はてなキーワード: エヴァンゲリオンとは
・カラーのガイドラインは個人がTwitterやPixivなどで基本的に無料で公開するのを念頭にしたもの
・どちらかというとFANBOXとかでガンガン有料公開してるのでそっちがダメかもしれない
・同人誌での公開はカラーが準備中という「ファンアートの販売・製品化に関するルール」を待って白黒の判断をしたほうがベター
・12月28日 カラーがガイドラインを掲載→https://www.khara.co.jp/guideline/
・ 同28日 ねとらぼの「エロNG」ツイートが拡散。記事は2時間後に修正・謝罪→https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2012/28/news061.html
・ 同28日 Pixivからエヴァの絵が減りはじめる(「エヴァ」R18が約6400件あったのが現在6247件)
・ 同30日 カラーが補足説明の声明文を公開→https://www.khara.co.jp/2020/12/28/eva_guideline/
カラーのガイドラインは「ポルノ表現そのものを目的としたものは控えて」と書いている。これは「ポルノ表現は控えて」とは似て非なるもの。カラーが30日の補足説明で「解釈にあえて曖昧な部分を残している」としたのはまさにこの点。
つまり、絵師側がエロイラストを公開したときに「この絵のエロは作品愛を表現するために描いたもの」と主張できる余地をわざわざ公式側が残してくれている。ありがとうカラー。
そもそもガイドラインを見渡すと「控えてほしい」というやわらかい言葉にとどめており、どこにも「禁止」とは書いていない。要はファンコミュニティ内で空気を読みながら、楽しい遊び場を今後も続けてくださいねということでしかない。あるいは、これからは背徳感など覚えずに、堂々とやってくださいというメッセージにすら言い換えられる内容だろう。
おまけに本来公式側が最もOKを出し辛い部分である同人誌などに対して「※現在、ファンアートの販売・製品化に関するルールについても検討しています。 続報をお待ち下さい」ときている。つまり、エヴァはこれから同人誌や同人グッズまでもが公式にOKになる可能性がある。みかじめ料みたいなものは徴収するかもしれないが、長年言われてきたオリジナルクリエイターへの還元につながるなら、これはオタク側からしてもむしろ歓迎ではないか。
そうなれば画期的だが、これは「エヴァ」がインディアニメだからこそ先陣きって挑戦できる快挙だろう。あまり知られていないが、「エヴァ」は製作委員会方式などで作られる一般的なアニメではなく、カラーの1社出資で制作されている最強の「自主制作アニメ」なのだ。これはルーカスフィルムの「スター・ウォーズ」と同様の快挙といえる。
庵野がかつて所属していたガイナックスが二次創作に寛容だったのはよく知られたこと(DAICONフィルム出身なんだからそりゃそうだ)。フィギュアのファン制作において、ワンフェスの「当日版権システム」を推し進めたのもガイナックス(ゼネラルプロダクツ)だった。それを今度は同人誌やグッズなどで再発明することになるかもしれない。おそらく通常のアニメであれば関連会社が大量にありすぎるため、なかなかGOサインが出ない。そこを自主制作の「エヴァ」が先陣きってやってみせようというわけだ。
同人誌やグッズ化については、蓋を開けてみたら成約でギチギチという可能性もあるので手放しで歓迎するには早いのかもしれない。だがこれまでのファンとの信頼関係を鑑みるに、かなり期待して良いとは感じる。
見出しの「誰も読めてない」は言い過ぎたかもしれないが、Pixivのイラスト減少傾向にそれだけ危機感を覚えた。みんなもう少し落ち着いて、カラーの声明文にあるように、ガイドライン本文を読んでみてほしい。
ちなみに、ガイドラインは「『エヴァンゲリオン』シリーズのファン創作物の公開に関するガイドライン」という名称であり、よく見るとガイドライン本文に「二次創作」という言葉は一切出てこない(このエントリでは便宜上「二次創作ガイドライン」と呼称している)。「二次創作」という語句を使わなかった理由については何か意図がありそうなので、著作権関係に強い誰かに解説してもらいたい。
