はてなキーワード: 植物とは
父親はものすごい内弁慶で、人前に出たときは借りてきた猫のように大人しいが、
アルコールが入って家族しか周囲にいなくなると、人や物事をすぐにバカにしだす。
笑えたり個性的な視点がある毒舌ならまだ興味深いが、往々にして酷くつまらない。
少ない人生経験とネットでお手軽に接した情報から導き出された凡庸な偏見だ。
障害者なら障害者らしくハンデキャップを貰って生きていれば良かったのだが、
不幸なことに一応健常者としてラベリングされ、周囲もそう認識してしまったゆえに、
ノロマで頭が悪い上に性格も悪い人と認識されてしまったようで、これまで生きてきて他人との付き合いでは往々にしてひどい目にあってきたようだ
それもあって、年を取るごとにどんどん人付き合いを切っていき、今では家族ぐらいしか会話をしたがらない。
電話が鳴っていても出たがらないし、来客が来ても出たがらない。友人はいない。
それならそれで例えば電話に出ないなら契約解除すればいいと思うのだが、それは嫌がる。
使わないけど現状が変化するのが嫌いなようだ。発達障害者らしい。
人付き合いが嫌いで、性格も悪い父なので、喋る相手が家族しかいないわけだが、
なんせ口にする話題がテレビを見て、芸能人や知らない一般人の悪口なのだから、家族としても付き合ってはいられない
適当に流して黙殺するか、我慢できなくなったときは、反論したりお前の発言は気分が悪いから黙ってろと言ってみたりするのだが一向に治る気配がない。
まあとっくに定年引退するような年まできてしまったのだから、今更治るわけもないのだが。
そんなこんなで今の今まで続いてきたが、最近気がついたのは、おそらく毒舌は父親なりの一種のコミュニケーションの努力なのかもしれないと思い始めた。
出不精でコミュ障で頭が悪く性格もネガティブな父親は普通に話をしても話に中身がなくて家族であっても死ぬほどつまらない。
そんな父が人から反応をもらえる唯一の方法は、ひどい悪口を言うことなのかもしれない。
悪口を言ってる相手は、相手を不快にさせてもかまってもらえるからだ。
そう思ったからといって、これからは優しく接してあげようなどとは微塵も思わないのではあるが。
あーめんどうくさいなー。趣味でも作ってSNSで人と繋がって外に居場所作ればいいのにな。
近くに小学校と公園あり。高層マンションや綺麗にしている一軒家も多い。
現状:
うちの近くに、おそらくもう営業していないであろうお店(スナック?)がある。このお店の前にはビニール製のひさしのような飾りがあり、いわゆる看板の役割を果たしている。ビニールには店名や「カラオケできます!」と言ったような案内が書かれている。大きさは幅4メートルで高さが1メートル程度。店の入口全体にかかっている。色は既に褪せており白っぽい。
問題はそのビニールが破れ非常に景観を損ねていること。荒廃した印象を強く受ける。入り口付近には直径50cm程の鉢が並び、これまた茶色く枯れた植物が入っている。
このスナック店の古びて破れたビニールと枯れた植物が植えてある鉢を何とかどかせないか。近隣住民が「見た目が悪いから」という理由だけで行政に訴えても解決にはならない。そもそも自分勝手だし。
岩手で就職した俺は、何度か転勤をして長野に腰を据えることとなった。
軽井沢という洒落た別荘地の近くに勤務する俺は、独身ながら小さな庭付きの家も購入し、ずいぶんと浮かれていたのだろう。
小さな庭はまだ何も植えられていなく、少し寂しい。何か、食べられるものを植えたい。そう思って先輩に相談すると、先輩は静かに言った。
ラズベリーだけはやめておけ、と。
