はてなキーワード: 男性自身とは
元増田です
僕は今はまだこう考えるまでは至っておりません
きっと「女性作家が描く男性が男性自身が描く男性より生々しく現実的だと感じた事は僕もこれまで何度かあります」の件を読んでそう思われたのでしょうが、
「女性作家が描く男性が男性自身が描く男性より生々しく現実的だと感じた事はこれまで何度かある」だけで、
「女性作家の描く男性が(いついかなる時も)男性自身が描く男性よりも生々しく現実的だ」とは今の段階ではまだそう思っていないのです
具体的な作家さんの名前を出しますと、所謂「24年組」と呼ばれる少女漫画家さん達が描かれた漫画に登場する「日和見主義なおじさん」的なキャラクターはとても生々しく現実的だと読んでいて思いました
現実にはこういうおじさんは確かに存在するのに、男性向けの漫画の中だとそういう「普通のおじさん」は描いてもつまらないという理由からなのか出て来ないので、正に少女漫画と女性作者さんならではの視点だと感銘を受けました
ですが、同じように少女漫画に登場する例えば「容姿端麗な王子様」のようなキャラクターは、やはり女性が好ましいと思う要素で構成されているからかもしれませんが、こういう男性は現実ではあまり見ないな、と思います
そういう「現実には存在しないけれどフィクションの世界では古くから好まれるキャラクター」の存在は正に創作ならではという事で僕個人としては好ましく思っています
女性作家さんの「男らしさに苦しめられている男性が描かれる作品」に出てくる「男らしさに苦しめられている男性」キャラクターも確かに女性にはこう見えているだろう、という現実味のある存在なのだと思います
ですが、元の日記でも書いたように『「女性の目線から描かれた男性」の「男性の生きづらさ」なので、これ現実の男性像と微妙にずれてる様な…という違和感を僕は拭えない』で居る事もまた事実です
僕が疑問に思っているのは、やはり元の日記のタイトルもそうなのですが「何故女性が男性の問題を描こうとするのだろう?」という所になります
トラックバックやブックマークで非常に多くの方達から意見を貰えたので、それを読めば何か自分なりに一つの解釈を出せるかもしれない、出せたら良いのになぁ…と思っています
手芸は「呪い」を解く? 男子高校生が編み物を通して自分を取り戻す漫画「ニッターズハイ!」作者に聞く
「男が手芸なんて変だし」。自分にかけられてしまった「呪い」やジェンダーバイアスを解体していく物語『ニッターズハイ! 』。「男子高校生が編み物をする」というテーマはどのようにして生まれたのか。作者の猫田ゆかりさんに聞いた。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_60dc293fe4b0b84c3be32135?ncid=tweetlnkjphpmg00000001
詳しくは知らないけれど最近流行りの「他人にかけられた『呪い』や『ジェンダーバイアス』から解き放たれる人間を描く」作品であるらしい
LGBTなど多様性を受け入れる事の重要性が説かれる今、編み物といういかにも女性的な趣味の男性を描く作品はなるほど確かに「男らしさを降りて良い」と男性を勇気付かせる物なのだろう、きっと
だけれど、僕は以前からこの手の作品やキャッチコピーを目にする度に思う事がある
「男らしさ」という物に苦しめられている男性は確かに存在するだろうし、そんな物を捨てたい自由になりたいと思っている男性もきっと世の中には存在する
だけれど…何故その「男らしさという呪いに苦しめられた男性」を描くのが、
「男らしさに苦しめられている男性」ではなく、
決まって「男らしさに苦しめられている男性を描きたい女性」なのだろうか?
