はてなキーワード: 学年主任とは
美術系の授業がたくさんあり美大芸大からも多くの講師が来ていた
その中の1人がA先生だった
先生は歳の頃は30前後、スキンヘッドで身長180超えてて、スラリと細身で足も長くて顔立ちもはっきりして、見たことないような柄のシャツやネクタイとオシャレなスーツをばしっと着こなしてて、まるでモデルみたいだった
ただいわゆる「オネエ」言葉を使う人だった
美術系の私のクラスはほとんどが女生徒で、A先生はあっという間にクラスの人気者になった
作品講習では歯に衣着せぬ物言いでズバズバ言うにもかかわらず、「全然ダメ!何よこのデッサン!ここのパースが狂いまくってるじゃない!」みたいな調子でテレビから出てきたタレントのようで、けちょんけちょんに言われても皆んな嬉しそうにしてい
た
ある時、休み時間に日直の私が黒板に書き物をしていたら、教壇に立ってたA先生のところにクラスの女子が寄ってきて「先生!ちょっと聞きたいことがあるんですけど…」と切り出した
その子はいわゆる「腐女子」でBLもの同人誌を普段から描いている子だった
「なーに?」とA先生が聞くも、その子はモジモジしてなかなか質問を言わず、A先生が重ねて問うてやっと口に出した
詳細は忘れてしまったけど、それはあまりにもプライベートな、性的な質問だった
A先生が答える前に、私があんまりびっくりして動揺して、チョークがボキッと折れて床に落ちた
それで2人が私の方を振り向いたので、私は「躊躇ってた割に、すごい失礼なこと聞くんだね」と思わず言ってしまった
A先生はそれを聞いて手を叩いて大爆笑して、私の肩までバンバン叩きながら「ほんとそうよねー!!」と、私がひくくらい笑っていた
それからまた別の日、A先生が全校生徒の前で壇上に上がって話す機会があった
A先生がしゃべりだすと、他のクラスの生徒がザワザワし出すのが分かった
あちこちで笑ったり、驚くような声が上がった
先生は騒がれてもちっとも気にしない(ように見えた)で話し終えた
私たちのクラスの子たちが近寄って行って、「先生すごい騒がれてたよー!」「他のクラスの子から『あれってホンモノなの?』って聞かれた!」などと囃し立てられていた
先生は笑っていた
その子たちが行ってしまって、先生が後ろを歩いていた私に気づいて、「なにが『ホンモノ』なんだか。ほっとけって言うのよ、ねえ?」と口を歪めた
私はこうしたことから、A先生は当たり前だけどタレントさんじゃなくて、普段笑って上手に冗談にして返してるけど、本当は本当はセクシャリティのことを話題に騒がれるのは嫌なんだと気付かされた
一度気づくと先生には毎日のように性的なからかいが投げかけられていた
担任から「お前、かわいい男子生徒を見つけても手を出すなよ」と言われてクラスが爆笑したり、
学年主任の先生もみんなの前で「俺はその気はないからな」とか言って笑いを取っていた
尊敬していた別の講師が、「オネエ言葉なのに女の格好はしないの?」とニヤニヤ聞いてたのを見たときは、私がなんだかシュンとしてしまった
正直、私だって前はなんとも思わなかったでも先生は本当は嫌なのかもと気づいてからは、先生へのそういった性的なからかいが、ヒリヒリして聞こえてきて辛かった
他人の私が、またかーってウンザリするくらいだから、先生はこういう毎日をずーっとずーっと過ごしてて、怒ったりするのもとっくに諦めてるのかな、と思ったりした
だって女の先生にそういうこと聞いたらセクハラになるんじゃないの?A先生だとオールオッケーなの?
しかし私はおとなしく目立たない地味な、勇気も何もない生徒だったから、幼い義憤をかきたてられても何もできなかった
今思えばA先生はオネエ言葉ではあったけれど男の格好をするのが好きといってた
当たり前みたいに先生を「同性愛者」として見ていたけれど、今思えば、恋愛対象が女か男かも、性自認が女か男かもわからない。しかし、一番大事なのは、そんなこと知る必要もないってことだった
大人になって大学、社会に出てからも、美術系にはいわゆるカミングアウトした性的少数者が何人もいた
もちろん誰も表立って迫害したりはしないし、ふつうに仲良く過ごす
でも、悪意のない冗談めいた性的なからかいはしょっちゅう耳にした
その度にA先生を思い出した
誰もA先生を嫌いじゃなかった
みんなA先生が好きで、仲良くなりたがってた
それでも善意で、悪気なく、誰かを傷つけるかもしれないんだなと分かった
大人になって、社会でいわゆるセクハラのような扱いを受けたことが何度かあった
そのたびA先生をまた思い出した
先生、私も笑って受け流してるよ。だって相手に悪意がないのに戦っても仕方ないし良いこともないし そんな深刻な被害でもないからノリのいい女でいた方が生きやすいし
でも先生、なんかこれ削られるね
笑って流して大したことないって顔してるだけで、ちょっとずつ自分が削れていくもんなんだね
私もきっと知らずに誰かを削ってるんだね
まあ私はA先生じゃないからA先生のことが分かるわけでも代弁できるわけでもないんだけどね
今も忘れられないの
長いが、最後まで読んでほしい。何か思ったらコメントしてほしい。
