はてなキーワード: 鬱状態とは
まだ読んでるか?
はてなには結構お人好しが居て、前にちょっと食いつめた奴(あなた程深刻な状況ではない)が銀行口座を晒したら、現金を振り込む奴が以外なくらい居たりしたんだ
だから、できるならあなたも住所と名前(ペンネームでいい)を晒すといい
今より状況が悪化することはないだろう
自分も貧乏だが、すぐ食べられて保存もきく多少の食料とかビタミン剤の類い、それに小遣い程度の金なら送れなくもないし
文章から察する限り、暗証番号やパスワードが思い出せない、問い合わせの方法が分からないってのは鬱状態ぽいし
それだけじゃどうしたって色々足りないもんは出るからね
ともかく、良かったら住所を晒すんだ
追記
岡田斗司夫氏はかねてから自分の持っているメソッドで世界の数%を幸せにすると言っていたが、それは後づけ理論であり自分の膨大な欲求を満たすための副産物であるような気がした。
※その辺、行動経済学的にもご自身でわかっていらっしゃるのではないかと思う。
もちろん岡田斗司夫氏の現在の活動や言動を否定するものではなく、人生を豊かにするような有意義なメソッドもあると思うのでそれは各自ググってください。
普通に性的欲求のある一般的なおっさんである私が岡田斗司夫氏の発言を良心的に見てもやはり病的としかいえず、
これが通常の人に近い反応だと思うので、岡田斗司夫氏とつきあっている女性も心に病を持っている人が多そうだが(実際Aさんは拒食症らしい)岡田斗司夫氏自身もたまに鬱になるときがあると語っている以上、やはり類は友を呼ぶというでっかいくくりで()してもいいような気がする。※その他の8人の人に失礼だと思いますので先に謝罪しておきます。
頭のいい岡田斗司夫氏はそういった自分のあふれでる肯定的であり病的な欲求に対して意味を見出すために(意識的か無意識的かはわからない)
あのしゃべりくりや、博学さを身につけていった可能性が高い。「自分の彼女からしか学べない」ともいっています。学びはよりよく生きていくためのツールですからね。
※岡田斗司夫氏のあふれでる病的肯定的欲求をめんどくさいので以下トシオズムと明記。
・一人の人間を大事にすることができなかった。これは最初の奥様との結婚をして気づく。
・sexボランティア:なかなか普通のメンタルでできないことは想像に難くない。ボランティアに所属と言及しているが、本当のボランティアでそんな団体に所属する人はむにゃ※〒々。。。。相手がだれであろうと拒否権がないことを許諾できるのは、トシオズムがそういう団体に所属させたとしか思えない。
・自己嫌悪はない。
・性欲ではない。
あと動画全般にみる「モテ」という表現に過敏というか、俺はもててるとかそういうのではなくて的な言い回しは岡田斗司夫氏は自分のトシオズムをわかっていて俺はこのトシオズムを満たしているだけで、結果的には「モテ状態」なんだが、だからといってみんなにトシオズムを持て!とも言えない自縄自縛状態に見えるのは私だけでしょうか。
岡田斗司夫氏のあの天才的な話術やメソッドの裏にはトシオズムが根太く根付き、膨大なトシオズムパワーから生み出される岡田斗司夫コンテンツはその効果も大きく、その分自身に返ってくるマイナスパワーもあり鬱状態にもなりながらもがいている岡田斗司夫氏を感じる。
なので結論はトシオズム対談ということでぜひ、恐山院内の南直哉さんか、小池龍之介さんと対談して仏教的観点からそのトシオズムを理解・解体・再構築し、昔はトシオズムに揺れていた宮崎哲弥氏も含めた鼎談にすると2015年最強のコンテンツになり得る可能性もあり、世界の数%を確実に救うであろう新たなメソッドが生まれる瞬間を見たいと思うので、
「鬱病」というものを言い訳にしてしまうのは少し卑怯な気もするけれど。
この前病院に言って、軽い鬱状態ですねと診断されたのであまり見当違いではないかとも思う。
でもさー、心療内科にきた患者が「最近頑張れないんです」って言ってたら、
わたしでも言うわ。
どうすればいいんだっけ。
そういえばもらった薬を一つも飲んでないや。
もうわたしはだめかもしれないのよ。
誰か助けてほしいけど、助けを求めるのがめんどうくさい。
周りの人はみんな付き合ってて、抱きしめたりはしてくれない
助けて助けて。
逃げちゃえばいいの?
でも、逃げた先が怖いの。
ねぇお願い、大丈夫だよって言って。
っていうか、大丈夫にして。
もう壊れちゃいそう。
何を書いてるのか自分でもわかんない。
こわいこわいこわい。
自分が、あと何ヶ月後かの自分がどうなってるのかが分からない。
お母さん、ごめんね。
お父さん、ごめんね。
全国の有効求人倍率が1.10倍になって、22年ぶりの高い水準らしい。
この職場に来てまだ1年も経っていないが、常に、このままここに居て良いのかという気持ちがある。
もうすぐ30歳。
幼い頃から惰性で生きてきた。
何かに本気がなったこともない。部活動も続かなかったし。
考える事もしなかった。
家が貧乏だったし大学受験も嫌だったから大学へは進学しなかった。昔から考えもしなかった。
高校を卒業して入った会社ですぐに、自分はこんなにも出来ない奴だったのかと思い知った。なにせミスが多い。
診断は受けてないが間違いなくADHDだと思う。
でも周りの人みたいに「仕事がデキる人」になりたくて、勉強したり本を読んだりしていた。
入社して5年、「ずっとこの会社に居るんだろう」と漠然と思っていたが、
忙しさが続いたある時、突然仕事の全てが嫌になり、休職。結局退職した。鬱状態診断。
それから1年間ニートして、その後は派遣や正社員で働いたりしているが、どれも続かない。
数ヶ月すると突然嫌で嫌でたまらなくなる。何のやる気もなくなる。
身にならない仕事、食うための一時しのぎな仕事だと思っているけど、