「いやそんな事は無い。男らしさの有害性に苦しめられ声を挙げている男性はとても多い」という人も居るだろう
ただ、僕の観測範囲の問題なのかは知らないけれど、僕がこれまで目にした「男らしさに苦しめられる男性」を描いた漫画家さんは、決まって皆女性だった
『違国日記』ヤマシタトモコが語る、“口うるさいマンガ”を描く理由 「人のあり方は多様でいいと気づくのはすごく難しくて苦しい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/190e00f82bd10f71e69750a969bd72110b0109e3
たった3例だけれど、男性が「男らしさの呪いから解放されたい」と当事者目線で主張している例を僕をこれまで見た事が無いので、
結果的に「何故か女性が男性の生きづらさについて熱心に語っている」印象が僕の中にはある
その男性の生きづらさにしても、「女性の目線から描かれた男性」の「男性の生きづらさ」なので、これ現実の男性像と微妙にずれてる様な…という違和感を僕は拭えない
ところで最近、「ワンダーエッグ・プライオリティ」という様々な問題を抱えた女子中学生達の苦悩と戦いを描いた作品があった
かつて数々のヒット作を手掛けた男性脚本家・野島伸司氏が手掛けた作品であり、何の事前情報も無く見た所面白くて三か月間楽しませてもらった
この「女子中学生の苦悩」というのが男の僕から見た所本当にリアルなのかどうかは分からなかったけれど、「ああ、こういう事本当にあるんだろうな…」程度の気持ちでリアリティはそこまで意識せず見ていた
Twitter等で感想を見る分には女性受けもそこまで悪くなかったような印象があるけれど、実際の所は僕には分からない
「ああ、これって典型的な男が考えたリアリティの無い女だな」と思った女性も大勢居たかもしれない。それは僕には分からないけど、そう思った女性が沢山居ても不思議ではない、と思う
だとそのキャラクターや作者を嫌う女性を僕は昔から時々見かけてきた
僕が「男らしさというジェンダーバイアスに苦しむ男性」を描く作品や女性漫画家に対して抱く「何故貴方達女性が男性の生きづらさを描こうとするんです?」というちょっとした反感は、それに近い物かもしれない
【追記】
全くかは分かりませんが、男性が男性の生きづらさについて女性作家ほどに書かないなら、
「男性の感じる男性の生きづらさ」は「女性の思う男性の生きづらさ」よりそれほど深刻な物ではないのではないでしょうか…?
客観視できるからでは? 自分も女性を見て「型にはまってるな~」と思うことはある/作者が自分と同じ性別・同じ性格・同じ境遇の人しか描けなかったら作品が作れない。
女性作家が描く男性が男性自身が描く男性より生々しく現実的だと感じた事は僕もこれまで何度かあります
ただ、「男性の描いた女性」に対して「女性をよく客観視出来ている、リアリティがある」と褒めている女性をこれまであまり見た事が無く、「男にだけ都合が良い現実味が一切無いヒロイン」と貶す人ばかり見てきました
作者が自分と同じ性別・同じ性格・同じ境遇の人こそ「解像度の高い」キャラクターとして描きやすくなるんじゃないかな、と僕は思っています
【追記2】
誤字を訂正しました
"自分と同じ性別・同じ性格・同じ境遇の人こそ「解像度の高い」キャラクター"< これを言い出すと「ユダヤ人を600万人殺さないと『本当の』ヒトラーは描けない」に行き着くので、気にし始めたらキリがありませんよ。
そういえば嘘か本当かは知りませんが、先日キャラクターのリアリティについて面白い噂話を聞きました
「機動戦士Zガンダム」にパプティマス・シロッコという何を考えているのかよく分からない天才的な能力を持った悪役キャラクターが登場するのですが
監督の富野由悠季は天才的玩具デザイナー・村上克司氏をこのシロッコというキャラクターのモチーフにしたのではないか?という話が一部では有名で
シロッコが何を考え動いているのかを富野監督はシロッコに成り切って必死に考えた結果「こんな奴が何を考えているかなんて分からん!」と途中から嫌になってしまったそうです
「作者が自分と同じ性別・同じ性格・同じ境遇の人こそ「解像度の高い」キャラクターとして描きやすくなる」>残虐な支配者が描いた歴史書はさぞ解像度が高いだろうね
残虐な支配者に支配された側の話は支配された側の方が解像度高く描けると思いますし、支配した側の話は支配者側の方が解像度が高いのではないでしょうか?
http://manysided.blog85.fc2.com/blog-entry-86.html
このブログ記事に、性虐待を受けた自分は負け犬だ、加害者になることもできないと絶望した男性サバイバーが、女性サバイバーをネットで中傷して回ったとある。
これって、「弱者男性」による女性差別、女叩きと同じじゃないか?
