はてなキーワード: 無意識とは
>>支援されていた側からも①少女をおびやかすやばすぎる大人②意識的or無意識に世界の全てを恨み支援者に一番牙をむく少女③自分のために支援者と少女を利用しようとする大人の存在は見えていたし
いやいや、何でそれが、全く無関係なオタク叩きや、弱者男性叩きに発展すんの?
仁藤がやってたのは、被害少女救済の大義名分を盾にして、他の弱者叩きを煽り、しかも、そのヘイトを、業界に擦り付けようとしてるだけでしょ。
そうやって、仁藤みたいなのを、業界ヅラして擁護する奴が出るから、仁藤の問題じゃなくて、業界全ての問題にすり替わってんじゃん。
日常の些細なタスク処理の仕方が気になり・・・なら気づかなかったもわからんでもないが、
元増田(anond:20230101225123)は下記を気付かなかったって書いてる
これに気付かない人ってどう考えても内省ができる人じゃあないですよね?
生まれ付きの判断能力の問題なのか、不都合は見ない見ないの性格なのか、
どちらかはわからないけど、どうあってもマジョリティではないですよ
(どうでもいいけどオロナミンCの便じゃなくて瓶でした)
※この記事を読んでもらえるのはありがたいけど、何かや誰かを批判するために引用するのは控えてもらえると助かります。こういう状況にある人たちがいるんだなあという風に知ってもらえるだけで嬉しいです。
全体の流れについてあまり把握できてないのと、Colaboに対する擁護ではありません。ただの感想です。
心の優しい人が傷付いてしまう表現もあると思うのでご注意ください。
【私について】
母の彼氏に膣にオロナミンCの瓶を挿れられてその上からフライパンで割られそうになるなどやばいことが増えてきたので家出する→ネカフェ生活→保護してもらう(Colaboではない)→支援を受け自立→今20代
本当に申し訳ないけど、当時は支援者の方々に感謝の気持ちなど1mmもなかった。「本当に助けなきゃいけない人は助けたくなるような人ではない」と言われてるけど、そう言う感じだったと思う(辛いことだけど、助けたくなるような弱々しい子は助けられる前に亡くなっているとか再起不能になってるとかもあると思う)
・助けてくれてありがとうとかではなく「金持ちの家に生まれて愛されて何不自由なく生きてこれた人もいるのになんで自分だけ」としか思ってなかった
・「見下してんじゃねえよ」と思い常にイライラしていた
もちろん今思えば見下されると感じるような態度を取られていたわけではない。こちら側の受け止め方の問題
・何をしてもらってもとにかくムカついてた
今思えば十分すぎる環境だったけど常に不満しかなかった。あれ以上ご飯が豪華だろうとめちゃくちゃいい部屋だろうといつまでも文句を言ってたと思う。その感情の底には過去親に大切にされなかった悲しみや怒りがあったんだろうなと思う。
・なんか、本当は甘えたいとか泣きたいとかありがとうと言いたいと思うタイミングもあったんだけど
そうすると自分が今までの自分を否定することになるような気がしてできなかったんだと今思う。
説明しづらいけど、恵まれて育った子の与えられた愛情+余裕が100だとすると私は3くらいしか持ってなかったから
大人に服従(と当時は思っていた)するとそれが0.1とかになりそうでできなかった
【今思うこと】
色々話に行きたいけど、超問題児だったので職員さんに嫌われているのではないだろうか、いやそんなことはあの人たちは思わないだろうとかもごもごしている
超問題児だったからこそ会いに行けよと思う人もいるだろうけどまだその領域に達せていない…もっと立派な大人になったら行きたい
今、当時優しくしてもらったことをふと思い出して泣いてしまうことがある。
駅前のバラエティショップにNICIっていうぬいぐるみのキーホルダーが大量に置いてあって、犬のやつを買って通勤用のサブバッグにつけたんだけど
なんかその優しい顔を見ていると泣いちゃう。
【Colaboに支援されたという人があまり出てこない理由を考える】
基本的に、私のように過去に支援を受けた人が「私はここに本当にお世話になりました!ありがとうございました!」と言うことは普通にあまりないと思う
・過去を見たくない
いくらその後大切にしてくれる大人に出会えたとしても、「虐待を受けていた」「生まれに恵まれなかった」ということを自らアピールすることはできない
思い出したくない記憶なのもあるし、実家が太い・太くないみたいな言葉が普通に使われる世の中では特に言えない
支援してもらったことも思い出したくない(振り返ればあたたかい記憶ではあるけどそこにはつらい背景が付いてくる)
支援者の方々に自分が言った酷いこととかも勝手すぎるけど思い出したくない
前述の通り…
・ガチでひどい扱いを受けていた
こうならば声をあげて訴えた方がいいと思うし尊重されるべき 無理はしないでほしいけど
確定はしてないけど、「少女たちを金の種にしていた」「ひどい扱いをしていた」みたいな疑惑が出てるみたいということに関して
・本当にザル会計で適当にしていて自分たちのためにお金を多く得ていたならそれは絶対に批判されるべきことだと思う、真面目にやっている団体(少女保護に限らず)にも迷惑
・なんだけど、それが原因で「少女の保護も金のため」となるとうーんとなる
これは支援に関わった人にしか分からないかもしれないけど、正直いくらもらってもやりたくない人はやりたくない仕事だと思う
私は月300万もらってもやれる自信がない(過去の自分のような子に関わることはできない)
・Colaboがゴリッゴリの悪だったとしても、少女が当時はそう思えなくても、「困ったときに保護してもらえる場所があった」「そういう場所を作りたいと思った大人がこの世にいたこと」は、いずれ心の支えになるので、100%悪とするのもなあと思う(もちろんだからといって批判するなとは全く思わない)
【仁藤さんに思ったこと】