残業が無いから自由な時間が多いし、仕事内容の割に時給は悪くない。
自分を諦めて割り切れたら楽だと思う。
一番の理想は、仕事が好きでかつデキて、根性もあって、パワフルに働く。そんな人間になりたいんだ。
夢ものがたりだな。
将来が不安だ。数年後どうしているだろう。結婚はするつもりが無い。
でもまた突然嫌になって辞めてしまうんじゃないか。
仕事も出来ない、バリバリ働く根性も無い、でも自分を諦めきれない。
そんなどうしようもない私は、どうやって生きていこう。
無断欠勤の元増田です。アドバイスありがとうございます。きちんと読んでいますよ。
あれから数日が経ち、気分はかなり軽くなりました。まだ心療内科の予約日は先ですが、無断欠勤を続けていた時に比べて、明らかに鬱状態は軽減していると思います。ただ、あくまで自己判断ですので、心の奥底では鬱屈したものが燻っているのだと思います。事実、職場関係の書類やメールを開いてしまった時には、非常にドキドキしてパニックの寸前にまで陥りますし。
ここ数日は外出できるくらいに、精神的に余裕が出てきました。掃除、洗濯等もこなせるようになってきました。比較的安定してきた精神状態で思うことは、私も(最終的に)転職を目指そうと考えていることです。例えば、仮に「休職(傷病手当受給)→数か月後に復帰」となっても、結局同じことになりそうな気がしているからです。仰るとおり、職場の環境を変えることはとても困難ですし、人間関係なども絡んでいますので、私が望む改善の現実性は恐らく0%に近いと思います。
また、ただでさえ給与の手取り額が13万円ですので、それよりも金額が低くなる傷病手当金をいただきながら一人暮らしを続けるのも、よりストレスが溜まるのかな、という気がしています。貯蓄もありませんし、休職期間中を凌いでいける自信がありません。かといって、実家に帰ることは控えたいです(元々、親との関係性の悪化が原因で実家を飛び出しています)。
心療内科の先生に相談はしますが、現時点での自分の症状と、今後の生活と仕事との折り合いの付け方をどうしていくべきか、きちんと判断したいと思います。
長時間拘束され会議会議の毎日で、上司から叩かれ叩かれ叩かれていた。
上司の夢物語の様なイメージを再現することが出来なくて全員の前で執拗に口撃を行い、誰の目から見てもパワー・ハラスメントだった。
そしてAさんは心身ともにダメになってしまった。病名を聞いたわけではないが鬱状態に近いものだと思う。
毎朝体調不良で休む事が続くようになり、たまに会社に来ても午後には退社。もしくは定時に上がる事がほとんど。
まず上から仕事を振られなくなったので、パソコンをつけてはいるが何もすることがなくキーボードに手を載せたまま固まっている。
元気のかけらもなくなり、みんなに対する態度もよそよそしくなってしまった。
仕事もせず、会社も休みがちになったAさんは当然のように異動となった。
そしてどんな異動の理由なんだろうとグループ全体で送迎会は行われるものだ。Aさんはもちろん参加するのだが、Aさんを壊した上司が出たのはドン引きだった。よく顔を出せたものだと。
繁華街にある魚介がメインのお店は噂通りに刺し身に焼き魚、蒸し料理に鍋となんでも美味しかった。しかし終始お葬式の様に静まり返っていた。
だらだらと時間は過ぎていきラストオーダーも終わり、幹事が上司に挨拶をふった。
・メンバーが足りなくて初めて声をかけたんだよ
・Aくんからは多くのことを学んだよ。
・本当に有難う
・ダラダラダラと15分程度
いやもうね全くあのプロジェクトのことには触れないの。
良い上司の様な挨拶だけど、Aさんをこの状態にしたのはアンタだよな。なんでAさんにペナルティが発生してお前はまったくダメージが無いんだよ。
同期が上にいてつながりがあるのかは知らんが。そうじゃないだろ。
会社は会社でなんでAさんを壊したやつを野放しにしているんだ。
なぜ個別の人間として上の上の上は見てくれないんだ。
色々症状があるけど、鬱以外でもなり得たりするのもあるね。やっぱり素人には正確に判断出来ないなあ。
じゃあ、グレーゾーンの人も多いのか。「最近鬱の人が増えた」って聞いたことがあったけど、今まで発見されてなかったってだけだったんだね。ありがとう!
シンプルだけど本質的で良い質問です。まず双極性障害には1型と2型があります。簡単に言うと激しいのが1型、そうでないのが2型。
1型は怒りっぽくなるので対人トラブルを抱えやすいです。これは悪いことですね。また「過剰に」ポジティブになり、自分に「過剰な」自信をもちます。これは良い事のように聞こえますがそうではないです。
僕が知っているヒトだと、絶対勝てる!といって1000万借金して競馬に突っ込んだ、とか。俺なら当選する!といって突然選挙に立候補しようとして家族を困らせた、とか。いろいろ。ヒヨコ300匹買ってきたとか訳分からんのもあったなあ。
2型は1型ほど激しくはないですが色々困る事はあります。怒りっぽくなるのもそうだし、観念奔逸といって色んなアイデアが頭を駆け巡って訳分からん状態、とかなります。集中困難にもなります。
悪い事ばかりかというとそうでもなくて、ググると分かりますが躁病の天才というのは沢山います。躁状態の時に科学的研究や芸術的創作をすると良い結果がでる事があるようです。双極性障害のヒトの方が芸術家や科学者になる確率も一般人より高いという報告があります。また双極性障害の患者郡はIQが健常人より高いという報告があります。唯一の「頭の良くなる」病気なのです。
躁状態は良い事もありますが、最大の問題は「躁がきたら次に必ず鬱がくる」ということでしょうか。あと躁状態と鬱状態が一人の人間に同居するのでアイデンティティの確率が難しいというのもあります。今日と明日でくるくる人格の変わる友人とは付き合いにくいでしょう?
