はてなキーワード: ゴブリンとは
なぜなら、家が裕福だからだ。
一人暮らし先の月6万円の家賃抜きで12万円の仕送りが毎月振り込まれる。
京都で月6万円は相当いいアパートに入れるのは確かで、日当たりは最高に悪いが、とても広い。
夏休み、ずっと都心の賃貸マンションの一室の実家でオナニーをしていた時も12万円を父親は振り込んだ。
本当は頭が良ければこんな年間学費200万の京都の頭がすごく悪い大学の底抜けのバカが集まる学部になんか行かなくてよかったのに、勉強がとても出来ない人間だから来てしまった。
実家からは法政大学や明治大学の立派なタワービルが見えるけど、馬鹿だからこんなところへ入ってしまった。
とても後悔している。
自分が愚痴を吐き出す、友人なのかよくわからない存在のやつもアルバイトをやっていないが、日本学生支援機構に300万円の借金がある。
どうするのかはよくわからない。
北海道の付属校から来るとても頭の悪い奴らは親が田舎の医者だったりするので同じくアルバイトをしていない。
彼らと接すると田舎の金持ちの子供というのは性格が悪い。補助金ありきの仕事での金持ちが多いから、卑しくなるのだろうか。
まぁ、年間学費200万円の金蔓学部に入る子供はなんだかんだ金が家にあるのだろう。
下宿生なのにだ。
アルバイトをしないで仕送りが多いからといって、生きているのが楽しいかといえば嘘である。
京都は学生が多い街だから、アルバイトも買い手市場な気がする。
気がするだけでよくわからない。まぁ働いている人間の容姿が良いのだ。
同じ学部にとてつもないドブスがいて、たまに自分の脳内に現れて自分を苦しめるのだけど、アイツのような容姿の女が大学周辺で働いている感じではない。もちろん彼女に男はいない。
まぁ、もしかしたら彼女にもバイト先はあるのかもしれないが、大学で容姿が悪いが為に孤立している彼女は働いても地獄に違いない。
彼女が自分より裕福な感じもしないので、僕は彼女の将来が非常に苦しい物になることだけはわかる。
おけしょうや美容整形じゃ焼け石に水な容姿の彼女が働ける場所があるのかといったら都内で働いている人を見ると、なんだかんだ彼女ほど皆、醜くないからどこにあるのだろうと思うし、可哀想になる。
じゃあ、お前が救ってやれよ 似た者同士でお似合いだとか言ったらそれは違う。自分は彼女の姿を近くで見たら吐く。
セックスなんて言ったら泣いて、首をつる。
金だって出したくない。容姿が悪いというのはお互いそうだけど、彼女を救いたいかと言ったらそんなことはないのだ。醜いから。
ゴブリン同士で嫌いあう最悪で、嫌になって来る様だ。
学部のパンフレットを見てくれれば分かるがNTTに就職した女も某映画配給会社に就職できたという男も容姿がいい。
自分は働ける容姿がないが、働ける場を用意できる家でよかった。
夏休み用意された働き場でアルバイトをしたが、自分の背景には父親がいるのだから社員は悪口や酷いことなんかしないし、まるで美人に接するように一生懸命無理して酷く醜い容姿の自分に笑顔を送ってくれた。
無理して働かなければいけなくなった時、容姿が悪い自分やあのドブスな彼女は苦しむだろう。
アルバイトを少しして、授業で寝て、彼氏とセックスする容姿の良い女の子が一番羨ましい。
仕送り12万円で、醜い容姿のせいで人は近寄らずに、イライラしながら容姿のいい女を羨んで、金を稼ぐ父の死が来ることに怯えながら、バカメイカンにうんざりする日々である。
http://anond.hatelabo.jp/20151001212231
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アニメ「アイドルマスター シンデレラガールズ」が最終回を迎えてから、約半月が経過した。
作品そのものの感想は視聴者それぞれに思うところがあり、また既に多数の感想記事が上げられていることから割愛するとして。
《溶鉄の尖峰、ヴァラクート》アニメとしての『ビビッドレッド・オペレーション』(http://wasasula.hatenablog.com/entry/2014/06/29/012233)という記事があった。こちらをリスペクトし、今回はシンデレラガールズとはどういうデッキなのか、について迫りたいと思う。