・キモいおじさん批判や温泉むすめの件、というか批判対象に対して100%悪だから潰せという感じの態度を取るのはええ…ってなる
というかあまりにもヘイトを撒き散らしていたら保護している少女にさらに危害を加える人が出てくるのではと見るたびにヒヤヒヤする
・ただ、そうならざるを得ない背景もあったんだろうと思う
支援されていた側からも①少女をおびやかすやばすぎる大人②意識的or無意識に世界の全てを恨み支援者に一番牙をむく少女③自分のために支援者と少女を利用しようとする大人の存在は見えていたし
特に③は怖い
・保護されている少女は平気で嘘をつくよ(笑)みたいなツイートが掘られて批判されてたけど、私はあれは仁藤さんが本当に親身に支援をしていた証拠のように思う
実際に、私と同じ施設にいた子が職員さんに片付けないことを注意されただけで匿名で嘘の通報をしたり他の団体に虐待をされていると相談したりというのは普通にあった
というか、「嘘をついている」という自覚はない 多分自分の中では本当のことになっているから 自分の嘘しか自分を守ってくれない、という子どもは私の周りにはたくさんいた
そもそも嘘をついて生き延びるor黙って死ぬ で前者を選んできたから生きているだけという
【最後に】
それぞれの人にそれぞれの事情があるので、本当に悪かったところはとことん追求して、褒め称えるところは褒め称えてほしいと思ってしまう。
【追記】
ほんと長くなってしまって申し訳ないんだけど、書きたくなったので。
・恩を仇で返す、ということについて
保護される子供は恩を仇で返す、というのは間違ってないと思うというかかなり多いケースだと思うんだけど
そもそも私含めて多くの子供が「それは恩を仇で返す行為だ」と分かってないと思うんだよね
なんでかというと、びっくりして心を痛める人もいるかもだけど
ありがとうと言うようなことが保護されるまでなかったというか、大人に何かしてもらったり助けられたりしたことがそもそもないんだよね
もちろん10歳超えて生きてきたということは超最低限の水と食べ物を与えられてるということなんだけど
それ以上のことはない、というか暴力に耐えたり惨めな思いをしたり死んだ方が幸せみたいなことばっかりで
だから最初のうちは何かを与えられてもそれが優しさだと認識することがそもそもできないから感謝することもできなかった
自立して精神的な余裕ができてから色んな瞬間で「ああ、あれって優しくしてもらってたんだな」と気付く→そんな優しい人たちから差し伸べられた手を叩いてきた自分に気付く→ダブルでつらい みたいな…
「恩を仇で返してやるぜ!こいつら困らせてやるぜ!ヒャッハー!」みたいな人はいないと思う
例えが変だと思うけど、マッサージしてもらったことがある人は身体が痛い時にマッサージしてもらえたら、あ〜ありがとうございます〜って気持ちよくお金渡せるけど
してもらったことない人は「!?何してんだ触るな殺すぞ」って抵抗して暴れてお金払わず逃げてさらに自分の身体がぼろぼろに…
いやほんと例え下手で申し訳ない
あと私が飲食店でバイトしてた時、私の事情を知ってたキッチンの方がシフト被るたびに「明日の朝食べなさい」とご飯とおかずを持たせてくれてたのだけど
お礼を言ったことが一度もない
普通の人は意味がわからないし非常識すぎると怒って当然だろうけど、おそらく当時の私の頭では「なんか押し付けられたけどあるから食っとくか」みたいな感じだった
優しさを受けた経験がないから優しさの意味、人に優しくするための労力の尊さが分からない
そういうのを思い出して、「わざわざ心を割いて優しくしてくれたのに不快な思いにさせてしまった」「どうしてありがとうございますと笑顔で言える人生を歩んで来れなかったんだろう」と、色々な感情が絡み合って申し訳なくて情けなくて泣く、みたいな
・今の生活について
楽しそうに自分らしく生きてる人を見てるだけで自分も元気をもらえるから
私もそうありたいなーととりあえず思ってる
今年は社労士試験に受かるのと、料理のレパートリーを増やすのが目標です
【追記2】
悪気は無いと思うんだけど、「保護されていた子が◯◯なわけない」みたいなことはできるだけ口に出したり書いたりしないでほしいな〜と思ってしまう…せっかく読んでくれたのに要求までして申し訳ない
私の周りの似たような境遇の子たちは何かやらかした時「やっぱりな」と言われないようできる限り真面目に生活してるよ
そういうレッテル貼りが嫌になったor避けたいから最初から夜職の方が楽だと言う人もたくさんいるのが現実だけど…
児童養護施設の施設長がその施設出身の人に殺された事件が報道された翌日、職場に行くのが怖かったなあ
というかここまで書いてて、自分は本当に施設に感謝して裏切りたくないと思ってるんだなと感じた
私が過去の自分のことを悪く書きすぎた?からかもしれないけど、客観的に見てこうだったなと思えるほど精神的に回復したと自分では解釈してます
もう一度書くけどColaboを擁護するための文章ではありません…
Colaboが本当に不正をしていたなら裁かれるべきなのは当たり前だし、嘘に嘘を重ねるようなことはしてほしくないし保護対象のためにもちゃんとしたほうが…と思うけど
仁藤さんの全てのモチベーションが金儲けだ!少女は金の種だとしか思っていない!と言うのを見ると
完全にそうならコストパフォーマンスも感情(?)パフォーマンスも悪すぎますよ、なぜなら私みたいな子がいるから…ということを書きたかっただけです
救われる子がいるなら他が雑でもいいじゃんなんて1mmも思ってない
ただ、悪いことは裁かれるべきだけど、そうでないことまで叩かれてるとうーん?となる
【追記3】
Colaboについて告発した方にこの記事をリプしてる人いるけどほんとに何やめて\(^o^)/
保護されてる対象だった人は全員嘘つきだ、恩を仇で返すと書いてると思われてる感じ…?