最初からそれを知っていた。お互いに知った上で二股で付き合った。
俺はセックスして彼氏の受験が終わったら別れるつもりだった。言わなかったがお互いにそうするつもりだった。二人とも互いにそうだとわかっていた。
付き合ってる間は本当に楽しかった。テーマパークに遊びに行ったり、おうちデートしたり、美味しい料理を食べたり。
買い物にも付き合った。毎日電話した。会った日も会えない日も。
別れる時は二人とも泣いた。俺は結婚したいと思った。彼女にとっては俺はもうなくてはならない存在になった。
別れたが、今でも毎日のように会っている。会った日も合わなかった日も毎日電話している。
別れてから俺は彼女とセックスはしてくれない。キスは本当に偶にしてくれるけどほんの少しだけのソフトなキス。
でもこうとも言った、「今付き合ってる彼氏と別れたら結婚してあげる」
今の彼氏は5年間付き合って別れてを繰り返し、中学高校同じ青春を共にした人。そう簡単に切り捨てる事は出来ない。
どうやっても勝てない。今の今まで彼女を人生をかけて愛したが勝てていない。
呼べば直ぐに飛んでいき車を出して連れて行った。遊びに誘って楽しく遊んだ。
洋服が買いたいと言えば一緒に買いに行って一緒に選んだ。ちゃんと似合うものを彼女に選んであげた。
先週「君が私に似合うっていうものは本当に似合うから私に似合うピアスを選んで」と言われ俺が選んだピアスを彼女は見もせずに即決で買った。
今日も昨日もその前も彼女と会った。ご飯を食べた。遊びに行った。
何して遊ぶの?と聞くと彼女は笑いながら「朝ホテルに行って、ホテル出て、お昼ご飯を食べて、またホテルに行って、ホテル出て、夕飯を食べて、またホテルに行って、家に帰る」
彼女は俺と別れてから2回彼氏とセックスしたらしい。1回目は強引に家に連れて行かれ、二回目は人気の無い廊下でセックスしたらしい。
彼女は今の彼氏と体の相性が良いらしい。だからセックスした後は機嫌が良い。
「今日はやけに機嫌がいいね」「なんでだと思う?」「彼氏とセックスをしたから」「当たり」
彼女が彼氏とセックスしたと、聞くと俺は胸の中から何かが消えるような感覚になる。
張り裂けそうとか、そんなんじゃない。胸に穴が開いて、弾丸が心を貫通したような感覚。
「君にはこの学校を退学してもらう」と学年主任から言われた時と似ている。
身長180センチ、二重で顔の形も整ってる、美容室から帰ればイメケン。父は会社経営で年収800万くらい。兄は医学部に進学して勉強中だ。
実力もある。日本人の誰もが知ってる業界トップクラスの企業に内定。初任給は年収で400と数十万以上貰える。
様々な企業に「新卒でこの実力なら20代で800は全然狙える」「新卒でそのスキルは新卒の領域を超えてる」
ネットで知らない人から仕事を頼まれたこともあるし、社会人だと思われて中途採用のオファーも来た。向上心も持ってる。将来有望な株であろう。
身長は低い、顔もブサイクだ。彼女を放っておいて医学部に目指しておいてこのザマだ。
彼女は彼氏を愛してるが、彼氏は彼女の事を愛してない。セフレだと思ってるんじゃないかと疑う時もある。
それでも彼女は言う「君と結婚するかは今の彼氏次第」「今の彼氏が結婚してくれるなら今の彼氏と結婚する」
別れてから彼女は俺の事をいつだって「嫌い」「大嫌い」と言う。
彼女が隣で寝ている時にキスをすると怒る。一発ビンタをしてくる。それで終わり。
彼女は立場上言いたい事は言えないし怒らないといけない時は怒るらしい。変に真面目と言うのかな?
彼女は言った「君はセックスが下手だから嫌だ。真性包茎だから嫌だ。長さが足りないから嫌だ。そんなところ。」
俺は甘かった。世の中金を稼げる人であれば女は寄ってくると思っていた。親にも言われていたから信じていた。
しかし、肝心な事を忘れていたのかもしれない。男としての魅力。遺伝子に刻まれた生殖本能。
真性包茎なんて海外じゃ普通だから安心しろというレスを鵜呑みにしてしまった。
そして事実俺はセックスが下手くそだ。前の彼女にもツイッターで下手くそだの粗チンだの包茎だの言われていたが、気にしていなかった。
悔しかった。あんなダメ野郎にセックスで負けてるなんて。一生モノの恥だと思った。
真性包茎は2chのスレを見て毎日剥いている。全く中が見えなかったが、最近やっとカントン包茎にまでレベルアップした。あと数ヶ月で包茎を卒業出来そうだ。
長さは正直どうにもならない部分が大きいから、薬に詳しい人が言っていたサプリを試そうと思っている。
セックスを上手くなるためにネットの情報もかき集めたし、セックス講座なるDVDも見た。学んだ。
しかし肝心なセックス自体を情報を集め学んだが、まだ実践していない。
だから俺は明日、風俗に行こうか迷っている。もちろんセックスを教えてもらうためだ。
プロから技術をえとくするのが一番効率が良い。プロに対価を払ってプロの技術を得る合理的な話だ。
彼女が彼氏とセックスをする時に、俺は彼女と良いセックスができるようにプロとセックスをする。
ヤバそうなクスリにだって手を出すし、君のためなら君以外の誰かとだってセックスができる。
どうすれば君と結婚できるんだ?どうすれば君を幸せにしてあげられるんだ?
