はてなキーワード: 損得勘定とは
肉屋が動物の敵であるのとは違って、動物愛護団体は動物たちの味方だ。
ただし、彼らが助けるのは犬とか猫、イルカ、クジラみたいな動物だけである。
豚を助けるつもりは無い。それどころか、自分たちが豚を食べることを当然の権利だとさえ思っている。
しかも動物愛護団体は、豚のためにエサを用意してくれないし、豚が病気になろうがどうなろうが関知しない。
その意味では、責任をもって豚を世話している肉屋の方がマシと言える。
https://anond.hatelabo.jp/20171023212304
追記
彼らが唱えるお題目は、決してこの比喩のようなものではない。サヨクの脳内においては、自分たちこそ、万人のために人権を求めている聖戦士なのだ。
さしずめ、「あらゆる動物の命を尊重するベジタリアンの動物愛護団体」というところだろう。豚さんの命も救ってあげますよというわけだ。
今日ではベジタリアンの動物愛護団体にそそのかされた豚たちがたくさんいる。その豚たちが熱意をもって犬猫、イルカ、クジラの命を救おうと、タダ働きで奔走するというのも珍しい話ではない。
もっとも、その豚は犬猫とは言葉が通じないから友達にはなれないし、交配できないから家族関係を形成することもできない。クジラやイルカにいたっては、いまだかつてその実物を見たことすらない。
それでもなお、豚たちは自分が屠殺されない権利を主張するだけでは不十分で、ポリティカル・コレクトネスに配慮し、すべての動物たちが手を取りあう社会をめざさないといけない。動物同士の平等とその多様性を毀損する差別は、きわめて重い罪なのだ。
これはカルト宗教みたいなもので、信者に損得勘定を忘れさせ、むちゃくちゃな苦行や喜捨をやらせようとする。それに耐えてみせることが功徳を積んだことになるのであり、そうすれば天国に行けるとか、信者同士で褒め合うためのステータスになるとか、あるいは自分自身を誇るための信仰の証となる。
すなわち、自分に直接利益がない「人権」「ポリコレ」をどこまでストイックに追求できるかの我慢比べをして、たがいにその涙ぐましい努力の成果を自慢してみせるという宗教なのである。そこから耐えられずに逃げ出した者、入信を拒んだ者たちは邪悪である。いずれは地獄行きと非難されるのだ。
「自分が貧困になる可能性がある」とか言って、福祉政策の必要性を主張している人がいるけど、バカじゃないの?
ネトウヨだって、労働問題や福祉政策については弱者目線の人が多いっつーの。
人が失職して生活に困ったり、病気・障害を負うことはあっても、性別は変わったりしないし、LGBTになってしまう可能性は無い。
そのため、「もし経済弱者になったら」という仮定は有効だが、「もしマイノリティになったら」という仮定は無意味なのだ。
一方、現代の左翼(リベラル?)は、経済的弱者だけではなく、マイノリティを支援しようという動きを取っている。
つまり、女性、少数民族、LGBTが差別されない社会を作ろうというのである。
このようなアイデンティティ・ポリティックスは、明らかに左翼の力を分散させる結果になっているし、個別に見ればマイノリティが経済的強者というケースもあるから、ねじれを生んでいる。左翼がネオリベの走狗になっているという、まるでディストピアのような政治状況だ。
それに、マイノリティの間でも利害の衝突はあるわけで、女性・LGBTの権利とイスラム教徒の権利は衝突するのではないか? 本邦においては、hatenaやTwitter界隈で、フェミニストとオタクが演じている激闘がそれである。
https://anond.hatelabo.jp/20171023212011
追記
「ネトウヨだって、労働問題や福祉政策については弱者目線の人が多い」という部分に反発があるようだが、在特会のレイシストが「普通の日本人」と自認していることを考えてみればいい。
彼らの脳内では、自分たちは権力を持たない一市民である。そして実際、その多くは富裕層ではなく、一介の庶民なのだ。