最初のサイクルは5年とかかかることもある。躁と鬱の間に正常な状態がはいることもある。
躁状態は通常1〜数週間しかもたない、そこから正常な期間を相当時間経てから鬱状態に、というのが初回症状の典型かと。
あと甘いもの(チョコとか)に執着するのは鬱状態の特徴だとか最近言われてる
胃がスッキリしていたっていうのはよくわからないが、「頭もスッキリしてた気がする」というのは診察室でとても良く聞く表現
ネット上だとこれ以上突っ込んだ事はわからないので断定的な事は言えない。そもそも生活に重大な障害を来していないのであれば病気ではない。ただ、元気とだるいの2相を繰り返すような事が今後あれば・・・とだけ言っておきたかった。
また、鬱状態に陥ったとき、薬によって即効的に眠れるようになったり、不安が和らいだりするのは、とてもありがたかった。
だからごく短期で服用する分については、医療行為として適切なことなのかもしれない。
だけど長期連用することで、体が薬に依存してしまい、止めることが難しくなってしまう。
薬を飲み始める以前は容易にできていた仕事が、副作用で困難になってしまう。
医者が長期連用にならないように指導してくれればよいのだが、現実には、逆に多剤大量処方を長期にわたって行なう医者が存在する。
「医者」という権威を利用して、弱っている人間を食い物にする、そういう医者が現実に存在する。
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20120905141516775/
医者にとっては、薬物依存者を増やすことで高収益ストック型ビジネスを構築できるので、多剤大量処方を行ないたいというインセンティブが働くのだと思う。(ごく一部の医者だけだと信じたい)
私は減薬で相当な苦労をした。
これ以上、同じ苦痛に悩む人が増えてほしくない。
だからこれを書いた。
もし鬱状態に陥って、かつまだ薬を服用していないなら、なるべく薬による対症療法ではなく、鬱状態に陥った根本原因(激務、対人関係、環境など人それぞれ)を解決することに注力するべきだと思う。
いま薬を飲んでいる人へ:
急な断薬は止めてください。
クローゼットの中から、小学生のときに友達から貰ったいろんな手紙を保管している箱を見つけた。
一通り読んだら懐かしくなり、それと同時に、現状に悲しくなった。
猛烈に、昔に戻りたくなった。
たひたび昔に戻りたいと強く思うことがある。そういうときって大体さみしいんだなあって。
戻りたいと思う景色は、いつも自分の周りに人がいる。(あ、あとなぜか夕方のアニメを一人で見ながら親の帰りを待つ風景も思い出して、懐かしくて戻りたいなあと思うことがある。)
昔に戻りたいと思うことは今までにも腐る程あった。その都度、こんなこと考えてても戻れないんだって思った。泣くこともあった。だけど何度も思ったから、そこで落ち込むことももうなくなった。
じゃあどうすればいいんだろうって。
もう一度言うけど、戻りたいと思う風景はいつも周りに人がいる。それで、毎日楽しかったんだ。
だったら今を楽しくすればいいんだろうね。っていうのは、今この瞬間を、いつか振り返ったときに戻りたいと思うような瞬間にするためには、今を楽しく過ごすしかないよねって思ったから。
そして考えたんだよ。私が楽しくなくなったのは、一人で塞ぎ込みはじめた頃からなんだって。簡単に言うと、鬱状態で自分のことにいっぱいいっぱいだった頃。それで周りの人を突き放していった。
今見つけた手紙を読みながら、まわりにはいい人がいっぱいいたんだなあとしみじみした。と同時に、もっと人を大事にするんだったと反省・後悔した。
いろいろあって、今の私は人と会うのが怖いけど、楽しく生きるためにはまず外の世界に頑張って飛び込もうと思う。まあ、まずは周りに目を向けることだよね。全て自分のためだと思うからなんとなくだけど決意できる。なんとなくでいいや。どうせ頑張りすぎても疲れるし。趣味もあるし疲れたら一時的に趣味に逃げればいい。そのために培ったぼっちスキルだと思うことにした。どんな経験も活かせるようになればいいよね。
妊娠前は深夜帰宅のそこそこ激務なIT系ブラック企業に務めていて
学生時代にはスポーツをしていたから、心身の健康にはまあまあ自信があった。
私は健康優良妊婦だった。つわりは人並みにあったものの、血液検査の結果も尿検査の結果も毎回良好、血圧も正常。
陣痛は、予定日を3日過ぎた日の夜中にはじまった。
陣痛は、私のちんけな想像をはるかに凌ぐ、ものすごい激痛だった。
痛みの感じ方には個人差があるというが、私にとっては鋭いナイフで下腹部をえぐられているかのような痛みだった。
はじめは軽い腹痛みないなものなのだが、時間経過とともにどんどん痛みが増してくる。
脂汗が全身から吹き出し、痛さからなんとか逃れようと、体が勝手にのたうちまわる。
陣痛のピーク時には、あまりの痛みに気絶し、また痛みで覚醒する、というのが数十秒〜数分ごとに数時間続く。
本当に地獄だった。
見ていた実母が言うには、私は白目をむいていたらしい。
あとから見たら自分の腕が傷だらけだった。こぶしを握っていた手のひらからは、血が滲んでいた。
永遠に続くかと思われた陣痛を超えて、分娩台に移動し、死ぬ思いで我が子を産み落とした。
でも想像してほしい。8時間もの間、一昼夜を越して不眠不休だ。
食べ物は一切口にせず、激痛に体をこわばらせ、死に物狂いでお腹から3キロの塊を出すのだ。
産んだあとは骨という骨がきしみ、体中が鉛のように重く、分娩台から上半身を起こすことさえできなかった。
どこにも力が入らないのだ。
助産師の手を借りて体を起こすと、頭がふらふらとする。
自力ではとても歩けなかったので、分娩台から長い時間をかけて車椅子に乗せてもらった。
その後、入院する部屋のベッドに寝るまでの間、トイレで二度倒れた。
猛烈に体が疲れていた。こんなに疲れたのは生まれて初めてだと思う。指一本だって動かすのがおっくうだ。
体中が汗と血でベトベト、身をよじりまくっていたおかげで、髪の毛は鳥の巣のようだった。
股間は麻酔が効いていたが、鈍い痛みが続いていて、姿勢をかえることすら一苦労だった。
前日から何も食べてないし一睡もしてないし、とにかく疲れきっていて、ゆっくり寝たかった。
だけど、産んだ直後から、母子同室で3時間おきの授乳が始まった。
分娩台で1時間休んだあとは、すぐ個室で赤ちゃんと二人きりにされた。