いつも笑っていた先輩が突然無表情になり放った言葉に、俺は困惑した。どうしてと問うと、先輩は答えてくれた。
奴らは繁殖力が恐ろしい。一度根を張ると、他の植物を食らいつくす勢いで増えていく。何も手をかけていないのに、だ。
世話をしなくていいなんて、まさに俺向きじゃないですか。そう茶化したのだが、先輩は無表情に首を振った。
何だか怖くなり、とりあえず俺は先輩の言うとおり頷いた。
その日の帰宅途中、煌々と明かりをつけている園芸店が目に入った。
軽井沢の店は閉まるのが早い。まだ営業中の店があるのかと中を覗くと、気のよさそうな男が出迎えてくれた。
聞き上手な男に促されるまま、最近転勤してきたこと、ここに住むことを決めたこと。そのために庭付きの家を買った事、園芸を始めようと思っていることなどを話した。
植物を育てる才能に乏しいと笑うと、男は一つの苗を取り出した。それは、ラズベリーの苗だった。
「長野はね、ブルーベリーの産地の一つなんですよ。でもね、ブルーベリーの苗は一種類だと受粉しない子が多くて。けれどね、ラズベリーなら一本でも十分受粉するんです。暑さにも寒さにも、虫や病気にも強くて手間がかからないんですよ」
鮮やかな緑色の葉を持つ細い茎の苗は、どこか頼りなさそうだ。こんな苗が、先輩の言うほどの繁殖力を持つのだろうか。
「ラズベリーの実には便秘解消や老化防止なんかの効果があって、彼女さんにも嬉しい物じゃないかな」
男の言葉に、俺はその苗をかごに入れた。たった一本の苗が、小さいとはいえ庭を覆うことはないだろう。
俺はその苗といくつかの野菜やハーブの苗、それから肥料などを購入して店を出た。
数日後、先輩に家庭菜園を始めたことを報告した。いくつかのハーブをプランターで、季節野菜を庭で育てていると伝えた。ラズベリーを買ったことは、言っていない。
余った苗と共に裏庭にそっと植えられたラズベリーは、他の苗と共にゆっくりと成長している。今年の収穫は無理そうだと思っていたのだが、五粒ほど赤く甘酸っぱい実が生った。二粒ほど腐らせてしまったが、栄養になるだろうと木の根元に捨てた。
それから三年の月日が流れ、徐々にラズベリーの苗は大きくなり、太くしなやかな茎を広げながら実をつける。
記録的な豪雨にも連日の猛暑にも、ラズベリーは負けなかった。ある時は他の植物たちが雨で腐ってしまったが、ラズベリーだけは生き残ってくれた。
よかった、お前は無事だったんだな。そう言って笑ったあの日、なぜ気が付かなかったのか。あれほどの豪雨にも猛暑にも耐えれる植物が、可愛いだけではないことに。
九州の支店、倉庫、取引先に大きな打撃を与えた地震。役職についていた俺は対応に追われ、時には出張で一ヵ月以上家を空けることもあった。
地震が落ち着いたころ、今度は豪雨での被災。度重なる災害の対応に、気づけば五年もの月日がたっていた。
ようやく一息つける状況になった俺は、枯れてしまった庭を見てため息を吐いた。
そういえば、裏庭はどうなっているだろうか。表にある庭は忙しくても多少手入れをしていたのだが枯れてしまった。何も手を入れていない裏庭は、もうとっくに枯れているだろう。そう思って裏庭を見て、俺は驚愕した。そこには、小さな森ができていた。
青々とした葉を茂らせる、木と呼ぶには細い緑の幹。蔦よりも硬くしなやかなそれは、間違いない、ラズベリーの枝だ。ラズベリーが、裏庭を覆いつくすかの如く増殖していた。
一緒に植えていた大葉や桔梗、百合の球根が埋まっていたはずの場所ですら、ラズベリーで覆われている。
震える足で裏庭に降り、俺の肩ほども高さのある茎をかき分ける。
俺が選んで植えた植物たちが、すべてラズベリーに覆われてしまっている。あれも、これも、そっちも、全部全部全部!
