はてなキーワード: エヴァンゲリオンとは
最後に実写映像になり男女がVRゴーグルを取ったかと思うと、実はそいつらがマキとカヲルをプレイヤーとして操作してましたってオチで、ゲームクリアした結果旧劇の「おめでとう」に繋がり、実はすべてのエヴァンゲリオンはつながってましたってオチは鳥肌が立って感動した。
暗転後「It is (not) Your Story.」の文字とともにエンドクレジットが流れる演出も、中学の頃から何十年も追いかけてきたエヴァは俺らの物語でもあり、何十年と俺たちの魂を縛り付けてきたエヴァから遂に解放されたんだなって意味でもあると思うと自然に涙が出た。
この2つが放送してた当時はより人気がある作品が沢山あったと思うけど今現在も人気を保っている作品は殆どない
80年代のアニメでガンダムと変わらずずっと人気があるのはドラゴンボールくらいで多くのアニメは時代とともに変わってきた
90年代にしてもエヴァよりセーラームーンのほうが遥かに人気があったけどリメイクしてもそんなに人気は出ていない
90年代のアニメで今も当時と変わらず人気なのはエヴァンゲリオンくらいだ
ずっと新商品が出続けるという意味でガンダムとエヴァンゲリオンは際立っていると思う
シン・エヴァンゲリオン劇場版、公開初日に観に行くのですが、その前に今の気持ちを書いておきたいと思いました。
そして明日3/8、これを見返したとき、どう思ってるのかも楽しみです。
まず、下記のシロクマさんのブログに書いてあることが、あまりにも自分の心情に近いので紹介します。
---
■解呪と供養のためにシン・エヴァンゲリオンを観に行く
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/.../20210306/1615017226
---
そうなんです。
旧アニメからの26年にわたるファンの自分も、いったいどんな気持ちで最後のエヴァを観に行っていいのかよくわかないのです。
心の準備ができておらず、戸惑いがあるのです。観たくないけど観たい、でも観なければならない。
幾度と公開延期を繰り返すたび、残念さと同時に安心感があったのです。これでまだエヴァが終わらない。まだリアルタイムに語れる子供の頃のままでいいんだ、くらいの。
登場人物の葛城ミサトがいつまでもお姉さんでいて欲しいというファンがいたんですが、その気持ちもわからんでもないのです。
劇中の人物よりはるかに年上になってしまった自分たちを直視したくないのです。
だからQでミサトさんがまた年上になって、またお姉さんでいてくれたことに、甘えのような嬉しさがあったのです。
それが、急に、3/8ですよ。えっもう?てなりましたよ。この26年間の想いに急激にピリオドを打たれる感じ。
番宣で「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」言われて、ああ、伝える側も、完全に終わらせに来てるな、ってのがわかりました。
Qでアスカが言ってた「エヴァの呪い」とは僕ら中年ファンのことです。
この作品に向かい合ってるときはいつまでも大人になれず、10代のノリで語ってしまうのです。
役者さんたちもこれ以上ひっぱれば満足な演技もできなくなるかもしれない。監督もファンも先に進めない。
だからここで終わらせないといけないのです。
終わらなかった例がガンダムです。正確には新作もたくさんできてますが、アムロとシャアの戦いは産業になってしまった。
もう、何が終わりだったのかもよく分かりません。
自分では逆シャアですが、ユニコーンでまさにシャアの亡霊を引きずり出してしまった。そうして旧ファンは喜んだし売れた。
3/8月曜に終われば、この紹介したブログに書いてある通り、エヴァ離れできなかった自分が供養されるような、穏やかな気持ちになれるような…そんなことを期待しています。
だから庵野監督、どうか旧劇のようなわけのわからないラストはやめてください(笑)もう引きずりたくない。
もうネットで考察を書いてファン同士でバトルしあうような熱量はないんですよ…。
さて、僕は明日、何を想っているのか。楽しみです。
無事に解放と供養されているといいな…。
おれがもう、エヴァンゲリオンでセントラルドグマを下りてリリスに触れてくる
あれよく考えなくても
エヴァについて色々質問してくる娘に答える。昔流行ったアニメであること。今も作られ続けていて、今度ようやく完結すること。画面の中で動くキャラの名前と兵器のこと。あれこれと説明していく私の横で、娘は一言こう言った。
「面白い?」
私は答えられなかった。あらためて新劇場版を前にして、序を見ても、破を見ても、浮かんでくるのは「懐かしい」「キャラがかわいい」という感想だけで、「やっぱり面白いな」という感覚が私の中になかったのだ。1995年のテレビ版と2007年の序を観た時には確実に心にあったものが、今はすっかり抜け落ちていた。
一体私は、あのアニメの何を楽しんでいたのだろうか?