https://togetter.com/li/1643130
例えば「あるキャラクターが好きで、そのキャラクターのえっちな姿が見たい!」という動機は
ではないと思うけど、そのように判断してくれるかどうかは心配だな。
(つまり、「ポルノ表現そのものが目的」というのは、「何でもいいからえっちな表現を描きたいという動機がまずあって、"誰でも代用可能なキャラクター"部分にエヴァキャラを代入する」ようなことを指すんじゃないのかな。それは流石にマナーよくないよね。※同じこと言ってる人いた。https://twitter.com/marimo_mabi/status/1343425295764733952)
個人的にそれよりも
6.ご自身が制作したファン創作物やその制作過程を「動画配信サービス」や「有料ファン会員サービス」で公開する際は、以下の範囲と注意事項を守ってください。この場合、収益化プログラムが動作していても構いません。
~中略~
の部分が「流石にそれは……」ってなった。
シュワルツェネッガーとスタローンがバチバチ文句を言い合いながら筋肉映画に出演し、漫画といえば北斗神拳で敵が内臓破裂していた。遡ればチャールズ・ブロンソンが漢の代表として映画に出演し、梶原一騎が『愛と誠』や『あしたのジョー』、雁屋哲が『男組』の原作を務めるなど、男という存在は創作においてもクールでハードな像が求められてた。
中には北斗世代において『ウィングマン』『バスタード!』のようなH系のナンパな作品もあったものの、それらはメジャー作品とは言い難く、一部のファンが支えるものだった。実際その二つの作品は絵がアニメ風というだけでも当時の漫画作品の中では特異だったと思う。
ジョジョの承太郎は作者の荒木の初期作品にも見られるハードな男像を全面に押し出したもので、荒木自身がブロンソンやジョン・ウェインに対する懐古主義を持っていた。それと北斗世代が合致した最後の漢の時代と言ってもいい。やがてこの旧態依然とした男像はバブル期には時代にそぐわなくなってくる。
これゆえ後の荒木作品は筋肉質でハードな男像より、頭脳が焼け切れるまでフル回転させてヒリヒリした状況を生き抜く情報社会系マッチョへと変質してゆく。荒木がマッチョイズムである理由は対談にも現れる。故・宅八郎との対談で弱い内面を発露したエヴァンゲリオンの主人公シンジを全面的に否定している。
いま私はMCU作品全てを見ろとものすごいプッシュされている。
頑張って、インクレディブルハルク、アイアンマン、アイアンマン2、キャプテンアメリカまでは見た。
でも、まだ、のれてない。
というか、もう、のれないことがわかりきってる。
MARVELが嫌いとかじゃなくて、なんか、他人にめっちゃ面白いから見て!!マジ泣けるから!!みたいな前置きで薦められた時点ですごく冷めてて
自分で興味を持って観た映画とかはそんなことにはならないんだけど
他人に薦められただけで一気に興味が失せるのなんとかならんのか。
ちなみに、今回とは別の他人にはエヴァンゲリオンをすすめられたり物語シリーズやこのすば、ベルセルクをすすめられたりしたけど
どれものれなかった。
これなんかの病気なんだろうかと思うくらいにはどの作品にも興味が持てない。
薦めて来られる作品がどれも単体じゃなくていっぱいあって全部見ろみたいなのが気に入らないのかもしれない。
ちなみにバナナフィッシュの漫画版はいきなり全巻貸してもらって半年かけて読んだ
悩みどころだ
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
鬼滅の刃が流行しすぎて一つ一つの要素を紐解くことはもう無理だということはわかっていいる。
ただ、やっぱり映画の空前の大ヒットについてはどうしても考察せざるを得ない。
そうして紐解いた結果、実は鬼滅の刃の映画は、今までやろうしなかった、やれたとしてももできなかったものなんじゃないかなという結論に至った。
・何が?
