はてなキーワード: さいころとは
世襲小規模企業の副社長やってて、親が75歳で社長やってるけど、
なんのために働いてるのかわからない。
親が現役バリバリで働いてるならまだいいが、75歳にそんなことは望めるはずもなく。
年収800万で50人の社員の生活を背負い、2人分の仕事量とプレッシャーに押しつぶされながら休日出勤当たり前で一日14時間働く。
その一方で親は毎日暇を潰しに出社し、牛丼食ってヤッホーニュース見て重役出勤重役退勤。年収1500万+会社から不動産賃料700万(←これは別に文句ないけど)。
「俺ももう引退するから、これからはお前の時代だよ。」って親が言い出してからもうすぐ5年かな。
従業員をもう一人雇ったら赤字転落する程度のクソ会社なんだけど、そこんとこわかってるのかな。
小さいころから親の顔色ばかりうかがって生きてきたけど、50近くになっても変わらない自分が情けない。
俺が倒れるのが先か、親が死ぬのが先か、
「自己肯定感低い人あるある」っていうのTwitterでたまにRTされたりするが、それをみて「人の目を気にしたりして大変だな」と思っていた。
つまり僕は自分のことをそれほど自己肯定感が低くない、むしろ高いと思っていた。
でも最近もしかしたら実は結構低いかもしれないと気づき始めてきた。
『ぼっちざろっく』流行ってますよね。主人公のぼっちちゃんはギターが上手いのに、実力に自信を持ちつつも、他人の評価を気にしていて、目の前の観客も怖がっていた。それでぼっちちゃんが「本当の敵は目の前の観客じゃない。観客は自分を求めているんだ」ということに気づき、一歩踏み出せた演奏ができた。
そんな成長エピソードがあるわけだ。
僕もその自分に自信を持ちつつも、人が怖いというのはわかるという気持ちになったが、むしろそれは普通のことだと思った。自己肯定感が低い人は自信もないものかと思っていたので。
例えば僕がぼっちちゃんだったとして、ギターが上手いとしたら(別に僕自身はひけるわけではないが)、まずYoutubeに上げることがなかなか難しい。上手い人が出てきて、この演奏がダメだとかいわれるかもしれないし、ギターのことを全然わかっていない素人でも「プロの〇〇さんより全然下手ですねー」みたいなことを言われたりしたら立ち上がれなくなりそうなので、まず人に見せることはできない。
家族や友人でも無理だ。
きっとギターとかバンドとかやっていて、理解してくれる人ではないと見せられないだろうなと思う。
そして、そんなに悪意ある言葉を言う人って実は少ないとは思うけれども、でも社会は悪意に満ちているとどこかで思っている。
小学校の頃、信号のない横断歩道を渡るのが怖かった。車が減速することなく、むしろわざと加速して突っ込んでくるとおもったから。
免許証取りたてのころ、車線変更が怖かった。後方の車がわざと加速してぶつかってくると思ったから。
中学の頃学校が怖かった。教師が私生活を縛り付けようと宿題を多く出そうとすると思ったから。
大学の頃教授が怖かった。重箱の隅を突っついて単位をくれずに留年させるんじゃないかと思ったから。
学生の頃、就職が怖かった。私生活や趣味は悪で起きている時間をすべて労働に捧げるようにわざと上司が仕事を振ると思っていたから。
新入社員のころ、彼女がいることを会社にバレるのが怖かった。結婚など守るべきものがあると分かったとたんに逃げ場のない重労働部署に飛ばされるかと思ったから。
結婚したころ、町内会が怖かった。家庭への不当な干渉をするんじゃないかとおおもったから。
20代後半ともなれば、だんたんその不安は杞憂だったとわかるわけだが、生まれてからずっと他者が悪意を持っているとずっと思っていた。(そして今でもほんのりそれは思っている)
悪意は上司、先輩、社会、国家など権威あるものから不条理に降り注ぐと思っていた。
だからそれから身を守るために、大学にいったり、論理学を学び屁理屈で言いくるめようとしてくる人からの自衛をみにつけたり、歴史や外国語を学びちょっと頭がいい風を装ったりした。
まあこの文章を見て分かる通り、そんなに学が身についているわけではない。
僕がいわゆる『理解ある彼氏くん』枠で結婚したのも、妻が権威ある悪意から遠い弱い存在だったからかもしれない。