1995年当時、エヴァが社会的にヒットした理由は「新奇性」なのだと思っている。暗い世界観、謎に満ちたストーリー、コンプレックスを抱えたキャラクター、迫力の戦闘シーン、人間ドラマ、そして何より「空気感」。
後世に残る大ヒットをかました作品は、往々にしてその時代の空気感を反映している。エヴァというものは今までに無かったもので、そこに震災やらオウムやら世紀末やらといった「世相」が絡まっていた。1995年に生きた人間にしか分かり得ない何かがあって、でもそれは2021年からは振り返れない何かであって、その熱量が本物だったから、エヴァは時代を超えるアニメになったのだと思う。
当時小学生だった私は、エヴァの裏にある複雑なストーリーは理解していなかったが、「何か凄い」という感覚だけは頭の中にずっと走っていた。それは私よりずっとずっと大人の人も同じ感覚だったのだろう。「〇〇みたいなアニメ」という枠で語れない、それが新世紀エヴァンゲリオンであった。
新奇性がそこにあった。時代の先駆者となれたからこそ、25年も続くアニメシリーズが作られ続けたのだ。
しかし、今は違う。エヴァンゲリオンフォロワーは世の中に多く溢れかえり、設定も、キャラクターも、その後に続くフォロワー達の中に埋もれていった。アニメの表現が自由になるにつれて、「エヴァっぽさ」は1995年という文脈から独立して一人歩きを始め、当時の世の中を取り巻いていた空気は、25年の歳月の中で霧散していた。
スペースオペラの金字塔を打ち立てたスターウォーズが、新三部作で散々な評価を受けたように、またオープンワールドの先駆けたるシェンムーが、20年の時を経てリリースされた3で大ゴケしたように、時代の先駆者は、往々にしてその後のフォロワー達からの突き上げにあい、自分の立ち位置と時代性を見誤る。オリジナルからのブラッシュアップを得たフォロワー達は、技術進歩と数の恩恵を受け、先駆者を時代遅れへと追いやっていく。
それでも、先駆者は死なない。死ぬのは2番手以降の粗製品だ。一番乗りにはブランドと、話題性と、そして神話があるのだ。
その神話はエヴァにおいては非常に重かった。定期的(と言えるか微妙な間隔)に公式から供給がある。あのころのファンは存命で、まだ強い熱量を持っている。そして何より、エヴァはまだ完結していないのだ。
しかし、序からでさえ14年経った。もう時代遅れなのではないだろうか。2021年の空気感を捉え、エヴァを完結へと導くには、あまりに長すぎる時が経ってしまったのではないだろうか。私は一挙放送でそう感じてしまったのだ。
それは私が大人になったからなのかもしれない。色々な作品を観てきたうちに、珍しさも目新しさも感じなくなり、エヴァそのものへの興奮が薄れてきたからかもしれない。
隣に座っていた娘におそるおそる聞いて見た。「エヴァ、面白いと思う?」
私が子どものときに抱いた感想と同じであった。娘は娘で、エヴァを「なんかすごい」ものだと思っている。
子どもは面白さに敏感だ。面白いものを前にしているときは、外から分かるぐらいはっきりと目がキラキラする。しかし、画面の前に座っていた娘の目は、Youtubeを見ているいつものときとあまり変わらなかった。
娘は派手なシーンでよく「すごい」と言う。それは恐らくアクション映画を観る感覚であり、一瞬一瞬のパーツの面白さを味わっているのだろう。TwitterやTikTokの動画のようなインスタントな面白さが、ハイテンポで繰り返される、その状態をすごいと表しているのだと思う。
「〇〇とどっちが面白い?」口にしかけた言葉はすんでのところで飲み込んだ。
Twitterで散見された感想も、ほとんどはキャラクターへの感情だけであり、ストーリーや、世界観や、その他色んな「エヴァらしさ」に触れている人はあまりいなかった。ハッシュタグを追って見ても、あのころを懐かしむ意見ばかりで、新たにエヴァの世界に参入してきた人は見かけなかった。
もう、そこには「新奇性」は無いのだ。世界観も、メカニックも、専門用語の羅列によるバトルシーンも。何なら綾波やアスカといったキャラクターすら、無数のフォロワー達によって「よくあるもの」となっていた。新世紀から20年経ち、時代はエヴァを完全に置き去りにしていた。
でも、エヴァはまだ死んでいない。新劇場版4部作、中でもアニメと大きく異なる3、4作品目、ここにまだエヴァが残されている。エヴァらしさのほとんどは時代によって風化したが、まだ、一番大きなものが残っており、ファンもそれを強く求めていた。
そして、その期待を受けて出来上がったのが他ならぬ「エヴァQ」であったのだ。
私は、エヴァQは残された「エヴァらしさ」を極限まで追求した結果生まれたものだと思っている。その純化した素材は、考えられる限り最悪の料理を作り出したわけだが。
