その少し前、医者からかなり酷い鬱状態であると診断されており、原因が勤め先にあるのは明白だった
親や俺との日常会話すら支障を来しているレベルなので、しばらくは入院や通院を繰り返しながら療養するしかないだろう
これに激昂したのが親父だ
「俺の息子をこんな風にしやがって!」と息巻き、仕事を数日休んでどこかへ出かけたり、深夜に自室で携帯電話でしきりに誰かと話していたりしていた
一体何をしているのかと俺とお袋(と遠方に嫁いだ姉)が尋ねたが「何も心配しなくていい」としか答えてくれなかったし
しばらくは弟の事で俺も色々と忙しく、そのうち有耶無耶になっていった
それから半年ほどしたある日曜日、背広姿の中高年の男性が三人、我が家にやってきた
「ああ、来たか」と親父は言い、俺とお袋に応接間には呼ぶまで来なくて良いと言い、来客を迎えた
何か「とばっちり」が来るかもと外出を考えたが、お袋を残すわけにもいかず、またお袋を一緒に連れ出して親父と来客だけにしてしまうにもいかず、
俺はしばらく自室で悶々としていたが、ついに好奇心に負けてしまい、忍び足で応接室の隣の部屋へ移動し壁越しにやりとりを盗み聞きしてやろうと思い立った
その部屋では既にお袋が聞き耳を立てていた
俺が部屋に入ると、お袋は壁を指さすようなジェスチャーをして見せ、そして再び壁に耳を押し当てた
俺も隣でお袋と全く同じ体勢をとった
途中からだったが、弟の(元)勤め先が現在存亡の危機に瀕しており、どちらに転ぶかは「何故か」親父の一存次第のような状況になっているようで、
来客達は親父のご機嫌を取りに来た、というのが、隣のお袋の解説もあって理解出来た
そして親父は声だけで分かる位に上機嫌で、経営者達が望んでいない方をとるとあっさりと言い出した
そこを何とか、と食い下がる来客達はとうとう土下座までし始めたようだったが、親父は笑顔のまま切って捨てるように言った
私はね、あなた方を尊敬しとるんですよ。尊敬しとるからこそ、どん底から這い上がってトップに上り詰める喜びを、もう一度味わっていただきたいのです。
どん底からたった一度だけ上り詰めた人間なんぞ、世の中にはゴロゴロおります。凡人はたった一回の成功で満足してしまいますわ。
でもね、二度三度とどん底に落ちて、それでもトップに返り咲いたというのはそうそうおりません。それが出来るというのは、それはもう歴史に名前が残るような人ですな。
そういう大偉業を、あなた方は出来ると私は信じておるんです。信じているからこそ、あえて心を鬼にして、おたくんとこをワヤにしようと思っとるんですよ。
そしてね、次にトップに這い上がった時、さらに大きな成功を掴んでいただきたいんですわ。
きっとそのときにね、あなた方は私の真意を理解してくれる。だから今のあなた方から恨まれる事も、私は何とも思っとりません。
親父のあまりに常軌を逸した「演説」と来客達の尋常では無い混乱ぶりに、「不測の事態」を覚悟した俺は自室へ一旦戻り金属バットを持ち出していたが、
それからほどなく、来客達はまるで水墨画の幽霊のような形相で、お袋が差し出したお土産にすら反応する事なく去って行った
晴れやかな顔で親父が応接室から出てきた
「○○(弟の名前)がそろそろ病院から帰ってくる頃だな。母さん、今日は寿司でもとるか。○○が好きなネタは何だったかな」
俺とその翌月、弟の(元)勤め先が潰れたと地方紙に小さく載った