はてなキーワード: 発達心理学とは
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
普通に歳をとって死んだおじいちゃんの話しは重くしたくなかった。で、ヤクザの話しを膨らませた。
この世界の片隅にのすずさんは大人。少女から大人への端境期という面が原作より強いと原作者から言われた。すずさんは18歳で自分の意思とは関係無く嫁にいかされる。
すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
すずは自分の内側にあるものから変化する。空っぽな人はいないが、それを表に出せないタイプのすず。アニメーションやってる人も普通の人。
日本のアニメはドキュメンタリー性を持って進化してきたと思う。記録性。
年齢層が上がってきた。巨人の星。読売巨人軍や二軍。実際にある世界を描くようになってきた。オバケのQ太郎とは違う。観る年齢層があがる。
長くつしたのピッピやルパンの企画書を見つけた。タバコや銃のブランドの定義。ピストルで済ませるのでは無くワルサーP38。ルパン三世カリオストロでは赤いきつねやコカコーラを描いてる。
日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
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すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
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日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
その名もミアキス。姿はイヌっぽいネコ。何とも奇妙な印象です。地上に天敵がいたため樹上で生活するミアキスが「普通」でした。
そのミアキスが平原に移住し、体や心が普通のミアキスから変異して平原の環境に適応したのが【イヌ】なんです。
一方樹上生活を続け、樹上の環境により適応したのは【ネコ】なんです。
さて、ここで問題です。
この「普通」でなくなってしまったミアキスは「障害者」なのでしょうか?
大きな環境変化にそれぞれ適応しただけのネコとイヌ。しかし元祖ミアキスを基準とするとイヌは異常といえるかもしれません。
パソコンやゲーム、携帯電話など「著しく急速」なデジタル化による生育環境の変化、ネットへの適応はヒトのコミュニケーション能力を犠牲に新しい時代におけるヒトの進化の傾向(多様性型)を示しているという視点はどれだけ正当性があると考えられますか?
イヌ的なミアキス、ネコ的なミアキスに分岐が始まった時代、元祖ミアキスは樹上生活に適応せず木を降りてしまった少数派を障害のある異常者と認識し排除しようと行動したでしょうか?おそらくそれぞれの居場所へ移住することで「住み分け共存」していったはずです。
一方ヒトはイヌ型ミアキスとネコ型ミアキスを樹上か平原かどちらかで生活を強要するように、同じ環境に異なる発達をした多様性型のヒトを押し込み生活困難な方を障害者と括っているのではないでしょうか。
イヌ型ミアキスに薬を投与して心体が適応した平原を忘れさせ樹上生活への恐怖を軽減させたら、果たしてイヌ型はネコ型と対等に競争し共存することができるのでしょうか?
一生態学者から発達心理学への提議です。現在人口の1/15に達していると言われる発達障害者は日本で10,000,000人という計算です。これだけの比率ならば冗談でなく進化の過程とも受け取ることができるのかもしれません。関係メディア、ネット住民の皆様にもお願いです。どうか慎重に報道下さい。
■今読んでおきたい最新研究の動向について
結構前にどこかの図書館のレファレンス事例を紹介していたウェブサイトがホッテントリ入りしていた気がする。
ここでいうレファレンスというのは、図書館で資料を調べてくれたりするレファレンスサービスのこと。
このレファレンスについては、レファレンス協同データベースというものがあり、色々なところのレファレンスの事例が紹介されているんだけれど、これがなかなか面白い。
小・中学生の質問は、授業や自由研究のためであろうと思われるものと素朴な疑問・欲求に基づくものがあるが、面白いのは断然後者である。
いくつか目にとまったものを紹介したい。
今の私にぴったりな、おもしろくて、ぐっとくる本を紹介してください。(4年生児童)
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000160218
回答する方も大変だろうなと思うけど、児童の好みを探ってオススメを紹介しつつ、自分で目利きができるようにもなってほしいという姿勢が素晴らしい。
父が言っていることと違う事実が書いてある
(4年生児童)
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000167347
問題となった記述というのが、「日中戦争に関する説明文」というのがちょっと引っかかるかるが、「置いていて良い」という回答を出すまでに発達心理学や図書館の自由に関する宣言が出てくるところがプロらしい。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000168077
妖怪らしい。
飼っているカマキリを戦いに強くしたいです。どうやったらできますか?
