日赤の宇崎ちゃんのポスターや、JA のラブライブ!のポスターが
「過度に性的」なため批判されているということになっていますが、
アレを見て不愉快に感じる人の「不愉快がどこからやって来るのか?」
というと、ああいうスタイルのポスターが、なんとく、特に深い意味もなく、
制作され、採用され、流通してしまう現状にたいする苛立ちや絶望が
源泉になってるんじゃないですか?
「令和にもなって、水着グラビアのカレンダーを、なんとなく、無邪気に、
貼ってしまう《昭和サラリーマン》みたいなことをまだやってるのか…
つまり、「水着グラビアとは、大衆消費社会という枠組みにおいて、
女性の肉体美を誰でもわかる形で謳い上げるための重要なメディアである」
という思想なり価値観なりを《表現》するために公共空間である職場に貼った、
というのなら、賛否はともかく《表現の自由》を確保する必要があるでしょう。
ところが実際には、JA のみかんのポスターについてたびたび指摘されたように、
描き手は、なんとなく、何も意図もなく、手癖で、余計な線や陰を描き、
(あの手の絵柄の常連=ターゲットである)受け手も目が慣れてしまって
無感覚になっているだけ。
批判する側は、「なんとなく職場に水着グラビアを貼れる世界」を掘っていくと、
つまり男性優位が確固としていた時代」という遺跡が出てくることを
直感的に気付いて反応(あるいは結果的に《表現》されてしまったことを批判)
してることにのにたいして、
擁護する側は《表現未満》のものを、あたかも自分にとって大切な《表現》が
みんなこのパターンだった気がする。
批判する側も、自分の違和感を深掘りせずに「性的だから問題だ」
と早合点する人が実際に存在するからややこしいのですが、オタクの皆さんも、
自分が「目の肥えたオーディエンス」「うるさ型のお客さん」だと思うなら、
自分の好きなコンテンツを(好きだからこそ)突き放して眺めてみるような
視点を持ってみてもいいじゃないですかね?
エンターテインメントの質は、結局のところ《お客さんの質》に依存するので、
「手癖でなんとなく描いてんじゃねーよ」
「オタク文脈を共有しない人にはこう見えるぞ。わかってやってるんだろうな?」
という面倒なお客さんが増えると、日本のアニメ・ゲームのレベルも上がると思いますよ。
ちょっとアニメが好きなだけの自称「オタク」には歯ごたえが有り過ぎる
くらいの作品じゃないと満足できないでしょ?
愚かな人たちがオタク全体への攻撃へ転嫁し始めるから、 ラブライブが好きではなくとも擁護せざるを得ない、という程度の話ですかね。
Pixivやなろうのコメント欄に「うるさがたの面倒な客」として乗り込んでいけばいいぞ。あっというまに廃れるから。
まあオタクが反発しているのも「いまどき男を女に置き換えた程度の浅いポリコレ広告で喜んでるなんて何周遅れだよ」みたいな理由だしな。
なんの話?
「あいつらは偏見に凝り固まった古い人間だ」とお互いに罵り合っているという話だろ?
一瞬同意しそうになったが。 オタクアニメを研ぎ澄ましたら魅力もなくなるだろう。 ゆるくてスカスカな内容のものをだらしなく消費することの良さもある