「俺は男に敵わない弱い男だ。女はズルい。伸び伸びと被害者ぶれてムカつく。だから女を攻撃してやる。どうだ俺は男だ女よりエラいんだ」という心理。
この人は自分が攻撃した女性サバイバーに親身になってもらって救われたが、私ならそうする気にはなれないしそうしろとは言えない。
「被害者ぶってんなよどうせ誘惑するような格好してたんだろ自業自得wwwwイケメンなら喜んでほいほい股を開くくせにwww殺されなかっただけ感謝しろ汚れたビッチま〜んwwww女はイージーwww」
これくらいの、いや、もっと下劣なセカンドレイプがネットには溢れている。
女性サバイバーは決して伸び伸びと気持ちよく被害者ぶってはいない。人生を、生活を、友人や家族やパートナーとの関係を、精神や身体を壊され、自責や恐怖に押し潰されながら、知って欲しくて必死に声を上げている。
その傷口にナイフを刺し、抉ってくるような加害者に「この人も苦しんでるかもしれないから親身になってあげよう」とは思わない。むしろ「なんで傷付けられた側がそこまでしなくちゃいけないのか」と思う。この人は原因を見つめて救われたが、他の人もそうとは限らない。
すももは「性被害なんて充分対処されてるしいいじゃないか。非モテを問題視しろ」と言っていた。男性サバイバーでもないのに女性性被害者に嫉妬しているのだ。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これを、男性の方が不安や心配事が少なく生きられるというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ、男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分が男なら自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。…
…これは「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ここ数週間のネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、それは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって満足しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿やすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主要な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性被害者の方が多いですが)」「腕力が強くて静止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、真っ向から対立しますから。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
これに近い話題は、今までも男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは悲惨な女→男セクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、その根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆になっている、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」は信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係、恋愛、経済、ジェンダーロール、弱者男性論が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されていることが困窮してはじめて露見するなど、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われるとか、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
森喜朗を性的消費する記事についたブコメ見てて、なんかズレてね? って思った。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/joshi-spa.jp/1066616
徹頭徹尾ルッキズムだし性的に眼差されてるし性的消費。だが対象が弱者じゃないだけでこうも視点が変わるのかと驚く。これキモチワルイ、理解不能って思った人、そう、それが日頃女性が感じてる性的眼差しってやつよ
男性自身が「男を性的消費するな」と思って感じそれを言いたければ,そのまま言えばいいのよ。/わたし自身は、男性・男体はまず女性・女体並みに、社会において性的に鑑賞される側になるべきだと考えてもいる。
ブコメ眺めても、「男をそんなふうに見てたのか! 気持ち悪い! 俺たちを性的消費するな!」なんて言ってる人、いなくね? いや、一人二人はいるかもしれないけど、この記事やブコメの論調を批判してる人たちはそういう切り口で批判してるわけじゃないでしょ。
「女の性的消費はあれだけ糾弾されてきたのに、なんで男の性的消費は『名文』とかで済まされんの?」って話でしょ。
「元スポーツ選手の○○議員の競技服姿、おっぱいの形がくっきり浮かび上がっててエロいわー」って記事を評論家が面白おかしく書いてたらどういうふうに扱われるんですかって話。
そういうのが女から笑って流される社会なら別に俺らも「森元首相がエロく見える世界があるのかwwwwwwネッ広wwwwww」で済ませるけど、仮に女の政治家が性的にいやらしい目線を堂々と向けられたときには怒り狂って呪詛ブコメで埋まりそうな米欄が男の政治家が対象になってるときだと「これは名文w」って雰囲気になってるの、「は?」って言いたくなるよね。
どっちも許すかどっちもアウトかどっちかにせーや。
「ああいう男の政治家を性的にネタにする記事をもっと読みたいので女の政治家が堂々と容姿を論評されても気にしない」という人や「女の政治家が容姿を論評されるのは許せないので男の政治家が容姿をいじられる記事も批判する」という人は男女平等に扱ってるってことだから別にいいんだけど、普段ルッキズムとかにめっちゃ反対して性差別を訴えてる垢がこの記事を笑って消費してるの見ると「ダブスタも大概にしろよ」って思うわ。
つまり、ちゃんと男女平等を徹底しろやってことです。性的消費は別にいいんだけど男女不平等は許せない。
これだけ説明してもこんな卑怯な(or 読解力皆無の)コメントつくんだな。ほんとどうしようもない。
あれは森さんへのセクハラだと思うが、なんで抗議しないんだ、と言うなら自分でしたらいいと思う。ダブスタと言われてもすべての問題に同じだけの熱量ではいられない。でもセクハラという訴えを嗤ったりはしないよ。
さすがにさ、「批判しない」程度だったらここまで言わんし、同じ熱量で批判しろとも要求しないけど、「名文w」とか言って喜んで受容してた連中はいったい何なんですかね? 「批判しない」と「肯定」のあいだの深い溝を越えてるという自覚がないの?