シンデレラガールズの原作にあたるゲームは、いわゆる普通のフォーマットのゲームではない。現在スターライトステージが稼働中とはいえ、アニメ制作段階では、アニメの原作と呼べるものはソーシャルゲームのみであった。
ゲーム内の登場人物は100人を軽く超えている。とてもじゃないが、通常の60枚構築ではゲームの、その中のキャラクターの魅力を表現できない。その上、構築にあたってデッキビルダーは「特定のカードをデッキに入れること」を要求された。
そこで発想の転換が行われた。アニメ「シンデレラガールズ」はスタンダードのデッキではなく、統率者戦、EDHのデッキとして構築する。
EDHとは、伝説のクリーチャー1枚を統率者として指定し、統率者が持つ色の99枚ちょうどのハイランダーデッキを構築する多人数戦用のフォーマットである。
大切になるのが統率者選びだが、入れたいカード、入れなくてはいけないカードが5色に散らばっていた時点で選択肢は狭まっていた。5色の伝説クリーチャー、《大祖始》。
Progenitus / 大祖始 (白)(白)(青)(青)(黒)(黒)(赤)(赤)(緑)(緑)
伝説のクリーチャー — ハイドラ(Hydra) アバター(Avatar)
プロテクション(すべて)
大祖始がいずれかの領域からいずれかの墓地に置かれる場合、代わりに大祖始を公開しそれをオーナーのライブラリーに加えた上で切り直す。
後は、強いカードを片っ端から入れていくだけだった。幸い、資金は潤沢にあり、必要なカードは全て手に入った。
《歓楽の神、ゼナゴス》と《化膿獣》による一撃必殺。
美しく高い性能を誇る、《悪斬の天使》。
《玄武岩のモノリス》《ブライトハースの指輪》による無限マナ、そして《ゴブリンの大砲》。
赤と青、相反する二色により生み出される速攻持ちの無限トークン。
アニメ第一話、デッキを用意してゲームを始める直前の統率者顔合わせ……その時提示した《大祖始》を見て、対戦相手……つまりは我々視聴者は、「とんでもないデッキがくる」と覚悟をした。
アニメ「シンデレラガールズ」とはつまり、以下の様なデッキだった。
統率者:大祖始
悪斬の天使
鏡割りのキキジキ
やっかい児
士気溢れる微集兵
修復の天使
シルヴォクののけ者、メリーラ
台所の嫌がらせ屋
包囲サイ
壊死のウーズ
石鍛冶の神秘家
歓楽の神、ゼナゴス
荒廃鋼の巨像
化膿獣
ボガーダンのヘルカイト
シヴのヘルカイト
ボロスの反攻者
瞬唱の魔道士
山賊の頭、伍堂
聖別されたスフィンクス
精神を刻む者、ジェイス
求道者テゼレット
Mana Crypt
魔力の櫃
ダークスティールの鋳塊
殴打頭蓋
梅澤の十手
寺院の鐘
危険な櫃
頭蓋骨絞め
demonic Tutor
吸血の教示者
忌むべき者のかがり火
ぶどう弾
苦花
ティムールの隆盛
歯と爪
arcane denial
サイクロンの裂け目
至高の評決
神の怒り
塵への帰結
汚損破
スフィンクスの啓示
出産の殻
意外な授かり物
青の太陽の頂点
時を越えた探索
全知
渦まく知識
生体融合外骨格
剣を鍬に
四肢切断
流刑への道
欠片の双子
ファイレクシアの闘技場
Tundra
Underground Sea
Badlands
Scrubland
Volcanic Island
Bayou
Plateau
Tropical Island
神聖なる泉
湿った墓
血の墓所
踏み鳴らされる地
寺院の庭
神無き祭殿
蒸気孔
草むした墓
聖なる鋳造所
繁殖池
この京都のゴミ大学氏は、まあ上の上のエルフにならない限りそうなんだろうけど、
下の下と中の下じゃたぶん相当違うだろうにね。
下というのはゴブリンというかオークというか、とにかくリアルに獣人レベルの扱いだから。
何をしても「そいつがやった」という事実がついて回り、ネガティブに捉えられる。
オタクがオタクファッションを好むというよりは逆で、オタクが着ているものが即ちオタクファッションなのだ。
エルフが無理でも、そっから村人レベルに上がれりゃ上等じゃないすかね。まったく。
逆に大抵のことはポジティブに受け取ってもらえるのが上。※ただしイケメンに限る。