それなら私の文章が悪かった、全くそんな意図は無いと否定させてください
なんて書けばいいんだろう…雑な言葉になるけど、支援事業を「弱々しい子をなでなでする」みたいな感じに思ってる人の方が多そうだからそうでもないよ〜だから100%金儲けっていうのは無理あるよ〜支援側の人は本当に大変だよ、あと保護されるべき子供はこんな感じ子もいるけど、好きで暴れてるわけではなく内心泣きながら、自分でも気付かずに助けてほしいって叫んでるというのもあるよっていうだけで…
うーん…
誰かを救っているならお金のことは杜撰でいいなんて一言も書いてないのになんでそう解釈する人がたくさんいるんだろう…\(^o^)/
というかむしろとことん追及してもらってNPO全体がクリーンになって、応援したい気持ちがある人が安心して寄付や活動ができるようになれば救われる子も増えるんじゃないかなと思ってる
読書もしないしドラマも見ない。仲間内ではイジる側だった。コンプレックスや内省するようなことはほとんどなかったようだ。本当にないのが見て取れたので、こんな人がいるのかと驚いた。自信にあふれているとかでもなく…若い頃はそれも不思議な魅力になったのかもしれない。
ただの幼い人だったのだ…
会話の中でちょくちょく指摘して、気がついたり見方を変えたりしてくれたから安心していたけど、根っこは変わらなそう…ニュースに対する文句を聞いていて、がっかりすることが多い…なんで極端な方に走っちゃうんだろう…
残念ながら家族だ…
今後が不安だ…
エニアグラムのトライタイプの診断が気に入らなかったので新しく診断を作りました
>ホーナイ
まず一番好きなホーナイとハーモニクスで3×3理論の一番好きなタイプ(メインタイプ)を決めます
>3×3理論
ホーナイとハーモニクスを組み合わせてエニアグラムのタイプを決定するやり方
遊離型×反射的 タイプ4
主張型×楽観的 タイプ7
主張型×反射的 タイプ8
遊離型×楽観的 タイプ9
次に一番嫌いなホーナイとハーモニクスで3×3理論の一番嫌いなタイプを決めます
一番好きなタイプは追従型と合理的,一番嫌いなタイプは遊離型と楽観的なので
次に一番好きなタイプと中間に好きなタイプの間に好きなタイプを決めます
一番好きなタイプのホーナイと中間に好きなタイプのハーモニクス,
中間に好きなタイプのホーナイと一番好きなタイプのハーモニクスの組み合わせが間に好きなタイプになります
一番好きなタイプは追従型と合理的,中間に好きなタイプは主張型と反射的なので
次に中間に好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプを決めます
中間に好きなタイプは主張型と反射的,一番嫌いなタイプは遊離型と楽観的なので
間に好きなタイプは主張型と楽観的,遊離型と反射的です
その次に一番好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプを決めます
一番好きなタイプは追従型と合理的,一番嫌いなタイプは遊離型と楽観的なので
これを並べます
【二番目に好きなタイプ】(一番好きなタイプと中間に好きなタイプの間に好きなタイプ)
【三番目に好きなタイプ】(中間に好きなタイプ,一番好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプ)
主張型×反射的 タイプ8
【四番目に好きなタイプ】(中間に好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプ)
主張型×楽観的 タイプ7
遊離型×反射的 タイプ4
遊離型×楽観的 タイプ9
トライタイプは各センターの一番好きなタイプがトライタイプになります
一番好きなタイプのセンターは本能(タイプ1),二番目に好きなタイプのセンターが感情(タイプ3)と思考(タイプ6)です
この時点で3つのセンターが揃ってるのでトライタイプは△1-3or6-3or6です
もう1つ例を出します
一番好きなタイプと中間に好きなタイプの間に好きなタイプは追従型と反射的,遊離型と合理的です
中間に好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプは遊離型と楽観的,主張型と反射的です
一番好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプは追従型と楽観的,主張型と合理的です
これを並べます
【二番目に好きなタイプ】(一番好きなタイプと中間に好きなタイプの間に好きなタイプ)
【三番目に好きなタイプ】(中間に好きなタイプ,一番好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプ)
遊離型×反射的 タイプ4
【四番目に好きなタイプ】(中間に好きなタイプと一番嫌いなタイプの間に好きなタイプ)
遊離型×楽観的 タイプ9
主張型×反射的 タイプ8
主張型×楽観的 タイプ7
一番好きなタイプのセンターは本能(タイプ1),二番目に好きなタイプのセンターは思考(タイプ5,タイプ6),
三番目に好きなタイプのセンターは感情(タイプ2,3,4)です
3つのセンターが揃ったのでトライタイプは△1-5or6-2or3or4です
このトライタイプの診断でわかるのは"3つのセンターの順番"か"3つのトライタイプの数字"です
そのどちらか必ずわかります
二番目を4点,三番目を3点,四番目を2点,五番目を1点にします
【一番目に好きなタイプ】
【二番目に好きなタイプ】
【三番目に好きなタイプ】
【四番目に好きなタイプ】
【五番目に好きなタイプ】
本能 タイプ1(5点)+タイプ8(3点)+タイプ9(1点)=9点
感情 タイプ3(4点)+タイプ2(3点)+タイプ4(2点)=9点
思考 タイプ6(4点)+タイプ5(3点)+タイプ7(2点)=9点
2番目に出した例も当てはめます
【一番目に好きなタイプ】
【二番目に好きなタイプ】
【三番目に好きなタイプ】
【四番目に好きなタイプ】
【五番目に好きなタイプ】
本能 タイプ1(5点)+タイプ9(2点)+タイプ8(2点)=9点
感情 タイプ4(3点)+タイプ2(3点)+タイプ3(3点)=9点
思考 タイプ6(4点)+タイプ5(4点)+タイプ7(1点)=9点
たぶんトライタイプが意識するタイプで他のタイプが無意識のタイプなんだと思います
だからメインタイプのセンターでも他のセンターと合計が同じです
試しにこの診断を作ってみたのでよろしければどうぞ
これ「人は死のうと思えば死ねる」をもったいぶった言い方にしただけでなんの反論にもなってないけど?
