はてなキーワード: 伝統とは
みなさんはコップの水を目の前の人間にぶちまけたことがありますか?
わたしは一度だけあります。土下座している人に向かって、そのとき持っていたコップの水を全部勢いよくぶちまけました。うわっ、ますますドラマみたいだなと思いました。
すなわち、わたしには「土下座して謝っている人に向かってコップの水をぶちまけた経験」があります。稀有な経験だと思いますが、リアルで話すと絶対に引かれるので、致し方なく匿名ダイアリーに書いています。
どうしてそんなことをしたのか?
相手が土下座という、およそ非現実的な謝罪方法を選択したとき、わたしは強い危機感を覚えました。彼の必死さが怖ろしく、一方で、ここで舐められたら終わりだと思いました。わたしが相手を絶対に赦さないことをはっきり示し、復縁を諦めさせる必要があると感じました。
伝統的には土下座をしている相手を踏みつける方法もありますが(ドラマとかで)、現実にそれをやると犯罪なので、とっさに手に持っていたコップの水をぶちまけました。水は弧を描いて、土下座をしている相手の後頭部と背中を濡らしました。
厳密に言えば、これも暴行罪に該当する可能性がありますが、場所が自宅のリビングで相手はパジャマ姿だったので、万が一、被害届を出されても警察は動かないだろうと考えました。
相手は、土下座して謝っている最中に水をかけられるという完全に異常な状況であるにもかかわらず、特に驚く様子もなく、か細い声で「ごめんなさい。本当に反省してる。許してほしい。」と言いました。
わたしはここが正念場だと思ったので、普段は出さない大きな声で「うるさい。早く出て行け。視界に入るだけで不愉快だ。」というようなことを言いました。その夜はさすがに眠れませんでした。
その日に至るまでの3カ月間、彼はほぼ一日おきに「とても反省している。愛しているのは君だけだ。君を失ったら生きていけない。なんでもするからやり直すチャンスをくれ。」といった内容のポエムメールを送ってきていたのですが、その夜を境にピタリと止み、2週間ほどで荷物をまとめて出て行きました。
彼が去ったあと、がらんとした部屋のテーブルの上に記入押印済の離婚届と一緒に四つ折りにされた便箋が置いてあり、確か「君と暮らした10年間、とてもしあわせだった。本当にありがとう。傷つけてごめんなさい。」というようなことが書いてありました。
わたしはそれを読んだあと、すぐに鋏で細く切って他のゴミと一緒にマンションのゴミ捨て場に持って行きました。
部屋に戻って靴を脱いだ瞬間、ああ本当に一人になってしまったんだなという実感が湧いてきて、涙が溢れて止まらなくなり、床にうずくまって、文字通りわんわんと泣きました。
離婚したことについて後悔はなかったのに、それでも10年の歳月はあまりにも長く、喪失感は大きく、どうしようもなくてわんわん泣きました。
それからの一年は、これまでの人生で最もつらい期間でした。一番つらかったのは、人を信用できなくなったことです。わたしはおろかだったので、10年も一緒にいた相手が病的な嘘つきであることを見抜けなかったのです。客観的な証拠により相手が膨大な嘘をついていたことが分かった後は、誰も彼もが嘘つきに見えました。
周囲の人からは、なんであんなにいい人と離婚したのか、もったいないと責められたり、浮気は男の甲斐性だ、許せない女のほうが悪いと説教されたりしました。
離婚後も相手からは「元気にしてる?君のことをとても心配している。落ち着いたらまた会えないかな。」といった内容のメールがときどき来ていたのですが、返信せずに削除していました。
最近連絡がないなと思った矢先に、「ご報告」という妙にかしこまった表題のメールが届いて、開けてみると「結婚(再婚)することになりました。相手は妊娠しています。」といったことが神妙なトーンで書いてありました。彼が出て行ってから半年も経っていませんでした。
彼の再婚相手は、複数人いた浮気相手の誰でもなくて、わたしもよく知っている、ほんの数日前に一緒に食事をした女性でした。わたしは彼女を友人だと思っていました。お酒がとても好きなはずなのに、その日はガス入りの水しか飲まなかったので、体調が悪いのかなと少し心配していたのです。ああ、なるほど、妊娠していたからアルコールを飲まなかったのかと妙にスッキリ腑に落ちました。
わたしは、「土下座して謝っている人に向かってコップの水をぶちまけた」瞬間が一連の出来事のクライマックスだと思い込んでいたので、まだ続きがあるなんて想定外でした。事実は小説より奇なりとはこのことかと思いました。
そして、ようやく治り始めた傷口に乱暴に塩をすり込むようなことをした彼らを強く憎みました。彼らを憎んでも自分を損なうだけだと頭では分かっているのに、感情がコントロールできなくて、四六時中、彼らがしたことについて考え、彼らが不幸になるように願いました。そのときには、もうわんわん泣く余裕もありませんでした。
彼が出て行ってから一年くらい経ったある日、気が付くとすべては過去になっていました。時折、激しい憎しみの名残が発作のようにやってくるのですが、それも長くは続かなくなりました。ただ、不倫や浮気を美化する内容のドラマや小説に強い嫌悪を感じるようになりました。
彼らが不幸になったかも知りません。子どもは無事に生まれたらしいと風のうわさに聞きました。それでよかったと思います。わたしの見ている前で、彼らが不幸にならなくて本当によかった。
さっき「離婚して、わんわん泣ける女になりたかった。」というタイトルの記事を読んだら、一連の記憶がフラッシュバックしてつらくなったので、気持ちを静めるためにこれを書きました。
