はてなキーワード: 原理主義とは
前々から気になっていたことですが、腐女子界隈は、この件に限らず、伝聞や憶測で悪意的に解釈するのではなく、事実に基づいて慎重に意見することが必要です。
事実とは異なる憶測や誤解で非難すれば、それは単なる誹謗中傷となり「ネットリンチ」につながります。
ですから、いくら伝聞や憶測が広がっていても、すぐさま感情的に流行に乗るのではなく、いったん冷静になって、できるだけ情報源を確認して意見することが望まれるのです。
そしてそのうえで、ただ界隈の規範を参照するのではなく、相手の事情を理解しようとする姿勢が要されます。
相手の言動が結果的に界隈の規範に反していたとしても、被害者意識に基づいて悪意的に解釈するのではなく、知識はあったのか、悪意はあったのか、どのような文脈での出来事なのか、いったん主観を離れて、俯瞰してとらえるだけでも、感情に振り回されて疲れたりせずに済みます。
これは、インターネットだけの話ではありません。現代は多様化の時代ですから、自分とは違ったさまざまな他者と、お互いの個性を踏まえてコミュニケートしていかなければ、たやすく不適応をきたしてしまいます。
そのような意味合いでも、ただ「炎上」の流れに身を任せるのではなく、一人ひとりが目の前の出来事に対して「なぜ」と問い、理解しようとする姿勢をもつことが大切ではないでしょうか。
文芸誌「ユリイカ」の女オタク特集内の論文でも示唆されていましたが、腐女子界隈の村社会的な特殊性は閉塞的で、自由な議論を忌避して多様性を認めず同一性を要求する抑圧的な特質があります。
従来の規範と異なる意見が上がれば、つまり少しでも周りと違う声が聞こえれば、迷わず躊躇わずほとんど一斉に叩く。そのような出来事が断続的に起こっています。
少数派の意見が抑圧されて「なかったこと」にされるのではなく、もっと、風通しのよい界隈であってほしいと、一人の腐女子としても思います。
「炎上」の件で個人的に思い出されるのは、昨年海外で数百万回再生された、さくらみこさんの切り抜き動画です。
その内容は、みこさんが『GTA5』というゲームの実況配信をするものでした。
注目を集めたのは、そのなかで『GTA5』の作中人物が「Fワード」や「Nワード」を口にした際、みこさんが反復するように発音してしまった場面です。
彼女の「ファッ●ュー」や「ニ●ー」という発言は、その動画のコメント欄を良くも悪くも賑わせます。
たしかに英語圏では、「Fワード」や「Nワード」は人前では憚られる禁忌で、動画であっても問題視されても不思議はありません。
ですが、コメント欄の海外の方々は、彼女に英語力がないことや、悪意がないこと、台詞の語感のよさから発音してしまったことなどを踏まえ、冷静に意見を書き込んでいました。
なかには、「Nワード」について、台詞の語感がよかったし発音は仕方がない、と黒人と称する方によるコメントもありました。
もちろん、BL同人誌の一件が、この出来事と同列に語りうるとは言いません。しかし、伝聞や憶測や表面的な印象から、ただちに被害と加害の構図に重ねたり、原理主義的に規範を参照したりするのではなく、相手の立場に思いをめぐらせて、尊重しあえるようになればと願わずにはいられないのです。
午後14時以降カフェインを取るな。
睡眠は誰もが取りたいと思っているんだから増やせと言われても無理なもんは無理だ。深夜の深酒もよほど意識が高くないとやめられない。
カフェインで脳を無理矢理起こさないことだけ意識すれば十分だ。
1日あたりの平均歩数8,000歩を目指す、これだけで良い。
筋トレは趣味なら良いが、意識の低い人には効率的な全身運動としての徒歩やジョギングが良い。
瞑想が必要なんてのは風呂に浸かる文化のない欧米だけの話であって、意識低い系が適当にやるくらいなら、風呂でゆっくりしてぼーっとしている方が100倍マシだ。
