はてなキーワード: 事象とは
最終的には、あなたが作りたいストーリーやゲームのテーマに合った舞台を選ぶことが重要です。
ゲームでは、一人称や三人称の視点を使って、プレイヤーに物語を体験してもらうことができます。一人称と三人称には、それぞれメリットやデメリットがあります。
どちらの視点を使うかは、あなたが作りたいゲームのテーマやストーリーによって異なります。一人称視点を使うと、プレイヤーがより身近に感じることができますが、ゲームの世界観や背景が不明瞭であることもあります。逆に、三人称視点を使うと、ゲームの世界観や背景がより把握しやすくなりますが、プレイヤーが自分自身をゲームの主人公として体験することができません。あなたが作りたいゲームのテーマやストーリーに合わせて、適切な視点を選択することが重要です。
いや……これは「同じ原因から起きた二つの事象に、因果の関係を見出す」っていうパターンの誤謬だと思うわ。
同じ原因ってのは「遺伝子の歪み」だと思うのよね。
①遺伝子が歪んでいる→正しい設計図で顔面が作られてない→顔の形が左右非対称だったり全体として形が歪→容姿が醜い
②遺伝子が歪んでいる→正しい設計図で脳みそが作られていない→思考力の低下や情緒の不安定が発生→コミュニケーションに問題が起きる
この二つが同時に発生しているだけだと思う。
確かに「コミュ障なことにより発生する苦痛が顔に張り付いて歪んだ顔面に」みたいなのも考えられるんだけど、ソレ以上に生まれついての、もっと言えば産まれるより以前の段階でのバグが全体に影響しているんじゃないかなと。
実際、コミュ症かつ顔が醜い人って、大抵の場合遺伝すると思うのよ。
この人変な人だなーと思ってたら親も変な人だし、子供も同年代の他の子とくらべて問題が多いっていうか。
でも意外と遠目からみた家庭環境はそんな問題がないというかむしろまともよりなのよね。
生まれつきヤバイ人が結婚は出来る程度の普通の人間になるための努力を繰り返してきた血筋っていうのかな。
まあ悲しい生き物としか言いようがないわけだけど、こういう遺伝子の人がいわゆる「突然流行した99%が死ぬ感染症に何故か耐性があって人類を存続させる次世代のマザー達」みたいなタイプなのかなって。
遺伝的多様性の維持という意味ではこういう人達が子供を残してくれるってのは人類という種族の存亡を考えるとプラスだと思う。
まあ「人類が存続することって別に大事じゃなくね?」って価値観で見ちゃうと死滅してくれた方が良い気さえしちゃうかもだけどね。
ワールドカップのPK戦で高校部活組とユース育ち組の比較が話題となった。
その高校生カテゴリのトップリーグである「高円宮杯プレミアリーグ」で衝撃的な事件が起きた。2011年にプリンスリーグを格上げする形で作られたこのリーグは「Jクラブのユース7~8割、部活チーム2~3割」という状況が続いたが、2023年はユース11チーム、部活チーム13チームと史上初めて部活チームが多くなるという事象が起きている。特に下部となるプリンスリーグとの入れ替え戦では部活チームが全勝(部活チーム同士の対戦は除く)。
高校サッカーの世界で、ユースから部活への回帰が進んでいると言う話は数年前からあったが、それは育成のトップリーグにまで波及したことになる。
まずは練習環境面。Jクラブのユースチームは専用の練習場を持っていないことが多く(トップチームが優先的に使える公共施設を共用、と言うケースが多い)、地域内のグラウンドを他の地域クラブと取り合いになるケースが珍しくない。あるJ1強豪クラブのユースチームは練習場の件で地元と常に揉めていると言う話もあるくらいだ。一方で部活チームは、強豪ならだいたい専用グラウンドを持っている。練習段階で地元ともめることはまずない。
それと大会の注目度の違いに起因する学校生活のしやすさの違い。世間の注目度はどうしても高校サッカー選手権>>>>>越えられない壁>>>>>クラブユース選手権(ユースの全国大会)、高円宮プレミア・・・となってしまう。ユースの選手たちとは言っても日中帯は部活組と同じく普通の高校生だ。ユース組は頑張って結果出しても「ふーん、良かったね」で終わってしまうが、部活組は高校サッカー選手権で結果出したら一躍スターである。それと部活組はサッカーを通じた学校の宣伝もミッションの1つであることから学業面でもだいぶ考慮してもらえるが、ユース組にはそのような恩恵はない。