ぽとりと、何かが落ちた。それは真っ赤な実だ。ラズベリーの、熟れて腐った実。足元にはいくつものラズベリーの実と、おそらくそれらから発芽したのだろう苗。
一本でも十分受粉する。それなら、これだけの量があればどれほど受粉し、実をつけるのか。足元には落ちた実と、瑞々しいほどの苗。
気がつけば俺は、あの園芸店に向かっていた。俺が店に駆け込むと、男はあの日と変わらず穏やかな顔で迎え入れた。
ラズベリーが育ちすぎていること、実が山のように余ってしまっていること、新芽が次々と出て裏庭が覆われてしまいそうなこと。まくし立てる俺に、男は笑った。
「それの何がいけないのですか。実が余っているのならジャムにすればいい。嵩は減りますよ。冷凍して保存もできます。もし種の触感が気になるのなら裏ごしして、牛乳やヨーグルトドリンクに混ぜて飲んでもいい」
呆然とする俺に、男はそうだ、と手を打った。
「ラズベリーは手をかけてあげないとすぐに拗ねて他の植物にちょっかいをかけるんです。きちんと手をかけてあげてくださいね」
男に送り出され、俺は裏庭に戻った。
放置されたラズベリーは裏庭を覆いつくす勢いで成長している。俺の手には、真新しい剪定ハサミが握られていた。
あの日から六年。恋人もでき結婚した俺は、部下を持つようになった。
賑やかな食堂で、後輩は妻が作って持たせてくれたマフィンを頬張っている。
「それにしても、先輩の奥さんは料理上手ですね。このマフィンも、甘酸っぱいジャムが最高です」
「はは、ジャムはうちの庭で採れた新鮮な果物で作ってるから格別だろう」
「はい!そうだ、俺も家庭菜園を始めようと思うんですけど、なにかおすすめの植物ってありますか?できればあんまり手がかからない奴がいいんですけど……」
「そうだな、色々あるが…………ラズベリーだけは、やめておけ」
なぜかといえば、環境保護の草の根活動というのは「ひとりひとりができることをしよう」典型的なミクロ視点での啓蒙であり、「環境のため」という美しすぎる大義名分によってマクロ視点からの検討がおそろかになりがちであるからである。
個人レベルで行なえるし、家庭ゴミの量を簡単に減らすことができる。
しかし、レジ袋を使ったことがある人はわかると思うが、ほぼ間違いなく「この袋は植物由来の素材を~」とか「リサイクル素材を~」と書いてある。
レジ袋を追放した時、このリサイクル元の素材はどこに行くのか?
そのままゴミとして捨てられないようにカバーしようと声を上げた人がいただろうか?
レジ袋が無くなることで雇用はどう変化するのか?それが自分だったら本当に同じことが言えるのか?
こういった事を一つ一つ組み合わせて考えなければならない。
と言っても、ゴミの総量が減ることには変わりはないし、今回のお菓子の過剰包装に対する抗議は比較的妥当と言える。
自然保護という眼の前の光り輝く栄光に目がくらんではいないだろうか?
個包装を紙などリサイクル素材にできないか?そもそも再生紙は環境にいいか?そもそも「捨てる」という行為に着目したほうがいいのではないか?分別システムから見直し、そもそも包装に使用する素材から見直すべきではないか?
など、発生しうる議論を経て同じ結論に至るならば、議論の過程でより多くの建設的な案を作り出すことができる。
特に今回は子どもたちが主体になっている。正義感の虜になると本当にやばい人間になってしまうが大人たちはそこに配慮できているだろうか?