結論から言うと、「ストーリーの一部を切り取って映画化したこと」が、である。
御存知の通り、劇場版鬼滅の刃は無限列車編のみを抜粋した映画だ。
実は、そのことに違和感を頂いた人は少なくないんじゃなかろうか。
マイナーな作品は除くとして、今までのメジャーなアニメの劇場版は、大きく3つに分類できる。
理由は単純。
劇場版を見に来るターゲットが、原作やテレビアニメ版を知らない層を含むからだ。
事前情報を必要としない2時間の娯楽として楽しんでもらうために、そうせざるを得ないのが本音だろう。
上に挙げたどれもが、原作を知らなくても楽しめて、それをきっかけに原作が欲しくなるように設計されている。
ところが、劇場版鬼滅の刃は、原作にあるストーリーの一部、「無限列車編」だけを切り取って映画化した。
本来ならばそれは、原作を知っている人しか楽しむことができないという、ターゲットを絞り込む行為に他ならない。
ところが、この映画はターゲットを絞り込むどころか、記録を塗り替えんばかりの勢いでヒットを続けている。
本来ならばありえないことが起こっていると言っていいだろう。
しかし、頭ではそう考えている反面、実に自然に、自分でも不思議なくらいに、この映画を見てみたいと思う自分がいたのも確かだ。
・紐解かれた動機
自分はコミックス完結後にやっと買い揃えたくらいの鬼滅の刃ファンの中ではかなり後発組だ。
もちろんアニメは見ていないし、最近ではアニメを見る習慣もなかった。
(そんな人間がこんなことを語っていて申し訳ない。第一次オタク世代、今は隠居の身なのだ。)
興味がなかったわけではない。しかし、今の生活リズムには、アニメを見直すには時間が重すぎるのだ。
また、最近では作画崩壊ややりがい搾取問題など、がっかりするような話も多く聞かれてなおのこと足が遠のいてしまっていた。
そんな中にぽんと投げ込まれたのが無限列車編だけを切り抜いたこの映画だ。
アニメ全話を見直す気力はないが、2時間に絞って、しかも最初から最後まで劇場版クオリティで見ることができるというなら、ぜひ見たい!と手放しで思えた。
テレビ版特有の尺を合わせるための間延びだってないに違いない。
なんの根拠もなく、漫画の尺と映画の尺を脳内で比較して勝手に期待を膨らませてしまったほどだ。
劇場版鬼滅の刃前と後では、劇場版アニメの役割は大きく変化するであろう予感がある。
今までの劇場版アニメは、新規ファンの開拓とテレビアニメファンの両方を楽しませることが目的だった。
しかし、劇場版鬼滅の刃は、ともすれば原作を知っている人しか楽しめないような内容になっている。
それなのに、むしろ多くのファンを取り込むことに成功した理由は他でもない。
多くのにわかファンにとっては、むしろ原作にあるストーリーを映画化したほうが、素直に見てみたいと思える要素になりえるということなのだ。
これには、鬼滅の刃特有の、大ヒットに至るまで長い時間をかけてじわりじわりとファンを獲得していったという、その独特なヒットの形態も寄与しているものと思われる。
しかしながら鬼滅の刃劇場版は、今後もこうして原作ストーリーを切り取りつつ、高いクオリティをもって提供されつづけることで、今後もヒットが続くであろう確信がある。
なぜなら、アニメ全話をダラダラと見る気にはなれないが、ハイライトだけを切り抜いて、高いクオリティに濃縮されたものならいくら払ってでも見たいと思えるからだ。
これは、あれだけオタク以外の人間を巻き込んで成功したエヴァンゲリオンでさえなし得なかった快挙と言える。(原作ありきの鬼滅の刃と比較するべきではないことは承知した上で。)
・まとめ
今までは、漫画、アニメ、劇場版と、それぞれ独立したコンテツとしてファンが存在していたと言っても過言ではない状況だった。
しかし、鬼滅の刃がぶち壊したものはそうしたコンテンツの垣根であり、こと劇場版においては、今までの劇場版としての役割を全く覆した上で、今、劇場版として求められている役割とは何かを突き詰めた究極の形に至ったと言っても全く言い過ぎではないだろう。
これは、今後後追いコンテンツがヒットした際の劇場版のありかたを大きく変えることのきっかけになるはずだ。
現代人のライフスタイルにとって、全話アニメは見るのが難しいけど、一部をハイクオリティにして凝縮した2時間の劇場版なら見たいって人が沢山いることがわかったよ!
そしてそれは、いままで原作を知らない人を取り込めるのは原作にないオリジナルストーリーだというのが思い込みで、むしろ原作をしっかり切り取るほうが人を呼べるんだよ!
ということ。
よくわからない新キャラ。それに当て込まれる芸能人。無理やり2時間でお涙頂戴。
こんなの国民の誰一人として望んでないことがわかって本当によかった。
素晴らしい小説が書けているのだから、寧ろ、もうしばらく二足の草鞋を履いてもよくね?
とか自分なら思うんだろうけど、
スパッとこれまでの人生を捨てるぐらい小説家へ進路を切り替えたイメージがある
というのは、自分も自分の死期が段々分かるようになってきた気がするからだ
死ぬ前にやっとくべきことをやっておかなければ、という引き算の人生を加速させるべき
そういえば、今はエヴァのデザインで有名になってしまった山下いくと氏だったか、
ガイナックスって言ったら、みんながイメージするガイナックスは王立宇宙軍オネアミスの翼のガイナックスなんだよ!