なんかほんとバカバカしくなってきた。もう性的消費の訴えとかなんも気にしなくていいわ。男女平等に性的にまなざしていこうな。セクハラ? 性的消費? あーはいはい、どうせ自分らに都合よく言ってるだけなんだろ? もういいよ、あんたらの抗議とやらに真剣に取り合う必要なんてないってことはよくわかったから。
ーーー
3ヶ月付き合った女とセックスした。
が、全く良くなかった。
今思えば、それほど相手のことが好きじゃなかったんだと思う。大学4年で童貞だというのがずっとコンプレックスだったので、ヤレるならヤってしまいたい、というのが本音だった。
実際こじらせすぎたコンプレックスから解放されたので、そこについては後悔していない。
でも行為自体があまりにも気持ちよくなくてショックだった。相手が下手だったのか、俺が勃ちにくかったのかは分からないけど、入れたというより「さし込んだ」って感じだった。
俺はエロい事に興味があったし(その時は)相手を好ましいと思っていたので、上手くいくだろうと甘くみていた。
いや、初めてでアンアン言ってたら俺に才能がありすぎてしまうんだけど、それにしてもキツかった。AVはファンタジーだと改めて実感した。
人生で「シーツのシミを数える」なんて経験をするとは思わなかったな。ちなみにホテルのシーツは綺麗でシミ一つなかった。
あと、ヤる流れになった瞬間の女ってなんであんなに鼻息キモくなるんだろう。マンコに手足生えたみたいで、正直ドン引いてしまった。
そう言えば高校の頃付き合った女の子もキスの瞬間は目ギラついててキモかったな。
女はみんなああなのか?教えてエロい人。
女とはそれっぽい理由をつけてすぐに別れたけど、最中に言われた「○○くんはちょっと勃ちにくいのかな…」って言葉がずっと引っ掛かってた。
俺の下半身に問題があるなら、そんな不名誉なことはないじゃん?あと絶対お前より私の方が手コキ上手い自信あるから。
思い立ったら即行動。俺は小さい頃から行動力だけは褒められてきたのだ。
Amazonでオナホを購入し、次の日には届いたので早速使ってみた。
AVでの流れを思い出しながら男性自身をオナホに入れるが特に気持ちよくはない。
やはり動画を観ただけでは再現できないらしい。何事も実践の前に理論を学ぶ必要があるよな、と思いネットで「オナニー 気持ちいい」と中学生もビックリな安直ワードで検索をかけて知識を得た。
ここまで「俺が一番俺を気持ちよくできるだろ!俺の体は機能不全じゃないって証明してやる!」と息巻いていたが、大きな壁にぶち当たることになる。
それは、どのサイトにも書かれている「妄想を膨らませて気分を高めましょう」という文言。
オナホも買って(初心者にはエネマグラがオススメだと書いてあったがチンコを入れるための練習だと思っていたのでオナホにした)、あとはメソッドに沿ってやるだけだと思っていた。物理的な刺激があれば体は自然と興奮状態になると勘違いしていた。
肝心なことをどうして忘れていたんだろう。セックスをするためには心理的興奮はマストではないか。
恥ずかしい話だけど、この時まで俺は一回もオナニーというものをしてこなかった。
AVやR18作品を観ることはあっても、その行為を自分事として考えたことがなかった。
そりゃあ勃つもんも勃たないわ、だって興奮してないんだもんな。
絶望的な気分だった。お気に入りのAV女優の動画を観たけど、やっぱり勃つことはなかった。お姉さん可愛いなぁとしか思わなかった。
これから先、俺はちゃんとセックス出来るようになるのだろうか。受験でも就活でも病んだ事はなかったけど、この時ばかりは自分の行く末が不安すぎてちょっと泣いた。
「初セックス全然良くなかった!」なんて言ってたけど、一番の被害者はドマグロの男に抱かれた相手だったのかもしれない。申し訳ないことをしてしまったなぁ。
オチも何もないけど、こういう「エロい事を自分事として捉えられない」人って俺以外にも少なからずいるんじゃないかなって思って書きました。仲間がいたら嬉しいです。
私は、女の方が多い会社に勤めていて、痴漢もされたことないし、過激なフェミニズムに走るほど困ったこともない。
タイツの広告については、「この広告で買いたくはならないけど、冬の必需品なので買いたくなくなりもしない」ぐらい。
この広告をやめろ!とまでは言わない。(萌え絵が好きなので、麻痺はしてるかもしれない。)
多分ATSUGIの隣にグンゼがあったら「まあグンゼにしとくか…」とは思うだろうけど。
いくらでも替えがきく商品売ってる企業にとっては地味に困りそうだけど、広告の大失敗とまでは言えない気がする。担当は変えた方がいいけど…。私物化がすごかったから。
ただ普段フェミニストじゃなくてもこれぐらいの不快感を覚えた女がたくさんいることは知っておいてほしいな。
私が私生活で困ったことがないとはいえ、私以外の多くの女性にとって過ごしにくい社会であることは間違い無いと思う。
正社員でも育休が取れなくて辞める人、大手で育休も取れるけどあからさまな窓際に追いやられる人、結構話を聞く。
そしてそれらに対して「女性の権利向上を!」と叫べる人はすごいと思う。
フェミニストは「女性にもっと優しい社会に」と考えているけど、「男性も女性も過ごしやすい社会に」とは考えていないように見えるから。
「今格差があるのだからまずは女性を今より上にしないと」と言いたい気持ち(アファーマティブアクションの考え)も理解するけど、実際男性たちは、女性が思うほど現状に満足していない。
大企業の上層部など、今の社会構造を作った人たちは満足しているだろう。
ほとんどの男性は自分の生活に不満があって、そういう人間はTwitterのような気軽に呟ける場所に集まる。
自分が満足していないのに、自分たちを「満足している人たち(格差を容認している人たち)」と決めつける人たちに協力できるかと聞かれたら、私には無理だと思う。
だから、まずは「クソオス」などと呼ばずに、冷静になってほしい。そして、女性の現実を少しずつ見てもらおうとした方がいい。
実際に女性差別はあるのに、なぜ「協力してください」という態度を取らなければならないのか?と思うフェミニストもいるかもしれないが、多分ツイフェミを揶揄するような人たちには女性に対する差別が本当に見えていない。
見た上で容認してツイフェミを馬鹿にしているのではない。見えていない。
そして、女性が日々感じる「小さな生きづらさ」まで見えていない。(例えば、高齢男性が同じことしてる男には注意しないのに自分にだけ注意した…とかそういうちょっとしたもの)