差別や排外主義、歴史修正主義の主張を行っている者たちが、労働者である自分たちの賃金を上げてほしい、ブラック企業は撲滅してほしいと述べることは、ことさら矛盾していない。自己の利益を最大化しようと活動するならば、自分とは直接関係のない者に対して冷淡にふるまうことは合理的だとさえ言える。
失業や貧困については、将来的に起こりうる不安だから我が事として考えられるけれども、差別問題をそのように理解するのは難しい。こうなると元増田の人が言っているように、リベラルは「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」というやり方で連帯を訴えるか、「弱者に尽くす事は損得勘定以上の意味合いがあるのだ」という宗教じみた倫理観に訴えるしかなくなるだろう。
私は別エントリで、サヨクのことをカルト宗教と呼んだが(https://anond.hatelabo.jp/20171024075235)、後者の態度がまさしくそれである。それは信者に損得勘定を忘れさせ、人権やポリコレにひたすら尽くす苦行・喜捨をやらせて、仲間内でたがいにその涙ぐましい努力の成果を自慢しあっているようなものだ。
勿論、そのようなカルト的な熱狂で動いているサヨクがいたからこそ、さまざまな人権問題が改善してきたのだとは言えるし、むしろ有益な部分は多い。
リベラルがよく言うこの理屈は、もう胡散臭くて信用されないものになってしまったと思う。
この理屈からは、右翼のトリクルダウン理論と近いものを感じる。
右翼の言い分が「強者に尽くせば最終的には貴方も得をする」であるのに対して
左翼の言い分が「弱者に尽くせば最終的には貴方も得をする」だと言う事だ
この両者の言い分が両方とも嘘であるならば、真ん中にいる人間の現状は、上と下の両方から搾り取られているようなものだろう。
福祉の削減や、弱者の切り捨てに賛成する人間の事を、「正しい損得勘定勘定のできない人間」というニュアンスを込めて、「肉屋を支持する豚」と呼ぶ事があるが、本当にそうだろうか?
「弱者に尽くせば最終的には貴方も得をする」という言い分がトリクルダウン論者の言うそれと大差ないとしたら、弱者に尽くす者こそむしろ正しい損得勘定のできない人間ではないだろうか?
もちろんこのような言い分に対して「弱者に尽くす事は損得勘定以上の意味合いがあるのだ」と言う事はできるだろう。
しかしそのような事を言えば、「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」という言葉はますます嘘くさい物になり、信用を失うだけである。
私は冒頭で述べたように、「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」という言葉はすでに胡散臭くて信用されないものになってしまったと思う。
福祉のリソースに上限があるという現実は、すでに十分見えてしまった。ここから先は綺麗事の通用しない奪い合いが繰り広げられる事になるのではないだろうか。
追記
現時点で約300のブックマークがついた。それを読むと「怪我や病気をした時の保険」というコメントが多い。
なるほど、確かに誰しも怪我や病気をする可能性はあるのだから、怪我人や病人といった「自分もなるかもしれない属性」を救う事は損得勘定として問題がなさそうである。
ではLGBTや外国人を救う事はどうだろうか?自分がそうなる事はまずないであろう人間がそのような属性の人間を救う事に意味はあるだろうか?
例えば「キモくて金のないオッサン」のような「救うべき綺麗な弱者」として認められる事は決してない人間が、女性やLGBTや外国人が今よりも生きていきやすい社会の実現に協力する事は本当に得だろうか?
「女性やLGBTや外国人が生きていきやすい社会は貴方も生きていきやすいですよ」というような言説は事実だろうか?本当にこのような言説は信用されているだろうか?