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000161836
できないらしい。
図鑑では分からなくて昆虫館にまで問い合わせており、もはや図書館のレベルを超えている感がある。
胸がキュンとするようなお話を教えてください。
(4年生児童)
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000180085
良いエピソードすぎる
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000188753
きちんと魔法使いになるための本を紹介してあげている。
備考欄を見ると着実に修行をしていて微笑ましい。
神様というものはほんとうにいるのか?(3年生児童の記述そのままに)
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000169298
授業の一環として一冊だけ参考図書を紹介した模様。
大人の質問では、けっこう専門的な質問にもできるだけ回答してあり、感銘を受けました。
また、上記の事例の大半は京都女子大学附属小学校図書館であり、良さそうな学校・図書館だと思いました。
(レファレンス協同データベースにどこまで積極的に協力しているかというだけの問題かも。)
1は検索してくれ
かつてはてなで『クリスマスまでに彼女欲しい』と書いて女性蔑視だと叩かれたはてなーがいるらしいが、男女逆転して似たようなことを言っているのは沢山いる。
この時期の教え子の私語を聞いていると『クリスマスまでに彼氏欲しい』『寂しい女になりたくない』と言う話題だらけだ。
お前ら、本当に彼氏が欲しいのかと問い詰めたい。小一時間ほど問い詰めたい。
お前ら、単に『彼氏がいるモテる私』アピールしたいだけちゃうんかと、と頭に浮かぶ増田はそろそろオッサンであるという自覚も出てきた。
そういえばまだ新任の頃。
「君たちくらいの年頃だと、自分の生きている意味に悩んで『恋人を作れば、恋人にとって自分は大切な人だから、
少なくとも自分を必要としてくれている人が世界にいる』と安心するために恋愛するようなのもいますが……」
と一般論として話していたら
「むしろ恋愛ってそのためにするもんでしょ」と何の疑いもなく言われた。発達心理学の教科書かと思った。
『名作物語の主要人物レベルに複雑な人間は希で、意外と人間は”こういうキャラ”で説明がつくヤツは多い』
というのは増田が二十数年生きて学んだ事だが、ここまで教科書的なヤツもいるのかと頭を抱えたくなった。
はてなだったら『承認欲求乙』の一言で片付けられそうだが、目の前の女子にそれを言ったところで解決するわけではないのだ。
ちなみに別のクラスでこの話をしたら「どんだけ寂しいんだよ」と言っていたヤツがいたが、
増田が原因については話していないのに寂しいに直結するあたり、実はそいつも同類だったのではないか。
今となってはそう思うが、本人に確認するわけにもいかない。
これだけ承認欲求に困ってる女子がたくさんいるということは、もしかして……。そう思って
「あるいは、”少なくとも自分の体には価値がある”と思ってニコ動なんかでエロい実況するヤツもいたりするかもしれませんが」と話題を振ったら、
と隣の女子(2人が仲が良いのは周知の事実)を指さしながら言ってきたヤツがいて、思わず「そうなの?」と素に返って聞いたら頷かれた。
ドラマや漫画だったら少しひねって、髪も染めてない真面目そうな女子が『実は私、やってたことあります』とかいう展開になるところだが、現実はもっと素直らしい。
実況しているのは、『そういうことしてそうな女子ランキング』を教師間で作ったらトップ10に入りそうなヤツだった。
創作と現実の区別をつけろと言われそうだが、現実の方がどんどん創作っぽくなって来ている。この前なんて生徒からおっぱい触らせたげるとか言われるし。
具体的には
「絶対に教えません」
「何で? 『風俗行った』とか書いてんの?」
「それは無いな」
「じゃあ『おっぱい触らせて』とか?」
「あー、それはあるな」
「私のなら、触らせたげるよ?」
「……はいはい、モテない男をからかうのはそれくらいにしておけ」
そんな会話だった。
こういう時に『自分もずるい大人になったな』と実感する。