なぜなら、男性自身も「自分の」目の前の生きづらさを解消するために必死だから。
男なんだから、男なら○○できる、そういう小さな生きづらさに心をチクチク突かれているのは男性も変わらない。
広い視野をもってみんなが協力しないと社会構造なんて変わらないのにと思うのに、毎日毎日、インスタントラーメンの広告やタグで揉めて、こんなのフェミニズムもジェンダーの平等も進むわけないだろと感じる。
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
*
すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割のピークを迎えようとしている。
言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまり、フェミニズムは数あるライフスタイルや思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。
結局のところ、フェミニズムは全ての女性を対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである。論点先取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。
考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないからである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性や弱者的男性のみならず、男性や女性の総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来の理念であったのだ。
とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地は存在しない筈なのだ。
換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。
いずれにせよ、全てを救う思想というものは現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。
フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシーな広告は現実の人間にリスクを生むので自重すべき」、というシンプルな命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。
「広告のセクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャルは広告的価値のみならず女性の価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方が評価したところでもしストッキングやタイツを身に着けた一般的な女子の存在が性的に眼差されたら貴方は責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的な女子」とされる存在の中から、「広告のセクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性はパージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニストの活動は、女性の総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。
でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。
無理。
無理だから。
例えば、ソマリアでレ○プされている少女をフェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治の役割である。とにかく、世界同時革命的に思想的啓蒙を行うことは無理なのである。逆襲のシャアを見ろ。
そんなこんなで、フェミニズムの役割は限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。
話を戻すと、結局のところフェミニズムは限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たちが救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。
逆に言えば、フェミニズムは自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである。企業のマーケティングの一挙一動を監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズムの役割ではない。それは本来、公共広告機構とジャロの役割だ。
ソマリアの女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である。
役割を限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象を限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告をバッシングされることで不利益を蒙る企業が存在するのが現実だし、あるいは、広告をバッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体が存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。
全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなのである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。
そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなのである。
つまりここにおいてフェミニズムの立場は相対化されることになる。