時々、カップルがくるがお互いの容姿を吟味してくっついているようだと感じた。
どこでも感じるけど。
自分のようなゴブリンにはゴブリンがくっつくべきなようだ。ゴブリンがかわいそうだ ゴブリンとくっつくのがお似合いで エルフになれなくて。でもゴブリンの僕はエルフとセックスしたいんだ。金を払わないで。エルフになりたかった。
丸善に行く前に、大学で受けたジェンダー論は世の中には建前ではなく、実態による序列、秩序があると講師は言っていた。
それらが密接に絡みついてジェンダーの問題があるということだった。
自分が考えていたことと非常に近かった。容姿が悪くて、体がよくなくて、頭が悪い京都のゴミ大学の学生には非常に深刻なのだ。
丸善に戻そう。
小説の良いところは相手の容姿をぼかすことができることなのだけど、自分が生きてきた中では、美男美女でなければできないことだらけなことが小説の主人公には起こるのだ。
美しい女 アンナ・カレーニナとか言ったらもうそれはやっぱり、美人なのだろう。
ブスを突き放す。
では、容姿が悪い人間が小説に出てきたときはどうなるだろうか?しっかりと容姿の醜さが表現されている男女は。
まぁ、現実と変わらない。
結局、文学とは美男美女がどうこうってお話になることがほとんどだ。
たとえ、美男美女だと書いていなくても、行動で容姿が良い人間だとわかる。
丸善でうじうじと小説とか頭の悪い大学の授業の参考書を読まないで、変にジェンダー論とか考えないで、例え授業の成績がCでもおっぱいがおっきい可愛い女の子でセックスに不自由しないで、楽に楽しく生きることができた方が絶対にいいというのは丸善に行く前から気付いている。
そっちの方が京○銀行とかにも簡単に就職できる。生まれつきの問題で。
本には容姿が悪い人間がどうやってこんなひどい状態から解放されるか勝利するかは書いていない。
ないからかもしれない。
容姿が悪くて差別されるといえば、「美人だって差別されているの いい?不細工のほうが楽よ」
などというのを遠回しに書いてあるWEBの記事や書き込みが散見される。容姿が醜い人間としては、これはごまかしである。
美人なんていつでもやめれるものである。そんなに苦労しているなら顔に熱湯をかければいいだけだ。
どうせかけないのだから、苦労なんて言い訳にしか聞こえないものだ。
自分も含め、容姿が悪い人間は容姿の良い人間にはなれないのだ。
自分が通う学部にはとてつもない不細工がいる。SF小説で言えば、接続された女のP・バークという女レベルに醜い。
世の中の美的感覚の正反対だ。千年に一度の容姿の醜さとでも言おうか。声も、授業中の行動も、ネイルも、体の指も、書いている小説もなにもかもが醜い。頭も悪そうだ。
この女の悪口を書きたいのではない。
美人の苦労なんて、どうってことがないことがこの醜女を見ていれば分かるのだ。
あまりに容姿が醜いために、友人も一人いるかいないかで、男と話した様子は一度もない。
就職だってできるかわからない。京都でも東京でもあれほどの醜女が働いているかといえば怪しい。
しょうもない会社で採用に関わっている自分の父親はあの醜女は採用しないだろう。
いや、赤坂の某ラーメンチェーン店に居た。凄く醜かった。他の店員からも客からも嫌われていた感じがする。
整形や化粧なんて焼け石に水だ。自分もだが。
こんなに醜女が可哀想なら、お前が救ってやれよというかもしれないが、容姿が同じくらいかそれよりはちょっとだけましなくらい醜い容姿の自分だってあの醜女に金を使いたくはないし、向こうもお断りだろうがセックスなんかしたくない。
それはやっぱり容姿が醜いからに限るのだ。これは自分 つまり雄ゴブリンがあまりの容姿の醜さに雌ゴブリンを忌み嫌う様である。これが美男美女同士 エルフ同士だったら美しい物語だ。
なんとなくだけど、女性の社会進出などで男女ともにより容姿が問われる気がしそうだ。ビジネスの最前線にいる不細工で腎臓病の頭が悪い子供を作った父の雰囲気から感じるだけだが。
学歴よりも、資産よりも、容姿の良し悪しが人間の価値を決めていくかもしれない。
考えてもみろ。
もし、だ。
美人がいても。
そいつが末期がんで今にも死にそうだとどうだ?
