はてなキーワード: カレンダーとは
初日はテレビ見てけらけら笑うだけのワニ→死まであと99日(デデーン)
2日目は1年待ちの雲ぶとんを嬉々として注文するワニ→死まであと98日(デデーン)
っていうブラックジョーク風味がわりと強かったから今の騒がれっぷりに困惑している。
なんか気づいたら感動もの的な受容をする人たちがゾゾゾッと増えてきて「あれ?これってそういうやつだっけ?」と戸惑う感じ。
でもまあ実際、ワニの交友関係や恋愛模様が深掘りされるようになり、キャラクターに深みが出てから触れた読者にとってはブラックジョーク色よりもキャラクターへの愛着が強いコンテンツになっているだろうし、作者も作者で人間だからスタイルは変わるだろうし、こういう解釈の食い違いは「途中からでも入りやすい」コンテンツにはよくある問題かもしれん。
実際自分もワニたちに日常系アニメのキャラクターへのそれに近い愛着が湧いたし。
100日目はどこか不条理文学的な読後感があって結構良かった。これは漫画の構造上1日ずつ日めくりカレンダーのように読んだ人にしか訪れないものだと思うので、完結してからのこのこやってきて「つまんないじゃん」とマウンティングする乗り遅れブクマカのコメントは読む価値がない。ほんとお前らネットの話題を勝利宣言の道具にしか使わないよな。
いきものがかりのコラボとかプレイリストとかも「う~んそっち方面か~」とはなったけど、自分の好みじゃないからってここぞとばかりに罵倒し始めるのもそろそろやめような。
話が逸れたけど、そういう「ブラックジョークから日常系への変容」という経緯を踏まえるとやっぱりグッズ等の即日展開はいただけないな。
グッズ販売・ポップアップショップ・コラボカフェその他を、生前から100日目の直前まで展開して「ワニくん安らかに…」的なお見送りムードを作った方がよかったんじゃないかな。
たぶん最初に触れたブラックジョーク路線に振り切ったまま100日目を迎えたら、死去直後のグッズ展開やポップアップショップもそういう文脈で(好悪はあれど)ある程度は受け入れられたのかもしれない、とも思った。
お金をたくさん稼ぐ
成果物の成果をあげていく
いつか2dkの家に住む。(片方はcill部屋もう片方は作業部屋)
my猫とmyトカゲのグッズつくる。クッション、マウスパット、カレンダー
デザインの勉強、作成する。グラフィックと絵をやる(一番大事)
ワーホリの準備を進める。
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「ごと」はイベントの頻度を指しているのに対して、「おき」はイベント間の間隔を指定しているのと、1日の解釈が2つあるのが原因。アラームの例で説明する。
「ごと」は1アラーム/時間。例えばアラームが鳴るのが30秒ごととすると、30秒の期間の内1回アラームがなる。1日の場合は24時間に1度なる解釈(開始時間が制限されない)と、カレンダー上の日付で1日の間に1度なる解釈(必ず日付変更で開始)がありうるが、結果的にはどちらも同じなので問題にならない。
「おき」は間隔指定。30秒おきなら、1度アラームが鳴ってから次にアラームがなるまでが30秒となる。1日おきとした場合、複数の解釈があり得て、24時間ごとと解釈すると1日ごとと変わらない。カレンダー上の日付と解釈すると、今日なったら、カレンダー上の1日空けるので、次になるのは明後日となる。
24時間解釈は「ごと」でも同じなので、わざわざ「おき」と指定するからには、カレンダー解釈なのだろう、と解釈されることが多い。
だいたいこのあたりの解釈は文脈で解消されるので、きっかり1日おきに鳴る時計は24時間ごとに鳴るし、1日おきに届く手紙は毎日は届かない、と読めるのではなかろうか。
職場の福利厚生で、カタログから欲しいものを選ぶ式のプレゼントがもらえるというので、つい手帳とノートのセットをもらってしまった。
A5サイズぐらいで厚みが1㎝ぐらいある。年間カレンダーとマンスリーのカレンダーとウィークリーカレンダーのページがあり、ウィークリーのページにはご丁寧に数行程度の罫線が引いてあって簡単な日記とかが書けるようになっている。