個人レベルでできることが少ないからといって「ひとりひとりができること」に迂闊に飛びついてしまうと別の大切なものを破壊してしまう事もある。
目の前の手軽な正義に飛びついて何かを破壊してしまうというのは人間が何度も繰り返してきて反省できていないものの一つだ。
しかし、マクロ的な視点からものを見すぎても効果が薄いし、何かを切り捨ててしまいがちなので、因果関係をしっかりと見極めつつも、ミクロの観点を捨てないバランス感覚が大切だ。
この話はフィクションで、俺もこんな職場も存在しないし、出てくる人たちも存在しなくて、これを読んでる君もどこにもいないです。
今から5、6年ほど前に、俺はとある大型事務センターで派遣社員をしていた。
就職できなかったというより、仕事が出来ない無能な上に人中りして人間関係が酷く疲れる気質なので、新卒を短期間で蹴って逃げた俺は正社員として働きたくなかった。あんな思いをしながら生きるぐらいなら、いっその事死んだ方がマシだと真剣に思えた。phaや中島義道や斎藤環の本を布団の中でずっと読んでる様な、そんな時期だった。こんな社会不適合者にとって、ひたすらキーバンチャ―をするだけの派遣社員のこの仕事はまさに天職で、社会に出てからはじめて「俺は生きてても良いんだ。」と思えた。仕事帰りに出かける精神的余裕ができたのもこの時期だったと思う。社会不適合者にとって社会は厳しいけれども、俺でも受け入れてくれるぐらいには懐が広い。そう気づけた。
こういう誰でも出来て、なおかつ多くの人力を必要とする楽な仕事には、時給1000円そこらにも関わらず多くの人間が集まる。
主婦、他に働き口のない年配者、皮膚病がある人、身体障害がある人、精神疾患がある人、売れないバンドマン、社会生活を諦めた人。
みんな彼らを奇異な目で見る事も見られる事もない。若い女の子にちょっかいかけて迷惑がられる中年のオヤジもいたが、主婦層が若い女の子が嫌な目に合わないように囲ってオヤジを寄せ付けないように庇うシーンなんかも観た。
生涯非正規雇用でしか働いたことのない年輩者。漫画や映画のサブカルチャーに異様な詳しさを見せる30後半の男性。キャバクラに費やして借金を500万程背負って自己破産した躁鬱の中年。ネトゲ経由で女子高生と付き合って会うたびにセックスに興じてる話を嬉しそうにする20代半ばの日焼けしてない小太りの男。通信大学で勉強をすることだけを生きがいにしてる勉強好きな人。顔色の悪いその日ぐらしのデイトレーダー。リーマンショックで会社が潰れてからずっと派遣社員をしているこっちが心配になるぐらい優しくて人が良い男性。派遣をしながらアートの勉強をしていたが仕事に結びつかずそのまま派遣を続けてる女性。HSP気質が強すぎて大きな音を聞くだけで目に見えて動揺する女性。借金を抱えている上に子宮筋腫の手術を控えていて頭を抱えながらこれからの先を涙ながらに悲観する中年女性。本当にいろんな人がいた。当欠してもお咎めなし、生産性求められず、社交性無くてもウェルカム!この気楽さと中島らものような門戸と懐の広さに「派遣社員の制度は福祉」だとさえ感じた。もちろん突然消える人も多かった。
そんな中、俺が今でも一番印象に残っているのが派遣社員同士の一組のカップルだった。
彼らとは別の部署で直接接点はなかったが、休み時間に休憩室で勉強しているときに向かいに座っていたカップルの会話が耳に入ってきた。
どうやら二人は同棲しているようで、そろそろベランダのミニトマトが食べれそうだの、そんな話をしていた。
穏やかな口調で静かに話す30前半ぐらい思われるスピッツの草野マサムネに似た男性と、化粧一つしてない新興宗教リトルぺブルのクララさんに似た20後半ぐらいの女性だった。
二人とも素朴な感じで、見栄とか恨みとか憎しみとか、そういうものとは無縁のような、表現は悪いが人畜無害そうな、植物の様な、そんな印象を受けた。二人の間には確かに静かな時間が流れていて、誰も傷つけず、誰にも傷つけられないような、そんな二人が纏う空気が俺はとても好きだった。もしも俺の半径内で彼らに危害を加える人間が居たら全力で守りたい。そんな庇護欲にさえ駆られた。