シャワーだけで済ませるのとはマジでQOLが違ってくるからせめてこれだけはやった方が良い。
野菜ジュースを飲め。意味がないとか言っているのは原理主義者だから気にするな。
俺は生活習慣が乱れると肌が荒れるわかりやすい体質なので「野菜>野菜ジュース>>>>マルチビタミン>野菜摂らない」というのはもう結論が出ている。
この投稿は「日頃から匿名ガーと暴れている人こそ丸山珠代の芸名使用で夫婦別姓を正当化するのは乱暴すぎると問題視すぐべき、そもそもなぜ保守派が本名と芸名を一緒にする野蛮人を叱ろうとしない?」という趣旨です。
「なんで序列化するんだ!!」と感情的になるのがわかりきっているので、すごくわかりやすい部分を先に説明しますね。
いやでしょ、友達のいないオタクが勝手に名乗っているハンドルネームと友達が自然に与えたあだ名が同列だなんて。
二等通称 芸能人であれ作家であれ例えプロになっていなくても芸名管理センターに登録
たとえ売れてない以前にプロデビュー出来ていないだけでは飽き足らず、コミケにサークル参加したことすらない人でも登録さえすればちゃんとした芸名。
一見乱暴に見えますが、十年以上使い続けていたら人間関係ぐらい出来ているものですし、そもそも「しかるべき組織に登録」しているのです。
簡単に年齢と本名がばれるリスクを背負う覚悟がない人に匿名批判をしてほしくいないです。
ちなみに三等と四等は法律レベルでラベリングされるのやらかした後ですわ。
普段はそんな物わからない(本名がキラキラネームの人だっているし)
どうせ「左翼やネトウヨや中二病がが勝手に登録するぞ」とごねるのでしょうが、勝手にやればいいしっていうか、むしろ本当にやらかすバカの名簿が作りやすくなる。
どんなに優れた芸能人であっても、本名は大事。自分の親の姓を護りたいのでしょ? それともリベラルっぽいものを片っ端から要求したいだけ?
これだけ説明しても公文書レベルの夫婦別姓を要求する様な原理主義者とハンドルネームネイティブの悪魔合体が蔓延るかと思う頭が痛くなる。
後、キモオタなのでLINEで本名アレンジっぽい名前を見ると「こいつ、うちの仕事関係なのか? 詐欺師じゃないのか?」と悩みます。
思い出してどうしても書きたくなったので書く。
ベストセラー「十二国記」シリーズのエピソード0なのだけれど、独立して読めるのでこれにした。
この作品に魅了された理由は二つある。一つは、二つの異世界が出会うことで起きる惨劇がSF的に面白いということ。こちらの常識が向こうには全く通じず、逆もまたしかり。ホラーではあるが、コミュニケーション不全の悲しみもある。作中の大量死の原因は、たった一つの誤解が原因なのだ。
もう一つは、主人公の未熟さが残酷なほど明らかになっていくことだ。ある意味、ファンタジーに逃避しようとする読者に喧嘩を売る態度で、後述するが僕は作者に喧嘩を売られるのが好きである。
貧困による家族との別離、恋愛のもつれや政治的立場の相違によってばらばらになっていく幼なじみ、人妻による少年の誘惑、昔の知人との思いがけぬ場所での劇的な再会などなど、個人的に好きな要素が濃密に詰め込まれている。それは安易な娯楽に堕しそうでいて、何とか踏みとどまっている。
カミュの小説では背景に過ぎなかった人々を主役にしているのもいい。「異邦人」のアラブ人はまったくの他者というか、理解できない原理で動く人格を描かれない、あるいはそもそも持たない存在だったように記憶している。
同著者の「カブールの燕たち」も面白かった。イスラーム原理主義者により公衆の面前で恥をかかされたことで、妻は夫を軽蔑し、憎むようになる。タリバン政権下の苛烈な描写は読んでいて苦しく、告発の書としても読めるのだが、同時に、ストーリー自体はオペラのように派手なのだ。わざとだろうか?