俺のこの日記を書いているタイプ音を聞きながら電話越しで寝ている君に聞きたい。
俺は君を愛し続ける。
>小学校だが、ベルマークやバザーは職業人には非効率極まるので保護者が相応の額を寄付することで代替、 学級便りなど配布物はクラスのブログに替えて廃止、集金は口座引落と手数料負担でのカード決済、を勝ち得た。まだまだ合理化してやるわ。
さらに
>教務主任ですね。伝統守れだのパソコンやネットが使えない人はどうすんだとかいってきます。自分のITスキルがないだけでしょ、主語をでかくすんなよで秒殺。スマホも使えない50代は去れと
と続く
これ見た時うわっ可哀想と思った
この意識高い系ジジイ(ババア?)に巻き込まれる先生たちと一部の保護者が
高校の進学校だと生徒の各家庭に一台はスマホとパソコンあって、ipadだって持ってるしプリンターもFAXもある家庭だってけっこういます、って感じなんだろうが
小中学校だと生活保護家庭、片親、パソコン持ってない、両親ガラケーで機械オンチ、
両親がいなくて祖父母に育てられてるとかまあ色んなのがいる
学校のホームページこまめにわざわざ開いてチェックするなんて億劫でやだって親もいるだろう
俺みたいなのがもし親になったら絶対ろくに見ない
宗教上の理由で家にゲーム機やパソコンどころか洗濯機も電話も冷蔵庫も置いてない家で育った少年の話があったが
日本にも数校にひとつくらいそんなトンデモ一家がいるかもしれない。いやたぶんいるだろ
現実見えてなさすぎ
俺は学校関係者だけどうちの学校では、例えば天気が微妙な時運動会の開催はどうするかとか台風が来てる時に休校にするかどうかとか
全校生徒の保護者に緊急の連絡がある時はメールとアプリで連絡を送信するようにしてる
でもいくつかの家庭は、さまざまな理由で連絡が受け取れない
詳しくは知らないが上で挙げた理由の他にスマホの容量圧迫したくないとか学校にメールアドレス教えたくないなんてのもいるかもな
とにかく連絡が受け取れない、もしくはちゃんと連絡を受け取って見てくれてるか不安な家庭にはどうしてるかって言うと
そして、だいたいそういう家庭って何か訳ありで時間置いて一日に何回電話かけてもつながらなかったりする
まだ○○さんの家に連絡取れないんですよ~って先生がぼやいてるのだって見たことがある
教師は社会経験がなくて世間知らずで頭が悪いからパソコンが使えないんだ!って本当に呆れる
教務主任とかパソコンでの資料作成やメール送信めちゃくちゃやってるだろ
学校のホームページやブログ更新だって教員の誰かがやってるんだぞ
教員じゃないクソ下っ端の俺でもパソコンでの仕事それなりにやってるのに
元ツイの奴の学校の先生はモンペに折れて裏では情報弱者家庭に個別に電話連絡したり紙のプリント刷って持たせてるんだろうなと思うと泣けてくる
こいつの子どもが卒業したらこれ幸いと元のシステムに戻しそうだ
ボクたちいじめられっ子の本気を見せてやる!ボクたち弱者だってやる時にはやるんだ!やられっぱなしはもう終わり!子どもの時、教師の理不尽ないびりに逆らえなかったボクとは違う!強者に立ち向かうぞ!悪の教師をぶっ潰せ!などと思っているんだろうが
相変わらずネットのオタクたちは爆サイにいるような貧困層、キモヲタくんとは別の方向性の社会的弱者ががまったく見えていないんだな
いや、もしかしてわざとなのか?
「スマホも使えない50代は去れ」はそういう保護者にも向けている言葉なのか?
連絡事項をホームページでチェックできないようなのは親子もろとも取り残されてしまえ、小卒どころか最終学歴ホイ卒で十分だ、と
非コミュでオタクでネット民、そんな奴らのカタルシスのために底辺はますます底辺に落ちる
手を差し伸べずに蹴落として、そうして行き着く先は生活保護受給者やヤクザ者
そんなの結局みんな損じゃないか
本当にいいのか、それで
高1の秋頃、学校に行くのが嫌になった。
通学途中の駅のホームに立てば、ここから飛び降りたらどうなるのだろうと思っていたし、学校が近づくに連れて心臓が破裂しそうなくらい音を立てて速くなった。
頑張って通っていたけど回復の兆しは見えなくて、朝決まった時間に起きれなくなったり、学校のことを考えると吐くようになったりした
外に出れば誰か知っている人に会ってしまうかもしれないし、昼間家にいると近所の人に自分がいることが気づかれてしまうのが怖くて自分の部屋のカーテンを閉めきって、出来るだけ音を立てずに暮らしていた。
そのころの唯一の趣味といえば、イラク戦争から帰ってくる軍人がサプライズで家族を訪ねる動画をYouTubeで観ることだった。感動なのかわからないけどその動画を見てると泣けてきて、今思えば自分以外のことで泣く理由が欲しかったんだと思う。
何もしないで1日を過ごしてたから、学力も当然落ちていったし、友達もほとんどいなくなってた。
自分が荒んでいくのがわかってたけど止められなかった。現実が地獄なら地獄は何だ。どうせ今が地獄なら死んでも変わらないだろう。いや自分を地獄に引きずり込んだやつを殺してから死のうと思ってた。