私は手帳とかノートとかが好きなのでつい選んでしまったのだが、こういう分厚くて書くところが沢山あるのは一番自分に向いてない。基本的に書く予定がほとんどなく、仮にたまたま遊びに行ったり飲み会に出たとしても、帰ってきたら疲れて手帳に記録しようとか思えない。
必要最低限のマンスリータイプが一番好きで、特に書く予定がなくても、「あれ?○日は何曜日だっけ?」とか確認するのに使えるし、職場のイベントとかを書いておくと「この日は絶対に休めない」「このへんは病院の予約を入れてもOK」とか分かるのでなお良い。
自分でも自分が手帳やノートに何を求めているのか分からない。手帳術を書いた本や雑誌を見かけるとつい手にとってしまうけど、欲しいものはキレイに書かれた手帳ではなくて、充実した毎日と仕事をサクサクこなせる出来る自分である。
なぜそれが手帳の力で手に入ると思ってしまうのか我ながら謎である。どっちかというと、身近な仕事のできる人にスケジュールどおり漏れなくきちんと仕事をこなす術を聞いた方が役に立ちそうだ。
このタイプは大学行けたって勉強しないから地獄見るよ、ソースは自分
いわゆる真面目系クズってやつだ
真面目に勉強してる連中とつるんで真面目なフリしてるから勉強できると思ってやがるんだよ
自分で対策範囲なり進捗プランなり考えて勉強しないといけない受験勉強なんかできないし、やり方だってわからんままここまで来たんだろ
このまま大学行ったって、自分で勉強なり研究なりなんかできねえよ
研究じゃなくて小難しいことを考えるのが好きなだけだろ
小難しいこと考えてる自分すごい!って酔ってるだけだ
研究結果なんか求められても出せるようなやつじゃない
実際自分はストレートで駅弁に滑り込めたけど、授業とかはともかく、卒論とか結果を求められるやつは放り出したかった
留年もしたし、こういうタイプの人間が簡単に大学卒業できると思わないほうがいい
と言っておいてあれだけど、就きたい職が見つかってないなら大学は行ったほうがいい
ホワイト企業のカレンダー休みでホワイトカラーな部署に入れる確率が高卒とは大きく違うはずだ
自分みたいな凡人がそういう職にありつくには、大学の看板の助けが必要だからな
変えればいい。
コロナウイルスによる臨時休校の影響で、期末考査が実施できない学校がたくさんあり、「3学期の成績はどうやってつけるんだ!」みたいな話が出ている。
しかし、教育関係者以外にはあまり知られていないけれど、成績をつける上で定期考査の実施は必須ではない。例えば、千代田区のとある中学校では廃止されている。
だから、定期考査の代替で課題を出し、その出来で成績をつけることは十分可能である。
そして、その中学校で定期考査の代わりに導入されているのは、小学校と同様の単元毎の小テスト、すなわち「単元テスト」である。
私も、中学校以降でも定期考査を廃止して「単元テスト」を実施した方が良いと思っている。その理由は3つある。
1つ目は、こまめにテストを実施することで、生徒側の理解が深まることである。
定期考査は実施回数が少ない分、1回の出題範囲が広い。しかし、「単元テスト」に変更すれば、生徒が出題範囲が広くてヤマを張るみたいなことは少なくなる。
しかも、単元毎につまづきをフォローできるようになり、理解できない点が多すぎて生徒が授業についていけなくなるということも、今よりは防げるだろう。
そして、この点こそ、「単元テスト」がまさに今回の臨時休校のような事態にうってつけだと言える。
期末考査でなく、「単元テスト」としてこまめに評価を行っていれば、3月に期末考査ができないから成績の材料が無いなどと慌てる必要は無かったのだ。
「単元テスト」を実施していたなら、実施できた単元までで成績をつけて、残りの評価は次学年に回すという対応が取れたはずなのだ。
小学校までの「単元テスト」とは違い、定期考査が各学校の手作りで作成されているのは、学校によって授業の進み方が違うため、出題範囲が異なるからである。