本当は、からかってなどいないのだろう。だからと言って増田に恋愛感情があるわけでもない。
承認欲求を満たしつつ、ついでに『触らせてあげるからお金ちょうだい』か『触らせてあげるから成績よろしく』のどちらかでしかないと分かっている。
この主と全く一緒だったけど、なんとか乗り越えた。
思春期にまともに反抗期も経験できず、自我の形成、精神的自立ができない状態で、体格だけ大人になりました。
大学に入ったら好きな勉強をやると意気込んでいたら、一つの挫折からできなくなり、心が折れ、鬱になりと散々だった。
ただ、親が原因だったとはその時は思わなかった。
30歳になり、カウンセラーと話ているうちに、親からの呪縛が解け、親を客観的みて批判できるようになり、ようやく反抗期を迎えられた。
>家庭にも社会にも私を私として受け入れてくれる人はどこにもいません。
それもそのはず、なぜならあなたの中に「私」という存在はまだいないから、本来なら思春期に済ませておく自我の形成が終わってないから。
主は、妹と自分を比較して羨ましがるのではなく、心のなかで(声に出してもいいけど)徹底的に親を批判し、あんな親、大人には絶対にならない、自分ならこうする、どんな大人になるかという自分像を作るといい。
あんな親のようにはならないという反抗期があることによって、じゃあ自分はどんな大人になるのかという自我の形成が完了する。
発達心理学的には当たり前だが、長男長女はそれを経験せずに大人になることが多んじゃないかな。俺の場合は兄弟の多さも拍車をかけた。
主は、もう大人です。何も我慢なんてする必要ないんだよ。親は親、自分は自分。親が人間として間違っているなら、人として真正面から批判してもいい。
親の言うことなんて聞かなくていいし、親に嫌われたっていい。生活を親に依存しているっていうレベルなら、なんとか経済的に自立すればいい。そしたら批判し放題だ。
主は我慢していると言っているが、我慢しないで反抗しろ。遅れてきた反抗期を迎えるんだ。
そもそも親になんか認められなくてもいい。そんなひどい親なんだろ?そんな人に認められたいか?
君の信仰は医学的判断と発達心理学的判断よりも正しいわけね? 立派。
具体的な基準も示せない現在の規制よりもはるかに理があります。
(年齢という基準を正当化する論拠の話です)
示してるんだよ13歳って、精神発達・医学的な機能発達の平均値に基づいて。
で、そのへんをおいといてIQ()の方が大事だと言ってんのがお前だよ。
障害の平均値出してどうすんの。馬鹿なの? 自分の言ってる意味分かってる?
万人に普遍的な価値観は存在せず、親の教育が及ぼせる範囲が狭く、倫理にもとらない範囲で本人の意思と価値観が最優先される、
それが「IQで」判断しようだの、「論理的に判断できればOK」だのと言ってるのがお前だよ。
相応の時間、本人の中の欲求、知識と見識、どれが欠けてもできないというのがこちらの意見だよ。
だから年齢で区切るしかないだろうと何度も何度も何度も言ってる。そしてその基準としてるのが機能発達・精神発達をみた13歳だ。
後、その理論で行けば生理が来ていて二次性徴している小児においては、欲求が生じていることを認めていることになるわけですよね。
で、ホルモンが出たらスイッチ入った機械みたいに性的欲求が形作られるとでも思ってんの?
論理的に判断が下せると思います。って、恋愛が論理で動かないからこそ問題になりやすいの分かってる?
ああ、ああ、ありがとう、分かってないことがよくわかった。誰も下半身の話はしてねえよ馬鹿。
恋愛という感情の動き、性行為に伴う感情の動き、それらが非対称な力の下で行われる危険性の話をしてんだよ。
そこで下半身にしか結び付けられないあたり本当に恋愛というものをリアリティをもってとらえられてないことがよくわかった。
主語と動詞と目的語がねじれています。不必要な修飾の重なりにより文意が通りづらくなっています。
もうちょっと日本語ガンバレ。一貫性というならば「性的同意年齢」でぐぐればいいじゃん。
だ、か、ら、言ってるじゃん、「児童の成長には“平均”がある」って。
“平均”のない知的障害者の恋愛に関する問題は比較にならないよ、って。読めよ。頼むから。
で、だ。性的同意年齢を13歳であるとするのは確かに“恣意的”だろうね、
医学・発達心理学双方から導き出した“平均”を適用する行為だ。
じゃあ君はどうしたいの?