はい。私の元々の主張を曲解されないよう懇切丁寧に言い換えました。それを改めて提示する事で、この元々の意見に対する「成功率の低い自殺方法も存在する」という反論がいかに的外れであるかを理解して頂きたかった次第です。
>一番大事な結果の部分が同じなら安楽死にこだわらなくても良いんじゃないの」という話をしていたの。
→だからぁ、結果は同じでも苦痛と成功率の問題があるから安楽死という概念があるってわからない??何度も言うけどお前は妄想だけで語ってるから無意識のうちにその辺の問題を軽視してトンチキな結論に至るんだよ
「結果は同じでも苦痛と成功率の問題があるから安楽死という概念がある」という意見は「自殺は苦痛から逃れられない。ゆえにその苦痛を減らす事が安楽死の意義である」とほぼ同義だと思います。「成功率が考慮されていない」といった些末な揚げ足取りはご遠慮頂けますと幸いです。あなたの主張を理解した上で、この場においてそれは的外れだと申し上げました。
>それに対して「自殺は苦痛から逃れられない。ゆえにその苦痛を減らす事が安楽死の意義である」っていうのはちょっと論点が離れてんじゃないの。
これこそが安楽死のいちばん重要な論点だろwなんのために「安楽」って付いてんのw あ、電気椅子が安楽死だと思い込むレベルだからしゃーないかw
その主張自体が間違っていると言っているのではなくて、「自殺は結果が最も重要であるという仮定に立つのであれば、安楽死にこだわらず自殺を選べば良いのではないか」という話をしている時の反論としては的外れだ、とという意味です。あなたの反論が持つ機能は「自殺は結果が最も重要である」という「仮定」の部分に異を唱えることですが、その否定を支持する根拠は何ら提示されていない。安楽死もまた自分の意志で死を選ぶという意味での「自殺」に違いなく、であれば仮定から「結果が最も重要になる」であると導き出され、これは「安楽死の意義が過程の苦痛を減らす事にある」という事と矛盾しない。「安楽死は自殺の過程の苦痛を減らす手段であり、かつ死という結果がもたらされる事が最も重要である」という主張は破綻していない。ゆえに反論としては的外れでしょう。
>だからさぁ、「なぜ自殺ではなく安楽死なのか」っていうテーマで「死のうと思えば死ねるという事実はある」から「自殺すればいいんじゃないの」って明らかに何も考えてないじゃん
これは以下の文脈のとおりだと思うんだけど、どこが文脈無視なの???文盲はどちらかな?
>でも死にたきゃ死ねる訳だし、(良い悪いという規範の話はさておき、人は死のうと思えば死ねるという事実はある)悲しまれたり迷惑がられたりネットで叩かれたり勝手に追悼されたりする可能性を踏まえた上で死にたいなら死ねば別に良いと思いますけどね。
方法がなんであれ、人は自殺をすれば迷惑をかける。それが自殺を踏みとどまる一因として考えられる。しかし規範とは別に人は死のうと思えば死ねる事実がある。それを行使しようと思えばできるのだから、人から煙たがれる事を自覚した上でも(あるいはせずとも)行使したければすればよい。という、「個人的な考え」としっかり前置きした私の元々のスタンスです。全体の、人がなぜ安楽死を求めるかという動機に関しての勝手な想像を踏まえて上での結論としてこうあるべき、という規範を提案したという訳ではありません。
これ「は」以下の文脈のとおりだと思うんだけど、ってもう言外に他のがほとんど文脈を無視してるって自分で言ってるじゃないですか。
筋の悪い部分をしっかり無視した切り取りによる無理筋のすり替えの反論、誠にありがとうございました。
人はいきなり喧嘩腰で難癖をつけられたら気分を害されて言葉遣いが悪くもなります。
元増田言ってたのは別の人ですよ。って言っても無駄なんだろうけど。
バカを言い負かそうとして気持ちよくなってやろうと思った私が悪かったです。バカは自分の主張の的外れさに気付けない、あるいは認められない。そして自分の失礼な言葉を撤回する事もしない。そのため、話を切り上げるには私がバカを言い負かすのを諦めて早々に話を切り上げるべきであったところ、大人げなく言い返していたために無駄な時間を使わせてしまいました。大変申し訳ごさいませんでした。
>、飛び降りは途中で気絶できれば楽だのそんなん無理だの、色々言われてるが所詮エアプの意見だ
→その自殺未遂も含めて「エアプ」っつってんの。死ぬまでが自殺なので。死ぬ事と死にかける事は違う。
>一度刺されてみればどれだけのもんか分かってるから未知への恐怖は無くなって覚悟が出来るけど、自殺はそうも行かない
→そうも行く。自殺は普通に失敗する。吊りで意識を失ったのに覚醒して無意識に暴れてロープを外してしまうなどはままあること。失敗は覚悟ではなく絶望となる。
→これも自殺未遂と自殺をごっちゃにしてる。死ぬ苦しみと死にかける苦しみは別。死にかける苦しみを知る事が死ぬ事への恐怖につながるって事を言いたの?死ぬ苦しみを知った上で自殺に臨む事は出来ないって話とあんまり噛み合ってないけど。
>でも死にたきゃ死ねる訳だし、
→銃による自殺は83%が成功するが、縊首は61%の成功率であり、薬物自殺は1.5%しかうまくいかないのである。
http://honkawa2.sakura.ne.jp/2747.html
→死ねてるじゃん。死ねなかった反例は人が自分の意志で死ねる事実を否定しない。「確実に死ねる保証がある」とは限らない事への揚げ足取りにしかなってない。
>。ネットの人らが何を以て電気椅子や薬なら楽に死ねそうという考えに納得しているのかは謎だが、
→まあ別に拷問でも良いんだけど、21世紀初頭までアメリカでの死刑は電気椅子でしたよ。