自分の経験に照らすと、記事中できれいごとを言っている元夫は嘘つきで、本当は慰謝料を払わずに離婚して他の女性と再婚したいだけなのではないかと感じましたが、そんな風にうがった考えを持つことは人を幸せにしません。
IT業界は日本社会の縮図となっているんだよ - こうして僕らは腐る
http://www.byosoku100.com/entry/2018/01/13/212749
ITを学んでIT企業に就職して、この国のIT企業はきっとCIAか何かによって弱体化を図られたとしか考えられないと思いました。
自分でロジック組んだり、アルゴリズムを考えたりする仕事をさせてくれている会社もありますが、会社の規模がでかくなればなるほどそういう仕事は下流に任せる感が強い。まずこの構造が弱体化の出発点。
多重下請構造は、製造業日本ならではの伝統、下流=低賃金が根強い。背広を着た人がその伝統文化を売り捌く。文化が短納期、安請け合いを生み、短納期、安請け合いにより、品質が下がり、雇用も安く済まされ、弱いSEしか集まらず、国際競争力はなくなる。この下請け構造文化を持ち込んだのは、他ならぬ製造業文化を固持してきたメーカー系ベンダーのように思えます。メーカー系ベンダーはCIAだからなんだかのスパイ行為に加担したのでしょうか?
実はそんなメーカー系ベンダーにもいたのですが、ぽっと出の強いSEもいます。ところが強さが仇となり、全容を把握している神扱いで一段上に据えられます。そして多忙を極め、ロジックやアルゴリズムをひねり出す知的生産力は、仕様書、指示書と呼ばれるエクセル方眼紙に図形や文書を書き殴る作業力へと変貌します。
指示は全て自社フォーマットの図面に書け!その図面、審査、承認を課長に貰え!え?予算の都合、本部長承認が必要?本部長いつ来るの?1週間後だって!?リスケだ!工数再見積もりだー…これは仕事ですか?それとも茶番ですか?こうして強いSEは弱体化します。強いSEほど自分の置かれた立場や環境に順応しようとする意識が強く、仕事ができる人間になるためにはお上に楯突かず、弱体化を受け入れようと考えます。
エクセルのvlookupを使うために、学生時代に関数型言語を学んだわけじゃないのに…と就職して思うようになったunix文化を学んだ強いSEが、思考停止している情シスによって管理しきれないものは全てセキュリティホールみたいな会社にいたら、「あいつはセキュリティを脅かす不良社員」のレッテルを貼られ、朝から晩までvlookup,vlookup...(いやそのエクセル脆弱性情報とパッチ出ているけど、いやお上のお達しを待て!的な茶番劇)せめてgrep,awk,sedくらい使わせてやれって、残業がなくなってボスも最近社長の思いつきで始めた健康経営者として表彰されるかもしれんよ?思いつきだから明日あるか分からんけど…。いつまでこんな寸劇をやればいいのやら。学んだことは活かせません。茶番寸劇の中心にはやはりこの国のIT業界を弱体化させ国際競争力を低下させるスパイが潜んでいるとしかおもえません。
ここで、IT業界に蔓延る日本の国際競争力をいちぢるしく低下させているスパイの特徴を述べておきます。
スパイの目的である国際競争力の低下にダイレクトにアプローチするスパイ中のスパイです。こいつがいたら即辞めないと国や社会のためにも良くないです。
・「よく分からないものはセキュリティの都合使えません」と思考停止している人
お前はそのツールのコミッターでそのツールの脆弱性を分かってそんな事を言っているのか?と、せめて同僚がツールの有用性を知りつつ使いたいっていうならそれなりのセキュリティ的可用性を示すのが情シスの仕事じゃねーのかと?まぁこの場合スパイなのでそんな調査は死んでもやりませんが…
スパイの常套プロパガンダです。明らかにおかしな言動なのでスパイの中では未熟者なのかもしれません。
そのままでは通用しないけど、出発点であるべき。でなければその空白を埋めるコストをどうしろと?そんな言葉をマジで吐く人間は出発点にすら立たせて貰えていない場合が多い。ただ言葉を吐くスパイは、スパイが故に企業内の立場は上のほうにいるかもしれません。出発点に立っていなかろうが
よく考えてみてください。遵法精神のあるスパイがいると思いますか?そもそもこのスパイが蔓延る構造は日本社会に根深く浸透しているので、法律を取り締まる側もうまく騙されていると考える方が自然です。労基法、下請法、派遣法…機能しないのも当然です。
FPS初心者にはBORDERLANDS2が遊びやすくていいよと言われたので銃撃つのとかあまり興味なかったけどセールで買ってあそぶ
うん面白い半裸マッチョのおっさんがどのゲームでも戦闘能力バカ高いのは伝統かなんかなのだろうかと思ってプレイしてた(仮面の変な人は最後まで慣れなかった。なにアレ)
じゃあ銃撃つゲーム慣れたなと思って他のお安いセール名作ゲーム買って遊んでみたんだけど、ぜんぜん面白く感じない
銃や特技のバリエーションがないとか経験値によるレベル差補正サポートとかがないのはいいとして、他のゲームはおおむね殺伐とし過ぎである
排除のための排除の真面目な射殺という感じがして、やってて気分が陰鬱としてくるのを感じる
BORDERLANDSのダメな人しかいない死が緩い世界観で救われてただけであって、どうやら「銃撃つのとかあまり興味なかった」という部分が矯正されたわけではないようだ
追記になるが、アイドルマスターsideMはアイマスではあるが765でもなければシンデレラでもミリオンでもない、新しく生まれた「sideM」というジャンルでもあることをどうか忘れないでほしい。sideMは文化も安定していない、まだまだ発展途上のジャンルなのだ。だからこそ「アイマスの伝統」だからと全てを押し付けるのではなく、そして全てを突っぱねるのではなく、出来るところまでお互い譲り合って楽しい空間を作りたいと私は思う。