「主体的」かどうか、どう判断する気なの?
子供にとって、小児性愛者が植え付けた自分に都合のいいだけの性愛観とどのように区別できるの?
個別ケースだって言ってんじゃねえか聞け。お前のIQが心配だよ。
そして性的欲求、精神発達、機能発達、感情発達、それらはIQで表現されない。
IQだけ見てOKだと思うのは愚かな知能指数一元主義だよ。90年代くらいにはいたけどまだいたんだね。
あと、なんでトラバしないの?
想定してる相手が家族以外の誰か・他人として捉えてるみたいだけど、この増田(http://anond.hatelabo.jp/20140128210522)の話の流れから察すると、認められたかった相手・認めて欲しかった相手は増田の親か親族なのではない?
仮にそうだとしたら、幼少期からの人格形成の際、親からの愛情や肯定など十分に受けれないと人格に歪さが出たりするようだよ。
増田がどうかは分からないけど、比較的一般的に認知されてる分かりやすい例としてはアダルトチルドレンだの境界性人格障害だの、そういう括りの病的とまではいかないまでも分類上存在するものとして。発達心理学とかそういった分類の。
そもそも小学校教育ってただ「国・算・社・理」が出来る=勉強ができるって言う意味じゃないと思うんだよね。
集団行動が出来る、「社会人になる一歩手前の人間としての勉強」っていう意味合いも強いと思うんだよなぁ…。
ただ、基礎学力をあげたいならば教員じゃなくて塾の講師を採用すればいい。
そうすりゃ効率上がるし、競争意識という意味ですごい良い結果出せるんじゃない?
それとかドイツの教育システムとかイギリスの教育システム、スウェーデンの教育システムとか真似れば良いんじゃないのかな?
後、単位制とか。
それに発達心理学的にもよくないと思うんだよね…。
学童期から思春期を迎えるあたりの子どもの心理ってすごい難しいじゃないかな。
体の成長と心の成長、どちらも迎える意味でたった1年、されど1年でとても大きいものだと思うんだよ。
1年遅れることによって、“頭の悪い”とか“出来ない”のレッテルを貼られるのは子どもにとってあんまりよくない影響を与えると思うんだよね。
それに教育ってただ“子ども”と“教師”で成り立つわけじゃなくて、教員と家族と子どもの三位一体で成り立つわけで。。
1年留年したら多分不登校、いじめとかそういうのにも繋がるんじゃないかな。余計進学厳しくなると思う。
それこそもう1年頑張ろう!と前向きな家庭ならいいけど、実際教師に勉強を押し付けている家庭も多いわけで。。。
だったら土曜日の登校を復活させたり、出来ない子に対しては補修にしたり、時間かけたりアフターケアした方が教育者としての立場としては良いと思うんだよなー。
まあ結論的に言えば、興味はあるけど反対。
蛇足だけど公立小学校に通ってる訳じゃない、「皇族」であられる愛子様なんかは橋下さんの定義する「義務教育での留年」として考えるなら確実に留年じゃないかなー?とは思うw
タイケン学園が運営しており、学校法人タイケン学園グループである専門学校と協力し幼児体育や歯科衛生指導、
動物とのふれあいなど様々な体験をとおして、健やかで感性と情操豊かな子どもを育てます。
毎日の絵本やお話、お歌を通じて「聞くちから」「話すちから」「一緒に行動するちから」を育てます。
また、季節を感じる行事をとおして、自然を肌で感じる心と相手を思いやる気持ちを学びます。
1.リズム体操・園外学習などの体力づくりをスポーツで体を鍛えているお兄さん・お姉さんがサポートします。
TEL03-3938-2372/FAX03-3938-9435
お問い合わせ(フリーダイヤル)0120-037-509 資料請求
2.専門学校内にいるたくさんのかわいい動物達との「ふれあい保育」を実施しています。
3.歯科衛生士を目指すお姉さん達による「歯磨き指導」や「歯の発育指導」を行います。
当保育園では、真心こめて作った手作りの食事やおやつのほか、散歩や運動クラブを通じての適度な運動、そして正しい生活リズムと睡眠など、お子さまの健やかな成長を第一の目的とした環境を整えています。