地元と揉めがちで、サッカーで活躍しても認められない、学業面でも考慮してもらえないユース組。地元に支持され、活躍したら一躍スター、学業面でも考慮してもらえる部活組、どちらが「良い」高校生活を過ごせるかは言うまでもない。
本田圭佑や中村俊輔は中学校までJクラブのジュニアユースで活動していて、ユースに昇格することが出来なかったため部活動に移行してプロになったが、近年はユース昇格を「選手側が断る」ケースが非常に増えているのだ。
部活動の地域移行が盛んに議論されているが、その思惑と真逆の事象がサッカー界で起きていることは知っておいた方が良いだろう。
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・ユース:学校の部活とは別の高校生年代のチーム。Jリーグチームはユース組織を持つことが義務付けられているため(そうでないとJ2以上に昇格できない)Jリーグチームの下部組織が多いが、三菱養和SCのようにJリーグチームとは直接関係がないチームもある。なお中学生年代のチームは「ジュニアユース」と呼ばれる
・高円宮杯プレミアリーグ:高校生年代のリーグ戦の最上位カテゴリ。その下はプリンスリーグ(1部と2部)、都道府県リーグ・・・と続く。学校の部活チームとユースチーム両方出られる。カテゴリが別々なら同一校やユースから複数チーム出すことも可能。1軍をAチームとして、D,Eチームまで作るケースも珍しくなく、中にはHチーム(9軍)まで作って公式戦に出してる学校もある。これがあるため近年の高校サッカーの部活は「補欠が試合経験を積めない」問題はだいぶ改善されている。一方でJリーグユースは1軍しかないところが大半で、あっても2軍まで。
・高校サッカー選手権:毎年冬に行われる、学校の部活チームだけが出られるトーナメント制の全国大会。前後半終了後即行われるPK戦が名物。代表は都道府県別(東京都だけ2チーム)。都道府県予選の決勝は地元TV局、全国大会も1回戦から日本テレビ系列で放送され、決勝戦はほぼ毎年4-5万人の観衆を集めるなど注目度は高い。一般人にとっては「箱根駅伝生中継後に放送される番組」のイメージが強いかも。
・クラブユース選手権:毎年秋に行われる、ユースチームだけが出られるトーナメント制の全国大会。決勝はテレビ朝日系列で生放送されるが観衆は1万人行けば良い方で(会場は高校サッカー選手権と同じことが多いので空席が目立つ)注目度は低い。
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【追記2】
ブコメより
>それ聞くとなんでユースは練習環境整えないんだ?ってなるけど。資金力とか、子供にサッカー教えた後のリターン考えると高校に比べてユースが手を抜くの変じゃない?
資金力は学校の方があることが大きい。学校なら宣伝目的でお金投入できるし、OBや地元企業からの寄付金も集められるし、浅野がいた四中工のような県立高だと県の税金も使える(これには例の共産党も反対しない)。市立船橋高のように独自にスポンサーを集めることもできる。ユースはそのいずれも難しい。あくまでもトップチームが主でありユースは従だから。
元増田を読んで、これまではてなやツイッターで見かけた光景について個人的なメモ。(何かの正しさや間違いを主張するものではなし)
最近、叩くことが出来る存在を叩いても問題がないというような風潮がある気がする。
が言えてしまい、ますます党派性が強化され仮想敵への憎しみを募らせることになる。自分は正当化の意見も内輪ネタもほとんどの人はふざけて発言しているだけだと信じているけど、同時にその発言に感化されてバイアスが強化されている人がほぼ間違いなく存在することも確信している。
叩く人は印象で叩くからデマを再生産していることに無自覚なのがたちが悪い。
・大元が極端な対立構造を作り上げてることで、周りが勝手に暴走する
・お互いが反対意見のやつは〇〇だからと言い合う(〇〇にはどちらにも当てはまる事象が入る)
・ちょっとでも自分側に否定的な意見を見かけたら、反対側の信者認定をしだす(ゼロイチ思考でしか物を語れない)
・自称中立の人間が出てきて、一方に利する発言を行う(本当に中立な人の意見は↑のように信者認定されて軽く扱われるか完全に埋もれてしまう)
・大半の人にとって全面的に味方できる陣営が存在しないので、局所的にしか盛り上がっていかない
社会科学とか倫理とか法学の分野はれっきとした「科学」(客観的・体系的ななんらかの事象の研究・分類)なんで、扱う分野が大局的な人の言動など形がやや異なっていても同じように科学なんですけどね