時給千円だと二人の手取りを合わせて月の可処分所得はおおよそ28万円ぐらいになる。交通費は支給されない。二人が広げる手作りのお弁当を眺めながら、一体、どんな部屋に住んでいて、どんな生活をしているんだろう。と好奇心が湧いた。(が、最後まで接点はなかった。)
何も身につかない職場(しいて言うなら相手の眼を見れば躁鬱かどうかがわかるスキルは身についた。薬のせいか病気のせいか理屈はわからないが、躁鬱疾患者の目には特有のギラつきがある)で過ごし20代の貴重な数年を棒に振った俺は、月の半分が休みのような仕事に正社員として採用されたので、天職だと言えた派遣の職場を去った。
派遣の時代に比べれば可処分所得は倍以上になったが、忙しさや疲労度は増した。仕事帰りに出かける気力もなくなってきた。休みの日が多くなったが、寝ている時間も増えた。LINEは新卒時代に消したままだ。外部との連絡手段はgmailのみ。SNS嫌いの俺にはそれが心地よかった。友人の誘いを断ることが多くなり、連絡も途絶えるようになった。
職場にいるキラキラとした女性たちやイケイケでエネルギーに溢れる男性を目にすると、その表裏を帯びた見栄や世間体を感じてしまい、とても息苦しくなってしまう。息がつまりそうになる。ドッと疲れる。どうしても派遣時代の、良くも悪くも何事に対しても無関心な、山野一の漫画の世界をマイルドにした様なあの雰囲気が恋しくなってしまうのだ。
上司に「お前彼女はいるのか?」と聞かれた。素直に「いないです。」と答えた。
「若いうちに良い女をみつけとけ、ここはキレイどころ多いだろ、金持ってる女も多いしな」と上司は笑った。
もしもここで交際相手を見つけるなら俺は自分をひん曲げてでも人格や気質を変えていく必要がある。しかし、自分をひん曲げてまで彼女が欲しいと思える程のエネルギーは無かった。負け惜しみとかではなくて素直に交際相手が欲しいとは思えなかった。静かに寝ていたかった。
そういう時に、いつも派遣時代のあのカップルを思い出してしまう。
昇給もなく、雇用も切られやすい派遣社員同士で生活していくのは将来不安なことだろう。両親からの容認も難しいだろう。友人からの理解も難しいだろう。きっと「将来どうするの?」とか水を差されたりするんだろう。男性は「もっと甲斐性を持て。給料もらえる仕事につけ。非正規とかやべえぞ」と尻を叩かれ、女性は「そんな将来性のない男と一緒にいるの辞めたほうが良いよ先が無いよ」と窘められるのだろう。それでも二人は一緒にいる事を選んだのだ。そこには見栄も、経済的な豊かさも、時間に追われる事も、仕事のストレスもない。二人でのんびりと過ごせる、二人で居られる時間を選んだのだ。今の職場で働き出して、ようやくそれに気づいた。
「だから彼らは幸せ」というのは些か短絡的ではある。そもそも俺には二人のパーソナル的なものは何一つわからない。ひょっとしたら二人とも重度の精神疾患を患っていて共依存の様な関係なのかもしれない。それでも、様々な障害を差し置いても二人で居られる時間を二人で選べた彼らを、俺は心の底から羨ましく感じた。もしかしたら俺は二人の関係がずっとずっと羨ましかったのかもしれない。どれだけ金を詰もうが、どれだけ自分磨きをしようが、二人の様な関係性は簡単に築けるものではない。少なくとも彼らの人生における彼らの関係性はとても豊かな物だと、俺は思う。
今あの二人がどうしてるのかわからないけど、出来るなら今でも二人で幸せに暮らしていて欲しいと、時々ふと思う。上手くすべてが続いていけばいい。
ハーゲンダッツのクッキー&クリーム、濃厚でこってりとしたあの味が200円で楽しめることを念頭において欲しい。
その上で、たかがりんごやオレンジの一玉が時にはそれと同じ値段で売られていることを思えば、違和感を覚えないだろうか?
スイカバーが1本80円で、本物のスイカの同じサイズがそれよりも高い値段で売られている。
本物が勝っているのは、食物繊維が入っていることと、果物じゃなくて野菜だしなんか健康に良さそうよねっていうイメージぐらいのものだ。
ビタミン?ミネラル?たった一粒の栄養剤の10%もあるかどうか程度のものが重要かな?