何も描かれていない背景の下でぐりぐり動くメカ、声優と口調以外に面影のないキャラクター、そして「難解」というよりも「支離滅裂」なストーリー。最先端だったアニメ表現は当たり前のものとなり、1995年の空気感どころか、2012年当時の空気感すら作れていなかった。
Qを観て、私は思ってしまった。目の前で繰り広げられる群像劇の一つひとつが、キャラクターの心情を深掘りするのではなく、制作者の考えたオ○ニーを少年少女に代弁させているだけのような気がしてしまったのだ。ただただ意味の無いセリフが飛ぶ奇妙な寸劇を眺めて、言い知れぬ不快感を覚えてしまったのだ。17年の集大成が結局ただのキャラ萌えであり、もうエヴァはとっくに時代に耐えられないのだと、そう感じてしまったのだ。
だけど、エヴァがどこかに向かって逸れていくのは、きっと仕方がないことだ。エンディングをぶん投げてから25年、今さら「シンジ君がサードインパクトを止めて世界を救いました」では、ファンが許さない。時代が進むにつれエヴァは古くなっていき、それに反比例するようにハードルは上がっていく。
もう一度エヴァが築き上げたものを再構築し、あの熱狂を甦らせようと、制作者はエヴァらしさを突き詰め続けた。ただ、その先に、未来が無かっただけなのだ。
一体私は、このアニメの何を楽しんでいたのだろうか?
3月8日、いよいよ新劇場版最終作が公開される。私も娘を連れずに観に行くつもりだ。
しかし、正直きちんと完結するとは思えない。毎週更新され続けたテレビアニメ版ですらまとめきれなかったのだ。たった4作で綺麗に締められるわけがない。
ただもし完結することがあったなら、ファンがかける言葉はきっと、「面白かった」や「つまらなかった」よりも、「完結おめでとう、お疲れ様」なのだと思う。それはまるで野球選手の引退試合のように、時代と戦い続けた者を称え、時代に敗れた者を見送る、そんな言葉がたくさん注がれるのだと、私は強く思っている。
https://anond.hatelabo.jp/20210220173238
言われてみると、他の人が書いてる通りで優等生の人間の自尊心をくすぐられたから、なのかな?
関西トップクラスの進学校の中で中間くらいの順位というポジションでした。
私には有馬君やら雪乃のような青春は全くなくて灰色の学生生活を送ってました。
学校内ではパッとしないけれど、それでも進学校の生徒であるというプライドだけは中途半端に持っていて、
羽目を外して遊んだりみたいなことができなくて悶々としてたのね。
リアルは充実どころかプアだった。
色々と自分を押し殺しながら、未来の目標に対して頑張らないとって鬱屈した学生生活を送ってたの。
だから、雪乃が優等生であることのコンプレックスを他人と共有して、
そこからは自分を解放していく展開は、灰色の学生生活を送っていたものとしてはすごくキラキラしたものに見えたのよね。
ちなみに、たぶん作者さんは進学校に通った経験がないんだと思う。
本当に進学校の中でもトップの優等生だった人にとってはばかばかしいって思うような作品なんじゃないかな。
私みたいに進学校には通ってるけど中途半端なポジションにいたり、
自称進学校ではそこそこ頑張ってた優等生とかに刺さってたんじゃないかな。
うちの高校でトップの生徒はむしろ高校生活エンジョイしまくってたから。
自分を押し殺して高校生活勉強と文化部を行き来してただけの高校生活を完全に後悔してるわけじゃないのだけれど
あの時自分がその気になればこんな生活も送れたのかなって可能性を夢想するきっかけにはなったよね。
きっと私みたいな感覚の人多かったと思うよ。
もちろんだけれど、後半の方が好き。
まさか有馬君側が単なる雪乃にとって都合のいいだけの男じゃなくてむしろこっちがメインだなんて最初は想像してなかったなぁ。
ちなみに、エヴァみたいだって言ってる人が多いみたいだけれど、私はその意見は全くピンとこないです。
忘れていたので追記。ミステリをろくに読まずにアンチ・ミステリを読んで気取るのもどうかと思ったが、メタフィクション的なものにひかれる性分なもので手に取ってしまった。
これはミステリを楽しむ読者に対する批評(いやがらせ)であり、こじらせ文学青年崩れの自分は、こうした読者に喧嘩を売る態度を好んでいる。だから、旧劇場版のエヴァンゲリオンや新劇場版のQも同じ理由で偏愛している。かなり楽しんだ。
余談だが、「トップをねらえ2!」もまた、自分のやっていることに対してかなり自覚的・批評的だと感じている。まっすぐな努力と根性の物語にも見えるくせに、根性論に否定的な者が終盤になって気合で新たな力に目覚め、努力と根性ばかり口にしていたキャラクターが実は才能の塊であった、という皮肉が好きだ。