化学的定義についても数学についても社会科学でも、下位の概念は「現代ではほぼ疑念をはさむ余地がない程度に99.99999999%そうだろう」となってしまっているだけで100%ではありません(とりあえず間違えている確率が極めて低いから100%ということにしておこうという取り決めです)もともとは「多分こうだと思う」「だからこれが正しいということにしておこう」の積み重ねです。
でも結局現在でも化学でも社会科学でもどの分野でもさらに上の先端研究や先端的領域になればやはり「現在の通説、多分これが正しいかもしれない」「おそらく〇〇なのだが機序がわからず詳細は不明」みたいなものを過去のデータから推測している部分は少なからずあり、確度と信頼と選択の問題になってきます
医療や科学については必ずしもそうではない。固体が温度が上がると液体になる現象やさらに温度が上がると気体に変化する現象は確かなものだと観察されているが、この現象が人間による定義や指標により作られたということはあり得ない。
医療についてもそうです。個体差や未知の領域も多く、100%というのはありえないので、「ほぼ99%確実だろう」「この程度信頼できるだろう」という確度と選択の問題で進めていきます。
はほぼ近似の同じ概念が、確度や使われ方の差によって印象の差を生んでいるにすぎません。文字通りです。科学的事実と社会学的通説は異なると言いたいんでしょうかね、本質的には「便宜上こうであるという取り決め」「科学的妥当性」「社会的妥当性」です
あとは前に書いたものをもっと丁寧に読み込んでもらいたいです。
それと、感性ではありません。ローマ法のような太古の法など(今回はまだ幸運にもキリスト教の伝導から来た内容だとわかりますが、ほとんどは標語だけが生き残っておりどこから生まれた思想なのかも自覚がない場合がほとんどです)の断片的な引用はよく見られる議論ですが、社会的な背景も運用する法のレベルも何もかも異なるので丁寧な議論を必要とする分野ですが大衆レベルでは中途半端な引用だけが生き残っているので、どうにも定義の定まらないふわふわした話になってしまいます。知識や確度や正しさというのは常にキャッチアップの必要な変化するもので、放置していればすぐに置いていかれます(自分ももちろんそうです)人の思想や人生をなんだと思ってるのかとお怒りですけど、暗黙知や経験知が時代遅れのおさがりになってしまうのは追い求めなければそうなる当たり前の話です。ですので、自分でキャッチアップするか、その道のプロを必要としています。
動物園的な正しさのことは、前に言ったような太古の法や幕府のおふれやスローガンやプロパガンダなど時代遅れの古ぼけた知識、周辺知識の抜け落ちたかつて「もともと正しかったかもしれないもの、はるか昔に正しいとされたこと」が断片的に生き残ったおさがりを、なんとなく正義として主張してる人たちの無知ゆえの一体化、と定義しよう。
そして世の中のほぼ99%の「正しさ」「指標」は、元を辿り中身を解きほぐしていけば、上記動物園的なおさがりと、下記の取り決めのどちらかにいきつく、と言わせてもらう。
「水を0度で凍ると定義する」ことも傘も殺人も医療も化学も他もすべて、「これを正しいとする定義や指標を作った」という意味でしかなく、同じものだと言ってるんだがな。
ウイルス感染を君は科学的検証から得られる妥当性というが、その妥当性という概念自体が「正しさ」という概念なのだよ。過去の膨大なデータから行ったとしても「未来予測」「予想」が確実な100%になることはありえない。99.999999%の確率だとしても。過去の観測から相当程度に確からしいと言えることを今回の事象に当てはめることでしかない。確率と定義をどう扱うかの基準を正しさというんだ。医師がデータをもとに目の前の患者に対して「ほぼ確実といえる程度に正しい治療を選択する」営みはただの科学的観察の結果以上に、何をもって正しいとするのか、正しいとされる指標に基づいた正しさの判断と選択だ。科学的検証をどの程度信頼するか、判断をどの程度信頼するか、得られたデータをどの程度信頼するか、定義と取り決めだ。
そして傘の件も上記と全く同様である。どれを妥当とするか、過去の事例の観察や観測や分析から相当程度に確からしいと言えることを今回の事象に当てはめ、どの程度信頼するか、確度と定義をどのように扱うかの話である。
この例からは傘を盗んだ人を特に意味もなく死刑にするのは正しくないとあなたが考えていることが窺える。
では、傘を盗んだ人は正しいだろうか?