ハッキリ言おう。
果物は保護されている!!!!(ヤロウ、タブーに触れやがった)
植物って健康にいいのよね。人工物は健康に悪いのよ。知ってます奥さん。常識ですわよ。水俣病が~チクロが~
ああもういい加減にしてくれ。
令和2年度の途中ですが、うまくいったことをまとめておこうと思います。
同じ大きさのタライを2つならべて片方を親魚もう片方を稚魚用にするというぜいたくにスペースを使う飼育法を採用しました。今までは、親魚はタライでも稚魚は小さ目の発泡スチロール容器やNVボックスだったりしたのですが、思い切って同じ大きさにしてみました。これは効果バツグンでした。稚魚の生存率が抜群です。場所を取るのでそれなりの覚悟が必要です。小さなプランタで植物の世話をするよりも畑で直に植えたほうが簡単なのと同じです。
タライは45Lを中心に36Lも使っています。水深的に36Lのほうが管理がしやすいと思います。
ちなみに1cmくらいになったら、稚魚槽から親魚槽へ移します。昨年までは、タマゴの採取時期別に稚魚は品種を問わずに大きさ別にごっちゃにしていましたが、成長後の品種ごとの選別作業もなくなり手間が減りました。
これを購入するのにかなりの覚悟が必要でした。45Lタライ2個分でとても大きいです。45Lに比べて少し浅めなので管理しやすいのがポイントです。圧倒的水量の暴力で水が汚れるまでに時間がかかるのが最大のメリットです。これを2個並べて、親魚と稚魚を別管理。とても管理が楽になりました。
昨年まではグリーンウォーター重視で中が見えないのを良しとしていましたが、本年は底が見えるグリーンウォーターを基準にして水替えしています。1/5の水を残し、残りを水道水で希釈していく感じです。
水作さんの水替え用の手動ポンプです。サイフォンの原理系のアイテム。これはすごい。もっと早く買えばよかったもの。水に入れる部分のパイプなどが細かく分解清掃できる優れもの。使えば使うほどわかる工夫の塊。ごみが詰まる部分の分解がしやすいとか排水ホース部分が細くなっていて徐々に水が排水されるとか使ってわかる一品です。水替えが楽しくなりました。
しかも、底に落ちた卵がフィルターで回収できるおまけつきです。ちょっと取りにくいのが難点ですが。
西日が当たらないところに水槽を置くという単純なセオリー。簡単なようで南中高度が刻々と季節変化する太陽を相手するのは難しいのですが、季節変動を最小限に抑えつつ、メダカのエサとなる植物性プランクトンを高温で殺さないように維持するために重要な法則です。
↑ 西 ┃ ┃ ┗━━━━┓ ■■■■┃ ┃ ←南 ┃建物 ┃ 庭 ┃ ┃ ┗━━━ ■■■■ 東 ↓ 凡例:■水槽
上の図のように建物で西日が遮られる場所に水槽を置きます。この場所以外に欲張って水槽を置くと西日の餌食となり、高水温による酸欠で死ぬ可能性が高いです。4つ並んでいるうちの一番南側の成長度が高いです。
水槽配置数の増加のために棚を作って水槽を3階建てにしていたときがありました。小面積に水槽がたくさん置けるのがメリットです。しかし、この方式は水温に深刻な影響を与えており、昼と夜での水温の変化が激しくなるのでした。水槽を地面に置くと最高水温と最低水温の変化の幅を抑える効果があったのです。重層配置はやめて、地面に置くことにしました。台に載せると水槽の管理がしやすくて便利なのですが、メダカ的には水温の変化が激しくてダメなようです。
越冬時も水槽の下に空気の流れがあると次々と冷たい空気が入って四方八方から水槽の水をどんどん冷やしてしまうこととなり氷結しやすくなるようです。姿勢がつらくても水槽は地面に置きましょう。
100円均一のセリアに産卵床が登場しました。昨年までは汚れ落とし用のハードスポンジを代用していました。これがペット用品売り場に使いやすい大きさにカットされた状態で12枚入りで商品化されました。使いやすいです。これを固定して浮かす「浮き輪」なる商品も売り場に登場しましたが、よく売れるのかレア商材化しています。その代わりにホームセンターの電材売り場で売っている、エアコンの配管の保温材を購入して輪切りにして使っています。