国家資格である「保育士」を当保育園のスタッフは全員取得しています。
保育士は、「児童福祉」「発達心理学」「小児保健」「小児栄養」などについて修得していることから、保育の専門家と言えます。
また、スタッフに子育て経験者もいますので、専門知識と経験をふまえた保育をさせていただいております。
◆安全な通園
子どもたちが安全に通園できるよう、保育園バスによる送迎を行なっています。
ご自宅の前までお迎えに行きますので、雨が降っていても大丈夫です。
お忙しいママ・パパのことを考え、当保育園の開園時間は平日が7:30~20:00となっています (延長保育含む:土曜日は8:00~19:00)。
全国に11校の専門学校や高等学校がある「学校法人タイケン学園」グループですので、グループ校によるサポートもさせていただきます。
幼児体育講師によるがリトミック(リズム体操)・園外学習などの体力づくりをサポートします。
学校内にいるカワイイ動物達とのふれあい保育(子犬・子猫とのふれあいやお魚鑑賞)を実施します。
「はみがき指導」「しつけ指導」「歯の発育指導と相談」を実施します。
◆保育目標
・よりよい保育環境を創造し、心身ともにたくましく健康で人間性豊かな子どもの育成に努める。
・24時間の生活リズムを整え、快食、快便、快眠等の基本的な生活習慣を身に付けさせる。
・発育段階に応じた独自の知育教育カリキュラムをもとに、さまざまな体験をとおして、自然や社会事象等の中で発見と感動を味わい、色々なことに興味・関心の持てる豊かな感性を育てる。
・集団生活での様々な人との関わりの中で、相手の気持ちを思いやる心、自主性、協調性を身につけさせる。
・園内、園外において自然や社会現象と親しみ、興味関心を持たせて発見と感動を共に感じる。
◆バス送迎
園バスは朝霞・和光・新座を巡回しており、ご自宅まで送迎いたします。
運航時間は[お迎え便]07:30~09:30 [お帰り便] 17:00~19:00 です。
スムーズに運行するため、発着時間に合わせてご自宅前で待機してください。
バスは自宅への送迎のほか、ペットふれあい教室、歯磨き指導、遠くの公園や児童館などに行くときにも使用しますので、10:00~17:00の送迎はありません。
園行事(入園・卒園式など)の時は、園バスをお休みいたします。
住所
〒351-0011
埼玉県朝霞市本町2-7-34 リブ朝霞1F(朝霞市役所の斜前)
TEL 048-451-9090 / FAX 048-451-9091
開園時間
平日 07:00 - 20:00
土曜 08:00 - 19:00
最寄駅
住所
〒352-0001
TEL 048-485-2080 / FAX 048-485-2081
開園時間
平日 07:00 - 20:00
土曜 08:00 - 19:00
最寄駅
が、それ以上に、日記主(元増田)さんが、「議論の勝ち負け」がアタマの回転力で決まるとか、
さらにはそれらが自身の社会的地位や尊厳に直結している・・・かのように考えるに至ったところに、もっと興味を持ちました。
そして、このような主張を、なぜいま展開しようと考えられたのか。
文面からは、この日記を書こうとする直前になにか切迫したことがあったかな、という虚脱は読み取れました。
すなわち、あなたにとって「才能」は脅威であり、それが論理操作能力にも由来する、とお考えであるわけですね。
また、書かれた日記に「追記」が増えていくさまは、自身を誤解されたくない・・・という切迫感をかいまみせます。
なぜなら、あなたが追記のなかで最も記述に割いているのは反論部分ではなく、定義の明確化だったからです。
ここで展開されたコメントやトラックバックは、いずれの脅威部分も意図的に刺激するものであふれており、せっかくがんばって書いた日記が、より虚無感を誘引するものになったことに、失望されているかもしれません。
その中で、私の返信があなたの思考実験の指針のひとつになればさいわいです。
ひとつめ。