ゆっくり寝ることも体を休めることもできないまま、ハードな育児の始まりだ。
こんなにボロボロに疲れているのに、すぐとなりに、かよわく、自分で首一つ動かせることもできない赤ちゃんがいる。
「私はゆっくり休んではいけないんだ」という暗い事実は、くたくたの私にとって絶望だった。
この体中の疲労に身を任せた瞬間、赤ちゃんに何かがあったら。この子の命は、この精魂尽き果てた自分次第なんだ。
体中の疲労とともに、ヒリヒリするような緊張感と責任感が重くのしかかった。
産んですぐに母乳がでるお母さんは、実は少ない。
赤ちゃんに吸われることで、それが刺激となって脳内ホルモンが乳房に働きかけ、母乳が出るようになるという。
だから、でなくてもとにかく3時間おきに赤ちゃんに乳首をくわえさせなくてはいけない。
でも、産まれてすぐの赤ちゃんは吸いつく力も弱く、「吸う」こと自体がとても下手くそだ。
赤ちゃんの位置、乳首との高さの調整、手の置所、クッションや座布団をいくつも使って、位置を調整しながら、汗だくで吸わせる。
まごまごしながら右の乳首をどうにかくわえさせる。吸い付いたと思うとすぐに口から外れてしまう。またくわえさせる。また外れる。
そのうち疲れて赤ちゃんが寝るので、起こす。
今度は左右逆のおっぱいだ。
左を吸わせて、おしめを替えて…これでもう一時間だ。
体中が悲鳴をあげていて、眠たくて眠たくて頭が割れそうに痛くて、貧血でふらふらするのに、寝る時間は二時間しかない。
横になる。
すぐには寝付けない。
三十分ほどでようやく眠りにおちる。これで一時間半。
さあ、もう一時間半たった。睡眠時間一時間半で、赤ちゃんが泣く時間だ。
これが朝まで繰り返された。
初日の夜を超えた時点で私の疲労はマックスをとっくに超えてた。
授乳の合間の2時間以下の細切れ睡眠しかとっていないまま、迎えた朝。
翌朝は6時に検温があり、9時に朝食があり、合間に授乳をする。
何をするにも体中が痛くて、だるくて、眠くてたまらず、すごく時間がかかる。
12時にお昼があり、見舞いにきた実母に子を見てもらってる間に急いでシャワーを浴びて歯を磨く。また授乳。
たまった洗濯物をランドリーで洗う。戻ると検診がある。担当の看護師が交代したとかで挨拶がある。また授乳。
赤ちゃんの顔を見に見舞い客がある。相手をする。帰る。洗濯物をとりに行く。
また授乳。
昼はまとめて寝るどころか、横になる時間もろくにとれない。
ねむい、ねむい、ねむい、ねむい…
横になりたい。ゆっくり、ぐっすり寝たい。お願いだから起こさないで。辛い。辛い。辛い。
横になれない。眠れないし休めない。
昼間はろくに眠れない。寝れなかったことに猛烈に焦る。そしてまた夜が来る。
深夜の授乳は鉛のように体が重い。
赤ちゃんは相変わらず上手に吸えないのに、乳首がめちゃめちゃ痛くなってくる。
例えるなら、尖った爪で皮膚をおもいっきりつねられているような痛み。
乳首が切れて血が出てくる。
それなのにそこを吸わせなくちゃいけない。
傷口に鋭い爪がたてられるよう。
授乳のたびに歯を食いしばって、息をのむ。叫びだしそうな痛さに耐える。
出がよくないからマッサージもされる。これがまたすごくすごく痛い。
赤ちゃんがゴクゴク、と美味しそうにおっぱいを飲んでるのが見える。
幸せそうに微笑んでそれを眺めているお母さん。
我が子はおっぱいを一滴も飲めず2日目。産まれてからまだ何一つ口にしていない。
何も飲まなくても3日は胎内にいたときの栄養が残っているから大丈夫だという。
でも、赤ちゃんは日々痩せてる。お腹がすいて泣いてる。まだ産まれてたった2日しかたってないのに、飢えて泣いてる。
大人だって2日くらい食べなくたって死なないけど、すごく辛いよね。
こんな小さな我が子が空腹に耐えてると思うと、切なくて切なくてたまらない。
隣の子はお腹いっぱいで満足して寝てるのに、私の子は空腹に泣き疲れて眠ってる。辛い。眠い。
体中がふらふらして頭がぼーっとする。見舞いに来た夫や実母にひどい態度をとって、ケンカをしてしまった。
看護師が心配して「何か悩み事があったら相談してくださいね」と言う。
「ただ寝たいんです。」
と言いたかった。でも他にもたくさんのお母さんが寝ずに赤ちゃんを見ていて、そんな情けないことどうして言えるだろう。
哺乳瓶でおそるおそるあげると、手をグーにして、目を大きく見開いて、必死に飲んでる。
飲んでる姿を見て涙がとまらない。
飢えさせてごめんねという気持ち。やっとお腹を満たしてあげられるという満足感。
おっぱいが出ない敗北感と屈辱と疲労と、いろんな気持ちがないまぜになる。
4日め、私はもうボロボロだった。見舞いにきた妹に顔を見て絶句された。
赤ちゃんにはミルクを与えることになったものの、母乳への刺激をなくしてはおっぱいが出なくなってしまうため、
つまりは今までのおっぱいとの格闘に、ミルク作りがプラスされて、授乳にもっと時間がかかるようになったのだ。
その分削られるのは眠る時間。ただでさえ1時間半しか眠れないのに、もっともっと眠れなくなる。
でもふらふらで、眠さとだるさは蓄積されて楽になるどころか、いっそう辛くなる一方だった。
とにかく体がしんどくて、ほとんど何も考えられなくなっていた。拷問みたい。
ただひとつ、「ねむい」という欲求だけが、こびりついて離れない。
鏡の中の自分は、真っ青で目の下にくっきりクマができて、10は老けたように見えた。
何もしてないのに、涙が出てとまらない。赤ちゃんがなんだか恐ろしい。かわいいのに、愛しいのに、何より恐ろしくてたまらない。
だって、まだたったの4日め。長く長くいつ続くともしれない育児の、たった4日めなのだ。
このしんどい日々が延々とこれから続く。こんなに疲れてるのに、ぐっすり眠ることの許されない日々が待ってる。
5日め。私は退院を迎え、自宅に戻った。
産後は実家で1ヶ月お世話になったが、こんな調子が2週間続いた。
むしろ、病院では哺乳瓶を洗ったり消毒したりするのは病院がやってくれたから、その分の仕事が増えてますます眠れなくなった。
赤ちゃんが泣く→起きてミルクの支度をする→ミルクを人肌に冷ます間におっぱいを吸わせる→
搾乳した母乳を与える→ミルクを与える→げっぷをさせる→寝かしつける→
たとえば寝かしつけに手こずったり、オムツからウンチが漏れて着替えさせたりなど
何かアクシデントが発生すれば、眠れずに次の授乳時間になることも珍しくなかった。
日に日に、赤ちゃんを見ても可愛いより何より、ただただ、怖い気持ちが蓄積されていく。