ただ妻は弱い人間ではなかった。苦手なことはあるが、それを打開するためにいろいろ挑戦している人だった。
悲しいとか辛いとか悔しいとかではなく、涙が止まらなかった。
だが不可能だった。子どもがいるにもかかわらず、涙が止まらなかった。正直混乱した。
僕は相手から言質を取られないように遠回りに外堀を埋めてから話す癖があり、それは人によっては不快な思いをさせてしまう悪い癖だと思う。
夫婦喧嘩で〇〇を言った言わなかったから、過去の違う話まで掘り起こされて喧嘩がエスカレートすることもあるので、僕は議題を棚卸して何について話しているのかと責任の境界を決めたがる。
それは共感とは遠く、冷たい印象を与えることになるというのは僕は理解している。
だがそれは今回のこととはまた別なんだ
ただその冷たい印象を与えている僕に対するカウンターとして妻が言い放った「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という言葉を聞いて、いままのでの喧嘩の内容なんか吹き飛んで、ただ泣くことしかできなかった。
僕のクソ小さな自尊心は「中堅よりは上だけれどもハイレベルというわけではない」と言いたいが、世間ではそれほどでもないとは思われているだろう。
だが、妻は大学には行っていないので、大学に行く人というのは基礎能力が高いという素朴な期待を持っているようだ。
で、なんであの言葉で僕は泣いたのか。
あの言葉を受けた時、僕の脳内では幼いころの情景がフラッシュバックしてきた。
祖母が「あなたのお父さんはとても頭がいいから。あなたも頭が良いんだよ。おじいちゃんは〇〇賞もとったからあなたもすごいんだよ」とずっと言ってきて僕はそれが誇りだった。
クラスでは物知りで通っていたし、小学生ながら月刊ニュートンを読んでいたのはちょっとしたドヤれるポイントでもあった。
実際父はすごかったらしい。らしいというのは小学生に上がる前に亡くなったからよく知らない。
ただ僕が逆立ちしても入れないような大学にそれほど勉強せずに入ったそうだ。
高校時代にその研究をしたいがために当時の有名な教授がいる東京ではないがトップレベルの国立大に入るように勉強していたが下宿代が当時のうちの家計では出せなかったようで、都内のそれでもハイレベルな有名大学にはいった。(今にして思えば子離れできていない祖母が渋ったのではないかとも思うが、)
都内のハイレベル私大にはその国立大の先生と同じくらいにその分野で有名な人らしく、それで進学先を決めたようだ。3年の夏まで必死に勉強していたが、私大に進路を変えたのでそれからは遊んで暮らしたそうだが、ちゃんと合格したそうだ。結構な浪人生があこがれる私大だっつーのにね。
そして父は研究者になった。んだが、今の僕の年齢よりもずっと若い時分に死んだ。平成をたった数日しか生きられなかった。おそらく今も生きていたら教授とかになってたんだろうなとは思う。実際同僚の人はその大学で教授をやっているらしく、何回かテレビに出た時に母が父の友人だと教えてくれた。
祖父は自分の生業の分野でナントカ賞をとって有名な人とかと写真うつったりしていた。
そんなこんなでその嫡流の僕は変な期待と受けていた。父が若くして死んだこともあるのかもしれない。
人の偉業で褒められる。小さい頃は良かったが、ちょっと分別がつく頃には結構キツイものがある。僕がやったわけではないし、僕が今やっていることは何も評価されていないのだから。
母はそんな環境が嫌だったからかもしれない。だから引っ越したんだろう。
女手一つで僕と妹を育てた。とはいっても母も実家が太い系なので相当恵まれて育った。
母は大学を言っていない。研究者と事務の人という出会いで結婚したそうだ。
だから正直学がないというか、僕の勉強に対して口を出すことに自信がなかったんだと思う。だから僕の好きな分野、科学のことの話し相手になってくれなかったし、成果を評価してくれることもなかった。ただ「難しくてわからない」というだけだった。
僕は生まれてことこのかた賞状をもらったことがない。妹は絵画コンクールで、英語スピーチコンクールで、そして学校で選抜された海外派遣なんたらで数多くの栄誉を持っている。