そのゴブリン女と入れ替わってくれと思うだろう、願うだろう。
必ず何かを欲しがる。
それが人が持っているものなら不満に思い、平等という言葉を呪う。
つまり、何かを欲しがるのは当然であり、
逆に不平等ではない、ということは欲しいものや欠けているものがない世界ということ。
そんな世界にはならない。
エネルギー保存の法則がある限り絶対無い。
しかし過去に帰った人間もいないし、永遠に生きる人間もいない。
もうどうでもよくなった。
本当にどうでもいい。
自分は数少ない友人と授業を受けたのだが、自分の前にドブスが一人で座っていた。
髪は艶がなかった。そしてひどくボサボサで癖がひどかった。
つむじのあたりはなんだか薄い。
ひどくめちゃくちゃな髪たちの隙間から顔の輪郭を知るとえらく顔が長く、でかい。
自分よりも大きいかもしれなかった。
その時点でわかった。この女と言えるのかよくわからないものは同じ学部で同じ学年であると。
いつもこの女はスカートなんか履かない。男のような服に若干女の要素が入っていた。
この女は自分が容姿が悪いことを知っていることはなんだかんだ確かだ。
自分はいつも、この女を遠くからみてストレスが溜まったのだった。
どうしてこんなにもひどい容姿をしているのかと。
今日初めて、近くで見た。
肌の色が汚い。褐色ではない。泥水みたいな色だ。
体全体が泥水色の女など、この大教室には他に全くいなかった。
どす黒い若干凹凸がある綺麗ではない肌が貼りつけられた長く大きくて、顎が突き出た顔には小さな目が彫ってある。
また、大きな鼻が適当にひっついている。
体は無駄にがたいがいい。背は低いが。
太っていないが、ぶよぶよとしている。もちろんどす泥水色の肌だ。
とりあえずおしゃれをしているのがわかるのは目の周りと爪だった。
目の周りは真っ黒になっていた。容姿のいい女の子と違い、どうにもならない。
爪はネイルアートと言えるのかわからないが、紫が背景で白の水玉っぽいものが描かれたいた。
爪がひっついている手やそこから生えている腕も泥水色でぶよぶよとしていて見ていて腹が立った。
女は授業中、パソコンを開いていた。確かあれは生協が売りつける高いだけのパソコンだ。
そんなパソコンのデスクトップは散らかっていた。授業中に可愛い女の子たちが授業をなんだかんだ受けている中、ドブスはメールやらを見ていた。
途中でドブスはパソコンを閉じると、普通のハサミで爪をガリガリと擦り始めた。爪に描いた絵を整えているようだった。
女は全く美から離れている。
自分は決して、ブスでも授業を聞けとかひどいことを言うつもりはない。
この女はどうしてこんな行動をしたか考えるとやはり、ひどく醜い容姿であるからという結論に至った。
可愛い女の子というのは行動が美しいから可愛いというのはとんでもない嘘だ。
可愛い顔に生まれたから可愛いし、まともな動作が身につくだけだ。
自分はこの醜女の容姿を見て可哀想になると同時に、容姿を見て腹が立って仕方ない。
自分がこの醜女が見えるのは、醜女と同じレベルで醜いからだった。