私はすでにこのような言葉は十分な説得力を失っているように思う。もしこのような言葉を信用する人間がいるとすれば、そのような人間こそ損得勘定ができない「肉屋を支持する豚」であるように思うのだ。
損得勘定で考えるものじゃないし、自己満足なのだとすれば、少子化とか当たり前じゃん。子育てどころか夫婦生活というのがそもそもデメリットが多すぎる。これなら一人で深夜アニメみてごろにゃーんってしたほうがずっと幸せだった。
私は年収700万円ぐらいで奥さんは専業主婦。子供一人。家賃や固定費はすべて私が払った上で月に30万円ぐらいを妻に送金している。使途には一切口出ししてない。
私の仕事の内容は自分でコントロールできるのだけど年単位で結果が出なければクビになる系のなのでそれなりに辛い。毎日12時間ぐらい働く同僚が普通。なのに私は朝ごはんをつくり、ゴミ捨て(含むゴミ回収・袋掛け)、掃除機かけ、こどもの入浴(残業で半分ぐらいの頻度だけど)、週末の洗濯なども担当している。いわゆるイクメンだ。
うちにいる専業主婦はなぜか月の半分は寝て過ごしている。生理って大変なんだよね。知ってるよ。体調が悪いといえばずっと寝て過ごせるなんて女性っていい身分だよなと思う。つらいとかだるいとか女性ってそういうものなんだよね。
仕事中もLINEがとどく。育児の愚痴やら、専業主婦が虐げられているというネットの記事をつぎつぎと。仕方なくレスであやしたり、褒めそやしたりしている。なんでそんなことし続けなければいけないのだろう。
統計によると、そんなストレスフルな生活であっても、夫婦や子どもがいたほうが健康状態や生活の満足度は同年代の独身よりも高いのだそうだ。とても信じられない。一人暮らしのときは確かに怠惰な生活だったけれど、若さゆえのセルフコントロールの不足に由来していたと思う。出張でホテルに泊まったほうがずっと快適で健康的な生活になるから。
結婚して幸せな生活をしていますよということを、両親にも同僚にも家族にも常に伝えなければならない。友人の夫婦生活の愚痴を聞いてあげるし、より良い方向への提案も可能ならしてあげている。外から見ればきっと素晴らしい夫に見えるだろう。しかしもう限界だ。なぜこんなことを続けなければいけないのだ。それも死ぬまで。
妻に一度、自分がちょっと辛いということを漏らしたことがある。そしたら私が悪いんだよね死んだほうがいいよねと死ぬ死ぬ詐欺をされてしまい、以降、マトモな相談ができなくなってしまった。もう逃げ場もない。
私の親や妻の親を(ともに遠方)たまに呼び出して孫を見せてついでに家事とか話し相手になってもらえばいいじゃない?と提案したけどむしろそっちが辛いと言って頑なに断られてしまった。うちの親が遊びに来たときすら、家の玄関をくくらせなかったぐらいだからね。
平日幼い子供と二人っきりで辛いのだろうと、託児サービスを探したり、週末は私が子どもをつれて一人にしてあげたり、遠出をしてもらったりするけど、せっかくそうやって休みを作ってあげたと言うのに、なぜかわざわざその夜に夜更かしをしている。そして翌日に体調最悪で朝から寝込んでいるのだ。意味がわからない。因果関係が明らかじゃないか。
嫁とケンカしてて、
確かに当てはまる事が多いけど、
その人たちのゴールって「自己愛」なんでしょ?
でもどうすりゃいいのかと「191自己愛性人格障害の自己治療と自覚を促す資料(http://mora110.blog.fc2.com/blog-entry-191.html)を読んだけど、
これって幸せになれるのかな…?
ーーーーー
・意地悪しない →当たり前。しない。
・悪口、陰口、告げ口言わない →これもしない。してないつもり。
・自惚れない →それほど自信ない。
・見下さない、駄目出ししない、こき下ろさない →これはダメ出し(問題点の抽出)も禁止なの?ある程度必要でしょ?問題解決のために。悪意は抜きで。
・他人の不幸を喜ばない →前に進まないのでやらないし。
・頑張り過ぎない →これはやり過ぎてるのかもと思ってハードル下げてる。
・物事を勝ち負けや優劣に絡めない →全部じゃないけど絡むのはどうするの?
・他人の欠点を探さない →探した訳じゃなく、ここが原因で揉めてる時はどうするの?
・相手や状況によって態度を変えすぎない →それは卑怯だしズルいのでやらない。やってないつもり。
・人のせい、世の中のせいにしない →それをすると解決しない。
自己愛行動心得
・他人の成功や長所で一緒に喜べるようにする →はい。そのつもり。
・「仕方がない」、「ま、いっか」、「人それぞれか」を前向きに口癖にする →それでは済まない時にどうするの?解決しないよ?
・自分の欠点を認めて笑えるようになる(逆に他人の欠点は笑わない) →コンプレックス自覚して笑ってるつもり。他人の笑うのは人間じゃないでしょ。
・『本心から』他人を褒めれるようになる →そうじゃなきゃ言わないよ。逆に嘘でも誉めるなら分かる。
・目に見える利益のない人間とも付き合ってみる(自己愛にとってそれ自体が利益です) →何が利益なのかが明示されてない。(まぁ損得勘定で付き合ってないのですが)
・人に何かしてもらったら感謝する、その感謝の気持ちをいつまでも持つ →普通に感謝もするけど、いつまでもって、どんだけ気を張って意識し続けなきゃいけないんだよ?!と。
・平凡であれ。平凡なことは大きな喜びとなりうる。 →上を目指すなってことじゃなくて、劣等感に支配されるなと受け取ろう。
・人と同じように、人間的に生きることは可能だ。しかも独自性を残したままで。 →アイデンティティーてヤツね。
・チームプレイをすると報われる。 →したいけど、できないチームもある。がんばる。
・いつももっとよくならねばではなく、人と同じでよい。そこに喜びがある。 →他人と同じって大量に変なの作る気か?と思わず、そこそこで幸せって思うことにする。わかった。
・一時の賞賛より、他人から長く尊敬されることをめざそう。 →直前↑のと逆のこと言ってないか?
・自分だけでなく他の人も大切な要望や意見を持っている。 →当たり前。そこを思って揉めてる。
・誰もが何か秀でたものを持っている。 →で、何がしたい(療法てなに?)
・自分の気分に責任を持つようにしよう。人の評価によって気分を左右
されるなら評価に頼っていることになり、抑制不能になってしまう。
→上の「他人から長く尊敬される…」てのは目指せ!で、こっちは強い心で他人の評価を気にするな!ってことなのかな?
ーーーーー
うー。まぁ、なんとかなるのかな。
これ読んでて相手が「物言わぬ」方のタイプなのかな?と思った。
沼が深い。
実はホントに苦しいし、なんとかしたいのだけれど。助けて。
北が核武装に突っ走ってまで守りたいものは何かと考えたら、ただひとつ
「カリアゲとその家族親類が一生贅沢で面白おかしい暮らしを続けられること」
くらいしかない。
もし北朝鮮の人民全員を食わせるだけのカネをよこせという要求なら大変困難な問題になるんだが、人民は見捨ててカリアゲファミリーの生活と身の安全さえ保証すればいいのなら、交渉でなんとかしうるレベルに落ちてくる。あいつらのために世界が核の炎に包まれるのも馬鹿馬鹿しいしな。
そこに可能性を見ているのだろうと思っている。
でもとりあえずその場の損得勘定でいえば現実的だけど、後々問題になりそうなことは先送りになるのが難点。
北の人民は飢えたまま放置で本当に大丈夫なのか、核武装すれば一つだけ願いをかなえてくれるという悪い教訓を残すのでは、とかね。
自分は得をしているつもりで、実のところ無駄に時間を浪費しているだけのハイエナのようなつまらない人間だということに気づいたからだ。
金がなかったので、一銭も使わずに膨大な量のアニメや漫画、AVを見ることが出来るP2Pは最高のソフトだと思っていた。
ファイル配布サイトに上がっているコンテンツをダウンロードしては消費し楽しむことを日課のように繰り返してきた。貯まったファイルを半ば財産のように、愚かにも人に見せることすらあった。
ある程度金回りが良くなってからもP2Pソフトを使い続けていた。それ以外のコンテンツ体験が分からなくなっていた。無料で楽しめるコンテンツに金を払うことがバカバカしくなっていたということもある。
ある時、ダウンロードした音楽が非常に良かったので、学生時代のノリで後輩に送りつけた。
反応は微妙なものだった。彼はもう自分の金を払いコンテンツを消費するようになっていた。
その時から自分の損得勘定がおかしいということに気づき始めた。
私は金を払わないから得をしていた気になっていたが、同時に何も生み出さない阿呆になっていたのだ。
無料で得たコンテンツはもちろん金はかからないが、時間はかかる。その時間は何も生み出すことはない。無料のコンテンツなので元を取ろうと深く読み込むこともせず、得られたものをアウトプットして誰かに貢献することもない。
もしAVをダウンロードせず生身の女性にアタックしていたら、もしアニメをリアルタイムで見てTwitterで実況するなどして友だちを作っていれば、自分自身が面白い人間になれていたかもしれない。
被害者のようなツラをしているが、自分はコンテンツ制作者に対する加害者である。というかそれでしかない。
学生時代は未熟で、コンテンツの向こうに製作者がいるということをあまり理解していなかった。コンテンツではなく、製作者が私を楽しませてくれているのだ。そこにはきちんと見合った対価を払う必要がある。
P2Pは麻薬だ。ただコンテンツを楽しむ生活は虚しいが楽しい。スパッと辞めることは難しい。まずはソフトを消して、ダウンロード済みのコンテンツを楽しみながら消して、余裕がある範囲で購入していくつもりだ。少しでも罪滅ぼしになってくれればと思う。
xevra 損得勘定ばかり必死にやる奴の末路はいつも悲惨だ。
人は結婚し、子供を儲けて初めて完成する。未完成の方が得だと考える時点で生きてる価値がない
。/追記がまさにダメ人間。人生の問題を損得で考えるな。目を覚ませ
あと他にもあるよね。
・瞑想
・野菜
・運動 だっけ。
xevraが勝手に色々信じるのは良いよ?勝手にすれば良いよ。自分のことだから。
でも、「人のことをダメ人間」呼ばわりしたり「生きる価値が無い」とか
お前はそこまで完成した人間だとでも言いたいわけ?
何? 神様なの??
結婚しない、子ども作らないって言っただけで「人間のくず」みたいないい方する
お前のほうがクズだと思うけどね。
ダラダラやってた婚活へのモチベを上げるため、結婚について色々考えてた。けど結局「結婚すれば今より苦しくなるだけ」という結論にしか辿り着かなかった。
彼が大好きだから結婚して彼の子供産みたい(はぁと)←これはわかるよ。自分の場合は婚活の話ね。
まず経済的な話→私の場合は問題なく自分で稼いでるし、共働き前提だから別に楽になるということもない。専業主婦なら楽できるけど(あえて楽とハッキリ書くけど)、離婚したくなったときに経済的な理由でできない!とかは最悪の不幸すぎるから専業主婦の選択肢は最初から無い。同様の理由で、かつ全く魅力を感じないので、専業主夫もナシ。
40代以降寂しいんじゃないか問題→これ、意外に全然心配してない。友達に恵まれてるし1人でいるのも好きだし一生続けられる趣味もある。家族仲も良い。最近よく見る「中年独身男性の孤独」みたいなのは、男性には申し訳ないが性別も関係してる気がする。いつまでたっても女は女でベタベタ固まって遊ぶのに対して、男性はあまり他の男性に興味がないように思う。でも私は女だから、40代も50代になっても、なんか普通に女友達と飯食ったり旅行行ったりしてるんだろうなと思う。
性欲→なし。セックスしなくていいの?楽じゃん。
最大の焦点、子供→そもそも子供欲しい理由てなんだっけ。可愛いからだけでは済まされない大変さと自己犠牲がそこにある。
正直、子供を持つのは親のエゴでしかないと思ってる(少子化うんぬんは置いといて) 実際、私が子供のときは「親に感謝しなさい」と言われる度に、「別に産んでほしいなんて頼んでないし!」と何度も思った(言ってはいけない気がしたから口には出さなかったけど) 子供作る理由に、種の保存(…?)とかいう人もいるけど、「まじかよ」って思う。
あと育児はやっぱり、女側の負担がハンパない。自由時間ほぼなくなるわキャリア死ぬわ、体型が一瞬で中年化するわ食事制限辛いわ、ママ友だとかPTAだとか悩み尽きないわ。なんかイクメンとか色々あるけど、男性は、結局育児する気あんまないと思う。婚活してみて思い知った。男性は仕事とか自由を制限する気はそこまでなくて、妻にほぼ丸投げする気でいる人が大多数。というか、丸投げする気だからこそ、育児というものを調べないから知らないし、どこか他人事に感じてるから気軽に「子供は欲しい」とか言えるのだと思う。
「そんなことない!俺は違う!」という人がいると思うけど、日本人男性の家事育児の参加率は先進国の中でもド底辺中の底辺を這ってるから、私は統計の方を信じるわ。そこまでして婚活相手の子供を産みたいか…と言われると、そんな勢いは、ない。
恋愛結婚だったら2人で四苦八苦していけばいいよ、その中でやっぱり上手くいかなくて脱落してしまう人もいるみたいだけど。婚活から恋愛に発展するのって一体どのくらいの確率なのかな。例えば相手が失職したときに、支えていける自信があるかな。自信、ない。
結局、「絶対に結婚するぞ!」という盲目的な宗教に入っていない限り、1つ1つ見ていくとマジで結婚の意味ってないって思った。よく「結婚は勢い」というけど、確かに頭で考えてたら無理ゲーですわ。でも、考えちゃうんだよね。だって「もっとよく考えればよかった」とか後悔したくないから。
結論。こんだけ並べてみると「なぜあえて修羅の道を選ぶ?」って気持ちになっちゃうんだよね。苦労して「普通」に生きるか、楽に自分勝手に生きるか。
もうかなり、生涯独身キメるつもりではあるんだけど、あとは独身の友達を探せるようなコミュニティがあれば完璧かなぁと思う。子持ちとはどうしても話もスケジュールも合わなくなっちゃうから。独身貫いてる女性って、高学歴高収入でバリバリ働いて、性格に一癖あっても会話するとすごく面白くて興味深い人が多いんだよね。そういう人達で繋がれたらめっちゃ楽しい暮らしできるんじゃない?ってワクワクする。
ここまで書いたけど、「結婚した方が幸せになれそうな人」ってのも確実にいると思う。趣味がない、とか1人が寂しい、他人に依存体質しがち、とか。あとは自分のために生きられなくて他人のためじゃないと頑張れない人も一定数いる。友達がいない人なら、最低限家庭という居場所を確保しとくのは有効。
世話焼きとか、家事上手いとか、子供と遊ぶのが好きとか家庭で発揮できるプラス要素を持っている人もいるけど、問題ない人は1人でいても結局問題ない、って思う。
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以下、追記。
朝起きたら伸びててびっくり。てかこんな長文読んでくれてありがとう。
ただの自分メモとして書いたけど、「結婚の圧力で無理に婚活して消耗してる」似たような女性が読んでくれたらいいな〜とはちょっと思ってた。
最後に書いた「結婚した方が幸せになれそうな人の要素」がマウンティングだと言われてるけど、もちろん既婚者全員が上に上げたような要素を持ってるだなんてミリも思ってない。結婚不要みたいなことを書いてしまったから、結婚によって救われる人もいるのでは、てことを書きたかった。
ブコメも読んだけど、
"id:xevra: 損得勘定ばかり必死にやる奴の末路はいつも悲惨だ。人は結婚し、子供を儲けて初めて完成する。未完成の方が得だと考える時点で生きてる価値がない。"
これは流石にビックリした。子供作らなければ生きてる価値がないとな。きちんと納税も消費もしておりますが。
私の言ってることはある意味「男は必要ない」ってことだから、男性から叩かれるのはある程度覚悟してたけど、私は「女を必要としない男の生き方」も当然あっていいし支持しますよ。
結婚のメリット、「結婚のプレッシャーから解放される」があったね。それそれ、そうでした。めっちゃ魅力的。でも、そのためだけに結婚するのは流石にナイから、結果論だけど。
多分こんな感じ。
◯記憶量が多い。
子供の頃は自分が頭がいいだなんて思っていなくて、どうして周りはそんなに忘れてしまうのかが不思議だった。
一つのシーンに限っても、覚えているものの量が全然違うことが分かった。
最近はスマホが何でも記憶していてくれるから、事実確認が楽で助かる。
例えば犬という言葉を聞くと、犬の種類はもちろん、それを題材にした歌や物語、骨格や餌の種類、病気などがふわっと頭のなかに膨らむ。
三次元グラフみたいに、傾向別にxyzに色々なものが広がっていく感じ。もちろんそこからも連想は続く。
空間的に認識できているので、話の途中で戻ることも比較的簡単。
AにたいしてBしてみてはどうか。という内容に対して、ざっといろんなケースをすぐに想定できる。
理論が飛躍するって言われるけど、そこを駆け上がるのが早いだけ。
大体の場合はすぐに最適解を出しても周りが納得してくれないので、自分ではとっくに検証済みの内容を一から議論に付き合うことになる。
最近は最適解にたどり着けるように反証を先にだして導くようにしている。
◯感情論より最適解を優先する。
これは未だに難しいところだけど、いわゆる囚人のジレンマであって人が感情的になるには必ずと言っていいほど個人の損得勘定が働いていることがわかった。
そこに気付かないふりをしつつ、民主主義をうまく使って採決を取るようにすすめるのが今のところ最適解。
でも大抵の場合は、頭そのものがよいというより目的に対して思考が徹底的に洗練されているといった印象。
いわゆるサイコパスと言われる人間も、人情的なものを切捨てて思考するからその分早いだけだなって感じだった。
それで何がいいたいかというと、こういうのってテクノロジーで随分フォローできる時代になったよねということ。
変えられない地頭だからって諦めるより、それに相応するサービスを探すといいことがあると思います。
それと、頭の善し悪しは幸福論に影響はないよ。
よし、「電気消さない人を、私はこれからハゲと呼ばせていただきます。」ってポスターでも貼っておこうか?
損得勘定の式が変わって嫌々ながら協力してくれるで
まぁ冗談はさておき、〇〇すべき、○○当たり前は、大小かかからわず自分の価値感、思想信条・イデオロギーなんだから落とし所考えずに、
ただ、合理性のあるものはイデオロギーと見なされにくいのと、人は他人にアホやと思われたくないから、これするのは合理的だよーって前置きを置けば対外、協力してくれる
しかし順序が大事。先に怒りの感情出してしまって相手をアホと見下してしまった後では、合理性出しても更なる追い打ちにしか見えないから、ほんま要注意やなぁっていう良いサンプルやねぇ
この間、生まれて初めて葬式に行ってきたのだけど色々初めての新鮮な経験をしたので、思ったところをなんのとりとめもなくつらつらと書き連ねてみたいと思う。
初めての葬式は母方の祖父の葬式だった。まあ葬式といってもそんな盛大なものではなくて、近い者たちだけで行う火葬式だった。祖父は半年前ほどに末期ガンで寿命宣告を受けていて、その死自体には何の驚きもなく、正直「やっとか……」という感じだった。というのも、祖父は数年前からいわゆるボケが始まっていて、祖母やたまに家を訪ねた母ともケンカばかりしていた。そして更にガンを患って入退院を繰り返し、同居して介護していた祖母は疲弊しきっていた。素直に死を嘆き悲しむ事ができるような祖父は、はるか記憶の彼方に埋もれていた。そんな状況だったから、なんだかとても薄情に聞こえるかもしれないが、自分にとってはその死の報せで特に悲しむということもなく、「これでやっとみんな楽になるんだな」という感想が一番だった。
そんなわけで、大した感慨とある種の現実味もないまま葬儀当日を迎えた。車で数十分の距離にある市営の小奇麗な火葬場は小高い丘の上にあった。火葬場に着くと早々に祖父の棺が運ばれてきた。自分達は炉の前で「最期のお別れ」をすることとなった。母が用意した白い薔薇と今朝書いたばかりの祖父への手紙を棺に入れた。狭い棺のなかで花に囲まれる祖父はまるでただ眠っているだけで、今にも起き出しそうに見えた。いよいよ炉の扉が開かれ祖父の棺がほの暗いその中へと消えていった。炉の扉が閉ざされて火が入ると付き添っていた僧侶が木魚を叩きながら経を唱え始めた。その瞬間、いきなり涙が溢れそうになり必死でこらえた。自分でも何故こうなったかわからなかった。ただその場の雰囲気に飲まれたのか、何か自分の奥底に眠っていた感情とやらが溢れたのかもしれない。その後、亡骸を焼ききるには一時間ほどかかるらしく、待合室で数少ない親戚との久々のささやかな会話をしながらその終わりを待っていた。
その間に先程の経を唱えた僧侶が来て祖父の戒名の説明をしていた。ちなみにこの僧侶へは、式全体のパック料金には含まれないお布施を直接渡すことになっていた。そのお布施の額も決まっていて、値段によって僧侶の人数だのが明確に決められていた。旧来の檀家制度に比べてみればある意味良心的なのかもしれないが、「ビジネスだなぁ……」としみじみ感じてしまった。しかし僧侶というのは大したもので、丁寧に戒名の由来を説明する姿や祖母や母の質問や相談に真摯に答える姿は、金銭の授受によって成立し提供されている一種の「サービス」であることを一切感じさせず、その清い心の底から自分達に同情と共感を向けてくれているように思えた。自分はここで初めて本当の意味での宗教の存在意義を見出したのかもしれない。ミッション系の大学に通っているので、講義で宗教の必要性や重要さ(キリスト教に関わらず)は訥々と説かれていたはずなのだが、懐疑的なところもあった。しかし、渡された戒名を眺めながら言った「これでじいちゃんもきっと向こうで喜んでるね」という祖母のありきたりのようにも思える台詞は、その疑念を実感を伴って払拭するような体験としては十分だった。
