2020-07-18

ラズベリー

岩手就職した俺は、何度か転勤をして長野に腰を据えることとなった。

軽井沢という洒落た別荘地の近くに勤務する俺は、独身ながら小さな庭付きの家も購入し、ずいぶんと浮かれていたのだろう。

さな庭はまだ何も植えられていなく、少し寂しい。何か、食べられるものを植えたい。そう思って先輩に相談すると、先輩は静かに言った。

 

ラズベリーだけはやめておけ、と。

 

いつも笑っていた先輩が突然無表情になり放った言葉に、俺は困惑した。どうしてと問うと、先輩は答えてくれた。

奴らは繁殖力が恐ろしい。一度根を張ると、他の植物を食らいつくす勢いで増えていく。何も手をかけていないのに、だ。

世話をしなくていいなんて、まさに俺向きじゃないですか。そう茶化したのだが、先輩は無表情に首を振った。

そして静かに繰り返す。ラズベリーだけはやめておけ、と。

何だか怖くなり、とりあえず俺は先輩の言うとおり頷いた。

その日の帰宅途中、煌々と明かりをつけている園芸店が目に入った。

軽井沢の店は閉まるのが早い。まだ営業中の店があるのかと中を覗くと、気のよさそうな男が出迎えてくれた。

聞き上手な男に促されるまま、最近転勤してきたこと、ここに住むことを決めたこと。そのために庭付きの家を買った事、園芸を始めようと思っていることなどを話した。

植物を育てる才能に乏しいと笑うと、男は一つの苗を取り出した。それは、ラズベリーの苗だった。

長野はね、ブルーベリーの産地の一つなんですよ。でもね、ブルーベリーの苗は一種類だと受粉しない子が多くて。けれどね、ラズベリーなら一本でも十分受粉するんです。暑さにも寒さにも、虫や病気にも強くて手間がかからないんですよ」

鮮やかな緑色の葉を持つ細い茎の苗は、どこか頼りなさそうだ。こんな苗が、先輩の言うほどの繁殖力を持つのだろうか。

ラズベリーの実には便秘解消や老化防止なんかの効果があって、彼女さんにも嬉しい物じゃないかな」

男の言葉に、俺はその苗をかごに入れた。たった一本の苗が、小さいとはいえ庭を覆うことはないだろう。

俺はその苗といくつかの野菜ハーブの苗、それから肥料などを購入して店を出た。

数日後、先輩に家庭菜園を始めたことを報告した。いくつかのハーブプランターで、季節野菜を庭で育てていると伝えた。ラズベリーを買ったことは、言っていない。

余った苗と共に裏庭にそっと植えられたラズベリーは、他の苗と共にゆっくりと成長している。今年の収穫は無理そうだと思っていたのだが、五粒ほど赤く甘酸っぱい実が生った。二粒ほど腐らせてしまったが、栄養になるだろうと木の根元に捨てた。

それから三年の月日が流れ、徐々にラズベリーの苗は大きくなり、太くしなやかな茎を広げながら実をつける。

記録的な豪雨にも連日の猛暑にも、ラズベリーは負けなかった。ある時は他の植物たちが雨で腐ってしまったが、ラズベリーだけは生き残ってくれた。

よかった、お前は無事だったんだな。そう言って笑ったあの日、なぜ気が付かなかったのか。あれほどの豪雨にも猛暑にも耐えれる植物が、可愛いだけではないことに。

ある日、九州で大きな地震が起きた。

九州支店倉庫取引先に大きな打撃を与えた地震役職についていた俺は対応に追われ、時には出張で一ヵ月以上家を空けることもあった。

地震が落ち着いたころ、今度は豪雨での被災。度重なる災害対応に、気づけば五年もの月日がたっていた。

ようやく一息つける状況になった俺は、枯れてしまった庭を見てため息を吐いた。

そういえば、裏庭はどうなっているだろうか。表にある庭は忙しくても多少手入れをしていたのだが枯れてしまった。何も手を入れていない裏庭は、もうとっくに枯れているだろう。そう思って裏庭を見て、俺は驚愕した。そこには、小さな森ができていた。

青々とした葉を茂らせる、木と呼ぶには細い緑の幹。蔦よりも硬くしなやかなそれは、間違いない、ラズベリーの枝だ。ラズベリーが、裏庭を覆いつくすかの如く増殖していた。

一緒に植えていた大葉桔梗百合の球根が埋まっていたはずの場所ですら、ラズベリーで覆われている。

震える足で裏庭に降り、俺の肩ほども高さのある茎をかき分ける。

俺が選んで植えた植物たちが、すべてラズベリーに覆われてしまっている。あれも、これも、そっちも、全部全部全部!

ぽとりと、何かが落ちた。それは真っ赤な実だ。ラズベリーの、熟れて腐った実。足元にはいくつものラズベリーの実と、おそらくそれらから発芽したのだろう苗。

ふいに、あの店員言葉を思い出した。

 

『けれどね、ラズベリーなら一本でも十分受粉するんです』

 

一本でも十分受粉する。それなら、これだけの量があればどれほど受粉し、実をつけるのか。足元には落ちた実と、瑞々しいほどの苗。

気がつけば俺は、あの園芸店に向かっていた。俺が店に駆け込むと、男はあの日と変わらず穏やかな顔で迎え入れた。

ラズベリーが育ちすぎていること、実が山のように余ってしまっていること、新芽が次々と出て裏庭が覆われてしまいそうなこと。まくし立てる俺に、男は笑った。

「それの何がいけないのですか。実が余っているのならジャムにすればいい。嵩は減りますよ。冷凍して保存もできます。もし種の触感が気になるのなら裏ごしして、牛乳ヨーグルトドリンクに混ぜて飲んでもいい」

騙された。先輩の言っていたことは、正しかったのだ。

呆然とする俺に、男はそうだ、と手を打った。

ラズベリーは手をかけてあげないとすぐに拗ねて他の植物ちょっかいをかけるんです。きちんと手をかけてあげてくださいね

男に送り出され、俺は裏庭に戻った。

放置されたラズベリーは裏庭を覆いつくす勢いで成長している。俺の手には、真新しい剪定ハサミが握られていた。

あの日から六年。恋人もでき結婚した俺は、部下を持つようになった。

賑やかな食堂で、後輩は妻が作って持たせてくれたマフィンを頬張っている。

「それにしても、先輩の奥さん料理上手ですね。このマフィンも、甘酸っぱいジャムが最高です」

「はは、ジャムはうちの庭で採れた新鮮な果物で作ってるから格別だろう」

はい!そうだ、俺も家庭菜園を始めようと思うんですけど、なにかおすすめ植物ってありますか?できればあんまり手がかからない奴がいいんですけど……」

「そうだな、色々あるが…………ラズベリーだけは、やめておけ」

俺の言葉不思議そうな顔をする後輩の斜め後ろの席で、先輩が笑った気がした。

  • きれいにオチてて好き

  • 面白かった

  • ブルーベリーやブラックベリーに比べてオウトウショウジョウバエがつきやすくて食べたときにウジの味するという話ではなかった。

  • ちゅっちゅきみーのあいをぼくはおいかけるんだ

  • 店員さんに対するサイコパス描写すき

  • このラズベリーの伏線と全く関係のない結婚のオチとかが独特の素人臭さを醸す。 俺昔この手のエンドでめちゃくちゃ酷評されたんだが、ここは甘いらしいね。 ラズベリーだけにか。 ...

  • おもしろかった

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