赤ちゃんが怖いのに、離れるのはもっと怖い。何かあったらどうしよう。
30分の睡眠は、いつも悪夢を見た。赤ちゃんを落とす夢、踏んでしまう夢、誰かに連れて行かれる夢。
今思うと完全な鬱状態だった。
生まれてから14日めの夕方。
赤ちゃんと二人きりになるのが恐ろしいと、実母の前で号泣した。
陣痛のあの夜から2時間以上眠っていないこと、眠くて眠くてたまらないこと、
夜になるとまた今晩も眠れないと思って焦りと不安で動悸がしてくること、
こんなに体中がふらふらなのに赤ちゃんに何かあったらどうしようかと想像すると恐ろしいこと、
かわいいより赤ちゃんがとてもとても怖い存在に思えること・・・・
泣いて訴えながら、睡眠不足がつらくて赤ちゃんが怖いなんて、自分は母親失格だと思った。
世間のお母さんがみんなできていることができないなんて。
母親なのに、情けなくて仕方がなかった。
その夜は両親が赤ちゃんを一晩みてくれ、私にゆっくり休むよう言ってくれた。
15日目の朝は、驚くほど気持ちが落ち着いていた。
その後の日々は、私の両親はもちろん、夫も毎晩仕事帰りに車を飛ばして会いにきてくれ、手伝ってくれた。
それから、母乳マッサージに通った結果、母乳が十分量出るようになって、
ミルクをあげなくてよくなったため、深夜に哺乳瓶を洗ったり、消毒したりということから開放された。
三ヶ月たった今でも、産後からの2週間のことを思い出すと、絶望感でいっぱいになる。
あのころ本当にただただ寝たくて、寝たくて、
それなのに「もしこの子に何かあったら」ときう緊張感で常に気が張っていて、目を離すのが恐ろしくてたまらなかった。
そのうち、「もしこの子に何かあったら」「病院に入院することになれば」
「そしたら眠れるな…」と考えたことがあって、ゾッとした。
もちろん、あくまでこれは個人的な体験だ。
でも、多かれ少なかれ多くのお母さんに共感できる部分も多いはずだと思う。
もし里帰りしなかったらどうなっていたことか。
私の出産は初産の平均時間12時間より短かったけれど、精も根も尽き果てた状態で育児がスタートしたのがよくなかったと思う。
病院によっては、出産したその日はナースステーションで赤ちゃんを預かってくれるそうだ。
私も、出産後1日でいいからゆっくり眠れていたら、その後に2週間は違ったものになっていただろう。
今は、子はあやすとニコニコ笑って、母乳も順調だ。夜は相変わらず3時間で起きるけど、体が慣れた。
やっと我が子がかわいく、愛おしく見える。
でも、我が子がとても恐ろしく見えた産後2週間のことが忘れられない。
「鬱状態で~なので8/31より休養を要する」という診断書を貰った。
それで、会社に退職届けと一緒に提出すると「ふーん、で? 代りいないからやめれないよ?」ってリアクションを受けた。
今日労基署に相談をすると、病気などの理由があろうと、退職二週間前に会社に通知しないと退職はできないらしい。だから、二週間後に退職することにして、それまで休暇を貰えと言われた。
「休暇くれそうにないんですけど」と言ったら、「安全配慮義務が会社にはあるから診断書を持っている人間を無理矢理働かせることはできない」と言ってくれたので、診断書、退職届け、休暇申請を合わせて内容証明で送った。
これでどうなるかな。
今は薬飲んで精神的に落ち着いているけど、朝はつらくて親に手伝って貰いながら内容証明とか作ったよ。
大人になってまだ親に頼るのは恥ずかしいと思う反面、やっぱり心強いし、最後まで味方になってくれるのは親だなって思った。
その少し前、医者からかなり酷い鬱状態であると診断されており、原因が勤め先にあるのは明白だった
親や俺との日常会話すら支障を来しているレベルなので、しばらくは入院や通院を繰り返しながら療養するしかないだろう
これに激昂したのが親父だ
「俺の息子をこんな風にしやがって!」と息巻き、仕事を数日休んでどこかへ出かけたり、深夜に自室で携帯電話でしきりに誰かと話していたりしていた
一体何をしているのかと俺とお袋(と遠方に嫁いだ姉)が尋ねたが「何も心配しなくていい」としか答えてくれなかったし
しばらくは弟の事で俺も色々と忙しく、そのうち有耶無耶になっていった
それから半年ほどしたある日曜日、背広姿の中高年の男性が三人、我が家にやってきた
「ああ、来たか」と親父は言い、俺とお袋に応接間には呼ぶまで来なくて良いと言い、来客を迎えた
何か「とばっちり」が来るかもと外出を考えたが、お袋を残すわけにもいかず、またお袋を一緒に連れ出して親父と来客だけにしてしまうにもいかず、
俺はしばらく自室で悶々としていたが、ついに好奇心に負けてしまい、忍び足で応接室の隣の部屋へ移動し壁越しにやりとりを盗み聞きしてやろうと思い立った
その部屋では既にお袋が聞き耳を立てていた
俺が部屋に入ると、お袋は壁を指さすようなジェスチャーをして見せ、そして再び壁に耳を押し当てた
俺も隣でお袋と全く同じ体勢をとった
途中からだったが、弟の(元)勤め先が現在存亡の危機に瀕しており、どちらに転ぶかは「何故か」親父の一存次第のような状況になっているようで、
来客達は親父のご機嫌を取りに来た、というのが、隣のお袋の解説もあって理解出来た
そして親父は声だけで分かる位に上機嫌で、経営者達が望んでいない方をとるとあっさりと言い出した
そこを何とか、と食い下がる来客達はとうとう土下座までし始めたようだったが、親父は笑顔のまま切って捨てるように言った
私はね、あなた方を尊敬しとるんですよ。尊敬しとるからこそ、どん底から這い上がってトップに上り詰める喜びを、もう一度味わっていただきたいのです。
どん底からたった一度だけ上り詰めた人間なんぞ、世の中にはゴロゴロおります。凡人はたった一回の成功で満足してしまいますわ。
でもね、二度三度とどん底に落ちて、それでもトップに返り咲いたというのはそうそうおりません。それが出来るというのは、それはもう歴史に名前が残るような人ですな。
そういう大偉業を、あなた方は出来ると私は信じておるんです。信じているからこそ、あえて心を鬼にして、おたくんとこをワヤにしようと思っとるんですよ。
そしてね、次にトップに這い上がった時、さらに大きな成功を掴んでいただきたいんですわ。
きっとそのときにね、あなた方は私の真意を理解してくれる。だから今のあなた方から恨まれる事も、私は何とも思っとりません。