小説というのは何歳になって読んでもいいものであって、ペースも人それぞれだから、何歳までの必読書という声は基本的に無視していいと自分は考えている。自分が学生の頃に古典ばかり読んでいたのは単純に背伸びがしたかっただけで、振り返ってみればそれ以上の意味はない。また、「ラノベにエロシーンが出てきてもどうせパンチラかせいぜい裸を見るくらい。だったら本番行為やそれ以上の何でもありの純文学を読みたい」と考えたからでもある。もしかしたら、自分が男子校出身者だったから、女子のいる高校生活を読むことがうらやましくて耐えられなかったからかもしれないが。
さて、好きに読めばいいと書いたものの、若いうちに読んでおいたほうがいいと考える理由もそれなりにある。一つは体力的な問題だ。年齢を重ねると物理的に目が酷使できなくなってくるし、重苦しい物語を読む体力もなくなってくる。自分も身につまされる話よりも、読んでいて気持ちがいい話ばかり読むようになってきてしまったし、芥川賞さえ読んでいない作品が多い。もう一つの理由は、だんだんとフィクションに飽きてくることだ。飽きるというか、何となく手が伸びなくなってくる。その代わりにエッセイ的なもの、身辺雑記的なものに魅力を感じるようになった。「永日小品」とか「武蔵野」とか、古典の日記文学だとか。
それも飽きたら、ノンフィクションを手に取ることにしている。最近読んで面白かったのはリチャード・C・フランシス「家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか」だ。好きなものを好きな時に好きなように読む。読書ってはそういう私的なもので、他人からとやかく言われる筋合いのものではない。
正直なところ、同時代の作品を読んだほうが財産になる気がする。古典は、好きな作家が薦めていたのだとか、尊敬する人が影響を受けた作品だとか、国語の授業で出てきて面白そうなのや、読書家の友人の一押し作品、くらいを読めば十分だろう。現在の僕らの問題意識に直接答えるのは現代の作品だ。現代の作品に飽きたら古典に手を出すのはありかもしれないが。
もちろん、古典はいいものばかり残っているからはずれを引きにくい、というメリットもある。自分が読んでいた理由の一つがそれだ。加えて、古典が答えをくれることもある。古典の場合、素朴な問いに正面から取り組んでいることが多く、僕らみたいな一般人が考える哲学的な疑問はとっくに古典で扱っているので、さまざまな疑問を僕らの代わりに考えてくれており思考の節約になるし、多くの場合安易なハッピーエンドとも無縁だ。好きになったから読んだ、それだけのことだ。
それに、古典の知識があると、同時代の芸術をより楽しめたり、当時の日本や世界の空気を空想する楽しみが増えたりする。古典の翻案作品も深く楽しめる。だが、古いのばかり読んでいては現代から目を背けてしまうことになるだろう。
もちろん、現代から逃避するために古典を読むのもありではあるけれども、自分にとって古典を読むことは、現実に直面するための準備・バッファでもあった。言い換えるならば、最初は逃避のつもりだったけれども、古典を読むことで蓄積された感受性が、面倒くさい現実に対処する能力を多少は授けてくれた、ということだ。
また、もしもまっとうな作家を目指しているのなら、最先端の作品のみならず、そのジャンルの古典的な作品を最低限読む必要は出てくる。ミステリなら基本的なトリック、SFなら実在架空を問わず科学的な理論を知らないと書けない。けれども、読書エンジョイ勢としては気にする必要はない。必読書リストが必要になってくるのは作家になりたい人間くらいだろう。
ちなみに、度を越して読破量を自慢してくる人間は気にしなくていい。そういうのは根本的に、ポケモンの名前をどれだけ言えるようになったかを見せびらかしているようなものだ、と自分は考えている。何かを全部暗記したリコレクションしたりするのは楽しいものだけれども、興味がない人に自慢してもしょうがないし、敷居を高くするだけのことだ。それよりは、気に入った作品を何度も読み返すほうがよほど豊かな読書ライフを送れる。通読でなくても本棚から二三冊手に取って、ぱらぱらとお気に入りのページを読み返すことでどれほど心が休まることか。
自分にとって文学とは、わけのわからない世界に対する防壁だった。近頃は昔ほど心に壁を築いてはいないかもしれないが、物語が今まで自分を守ってくれた記憶に、今でも支えられている。
気が向いたら日本文学編、あるいは池澤夏樹の世界文学全集編を(オリジナルで)やるかもしれない。しかし、面倒くさいので相当先になりそうだ。
以上。