https://anond.hatelabo.jp/20180105123031
への補足
科目の目標
国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や
想像力を伸ばし,心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊
重してその向上を図る態度を育てる。
(1) 事項
(1) 「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」及び「C読むこと」の指導を通して,次の事項
について指導する。
(ア) 伝統的な言語文化への興味・関心を広げることについての事項
(ア) 言語文化の特質や我が国の文化と外国の文化との関係について気付き,伝統的な言語文化
への興味・関心を広げること。
「言語文化の特質」とは,我が国の言語文化の独自の性格やその価値のことであり,微視的には,
作品一つ一つに表れた個性と価値,巨視的には作品を集合的にとらえた時代全体の特質,さらに現
代につながる我が国の文化全体の独自性のことである。ここでは主に古典を教材とした指導を通し
て,生徒がそれに気付くことを求めている。
「我が国の文化と外国の文化との関係」を取り上げているのは,我が国の文化を理解するに当た
って,中国など外国の文化との関係が重要となるからである。我が国は中国の文化の受容とその変
容とを繰り返しつつ独自の文化を築き上げてきた。その経緯を踏まえ,古文と漢文の両方を学ぶこ
とを通して,両文化の関係に気付くことが大切である。古来,我が国は,文字,書物を媒介にして,
多くのものを中国から学んだ。その結果,漢語や漢文訓読の文体が,現代においても国語による文
章表現の骨格の一つとなっている。漢文を古典として学ぶことの理由はこの点にもある。
ここで,
「外国の文化」としているのは,高等学校では,近代以降の言語文化も視野に入れて幅
広く伝統的な言語文化について扱うこと,また,我が国の文化は,近世以前においても,南蛮渡来
といわれたヨーロッパの文化の影響もあることなどを踏まえたものである。
「伝統的な言語文化への興味・関心を広げる」ためには,古文と漢文だけでなく,古典に関連す
る近代以降の文章や,伝統芸能,年中行事など,多様な方面からアプローチすることが大切である。
現在,我が国は一層の国際化に向かい進んでいるが,その中にあって我が国の伝統的な言語文化の
独自性と価値を知り,それを尊重する態度の育成は,これまで以上に重要になっていることを認識
する必要がある。
(内容の取扱いの(5))
イ (1)のアの(イ)については,読むことの指導に即して行うこと。
生徒は,古典を読むのに必要な言葉のきまりの基礎的な事項について,中学校で学習している。
「文語のきまり」には,文語文法のほか歴史的仮名遣いなども含まれる。特に現代語と異なる古
文特有のきまりに重点を置いて,仮名遣いや活用の違い,主な助詞・助動詞などの意味・用法,係
り結び,敬語の用法の大体などについて指導し,古文を読むことの学習に役立つようにする。
「訓読」とは,元来中国の文語文である漢文を,国語の文章として読むことである。
「訓読のきまり」とは,訓読に必要な返り点,送り仮名,句読点などに関するきまりをいう。これらのきまり
についての指導は,教材の訓読に必要な範囲内で適切に行う必要がある。なお,訓読は,おおむね
文語文法に沿った読み方をするが,普通の文語文法では扱われない訓読特有の伝統的な読み方もあ
ることに注意する必要がある。
なお,内容の取扱いの(5)のイに示しているように,文語のきまり,訓読のきまりについては,
詳細なことにまで及ぶことなく,読むことの指導に即して扱うとする考え方は従前と同様である。
(2:52 解説より追記)
古典を読み味わうためには,古典を理解するための基礎的・基本的な知識及び技能を身に付けて
いなければならないことは言うまでもない。しかし,従来その指導を重視し過ぎるあまり,多くの
古典嫌いを生んできたことも否めない。そこで,指導においては,古典の原文のみを取り上げるの
ではなく教材にも工夫を凝らしながら,古人のものの見方,感じ方,考え方に触れ,それを広げた
り深めたりする授業を実践し,まず,古典を学ぶ意義を認識させ,古典に対する興味・関心を広げ,
(ク) 我が国の伝統と文化に対する関心や理解を深め,それらを尊重する態度を育てるのに役
立つこと。
(ケ) 広い視野から国際理解を深め,日本人としての自覚をもち,国際協調の精神を高めるの
に役立つこと。
(ク)及び(ケ)は,国際化への対応を考慮した観点を示している。我が国の伝統と文化に対する関心
や理解を深め,それらを尊重することは,我が国と郷土を愛する態度を育成することになる。また,
それは異文化理解の基礎を培うことにもなる。日本人としての自覚をもちながら世界の中の日本の
立場や役割を考え,国際理解を深め国際協調の精神を養うことは,世界的視野に立って国際社会に
貢献しようとする態度の育成につながる。
宝塚の場合、そもそも嫁入り前の娘だけを集めて歌劇団をやるというコンセプトが、ポリコレ的に引っ掛かる可能性があると思う。
まあ歌舞伎は逆に女が舞台に上がれないわけで、どこまで伝統として許されるかという話になっちゃうが。
酒がドラッグ指定されないのと同様、既に存在してファンも利権もあるものについては見逃されるが、新しく同様の劇団は作れないかも。