ホテイアオイは欲しい時に欲しい数がそろわないことと、冬の前の処分が面倒なので、やめました。越冬に成功したホテイアオイがあるのですが、さっぱり数が増えません。
必要なタイミングに必要な数がそろうので、稚魚槽への卵の移動がしやすいです。水曜日と土日のどちらかで約3日に一回のペースで採卵しています。
タライには塩ビパイプを使ったオーバーフロー機構を穴を開けて取り付けています。取付が間に合わないところも準備工事の穴だけはあけておきました。
ヤゴ対策の木材と網を組み合わせた凝った構造のネットはやめました。オーバーフローの取り付けで最高水面を水槽のふちよりも下げ、4㎜角の防風ネットを大きな洗濯ばさみで固定するだけのシンプル構造にしました。大き目のタライの場合はネットが中央部で垂れ下がるので、角材を渡してあります。
真南の西日の当たる場所での飼育や小さい水槽での飼育をやめたので、エアレーションをする必要がなくなりました。無理のない場所で無理のない水槽を使うと飼育設備がシンプルになってきます。
それぞれの水槽に入れていましたが、サカマキガイの巣窟なので、やめました。睡蓮だけ別のトロフネに入れて楽しんでいます。
水がクリーンになるということで底じきにしていたときがありました。が、これもやめました。水替えをシンプルにするためにベアタンク運用です。赤玉土はプランタで再利用です。
1cmくらいの大きさの溶岩石を入れていた水槽もありました。これもやめました。溶岩石は鉢底石として再利用されました。
稚魚水槽に入れていました。これも合理化の対象です。アナカリスはミナミヌマエビ水槽へ転用されました。
メダカ屋さんの飼育法を真似て買いましたが、水量が少ないので、利用中止。用途変更。製造元の意図通り、工具箱とか部品箱としての利用に戻しました。お店に納品される段ボール単位で取り寄せていたので、収納用にしたら同じ大きさの入れ物がたくさんそろってとても便利でした。
最後のほうはやめたことが多いですね。できるだけシンプルに簡単に飼育できる方法を追及していたら、ダブルタライのベアタンク式に落ち着きました。
アメリカンホームドラマのような温かい世界観、ハハハと頻繁に笑う主人公のハゲ執事も良い奴だし、パズルをチマチマクリアーしつつ、家をキレイにしていくのもやりがいがある。
そっちのが売れると思うなら詐欺内容のゲームを作れやと、詐欺広告アプリにはいい感情がない。
故障した家を治すとか、鮫から逃げるとか、最近は流行りのピンを抜き間違えたらキャラが死ぬ系の詐欺広告を多数出しており、ゲームが一気に安っぽくなってしまったようなモヤモヤした気分だった。
そして今日アプリを更新すると、ついにアイコンまで主人公とヒロインの間にピンが刺さっているデザインに変化していた。
ピンなんて全く出てこない、ヒロインも植物が好きな優しいキャラで、こんな露出して投げキッスなんてしない。
朝見る。いっぱいいる。落ち穂拾いの絵みたいに点々と畑に散らばって地面をつついている。
電線にもびっしり留まっている。道路にめっちゃうんちしてる。まだ命中させられたことはないが、いつも上空を警戒しながら歩いている。
たまに電線から畑に降り立つのだが、重力に従って落ちて、地面に降り立つその直前、すっ、と一拍、静がある。鳥という生き物のうつくしさだと思う。
そのあと勢いを殺しきれなくてぴょんぴょんするのはかわいい。
おたまじゃくし卒業したてのカエルたち。めっちゃちっちゃい。スケールが米粒単位。
歩いていると足の下にジャンプインしてくるのでたいへん気をつけて歩いている。
田んぼの側溝を泳いでいるおたまじゃくしの頃から見ているので、絶対踏みたくない。
明るい朝はいいが、暗い夜にもぴょんぴょんしているのでスマホのライトで照らしている。