鬼滅の刃やエヴァンゲリオンで私が持つ疑問は、組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、戦士が子どもである必要がないのでは?というところ。子どもが闘う必要性がないように思う。
と友人に話したら、「エヴァは知らんけど、鬼滅は少年ジャンプで連載してたからでは?」と言われて話が終わった。— 麦ふみ (@fumfummugichan) January 16, 2021
この前の鬼滅とエヴァのツイートの反応から学ぶ事がいくつかあった。
反応で1番多かったのは、物語の設定について説明するコメントだったけれども、そもそもフィクション内の設定について疑問を持っているわけではなく、なぜそのような設定で物語を描いたのかの部分に私の疑問があった。— 麦ふみ (@fumfummugichan) January 23, 2021
「フィクション内の設定について疑問を持っているわけではなく、なぜそのような設定(戦士が子ども)で物語を描いたのか」が疑問ということなのでそこに絞って回答する。
当初の碇シンジはファザコンでありエヴァに乗ることからも逃げていたが、他者と接する内に成長し、父親に認められるためではなく自分がどうしたいかという意志に基づいて行動するようになる。それは子どもが大人になるということであり、エヴァンゲリオンという物語はアクション要素とわけわからん用語の羅列を除けばおよそそういうイニシエーションを描くことで成立している。
また同時に、碇シンジの周囲にいる大人たちは大人に見えて対して大人ではないということも並行して描かれる。ゲンドウをはじめとしてその誰もが未成熟で、言ってしまえば幼稚な欲望に振り回されている。子どもが大人になる物語でありつつ、周囲の大人もだましだまし大人をやってるにすぎないという身も蓋もなさがエヴァという物語でもある(そもそも人類補完計画からして他者が怖いから同化しようという幼稚な思想の産物であるし)。
鬼滅は複数の要素によって成立しているので一言ではまとまらないのだがひとつ特徴的な要素を挙げるとすると「継承」になろう。竈門家は木こりの家系だが、呼吸の始祖と関わりがあったため、竈門炭治郎は父祖から「日の呼吸」を受け継いでいる。それと同じように鱗滝左近次からは鬼殺隊の一員として戦うための基礎と水の呼吸を、煉獄杏寿郎からは心構えを受け継いだ。そうやって受け継ぐ度に炭治郎は肉体的にも精神的にも練り上げられ強くなっていく。これが大人主人公であれば受け継ぐことができないのでそういった成長を描けない。
この「大人主人公だと受け継ぐことができない」は歴代ジャンプで大人だった主人公を補助線にするとわかりやすい。北斗の拳のケンシロウ、シティーハンターの冴羽獠、るろうに剣心の緋村剣心。いずれも道を極めし者であり、子どもが大人に教えてもらうような形で何かを受け継いだり成長したりすることはできない。彼らの場合は肉体的にも精神的にも練達しているがどこか欠けたところがあって、その恢復が物語の主軸となる(ことが多い)。このように子ども主人公と大人主人公では描ける物語が違うのである。
鬼滅に話を戻すと、炭治郎たちの敵である鬼舞辻無惨は自らを天災になぞらえる怪物であり1人の人間どころか1つの時代ですら手に余る。ゆえに産屋敷家は何世代にも亘って呼吸の使い手を育ててきた。鬼舞辻無惨という怪物を倒したのは過去から現在、現在から未来へと連綿と受け継がれてきた呼吸や想いであり、炭治郎たちはその連なりの終端にいただけにすぎない。つまり鬼滅は天災のような存在と、それと戦う先人から技や心構えを受け継ぎし少年少女の物語だと言える。
ちなみに大正という時代設定も、人の命が現代よりはるかに軽かったがゆえに鬼殺隊のような人権無視甚だしい組織が描きやすかったというのもあろうが、大正で勝ち得た平和を現代で当たり前のように享受するラストシーンを描きたかったからという面もあるだろう。それが当たり前であればあるほど忘れがちだけど、その当たり前を勝ち取るためにかつて戦った人たちがいるのだ。
話を簡単にまとめると、子どもが大人になる過程でしか描けない物語があって、鬼滅もエヴァもそういうタイプの物語だ、ということ。以上。
エンジニアになるきっかけでバズってるnoteの人が同じ学科のOBだった
在学期間被ってなさそうだし、知ってる人でもないから完全に他人なんだけど
学生時代から落ちこぼれてる底辺OL的には優秀な方は人生の選択肢多くてよろしいなぁ…って感想しかないんだけど、大学の入学経緯は面白かったな
仲の良かった友達とか先輩とか、落ちこぼれの自分とつるんでるようなタイプの20人くらいの狭い範囲だけど、自分含めてほぼ全員が第一志望落ちてあの学部だった。該当しないのは推薦で入った子くらい?