社会的な取り決めからすると、人のものを盗むのは正しくないとされている。
これは2000年も昔から問われていることがわかる問いだ。有名な「罪のない者だけが石を投げよ」だ。
ここで迷いなく石を投げられてしまうメンタリティを、私は「自分を正しいと思い込む」と呼んでいる。
つまり、私が批判する「正しさを盾にした他責思考」というのは、奇しくもあなたが例に挙げた傘を盗んだ人を特に意味もなく死刑にする社会を招くものでもあるのだ。
その、2000年前の「罪のないものだけが石を投げよ」云々、石投げメンタリティ~~云々は、前述した時代遅れの周辺知識の欠落した太古の法が勝手にことわざとか標語になってなんとなく大衆に伝わってなんとなく大衆が信じ込んでるおさがり、つまり動物園的大衆的正しさとここでは定義している。私がずっと返してきた大衆的正しさのツリーを見てもらいたい。言いたいことはおそらくミルグラムの実験等で見られた傾向のようなものの話だろう。それは人自体の傾向のようなものだ。個人が批判するしないの問題ではない。
それを踏まえた上で議論を続けた結果が現代の(私の言う狭義の)正しさである。正しさとは、現在進行形ではあるが、今現在の最も確実に目的を達成する方法の探求と言い換えて差し支えない。
傘を盗んだ人が正しいかどうかの議論の結果が単純に傘を盗んだ人を死刑にする社会を招くことはない。(大衆的動物園の正しさではそのようなことわざや美談や道徳があるかもしれないがこれに深入りするのは「正しさ」の議論からは遠ざかるので割愛。報道や別の分野の話になるだろう。)どうすれば簡単に人を死刑にする社会が起こるのかと傘の件は全く別の議題で議論が重ねられて今に至っている。これも観察と確度と扱いや取り決めによる。傘を盗んだ人をどうするか、人を意味もなく死刑にする社会は正しいのか、殺人を正しいとするのか、100%の確率は到底求め得ないが、どのように扱い何をどの程度信頼するのか。そういうことを取り決める確度と取り決めの積み重ねが現代社会には存在しており、議論と改善を繰り返している。これは他の正しさと全く異ならない。
統一教会に関しては、「戦後の東西対立、対共産主義のための政治と宗教の結びつきが、元総理の孫の代で宗教2世による復讐という形で表面化した」というストーリーが成立すると思う。
現在の日本が抱えている大きな課題は現在進行形の物語と言えるから、「少子化問題と海外移民の受け入れ是非」「経済的な縮小、先進国からの脱落とその先」「国内での静かな対立激化」のような事象は大きな物語になり得るんじゃないかな。
後から来たとか先にあったとか関係なく、騒音には規制がありその範囲内であれば受忍限度内として判断される。(住宅と公園のどちらがが先だったかを重視する人も多いが、住環境に対して騒音が受忍限度を越えた問題を与えるかが争点であり、どちらが先かは意味のない議論。)
そして長野の件については弁護士の見解としては受忍限度内であるとしている。施設の開設当初は受忍限度を越えていたという主張もある(これについて定量的な根拠はなく、クレームを入れたのが1件だけだった)が、少なくとも現状の利用についても問題ない範囲であると読み取れる。またクレームを入れた老人は利用している児童に対して叱責を行っている旨も報告されており、これについては行き過ぎた対応だと言わざるをえない。
これらを総合して判断すると、公園を廃止して問題ない範囲の利用についてまで不可能にするのは行政側の行き過ぎた対応であるように思えるし、それを求めるクレーマー側の主張も行き過ぎた主張である。過去の受忍限度を越えた騒音や踏み荒らしについてはその分の損害賠償を請求すれば良いし、その後については受忍限度内であれば甘受すべきという話でしか無い。
問題を大袈裟にして老人を擁護する向きもあるが、現状を整理すると過大な要求をしているのは主に老人側であり公園の廃止に対してそれを決めた行政または過度なクレームを入れた老人に批判が集中するのはある程度仕方のない事象とも思える
本日は国際民間航空デー、日本ではクリスマスツリーの日、あとアメリカでは真珠湾攻撃を追悼する日になっていますね。
あとアポロ17号が打ち上がってブルーマーブルが撮られた日でもあります。
世の中が繋がれば繋がる程にコミュニケーションの難しさが浮き彫りになっていく感じがします。
とはいえ、成功例を教えられたから必ず成功する訳ではない、という当たり前の事象を受け止められているか、が大事なんだと思います。