出題範囲が単元毎として正規化されるなら、テスト問題は教科書会社が教科書に合わせて単元毎に作り、教材として売ればいい。それにより教員の手間が省け、学習指導に集中できる。
(ついでに、N高やオンライン学習塾のように授業自体も映像化するか、先に挙げた中学校のようにグループ学習化してしまえば、
教師は授業する必要がなくなり、個別指導に集中できるので、さらに効率化できる上に、個々の学生のフォローができて良いと思うが、これはまた別な話。)
3つ目は、「単元テスト」は単元終了ごとに実施するので、全教科共通の考査期間が無くなることである。
生徒側も、考査期間1週間前だけ勉強して他の期間はずっと遊ぶみたいなことがなくなり、常に学習する習慣が身に付く。
考査期間なのでこのあたりは1週間ほど授業も行事もできない、というのも無くなるので、スクールカレンダーにも柔軟性が生まれる。
ちなみに、「単元テスト」には、先に単元が終わったクラスは、後から単元が終わったクラスより不利になる(後から終わったクラスの生徒は、先に終わったクラスの生徒から問題内容を聞くことができる)という問題点があるが、
これについては、問題用紙を複数パターン用意するか(作成の手間は先ほどの通り、教科書会社に任せればいい)、テストに繰返し受験を認めて、納得行く成績が出るまで何回でも解かせるようにすれば解決する。
個人的には後者が良いと思う。学校内のテストは入試と違い、一発勝負で優劣を評価するものではなく、学習内容の定着のために行う授業の一環なのだから、別に繰り返し受けたっていいはずだ。
それに、今の通信簿は、昔と違って相対評価でなく絶対評価なのである。リトライによって全員「5」になったって、規則的には別に構いはしない。
日赤の宇崎ちゃんのポスターや、JA のラブライブ!のポスターが
「過度に性的」なため批判されているということになっていますが、
アレを見て不愉快に感じる人の「不愉快がどこからやって来るのか?」
というと、ああいうスタイルのポスターが、なんとく、特に深い意味もなく、
制作され、採用され、流通してしまう現状にたいする苛立ちや絶望が
源泉になってるんじゃないですか?
「令和にもなって、水着グラビアのカレンダーを、なんとなく、無邪気に、
貼ってしまう《昭和サラリーマン》みたいなことをまだやってるのか…
つまり、「水着グラビアとは、大衆消費社会という枠組みにおいて、
女性の肉体美を誰でもわかる形で謳い上げるための重要なメディアである」
という思想なり価値観なりを《表現》するために公共空間である職場に貼った、
というのなら、賛否はともかく《表現の自由》を確保する必要があるでしょう。
ところが実際には、JA のみかんのポスターについてたびたび指摘されたように、
描き手は、なんとなく、何も意図もなく、手癖で、余計な線や陰を描き、
(あの手の絵柄の常連=ターゲットである)受け手も目が慣れてしまって
無感覚になっているだけ。
批判する側は、「なんとなく職場に水着グラビアを貼れる世界」を掘っていくと、
つまり男性優位が確固としていた時代」という遺跡が出てくることを
直感的に気付いて反応(あるいは結果的に《表現》されてしまったことを批判)
してることにのにたいして、
擁護する側は《表現未満》のものを、あたかも自分にとって大切な《表現》が
みんなこのパターンだった気がする。
批判する側も、自分の違和感を深掘りせずに「性的だから問題だ」
と早合点する人が実際に存在するからややこしいのですが、オタクの皆さんも、
自分が「目の肥えたオーディエンス」「うるさ型のお客さん」だと思うなら、
自分の好きなコンテンツを(好きだからこそ)突き放して眺めてみるような
視点を持ってみてもいいじゃないですかね?
エンターテインメントの質は、結局のところ《お客さんの質》に依存するので、
「手癖でなんとなく描いてんじゃねーよ」
「オタク文脈を共有しない人にはこう見えるぞ。わかってやってるんだろうな?」
という面倒なお客さんが増えると、日本のアニメ・ゲームのレベルも上がると思いますよ。
ちょっとアニメが好きなだけの自称「オタク」には歯ごたえが有り過ぎる
くらいの作品じゃないと満足できないでしょ?