岩手県一の進学校、盛岡第一高校では、男子生徒が黒塗りした裸に腰ミノをつけ、棒を持って踊る
昭和63年、女子生徒が生徒総会で、黒塗りで土人というのは差別ではないか、と問題提起し、校内
での議論・投票やメディアでの取り上げの結果、数年後に「猛者(もさ)踊り」と名称変更して赤や
(モヒカン等ネタ髪型強要など焦点のずれる問題は今回触れない。)
旧制中学からの伝統校で校歌が軍艦マーチ。「土人踊りの歌」(現「猛者踊りの歌」)も、インド
ネシア民謡を学徒出陣から帰ってきた生徒が伝えたもので、ある意味歴史遺産であろう。
3年経てば生徒が全部入れ替わる高校という場で、変更の結論が出るまでに5年かかったことを考え
れば、20年30年も現役張っているダウンタウンやとんねるず(保毛尾田保毛男)が時代感覚に即応で
きないのは仕方ないことかもしれない。が、漫才コントではないああいうバラエティは本人だけでは
なくP・D始めとしたスタッフも当然企画から関与しているわけで、公共の電波を使っている第四権力
日本人に黒人差別の意識はない、などという話は土人踊りの時にも散見された意見である。旧態の
まま存続、完全廃止、変更して存続、選択肢は3つあり、高校生は最後を選んだ。
昭和の終わりから平成初めにかけて高校生が既に出していた結論を、平成も終わろうとする時に、
土人踊りは今,どうなっているのか
http://excelact.com/Mori1/dojinnow.html
猛者踊りの歌
原曲「ノナ・マニサ」(インドネシア民謡),選曲 田村喜八(昭和22年卒)・竹原由雄(昭和25年卒)
http://www2.iwate-ed.jp/mo1-h/seitokai/song.html
正確には子供時代にマクドナルドに馴染んで成長した後も食べにきてくれる事を期待して子連れをターゲットにしてる
そのための撒き餌がハッピーセット
悪い言い方をすればバカ舌を育てて、バカ舌の家系の食文化に組み込まれる事を期待して経営してる
随分とマクドナルドの経営にご執心の様子ですがマクドナルドの安かろう不味かろう路線は積み上げてきた資産の上にあるものだから簡単に方向転換なんてできないよ
昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。
努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味で現代では「積極的に廃止すべき」だとも思う。
ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。
元増田の「人生を左右する受験に必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。
高等学校学習指導要領をスタートにするのは同意してもらえると思う。
そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。
だから、ブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、
それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。
その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。
だって、スプラトゥーンも短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。
オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーンが受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。
スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。
とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。
だから、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。
高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。
そこを無視すると「歴史はイケメンを口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの。
そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。
その観点で学習指導要領を読むと、もうブコメの効能とか的外れも良いトコだよね。
古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律の古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、
古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。
本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって
「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。
そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本で人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。
オレは要らないと思ってるからそれは後述する。
ただなあ、元増田の「古文漢文が人生を左右しかねない学力試験に必須か?」には、オレは反論できる。
元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない」って。
大学受験における入学試験、学力試験な。アレは何を計測しているの?
基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定の学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。
要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。
大学本来の学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?
知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。
「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。
だから、高校の学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学の学力試験で確認するのは、合理性がある。
さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。
保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験をベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。
正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。
古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家の伝統から来た明治の文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。
「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃からの残滓に見える、とも言える。
高い学識と深い教養を持った官僚と学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいまいか、と。
だから、高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。
高等学校卒業認定試験が学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。
(大学入学資格検定の時にはあった家庭科が廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)
高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。
元増田の主張は、「古典(古文・漢文)を受験科目に加えるな」だった。
増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力を試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。
オレの主張は、「古典を学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。
学習指導要領の古典の目標をみても(保健体育や芸術の目標に意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代の高等教育の意義からするとズレがあると思う。
最終的には、芸術や地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。
(論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史を理解するなら地理歴史だろう)
「法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領を改定するところからだろうと。
そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、
入試程度の古典の知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。
漢文の問題で法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。
もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないものが高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。
現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験を突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本でしか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)
ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?