今は知らんけど当時は偏差値そんなに高くなかったし、割と僻地だし、第一志望に選ぶほどの感じじゃなかったのかな
自分も都内の国立落ちたから、もうこの際センターの成績で入れそうなとこならどこでもええわ…って感じで選んだし
プログラミングの授業とか突然コンパイル?デバッグ?エラーコード?なにそれ?みたいな感じで1ミリも意味わからんから仲間内で先輩に回してもらった前の年の課題丸コピペして出してたな…数学も必修であるけど数ⅡBまでしかわからん文系にも容赦なく数Ⅲ?C?の内容で進められるから何なら高校の頃より参考書読んで勉強したわ…懐かし…
お陰で理系とかIT系向いてないのわかったから一般企業の事務職に就いたけど、学部の名前でIT詳しい人みたいなの期待されて採用されてたっぽくて新卒の頃は無駄に苦労した
転職する時にも学部の名前のせいでシステム系の仕事打診されたりしてそういう点では大学選択失敗したかも
遊ぶとこは全然なかったけど生活費も安かったしぬる〜く四年間遊べたから良かったかな〜
オタクも多かったから普通なら恋人とか出来なさそうな感じの同級生同士とか先輩とかと付き合ってそのまま結婚した人も多かったし、学生時代に彼氏とった・とられたみたいな話があったり、オタサーの姫って実在するんだな〜って感じで面白かったな
全然オタクじゃなかったからエヴァンゲリオンもガンダムもプリキュアも声優もBLもわかんなかったけど、なんだかんだ仲良くしてくれる子が結構いて、もう今は結婚したり子供産まれたりで疎遠になってる子も多いけど、当時色々オタクなこと教えてもらってアニメ見たりゲームしたりするようになって趣味も増えたから、第一志望の大学で四年間ぼっちで過ごすよりは良かったなって感じ
たまたま自分は友達とかそこそこ出来たけど、何年か前に友達ができなくてぼっちだった人が半年で辞めたなんて噂もあったりしたから、本命滑ってどこでもよくなってるなら友達できそうなとこにするのもアリかも…って何年か前に受験生の従弟に言ったら縁起でもないことを言うなと叔母に怒られたけど、結構本気でそう思う
鬼滅の刃やエヴァンゲリオンで私が持つ疑問は、組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、
cinefuk 『エヴァは14歳でないと動かせないんだぞ?知らんのか?』というreplyが多数ついていて、理解力の低さに呆れる。
要点としてはツイ主がどういう質問をしているのかというところで、
cinefukさん「ツイ主はメタ的な問いかけをしているんだぞ、作中の設定で答えるのは理解力のない馬鹿。」
↑これがトップなんだけど本当にそうか?
組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、戦士が子どもである必要がないのでは?というところ。子どもが闘う必要性がないように思う。
だよ?
これは、私には、何回検討しても、作中設定に関するオタク話に見える。
そもそももしツイ主がcinefukさんの解釈のようなことを言いたいのであれば
「フィクションで子供を戦わせるのが不愉快」って言えばいいじゃん?
「鬼滅の刃やエヴァンゲリオンで私が持つ疑問は、なぜ子供が戦う必要があるのか?ということ。」
とかでいいじゃん?