いや、お願いだから勘弁してくれよ。
相手をバカにするだけバカにして、挑発だけ繰り返し、そのくせ選挙になると全然役に立たない。
ただ批評するか、文句付けるかだけで、団結する際の邪魔ものでしかない。
実際に行動するかと言ったらろくにしない。しかも、行動したら内紛ばかり。
屁理屈左翼のへサヨと言われてる。敵にすると鬱陶しいが、味方にすると邪魔者。そう。ネトウヨと同じ属性だ。
もうお願いだから、延々とオタクと萌えキャラにエンドレスに炎上を仕掛けるのやめてくれよ。そのせいで54万票が自民に流れちまったじゃねえか。
どんなに若者向けにオタク票を取り込もうとしても、お前らが萌えキャラに適当に炎上を仕掛けるだけで票がその都度自民に流れ込むんだよ。
勘弁してくれよ。本当に。
でも今は左翼の主張ではない。むしろ保守系のほうがオタク票をかっさらっていってしまった。
20代の若者は「左翼=アニメゲームマンガの敵でしょ?」ぐらいに認識されてる。
追記 さすがに、赤十字にまで嫌がらせをして輸血ボイコットしたときも頭がおかしいのかと思ったが、今度は「ラブライブ」だぞ。お前、ラブライブがどれだけの人間に好かれてるかわかってるのか? オタクコンテンツなのに紅白に出て、しかも地域密着コラボまでやってるんだぞ? そこに因縁をつけるって、いったい、何百万人の心証を悪くしたと思ってるんだ。本当に迷惑極まりない。馬鹿なのか?
追記の追記 毎回毎回ネットで放火して「われわれの民意が勝ったー」とか、それはただ炎上してるだけで、なんの民意も示されてない。ただ嫌われてるだけっす。その後、選挙で惨敗して「民主主義は終わった」とか、正直、やってることはテロリストかネトウヨ在特会と一緒ですよ。
さらに追記 「ラブライブは児童ポルノ」とか「お前は職場でヌードカレンダーを配布される時代に戻したいのか」とか言ってるやつ。もう、そういう頭のおかしい奴が1人いるだけで、まともな奴が10人逃げるんだよ。左翼がバカばっかりになってるのは、まともな奴が逃げ出した結果だからな??
私は片付けられない女だ。職場の机の上を初めて見た人はぎょっとするぐらいだ。それでも自分なりに書類の置き場は把握しているつもりだが、時々行方不明になって困る。
そんな私にも平気で職場の人はいろいろな仕事を頼んでくるが、上司はやはりこの状態に不安を覚えるらしい。人事関係の書類を書いて提出しないといけないというので、わざわざ付せんに提出期限を書いて持って来てくれた。付せんはあまり粘着力がなくて、パソコンとかに貼っても気が付くと取れてしまうのであまり好きではない。
で、教えてもらった締切を卓上カレンダーに書いたら「ちゃんとそこに書くんだね」と感動された。私はここの職場の仕事は去年始めたばかりだが、社会人歴は20年超えである。あまりスケジュール管理も得意ではなく、去年はいろいろ仕事が遅れて迷惑もかけたが、さすがに重要書類の提出期限ぐらいはメモるよ。
入社したての大型新人じゃないから、机が汚くてもある程度の仕事はやっているつもり。給料もらえなくなると自分が困るし、重要でやらないとヤバいのが何かぐらいは分かる。ただ、そんなレベルで上司に心配をかけていた自分が情けなかった。
https://anond.hatelabo.jp/20200211202529
さて、続きだ。ゲーム業界の流通において初心会がやってきたこととその最後を述べてきたが、今回は初心会を葬った旧SCE、ソニー流通を中心に街のゲーム屋的な小売店視点で色々語ろうと思う。しかしこの期間は非常に起きた出来事が多くかつ入り組んでいるので、あえて細かな要素をオミットして正確さよりもわかりやすさを重視することにする。それにデジキューブの銃撃事件の真相なんざわからないからな。
時代はプレイステーション参入前。任天堂エンタテインメントが行き止まりに行きつつある頃だ。そのことについては前回語ったが、さて、任天堂以外の、NEC(PCエンジン)やセガ(メガドライブ)あたりはどうだったのだろうか? 初心会が横暴なら、こちらのほうに注力するという手段もあったのでは?