そろそろ死ぬかと考えているときに学校から呼び出された。狭い教室に教頭と学年主任と担任と私の4人で、出席日数が足りないからこの場で退学か休学か選んでって言われたから退学を選んだ。どうせ死ぬつもりだったし。
その帰りの電車の中で1つの区切りがついたことだし死ぬための準備を始めようと思って、LINEの友達欄から死ぬ前に会いたい人だけを残して他を削除した。200人から40人ぐらいまで減らしたと思う。40人の中に消すか迷っている子がいて、中学の同級生で凄く仲が良かった子だった。その子のホーム画面がV6で、彼女の好きなものを見てから消すか判断しようと思った。今でも何でそう思ったのかは分からない。
退学が決まったその足でTSUTAYAに行ってV6のアルバムを買った。どれを買えばいいのか全く分からなかったから、Bestって書いてあるVeryBestを買った。
まぁ聞いたことある歌もあるなぐらいで飛ばし飛ばしで聞いてたけど、1つの歌で信じられないくらいに泣いていた。
「太陽のあたる場所」という歌だ。あれだけ自分はもう死ぬって決めてたのに、それを聞いたらやっぱりやめようと思ってた。図々しいけど、私のための歌だと思ったしこんな私でもV6は応援してくれるって思った。本当に図々しいね。
http://j-lyric.net/artist/a001a50/l00a954.html
それからずっとその歌を聞いてた。朝から晩まで延々と聞いてた。聞いても聞いても飽きなくて今度はV6の動画をネットで漁った。ライブが見たくてDVDを買いたかったけど、お金がなかったから飲食のバイトを始めた。朝に起きる理由ができた。車の免許は持っていなかったから歩きでバイト先まで行くようになった。健康的になった。稼いだお金を貯金しながら、過去に出てるV6の作品を買う日々を続けていた。
そんなときにV6のライブが行われることを知った。絶対に行こうと思って初めてファンクラブというものに入った。1人で行くのは寂しかったから、ホーム画面がV6の子を私から誘った。その子がOKしてくれて2人で行った。行きの電車から共通の好きなものの話題で盛り上がって凄く楽しかった。
ライブが始まった途端に私は号泣していた。私を救ってくれた人が目の前に存在している事実が嬉しくて泣いた。私を救ってくれた人たちが私を救ってくれた歌である太陽のあたる場所を歌っていて泣いた。MCで面白い話を聞いて自然に笑っている自分にびっくりして泣いた。ライブが終わる頃になると終わらないでほしいと思って泣いた。ライブからの帰り道にV6のライブの話をする人たちを見ていて、自分もその一部なんだと思えて嬉しくて泣いた。
2時間半ほぼ泣いていた。キラキラした会場の中で私を救ってくれた人たちが笑顔で私を救ってくれた歌を歌っていた。多幸感に溢れて泣いたのはあれが初めてだ。
V6が私を救ってくれた。私はV6をきっかけにいろんなことができるようになったし、いろんなことを知った。
朝決まった時間に起きれるようになった。部屋のカーテンを開けられるようになった。昔の友達に自分から連絡を取れるようになった。適度な労働は適度な疲労と充足感をもたらすことを知った。お金を稼ぐことが楽しいことだと知った。
V6が私を救ってくれた。私は高認をとった。周りから見れば凄く遠回りになったけど、高校も卒業した。カーテンを閉めきった部屋にいる高1の私には全部できなかったことだ。
相変わらず通学路だった道を歩くとドキドキするし、今度また同じようなことが起きたらどうしようと不安になる日もある。
だけど私は何度でも立ち上がり歩くことができることを私の人生をもって証明したい。だから私は今歩いていけるのか試している途中だ。太陽のあたる場所を目指して
5年生になる娘がいる
音読の宿題で読まされる文章が担任の自作だった(しかも毎月違うのを出してくる)
前半は季節の描写で、桜が咲いたとか新緑とかそういうの。けど後半がやばい。
先生大好き
おうちの人大好き
思いやりのプロ 〇〇さん
しっかり聞くプロ △△さん
1/2成人式が問題になっている昨今、これはないんじゃないかと思う
自分の名前がクラス全家庭の音読の宿題で毎日読み上げられることを考えるとぞっとする
学級懇談会の際に配られた資料もなかなか聞かないワードが散りばめられていた
「まんてん行動」ってなんだよ
「まんてん挨拶」「まんてん廊下」「まんてん掃除」「まんてんスリッパ」「まんてん掃除」「まんてん名札」の総称らしいが常に満点じゃないと許さないの?
学年主任っていうのは、その学年を取り仕切るリーダーの先生のことね。
学年主任のベテラン、自分、後輩の三人で学年組んでるけどもうすでにしんどい。
何がしんどいかというと
校外学習とか学年での発表の時に基本全体指導をやらない。「若い人がやったら~」と言う。それは別にいい。やれと言われればやる。しかしこちらが指導していると、茶々を入れてくるのがうっとうしい
俺「〜を気をつけてね」
俺「(# ゜Д゜)イライラ」
やめろ
主任「俺くん、あれでok出したの、うーん、あれでokかあー、やっぱりどのラインでokか基準を学年で揃えておかないといけないよね」
俺(だから何かありますか、って聞いたがな。その時何も言わないくせに、後になって言うなよ!)