根本的な読解が間違ってる
https://anond.hatelabo.jp/20221207122508
前提としてこれを読んだうえでの話をするので、未読の人はこちらから読んでいただきたい。正直TRPGをやっている人、これからやろうとしている人には読んでほしい話だった。
というのも、私も以前の恋人と全く同じような内容で喧嘩していてそれが原因で関係に亀裂が入って別れたからだ。(この辺は読まなくていい)
恋人がTRPG(ただしくはCoCだ。以降は卓と表記する)にはまってから、各段に一緒に過ごす時間が減った。
気が付けば卓が、立ち絵が、部屋作りが。同卓が、KPが。そんな話ばっかりだった。
少しでもいいから私との時間を取ってほしい。そういった話は何度かしたし、それで何度も話し合いや喧嘩を繰り返していた。
それでも直らなかった。今思うと私が多くを求めすぎていたんだと思う。さっさと別れておくのが正解だった。NOT FOR MEの精神が当時の私には足りなかった。いたく反省している。
もうあの記事を読んだときにものすごい勢いで自分のそれと重なっていた。正直あの増田に親近感沸いたし酒も飲みにいける。奢りたい。
増田に伝えたいのは、悪いのは自分で日程管理をできていないAであって周りの人じゃないんだよ、ということだ。
でもすごくわかる。周りすら憎くなるのもすごくわかる。私もそうやっている間、本当に周囲に募集掛けないでくれ、頼むから私たちの時間をくれと願っていた。お前もなに意気揚々とやりますとか言ってんだよとも思ったが。
多分このあと落ち着いてすっかり未練だったり心配だったりを断ち切っていけたらそうなんだなって思えるとは思うけどね。こればかりは時間が解決するものだろう。頑張れ増田。応援してるよ。
今卓をやってる人、本当に自分は大丈夫かな。いったん落ち着いて自分の周囲を確認してみてほしい。
特にいわゆる卓修羅と呼ばれるような人ね。あとあの記事を読んで嫌な気分になった人はおそらく何かしら無意識に思い当たるフシがあるんだと思うよ。
誰かを、何かを疎かにしていないか。もし恋人や家族がいるのであれば、それが大切なものであるのなら、ちゃんと向き合う時間を取るべきだよ。
確かに卓は楽しい。私も1プレイヤーとしてやってきたし、その事実は覆ることはない。
睡眠や、食事や、そのほかもろもろを疎かにしてでも遊びたいのもわかる。
でも、それで何かあった時に卓は責任を取ってくれないよ。他人の愛情は無限でも無償でもないし、私たちの体は日々衰えていく。私は最近ハンバーガーのセットを食べきれなくなってきた。デブの名折れです。
スケジュールを組むのも自分だし、大切なものを失うのも自分だ。
タイトルに昭和と付けたけど、具体的にあまり知らないことを許して欲しい。あと文章下手ですみません。
「努力して耐えて稼ぐ、結婚して子供を作ることが当たり前」みたいなイメージで昭和と書いた。
今大学1年生19歳なんだけど、「結婚しなくていい、仕事を頑張らなくていい」みたいな空気が周りにない。
彼氏彼女を作って、勉強して頑張って真面目にお金を稼いで、結婚しようという思いがある人が多い。自分の周りだけかもしれないけど、少なくとも大学の友達やバイト先の人たちはそういう感じ。
自分もそうで、なんでかなと考えてたけど
一つ前くらいの世代の一部の人たちが「結婚してる奴はバカ、仕事頑張る奴はバカ」みたいなことを言っていて
それがあまりかっこよく見えないし尊敬できないし、こうはなりたくないと無意識に思っているからかもしれない。
本気でそう思ってる人は別にダサくないと思うけど、ただ人と生きていくことができない仕事ができないだけの人が時代の流れに乗ってる風に自分を正当化してるのはダサすぎる。
確かに昔の人たちの失敗やサボりが今の世代の人たちの負担としてふりかかっているのは感じるしそれは最悪だなとは思うけど
だからといって全てを環境のせいにして自分の人生を放棄したり極端に自己中心的になるというのはよくないと思う。
Twitterで過激的なフェミニストや反出生主義者、年収イキリや無駄なレスバをする人たちを見ていると、あの人たちに主張があるのは分かるけどああはなりたくない。
日本返還前占領中の沖縄で米軍放出品のオイルを使った天ぷらがあったっていうのは結構有名なトリビアなんだが、これが「モービル1を使った」って変換されて流布されてるのをよく見るのだ。例えばこの増田のブクマとか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221221194930
自分はモービル天ぷら見た事もないんだけど、この正体は判るのでちょっと解説したいあるよ。
因みにモービル1は沖縄返還後の1974年に市販開始された化学合成油で、鉱油が基油なので摂取すると死んでしまう。
結論から言うとモービル天ぷらに使われたのはひまし油であると考えられる。
一般的な機械潤滑油というのは石油を蒸留して作られる「鉱油」だ。原油を蒸留すると上の方からガソリン(の気化ガス以下同じ)-灯油-軽油-重油-鉱油-アスファルトという風に分離するのでそれを冷やして液体として回収する。
ガソリンや灯油、軽油を燃料として使うと鉱油も沢山出来るのでこれをエンジンオイルに使う訳だ。こういう風に出来た鉱油をそのまま使う時代は原油の産地によって鉱油の質が違った。
この方式で格段に質が良かったのが米国のペンシルバニア産で、例えばPennzoil(ペンゾイル)っていうオイルブランドなんかはペンシルバニア産を誇った名前なんである。黄色地にヒビが入った黒い鐘のポップな意匠でナスカーレースとかで見た事ある人も居るかもしれない。あの割れた鐘は有名な「リバティ・ベル」で、ペンシルバニアのシンボルで、アメリカ独立と奴隷解放のシンボルなんであるな。