ぶっちゃけこっちはもっと酷かった。ソフトが売れないというわけではない。10万本売れるソフトはあった。あったのだが問題はプラットフォーマーが用意した他の大量のソフトだ。
当時、任天堂に対抗するためにNECやセガは自社プラットフォームの発売カレンダーの空白をなんとか埋めようと躍起になっていた。サードが自主的にソフトを作ってくれるのならそれに越したことはないが、そうではない場合は自分たちで用意する必要もあった。自分たちがパブリッシャーとなり開発会社に委託してゲームを作らせる。さらにはサードに対しても「ウチの流通に乗せますので○万本は絶対に売れますだから作ってください」みたいなアプローチも行った。そうして「とりあえず」カレンダーを埋めることができたソフトは、「とりあえず」問屋が頑張って小売に売った。在庫になっても不良在庫になるだけなのがわかっているので大バーゲンで売った。小売はもともとの卸値が安いため、最初から値引きして売る。売れ残ったら損だから博打みたいなものだ。そうしたソフトが並ぶと小売価格そのままのソフトは見向きもされなくなるのであわせて値引きされる。PCエンジン末期、餓狼伝説2(クソゲーではないのだけど)が100円で棚に50本くらい並んでいるのを見たことがあったが、あれは問屋の不良在庫を捨て値で小売が拾ってきたんだな。
どこかで見た状況と思わないか? そう、アタリショックだ。ゲームの在庫が問屋にも小売にも溢れわけがわからない状態になっていた。価格が崩壊し定価が意味をなさなくなっていた。
任天堂は初心会が横暴、セガとNECは頼りにならない。こんな状況の市場に次世代機の波と共に救世主がやってきた。ソニーだ。ソニーが直接小売店と契約するというのだ。
衝撃は大きかった。CD流通の流用で、「リピートを早く」「小売価格の大幅な値下げと小売店に対するマージンの確保」「掛け率は大量に取ろうが少量だろうが同じ」という特徴をもち、かつ「中古売買の禁止」「値引き販売の禁止」という成約があったが、それでも多数の小売店からは好意的な反応を得た。そもそも初心会でも値引き販売は原則としては禁止だったのだから。
そして何よりプレイステーションが小売店に好まれたのは、ゲーム機本体の卸値が安く、プレイステーション1本体だけを売っていても結構な利幅があったこともあげられる。これはかなり珍しいことで、通常は卸値と小売価格はほとんど変わらない。Xbox360の発売当初は二次問屋の都合一部の小売店において卸値が小売価格を超えたという珍事すらあったという。プレイステーションとサターンは発売時期がほとんど一緒で、スタート時点ではサターンのほうが優勢だった。しかしこれがじわじわと小売店をプレイステーション派に偏らせていった。プレイステーションは小売店にハードでもソフトでも確かな利益を確立してくれた。
そうしてFF7が、DQ7がプレイステーションで出るという流れが生まれ一気にプレイステーションが圧倒的な優勢を保持するようになるわけだが、この流れのなかでゲーム屋は何かが違うと確信した。プレイステーションが救世主になってくれたはずだった。しかしFF7を発売するスクウェア(当時はエニックスとの合併前だった)が打ち出したデジキューブは、既存のゲーム屋にツバを吐きかけるようなものだった。なにせ目玉タイトルのFF7の出荷本数の半分をコンビニに任せるというのだから。これではゲーム屋はやっていけない。いくら本体を売れば儲けになるといっても一人にせいぜいが一台が限界だ。ソフトをたくさん売れなければしかたない。
そしてソニーの態度もなにかおかしくなりはじめていく。元々の小売店への説明会では「返品はNG」ということになっていた。なっていたのだが、個別の対応としてソニーの担当者が返品を受け付ける旨を話していた。そのため小売店のなかでは安心して在庫を抱える店もあったわけだが、返品したいと言い出すと担当者の態度がころりと変わる。前に言っていたことと違うことを言い出す。ようやく返品受付をしてもらうも半額返金……。そのような事例が発生した。結局ソニーとしては二度返品を「特例」として受け入れるのみにおわり、いよいよもって「返品NG」が周知徹底されることになった。
頼りにするミリオンソフトは入荷しない、個別対応で約束していた返品制度はなくなった。このような状況下でもなおソニーは「中古取り扱い禁止」「値引き販売禁止」を打ち出していた。中古を取り扱った店や値引き販売した店は、不思議なことに”配送事故”が発生してソフトの入荷が遅れるようになった。