僕は何ももらっていない。歯が綺麗で賞はもらった。絵もうまくない。楽器も弾けない。英語もできない。文章も書けない。ゲームもうまくないし、話もうまくない。モテない。バイト先ではいじられキャラだった。いじってほしくはなかったがただ「要領がわるい」ということでいじられキャラになった。
そう要領がわるいんだ。
妻は大学には行っていないが、絵が上手い。工作が上手い。それを作って売れるほどうまい。創作ができる。
「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という妻が放った言葉で、これらの過去のこと家族のこと妻のこと今のことすべてが分かってしまった。
頭がいいわけないということを分かるのが怖かった。
僕は何者でもないといわれるのが非常に怖かった。僕のアイデンティティは「すごい祖父、すごい父から生まれた、すごい子」であり、それが解体されるというのが辛かった。でも僕が縋れるのはその祖父と祖母が言っていたそれしかなかった。
凡人であることを誤魔化すべく、頭でっかちな知識と、頭がいい風を装っていた。バイト先でいじられても「でもあいつらより偏差値高いし」って思って意識を保っていた。
自分がただ怖がっているだけなのに、相手が悪いことをしようとしていると思って、目上の人や教師や社会が不条理に僕に何かを強いると思っていた。
悪意が逆転していた。自分が向けていた敵意を僕は被害者意識を持っていただけだった。
根拠のない自信をもつことはある意味必要だと思うが、僕の場合はその程度が強すぎたのかもしれない。
自信があることで身を守れると無意識で感じていて、自分に自信があると思い込ませていた。
妻に出会うまでは恋が多かった。
だが、モテなかった。
自分から行くタイプではない。ただ悶々と彼女が欲しいとずっと思っているような人だった。
今思えばただ自分を認めてくれる人が欲しかっただけかもしれない。
人の話を聞いてみるとそんなに好きな人が何人もずっといるというのは珍しいというのが分かった。
ティーンの頃の僕は恋に恋をしているに近かったが、自信があれば自律できていて、自分を肯定(好いて)してくれる人を必要以上に求めることもなかったのかもしれない。
僕はうちの子供には子供自身のことで褒めるように、そしてちゃんと成果をみて、子供興味あることをちゃんと調べて対等に接するようにしようと思う。
幸い子供にマウントを取るようなことはしなかった(とは思う。自分の中ではないと思う。わからない。不安だけど)
うちの子は昆虫とか生物とかいろんなことを僕に教えてくれるし、僕も飼育について聞いたりしている。
それでも人は怖い。
能無しとも思われたくないし、趣味に口も出されたくない。
でも実は友人が欲しい。
そんなこんなで引っ込み思案なまま大きくなってしまった。
ぼっちちゃんみたいに何か自己表現でもしたらまた何か変われるかもしれないな。
『理解ある彼氏くん枠』で結婚したということを話したが、つまり妻はある精神的なハンディキャップを背負っているので僕がいろいろサポートしているところがある。
ただ僕はいろいろ限界が来て喧嘩してしまうことも多々あるけれど、それでも日々は平和だ。
つきあっていたころのままの関係性が続いているし、手をつないだり、二人で出かけたり、一緒に遊んだりすることもあの頃のままだ。
だが、妻は僕に守ってほしいという気持ちが強く、僕が弱いところを見せてほしくないと思っているところがある。
僕があの日泣いたとき、なぜか怒られた。「泣いたら私が悪者じゃない!!」って
僕はさすがに謝罪した。「さっきの喧嘩の流れとは別の件でないている。あの話とは別なんだ。個人的な理由で泣いているだけなんだ。(まだ自分でもなんで泣いているのかもわからないので)なんかわからないけれど心の柔らかい場所が反応したような感じがして」とまあそんな感じで伝えたんだけれども
妻は毒親サバイバーでもある。だから過去の辛い話などを聴くこともあるし、その段階で妻が泣き出すこともあるので、そういう時は抱きしめたりして、そうすると落ち着いて、妻はそういう関係が好きらしい。
実は僕もそうしてもらいたいと思っているが、逆の立場にはしてくれないようだ。
僕も誰かに依存したいが、僕は生涯の伴侶は妻だけだし、妻以外に心を開くのはどこか浮気のように感じてしまい、正直無理だ。
そんな行き場のないこの気持ちを吐き出せるところはどこにもなく、
トイレの便器にはなしても/dev/nullに投げ出しても、どうしようもないので、ネットに放流して誰かに読まれることで慰めることにしよう。
皆、読んでくれてありがとうございます。
深夜のテンションで書いたものがホッテントリに上がっててびっくりしていたのと、
そしてまた悪い癖でこの世に悪意しかないとおもっていて、「絶対炎上している」「きっと、『お前は恵まれている癖に何いっちょ前に気取った悩み装ってるんだよ』みたいなコメントがたくさんあるんだ」と思って開くことができませんでした。
でも100件以上ついたら、気になって仕方ないので思い切って開いてみたら、なんとまあ善意ある方が多いこと。
常に80%の人間は保身・保守で自己利益だけを考え、20%の人間の生産性に寄り掛かる、というパレートの法則の学説がある。大企業においてはそれが顕著である。
しかし、大企業に入って取締役になって活躍できるのは0.xx%であり、他の99.xx%の人間は、護送船団という名の鎖でつながれた船に乗り、ジョブローテの餌食になって人生を終える。
これは人間の能力の発揮、という点では完全に飼いころしであり人権侵害であると思う。
また、実能力上でのスポイラー機能のみならず、「大企業に入ったほうが人生は安泰だ」という錯覚を覚えさせるのも罪が重いと思う。
これは大樹に寄り掛かって安定・一定ペースで人生を進めることがあたかも人生の成功のように感じさせるが、しかしこれは完全に錯覚である。
自分の能力をスポイルし、社会通念上の「最大公約数」的なルートをなぞっているにすぎない。
なぜそれが人権侵害なのか?
誰しも小さいころ、絵がうまかったり数学ができたりスポーツができたりしただろう。
それらは誰も追いつけないレベルとして与えられた才能なのである。
なので、それらを諦め、生来の能力の20%しか使わず死んでいく大企業の正社員は、人生という大枠で見たときに、人権侵害の大きな被害者なのである。
もちろん、その中でトップを目指し達成する人は別であるが、99%は実現できない。
そして出世も諦め、ほどほどで成長を停止し、社内で「ほどよく居心地のいい場所」を見つけ、適当に人間関係で右往左往して引退し、年金をもらってロスタイムを消費して終わる。
金はあンだわ。使い道がねンだわ。
実家は金がある。親ガチャに大成功した俺の努力のたまものだな。
そんで、幼いころから順当に塾通いと私立のエスカレーターを踏みしめて年収のいい企業に入ったわけだが。
金の使い道がない。
上級の家に生まれたのに、小さいころから2ちゃんねるを見て育ってたせいで、思考が完全にねらーのそれになってしまっている。
しいていうならエロゲーとか、二次萌え系の文化が好きなんだけど、エロゲなんて月に10万も使えばいいほうだし、
なんだったら特典買いで同じソフト買っても中古で売るから金が戻って来る。
コミケも好き放題薄い本や抱き枕を買っても50万程度しか使わん。年2回。
つまり、俺の人生はコミケ用の100万とエロゲや他の趣味で150万くらい、合計250万くらいあれば満たされてしまう。
家も車も、なんか親が買っちゃったからいらんし、別に買ってくれなくても賃貸や電車で良いんじゃねレベルで興味ない。
嫁も普通に働いていて、俺と同じくらい稼いでて、子供への課金額は月に30万もいかないから全然余裕だし。
ていうか、嫁の親が孫の学費を大学分まで喜んで出してくれるそうなので、なんか多分大丈夫だろって感じ。
子供が健全に育つことにもあまり興味がない。好きなことして生きて好きに死んでいけばいい。金は別に出すし。
そういう感じで、投資して金を増やしても使い道がないんだよね。
そんで、マジで俺は三食マックとか牛丼でいいし、「10万円以上のもの」を自分で買ったことないから、それが自分が金を貯めて買う対象、ってイメージがない。
エロゲしか買うものがない。アニメ音楽はサブスクで、一般ゲームはそんなやらんし。漫画も毎日解放されるアプリで読んでっから、ぶっちゃけタダみたいなもんだし。
みんな金貯めて何に使うつもりなの?
小さいころからロボットになれ、卑怯な人間になれと言われてきたのだから、その思想から逃げることはできない
それは親と教祖から飲まされた毒物であり、自分で浄化するには相当な努力が必要だからである
被害総額は50万ほど。
詐欺師としては小物で、大した額じゃない。
いや、違う。僕たちのお金だ。
男は急に僕の家を訪ねてきて、急にお金が必要になったからこの時計を買い取ってほしいと言ってきた。
そのときの僕はどうかしていたのかもしれない。
でも、本当に高そうな時計に見えたのだ。
悪気はなかったんだ。100万以上する時計なんだから、売ってすぐ返せばいい。というか10万円を財布に戻しておけばいい。残りは貯金する。生活費のために。
男が去って行った後、僕はすぐに時計の価値を調べた。偽者だった。1万もしなかった。
父さんは入院してる。母さんは出て行った。連絡はない。だから、僕の家には僕と姉さんしかない。
そして、姉さんが働いている。
お風呂屋さんで。
僕はもう、それを知らない年齢ではなくなっていた。
姉さんは時計の件で僕にとても怒ったが、お金を欲しがる理由を話したら姉さんは許してくれた。
姉さんが、少しでも働かなくて済むように。
詐欺師はすぐに捕まった。
詐欺師が来ると、男の顔を見てすぐにピンと来たそうだ。
男はそこで捕まった。警察が来るまでにはたっぷり時間の余裕があったから。
この事件が新聞に載ったかは分からない。新聞は取っていないから。
姉さんは笑って言った。間抜けな奴だったよと。
僕は悔しかった。本当は涙を流すにしても、隠れて流すつもりだった。
でも姉さんのその笑顔を見て、僕は不覚にもその場で泣いてしまった。
姉さんは言った。
「騙された10万を、私が直接取り返したようなものだからいいじゃない」と。
それを聞いても僕は納得できなかった。でもなんていい返していいのかも分からず、僕は声を殺して泣き続けた。
泣き続ける僕に姉さんは寄り添い、優しい言葉をかけてくれた。
僕は申し訳なかった。僕は、姉さんが好きであそこで働いているわけじゃないことを知っていた。
僕は顔を上げて姉さんの顔を見た。
姉さんの目は、釣り上げられた魚のような目をしていた
「死んだ魚みたいな目をしてるね」
こう言われて、いい気分の人はいないはずだ。
覇気がない。生気がない。やる気が感じられない。何事にも絶望しているような目。
小さいころに僕はたずねたのだと思う。父に。でもなんて答えをもらったかは覚えていない。
でも知ってる。
釣り上げられた魚は、決して死のうなんて思ってないことを。
必死で、もがいて、あがいて、生きようとする目だ。
でも、僕にとって釣り上げられた魚の目は、生きようとする意志が感じられる目だ。
だからこそ僕は怖かった。
姉さんが変わってしまうんじゃないかって思いが、いつも心のどこかにあって、それをひしひしと感じていたから。
僕は姉さんの部屋をノックした。反応がないから僕はドアを開けた。姉さんは窓辺に立っていて、新緑色のカーテンを隅に寄せて外を見ていた。
僕の位置からでも見えた。聞こえた。打ち上げ花火の閃光が。轟く花火の爆音が。
僕は姉さんの部屋に足を踏み入れて、姉さんの隣で花火を観賞しようと思って足を進めた。
でも僕の足は窓辺へとたどり着く前に止まった。
姉さんの様子がおかしかったからだ。僕は立ち尽くす姉さんの隣に、そっと近付いた。
姉さんは泣いていた。声も出さず、僕の耳に入るのは打ち上げ花火の音ばかりで、姉さんの泣き声はこんなに近くにいるのに決して聞こえなかった。
僕はそれに気付きながらも姉さんの顔を見ずに、窓の外に目を向けた。
目を見るのが怖かった。もし姉さんの目が変わってしまっていたら。僕はどうしていいのか分からなかった。
花火はとても綺麗で華やかで、打ち上げられるごとに歓声が上がるのが聞こえてきそうだった。
本当は分かってる。分かっていでも疑問にすることで体裁を保とうというのかもしれない。
でも、違うだろうか?
釣り上げられた魚と、打ち上げられた花火はそんなに違うものだろうか?
僕は思い切って姉さんの顔を見た。
姉さんの横顔は綺麗で可憐で、頬には涙がまだ流れていた。
「…姉さん」
僕の声に、姉さんはゆっくり反応して僕のほうを見る。
僕は姉さんにキスをした。
姉さんは驚いて目を見開き、すぐに口を離してきた。
僕の目を見つめ、目を逸らす。そして俯いた。
僕は謝ろうと声を掛けた。
「姉さん、ごめ――」
省略されました。全てを読むにはわっふるわっふると書き込んでください。
小さいころ母親がエホバの証人とかアムウェイとかいろいろやってたのなんだったんだろうなあ
食事の前に手を組んでなんか言わされてたのを覚えてるけどなんかいつのまにかやらなくなったし集会も行かなくなってたな…
小学校上がる前にはもうやってなかった気がする…と思って聞いてみたらエホバの証人輸血事件があったころにやめてたみたい。
私が3歳ぐらいのときにでかい手術して輸血も普通にしてもらっていま生きてるのに輸血拒否とかあほらし、と思ってやめたらしいんだけどニュースで輸血拒否事件が報道されるまでエホバの証人は輸血がダメなんて知らなかったそうだ。
ネットの広告で化粧品買っちゃうし明らかに日本語がおかしいスパムメール見て「これって偽物だよね?」ってわざわざ聞いて来たりするし騙されやすいんだろうか。
今現在不登校に悩んでいる中学、高校生の中にも死んでしまいたいと思って日々の時間が過ぎていくのをただ待っているだけの生活を送っている人がいるかもしれないけれど。地獄のような生活から逃げ出したい一心で自殺を考えている人には、少しだけでも楽しいと思えることができる日が来るのを待っていてほしい。どうか自殺へと行動を移さずに、今も流れ続ける時間を忘れられる方法で一日を過ごしてほしい。
そんな思いで書いています。
成人して数年、久しぶりに一本の煙草を吸ったらいろいろな記憶が蘇った。あの頃までは元気になんでもできるような気がしていたのに、ある時をきっかけに学校へも通えなくなった。
時を遡ると、高校に入学した15歳のころ。ある程度の学力がある人々が集まっていた高校なのに、私のクラスではいじめがあった。被害者はNくんとしておこう。Nくんは比較的活発なグループからまずいじめられはじめ、もともと彼が仲良くしていたおとなしめのグループからもいじめられるようになった。彼がいじめられる姿を見て、情けない姿を皆が嘲笑うようになった。私はそこに存在するただの傍観者だった。
時々、私は彼と帰った。Nくんは太鼓の達人が大好きで、放課後のゲームセンターで上手なプレイを見せてくれた。彼は確かに挙動不審なことが多かったが、それでもいじめられる理由にはならないはずだった。私はその中で、彼がいじめられ続け精神的に追い込まれ部活も行けなくなったこと。勉強も手につかなくなったことを知った。それでも私は彼とたまに帰宅する程度の仲を保っていた。
このころ、母が国指定の難病に罹患してしまった。そして私は最低の行為をしてしまった。うつ病の薬のこともあり記憶にもやがかかっているが、自分が最低のことを母にしてしまったことは覚えている。
体調を崩し脱衣所で四つん這いになったままの母に、私は「何してるの? 大丈夫?」という声をかけながら、心の中では私だって忙しいしつらいのになんで家事をしてくれないんだろうと母を責めた。もちろんそれは口に出さなかったが、それと同じくらい非道な言葉を母に投げかけた。
「体調が悪いふり?」なんて、今考えるとどうしてそんなことを言ってしまったのかわからないほどの言葉を投げかけたのだ。当時私は母が何に苦しんでいるのかつゆ知らず、難病のことも知らされておらず気を許せる友達もいない戦場のような高校に必死に通っていた。
母はまもなく入院となり、それが信じられなかったのかもしれない父は私には何も教えなかった。家庭から笑顔は消え、父は仕事、私は学校へ通い夜は二人で家事をするという無機質な日々だけが続いた。
母が数か月後家に帰ってきたとき、彼女は骨と皮だけのような姿になっており、帰ってきて階段を上がりきった途端にリストカットするような素振りで「死にたい」と何度もつぶやいていた。私は綺麗だった母が幽霊のようになってしまったこと、悲壮感に溢れた声にもならない声で言ったことに大きなショックを受けたことは覚えている。
数か月後、母は元気になった。朝に起きられるようになり、私の朝ごはんを作ってくれるようになるまで元気になった。抜け落ちていた髪も、青々と茂る夏の木々のように生えそろった。
朝ごはんを食べ終わり、自室に鞄を取りに戻って登校しようとしたある日、私は階段を下りながら涙を流してしまった。すすり泣く私を母が見つけ、その日は学校を休んだ。思えば、この日が私の不登校と出不精のはじまりになってしまった。今思うと、知らぬ間に心にダメージを負っていたのだと思う。
この数か月前から、授業を聴いていても何も頭に入らず、自分がひどく落ちこぼれたような気がして意気消沈していたのを覚えている。数学のテストでは一桁の点数を取り、頭の良い生徒ばかりの高校ではあり得ないほどの点数を取った私は、周囲から馬鹿にされた。盗み見られたその点数を見て。Nくんをいじめていた悪魔から「あたまわっるいね、馬鹿になっちゃった?」と言われたことを、今日煙草を吸いながら思い出した。
体調が悪いと言って登校しなかったその日から、私は完全に学校に行きたくなくなった。もうすぐ高校二年生になるころだったのに、私は自宅でうつろに日々を過ごすのみだった。このあたりの記憶は防衛反応によるものなのかほとんど残っていない。覚えているのは、今でも大好きな昔の映画を観たり、小さいころに観ていたポケモンのアニメを見ながら昔は良かったなと思いを馳せていたことくらいだ。まるで老人のようなその生活を見た母は、私を精神科へと連れて行った。そこでひとまず一種類の薬を飲むようになり、だんだんと種類が増えていったあたりから私は昼過ぎまで起き上がれなくなった。
こうして”立派”な不登校になった私は、デ・ニーロのグッドフェローズやダニー・ボイルの(ユアン・マクレガーの名前を出したほうが分かる人が多いかもしれない)トレインスポッティングを観たり、破滅的な思考をなんとか創作の中で味わい続け、自殺を耐えていた。
詳しいことは知らないが、3年生に上がるころ担任から「3年生になると2年生のころのように不登校のままだと卒業ができなくなってしまう」ことを告げられ、私は仕方なく登校を再開した。
正直2年生のころも同じようなことを言われて、もうどうせ進級もできなくて中卒不登校のひきこもりになってしまう未来しか見えていなかった私は、4月から懸命に学校に通った。死にたいことを何度もほのめかす私を。父と母は応援してくれた。父は通勤用の車を私のために家に残し、毎日40分近く自転車を漕いで通勤していた。母は私を学校と自宅まで送迎してくれた。毎日だ。
途中、休むときもあったが基本的には登校ができていた。Nくんへのいじめが常態化していたクラスにいたことで脳にダメージがいっていたのか、相変わらず記憶が思うようにいかず勉強はさっぱりできなくなってしまっていた。1学期、定期テストではひどい点数を取り、受験どころか卒業が危ぶまれた。担任から何とかならないかと言われたけれど、何とかなんてならないことは私が一番分かっていた。
あのころどうしていたのかは分からないけれど、2学期からは死に物狂いで勉強をし、数学では及第点、1学期で0点に近かった世界史のテストでは90数点を取った。とりあえず3学期もまた90点ほど取れれば卒業はできるだろうと考えて、3学期も同じくらいの点数を取った。記憶がうまくできなかったので、本当に反復の反復、さらに反復のような状態だった。(今では治った)
大学ももともと目指していた高偏差値のところなんて行けるはずもなく、必死に受けたセンター試験を利用してそこそこの大学に入った。幸い、高校に入学するまでに相当勉強していたのでほとんど勉強しなくても9割近く3教科は取れたのだ。それでも自分にとってはショックで、大学に入っても落ちこぼれた印象はずっとついて回った。
心を入れ替え大学に通い始めたけれど、不登校の癖がついてしまっていて社会的生活に恐怖を感じていた私は、数か月で電車通学が苦しすぎて中途退学してしまった。
今、その大学に入りなおしてそろそろ卒業を迎える。内定も得て、自分のやりたかった職業にチャレンジできる未来が見えている。
それでも、いじめを見て疑心暗鬼になっていたことの私の時間は帰ってこない。電車に乗って高校生を見ると、あのころ違う高校に通っていればあんな思いもせずに記憶障害のようなものに悩まされることもなかったのかもしれない、と思ってしまって稀に目に涙が浮かんでしまう。
それでも時は流れ、日々は続いていく。あの頃は帰ってこないし、私ももう20台中盤だ。物事に折り合いをつけられるようになり、バイトまでできるようになった。他人と話すのが怖かったくらいだったのに、今ではコミュニケーション能力も高いよね、と年齢が上の方々からも言っていただけるようになった。(バイトを通して苦手だったコミュニケーションを何度も何度も練習するつもりで磨いた)
今、どうしようもなく不安になってこの日記を書いてしまったが、最近はうつ病のような症状も収まりひきこもる頻度も減った。それでも時折、元気がなくなると数日ひきこもってしまう。大学生活だってストレートにはいかなかった。体調を崩しひきこもった瞬間もあった。
それでも父と母は私を理解してくれ、応援してくれた。父に関しては昭和の男だから鉄拳制裁を喰らって殴り合いのけんかになってしまったこともあるけれど、いつの日かを境にうつ病を抱えている私を理解してくれるようになった。遊びに誘ってくれたり、断っても体調が悪いなら仕方ないと理解してくれるようになった。
うつ病の薬を断って、大学でのストレスからやせ体形だったはずなのに食にストレスをぶつけてしまって今では30㎏ほど増えてしまったし、今の体形の自分は嫌いだけれどそれでも毎日を楽しくは過ごせている。だからこそ、今不登校に悩んでいたり死んでしまいたいと思っている中、高校生や学生の同じくらいの年齢の方々に伝えたい。
どうか諦めずに、つらい今は好きなことをして時間が経つのを待ってみてほしい。
男だから泣くんじゃない、女だからはしたないことなんてするななんて声は無視してしまえ。男だって泣いていいし、女だって冒険をしてもいい。
ワイ、一応社長の息子なんだよね。
故じいちゃんが起業して、父親が社長やってて、ワイは副社長やってる。
パパももうやる気なくてもうすぐ引退するからワイが社長になるんだけど、
借金がないだけマシだけど、従業員は50人もいないし、利益なんて1000万にやっと届くくらいよ。
パパには悪いけど、会社の資料見れば見るほど、うちはへぼい会社だなぁって思うよね。
そんでうちの業種にも業界団体というのはもちろんあり、
そこで若手経営者や次代の経営者の集まりみたいなのもたくさんあるんだけど、
そこでほんと格差感じるのよね。
もちろん中小零細の集まりに顔出してくる程度だから、世間一般に知られてる一流企業と比べたらみんなアリみたいなもんなんだけど、
会社のWebサイト見ると、従業員500人、利益は知らんけど、事業規模はうちの20倍ぐらいありそうだなって会社の社長の息子が来るのよね。
そんで「最近仕事どう?」みたいな話すると、「最近はゴルフ楽しい~」ですよ。
まあ彼には彼なりの苦労ももちろんあるんだろうけどさぁ。
あんだけ会社でかくてたくさんの立派な不動産持ってたら、俺みたいに社内のあれもこれもボロボロだーって悩みは少ないんだろうなぁ。
役員報酬もたくさんもらってるんだろうなぁ。きちんと整備された社内ルールがあるんだろうなぁ。
人雇う金が惜しくて、自分で労働者一人分の仕事抱えちゃったりはしないんだろうなぁ。って。
やっぱり羨ましくなってしまう。
小さいころから「お坊ちゃんだもんね(笑)」って何かにつけて馬鹿にされてきたよね。
あ~、金持ちになりたい。