③誰がえらいとかいう
俺「コンコン、失礼します」
主任「俺大先生じゃないですか、おはようございます(大げさな礼)」
俺「…。連絡です」
教室でも「俺先生はえらい先生」とか言ってる。だから主任のクラスの子が、「誰が一番えらいの?」とか聞いてくる。
だまれ。
他にもいろいろあってしんどい。
4月に所属決める時に、俺とその後輩以外の若手は「主任と組むのだけはやめてくれ」と言ったらしい。それでこちらにお鉢が回ってきた。「俺くんも、主任と組みたくない、って校長に言っといたら」と言われたけど、ここまでとは思わなかったので言わなかった。後悔している。
それで結局主任のクラスは現在半崩壊状態。同じ学年だからこちらでフォローしないといけないことになった。
子どもで悩むことはあっても、同僚で悩むことがあるとは思わなかったな。
15年ほど前の話。
田舎の中学校で全校生徒80人とかだったから、教頭先生が体育教えたりしてた。
まあ、教頭先生も元は何かの先生なんだろうからそれは別にそんなもんかって思ってた。
技術は理科の先生が、家庭科は音楽や英語の先生が主に兼任してたかなー。
美術の先生はなぜか毎年変わってた。1年目は音楽の先生が兼任。2年目は英語の先生が、3年目は国語の先生。
2年目に美術を教えてた英語の先生は、別の学年の担任も持ってて、年度と学年によっては体育と技術もやってた。
学年主任の数学の先生が別の学年の体育の先生やったり、社会の先生が体育見てた時期もあったな。
あんまり保健室の先生が授業をバリバリするイメージはなかったんだけど、テストとかも作ってた。
あと女性で若い英語の先生が入ってきた途端、全学年の女子の体育の先生になったりしてた。
何かしらを兼任していない先生がいないような状況だったから、きっと少ない人数でどうにか回そうとしてた結果だったのだろう。
とはいえ、割り当てもかなりコロコロ変わっていたし、全員が担当したことのある科目すべての資格を持ってるマルチプレイヤーって感じには見えなかったけど、
先生と出会ったのは、わたしが中学生の時です。彼は大学院を卒業後、国語の非常勤講師として赴任してきました。わたしと1周りほど年が離れていて、身長は10cm程度高く、かわいい顔立ちをした、少し年齢不詳気味の人でした。
当時のわたしは、授業中は寝ているか、教科書の隅に落書きをしていて、学年下位をふらふらと彷徨っている、やる気のない生徒でした。そんなわたしに「やればできるから」と声をかけ、必死に授業に参加させようとする先生は、いかにも「教師になりたて」で。その熱い眼差しで見られる度に、わたしは居心地の悪い思いをしていました。どれだけ無視をしても「おはよう」と笑顔で手を振る先生、「わからないことがあればいつでも聞いてね」と教室を去る間際、席までわざわざ歩いてきて声をかけてくる先生。わたしは、彼の笑顔がどうしても嘘くさく見えて、大嫌いでした。
気持ちが変わったのは、制服のシャツが半袖に変わり始めた頃でした。一週間遅れで課題を提出しに行った際に、とある難関大学の過去問を意地悪のつもりで聞いてみたら、さらりと答えられてしまい、その際に知った彼の学歴の高さに意外性を感じたからです。先生はいま思い返してみても、とても頭の良い人でした。自分が頭の良いことを知った上で、きちんと、相手にあわせたレベルで話ができる、勉強を教えることのできる優秀な先生でした。彼の解説を聞きながら、初めて、答えを導き出す楽しさに気付き、勉強が楽しいと思うことができたのです。
いま思えば、わたしは彼のパフォーマンスの引き立て役のひとりでしかなかったのでしょう。後々、彼の鞄から発見した、クラスの成績表の書き込みを見れば分かります。伸びしろはあるがやる気がない、かつ、やる気になれば伸びるタイプ。わたしは「ちょうど良い生徒」に過ぎなかったのです。そして、幸か不幸か、彼の好きなタイプの顔立ちをしていました。
先生は褒めるのが上手でした。たった10問の小テストで満点をとっただけでも「偉いなあ、嬉しいなあ」と、にこにこ頷いてくれました。自分で言うのもアレですが、わたしの地頭は悪くなかったので、少し本腰をいれて勉強するだけで見る見る間に成績は上がっていきました。周りの教師が驚いた眼で答案を返してくるのが面白くて、わたしはもっと良い点数が取りたいと思い始めていたのです。
いや、違うかもしれません。分からない問題を先生に聞きに行きたいがために勉強をしていたのかもしれません。先生は担当教科の国語だけでなく、どの教科も教えることができ、また、教え方が上手だった。だから、分からないものがあれば、どの教科でも先生に聞きに行っていた。わざと分からない振りをしていると見抜かれてしまうので、本当に分からない問題を探し、解決していく内に、分からない問題は減っていき、どんどん難解になってしまった。わたしは先生に会いたい、質問をしたい、話したい一心で、教科書に向き合っていたのです。
たったの半年程度で、わたしの順位は下の下から、上の上へと上がっていきました。先生は桁数の違う成績表を見比べて笑っていました。その彼の横顔を見ながら、わたしは少しだけ、意地の悪い考えを抱いてしまいました。言わなければ、幸せでいられた言葉を言ってしまったのです。
「1位を取ったらデートしてください」
先生は、びっくりした顔でわたしを何秒か見つめた後、視線を宙に泳がせました。「お願い」。そう、一歩前に出たわたしから距離を開けるように後ずさり「1位は難しいよ?」と苦笑いしました。「無理だと思うなら、約束してください」。その時の彼の脳内には、きっと、学費免除をされている学年主席の優等生の顔が浮かんでいたのだと思います。先生は意を決したように「いいよ、ただし、全教科合計順位で」と小声で告げました。
300人いない程度の学年でも、1位を取るのは簡単なことではありません。優等生は、わたしの学校でも飛びぬけて頭の良い少女でした。しかし、わたしには彼女に負けない思いがある。恋心です。
わたしは、先生とのデートの権利をかけて彼女に一方的に勝負を挑みました。彼女の苦手科目であった生物を攻略することで、大幅に点差をつけたわたしは、僅差で勝つことができました。学年末試験の結果が書かれたA4のペラ紙を持って、勝ち誇った笑みを湛えながら職員室に飛び込んできたわたしを見て、先生は少し罰の悪そうな顔をして「おめでとう」と返しました。