だから可哀想だから付き合ってくれとかいうと、死んだほうがマシだ。向こうもそうだろう。
醜女は本当にただ生まれた姿が醜いだけで、悲惨になるきれいな手本だ。
なんでこんなにも不平等なのか。
あー自衛隊がどうとかPTSDがどうとかそれ以前のところでGATEを見るのをやめたい。Aパート見られないタイプのアニメや
自他ともに認めるオタクが楽しみにしてる年二回の同人誌即売会を前に回るところ決めてない、情報収集が終わってないとかありえないだろ…。開始6分で「あー」だよ。このアニメ。自衛隊の描写じゃなくてオタクの描写っつうか人間の描写からしてこれ違うだろって気持ちになってる
あー…GATE見なくてよかったし、アニメを「3話まで見て切るかどうか決めるのがオタクの礼儀」とか言ってる奴は死ねばいいと正直心の底から思う。開始7分で俺ならテレビの電源切って、妄想嫁か妄想メイド当たりをおかずにシコって寝てる。あー1話だけと決めてなきゃ絶対見られなかった。
外で人が逃げまわってるのに、駅の中にいる人はドラゴン見ても落ち着いてる(目にはいらないふりしてる)と言う描写に違和感を覚え、次に銀座の真っ昼間なのに、暗い住宅らしきところにゴブリンが押し入った描写。銀座のどこにそんなところがあるんだよ…。違和感しかないわ
「夏の同人誌即売会が中止になってしまうー」って…。いや、ギャグ漫画路線でこの台詞が出るか、銀魂チックなバトル物ならそれでもいいと思うけど、だったら入り5分のあのタメは何よ?…どこ行きたいんだこのアニメ?
いやざ、小説で「まずは日常を作ってあげてからその日常をひっくり返し、そのあとに日常がひっくり返った理由や淡々と当たり前に説明をすっ飛ばしてきたことを説明してあげるぐらいがいいんだ」的なことを言ってた人がいるけど、僕もそう思う。日常作らないままひっくり返そうとするアニメが多すぎて…
だから、俺はリアルタイムでアニメ見たくないし、評判決まるまでアニメ見ないか、自分が好きな作品を手がけたスタッフの作品しか見ないって決めてるの。7,8分とは思えないほどストレス
今回はRPG関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
盗賊かな。
ただ、「パーティにおいて役割を持ちやすい」というのが理由だ。
前衛の物理アタッカーは競合が激しいし、魔法系はRPGによっては「打たれ弱い」、「コスパ悪い」、「回復はアイテムあるし」というパターンがある。
その点、盗賊は特殊技能のおかげで、戦闘はともかくにしても重宝されやすい。
脳筋の人にそっぽを向かれやすいが、そういう人の采配は命がいくつあっても足りないから気にしなくていい。
攻撃が高いのはいいとして、その他の前衛として欲しいステータスが何かしら低い傾向があるのは辛い。
私のしっているRPGで、このタイプが特筆して強かったパターンがほとんどないのが決め手だね。
後は、弓使いもできれば遠慮したいかな。
前衛をやりたい人は、とりあえず剣士タイプ選んでおけば無難だろう。