「顔つきが怖い」と言われてヘラヘラしてたら逆にナメた態度を取られるなんて日常茶飯事で、だからこそナメられたなと思ったらちゃんとナメるなという行動に出なければいけなくて、そうでなければ都合の良いロボット扱いに留まってしまうので。
まぁ油断させて証拠並べてガッチガチに固めてポイ捨てするつもりならそれもそれでアリだと思います。
気楽なお友達が欲しい人は気楽なお友達を作れるところで気楽にやりとりをすればいいのです。
それをシフトさせるようなことがあれば態度を変えるのは実は当たり前のことなんです。
そう見せていないだけ、いくらでもやりようはある中で敢えて任せている。
気色の悪い話です、断じてかっこいい話ではありません。ですが、多数の人間とやりとりをするならそれは避けられないことです。
愚かしさも含めて眺めておかないとすぐに人間なんて居なくなりますからね。
まぁその方が良いのかもしれないし、仕事抜きの自分の心だけで考えたらそこまで多くの人間と関わる必要性がないよな、とも思うのですけれど。
ということで本日は【ライン決めよいか】でいきたいと思います。
スペイン戦のVAR判定があいかわらず燻っているが、VAR判定の基本的な考え方が(当たり前だが)サッカーファン以外の層に浸透していないことが分かったので、ここで一筆書いておく。
以下5つ。
・得点かどうか
・PKかどうか
・退場かどうか
・人違いかどうか
・ほか、主審が確認できなかった重大な事象(主審が見えないところで選手を殴った、などが該当)
これがサッカーファンの間でも意外と浸透していない。主審が下した判定に対する「はっきりとした明白な間違い」を指摘するのがVARであるのだが、単純に白黒つけると解釈している人が多い。
世界的な統一基準なので日本サッカー協会の解説ページを読んでおくとよいだろう。https://www.jfa.jp/referee/news/00024523/
以下2つ。
(1)三笘のクロスの時点でボールが外に出たという判定を主審と副審が下していない
主審はゴールキックの笛を吹いてないし、副審もボールが外に出たと言う判定を下していない(下していたら旗をまっすぐ前に出すが、副審はそれをしていない)。つまりゴールまでインプレーだったと判定している。これが重要だった。
そのため、VARは「ボールが外に出ていた、という明白な証拠を探す」ことが今回の役割となる。結果、散々出ている画像の通り、外に出ているという明白な証拠は得られなかった。だから最終的にゴールが認められた。
ゴールは認められなかった可能性が高い。
この場合は「ボールがちょっとでも中に残っているか」を探すことになるが、今回のようなシーンで「はい、2mm弱入っているので明白な間違い」とは言いづらいだろう。それほど微妙な判定であったのだ。
このような、きわめて微妙な判定の場合は主審の判断がVARで覆ることは基本的にない。「はっきりとした明白な間違い」であることをVARも指摘できないからだ。
例外はオフサイドで、「オフサイドディレイ」という形で主審と副審が判断を避けることが認められている。この場合は1ミリでも出ているかどうかというファクトでVARが最終判断を下す。
VARは「はっきりとした明白な間違いを正す」のが役割であり、微妙な判定に白黒つけるものではない、ということは覚えておいた方が良い。逆に言えば微妙な判定については主審の裁量でどちらにでも転び、それを正すことは難しいというのがVARの問題点でもある。
南米のマリーシアを封じるためにVARを導入した結果アジア勢が躍進して、実は自分たちは今まで守られていた側に気づいて、今度は一転してVAR廃止を主張し出すという、清々しいまでの欧州の典型的な様式美の姿がこちらです。
騒動続出に“VAR擁護派”元英代表FWが一転、廃止主張 日本戦は「道徳的に間違いだ」(THE ANSWER) - Yahoo!ニュース
昨日大量にいいね・RTされてたこれ。この大量拡散されているツイートのデマっぷりが大概なのでいちフットボールファンとしてちゃんと指摘・訂正しておきます。
まず「(欧州が)南米のマリーシアを封じるためにVARを導入した」というのは明確なデマです。
第一に、VARの導入に関して南米サッカー連盟(CONMEBOL)が抵抗・反対した事実がありません。むしろ積極的に導入してきた側です。
国際サッカー連盟(FIFA)が公式大会でVARを導入したのは2018年のロシアW杯からですが、CONMEBOLはその前年の2017年からリベルタドーレス杯(※南米大陸のクラブNo1を決める南米版チャンピオンズリーグ的な大会)など自身の主催する大会でVARを導入しています。