ペンシルバニア産鉱物油の油膜特性は優れていた。油膜特性とは、高温で金属同士が擦り合わさっても油分が残り続けるって事だ。
だが、植物油であるひまし油の油膜特性はもっと優れている。エンジンが高温になってぶん回されるレースや航空機のレシプロエンジン、ターボエンジンなどではひましじゃなきゃダメ、ていうシーンが多かったのだ。
因みに他の植物油ではダメである。例えばサラダ油である大豆油は中華料理屋のキッチンを見れば判るが、料理程度の温度(200~300°)で酸化重合してしまう。固まってしまうのだ。亜麻仁(アマニ)油は常温でも酸化重合する。オリーブ油はサラサラし過ぎて機械の油膜保護は無理。菜種油(キャノーラ油は菜種油を品種改良で毒性を除去したものだ)は安い機械油であって飛行機などのエンジンに入れるのはもってのほか。
この高性能っぷりにあやかったオイルメーカーが「カストロール/Castrol」でcastor oilの事である。
どんだけ高性能かというと、1995年頃までレースに使われるのはひまし油一択という感じですらあった。カストロールのR30というオイルが有名だ。
こんな高性能ひまし油だが、植物油である為に弱点もあり、寒くなると固まってしまう。だから使用前に保温が必須で、冬にエンジンに入れっぱなしで冷えたエンジンを始動するみたいな使い方は出来ない。固まっているのでオイルが流れずに焼付き事故になってしまう。
次に、酸化し易い。脂肪酸なので酸素と結びついて重合し、固まってしまう。
だから缶詰に入れて保管し、使用直前に缶切りで開封して入れるという使い方になる。使用後、レース終了後や飛行機の着陸後はそのままにしておけず、抜き取りと洗浄が必須だ。でもレース車はレースごとにエンジンオーバーホールするし、飛行機、特に軍用機は飛行ごとに重整備もするのでこれもさして問題が無い。B29なんてフライトごとに全エンジンを新品かオーバーホール済み品に交換していた。
こういう感じなので街乗りの車などに使うのは難しい。
そしてオイル缶詰も未開封であっても酸化重合で粒状の塊が出来てしまうから、製造から数年の「消費期限」がある。戦時なら飛行機がどんどん飛んで消費されるが、平和になれば消費量は減る。
でも有事に備えて備蓄は必要だから期限切れのオイルが沢山出る→放出品になるという訳だ。
だから鉱物油の放出品というのは余り無かったが(消費期限なんてほぼ無いに等しいから)、ひまし油の方は未使用品がどんどん出てきたはずだ。
薬局でほう砂とかクレゾールとかグリセリンとか塩化ベンザルコニウム液とか古いアイテムを置いてある所にはひまし油も置いてある。
これはひまし油が昔から便秘の薬として利用されてきたからで、日本薬局方に収録されている。
日本薬局方ってのは漢方とか蘭方とかと同じで、薬のレシピを国が指定してあるもので、同名称品ならどの会社のものでも同じ内容のものが流通している。
日本人と言わず、世界中の文明ではひまし油=便秘薬であって、摂取すれば下痢しまくるというのは常識として共有されていた。
そしてそれは毒性があるからなのだが(タンパク質毒)、その毒性はちょっとぐらいじゃ死にゃしねぇってくらいって事も共有されてきた。
って事で、米軍がオイル缶を頻繁に放出して、castor oilと書かれていたら、「これってひまし油じゃけん。天ぷら油が無いが、これで天ぷらしたらどうか?下痢しまくるが死にゃあせんべ。」と沖縄人が考えたに違いない。自分が沖縄人ならきっとそう考える。
前述のように25年前まではレース=ひまし油(というかカストロールR30)一択みたいな感じがあったんだが、今ではR30もディスコンになってしまってサーキットで使ってる人もいなくなった。
だがその前の時代のサーキットは独特な香ばしい匂いがする場所で、それがひまし油のR30が燃える匂いであった。
今この匂いを嗅ぎたいと思ったら、河原で模型飛行機遊びしてる人が多い場所や、カートサーキット、ミニバイクレースサーキットがお勧めだ。
後者のサーキットは東京北部だと埼玉県の秋ヶ瀬公園隣にある秋ヶ瀬サーキットなんかが近い。浦和所沢バイパス、通称浦所の隣にあるのでちょっと道を外れて河原に下りると灼けるような匂いがしてくると思う。
因みにレンタルカートは4ストロークで遅い上にあの匂いがしないので注意が必要だ。これは本物のレーシングカートは2ストで、潤滑に使うオイルをガソリンに混ぜて燃やしてしまう為だ。だから灼ける匂いがするのだね。
焼きおにぎりと小海老天とエビフリャーとお好み焼きとごま油多めチャーハンとビーフステーキと新品のオーブンに火を入れた時の匂い混ざったような香ばしい匂いだ。
今はカストロR30も無くなってしまったが、薬局に行けばひまし油は売っているし、amazonドラッグストアでは500mlや1Lのものも売っている。こういう大きいのは自家製化粧品で使うようである。
ひまし油100%であれば用途外使用だが2ストエンジン潤滑油として使っても大丈夫なはずだ。
また、azという潤滑油メーカーはMEG-004 Circuitというレース用潤滑油をだしている。
また、広島高潤というメーカーは「ひましじゃけん」というひまし油ベースの化学合成油を出している。なんだその商品名は。高い商品なのに…
http://www.kz-hiroko.com/?pid=98820823
このうちひましじゃけんは化学合成で成分をいじってあるので危険だが、残りはひまし油100%なので、こいつらでモービル天ぷらを再現することは可能だ。