よく、「現実の観点でいうなら、ドラゴンが剣とかで勝てるわけがない」という人がいるが、私はそう思わない。
四足歩行タイプ、翼があるタイプ、一般的なRPGのドラゴンで思い浮かべる。
現実的に考えれば、大きければ大きいほど動きは遅くなる。
しかも、RPGのドラゴンの一般的デザインを思い浮かべて気づくのは、側面がガラ空き。
槍とかの長い得物で側面をチクチク攻めれば、反撃の対処もやりやすい。
飛行中にブレスとか、魔法を使ってくる知能の高いタイプでも限り、根気があればやれると思う。
まあ、そもそも食物連鎖で考えるなら、ドラゴンが人間を襲う理由がないので、ほっといてもいいんじゃないかな。
ドラゴン:神クラスに強い。知能が高く暴れたりはしない。時には人間に手を貸して国を守ってくれる。雑魚い亜竜みたいなやつなら人間でも倒せることもある。
ゴブリン・オーク・オーガ:知能が低く群れを作るにしても統率がとれていない。単体なら一般人でも数人~数十人で囲めば倒せる。
という感じの設定が一般的じゃないかな。
これだと散り散りに隠れ住むほうが危険なわけだが。
怪物が弱すぎる。
というか、人間が強すぎる。
ゲームなら仕方ないのだ。
「何やってもドラゴンに勝てません。近づく前に上空から超広範囲にブレス浴びて死にます」
じゃゲームが成立しない。
最初から剣が届く範囲を歩いていて、真正面からブレス喰らっても回復魔法で一瞬で全快する仕様でも仕方ない。
「モンスターの餌にされるんで、村とか街とかなんて作れません」
じゃゲームバランスが崩壊するから、ゴブリンだらけの所に村作るのもしょうがない。
昨今のラノベだと「ドラゴンは剣で倒せて当たり前」「国があって町があって村があって当たり前」みたいな扱いになってしまっている。
いや、無理だろ普通。
剣と盾じゃ熊も倒せねえよ。
っつーか、全長数十メートルで空飛んで超火力のブレスをブッパするドラゴンって、
剣と盾持ってキングギドラと戦えるか?
ドラゴンみたいなのが跋扈してる世界で、「街」だの「国」だの、ましてや「村」なんて作れると思うか?
ドラゴンだけじゃない。ゴブリンとかオークとかオーガーとかいるんだぞ。
エイリアンみたいなのがウヨウヨいる場所に、木の柵で村を作って住めるか?
たまにキングギドラが飛んでくる世界で、兵士が鉄の鎧兜と槍で武装してるレベルの国が数十年ももつと思うか?
核攻撃に耐えうるシェルターと、戦車を裏返すレベルの重火砲で要塞作って初めて、一か所に定住できると考えるべきだろう。
見つかったらアウトなんだから、細々と隠れ潜むしか生き残る術がねえよ。
魔法で何とかなるっつーなら、魔法使いはもう自衛隊の一個小隊とやり合えるレベルだよ。
重火砲レベルの破壊魔法を連打できる魔法使いがいて初めて、人間は木の柵で囲まれた村に住めるんだよ。
剣と盾の出番ねえよ。
繰り返しになるが、ゲームなら仕方ない。
冒険者とかいう恐らく社会的には底辺であろう肉体労働者が、剣と盾でキングギドラと戦えるって、
人類どんだけ強いんだよ。
本当はキングコングなんじゃないのか?