なぜなら、言葉は「感情」を伝達する媒体であり、その感情も受け止めない限り、どのような論理も うわすべるだけだからです。
あなたは 論理の前に 感情は抑制すべきだと考えておられるのかもしれませんが、社会の本質はその逆・「感情」に立脚しています。
ふたつめ。
議論は成果に結びつくとは限りません。
もし議論がいつも正しい答えを導き出すとしたら、企業の倒産はありえないからです。
すなわち聡明な首長(経営者)が、議論内容を参考にはするものの
「いまいち決め手に欠ける(→「つまんない」)」
組織体は、トライアンドエラーを恒常的に起こすことが重要で、それが組織員の成長・ひいては組織体の成長につながります。
議論は そのトライアンドエラーの最小単位である以上、エラーを頻繁に起こすことがむしろ重要とすら言えます。
それが感情対立につながらないように、言葉(コミュニケーション)がある。その順序にあるのです。
みっつめ。
しかし、おそらくあなたが考える「論理操作能力が高い人」というのは、「絵」でも考えている。
これは発達心理学のジャンルなので詳しくはそちらに任せますけども、おそらくあなたが感じた「先天的」というのは、
・物事の抽象化を 絵でも言葉でも 上手に組み合わせて考えている人
のことだと思います。
絵で考えるモードは、論理(ロジック)の破たんをコレクトしないのできわめて本質的な部分にすぐに到達します。
それは一見、先天的かつ天才的に見えますけども、それは最終的に論理側で修正しないと実用化しません。
思考特性には、視覚優位と聴覚優位がありますけども、それが高次でバランスをとった状態が、おそらくあなたの考える「才能」です。
あなたが そこに到達していないのであれば、それはあなたがやっていないだけです。
しかし、もし、あなたが言語によるシリアルな論理思考だけしかできない場合でも安心してください。
その人とペアになればいいだけです。
本当は あなたとは異なる人と共闘しなければいけないのではないですか?
自分との違いを許容・・・いえ むしろ違う人を積極的に探して意見を呼びかけるべきではないですか?
あなたは直近で、才能の差異(自分と異なる存在)に、ひどく打ちのめされたエピソードをお持ちなのかもしれません。
自分が「普通の人」として埋没してしまう不安を実感したのかもしれませんね。
そうでなければ、あなたのおっしゃる“論理操作能力が低い集団”が一枚岩であると誤解することはなかったでしょう。
また 主張と説得 を混同して、同意の見込みのないコメントに説得を試みることもなかったでしょう。
間が開いてたからもう見てないものと思ってたが、えらく丁寧にレスを考えてくれてたんだな。
また、貴方が最終的に仰りたいのは、恐らく『自我と他我との断裂は埋め難く、それ故にレッテルと自己の内面との差異を言語によって証明することは不可能なのではないか?』ということなのだと私には思われました
溝を埋めることができたと思っていたのならば、それはただの自他混同か、レッテル貼りの延長にすぎない。
本当に埋めることができたとしたら、それは自我と他我の境界がなくなったということであって、それはやはり自我ではないのか、他我を排除したのではないのか、というループに陥る。
人を理解する努力はできる。
しかし人を理解することはできない。
そういった矛盾だな。
逆を言うこともできる。
人を理解することはできない。
なんかこんなアニメ昔あったな。
それはいいとして、だからこそ、レッテル貼りというものに関し、ナンセンスの一言で済ませていいものなどないと思っている、というのが俺の結論だ。
完全にあんたと同じものかどうかは分からんが、この点に関してはこのツリーでも別ツリーでも一定の認識のすり合わせはできたものと考えている。
さて、提示された部分について。
自己を定義づけるのは人の目による観測が前提であり、その観測により生まれる関係性が自己を生み出す、ということで良いだろうか。
発達心理学において、自己の確立の過程には他者の目を通した自身の姿の認識を経て、自己による自己の認識・確立に至るというものがある。
これはあんたの言うところの関係性の産物であるというものを指していると言えるだろう。