なので、次はモービル天ぷらの体験リポートを投稿したいと考えているが、激しい下痢やばらむつ油の無意識漏出のような社会的死を賭してのチャレンジになるので慎重に行きたい。
モービル天ぷらの趣旨を考えると日本薬局方のひまし油じゃなくてAZ MEG-004 Circuitの方でやるべきだろう。
もし「食用ではない油で天ぷらして死亡」のようなニュースが流れたら、量を食べ過ぎるほどサーキット天ぷらは美味かったのだな、とか、あれほど自分で書いてたのにひましじゃけんでやっちまったんだな、と思って頂けたら幸甚である。
まずヤンキーというと「盗んだバイク」とか「喧嘩最強」とかまず出てくるイメージだけど、そうではなくてヤンキーの真骨頂は「誰とでも仲良くなる」なんよ。
なんでかって、まずヤンキーのなりたい理想の人物像って「好き勝手わがまま言っても許される」っていう自由ができる人のことなんだよ。
例えば「学校でタバコを吸う俺だけど許されちゃう」みたいな。俺の居た高校にもヤンキーが居たけど、そいつら校内でタバコを吸うんだよね。
バレたら怒られるし面倒なことになるから止めときゃいいのに、と思うんだけど、そこはそうではなくて「学校でタバコ吸っても許されちゃってる俺」をやりたいんだよ。
先生に見つかって問答無用で殴られたりするんだけど、なんか上手いこと先生を丸め込んでしまう奴が居て「ほどほどにしとけよ」とか「今回は見なかったことにするからな」とか見逃されたりすることがある。
それで、好き勝手するのに一番良い世間向けの態度が「誰とでも仲良くなる」「みんなと仲良くする」になる。
結果、親しみやすく物腰柔らかで面白い人 っていうヤンキースタイルになる。
もちろん暴力でオラオラって行くやつも居るんだけどうまくいかない。
先輩ヤンキーとかあるいはもっとヤバいやつに「あいつイキってんな」って潰されたりする。
暴走族なんかも「走り回ってるけど許されてる俺」を実感して楽しんでいる。警察も四六時中取り締まれないから放置されてることが多いから「許されてる」感じがあるんだよね。
「暴力的ではうまくいかない」っていうのはヤクザとか反社会勢力でも同じで、ヤクザって日常で会うと、強面だけどひょうきんで良い人が多い。
そういう人はシノギが絡むと豹変するから「怖い人」になるための演出だったりする。
もうとっくに諦めた恋だが、その人の結婚式に呼ばれることは決まっていて、そのことを考えると少し心がざわついて、かといって誰かに話すこともできず、その想いをここに書き散らすことにした。
つまらない自分語りだが、気持ちの整理のつもりで書き記す。特定に繋がらないよう、念のため一部フェイクを入れたりはしている。
まあきっと、どこにでもあるような話だ。
同性の友人に恋をして人生を一時迷走した、愚かな若者だった頃の話である。
驚くほど気が合ってすぐに仲良くなった。平日も休日もつるんでいるのが当たり前の関係。いつからそれが恋だったのか、はっきりとは覚えていない。自覚したのは数年後だ。
でも高校二年の夏を迎える頃には既に、恋だったように思う。他の友達と親しくしている姿を見るのが苦しく、時折よくわからない不快感に苛まれるようになっていた。それでも、友人と一緒に過ごす時間は何より楽しく、バカなことも真面目なことも、誘われればいつでもすぐに飛んでいった。
色々な偶然が重なった結果だが、我々は進学先も同じ地域だった。田舎から出てひとり暮らしの家を探す自分に「せっかくなら近くに住まないか」なんて向こうから提案をしてきた時は、嬉しくて嬉しくて、飛び上がらんばかりに喜んだ。
でもそれは、迷走の始まりだった。
ほぼ毎日のように会える友人。食事を共にする機会も多く、互いの部屋を訪れてゲームをしたり漫画を読んだり、だらだらと過ごすのも当たり前になった。試験期間中の真夜中にコンビニに行こうと誘われて、適当なスウェット姿で並んで歩いた。体調が悪ければ互いに見舞い、薬や飲み物を買って届けたり、食べ物を作って置いていったこともある。
夢のようだった。
唯一無二の相手になれた気がして、それが恋だと自覚もしないまま有頂天になっていた。
だが、当たり前のことながら、相手にとって自分はただの友達のままだった。
ある日、恋愛相談を持ち掛けられた。
薄々は気付いていた、友人に恋人がいるらしいこと。それでも目を逸らしてきたが、面と向かって話されてはどうしようもなかった。まったく気乗りしないまま、それでも頼ってくれたことは少し嬉しくて、夜のファミレスで話を聞いた。
相談を聞くうちに絶望的な気持ちに襲われた。友人は決して付き合っている相手の名前を教えてはくれなかったが、誰より友人を見てきた自分が相談までされてわからないわけがない。付き合っていた相手は、共通の友人だ。
同性の人だった。
衝撃に頭を撃ち抜かれたような気分のまま、よく冷静に最後まで話を聞けたと思う。「君も知っている人だ」とだけ言う相手に、最後までわからないふりを貫いて「誰だろう、思い付かない」ととぼけ続けた。はっきりと言われなかったのを良いことに、同性との恋の相談であることにすら気付かないふりをした。その事実を認めてしまいたくなかった悪あがきである。
その相手とは後々別れて友人に戻ったことも知っているが、最終的に異性のパートナーに落ち着くまで何人と付き合ったのかまでは把握していない。話してくれたのは一部のようだし、自分の知らない人だったこともある。それでも、その時々に恋人がいるかいないかくらいはいつもなんとなくわかった。それだけ近くで見ていた。