壮大な時間と空間の中で行われる追跡劇で、歴史改変やタイムパラドックス、進化の階梯など、テーマのスケールが大きすぎてこの長さでそれをやろうとするのは完全な蛮勇なんだけど、でもたぶん小松左京の作品では一番好き。この作品にはエピローグが二つあり、そのうちの片方は比較的序盤に現れる。失踪していたある登場人物が帰ってくる場面だ。これを、小説の最後まで読んでからもう一度読むと、深いため息が出る。本当に果てしない旅を経て、帰ってきたのだなあと。
扱われた科学技術は古びるかもしれない。未来世界の女性観や社会の描写も今では受け入れられないかもしれない。でも、表現しようとしたテーマは古びていない。SFはいつだって宇宙と時間の果てに手を伸ばそうと愚直なまでの試みなのだ。
冒頭で、パリのどこを歩いていてもお互いに出会ってしまう恋人の話で始まったので、どんなロマンチックな話になるのかな、と期待したのだが、友人が服毒自死未遂したり恋人の赤ちゃんが死んだりしてもひたすらマテ茶や酒で飲んだくれている、こじらせ芸術家(ワナビを含む)たちのお話だった。
しかし、この作品には仕掛けがある。通常の順番通りに読む「第一の書」という方法と、著者に指定された順番で、巻末にまとめられた付録の章を挟みながら読む「第二の書」という方法、この二通りで読めるのだ。第二の書では章の番号が飛び飛びになり、まさに石蹴り遊びのようになる。そこでは第一の書で省かれていたいくつかの事実や、登場人物の秘めた行動原理が明かされる。そればかりか新聞からの脈絡ない切り抜きや、この本の著者と思しき人物の晦渋な文学論を含んだ独白が含まれ、そこでは一貫性を過剰に求め、受動的にしか読もうとしない者が批判される。要するに読者に喧嘩を売ってくるわけだ。
読者に喧嘩を売る芸術が好きだ。なぜなら偉大な作家と同じ土俵に立てた錯覚を持てるから。
「ダフニスとクロエー」並にこっぱずかしいイチャラブもの。誰だって一緒に育ってきた少年少女が迎える性の目覚め的なシチュエーションに萌えてしまう時期があるのだと思う。もっとも、村上春樹作品の場合、一緒に育ってきた幼馴染の男女は不幸な結末を迎えるのが常套なのだけれど。
少年が人妻に誘惑され先に性体験をするというのも、王道でいい気もする。とはいえ、昨今は少女が先に目覚めるパターンも読んでみたいと思うのである。
北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」とか妹尾河童のインド旅行記にしようかとも思ったが、終着地のロンドンについてからのオチが笑えたのでこれにした(興味があったらこの二つも読んでください)。
元々はデリーからロンドンまでバスで行けるかどうかという賭けが旅のきっかけだが、「一人旅の海外は二十六歳くらいがちょうどいい、それよりも若いと経験値が少なすぎて、あまりにもすべてを吸収してしまおうとする」なんて趣旨のくだりがあり、初めての一人旅を読んでそうかもしれないとうなずいた。
少し前の時代の旅行記は面白い。今では身近なフォーやケバブがすごく珍しいものとして書かれているし、天然痘が根絶されていない時代の怖さもある。一方、アフガニスタンもイランが今ほど物騒ではなく書かれており、政変を身近な危険として感じることができる。
それはさておき、ほんと、スマホができて一人旅はずいぶんと楽になった。
強くてかっこいいことや、くじけずに挑むことに背を向けていた自分が気に入った数少ない強い人間の物語。「星の王子様」が気に入った人は、ぜひぜひこちらを読んでほしい。いや、星の王子様が子供向けに感じられた人や、表現が簡潔すぎたり抽象的過ぎたりしていると感じた人にこそ読んでほしい。あの物語の背後にあった、サンテグジュペリの飛行機乗りとしての経験がそこにある。