今年ももうすぐセンター試験だ。何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。
おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。そもそも「古文・漢文」という"学問"が、根本的に無意味だと立証するだけの道具はない。大学で専門的に研究している人たちにとって、古文・漢文はどこまでも「面白くて」「魅力がある」のも理解できる。「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。多少なりとも共感能力と良心があるんだったら、文学部不要論とか言ってないで税金投入しろよ、って思う。
ようするに言いたいのは、ここでの古文・漢文不要論と、大学での文学部不要論は全くことなる議論だってこと。
「大学受験には選択科目があるのだから、嫌ならやるな」っていう反論があるだろうか。話にならない。嫌でもやらなきゃいけない構造について問題にしているんだ。
たとえば、法律に興味があって、東大を出て弁護士になりたい高校生がいたとする。彼らは必死こいて下二段活用やらレ点を覚えて、受験に挑む。受かったら数週間で綺麗さっぱり忘れて生涯思い出すこともないだろう。まぁ、百歩譲ってそれはいいよ。でも、落ちたらどうする? 他の科目は合格点に達していたのに、ただ古文・漢文ができなかったせいで、落ちたらどうする? 本当に法律が好きで、法律について学びたくて、東大に行こうとしたのに、全く関係ない「古文・漢文」のせいで行けない。一流の弁護士になって、社会に貢献したかもしれない。彼の可能性を、人生をダメにしてまで、「古文・漢文」は受験科目として”必要”だと言うのか。英語や数学で落ちたんなら、まだ分かるよ。しょうがない、浪人して一年頑張ろう、って気持ちになれるだろうよ。でもさ、「古文・漢文」なんて死んだ言語で18歳の人生を左右すんなよ。元カレが忘れられなくて新しい恋に進めない女子かよ。国家レベルで失恋引きずるな。
こういうことを言うとすぐに保守的な人たちが湧いてきて「日本文化ガー」「伝統としての教養ガー」と言い出すが、まぁ、たしかに分からなくもない。「色んな学問に触れる機会を与える」のは大切なことだ。色んな文化に触れるのは、良いことさ。おれは別に面白いとは思わなかったが、漢文に出会い興味を持った学生が古典研究者の道に進むことだってあるだろう。そういう"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない。
そ れ を 受 験 科 目 に す る な 。
「古文・漢文」を教えるな、とは言わない。ただ、それなら道徳とか家庭科の授業と同じ括りにしろ。「古文・漢文」に学生の人生を左右させるな。
あるいは、受験の時点で就職活動が始まっているのかもしれない。どう考えても意味のないタスク、心からやりたくないようなタスクをそつなくこなせる人材を、大学側が要求しているのだ。はっきり言うが、愚直にも「古文・漢文」をせっせと暗記してきた連中は、生涯奴隷だ。
それでも、それでも、それでも、
やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。
[追記]
「古文・漢文」という学問が根本的に無意味だって言ってるわけじゃない。受験で必須にする必要はないだろ、って話ですよ。
はっきりと書いたつもりなんだけど、伝わらないかな。もうちょっと現代文教育に力を入れたほうがいい。
→例えが悪かったかもしれないが、法律を学ぶのに必要なら大学入ってから教えればいい。大学受験という選抜の場で、有能無能を仕分ける基準にするなって話。
「反論を聞く気がなさそう」
→聞きます。
→これに関してはある程度の偏見を認めるが、少なくともおれは使っている。それはともかく、ここでは「古文・漢文」が受験科目として必要かどうかの話しかしていない。「いらないって言い出したらきりがない」だから「古文・漢文」は「いる」ってことか? 論点をすり替えるな。
→身につけたほうがいい教養なんていくらでもあるっての。ただ、全国の中学生高校生全員にやらせて、受験で競わせるほどの”必然性"があるのか、って話。何度も繰り返すが、興味ある人にやらせるぐらいでいい。教養だとしても、大学で教えればいい。おまえら、「教養はいいもの、いいものはいる!」程度としか思ってないだろ。そういう考え方が構造的、社会的に押し付けられてて、内在化していることを自覚しろ。
世の中は「友達を作ろう」「恋人を作ろう」「家族を作ろう」と言い、はじめから誰かと親しくなることはよいことだ、という前提で話を始める。だが長く社会人をやってきて思うのは、生存にとってもっと重要なのは、とりあえず表面上はそつなく交際することと、カネを稼ぐことだ。職場や近所における、必要最小限の付き合い以上の人間関係は、社会で生き残る上では特に必要ではない。
親しい人間関係は、つかの間の喜びに後に、どっさり面倒事を持ち込んでくる。親しい間柄では、付き合い方に明示的なルールがないから、いろんな不条理が起きやすい。恋人や家族での関係性の病理はその一例だ。
そう考えると親しさとは何なのか。カネだけでは生きていけなかった過去の遺物にすぎないのか。ただ、生存にはもはや必要ないものの、やはり多くの人たちが親しさを求めているのも確かだ。たぶん、それは本能なのだろう。ただ、食欲や睡眠欲が生存に直接役に立つのに比べて、親しさへの欲求というのは、かつては必要だったのかもしれないが、社会構造の変化によって不要になってしまっているということなのだろう。
ますます多くの人たちが恋愛も結婚もせず、家族を作らず、子供を持たなくなりつつある。その一方で、より簡易・安価・安全な形で、ある種の「親しさ」を供給するビジネスが興隆してきている。たとえば、アイドルグループに対する熱心なファン活動。流行中のユーチューバーもファンのコミュニティをインターネット上に提供して、それをマネタイズしている。これらの新しい形の「親しさ」は従来のドロドロした恋人や家族間の親しさに比べるとずっと手に入れやすく制御しやすいのだ。