みたいなことをどこかに書いていた覚えがあるのだけど、
庵野氏とかも言ってたけど、王立宇宙軍は足し算、エヴァンゲリオンは引き算、であって、
老人になったら何だってとにかく引き算して作らないとやっていけない
引き算で作るということは、本当に必要なものは何か、を考えることである
(TVエヴァなら何といっても最初に力を込めたのは1話、2話だと思う。そこから作画レベルも落ちていくが、最初のインパクト、ツカミは大事!
本当に必要なものを徹底的にやったら、あとは手を抜くぐらいでいい
楽器もちゃんと弾こうとするほど肩に力が入り、手が楽器を力強くホールドすることで速いフレーズが弾けなくなる
寧ろ手をブラブラさせること、軽い気持ちで肩の力を抜いて弾くのが大事なんだと思ってる
ちゃんとやるべきことはちゃんとやるけど、あとはいいかげんでやる
それぐらいの心意気でなければ歳は取れないということなのだろう
おいィ? どうして流行らないのかと言うと、例えば新しく作られたアニメが古株イラストレーターとの折衝で揉めてグダグダなスタートを切った辺りで既に炎上してたりしたこととか、むべなるかな、その後のアニメの展開もイマイチブギーポップの魅力を伝えているとは考えられない展開が続いて、あんまりインパクトを与えずに実質的なアニメ二期が終了してしまったこととかに問題があった気がする。とは言え十話を筆頭に面白い回もなくはなかったんだけどね……アニメ陣営の努力は認めるんだけど。
でもとりあえず第一作の『ブギーポップは笑わない』から第十作の『ジンクスショップへようこそ!』までは個人的に安心しておすすめできる作品である。是非皆さんも読んでほしいんだけど、個人的に特にオススメなのは第二作の『vsイマジネーター』と第五作の『夜明けのブギーポップ』。第六作の『ペパーミントの魔術師』それから第七作『エンブリオ侵食・炎生』辺りかな。繰り返すように第十作まではどれも満遍なくオススメできるクオリティではあるんだけれど、個人的にはこの辺りがオススメです。あと旧作アニメは個人的に好きなんだけどマジで人を選ぶので一旦忘れて下さい。
基本的にブギーポップシリーズにおいて重要になってくるのは、「人の痛み」です。
とは言え、現代においてはその主張は弱いのかなあ。
増田において、「痛み」が主題になっている記事って結構多いんだけれど、しかしそれは基本的に相手とのコミュニケーションを前提とした提示じゃなくて、「オラァ! 俺の痛みオラァ!」「何の! 私の痛みオープン!」みたいなある種のバトルの媒介として「痛み」が用いられている気がするんだよなあ。例えば、その痛みを媒介に他の痛みと繋がったり、あるいはお互いに痛みを癒やし合ったりといった、本来の「痛みの提示」の役割からはズレた役割において、増田の「痛みの提示」が行われているようでならないんだよなあ。
いや勿論ある程度本来の意味で痛みの提示が行われている部分もあるんだけれど、結局その痛みの提示は、大局としてのバトルの構造に包摂されちゃうんだよね。痛みがラベリングされて、そして戦いの場へと引きずりだされてしまう。例えば、「フェミニズムと反フェミニズム」みたいな対立構図に包摂されちゃう感じで、結局個人的だったはずの痛みが戦いのための尖兵として利用されてしまう。なんかラノベの世界設定みたいですね。そんなこんなで、人は本来癒やしを目的として痛みを語るべきところで、むしろその傷を、痛みを与えそして自らを傷つける為に用いてしまっているんですね。というかブギーの話はどこにいったのか俺。
というわけで、こんな時代だからこそブギーポップが効力を発揮するんじゃないかと思う。ブギーポップ。ブギーポップで主張される「痛み」は、人と人との距離を縮めるための「痛み」なんですね。人と人とがお互いを理解するために「痛み」が提示され、そして、他人の痛みを直視した途端に自分の痛みの存在に気付いたりとかする。とかくブギーにおける「痛みの提示」のプロセスは「痛み」の治療に集中しています。痛みって本来そういう風に使うのであって、特に現代においてソフィスティケートされた痛みを、我々は効率よく使っていかなければならない。少なくとも、その痛みは事態を悪化させるためではなく、改善するために、痛み自体を癒やすために、使われなくてはならない。
そう、現代はブギーポップの(必要な)時代と言ってもいいんじゃないかと。
いやしかしアニメ二期が思いのほかインパクトを残せなかったことが辛いなあ。面白いアニメを作る作業って凄い難しくて、何せアニメは一人で作ってるわけじゃなくて無数の動画マン・動画ウーマンと原画と絵コンテ切る人と監督とかの緊密な連携が必要なんだけど、それを高レベルで実現した作品と殆どないよね。カウボーイ・ビバップとかエヴァンゲリオンは面白かったなあ。個人的にはブギーポップとかと同じような意味合いで輪るピングドラムが好きです。それはそれとして、あああああもうちょっとブギーポップは流行っていてもおかしくないんだよなああああ、現代の潮流にも大枠で一致してるのにいいいい。なんで?