FF7発売の頃にはすでに任天堂は初心会を解散させていた。ニンテンドウ64を発売し、ポケモンを大ブームにさせた任天堂ならこの頃のゲーム屋の救世主なり得ただろうか? 残念ながらこの頃の任天堂(正確には任天堂系列の問屋だが)は「小売価格を下げつつ小売店への卸値を上げる」という暴挙に及んでいる。それでもポケモンが死ぬほど売れたのだから恐ろしい。
ソニーが信用できず、任天堂はあてにならない。そうした状況で頼りになるのはセガ……ではなかった。セガはメガドライブの反省を活かしおもちゃ卸問屋をまとめてセガ・ユナイテッドという流通会社を立ち上げる。大手のゲーム屋には直接卸し、小さな街のゲーム屋には二次問屋を使って卸す、ちょうど初心会とソニー流通の間のようなハイブリット流通機構を作り上げた。在庫管理とコストダウン両方の面でなかなか上手くいったはずだが、いかんせんプレイステーションの圧倒的ソフトラインナップには敵わなかった。自社でなんとかできる力はあるのだが、セガにはポケモンがなかった。しかしメガドライブ末期の状況からここまで着実に改革を進められたのは称賛に値する。NECは途中で死んだのに。
そしてついに中古裁判が勃発する。1998年1月には公正取引委員会がソニー流通の「値引き販売禁止」「中古売買禁止」が問題視され排除勧告を受けた。しかしこれで下がらずソニーは他メーカーを巻き込んで中古禁止裁判を起こす。ゲームメーカーvs小売の裁判だ。その一方で株式会社上昇(ようするにカメレオンクラブだ)がエニックスを訴える。「新作ソフトは扱わない」「ロイヤリティとして中古売上の7%を支払う」といった提案を出したものの実際にエニックスからソフトの出荷停止を食らってしまったがゆえの反撃だ。なおこの頃にはソニーがスクウェア(デジキューブ)だけを優遇することが問題視されて、各社サードメーカーも自社流通で小売店に卸すようになっている。
2つの裁判が同時に起きて別々の判決が生まれて、ここらへんは非常にややこしい。ややこしいが小売店は公然と中古を売るようになった。値引きもするようになった。自社流通に切り替わった各社ゲームメーカーも忌々しく思っていたが裁判と流通とは別との判断だったのか、おおっぴらに”配送事故”が起きることはなくなっていく。
ちなみにこの頃、セガはドリームキャストに向けさらなる流通改革を行い、セガユナイテッドをセガミューズへと編成しなおす。これは老舗おもちゃ問屋ムーミンがセガユナイテッドに合流した形だ。ムーミンはメガドライブ(もしかしたらもっと前?)の頃からセガと共闘しているお得意様だった。なお、ソニーを学んだのか「値引き販売禁止」「中古売買禁止」を小売店に押し付け、同じく公正取引委員会より立ち入り審査を受けるはめになる(もっともこれは後日小売店と契約しなおしをすることによって審査は打ち切られた)。小売店の救世主はなかなかいない。
中古裁判は最高裁にまでもつれ込んだが、ようやく結論は出た。中古販売は合法だった。小売店は大手を振って中古売買ができるようになった。値引き販売をしてもお咎めはなくなった。小売の完全勝利だ。「ファミコンショップ」はPS2の時代にまでいたりようやく安心できるようになったかのようにみえた。
そうではなかった。むしろゲーム屋地獄はここからが本番だった。
まず大店法の改正があった。巨大店舗の小売店が各地に出来上がる。そして家電屋の店舗の巨大化がどんどんと進む。巨大化した店舗で何を扱うか。ゲームも扱うようになった。ゲームは美味しい商材だと思われた。そして今までグレーゾーンだった中古に合法判決が出た。取り扱わない理由がなくなった。
そのため大手販売店は客寄せのために新作ソフトを大きく値引きする。これが卸値と同価でも構わない。とりあえず客が来て、他の家電もついでに買ってくれれば儲けものだからだ。そして中古も多数取り扱う。ゲームの利益の確保はこっちだ。そこそこの価格で引取りそこそこの価格で販売する。これも回転が早ければ利益が稼げる。ビデオレンタルのゲオとツタヤが入ってきたのも大きかった。街のゲーム屋さんにできることは限られていた。大手資本に真正面から戦って敵うわけはなかった。中古販売という最高の武器を手に入れたかわりに、同じ武器をもった最強の敵が現れたのだ。多数のプレイヤーがそちらに流れた。売っているものが同一なら、安いところで買うのが当たり前だからだ。
その後まったく救いがなかったわけではない。DSの大フィーバーがこの後起きた。ゲームに触れたことがない新規層でも直感的なタッチパネルを備えたデバイスはゲーム市場を一気に活性化させた。誰もがみなDLライトを買い求めてゲーム屋と家電屋を往復した。飛ぶようにDSライト本体と脳トレとどうぶつの森が売れた