誰かに見つかるのは避けたいと提案された場所は、あろうことか先生の自宅でした。少し驚きましたが、恋は盲目状態だったわたしは先生からのメールが届いた瞬間、秒速で返信しました。春休み、まだ蕾のままの桜並木を見ながら、ミスタードーナツの袋を下げて、先生の自宅への道を歩みました、人生で1番幸福な瞬間でした。私服姿の先生は想像の何倍もおしゃれで、部屋も黒を基調とした、かっこいいものでした。
わたしたちはドーナッツを食べながら「教師と生徒」という禁断の響きに似つかわしくないほど、平凡で下世話な話をして盛り上がりました。教室内のヒエラルキーも職員室内のパワーバランスも変わらず馬鹿らしいと腹を抱えて笑いあいました。先生が録画をしていた、ただ絵面だけが派手な洋画を見ながら、作品とは全く関係ない話に興じました。
映画を見終わった頃、先生が不意に真剣な表情で聞いてきたこと、その声音を、わたしは忘れることができません。「俺のこと好きなの?」。いつも飄々としていた先生が、こんなに真剣になるのを見たのは初めてでした。報われぬ片想いを今日で最後にするつもりだったわたしは、笑顔で「大好きです、結婚したいみたいな意味で好き」と頷きました。次に出てくる、哀れで馬鹿な生徒の恋心を突き放す言葉に怯えながら。
しかし、先生の口から発せられた言葉は、予想の真逆をいくものでした。わたしのことがひとりの女性として好きなこと、これからもこうして会いたいこと。しかし、くれぐれも周りの人に気付かれてはいけないこと、それが守れなくなった時点で離れたいこと。彼の話していた言葉はよく覚えていませんが、約束事の多さだけは覚えています。「教師と生徒」の恋に怯える先生の気持ちを手に取るようで、その真剣な眼差しに促されるように、わたしは「はい、はい」と頷いていました。
先生が、なぜわたしのことを好きだったのかはわかりませんが、彼はよく「愛に飢えててかわいそう」とわたしを評しました。両親も健在ですし、人並みに可愛がってもらえていたはずですが、わたしは両親との関係性というものがどうしても希薄にしか感じられなかった。そんな姿が、愛に飢えているように見えたのかもしれません。彼は小さな頃から過剰な愛、過干渉を受け育ったそうです。だから、その与えられすぎた愛を持たざる者(と彼が思うもの)に受け渡すことで、バランスを取っていたのかもしれません。
先生とわたしは、密かに逢瀬を重ねていきました。学校では、若いお気に入りの教師に熱を上げる馬鹿な生徒を演じ続けました。その一方で、2人で会う時のわたしは、あまり騒ぎませんでした。先生に似合う、大人の女性に早くなりたかったので、静かに、黙っていました。
高校生になり、バイトを始めると、わたしの身なりは少しずつ「ちんちくりんな子供」を脱却し始めました。大人になるにつれ、彼の熱が上がるのを感じ、気分が良くて仕方がなく、その感覚を味わう度に自分の箍が外れていく気がしました。己のアイデンテイティがうまく掴めなくなり、自分が子供なのか大人なのか分からなくなる瞬間が増え、ぼーっとした日々を過ごしていました。誰にも言えないまま、大人になるストレスは存外厳しく、不安に泣いた日も多かった気がします。
そして何よりも、わたしは頭が良くなってしまった、なりすぎてしまった。あんなにも尊敬していた彼の大学の合否判定は「A」しかでませんでした。学年1位は優等生からわたしの手に移ってしまった。彼が枕元で得意げに語る知識に、目を輝かせることは、もはやできなくなり、ただ黙って薄笑いを浮かべることで精いっぱいになりました。そういったわたしの変化を感じてか、彼はわたしの「人に言えない」ことに漬け込むようになっていきました。
「共犯者だよ、君も捕まる」
そんな言葉を言われる度に、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃにかき回され、嗚咽をあげて泣くか、へらへら笑うことしかできなくなりました。誰かに言わなくては、と思いつつも、その先に待つ破滅を考えると声が出せない。何よりも「淫行教師」と「可哀想な女生徒」として衆目に晒されるのが耐えられませんでした。
わたしは、先生のことを本気で愛していました。彼の未来は輝かしいものであってほしかった。たとえその先に、わたしがいなくても。先生がどれだけ汚い姿を見せてきても、教室の隅で燻っていたわたしを救ってくれた人に他ならないのですから。それが例え、先生の株をあげるためのパフォーマンスであっても、救いだったのですから。
物語の幕引きは、あっけないものでした。先生は、自分の罪を周囲に告白してしまったのです。2度目の冬のことでした。放課後、その曜日は先生が学校に来ていない日だったので、早めに家に帰って漫画でも読もうといそいそ帰りの支度をしていたわたしを学年主任が呼び止めました。主任は、まるで化け物でも見たような、恐ろしい、それでいて悲しそうな目でわたしを見ていました。すべてを察しました。
先生は、主任と校長にだけわたしたちの関係を告白しました。校外で2人で会っていた事実を認め、これ以上関係が深くなる前に学校を去りたいと告げたそうでした。主任と校長は、わたしに深く頭を下げました。そんなことしてほしくないのに、する必要ないのにと焦るわたしを2人は涙を堪えた目で見上げてきました。そして、痛切な表情で「肉体関係はあったのか」と問うてきました。「ありません、断じて」とだけ答えると、先生たちは泣き出し、再び謝り始めました。わたしは校長室の分厚い壁が、この大きな泣き声を外部に漏らさないかだけが心配でした。
先生からはその数日後、直接、学校を去ることを告げられました。彼は、わたしが嘘をついたことを責めました。勝手な生き物だと、少し幻滅したのを覚えています。一方的に罪を告白し、逃げ出すのはルール違反だと怒りたい気分でした、しかし、解放されたがっている自分がいたのも、また、事実でした。わたしたちは主任と校長に話したこと「だけ」が2人の間にあった関係であることを確認会話し、男と女の関係を辞めました。