はるか未来の、中国の影響下にあるロシア。そこでは文豪のクローンに物語を執筆させることで、謎の空色の物質を生成する、錬金術的プロジェクトが稼働していた! この神秘の物質をめぐって繰り広げられる陰謀の周囲には、ロシアの文豪の文体のパロディあり、フルシチョフ×スターリンのイチャラブセックスあり、ナチスと同盟を結んだ並行宇宙のソ連あり。
筒井康隆と高橋源一郎と矢作俊彦を足して三で割らずに、ロシアの権威と文学を暴力とセックスでぶっ飛ばす。ちなみにラストは爆発オチ&ループオチだ。
章が進むごとに使える文字を一つずつ減らしていく趣向で、たとえば最初の章から「あ」の含まれる言葉を使えなくなっている。表現の自由と不自由について体を張って考える作品であり、使えない文字が増えるにつれ、新しい表現を開拓しなければならない。その中で語られる文学論や自伝は、片言だからこそ重い。また、使える文字制限がある中での官能表現も、表現の自由について鋭く問う。
筒井康隆のすごいところは、狂っているように見える文章を書く才能だ。それがなんですごいのかっていうと、正気を失った人をそれらしく演じるのがとても難しいからだ。というのも、精神を病んだ人のなかにも、本人の中では一貫した理屈があり、全くのでたらめではないからだ。また、倫理観の壊れた人間を書くのがめちゃくちゃうまい。かなりグロ耐性のある自分も「問題外科」だけは気持ち悪くて読めなかった。これも、人間の常識についてかなり深く考えないとできないことだ。
ちなみに、ジョルジュ・ペレックの「煙滅」はイ段の文字を一回も使わないで翻訳された小説で、これもただの遊びにとどまらない。語りえないホロコーストという事件をモチーフにしていて、あるべきものが不在なのにそれが何かわからない居心地の悪さをテーマにしている。これが気に入ったらオススメしたい。
ドストエフスキーはヤバいやつだが、トルストイもそれ以上にヤバいやつだ。家庭を顧みずに財産を国に残そうとする狂信者だ。正直、妻や子供たちがかわいそうだ。後期の「光あるうち光の中を歩め」もはっきり言って宗教の勧誘パンフレットであり、読んでいて内容が完全に予想できる。ヤバい新興宗教のパンフレットのほうが何が書いてあるか予想できなくてある意味でまだ興味深い。
しかし、そんな将来そこまで頭の固くなる人間が不倫の話を書いたのだから面白い。確かに、清純な愛を貫くいい子ちゃんなカップルと不倫カップルの対比はわざとらしい。けれども、まじめカップルの愛情の細やかさと、一時の感情に負けた罪のあるカップル、どちらも美しい文章で書かれている。物事は正しくあるべきと考えている人間が、罪を犯してしまう悲しみを描いているのがいい。
これは、プロットを道徳に完全に屈従させてしまう前のトルストイのすばらしさが詰まっている(そういうわけで好きな長篇の順番は年代順に「アンナ・カレーニナ」、「戦争と平和」、「復活」)。
あ、今思い出したけど、ソルジェニーツィンも好きだったんだった。
作品の根底には人間性への諦念が横たわっているのだけれども、初期の頃はそれが明確な暴力となって描かれていた。表現は淡々としているが、殺人や人類滅亡なんてよくある話だった。けれども、このころになるともっと表現が静かになっていった。悟りを開いた、というのとは違う。間違いなく諦念はある。けれども、苦い絶望とはまた別の感情がこもっている気もする。非SF風のものが多いのも面白いので、星新一の芸風に飽きた頃に改めて手に取ってほしい。
今もはてブで延々と関連増田がホットエントリー入りしてるけど、潔癖的というか原理主義的というか差別とか偏見を「あってはならないもの」「あれば即、是正or叩き潰さなければならないもの」って考えてる人が多いのまずいんじゃないかなーと思う。
差別、偏見ってのは本能的なものもあるし無意識下も含めれば誰だって持ってるってのは、まず大前提でしょ。