しかしここでも任天堂流通が小売の前に立ちふさがる。任天堂は小売店から受けた仕打ちを忘れていなかった。64よりもPS1,ゲームキューブよりもPS2を優先させた街のゲーム屋に、引く手あまたのDLライトを多く卸す理由がなかった。DSライトは任天堂流通のお得意様、デパートのゲームコーナー、おもちゃ系統の販路を優先して入荷していった。今まで子供向けのプレゼント用途にゲームキューブ、ポケモン関連をしっかり取っていた「実績」のおかげだった。街のゲーム屋が本当に一息ついたのはおそらくさらに後のモンハンポータブルの大ヒットあたりからだろう。
こんな流れがあり、地方から今現在ほとんどの「ファミコンショップ」が姿を消している。初心会を中心とした問屋は、成熟したゲーム業界がメーカーの自主流通を実現させたことでその役目を終えて消えていった。となれば、地方のゲーム屋もまた、成熟したゲーム業界によって役目を終えた存在としてみなされてしまったのだろうか? おそらくはそうだろう。そして将来的にはゲームを販売する大型店舗すらいなくなるかもしれない。ダウンロード販売をメーカーは推進しているからだ。
そんな流れのなか、この令和の時代に意地でも自前の店舗でゲームを販売している「ゲーム屋」を見かけることがある。業界の厳しい荒波に揉まれそれでも生き延びている人たちだ。私は彼らに尊敬の念を抱かずにはいられない。
彼らに幸あらんことを。
学園恋愛ものに物理の公式を描写されても邪魔なだけなのとおなじ。
・だから漫画家は(島耕作のようなサラリーマンそのものが主題になる作品を書こうとしているのでないかぎり)無駄に長いサラリーマン体験なんてしなくていいっていってる。
・そしてサラリーマンのほうも漫画家修行なんて(広報部で漫画やろうとしているのでもないかぎり)やらなくていい。
だからあなたのいってることは私と同じことだよ。なんの反論されてるのかわからん。
・漫画家でプロになれる人は学生時代から漫画修行開始したりなんなら連載開始しちゃってる人も多いんだから
そりゃ一般人で漫画をかかない学生にとっても大変な「熱心に学ぶ大学生」やら「熱心に昇給昇格をめざすサラリーマン」などを、二足のわらじでやれるわけがない。単純計算で常人の2倍の体力や才能が必要。(まあ荒川弘あたりは3倍くらいの体力あったみたいだけど)
・さらにいうと漫画家ってのはフリーランスであり世間的に弱い。クレジットカードももてないし納税さえ自分でやらないといけない(徳井さんの脱税騒ぎ、知ってる?)。サラリーマン(社畜)の楽さと安定収入になれてしまうと、編集者の気分一つで収入がとだえるフリーランスってのはとても恐ろしいものにみえる。漫画家になりたかったけど一度社会に出てサラリーマンを経験しようとおもっていたら最後までサラリーマンでおわっちゃった、という人のほうが漫画家よりはずっと多いだろう。
・逆にいうと、漫画家やれる人は企業からすると個性や才能がありすぎて使いづらい。「才能を花にかけていて生意気で客先に出せない上に漫画のせいで残業せず土日祝日年末年始もカレンダーどおり休暇をとりたがり、ハテは徹夜して会社にでてきてぼーっとしているつかえないやつ」。ま、オリンピックに出場するようなスケート選手なんかも正味の仕事面ではそういう評価だろうけど。才能ある人は企業からすればこんな評価だよ。会社に適応するならいつかは漫画を捨てざるをえないし、漫画に適応するならいつかは企業に適応できなくなる。無個性に適応するなら個性を捨て、個性に適応するなら無個性には適応できない。
コメダ珈琲店、盛り付けを一つ間違えばゴディバとのコラボが台無しになることが判明
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65913284.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/kabumatome.doorblog.jp/archives/65913284.html
これが話題になっていたので,ふと気になって調べてみた.
全部ウィキペたんに書いてあった.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%93%E3%81%93%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF
自分的に興味があった事項: