はてなキーワード: 自炊とは
人生初バイトで遅刻した。寝坊だ。パチンコ店の開店前清掃のバイトの面接で受かった木曜日、同期と飲んでいたら3時になった。6時40分集合だからそのまま行けばいいやと思っていたら案の定寝た。大学2年、二十歳になってこれである。
朝は電話で目覚めた。面接担当だったおじさんの声で飛び起きる。
階段を駆け下りる途中、足を踏み外して転がり腰を強打した。スマホが飛んで画面が割れた。
自転車でクソ飛ばす。寝ぼけマナコで何となく謝り、言われるがままに動いていたらバイト初日は終了した。誰も俺のことを叱らなかった。おじさんもおばさんも優しかった。いや、おばさんは不機嫌だったな。でもめちゃくちゃに怒られると思っていた俺は拍子抜けしてしまった。
めちゃくちゃ怒られる想定で敢えて楽観的にスルーしようと身構えていたから調子が狂い、結果的にはあり得ないようなポジティブ野郎になった。帰り道は鼻歌交じりだったし、「大したミスじゃなかったのでは?」と思い始めた。
しかし時間が経つにつれ、バイト初日に遅刻したことに焦ってない自分が急に怖くなった。言っておくがバイト初日に遅刻するのは相当なやらかしだ。飲み会やらtwitterやらでは過去の武勇伝ややらかした報告としてこの程度のことは耳にはする。しかしまさか自分がそんな人間になっているとは思わなかった。
自分で言ってしまうが俺は小中高と成績は上の方だったし、面白くはないけど真面目な奴としてのポジションを得てきた。俺はバイト初日に遅刻する奴らを笑ってるはずではなかったのか?「世の中には大事な場面で時間すら守れない、こんなに終わってる奴らもいるんだなあ」と他人事として聞き流してたんじゃなかったのか?いつから俺は「そっち側」になってしまったんだ?
もう一度言うが、バイト初日に遅刻したエピソードなどありふれていてクソつまらんと自分でも思う。陳腐すぎて武勇伝ややらかしエピソードとして語れるわけがない。俺が言いたいのは「自分が巷にあふれる終わってる人間」になってしまった恐怖と悲しみだ。俺はバイト初日に遅刻するような奴を一生他人事として笑ってる側だと思ってた。自分はそうはならないだろと無意識に無条件にタカをくくっていた。絶対に「そっち側」にはなりたくなかったし、なるはずがないと思ってた。
これは堪えた。キツかった。でもよく思い返せば、どこかで何かやらかしそうなダラダラした毎日を送っていた。大学2年までバイトもせず勉強もせずにtwitterばかり開いて昼夜逆転してたのがその証左だ。俺はここで自堕落な今の生活を全力で立て直すことを決意した。時間は守る。自炊する。授業は寝ないで受ける。ここで譲ってしまったら「そっち側」から帰ってこられないような気がする。「そっち側」に行くのは簡単でも戻ってくるのは難儀だろうし、ここが分水嶺ではないかと思って一念発起する。
当方男。大学時代の友人で、彼が地元に帰ってしまったためそれ以来、ずっとメル友な友人がいる。(かつては本当にメールだった。今や、lineばっかりだけど。
彼が最近、飯の写真ばっかり送ってくる。自炊した料理だったり、近所の街中華で撮った写真だったり。
悪いけどそれ、1ミリも興味ないんだわ。もう、送ってこないでくんないかな?もしくは、ついったーでやれ。または、家族に送れば息子からの頼りに喜ぶんじゃないか?
日本人って飯の話ばっかりしてるよねって昔、ALTの先生が言ってたけど、そんなちゃちなもんじゃねぇ云々。
お互いにもうアラフォーだし、友人も数少なくなってきたから、やりとり自体をやめたいわけじゃないんだけど、さすがに一言返すのもだるくなってきた。何か穏便にやめてもらえる方法はないだろうか。
または、何の意図で送ってくるのか考えてくれないか。知り合って十数年、今更俺を口説きにきたわけでもないだろうし、何かライフハック的なネタも、自慢するようなネタも感じられない。
まだ、帝国ホテルとかのビュッフェならわかる。マウンティングと言う人もいるだろうけど、その方が遠い世界な分、反応はしやすい。
夜間に仕事しているみなさまにお伝え。夜勤、裁量労働制、残業、自営、単に趣味、いろいろ理由あると思う。ご大変様です。自身もそうなのだが
で、夜に「暖かいもの」食べたいけど、もう店がない、外でることができない、もしくは面倒、という際は宅配となると思うのだが、「ガスト」が最強という結論に至った。UberEats よりも、宅配館よりも、そこらの蕎麦屋よりも、である。その理由を詳説する
前述、サービス料だの、配達料だの、遠隔手当だの、チップだの、不明な料金がない
メニューを見るだけで料金がわかる。結局いくらなの? ということがない
配達最低料金が 1,000円 (昼間は 1,500円) これはひとりぶんだけを頼むには大きい要素
サラダ150-700円
弁当400-800円
これは最近知った。キッズなんとかプレートとかいって、500円でポテト、から揚げ、ウインナーなどのつまみに加えて、カレーやネギトロ丼などもあり。これ本当に子供向けなのか?
火を通したお魚のメニューが極端に少ない(というか2種しかない)
考えたけど他には特にない
・ファミレスの宅配ってご飯(お米)おいしくないんじゃないの?
そうでもない。レンジでチンするコンビニのご飯よりは相当マシなのは当然として、
町のお弁当屋さんぐらいの水準か、それ以上。ここにコスト投入してるのはたぶん考えあってのことだと思う
なお、おかずの味付けに対しては好みあると思う。やや薄味
・自炊すればー
そういう状況下でない話の場合をしている
・一食1,000円とかふざけるなブルジョア
今すぐ全部食べる必要はないので、組み合わせで、明日の朝ご飯や昼ご飯にすることも想定してはどうか
最悪、お茶やコーラなどの飲み物(170円(税込)程度)、タバスコ(200円)などで帳尻をあわせることもできる
・飽きる
飽きるかも
現在恋人と呼べる人はおらず、最後に彼氏が居たのはもう一年以上前になる。
恋愛下手で、周囲の人間は口を揃えて「男を見る目が無い」と言う。
今後の自身の価値観の揺らぎ方によってはこの方針が変わることも考えられるが、今のところその予感もしない。
私の意思とは無関係に、周囲からの結婚しないの圧は年々高まりを見せている。
実際もう90近い歳の祖母からは「私が生きてる間に、あなたの結婚式には参加したい」というようなことを言われたことがある。
親からも「いつ結婚するのか」「いい人はいないのか」という問いかけはもはや当たり前になり、私はその度に「相手はいないし、探さないし、結婚するつもりもない」と答えている。
孫の顔が見たい問題も、姉と弟がすでに達成していることで解決されているはずであり、是が非でも私が産まなければいけないということはない認識でいる。
もちろん子どもはかわいいと思うし、現在子育てをされている方々に対しては頭が下がる一方だ。
他人との共同生活を送ることが苦痛で仕方がない私には到底できることではない。
社会全体が子育てに関わる人々、そして当の子ども達を大切にすべきだと、私は真剣に考えている。
これは性別問わず同世代の平均年収及び中央値を越えている(はずだ)。
つまり私の市場価値は平均よりは上に位置しているということであり、それなりに頑張っていると評価されても罰は当たらないだろう。(※ あくまで社会的ルールに則った評価軸で考えているものであり、私自身が私に対してどういう風に価値を付けているかは別問題だ)
1,000万円の生活には程遠いが、多少の贅沢くらいなら全く問題ない。貯金もできるし、投資にも多少は回せる余裕がある。
正直なところ、私はこの点について全く自信がない。
ここまでで薄々勘付いた方もいらっしゃるかもしれないが、私には可愛げがない。愛嬌をふりまく、ということができない。
元来負けん気が強く、男を立てるということができない。奢られると腹が立つし、高価すぎるプレゼントも素直に受け取ることができない。後日それよりも価値の高いものを返したりしてしまう。
愚痴を黙って聞くことができず、求められていないアドバイスをしてしまう。頷くだけでいいなら最初からそう言ってくれと思ってしまう。
掃除はするが本当に必要最低限で、クイックルワイパーで床を拭くだけ。トイレ掃除は月に2回すれば良いほう。水回りは時々思い出したかのようにパイプユニッシュを垂れ流すくらい。
洗濯物だけはちゃんとするが、柔軟剤なんて使ったことはない。シミ抜きの方法は先月初めて知ったレベルだ。
通販のダンボールは全然片付かないし、ゴミ捨てを忘れることも珍しくない。幸いGやウジ虫が湧いて出るレベルではないが、割と紙一重の生活を送っていると自分では思う。
加えて食にも興味が無い。
普段の食事は基本的にコンビニ。あるいは塩むすび。一日何も食べないなんてこともザラだ。
自炊ができないわけではないが融通が効かないのでレシピに書かれた通りのものしか作れない。(もしかしたらこれは一般的には自炊ができると言わないかもしれない)
残った野菜を廃棄した経験と、作って食べて片付けるまでの費用対効果の悪さに目を瞑ることができず、調理器具には5年以上触っていない。
私自身はまるで困ったことがないため恐らくこの先もこの生活が劇的に変わることはないと思うが、上記のような人間が果たしてちゃんと生活をしている人間と対等に肩を並べられる存在であるかは疑問だ。
そういう意味で、私の女としての価値(あるいは人間としての価値)は底値を割っているのではないかと考えている。
昨今では先に述べたジェンダーレスや生き方の多様化に伴ってロールモデルも変容している。
とは言え、じゃあ私のような人間が仮に婚活や恋活といった場に出たとて、その他素敵な女性陣と比べられては見劣りしてしまうに違いないだろう。
一般男性の思う理想の女性に求めるものが私には備わっていないように思えるし、相手の年収を気にする男性は女性よりも少ない印象がある。
それに稼げると言っても大人一人を余分に養えるほどでもなく中途半端だ。子どもを産むつもりもない。極めつけは人間的価値が怪しいときた。
こんな私をだれが好いてくれるのだろうか。
仮にそんな稀有な男性が居たとして、私がその男性の友人なら必死で止めるだろう。「一緒に生活なんてしてみろ。絶対に大変だぞ」と。
いっそのこと1本〜2本ほど稼げるようになれば、専業主夫になってくれる人も出てくるかもしれない。でも子どもが持てないというのはきっととてつもなくネックになるだろう。
やはり女の価値は稼ぐ力ではなく、接するだけで癒やしてくれたり、子どもを産むところにある気がしてならない。
そう思えば思うほど、私が所帯を持つことはほぼ不可能な気がしてしまう。
あるいは「期待されている女性像」と釣り合う稼ぎが500万円では済まないのだろうという直感があるのかもしれない。
ここが解消されない限り私が恋愛や結婚願望を持つことは難しいのだろう。
白馬の王子様はいらないが、適度なヒモなら居て欲しいかもしれない。
あぁ、だから周りに言われるのだろう。
「男を見る目がない」と。
父親がずっと経済的、精神的、身体的DVをするような人で頼れる人ではなく
母親がリウマチになり全身の痛みで家事ができなくなった分私と姉で分担してやっている
私が普通の子でも大変だったかもしれないけど家事が不得意な発達障害で大変さに拍車をかけている
不注意によるミスで、姉とのけんかもたえない
実家を出るという選択肢は今すぐは難しい状況なのでしばらくこれが続くと思うのだけど
もし、父親がこの大変さに理解があれば少しは楽になってたのかなと思うと
なんだか無駄な労力を費やしてるようでとてもやるせない
お母さんは申し訳なさそうにしているけど、申し訳なく思ってほしいのはあなたではない
セレブマシュマロで自炊をしないのが当たり前、家事はお手伝いさんがやるというのをみたときはなんとも思わなかったけど最近無性に思い出してうちもやってくれてたらこんな思いしなくて済むのにな…と思って涙が出てくる(実を言うと父親がうんといえば毎日とはいかなくても多少家事代行を頼むことはできる…はずなので…)
在宅勤務で人とも合わないし食事も自炊、もしくはスーパーの弁当ですまして、他人との会食や飲食店での食事はこの一年一度も行っていない。
会食どころか遊びにも行かないし、知人や友人に合うこともない。もちろん外での立ち話なども皆無なのでコロナに感染したとしても「全く心当たり無い」。
本当に新型コロナに罹患したとしたら自信を持って「全く心当たりが無い」と言えるような生活を続けているのだが、未だにコロナに罹患していない
時々見かける「全く心当たりが無い」といいつつコロナに罹患している人よりも「全く心当たり無い」生活を送っているのに全然コロナに罹患しません
「全く心当たり無い」生活を送っているからコロナに罹患し無いの当然だと思うかもしれないけど、コロナに罹患した人たちがみな口々に「全く心当たり無い」と言っているのだから私のように「全く心当たり無い」生活をしている人がコロナ罹患するはずなんだけど、全くコロナに罹患しません
「全く心当たり無い」生活を送っていた人たちと同じように、完全に「全く心当たり無い」生活を送っているのであれば本来なら今頃とっくの昔に罹患していてもおかしくないはずですが、「全く心当たり無い」生活を送っているのにも関わらず全く罹患する気配がありません
どうやったら「全く心当たり無い」生活を送ってコロナに罹患することが出来ますか?
常識的に考えるのであれば「全く心当たり無い」生活をしているのであればコロナ罹患していない私の現状はまったくもって筋道の通った現実に思えますが、実際に「全く心当たり無い」生活を送っていた多くの人がコロナ罹患している現状を考えるのであれば、「全く心当たり無い」生活を送っている私がコロナ罹患しないというのはいささか不思議に思えます
「全く心当たり無い」生活をしているのであればコロナ罹患するはずなんですけど、なんで「全く心当たり無い」生活をしているのにも関わらず私はコロナ罹患しないのですか?
「全く心当たりが無い」人の多くがコロナに罹患しているのだから「全く心当たり無い」私も同じようにコロナに罹患するのが当然の用に思えますが、そこのところはどういったふうにお考えでしょうか?
この文章を書いている今、かつてなく自殺企図の情動が高まっており、それでもなおそれを完遂することへの恐れから、今なるべく頭の中を冷静にして考えたことを書き留めておこうと思い、手を動かしている。
自殺未遂自体は、10年近く前にやったことがある。部屋に一人の状態でベルトで己の首をゆっくり絞めていき、「落ちる」ところまで行ければあとは死ねると思っていたが、結局自分でリミッターを外すことはできなかった。あとは、家にある薬状のものをとにかく全部飲むというのもやったが、たくさん飲めば死ねるような薬はなく、薬効どうしの食い合わせで運よく死ねるということもなかった。私は所詮その程度ですが、こんなのマウントを取り合いをするものではないと思う。
処方された薬は自分の判断で勝手に飲むのを止めてしまったが、少なくとも今日までは自殺することなく生きてこられた。自殺チャレンジばかりを考える日々から脱却できたきっかけははっきりとは分からない。グラデーションに近いものだと思う。そしてそのグラデーションは真っ白な状態に戻ることは決して無いだろうと感じる。初めて本当に死にたいと考えた日から今日までずっと死のことを意識してきた。下手な例えだけど、シャッフルされた山札から1枚ずつドローしていくうちに「死」を引いてしまったのが10年前で、それ以来ずっと手札に「死」を持っている感じに近い。手札に「死」を持っている状態に慣れていったことで、逆説的に今日までそのカードを使うことなくやってこれたような気がする。
少し話は変わるが、私は私が「自殺したい」と考えていることを他人に表明することをひどく恥ずかしく感じる。そのことを他人に話してしまえば、それは暗に「止めてほしい」ということを意味し、結局のところ本気で死ぬ気はないのだと始めから自己矛盾が露呈してしまうからだ。したがって、本当に死にたいと思うときに私は沈黙するしかない。実際この文章を書くまではそうしてきた。
なるべくキーを打つ手を止めないようにするため、文章の構成を考慮せず思うままに書くことにするが、ご容赦いただきたい。
「自殺をしてはいけない理由とは一体なにか?(あるのか?)」という倫理的・哲学的問いがある。よく答えとして挙がるのは
①生きていればまだ良いこともあるから
といったところだと思う(「自殺するには苦痛を伴う」というのは積極的に自殺を選ばない理由ではあるが、自殺をしてはいけない理由ではない)。
私はこれらのいずれも失当だと思う。
①生きていれば良いこともある
下らないことを言わないでほしいと私は思う。そりゃ良いことも悪いこともあるだろう。でも結局人生における良いことと悪いことの総量を比べることはできないし、最後には誰もが死ぬのである。なぜそれが今ではいけないのか。人生における最後の幸福を味わったら後は死んでもいいのだろうか。少なくとも、死にたい気持ちを自覚し、それを何度もやり過ごして生きてきた人間にとって、残りの人生は死にたい時間とそれをやり過ごしている時間の繰り返しでしかない。
②残された人が悲しむから
実のところ、身体的苦痛へのためらいを除いて、これまで私を自殺させなかった理由の最たるものである。幸いにも、私は家族に恵まれたと思うし、私が自殺した後の家族の気持ちを考えると涙が出そうになる。しかし、実はそれを私が気にする必要はない。なぜなら、実際に自殺した後に悲嘆に暮れる家族の様を「悲しい」と感じる主体であるところの私はすでにどこにもいないからである。悲しいと感じるのは残された者の気持ちを考える「今のまだ生きている私」であり、その意味で身体的苦痛へのためらいと同じだ。
少しそれるが、現行刑法だって自殺を殺人には当てはめていない。自分の保護法益である生命を自分が終了させたところで罪には問えないからだ(容疑者死亡のため起訴できないというのもある)。
したがって、突き詰めれば、②は(残されることになる)私が悲しいから「自殺してはいけない」ではなく「自殺しないでくれ」というお願いでしかないというのが正しい。
死を選ぶことは本当にいつでもできるだろうか。中途半端なためらいがなくなったあの瞬間に人生を終わらせておくべきだった、そうすれば今の苦痛を味わうことはなかったのにといずれ後悔しないだろうか。少なくとも私はいま後悔している。10年前に死ねていれば今日の苦痛はなかった(10年間の喜びも無価値だったのかと問われれば、少なくとも今の苦痛に釣り合うものではなかったと答えるでしょう。死にたいときは常に)。
「死」は切った時点でほかの全ての選択肢を失うという点で最後のカードだ。でも結局その理論は①の理由に行きつく。それは「自殺してはいけない理由」にはなりえない。
私が敬虔なクリスチャンであればこれほど強い理由はなかったろうと思うが、私を含む非キリスト者には全く通用しない。結局なにがしかへの信仰しか救いにはならないという気がしている。
こんなことを平気で言う人間とは関わらない方が良いですよ。
つまるところ、やっぱり自殺してはいけない理由なんて無いんですよ。
どれも思いとどまらせるための方便でしかなくて、あとは本人がするかしないかの判断があるだけ。
ここまで書いたところで紛れていた衝動の波が戻ってきた。
ところで私は家に包丁を置いていないのだが、その理由を人には「私は自炊しないので」とへらへら語っているが、実際の理由は衝動的に自分に使用しないためである。今は刃を己にめり込ませたくてたまらないので、平時の私の判断は正しかったのであり、その正しさを心底憎悪する。
食いしん坊なので食費で我慢することはほぼない。
貧乏性なので髪の毛はミニモで無料じゃないけど安いところで切ってる。
カバンと靴だけは買う時はちゃんとしたブランドのものを買うようにしているが、今のが壊れない限りは買わない。
でも、幸せじゃない。
仕事が忙しすぎる。
自炊する元気なんて起こらない。
でもお金は手放せなくて、身を削って生きてる。
幸せになりたいと願いつつ幸せになれない道を自ら選択している。矛盾だ。
昔の私は冗談を言って周りの人に笑ってもらうのが幸せだったけど、今はコロナもあって雑談できる相手が彼氏くらいしかいないし彼氏とも毎日は会えない。
本当の私は誰かの笑顔を作ることが喜びなのに、毎日仕事ができない同僚にイライラするのを隠して愛想がよくかわいい女を演じている。
(用意するもの)
(材料)
(感想)
飲む打つ買うとは、昭和時代の働く男のストレス解消方法だった。
それぞれ、次のことを略している。大酒を飲み、ばくちを打ち、女を買う。そして、 男が道楽の限りをつくすことをいう。ばくちは、平成以降は、パチンコ、パチスロ。そして、場合によってはTVゲームやソシャゲだろう。ストレス解消方法ではあるが、お金も身体も消耗してしまう。
一方で、はてなでよく見る
運動、睡眠、瞑想、野菜350gのワードはネタにされてはいるが、健康的なストレス解消方法とされる。ごく簡単に歩いたり通勤手段を電車から自転車にかえることで運動にもなるだろう。睡眠は、サプリメントの力を、借りても良いだろう。漢方薬も、副作用の少ない薬もある。野菜は自炊しなくてもリンガーハットでもカット野菜をレンチンしてもいい。
さて、問題は瞑想だ。目を閉じてじっとして呼吸に集中する。やってて意味があるのか、分からない。瞑想にも魔鏡という副作用がある。上手に瞑想を指導してくれるところなんてあるのかな。良い動画、例えばヨガの先生の誘導瞑想でいいものなのかな。
で、一応店長みたいな感じで任されるって話も聞いたよ。
俺が石窯でピザ焼く技術を体得してそれをシェフに伝える二度手間いるか?
それとももしかしてシェフが入れ替わるたびに俺が教える想定してる?
やだよ。てか無理だよ。
そりゃ混んで来たら接客くらいは出るよ。
レジもやるよ。それくらいはやるよ。当然やる。
二つ折りにして食べるのがいいんだよねじゃねぇんだよ。
いや、もう行くけどさ。行くけどもだよ。
何もかもが間違ってる。
高校生の時。モテるかな、と思って。近所のハードオフで買った。コードを押さえられなくて挫折。ギターが悪かった、手が小さくて向いてないと自分の中で言い訳。家族に譲った。
アコギからの派生。ベンドが上手くできなくて挫折。まだ手元にある。
・イラスト
昔の作品にも詳しいとカッコいいかな、と思って。結局抜きゲーで抜いていただけ。
・バイク
大学生の時。旅を趣味にしたかった。中古バイクを購入。機械もいじれるとカッコいいかと思ったけど、メンテもそんなにせず結局あまり乗っていない。まだ手元にある。
社会人になりたての時。買ったばかりの頃は馬鹿みたいに撮っていたけど、設定とかを覚えるのが面倒になってしまって埃をかぶっている。あと、レンズが高い。
同上。ヤフオクで買って、モルトプレーンだけ中途半端に入れ替えたけどまだ一枚も撮ったことがない。
・登山
近所の山をちょっと登った。高い山に登るのは面倒くさい。高かった登山靴は埃をかぶっている。
・キャンプ
バイク旅のために買ったけど、結局家でダラダラしている方が好きなことに気がついた。道具はまだ持っている。
・タロット
覚えているとカッコいいと思ったけど、覚えるのが面倒くさい。本だけ何冊も持っている。
・映画
名作と言われる作品は知っておきたいと思ったけど、数が多すぎる。見たところで語れるほどの経験も知識も含蓄もない。自分の浅さに自己嫌悪。
覚えることが多い。本ばかり持っている。でも読んでない。
・筋トレ
継続は力なり。ただ自分にはその力はなかった。めちゃくちゃ量のあるプロテインだけ持っている。ジムも契約したっきりほぼ行ってない。勿体ない。
文章なら俺にも!と思ったけど、そんなわけなかった。形から入るタイプなのでMacBook Proなんか買っちゃったりして。むろん埃をかぶる。
指輪物語、十二国記、ラブクラフト、シャーロックホームズ、アガサクリスティ、館シリーズ、鬼平犯科帳、グイン・サーガ…全部挫折。根気が続かない。作者で読んでみようとしてもまず続かない。
・作曲
高いソフト買ったのに、何も生み出せてない。
・御朱印集め
外に出ないので、ほぼ白紙。
やる友達がいなかった。
思いつく限り書いてみたけれど、まだ有りそう。
こうして見ると、如何に自分が人からよく見られるために色々なことに手を出しているかがよくわかる。
自分はこれをやってます!って胸を張って言えるようなものがないや。
・裁縫
・盆栽
・家庭菜園
・天体観測
・釣り
・自転車
押しつぶされそうだ。
※追記
コメントを頂いて、いくつか思い出したので残しておく。皆さん俺のことよくそんなに分かるね。
色々教えてくれてありがとう。
カチャカチャカチャって素早く揃えられるとカッコいいよね。買って説明書を見ながら数回6面揃えたけど、今は部屋のオブジェになってる。
今の仕事が嫌いすぎて転職を考えた時に。本も買ったよ。やってないけど。
道を歩いていて、「この花は〇〇だね」って言いたかった。図鑑を持ってる。
・読書
積ん読って言ったら聞こえはいいかもしれないけれど、結局根気がなくて読んでいないだけ。買ったことで読んだ気になってしまっている。自己啓発本とか、小説とか、詩集とか、図鑑とか、資料集とか。紙、電子問わず読んでいない、または読みかけの本が大量にある。
趣味と言えるかわからなかったから書かなかったけど、服もめちゃくちゃある。わかってもらえるかわからないんだけど、「定番」とか「一生モノ」って言葉に弱い。例えば、「このアイテムが欲しい!」ってなった時は一時的にめちゃくちゃネットやら雑誌で調べて、「これ買ったら間違い無いだろう」ってものを買ったら満足してしまう。たまに気がついて着るくらい。
・麻雀
ネット麻雀にハマって、麻雀牌まで買った。小手返しやってみたいな、と思ったけど手が追いつかない。あとやる相手がいない。
一時期通っていたけど、自分の身体の可動域の狭さにびっくりしてやめてしまった。
小説ダメならこっちだな、と思ったけどそもそも書けるようなネタがない人間がセンスを求められるこれらをやろうとしたところで、という結論に至った。
・競馬
このブームに自分みたいな人間が手を出してないわけないよね……。自分でも呆れる。
ダービーで800円、鳴尾記念で500円、安田記念で300円、エプソムカップで600円負けてるよ。
・ゴルフ
職場の付き合いで。クラブセットも持ってるよ。知人が「120に壁が…」なんて言っていたけど、そもそもそのレベルにも達していない。たまに職場でコースに出てもひたすらボールを追いかけてマラソンするばかり。
・料理
鉄のフライパン、中華鍋なんて買っちゃったりしてメンテを怠ってこげつくようになっちゃったり。調味料ばかり揃えてみたりして期限を切らしたり。自炊程度ならやっているけど、趣味なのかこれは。
・TRPG
これもやってた(やってないけど)。ソードワールド、クトゥルフ。ルールブックを買ってきて、キャラシまで作るんだけど「え、これ誰とやるの?」という疑問が出てやめている。オンセがあるのは知ってるけど、そこまでのバイタリティがない。
・データベースになろうとする。詳しくなろうとする。
ナンバリングタイトルやシリーズもののゲームを全部やろうとする(ドラクエ、FF、メガテン、ポケモン、ゼル伝などなど)。
ご指摘はごもっともで、多分自分は「趣味に打ち込んで、誰かに認められる」ではなく、「誰かに認められるためにとりあえずわかりやすいものに金を出して何か始める」パターンが多い。
誰かに認められた経験が少ないから手っ取り早く「すごい」と言われる手段を求めているのだと思う。承認欲求バリバリだね。
このネット社会、ちょっと調べるとどんな事象にも初心者向けのハウツーが転がっているので、自分にもできてしまうんじゃないか、という気がしてしまう。これを始めれば人生変わるんじゃないかと思って一時的にカッと熱くなるけど、すぐに冷めてしまう。その繰り返し。確かにこれは趣味と呼べないかも。
〇気になるコンテンツを見つける
→気になるコンテンツの作者が影響を受けたコンテンツやルーツとなったコンテンツを調べる
→これを理解しないとこの気になるコンテンツを完全に理解することはできない!
→手を出す
→量の膨大さ、内容の難解さに挫折
このパターンが非常に多い。指輪物語とか、クトゥルフとかが一番わかりやすい例だと思う。映画もそう。服買う時とかでもこういうことがある。(調べまくった結果、定番モノしか買わない、とか)
勉強、部活とか何かに打ち込んだり、成し遂げたりしたことがないからその反動じゃないかなって考えている。積み重ねがないから急いでそれを何かで埋めようとしている感覚。
AmazonとYouTubeとTwitterは余りにもキラキラし過ぎていて、人に影響を受けて流されやすい自分のような人間には本当に毒です。Instagram?だめだめ!
英語、キーボード(ピアノ)、動画制作、プラモデル、格闘技(ボクシングor空手)、アマチュア無線、DJ全部昔気になってたことだ。
発信者になろうと思って昔作ったブログの残骸もネットの海で化石になってる。発信するような積み重ねがないし。
部屋は汚い。よくわかったね。
お金はないよ。カツカツです。
ものがどんどん増えるのは、始めてしまったからにはやり切らないといけないって言う心底下らないプライドがあるのだと思う。