その上で必要なのは、差別や偏見を自分で認識するまたは相互に指摘しあって、知性や倫理で乗り越えたりコントロールすること。
確信犯的なやつもいるにはいるけど、無意識に自分が持ってる差別観・偏見が表出しただけで、棍棒持ってる人たちが嬉々として集まってきて下手したら人生終わり。
そんな状況おかしいでしょ。(明確な敵意を持って危害を加えるようなのはもちろん別だよ)
差別や偏見は誰でも持ってるんだから、もっとフランクに指摘しあって自分の差別や偏見をきちんと認識して、それとうまく付き合えるように社会全体がなった方が健全だと思うんだよね。
俺が子どもの頃はなぁ、ゲームセンターは言うまでもなく自転車遊びも「外で遊ぶ」の定義に入れてもらえなかったんだ。
だが、2008年に弱虫ペダルが連載開始していらい、自転車遊びがスポーツ扱い。1999年に連載を開始した並木橋通りアオバ自転車店に敬意を示してもらいたいもんだ。
なに? ポケモンGOは叩かれる? しゃらくせぇ、俺はむしろグーグルマップで古本屋GO。バイク禁止の校則を遵守しつつ自転車で無茶をしまくったわい。
本題に入りましょう。大人になると外遊びの定義がドンと変わる。
主に居酒屋。キャバクラ 素敵な女将さんの店 ライブハウス チェーン展開の居酒屋 女の子を連れていけない店の代名詞鳥貴族、そこにすら行かずにアニメとかに金をつぎ込むのは逆にストイックな善人。
私は俗物なので普通に居酒屋にも金を落としますね。パチンコ狂いがポケモンGOを目の仇、実にシュール。
コロナ過のおかげで自称外遊びのグダグダぶりが表沙汰になった。
圧倒的に普通過ぎる若者こそがコロナロスになるでしょうね。オンラインフォビアと手書き原理主義の平常運転を再開する大人の姿を見てますます信用しなくなる。
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乗りで書いたけど意外とつくのね
おなじみのネタだね。ちなみに「位置情報ゲーム」での商標はなくて、「位置ゲー」でコロプラが商標とってる
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全体的に、コナミのIPをどうにか位置ゲーに結びつけたいって感じかな
権利だけで食ってる
でもせめて位置ゲーっぽい回答を期待しちゃった
ごめんね
森元発言の何を責められるんだよこんなの支持して。つくづく狂ってると思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/rkayama/status/1358011210050850817
そんなものはスルーなり優しく指摘して終了でさ、問題は中身だろ。
この程度の間違いがどれだけ当たり前かってさ、例えば日本の事を海外が報じたら名称の前違い、認識の間違い、当たり前にあるんだよ。
自分は日本人だから日本国内の海外報道がどれだけあやふやなものかイマイチわからなくても、その逆も然りなんだろうなくらいは軽く想像するよ。
だから、海外の日本像なんて日本人からしたら中国も韓国も混ざりました、アジア的なやつですみたいないい加減なもんじゃん。
そう言うのいちいち欺瞞だから間違う!なんて指摘するか?その程度で晒し上げられて茶化されるなんて、どこの日本原理主義者だよ。今日日ネトウヨでもやらんだろ。
元ツイは見事に今日日ネトウヨと呼ばれるタイプのお歴々から厳選してるけど、自民党もトランプも中共も許さないって人間だって充分間違えてる人いておかしくないんだよ。
そうじゃねーよネトウヨの愚かさを笑ってるんだよとかマジ黙れ。人を愚弄する事の正当化なんて聞きたかないわ。
ネトウヨと言う言葉を他者をカジュアルに見下すための免罪符にしてるような人間は考え直せ。
なんなら本当に党派性関係なく、こうした間違いは障害特性の可能性もある。