そして放送で祖父の名前が呼ばれ時が来たことを知らせた。その時自分は緊張していた。それはある叔父の言葉がきっかけだった。「じゃあお前たち、骨を拾うのも初めてってことだな」。それは自分達姉弟が葬儀に出席するのが初めてという話題に端を発し知らせられた衝撃の事実(自分にとっては)だった。その時は、骨は焼かれた後は影も形もないほど粉々になり、そのまま骨壷へ収められていくものだと勝手に勘違いしていていたので、まさか形が残っている骨を自らの手で拾わなくてはいけないとは夢にも思っていなかった。「あんまり形が残ってたらやだなあ……」などと考えながらいよいよ先程の炉の前に着いた。炉が開き、台車がゆっくりとこちらに向かってくる。その台車の上には軽石のような、なにか鉱石のようにも見える白い物体が載っていた。半ば逸らしていた目を向けよく見てみると、たしかに人の骨格をうっすらと思い起こさせる形をしていた。初めて人骨を目にしたが思ったより衝撃はなかった。二人一組になっていよいよ骨を拾い骨壷に入れる。自分の番になり、姉と一緒に恐る恐る遺骨を長い鉄製の箸でつかみ骨壷に入れた。一斉に骨を離した瞬間、骨壷のなかから乾いた音がした。もちろん骨はいくつもあるので、残りは火葬場の職員が手慣れた手つきで骨壷に収めていく。その時に「こちらは大腿骨です」とか骨の部位をいちいち説明してくるのだが、「そんなん言われても『へえ、これが大腿骨なんだ! 』以外どう思えっちゅうねん」と心のなかでツッコミを入れていたところ、母が「こんなに丈夫そうで、骨格は立派だったんだね」などと言い出し祖母もそれに同調し、「まさかこんな形で故人を偲ぶイベントが葬式にあるとは……」と少し興味深く感じてしまった。その後も骨は骨壷に収められ着々と骨壷の中身はかさを増していくのだが、途中で「どう考えても骨が骨壷に収まりきらないぞ……」とその場に居た皆が感づき始めた頃、不意に、「このままでは収まりきらないのでお骨を少し砕きますね」という声がかかった。その刹那、その職員は箸でバリバリと骨を砕き始めた。それはもう容赦なくだった。粉になった遺骨をさらさらと骨壷に収めていくぐらいだろうと考えていた自分にとっては、かなり印象的な光景になった。一緒に骨を入れた姉と終わった後に「あんなにバリバリ砕くとはねえ~」と少し笑いあった。式を終えた帰りの車内で骨壷を抱えながら「お父さんもこんな中に収まっちゃった」という祖母の気が抜けたような言葉には、何とも言えない寂寥の念を感じさせた。
なんだかんだ書いてきたけど、結局人が身近な人の死をどう認識して受け入れていくのか、そのプロセスのために何が必要なのか、とかそういったことが伝統的な儀式の中には組み込まれてるんだな、という当たり前のことを認識させられた。戒名とかそのために何万も金払うのとか無駄だろwとか思ってなくもなかったけど、単なる損得勘定では考えられないこともあるということも分かった。そして終わってみるといろんなことを学んだ気がした。どうでもいいけど遺骨はさらさらの粉になって出てくるって勘違い、小さい子供が魚は切り身で海を泳いでると思う勘違いと似てるなって思った。ほんとにどうでもいいな。おわり。