親父のあまりに常軌を逸した「演説」と来客達の尋常では無い混乱ぶりに、「不測の事態」を覚悟した俺は自室へ一旦戻り金属バットを持ち出していたが、
それからほどなく、来客達はまるで水墨画の幽霊のような形相で、お袋が差し出したお土産にすら反応する事なく去って行った
晴れやかな顔で親父が応接室から出てきた
「○○(弟の名前)がそろそろ病院から帰ってくる頃だな。母さん、今日は寿司でもとるか。○○が好きなネタは何だったかな」
俺とその翌月、弟の(元)勤め先が潰れたと地方紙に小さく載った
りっしょうりんりこうせいかいの悪口をいうのはやめーw
あれは(地域にもよるけど)自分のリズムがつかめなくて鬱状態になりがちな専業主婦を
夜勤の旦那につきあう奥さんむけじゃなくて、純正サラリーマン主婦向けだったので。
あと、無邪気な人ほど「私が祈ったからうまくいったのね☆」とかいっちゃうけど、
その人なりの祝福(おめでとう)の一種と受け止められれば腹もたちませんよ。
あなたもぼーっとするっていうし、ふたりとも今でいう鬱病っぽかっただけじゃないのかとおもいます。
お父さんも口べたっていうけど口がうまくてぬめぬめ逃げ回る外面父さんというのもいる。
まわりの人もいわないだけで全く普通の家庭って世の中にはないよ。子供は異物なんだから。
不器用な父母をみて憎んでいれば、うまれつき不器用な自分を憎まなくてよくて楽だっただけだってあとで気づくとおもう。
時の流れというのは早いもので、2013年ももう5ヶ月過ぎた。
いつもこの時期になると聞こえてくる言葉の一つに「5月病」というものがある。意味は知っている方も多いと思われるが、簡単に説明すると意気揚々と4月に飛び込んだ新しい環境に馴染めず鬱状態になったり「本当に今のままでいいのだろうか」とやけに軽く焦ってきたり(これはもしかして僕だけだったのだろうか)する精神状態のことを言うらしい。
何分僕もその頃、まだ若いというのに人生の意義や今後の進路について過剰に煩悶していた張本人であった。当時、高校1年生の頃だった。そして、なんと勝手に地方から東京に出、結果的に約3年間を無駄と化してしまったのである。
これから僕が書くのは「懺悔」の文だ。と同時に、今頃僕と同じ、正確には3年前のあの頃の僕と同じ精神状態に陥っている高校生(もしかしたら中学生も含むかもしれない)への、ちょっとした戒めの文でもある。稚拙ながら、その点ご容赦願いたい。
先に言っておくと、僕は現在とある地方の予備校生だ。まあ、タイトルからして分かるだろう。全くといっていいほど勉強していなかったから、大学なんて受かるはずもなかった。
ここまで書くと、「なんだ、予備校生なんて日本に何万人といるよ」と思われるかもしれないが、そういう類ですらない。学校でも全く勉強という勉強はしなかった、授業すらあってないようなものだったのである。
正直に言うと、現在の僕の学力は高等学校普通科に換算すると1年の1学期ほどまでの学力しかない。いや、3年間ほったらかしにしていたからそれからさらに落ち、中学校程度しかないのではなかろうか。(参考程度に12月に受けた河合模試の結果を書いておくと、国英社平均して偏差値30台後半だった。)
はい、全くもってその通り。が、気づくのが遅すぎた。
ただ単にさぼっていたというわけなのだが、学校で寝たりしていたのではない。むしろそれ以下だった。学校という学校に通ってすらいなかったのだ。あの頃の僕は本気で「勉強よりも今やるべきことがあるはずだ」と思っていたのである。「学生」なのに。
というわけで論より証拠、僕のこの3年間の動きについて、書き綴ってみようと思う。まさかこの年で自分の行いを振り返る事があるとは思わなかった。しかし、これもあの頃の僕のように著しい思い違いをしている高校生を一人でも思いとどまらせるためのものだ。
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今となっては途方もなく堕ちた僕だが、小、中とまでは何処にでもいる学生だった。高校もまずまずの進学校、といっても地方なのでその高校の偏差値も50台半ばだが、とまれ当時の僕はそれぐらいの学力はあったのである。
しかし、その僕に変貌が訪れてしまうきっかけとなる出来事が3年前、高校1年生の今頃に起こってしまう。
僕は丁度、テレビを見ていた。すると、僕と同じ高校生なのに、学校とは別に団体を作ってボランティア活動に従事したり、あるいはビジネスで大人の人と渡り合い、あるいは海外で外国の経営者や政治家と直接話し合っている高校生が特集されていた。いわゆる「意識の高い学生」である。
今ではどうやらこの言葉は大学生を主として使われているらしいが、僕の場合この意識の高い高校生を見て衝撃を受けたのである。そして、「これこそ今僕がやるべきことだ」と「気づいて」しまったのであった。
その頃の僕は大多数の同世代の例に漏れず、思春期特有の将来に対する漠然とした不安というものがあった。皆さんも「このまま何となく大学を出て、何となく会社に入って・・・というつまらない人生でいいのだろうか」と、自分の進路に悩んだ方、悩んでいる方も多いのではないだろうか。こういうのは本来時間の経過とともに治まっていくものだが、僕の場合、変にこだわりが強いせいかそれはもう延々と悩み続けた。そこに前出のスーパー高校生の登場である。
もちろん、一地方の田舎でそんな活動ができるわけはない。特集されていた高校生も、みな東京の学生だ。元々上京意識が高かった事もあったが、彼等を見てついに僕も上京を決心する。
早速両親に上京を掛けあってみたのだが、勿論のごとく変えてくるのはありきたりの言葉だった。
「なんで今なんだ」「大学出てからにしろ」「そんなこと考えてる暇があるなら勉強しろ」「その高校生は特別なんだ」「そもそも具体的に何するの?」
今となっては、実にあたり前のことだった。しかし、僕は知っていた。いや、知ってしまっていた。世の中の偉人と言われる人は皆、周囲の反対を押し切った人が成功しているのだと。
繰り返しになってしまうのだが、あの頃の僕は本当に前しか見ておらず、成功者の自伝などを読みまくり、その結果としてこれはある経営者の高校生時の状況と瓜2つだということを感じ取ってしまった。SoftBankの孫正義である。彼も高校生時代に、周囲の反対を押し切りアメリカへ行ったのだ。アメリカと東京という違いはあれど、まさしく今の僕と同じ状況ではないか。