VARが南米のマリーシアを封じるために導入されたものであるなら、それによって不利になるはずの南米サッカー界が抵抗・反対するどころかいち早く導入しているのはおかしな話です。
第二に、VARの導入に関して最後まで抵抗・反対し続けていたのは欧州サッカー連盟(UEFA)だという事実があります。
2015年までUEFA会長を続けていたミシェル・プラティニは"テクノロジー否定派”の代表格で、ゴールラインテクノロジーやVARの導入には一貫して反対し続けていました。
「VARはゴミクズも同然だ」“フランスの英雄”プラティニが辛辣発言! 気になる今後の活動にも言及 | サッカーダイジェストWeb
プラティニの後任として会長に就任したアレクサンドル・チェフェリンもVAR否定派であり、FIFAが導入を正式決定したあとも批判を続けています。
「めちゃくちゃだ」「気に入らない」UEFA会長がVARを猛批判! ではなぜ各国リーグでの導入を決めたのか? | サッカーダイジェストWeb
欧州のサッカー協会を束ねるUEFAの会長がVARの導入に反対しているのに「(欧州が)南米のマリーシアを封じるためにVARを導入した」などという事象が発生するわけがありませんよね。
第三に、欧州には"南米のマリーシアを封じるため”にわざわざVARを導入する理由がありません。そんなことをしなくても国際大会、特に近年のW杯の成績では南米を圧倒しているからです。
VAR導入前のW杯で南米の国が優勝したのは2002年日韓大会のブラジルが最後で、その後は2006年ドイツ大会のイタリア、2010年南アフリカ大会のスペイン、2014年ブラジル大会のドイツと3大会連続で欧州の国がW杯で優勝しています。ベスト4まで残った国を見ても南米は南アフリカ大会のウルグアイとブラジル大会のブラジル・アルゼンチンだけで、そのほかはすべて欧州の国が占めています。自国開催のブラジルがドイツに1-7で敗れた"ミネイロンの惨劇”は覚えている人も多いはず。
「南米のマリーシアを封じるためにVARを導入した」などというデマを鵜呑みにしてしまうのはこうしたW杯の結果や力関係すら知らない人間だけです。
以上のように「南米のマリーシアを封じるためにVARを導入した」という事実自体が存在しません。従って「南米のマリーシアを封じるためにVARを導入した結果アジア勢が躍進して、実は自分たちは今まで守られていた側に気づいて、今度は一転してVAR廃止を主張し出すという、清々しいまでの欧州の典型的な様式美の姿」などというものも存在しません。別の競技で同様のことがあったとしても本件はそれにあたらないのです。仮にそれが見えたのだとしたら、それは見た者自身の無知と偏見を反射した虚像に過ぎません。
毎度のことではありますが、W杯のような大きなイベントともなるとろくに知りもないのに知ったかぶりをして注目を集めようとする人間や、それを鵜呑みにしてわかったつもりになってあれこれ語る人間が大量に湧いてきます。特に今回のような"それっぽい話”は拡散されがちです。それだけならスルーしておけば良いのですが、問題はそうした人間のばら撒いたデマや誇張・歪曲された情報がいつの間にか事実として流通してしまうことです。実際に今回のデマも、リプライ欄や引用RT等ではほぼ"事実”として扱われています。
そして、これらのデマを書いたり拡散する人は、日本代表の選手たちやサポーターたちのように自分たちが散らかしたゴミ(=デマ)を片付けるなんて行為はしてくれません。彼らは書きっぱなし・騒ぎっぱなしのまま自分たちの書いたデマを放置してどこかに行ってしまいます。結果残されるのは"事実だと誤認されたデマ”とそれを鵜呑みにして他者に無知と偏見をぶつけ続ける愚者だけなのです。
「VAR 南米」のTwitter検索結果 - Yahoo!リアルタイム検索
判定にあれこれ意見を言うのも、また煽り・煽られもフットボール文化の一部です。だから判定について異なる意見を言った相手を馬鹿にしたり煽ったりすること自体を否定するつもりはありません。ただ、そのために存在しない事実を捏造したり事実を歪曲するのはフットボールとそれに関わる人たちへの冒涜です。
W杯の、それも歴史的勝利のお祭り気分にのせられてしまうのもわかります。でも書くべきことと書くべきではないこと、拡散するべきことと拡散するべきではないことの区別くらいはつけてください。カタールで戦っている選手たちはあなたに気持ちよくデマを(それもフットボールに関するものを)垂れ流させるために奮闘しているわけではないでしょうから。