フラットによく読んでほしい所だけど、元ツイ主は
組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、戦士が子どもである必要がないのでは?というところ。子どもが闘う必要性がないように思う。
と言っている。
これは国語的にどう読んでも、子供が戦うこと全般をリジェクトする立場の表明ではない。
作中の設定を受け止めたうえでその合理性やリアリティを問うオタク的な質問と読むほかない。
cinefukさんの主張するように、「なぜフィクションで子供を戦わせるのか(子供を戦わせるの反対)」がツイ主の問いたい(訴えたい)ことなら、
「組織的に戦士を育てて戦わせるのなら~」なんて前提全く要らないよね。
だってどういう設定やどういう前提があろうがフィクションで子供を戦わせるのに反対なんだから。
「こういう設定の場合は疑問」て言い方したら、限定的な疑義ということになる。
なのでもしもツイ主の言いたかったことがcinefukさんの主張通りなら
とっても余計な、誤解を生むしかないことを言ってるということになるし、
逆にこのtweetからあの回答をするcinefukさんは、ふつーに国語の点数低いと思う。
まとめると
ツイ主の意志がどうであってもcinefukさんの国語の点数が低いのは確定していて、
ツイ主の言いたいことがcinefukさんの解釈通りならツイ主とcinefukさんの2人の国語の点数が低いし、
ツイ主の言いたいことがcinefukさんの解釈と違うならcinefukさんだけ国語の点数が低い。
鬼滅の刃やエヴァンゲリオンで私が持つ疑問は、組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、戦士が子どもである必要がないのでは?というところ。子どもが闘う必要性がないように思う。
これを設定に関するツッコミ、オタク的な質問だと解釈して鬼滅について答えると、
鬼殺隊は元々すんごい畜生組織であるということが疑問に答える重要な手掛かりになる。
子供を捨て駒みたいに鬼と戦わせてかろうじて生き延びたけど不具になった子をもう役に立たんから放り出すという凄い対鬼組織が出てくる。
プロトタイプはこの不具になった子供が義手義足に武器を仕込んだベルセルクみたいなダークハード少年が主人公で、
「これはきつすぎるのでこの世界にもっと明るい少年いないですか」って担当が水を向けて主人公だけ明るくなったっていうのが連載初期。
これは別に私がプロトタイプの印象を引きずって勝手に妄想してるんじゃなくて、作中描写に証拠があることです。
まず入隊試験がクソ過ぎるでしょ。
失格する奴は死ぬんだぜ。全員。
ああいう試験って、「剣士たりえない奴は無駄死にや足手まといになっちゃうから入れてあげません」って帰すことに意味があるでしょ。
なのにあの入隊試験は森の中に剣士志願の少年少女を鬼と一緒に数日閉じ込めて、生きて出てきた奴が合格。
主人公の代もウジャウジャいたのに5人しか合格しなかった。他全員鬼に食われて死んでるの。
何これ?
これはどう言い訳したって人の命を大事にしてないし、人の命を道具にすらしてないんのよね。純然たる無駄死に。
つまり鬼殺隊は目的のために先鋭化しすぎて人の心を失ってる組織なんです。信念に凝り固まってて命が鴻毛より軽い。ISISです。末期大日本帝国です。
ついでに言うとあの試験はサバイバル能力を試しちゃうので兵士の選抜にはいいですけど剣士の選抜になってないんですよね。
あの森で生き延びるのは、状況を見ながら逃げ隠れして体力を保ってとにかく自分が生存出来る、現代の兵士みたいな奴です。
どんなに強くても次々に鬼に挑んでいったら体力尽きたり装備がダメになったりして死にますよね。難易度設定も壊れてるし。
だから水柱の親友みたいに勇敢に鬼に立ち向かえて強くて一杯斬って弱い者を庇うという、剣士として正しい資質を持ってる奴が息切れしてやられて死んじゃう。
剣士適性のある金の卵まで潰す、下手すりゃ優先的に殺していくというとんでもない試験。
さらに柱が登場する回でも全員子供の隊士を待機違反のかどで処刑すると言って盛り上がってるわけ。
仲間であり子供である隊士にかける慈悲もためらいもなんにもなく処刑だ処刑だって盛り上がってて、
本当はもう少しじっくり話を進めるはずで、
炭治郎少年が鬼殺隊のヤバさに気付いたりぶつかりあったりして改心できる奴を改心させていくようなパートが予定されてたと思います。
御屋形様もすごい不穏なんですよ。声の特殊なゆらぎで隊士たちに安心感と心服をもたらしてる。
この御屋形様も、鬼撲滅の悲願に囚われて人の道を外れて隊士の命をコマとして見るようになっちゃってるヤベー奴だったと思います。当初設定は。