先生とわたしは、3学期中をいつも通りに過ごしました。終業式で言い渡された先生の退職を聞き、泣いている生徒の多いこと。別れを告げ、さよならを惜しむ生徒たちを横目に見ながら職員室に顔を出さずに、わたしは去りました。先生の机に重なった書類の多さは、1日やそっとで持ち帰れる量ではないと判断したからです。
春休み、わたしは毎日のように学校に通いました。先生の机が見える、職員室と質問コーナーの境目に陣取って赤本を進めました。毎日通うつもりでしたが、たったの1日だけ大雨が降り、行かない日がありました。その翌日、いつものように職員室に向かうと、先生の机はもぬけの殻になっていました。わたしはその瞬間、初めて人前で叫び声をあげ、怒り狂いました。教師たちの静止の声も聞かず、わたしは何度も横に立ち、椅子にもたれかかり、無意味に引き出しを開け閉めして遊んだ、彼の机を蹴り上げました。そして、糸が切れたようにしゃがみ込み、永遠と、わんわんと小さな子供のように泣いていました。
高校3年生の時、知り合いから先生が都内の某大学で働いていると知らされました。わたしは当時の志望校よりも幾分か偏差値の低いその大学を第一希望に変更し、無事に合格しました。学びたい学問でもなんでもありません、ただ、先生がいるからでした。何も言わず、大雨の中逃げるように去っていった彼に、文句の一つでも言ってやりたかったからです。大学生としてあらわれたわたしを見た先生は、怯えきっていました。「お金ならあげるから」と言われた瞬間、わたしは、あの日職員室で暴れた時のように先生の鞄を投げ捨て、近くのベンチを蹴り上げました。
なぜか彼は土下座をして、許しを乞うてきました。わたしがしたかったのは、してほしかったのは、そんなことではありません。ただ「さようなら」とだけ言いたかっただけなのです。先生は、季節が夏になる前に海外へと去っていきました、何か月か後に届いたエアメールには「許してほしい」と何度も綴られていました。
先生は、わたしのことが恐ろしくて仕方がないようでした。大学でふとすれ違っただけで、化け物を見るような顔をして踵を返されるたびに、わたしの心は潰れました。きちんと別れを言いたいだけだったのに、いつしか、互いに恨みが募っていってしまったのです。彼はすでに日本に戻ってきているようですが、わたしは、まだ会いに行けていません。会うのが怖いのです。あの目が怖いのです。
わたしの家には毎年、主任と校長から年賀状が届きます。他の生徒には届いていないようですが、わたしにだけは届くのです。罪を共有し合う仲間ですから。わたしはその年賀状に、便箋3枚程度の手紙で近況や1年の振り返りを送るのが常でした。母は、特別親しくもなかった教師への手紙を綴るわたしを眺めては、毎年、不思議がっていました。
はじめて家を出ることになり、年賀状の送付先が変わることを告げる手紙を綴る最中、わたしはぽろりと母に罪を告白してしまいました、勿論、関係については「公然の事実」のみ伝えました。母は「でも、好きだったんでしょう?」と聞いてきました。そうです、わたしは好きだったのです、先生のことが。そして、今でも好きなのです。「さよなら」を言えないまま、わたしは片想いの渦にまだ囚われているのです。「なら、良いじゃない、世間はどういうか分からないけれど」。そうです、他人など、どうでもいいのです。どうでもよかったのです。
冬になり、主任と校長は一人暮らしになったわたしに年賀状を出すことなく、立て続けにこの世を去りました。わたしのことをずっと気遣ってくれた2人は、成人し、就職が決まったことをとても褒めてくれました。彼らが、あの日以降、罪について話題に出した日は一度もありませんでした。わたしを気遣う優しい文面、文化祭に遊びに行ったわたしを出迎えてくれた笑顔、どこまでも優しい2人でした。
2人の葬儀には沢山の生徒、教師が集まりました。その中の誰も、わたしの罪を知る者はもういません。しかし、幼き日の思い出話に花を咲かせれば、誰もが「あなたは、あの先生が好きだったのでしょう?」と聞いてきます。わたしはその質問をされる度に「好きです、今でも」と答えるのです。そう答えながら、喪服姿の先生を横目で探してしまうのです。ヒールをはいたわたしと同じぐらいの身長、年の割にかわいい顔立ちをした年齢不詳の人。わたしは、彼がどんな姿をしていたのかも、もう曖昧にしか思い出せません。一緒に撮った写真はたったの1枚しかありませんでしたし、それもどこかに消えてしまいました。
はじめて会った日から、気付けばもう10年以上の月日が流れてしまいました。あの頃急速に大人になってしまったわたしは、ひどくアンバランスな心を抱えて生きています。わたしの心は未だに、あの新しいようで古ぼけた校舎に囚われたままなのです。職員室を入って右側の島、奥から3番目の灰色の大きな机、先生の足元にしゃがんで、顎をひんやりとした板にのせて、話すのが大好きな子供のままなのです。
しかし、わたしがいまいる場所は、生きている場所は、あの箱庭ではないのです。過去の罪に囚われる時代はもう終わりなのです。だからこそ、口に出さなくてはいけないのです。だからこそ、会いたいのです。会って、言いたいのです。
せんせぇ、さようなら。
すごく長文ですごく愚痴
なにかの主張に使われることは望みません。今、数年たって要領が悪かったなぁっておもう事はいっぱいあります。
保育士と幼稚園教諭免許が取れる短期大学を卒業して幼稚園に就職した。
初任で年少組(3歳児~)20名弱おはな組(仮)さんの担任になった。
私の初任給は手取り丁度15万円+交通費(3か月定期代を1/3ずつもらう)
。
8:00には出勤 (バスでのお迎え当番が1ヶ月に2.3回7:50までには出勤)
園庭の準備をする(遊具にカバーをかけていたり水を拭いたり、園庭の水溜りを掃除したり)
もちろん素直に上手に着替えができない子だっている。着替えもせずに遊びまわったりしている。
そういった子の手伝いもしながら、園庭で遊ぶ子どもたちも見ないといけない、徒歩でやってくる子を門前で引き受けないといけない、お休みした子どもの制作もさせないといけない