同性が対象になり得るとわかってもなお決してその恋愛感情が自分には向かないのはもどかしく、それでもたまに頼ってくれる友情が嬉しかった。しかし、次第に膨れ上がって制御しきれなくなってきた気持ちは、相手が自分の思い通りにならないことへの苛立ちとなって表れた。八つ当たりのような態度が増え、突発的に暴言を吐き、傷つけることもあった。その度に青ざめて謝って、また元の友人におさまった。そんなことを繰り返し、自分が嫌で嫌で仕方なくなった。なぜ自分は大切なはずの友人をこんなに傷つけているのか。
その頃になって遅まきながらようやく一つの可能性に気付いた。もしかして、自分はこの友人に恋をしているのではないかと。
それまで自分を同性愛者だと思ったことはない。初恋相手は小学校の同級生で、異性だったのは確かだ。でもどうだろう。その後に恋らしい恋をした記憶がない。友人への想いを「恋」だと認識してみると、これまで何年も自分ですらわかっていなかったもやもやとした気持ちや、たまに暴走する感情にストンと納得がいった。自分は何年もずっと、友人に恋をしていたのだ。
そう理解したら暴走は止んだ。危ないと思ったら距離を置き、"友人"として正しい立ち位置を確かめる。暴れ出しそうな気持ちは表に出ない方法を覚え、平常心で接することができるようになった。友人は魅力的な人だが少々人付き合いの下手なところもあって、学部やサークルの仲間とうまくいかないとこぼすこともあった。自分は努めて穏やかに慰め、君の良いところはちゃんと知っていると友人らしく励ます事ができていたと思う。困った時に頼ろうと思える相手でいたいと、いっそ便利な相手でもいいから傍に置いてほしいと、その頃はそんなことを思っていた。
本音は違う。もちろん特別な関係になりたかった。しかしこれまでを振り返って、自分が友人に相応しいとは到底思えなかった。数年分無自覚に積もった恋心はもはや相手への執着と成り果てており、こんなものをぶつけてはいけないと感じていた。きっと相手もこんな自分を恋愛対象には見てくれないだろう。気持ちを伝えて友人ですらなくなることの方が、当時の自分には恐ろしかった。
結局、辿り着いたのは「この恋を諦める」という結論である。これしかなかった。それは間違っていなかったと、今でもそう思っている。思いたいだけかも知れないけど。
決めたからといって、実行するのは簡単ではない。何せ相手はいつもすぐ近くにいる。夜に部屋で一人になれば、先程まで顔を合わせていた友人のことばかり考えていた。恋だと自覚してしまったからには邪な思いも混じってくる。触れたい。抱きしめてみたい。それ以上も勿論。
その度にそんな自分が嫌になった。
感情ごと消えてなくなりたいと思った。
何とかして気持ちを変えなくてはと悩んだ自分が次にしたのは、同性の恋人を求めることだった。新しい恋をすれば忘れられるのではないかと。
近隣の同性愛者に出会おうと思い立てばそれなりに手段はある。友人と遊ぶ時間を不自然でない程度に減らしながら、両手では収まらない数の人と連絡を取り、そのうちの何人かとは実際に会い、親しくなった。気が合えばホテルにも行った。
無意識だったが、自分が惹かれたと思った相手は皆、今思えばどこか友人に似た雰囲気のある人だった。相手を友人に重ねていただけだ。なんと失礼で最低なことだろう。そんなものがうまくいくわけがない。少し仲良くなってはすぐにダメになることを繰り返した。友人から目を逸らしたつもりになっていた当時の自分ではうまくいかない理由はついぞわからなかったが。
やっと恋人が出来たと思えば、今度は男女の見境すらなくすぐ寝るような遊び人だったこともある。その事実を知った時は流石に少し傷ついたが、今思えばそれも自業自得である。
もうやめようと思った。
落ち着きのない恋愛ごっこに振り回されては失敗して傷付き、思い詰めて眠れない日が続くうち人生そのものが嫌になった。人に会う事が苦痛で引き籠りがちになり、その頃には学業成績も散々なものになっていた。理由を親に問い詰められても何も答えられなかった。大好きなはずの友人が誰かと楽しそうにしている姿を見るだけで、惨めな気持ちに押し潰され死にたくなる日々だった。
もう何もかもが嫌だと自殺の二文字が軽率に頭に浮かび身辺整理を始めた時、見かねて手を差し伸べてくれたのはとある異性の友達だった。自分が同性と付き合っていたこともその人にだけは諸事情あり知られていて、それでも見放さず友でいてくれた稀有な人だった。
自信も何もなく己のどこがいいのか全くわからなかったが、とにかく寂しさで死にそうだった自分は好きだと言ってくれる言葉に甘えてぎこちなく交際を始めた。大好きな友人と重なる部分は何一つない人だったが、その分執着もない。僅かな自己嫌悪を感じながらも、喧嘩もほとんどなく穏やかに関係は続いた。
友人にも、恋人ができたと初めて報告してみた。友人は笑って「いつも一人でふらふらしてるから心配してたんだ。よかった」なんて言ってきた。
その晩は一人で泣いた。
それでやっと、諦めがついた気がした。
恋愛感情があるかと言われれば未だにわからないが、積み重ねてきた情はあるつもりだ。世間体が保たれている安心感もある。この場所を守るのが自分の務めであり、大切にしたいと本気で思ってる。
恋は終わった。はずなのである。
かつて恐ろしいほど執着した、かの友人とは今も付かず離れず適度な距離感のままだ。昔ほどべたべたはしていない。それでも気の置けない相手の一人として、それなりに仲良くやれていると思う。
それなのに、友人の結婚の報せを受けた時から、事あるごとにあの頃の自分が顔を出してきて、傷ついた顔をする。
何を言っているんだと自分でも呆れるばかりだが、もやもやするものを一度吐き出してしまいたかった。片想いの残骸処理のようなものである。
こんなところまで読んでくれた人がいるのかはわからないが、もし居たとしたら、しょうもない昔話にお付き合いありがとうございました。
どうか幸せになってください。