フェミニズムは自身の擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言の正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。
そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業が社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムだけが特別というわけではないのだ。
警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というものは存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。
それは恐らくフェミニズムの限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想が自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会的ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。
勿論、救う対象を限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることなど人間には所詮できないのだから。
とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身の限界を意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞う、フェミニストとフェミニズムの傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
本来ならレズビアンって書くべきなんだろうけど、長くて面倒だし言葉狩り的なノリが好きじゃないのでここではレズと表記したいと思う。
まず私は、男性との交際経験があるレズだ。正確にはレズ寄りのバイ。女性と交際する場合はタチ、いわゆる男役になる。
最近よく「男と女」について語る人を見かけるようになった。非モテがどうで〜みたいなのは、ひとまず置いておく。私が考えたのは、社会的な役割……立場のことである。
【男=守る/女=守られる】
あるいは
私は女だが、女性と交際する場合は限りなく「男」に近い立場で彼女とコミュニケーションを取ることになる。もちろん自分の意思で決めたことなので特に不満はない。というか、それがしっくり来る。本当は男性とも恋愛できるのに女性を選ぶ、一番の理由。私は【守られる/リードされる】立場に置かれることが苦手なのだ。
そして思ったのが、私のように【守られる/リードされる】ことが苦手な女性は案外多いのではないか?ということ。
ただ、その人たちの全てが同性に恋愛感情を抱けるわけではない。その場合、彼女らは【守る/リードする】立場で男性と向き合おうとする。すると、同じように【守る/リードする】ポジションに立ちたい男性は不満を抱くだろう。自分の役割を奪うなと警戒するかもしれない。
だが、逆に考えてみてはどうか。
実は女性が思ってる以上に【守られる/リードされる】存在になりたい男性がいるのだとしたら?
ありえない話ではないはずだ。けれど男性は、女性に比べて「生まれ持った性に与えられた役割」を放棄することを躊躇う人が多いように感じる。一度、頭をクリアにして考えてみてほしい。
自分は【守りたい】のか【守られたい】のか。
白黒ハッキリさせなくてもいい。どっちかといえば、でも全然構わない。
もちろん「俺はリードされたいけど男に抱かれたいわけではない」という人もいるだろう。むしろ大多数がそうだと思う。じゃあ、どうすればいいか?
答えは至ってシンプルである。【守る/リードする】ことを好む女性と【守られる/リードされる】ことを好む男性が付き合えばいい。
なお、私は男性が「自分がどっちの立場を好むか」を言い出しにくい空気を作っているのは他でもない男性自身だと考えている。
小さな男の子を「男なんだから泣くな」と怒鳴る父親、若い男性社員を「男のくせに酒が飲めないのか」とバカにする中年の男性管理職。これは呪いだ。真に受ける必要なんて一切ない。世の中は、少しずつ変わり始めている。
子供を殺したい
https://anond.hatelabo.jp/20200731034501
わたしは誰の為にもならない息子を殺したい。
https://anond.hatelabo.jp/20140402083933
「まとも」=「身内に居ても許容出来る」と仮に定義してよくよく考えてみると、確かに男性の半数は「まとも」じゃない。
ただの知り合い程度なら許容出来ても、身内に居たら嫌だ、困る、と言う男性は半数くらいいる。
女性であれば精々1割程度に過ぎないのに。
https://anond.hatelabo.jp/20140402120303
運が良ければ女児より優秀に育つ事例が多い一方、犯罪者になる確率も引きこもりやニートになる割合も発達障害を抱えて産まれてくる可能性も大きい。
自分も子供は欲しくない。元増田と同様の理由で「どうしても作らなければならないとしたらどっちがいいか」と考えると女児を望んでしまう。
そして、このように男の子が産まれてくることを恐れ子供を授かれない女性や、男の子が産まれてしまって苦しんでいる女性が居ます。
それなのになぜ、産み分けは可能にならないのでしょうか?
現状の男女比ほどには男の子は望まれていないというのが本当のところなのに、
世間体が悪くなるのを恐れ、
「産み分けを合法化すべき」
と言い出せないのではないのでしょうか。
誰かが周りの目を恐れず、主張しなければならないのです。
はてなの皆さん、KKO・“弱者男性”、フェミニストの皆で手を組んで、
「産み分けの合法化」
に向かって行くべきなのではないのでしょうか。
なぜなら、男性性は、女性の生きづらさばかりか、男性自身の生きづらさの原因となっているからです。
「男性を極力産まない」
ことで、男性自身を含め、様々な属性の人が生きやすくなります。
おおっぴらに賛同はできなくても、
「こういう主張があるんだ!」
ということが広まって行けば、いつか産み分けが実現し、産まれてくる男性の数が減るはずです。
争っている場合ではありません。
この考えならば、立場の違う人々でも1つになれる可能性があると思います。
皆で変えていかなければいけないのです。