・・・その頃の僕は気づいていなかった。1人の「成功者」と呼ばれる人物の裏では、何百人という人々が涙を飲んでいるという事実に・・・
かくして僕は、とうとう貯めていた貯金の全てを使い切り、抗議の意志を示すかのごとく断りなく一人単身で東京に行ってしまったのである。安い旅館に何日も泊まり、東京行きを正式に認めてもらうまで家には帰らないと突っぱねた。その頃、季節はもう夏になっていた。
そしてついに両親は根負けし、東京行きを認めることになった。マンションの一部屋を借り、学校にも転入届を出すことになる。
ここに、間違いがあった。転入先の高校を通信制高校にしてしまったのである。池袋駅東口をでて大通りを歩くとビルの上にでかでかと緑の看板があるあそこだ。前にも書いたが、勉強なんてそっちのけでやるべきことがある(が、はっきりとはしてなかったし結局しなかった)というのが僕の持論だったのだ。根拠のない自信である。「ただ単に勉強にあくせくするだけの高校生活では後悔する。それよりもむしろ高校生という立場を利用して、社会的にコミットしていくべきではないか」と。勿論、学習塾の類にも通わなかった。
・・・いや、「学生」の意味わかってるか?と今になって突っ込んでも、もう遅いのだ。
さて、東京に来た秋から卒業してから連れ戻される今年3月までは、すべてを語るともう読むだけで日が暮れてしまうだろうから、かいつまんでだけ説明する。
まず、多くの本を読んだ。上京する前から本は読んでいた方なのだが、上京してからは大型書店がたくさんあったこともあり、大量に購入してむさぼり読んだ。内容としては社会問題(震災、ボランティア等)や政治経済、自己啓発書、著名な経営者が書いた本などが主であった。
次に、自由に使える時間を利用して、様々な講演会に出かけた。これは東京でだからこそ出来る代物であろう。政治家、各省庁の役員、NPO団体の代表、大学教授や評論家、新聞記者さんなどが開催する講演会やシンポジウムである。僕は前もって作った名刺(といっても名前と電話番号、メールアドレスしか描いてない素朴なものだった)を持って行き、終了後に社会人に混じって名刺交換に励んだ。「学生です」と言うと「こんな若いのに立派だねえ!」と返してくれる。それが嬉しかったのか、どんどんと基本的に社会人向けの講演やシンポに出席するようになった。周りがスーツだらけの中1人洋服だとしても、全くお構いなしだった。
他にも参宮橋近くにあるいわゆる意識の高い人達がいっぱい集まる某センターに何度も紛れ込み、迷惑になるので名前は明かせないが様々な団体と交流したり付属の宿泊施設に泊まったりすることもあった。
その他にも興味のある大学の授業にひっそりと出席したりと、まあ思いついたことをそのままやってみせた。
ここまで聞いて、「何だ、結構すごい事やってんじゃん」と思った方もいるかもしれない。
確かに、当時僕が交流していた学生にはテレビや雑誌で紹介された経験もあるようなすごい人もたくさんいた。が、彼等意識の高い学生と、僕とが全然違うファクターが1つだけあったのである。
それが、「学力」だ。
僕は、一般の高校生が学校に行き、その後学習塾に行き、ヘトヘトになって帰宅して更に課題に追われているその間に、好きなまましてきただけのことだった。先述した他の学生は学校に行った上で、その他の活動もしていたのだ。この時点で差は明白だったのだが、これも今だから言えることである。
とは言え、当時の僕がいかに学力で劣っているかは、当時の僕自身も知っていたことではあった。
3年生になった。そろそろ進学先を決めねばならない。しかし、学力は無い。じゃあどうするか。
学力の無い僕にとっては大学に行く手段としては自己推薦・AOしかないわけで、実は上京した当初からそれを狙っていた。そのためにこれまでたくさんの一般高校生とは違う活動をしてきたんだ。この経験は大きいだろう・・・
とまれ、そのためには小論文や自己推薦書の練習をしなければならない。偶然にもイベントで何度も同席していたとある都立高校生が、論文対策にこれまでも同試験で多数の大学に合格者を出しているW塾を教えてくれた。
が、ここに相談に行った時に、僕のこれまでの一連の楽観的考えを一気に叩き潰される出来事が起こるのである。
推薦対策のコース説明を聞き終わり、帰宅前にアンケートを書いていた時の事だった。
「あ、〇〇高校さんなんですか。」
「ええ、そうです。」
「あの、確かそこって通信制高校でしたよね。」
「はい、そうですが。」
「・・・言いにくいことですが、通信だと推薦やAOは難しいですよ。」
考えてみれば確かにおかしな話である。「今までの画一的な学力入試にとらわれない多面性を重視した新しい入試方式(うろ覚え)」なのに、どうしてそんな差別があるのか。
そこから先は、今まで何度かこの文章の中で自分自身でつっこんできたことそのままだった。手短くまとめると、背伸びをする前に学生としての本分を果たせとのことだ。反論できなかった。呆然とするしかなかった。
しかし、今まで普通科以外の高校から合格した人もたくさんいるのではないか。苦し紛れに反論した僕に、更なる追い討ちをかける。
「何か、これだけは日本一だと誇れるものはあるか?」「何かの大会で優勝したり入賞したことはあるか?」「テレビか、ニュースで報道されたことがあるか?」「まあそうじゃなくても、せめて何かの団体を率いたり、主催をしたことがあるか?」「そもそも、東京に来た目的ははっきりしたか?」
・・・今考えると、最後は「それをはっきりさせるためにここに説明を聞きに来たんでしょ!」と反論できなくも無かったかもしれないが、その他の部分ではもはや撃沈であった。
どう帰ったかは、よく覚えていない。こんなにはっきり言われたのは、初めてだったのだ。確かに通信制の学校で、何も勉強せずに大学に通った例は、たとえば芸能人とか、ゴルフなどで優勝したとか、ケン玉で日本一になったとか「特筆すべき何か」を持ってる人ばかりだった。
だが、一般高校の場合はまた違ってくるだろう。僕も今まで、さまざまなW塾出身の合格者に出会ってきた。しかし、その人もたいてい何らかの(小さいながらも)組織の代表を務め、さらに将来に対する明確な目標や問題意識を持っていた。
冷静になって考えてみると、通信云々という前にこの時点でアウトだったのかもしれない。僕は「東京に一大決心をして来る」ということを「目的」としてしまったのだ。その後にやってきたのは皆、講演会にしてもイベントにしてもシンポジウムにしても、ほかの誰かが開催したものにただ参加したというだけ(しかもお金まで払って)の、単なる「客」だったということだ。はっきり言って「受動的」。これではダメだ。
