた学生はみんな休み時間にプレイしていた記憶がある。
現在でもスマホや3DSでシリーズが展開されているヒットタイトルらしい。
スマホゲーがゲームをダメにするとか何とかいう論調が出てくる以前からケータイでゲームをプレイしていた。
ケータイで遊びつつ、ちゃんとゲーム専用ハードでも遊んでいて、競合というか普通に共存していた時代だった。
当時ケータイのゲームに夢中になっていた学生たちは既にスマホに切り替えているし、たぶん古い機種も下取りしたり捨てちゃったりしてるだろう。
ということで現在、当時のケータイアプリのゲームをプレイ出来る環境ってのは意外と貴重だ。
ゲーム専用機はハードがあってソフトがあってというものなので10年経っても懐かしくプレイできるが、ケータイアプリは10年前のものなんて完全にレトロである。
関係ない話だが、AIがプロ棋士に勝ったってニュースがあった。
そこでふと思い出したのが、昔アプリゲームでむちゃんこ強いオセロゲームがあったなあということだ。
たしかauの「極小㌔バイト宣言!」ってサイトの「■□(リバーシ)」っていうアプリだったなあ、と。http://k-tai.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/19027.html
「極小㌔バイト宣言!」ってのはエイデー二千という会社がauのBREWアプリで展開していたアプリゲームのサイトである。
ここのゲームは100円以下の激安で、なおかつ容量が数十キロバイト以下、シンプルでありながら奥の深い良ゲームを多くリリースしていた。
(当時アプリの容量や値段ってのは簡単に機種を変えられない学生にとってかなり重要だった。)
ローグライクゲームや卓球ゲームなど。卓球ゲームはオンライン対戦もあって結構熱かった記憶がある。
難易度は肇-HAJIME-、豪-TSUYOSHI-、遥-HARUKA-の三種類あったが、「遥」がむちゃくちゃ強い。
Yahoo!のオセロのオンライン対戦で上級者と戦わせてみてもまったく負けなかった。
このたかだか18KBのゲームがなぜこんなに強いのかと思ったものである。
当時は今のiOS、AndroidみたいなOSではなく、携帯会社によってアプリの種類が違っていたので、どこで契約しているかによって遊べるゲームの違いがあった。
auでしかリリースされていないとか、ドコモのiアプリにしかないとか。(機種によっても対応してるしてないがあった気がする)
だからゲームで携帯会社を選んだ人も意外といたのかもしれない。
BREWまとめ Wikiというサイトにレビューとかいろいろ載っていて懐かしく読んでしまった。
そうなんだよな。10年ほど前って普通にインターネットは普及してて2ちゃんねるとかでアプリゲームについて語り合ってたんだよな。
で、そうした語った形跡はネットに残っているのに、肝心のアプリゲーム自体は影も形も残っていない。
・・・逆じゃないか。
普通は片付けとかをしていて古いゲームが形となって出てきて、そこで昔楽しく遊んだ記憶がよみがえるものじゃないか。
なのに、当時の遊ばれていた記録は残っていて、ゲームは残っていないという。
現在はサービスというかおそらく会社自体無くなっているのでの極小キロバイト宣言ゲームはもう遊べない。