本当何を小馬鹿にしてんだこいつらって思うし、そうした想像の欠如が本当腹立たしい。二度と人権なんて口にするなって思うよ。それこそ普段は弱者救済唱えてる人間達の最悪の欺瞞だろ。
森元総理も何がダメかって想像力の欠如だよ。誰にどう響くかって、問題の根が同じなんだよ。
森元さんに関しては今更老体に鞭打っても仕方ないから引退しろくらいしか言う事ないけどね。
怒るくらいなら自分で書いたらいいのに……って思う。誰でも書けるよ、あそこは。
ジャンルには寄ると思うけど、立項したい記事に対するネットニュース(ちゃんとメディアが出してるやつね)とかのURLを集めておいて、それをもとに記事を作っていってちゃんと出典明記しておけば削除とかはまあいきなりはされないと思うよ。
自分が思ったことを書くだけだとまあルール違反で削除されちゃうけどな。人気があります、流行ってます! じゃあ足りなくて、オリコンチャートで1位だった、とかそういうことよ。記事を見に来た人にもその情報の正確さが伝わるかって話よ。
体裁が分からない? ならまあ他の同ジャンル記事を編集モードにして、その内容をまず全部コピペしてから、新しく作りたい記事の内容に置き換えていけばいいわけよ。置き換え忘れは注意な。人物系の記事は特に体裁整えると何の情報を集める必要があんのかって分かりやすくていいと思う。
記事がない、とかじゃなくても、記事の内容が間違ってる、とかもあると思う。正確な情報の方の出展を用意できれば、それをもとに書き換えちゃえばいいんじゃないかな。
あーでもあれだな、研究的な内容は大抵ノートとかでなんか議論されてるからそっち見たほうがいいと思う。歴史研究とか特にそうだけど、いろんな研究者のいろんな説があるわけで、出典によって記載が違ったりするわけじゃない。そういう場合はまあ揉めて揉めた結果各説を併記したり、一番有力とされているのをメインで扱ったうえで別の説を後ろに記載したり。まあなんかルールはジャンルごとに要参照って感じ。原理主義者みたいのが暴れまわった痕みたいのは見つけると面白いよ、まあ関係ない話だけど。
河口慧海のチベット旅行記がKindleで無料だったので読んでいたら、
ふと慧海の言動や思想が非常に失礼とは思いつつも若干拗らせた同人女ぽく、ついつい同人女の感情を思い出してしまい、
そして連鎖的に、あの話ほとんど仏教エピソードでも似た感じあるんじゃないか、などと思い至ってしまった。
初めての訳経地獄
素晴らしき過疎宗派
空海が悟った日
原作(釈迦)じゃないのに神扱いされて解釈が準公式みたいに崇められまくってるのマジで無理というご意見もなども空海なら満たしてる気がする。
他には仏教でもないけどシー◯派(ム子孫原理主義)と敵対しているスン◯派のサ◯イド(ム子孫)ほど複雑な心境の方々はおるまい、と思ってしまう(厳格なム◯リムの方には怒られてしまいそうだが……)
■リベラルってなんなんだ
トランプを支持しないからリベラルと定義されるわけではなく、リベラルのスタンスだとトランプを支持できないという思考結果が導かれるからこそリベラルなのだろう
辞書的な意味?歴史的経緯から導き出された原理主義的スタンス?のリベラルって世間一般的な意味でのリベラルってひょっとして意味合いが違うのでは、となんとなく疑っている
キリスト教徒や仏教徒あらゆる宗教の徒の大半が教義や戒律を守らず平然としているのに、
なぜ菜食主義のバリエーションに過ぎないヴィーガンだけがラジカルな原理主義を要求されなければならないのか。
ヴィーガンの身内にいわれるならまだしも反ヴィーガンがヴィーガンに対して厳格で完全なヴィーガニズムを要求する資格がいったいどこにあるというのか。
ヴィーガンには聖典も教会もないのだ。各人のスタイルになんら文句を言われる筋合いなどない。
べつに1日限定のヴィーガンだっていていいんだよ。いつやめたっていつ再開したって。