まっすぐな炭治郎少年が柱や御屋形様の異常さに気付いて頭突きで改心させたり、あるいは袂を分かったり、設定や状況見るとどうもそういう話が用意されてたのに
何らかの理由で物凄く展開を急いで、本来やれたイベントを沢山潰して話を進めてるんです。
ライブ感というか急に急ぎだした。(不謹慎な例えだけど「作者が不治の病にかかって描けるうちに描き切ることにした」とか言う事情ならとても納得する。)
どこ見てるかわからない目で子供を処刑しようとした煉獄さんは次に出てきたら人格にヤバいところなんか微塵もないナイスガイになってたし
子供が死ぬと聞いて頬を染めながらハァハァしてた胸元開けすぎサイコビッチは次に出てきたら純真少女(服は変な奴に騙されてるだけ)になってました。
「古き良き少年漫画のライブ感」だけでは説明がつかない、明らかに何らかのイベントが飛んでいるし、明らかに邪悪に歪んだ性格は元からなかったことになった。
鬼滅の刃やエヴァンゲリオンで私が持つ疑問は、組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、戦士が子どもである必要がないのでは?というところ。子どもが闘う必要性がないように思う。
鬼殺隊についてこの疑問に答えるなら簡単で
鬼に家族殺された復讐者を除けば世間知の無い子供・身寄りのない子供なので
そういうのを探し回っては拾ってきて育成してるんだよ
ということです。
善逸少年は借金の肩代わりでこんなことやる羽目になっていますし
炭治郎少年は親兄弟が鬼に殺され身寄りもなくしたという理想的素材です。
こういう奴等をローティーンから育成してハイティーンでデビューさせて20代の全盛期でなるべくたくさん鬼を斬って死ね!
訓練も最終試験もかなり狂ってるし任務でみるみる消耗(身体欠損)するため、
大人になってから始めても遅いし、大人だと「この組織おかしい!」と気付いてしまうからダメなんです。
しかしながら、鬼滅の刃については原作もTVアニメもノーチェックだった上、仕事で代わりがいないクソみたいな状況と、高齢の家族がいる=映画館でコロナを拾うわけにはいかないことから、個人的にはスルーせざるを得ない事情があり、今の所は完全に他人事。
だから仕方なくというわけではないのだが、ずーっと食わず嫌いしてきた君の名は。を今頃やっと見た。
ちなみに天気の子は「敷居が低い」と判断し映画館でリアルタイムチェックした点で、間違いなくキモオタ側の人間の感想ということで一つ。
いや、本当に驚いた。間違いなく凄い作品。
最初の30分くらいはちょっと見ていて恥ずかしかったけど、それを差っ引いても一見の価値があるだろう。
アニメを見慣れていない人にとっては純粋に驚愕の内容として素直に感動できると思うし、自分みたくアニメを頻繁に見ていた人にとっても、展開・画作りともに「ああなるほど、魅せるねえ」と唸らせ、惹き込ませる内容だったかと。
しかしながら一番驚いたのは、新海誠という作家から、君の名は。みたいな作品が出てくる事で、それ自体が奇跡に感じられた。
しょーもない例えで恐縮だが、麻雀で言ったら四槓子で和了ったみたいな話というか、後にも先にもこの人からこんなマスターピースが生まれることは二度となさそう。
というのも、これは見くびり過ぎかもしれないが、過去の作品から逆算(?)すると、新海誠という作家の感性で君の名は。みたいな作品は、どう考えても生まれようがないからだ。
実際、後年上映された天気の子の方が往年の新海作品っぽいというか、新海誠の原点
(=その昔、某評論家から「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」と揶揄されたセカイ系や、ゼロ年代に一部オタクの間で熱狂的に支持された泣きゲーの系譜)
に忠実だったと思う。
それ故に作品の格としての天気の子は、君の名は。から数段落ちると言わざるを得ないのだが。
言い換えれば、セカイ系や泣きゲーの要素からB級以下の部分を削ぎ落としたというか、本当に色んな人から共感を得られそうな部分だけを抽出して組み上げたのが、君の名は。なのだろう。
しかしながら、そんなことを新海誠本人だけの力でなし得たとは到底思えず、なにか別のアクションがあったのでは?と感じている。
それこそジブリの宮崎駿に対する鈴木敏夫みたいな名プロデューサーがいたとか?
まあ、ワクチンが出回るまでは家に引きこもって楽しめることをやるしかない。
君の名は。今頃見た理由でもあるが、その流れで鬼滅の刃についても、原作を電子書籍で全巻読破してみてもいいかな?と思っていたり。
VTuberばっかり見ているのも飽き気味だし、それはそれで肩凝るので。