草の緑を真似ているのだというが、生物由来の緑は植物のそれとは違うな、と思う。
5〜6羽で畑になにをするでもなく佇んでいて、わたしが通りかかると億劫そうに羽を広げて、ばっさっ……ばっさっ……と飛び去っていく。
そこまで手を抜いても飛べるのかお前、と思う。
差別が無くなった地球。それは、人類が平和の種である事の象徴だと思う。
今この世の中は人種差別、性差別、身分差別、障がい者差別など、多くの問題を抱えている。
しかし、「差別を無くそう」と声高に主張する者たちへ、私は伝えたいことがある。
途中で読むのをやめず、どうか最後まで聞いてほしい。
あなた達は、生物を食していないだろうか?主に、牛や豚や鶏などの「家畜」を。
この世には、「人権」という言葉がある。それと共に「種差別」という言葉もある。種差別とは、人間中心主義に異議を唱えたものだ。
牛や豚や鶏が狭い小屋で無理やり繁殖させられ、若いうちに殺され、そして私達の食卓へ並ぶ。彼らの命はその繰り返しであり、更にその扱いは己の身に置き換えると想像もしたくないような残酷さであることはご存じだろうか。
もしかしたら存じた上でヴィーガン(完全菜食主義者)になった者もいるかもしれないが、じゃあ寝ている間に、人間の口と知らずに入ってきた虫を無残に噛み潰していないと、証明することはできるか?
私達が生きるのに生物が犠牲になるのは可哀想だけど、弱肉強食の世界では仕方がない、そんな声も聞こえてくる。
話は変わるが、世界の、主にインドには、ジャイナ教と言う宗教を信じている者がいる。その修行者は非常に厳しい禁戒を守って生活をする。
その中の一つが「生きものを傷つけないこと」だ。
彼らは、あらゆるものに命が宿っているとし、生物はもちろん、植物や火や風などにも命を見出している。
行いは徹底しており、目に見えない微生物や虫を吸い込んで殺すことが無いよう、常にマスクをしている。
自分が動物に襲われても、決して動物を傷つけるようなことはせず、心から信じる教えを守る為に死を覚悟する。
ある時、飲み水の中にも微生物がいると知ったジャイナ教徒がその微生物を殺すくらいならと、衰弱死を選んだという逸話がある。
彼らの話を聞いてあなたはどう思っただろうか。少なくとも「自分と違う」と思ったのではないだろうか。
ところで、みんなの信じている「人権」というものはどこから生まれたのだろう。
人類が誕生した頃にはまだ無かった。そして、科学実験で見つかったものでもない。そう、人権とは、いつの間にか人間が作り出していた物語だ。
さあ、ジャイナ教徒の信じる教えと、私達の信じる人権に大きな共通点が見つかった。どちらも「フィクション」なのである。
ジャイナ教徒から「あなたは水を飲むので生物を差別しています」と言われたとして、何か言い返しても、それは不毛な争いなのだ。
私たちは、フィクションを心の底から信じ、フィクションを守る為に戦っている。
そして新たなフィクション「差別のない世界」を作ろうとしている事は、受け入れられずとも知っておいた方が良い。
あなたは、夢に近付く努力をしているだろうか?「俺はビートルズのようになるんだ」とデカい事を言うだけで、曲を一曲も書かない自称ミュージシャンにはなってはいないだろうか?
勿論、夢を語るのは悪いことではない。「俺はビートルズのようになるんだ」なんていくらでも言って構わない。
しかし、本当にビートルズになりたければ、まずするべきことは曲を作ることだろう。
もしあなたが本当に差別を無くしたいのなら、その為にまずするべきことは、目の前の人を思いやる事ではないか。
自称ミュージシャンは、曲さえ作ればビートルズを超えられる可能性だってある。
今あなたが目の前の人を思いやれば、いつの間にか差別という言葉が消え、それは未来で遠い過去の化石として発掘され、未来人の頭を悩ます不思議な概念になっているかもしれない。
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必要だと思ったので補足