誰が、こんな人を入学させるのだろうか。
しかも僕の場合はさらにひどく、このような活動をしていないほかの高校生を見下してさえいたのである。先述したとおり、「学生」の本分を完璧に忘却していた。当時僕が「見下していた」多くの学生は、今頃大学で楽しい生活を送っているのだろう。対して僕は予備校詰めだ。これはある種の罰なのだろうか。
話がそれた。
W塾での出来事は相当こたえたが、だからといってあきらめるわけにもいかない。これで受からなければ、とても大学には進めないのだ。僕はありとあらゆる大学の資料を取り寄せ、自己推薦書や小論文を書き出願した。やみくもに書いたわけではない。このころになると都内の有名どころの大型書店の地図は全て頭の中に入っていたから、何店舗か回って関連書籍を買い漁った。文の書き方から何まで丁寧に指導してくれていた本もあり、それも参考にしながら今までやってきたことや思ってきたことを全て提出用紙に書きなぐった。何が「お前じゃ難しい」だ。今に見ていろ。何校も受かって、鼻を明かしてやるからな。
帰ってくる不合格通知の山。僕は、目の前が真っ暗になった。今までやってきたことは何だったんだ。
伊達にW塾は毎年何十人も推薦合格者を出してきたのではなかったのである。
しかも、出願前に必要事項を記入していてわかったことなのだが、大学側が求めた記入事項にも、それを裏付ける所があった。人間性のみを見るはずなのに、通っている高校が「普通・定時・通信」のどれなのかを記入しなければいけなかったのだから。
久しぶりのスクーリング日。担任の先生に言われた。「そろそろセンターの準備はできてる?」
もう、2012年も残すところ1ヶ月だった。
12月、僕は初めてセンター模試というものを受けてみた。といっても、これは今年のセンター模試の最終回だったらしいが。
結果は、始めの方に書いたとおりだ。センターまであと1ヶ月ちょっと、このままの成績で大学に受かるなど、ドラゴン桜のカリスマ先生が今一堂に会しても不可能だろう。そもそも、勉強の習慣さえついてない。
もちろん、模試の時書いた志望校の合格可能性欄は軒並みEだった。・・・いや、1つだけA判定があったな。ちょっと前に2ちゃんねるで騒がれていて、ネタのつもりで書いたBF校、日本橋学館大学。進学させてくれなかったけど。
卒業式には、行かなかった。
よく覚えていないが、このころは全ての夢が潰えたショックで、ただひたすらに家でぼーっとしていたような気がする。
―――Check mate―――
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
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どうすれば治るかって、自分が他人を見下していてプライドが高くて人の話を聞く気もなくて
実は感謝なんぞする気もないって認めることじゃないんですか。
一応形を取り繕おうとして人の話を聞くふりしてたり、感謝するふりをしてるからそうなるんじゃないの。
人に言われたくらいで変わらんよ。まずはあんた自身が自分のありのままの傲慢な姿を認めて
それを出せばいいんじゃない?それで疎まれても自分の本性なんだからいいじゃん。
本当にそれじゃやっていけなくなったら強烈な鬱状態に突入して引き籠って、それを超えたら変わるよ。
そんくらいの過程を経ないと人は変わらん。口だけ言ってたり本心を取り繕おうと仮面をつけている限り、
一生変わらん。結局、その仮面をつけてる状態でいいから、今の貴方の状態なんだろうと思うけどね。
神経症の症状とかに出ていたらまた話が変わってくるがね。
何だか主張がブレブレですよ。
>厳密に言わなければ「性転換は必要に迫られたものが多く、美容整形はファッションでするものが多い」と言える。
言えないよー。件数データあるなら出してみろよ。
「性適合手術は法的規制によるフィルタリングがあるので専門医師の診察を経て必要性が認められたものが圧倒的に多く、美容整形は法的規制がないので実態不明」とは言えるだろうけど。
「じゃあ法的規制かければいんじゃね?」はナシなのが惜しいね。
例えば美容整形を正式に心療外科あたりに位置付けて顔が原因で鬱状態その他に陥っていると認められた患者にだけ施術することにしたとしても、施術の結果確実に患者の鬱状態その他が治るなんて誰にも明言できない。
医者が責任持てるのはせいぜい希望通りの顔に出来たか否かまでで、希望通りの人生になるかまで請負えないよね。
整形ってだけで叩きが強い世の中ならなおのこと。
>で、必要に迫られての手術であれば、性転換にしろ、美容整形にしろ、そこまでブーイングを受けない。
>さらに言えば、「美容整形に対するブーイング」は感性の問題でしかない。何だと思ってたんだよ。
これ両方合わせると、「美容整形に対する必要性はオレがオレの感性で決める」ということになるんだけど、それって「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな(AAry」の域を出ないじゃん?
だったら美容整形を受ける当人がその必要性を自身の感性で決めて受けることの何が誹りを得なきゃなんないのかやっぱり不明だし、そうなるとブーイング自体が単に厚かましい迷惑行為でしかないよねってことになって、結局話が戻ってきちゃって意味がないんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20130114005901
これ書いた元増田ですが、日に日に症状が重くなって、現在は極度の過眠症に陥っています。
病院にも行きました。来月から投薬治療を始めようかと思っています。
病院では「軽い鬱」って診断されました。これで軽い鬱だったら、もっと重い鬱ってどんだけ辛いんだ…と怖くもなりましたが。
ぶっちゃけパワハラとかもあるんで、普通だったら退職してしかるべきなんですが、この職場を離れると行き場がないのも事実。
ちなみに、今月は強烈な不安感と鬱状態と過眠で休みまくってしまい、家賃払えるかどうか微妙な状態。
これからどうなるか分からんけど、すみません、何か吐き出さないといてもたってもいられなくなってしまいそうで。
ストレスで血便出している人がいたけど、その人に比べたらまだマシなんだろうか…。