また、他者の目を通さないと自己(自我)が存在しないのかというとそうではない。
これは
すなわち『レッテルを貼るという行為における地平を超越した地平に、自我は存在するのであり、そもそもそのようなことを証明する(レッテルを否定する)必要はないのだ』という言説です。
これを表しているな。
質問を投げかけておいてなんだが、実のところ俺も答えることのできるものを持っていない。
しかし、一つ言えることがある。
というのも、それは『自我とはそもそも言語化するべきでないものなのだ、あるいは自我とは言語化できない存在なのだ』という言説です。
確かにそのとおり。
自己が認識しているのは自我ではなく、鏡に映った自分の姿、ある意味、人の目を通した自分の姿であり、自己で自己にレッテルを貼ったものだからだ、と言うことができる。
これは
我々の自己意識(自我)が、ある単独なもののみによって構成されることでは、存在し得ないからだ、ということが言えるでしょう。
では「自我についてレッテルとの差異を証明する必要は無い」のか、というと、それは違うと俺は思う。
必要なのは、自己(自我)が自身に対して貼ったレッテルと、他己(他我)が自身に対して貼ったレッテルのすり合わせじゃなかろうか。
溝は埋まらない、しかし縮めることはできる。
これに関して特に返答は必要ない。
あんたと俺の間での「すりあわせ」はできたものと思っている。
長々としたものになったが、中々楽しかったよ。
ガキんちょには発達段階ってもんがあって、そうゆう科目を順序良く教えたからといって、ほとんどの子供は論理的思考なんてもんは獲得できないし、複雑な思考は難しい。小中学生は自分ではちゃんと考えているつもりでも、たいてい何かしら抜け落ちている。重要なのは、適切な発達段階で適切な訓練をすること。これは教育学とか発達心理学では常識で、カリキュラムってやつはこれを考慮に入れなければならない。
それに、論理なんてもんは本当に限定的なツールであって、早くからそんなもんを押し付けることで子供の可能性の芽を摘み取ることになりかねない。これまで社会を大きく動かしてきたのは、論理の飛躍と紙一重のひらめき。きちんとした論理は後付けになることの方が多い。この、ひらめく能力(≒感性)こそ、人間がコンピュータよりも優れている部分。もうさんざん言われ尽くされて安っぽく聞こえるけど、これだけはガチ。
39歳と聞いて一層吹いたwそして思ったこと追加変更。
こいつは39歳、教師、文系。大学はそれなりのレベル(とりあえず地元の友人よりは上)
大学出てなんかいろいろ小難しい単語(マジョリティとか)おぼえて賢くなった気になっている。
環境の変化とかで壁にぶつかって、いろいろ最近なやんだり考えるようになって、増田に書き込んだ。
・19歳じゃなくて39歳。突っ走った10年間をすぎて、分かってきた17年目って感じか。
それは鋭い。発達心理学で学んだ事を元に俺が思ったことと同じだ。
教職をやっていると、親の影響は計り知れないということをまざまざと見るよ。
この親にしてこの子あり、って感じ。
だけど、潔癖症と言ったのは、より大きな上位の問題について言いたかったからなんだよね。
だって一行ごとに変なこと言ってんだもんよw
村の掟とかのレベルまで制度に含める気か?
そりゃ含めるだろ。でないと近代法治国家が成立するまで婚姻制度がなかったってことになっちゃうぞ?
西洋では擁護されるべき「子供」という概念が発明されたのは、産業革命の後。
性的自己決定能力があるかどうかは、かつて社会が14歳をどうみなしていたかとは独立だろw
ニュートンが発見する前から万有引力の法則は成り立っていたんだぜ?
相手の意思がそこにあるか無いかの判断基準。それだけ。
恋愛結婚以外では本人の意思はない、というのは十分にイデオロギッシュだと思うぞw
頭悪い子? 彼がどういう情欲を抱いていようがそんなこととは関係なく、別にキモくない、と言ってるんだが。
根拠にもなんにもなってねえw 少なくともかつては立身出世のために幼い娘を使う親は結構いただろうな。