このごろずっとモヤモヤしてるけど、今日はついに吐き出させてもらう。
鬼滅の刃がすっごい流行してて、テレビでもみんな話題にしてて、みんなが期待してるのが実写化なのは間違いないでしょ。
でもさ、ネット見てると声大きい人たちがすべからく実写化に反対してるっつうか、憎しみの声上げてるよね。
何なの、オタクの人たちって?
鬼滅の刃が自分たちが見つけ出してひろめたものとか思ってるわけ?
オタクの人たちが騒ぐ前にずっと前から女性誌とかで特集組んでたから。
エヴァンゲリオンもそうだったよね。
あれだって最初に放送してた時は難しくて全然人気なかったけど、キムタクが「俺エヴァ見てるよ」って言ってから人気が出たんだよね。
それなのに、あの時もオタクが後からやってきて乗っ取っちゃった。
それで、エヴァは俺たちが目をつけていた、アニメファン以外は見るな語るなとか言い出して。
キムタクのおかげでヒットしたから、そのお礼で次回作の声優がキムタクになったのをオタクの人たちはどう思ってるの?
自分が興味ない作品の劇場予告ってめっちゃ恥ずかしくないですか。
自分の場合は邦画とアニメの予告がめっちゃくちゃキツい。悪いって意味じゃないです。ただキツいんですよ。
あと、地元の学校の映像部とかが作ってる上映前の注意映像。キツくないですか。
それらがダメだ、やめろ、と言ってるわけではなくて、とにかく自分自身キツみを感じている。高校生たちの努力は心から賞賛したいが、大スクリーン大音響でやるのはまた話が別だ。音量マックスでエンヤを聞かされるようなもので。
単なる共感性羞恥なんですけども。
特に自分はエヴァがめっちゃキツい。中学生の頃の痛々しい自分と痛々しい友人と痛々しいメディアと痛々しいアニメ評論家とかが完全に脳裏によみがえってくるのでマジキツい。
なんか知らんけど「シン・エヴァンゲリオン」っていかにもなタイトルの付け方もキツい。
キツ過ぎてホッ、ホゥゥ、ホワォゥーーー!と類人猿めいた奇声発しちゃう。
あと邦画もキツい。泣き叫んでるのを聞くのが超ストレス。あと、すっごいかっこよさげに見せてるのに「まぁ、多分予算規模とかでショボい映画になっちゃうんだろうぁ」って思っちゃって恥ずかしすぎて泣ける。YAMATOとかキツ過ぎて動機胸焼けが止まらなくて過呼吸になりそうだった。ごめん。
特に邦画で外国が舞台の映画。めっちゃキツい。申し訳ない。欧米コンプからくる共感性羞恥で身が持たない。
外国映画もけっこうキツめのがあるけど、外国語だし、適度に他人事感があるので問題ない。
共感性羞恥って要するに他者と自分の切り分けが曖昧ってことで。
マジで追加で500円くらい払うから劇場予告なしの上映してくれないかなぁ。劇場予告される作品のフライヤーとかくれればちゃんと読むからさ。文字ならキツさは激減するし、何なら「見てみようかな」って結構思う。それで見た映画もたくさんある。邦画も見る。いい作品たくさんある。
劇場予告を避けて本編直前に劇場に入れば解決!と思うけど、映画はやっぱりなるべく真ん中の席で見たい。そうなると必然的に「すいません…」を20回くらい繰り返して席につかなければならないわけで。
キツいですよこれは。