一人ひとりかばんを開けて提出物や保護者からのお手紙を確認して、体に傷がないか、しんどくなさそうか チェックする。
私は毎日先輩の先生たちに「なぜ園庭に出てなかったの?門前にいなかったの?制作させてないの?先生のクラスの○○ちゃんが着替えられなくて戸惑ってた!」とお叱りを受けていた。
正直「もうどこで何をしていれば正解なのか」解らなかった。
登園~朝の挨拶~一日の遊び(制作や行事の練習)~お昼ごはん~自由時間~降園
教職をとったことのある方ならわかるだろうけれど
これらはその日そのときの思いつきで行われているわけじゃない。
私を含めクラス担任たちは毎日毎日 一日の流れを分刻みでスケジューリングしてそれを日案という形で毎朝指導教諭に提出していた。
まず年少組の先生たちと話し合った内容にそって 何時何分~何分までに説明して、実行して、できない子がいたらどうして、こうして、こういう声を掛けて、
A4の紙いっぱいにo.3mボールペンでみっちりと1日につき2~3枚書いていた。
はさみで丸を切る。 紙の端からはさみを入れて紙を動かしながら切ることを示して見せる。
難しい子どもを把握して早めに声をかける。終わった子どもにははさみを置き静かに待つように予め伝えることで事故を防ぐ、遊ぶことが予想される子どもからははさみを預かる。
こんな感じ。これを行動の逐一に書いていく。そして決して「できない子ども」とは書かないのだ。
初任の私はまずそれを指導教諭に渡す、すると次の日に足りない部分を指導される。
帰宅してそれを青いボールペンで修正、朝主任に提出して夕方指導を受ける。
帰宅して赤いボールペンで修正して当日の朝一番に再度主任に提出するのだ。
これを毎日繰り返した。つまり3日分の日報を修正含めて毎日書いていた。
どれだけ書いても終わらない、いたちごっこがつらかった。
制作物も行事や季節にそっていたり、発達に会わせているのだけれど
なぜ作るのか、なぜこの形なのか、どういう意味があるのか 子どもにもわかるように、そして行事に期待や思いを寄せられるように話さなくてはならなかった。
たとえば七夕 なぜ笹なの?なぜ短冊に願いをかくの?飾り物の意味は?
考えたことのある人はどれだけいるだろう。でもそういったことを逐一お話することが求められた。
また毎月1枚 その月に子どもたちに達成させたいことや、覚えてほしいことについてを記入して提出(※月案 これも学年主任、主任のWチェック)
毎週1枚 生活面で達成してほしいこと、衛生面についての意識付けをするための活動について提出(※生活案 同じくチェック)
他にも行事(遠足、運動会、発表会、参観、お祭りetc)のたびに特別指導案を書いた。これは5枚近くになるときもあった。天候などで行事が中止になった時のための普段の日案も書かなければならない為行事は大嫌いだった。
そこから何往復かするバスに乗せて子どもたちが完全に帰るのは16:00ころになった。
もちろん朝からそこまで休憩は一切無い。
14時~16時はバス当番でない先生で園内の掃除をして回る。各部屋に掃除機を掛けて、おもちゃを清拭して、廊下の泥を掃いて、トイレを洗って・・・
16時からは気になる家庭へ連絡をいれる。
熱っぽかった、けんかした、誰かに叩かれた、手を上げた、登園時には無かった傷(それが何かに押し当たっただけのスレでも)があった、登園時に泣いていた等などの理由で電話をかける。
そして次の日の制作物の準備に取りかかる。画用紙など画材を用意するのは園でしかできないから。
(子どもの描いた絵を完成品に仕上げたりするのは自宅で行うのが暗黙の了解だった)
1人600円の延長保育(おやつ付)は14:00~18:00 平均して15人ほどの子どもを1人で見るのだ。
1ヶ月に2回ほど回ってくる 延長保育に関しても同じように日報を提出した
子どもの事、ご家庭のこと全クラスの事を共有できるように一人ひとり発言していく。短くて30分、長いと1時間かかることもあった。
職員会議後には日案の指導が始まる。指導教諭から指導を受け、主任から指導をうけるといつも20:00ころになっていた。
私は自宅が少し離れていた為帰宅はいつも10時ころだった。そこから夕飯を片手に指導案を修正して、書いて、制作物の仕上げをして、気がつくといつも午前3時4時だった。
気を失うように寝て、6時半に飛び起きて出勤していた。
いつもお風呂から上がった後は勤務着(ジャージ)を着ていた。飛び起きてそのまま出勤できるからだ。
化粧もしなかった、朝ご飯も食べなかった。園で食べるお昼ご飯は詰め込むように5分もかけずに食べた。
だんだん寝てしまうことが多くなり、指導案の提出がずれて、しかられることも多くなった。ズレればずれる程自分が大変になるのに、どうしてもできなかった。書くことがなにも思いつかなかった。
家だと寝てしまうと思って夜にファミレスに行って指導案を書いた。6時前に帰宅してそのまま出勤した。
夕方の掃除の時間にトイレにこもって三角座りで仮眠をした。バスの中でも何度も寝てしまった(子どもが乗っているのに)
それでも一日も休まなかった。休みたかったけれど、園には余剰な人員なんていない、休んだら誰が私のクラスをみるの??
10月に園長先生から「来年度もがんばれるか。続けられるか?」尋ねられた。
「がんばります。来年こそはご迷惑をかけないようにしっかりします」そう答えた。
1月冬休み明け出勤の1日目「すみません。今年度で退職させてください」
引き留められなかった、当然だ。そのときには私は園の厄介者になっていたからだ。
情けなかった。自分の容量の悪さが不甲斐なかった、だんだん私の指導が御座なりになる指導教諭が怖かった、申し訳なかった。
そして冬休み前に行われた保護者との個人面談で「先生、本当に子ども好きなんですか?」
1人の保護者からそういわれたことで、私のなかでこの仕事への未練がなくなってしまった。
4月に学生時代に貯めたお金で買った礼服はちょっと胸周りがきつい服で入園式の写真に残っている。
卒園式で撮った職員写真では、礼服はガバガバのユルユルだった。
1年で10キロ以上は痩せた。3学期には保護者にも心配されるくらい急激に痩せていた。(元が太りすぎというのもあるかな)