これから格差はどんどん拡大固定化するから、金持ちは自分たちだけのコミュニティで生きるようになって外には出てこなくなるだろう。
(もちろん外界の貧乏人によって生産されたものは彼らが吸収していくようになる)
そうなったとき、金持ちにとって、貧乏人達は「実在することは知識として知ってはいるが実感としてはピンとこない」というものになるだろう。
まあ今も似たようなものではあるが、金持ちだけのコミュニティで育った2世以降の人間にとってはツチノコかゴブリンくらいの感覚になるかも。
もちろんそんな状態は持続可能ではないから、やがて金持ちコミュニティは腐敗し、貧乏人の怒りは頂点に達し、紛争が起こるだろう。
昔と違って近代兵器で貧乏人を制圧することは楽だが、貧乏人を殺してしまっては自分たちの生活を維持できなくなるため、それはできない。
紛争が起こった時点で既に詰んでいて、その時代の金持ち達は先祖が好き勝手に生きてきたツケを払わざるを得なくなるだろう。
かくして人類社会の進歩は後退し、再び大多数の市民の手に(僅かばかりの)自由と富が戻ってくることになるだろう。
貧乏人達の脳を操作してマトリックスよろしく反乱などせずに大人しくみすぼらしく生きさせる技術が開発されるかもしれないが、その場合は
幸福感を持って貧乏人として生きるように操作されるため、幸せではあるだろう(それこそマトリックスのように、幸福感には本質的に
とある辺境の貧乏な村は近くにあるダンジョンからやってくるゴブリンたちの存在に困っていた。どうにかしたいのだが領主に頼んでもシカトされまくりで(おそらく、兵を動かす金がそこからあがる税を上回るのだろう)、しょうがなく村中でなんとか工面したわずかな金で退治する人間を雇うことに……。わずかな報酬だから当然高レベル冒険者は受けない。命より名声をあげる方が大事な低レベル冒険者(という名の何でも屋)数名が、できるだけ短期間で達成しないと赤字になるといったような話になるのである……
くらいの話はぱぱっと作れるんだが(作れるというかこれテンプレみたいなもんだ)……命が惜しいんだったらその世界で冒険者なんてやらねえんだよな。畑耕してる。
オッス、元増田です。ご検証ありがとうと礼儀としちゃ言うべきなんだろうけど、そんな話じゃないんだけどなーという印象。
「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。
また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。
ここで全称命題の話にしますか(笑)。前世代、前々世代に比較すればあながち的外れな考察でもないと思いますけどね。もちろん統計データなんてありませんけど、クラスのほとんどが読んでいた、半分くらいは読んでいた、5人くらいは読んでいた、と比較すればほとんど読んでいないという大きな主語は、この場合、個人的にあれも読んでいた、これも読んでいたというのよりはよほど実態に即していると考えます。それともそれこそ何か統計的なデータでもお持ちでしょうか。
1971年生まれで、チャンピオンを追いかけている人は相当稀少だったのではないでしょうか。何といっても同時代的には「ドラゴンボール」「北斗の拳」「聖闘士星矢」「キン肉マン」などのジャンプ黄金時代だったわけですし、6割ジャンプ、2割マガジン、1割サンデー、残りの1割でその他というのが実感です。70年代黄金期を過ぎてのチャンピオンの凋落ぶりは言うまでもなくて、看板作品でも老若男女誰でも知っている作品というのがもうここ30年ないですよね。
たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイが本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチは岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。
「漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったものと想像します。
ま、これは確かにそうですね。一般週刊誌は文春、新潮、朝日のみというのが感覚的には正しいと思います。この三誌とそれ以外では、オーソリティがまるで違うからです。この三誌がクオリティマガジンとは言いませんが、WILLに連載するのと、中央公論に連載するのとでは全然意味が違うのと同じです。ロッキード事件やリクルート事件など社会的な問題でたびたび尖兵となってきた雑誌と、スポーツ新聞に毛が生えたような雑誌とでは社会的な意味が違います。それは現在に至るまで、掲載されている作品の内容でも歴然と異なります。
特に80年代は、週刊文春は花田体制の下、絶頂期にあって、100万部を毎週越えるような規模としても内容としても一軍でしたから、基本的には政治経済、時事的なトピックでそれだけ中心的に扱われているメディアに漫画が乗った(プレイボーイならいざ知らず)ということ自体がトピックであったという意味で、アドルフの例は出しましたけどね。ただしアドルフ以後、この三誌での漫画連載は定着しませんでしたが。
ブコメで「サンコミックスが昭和40年代に出るまで単行本はハードカバーが普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります。
純粋にハードカヴァーの作品自体であれば貸本屋の漫画は基本的にハードカヴァーでしたし、店頭でよく見かけるものとしては、学研の「ひみつシリーズ」もハードカヴァーでした。ただしサンコミックスなんてほとんど誰も知らないように、社会的な景色の話ですからマニアックな話をしてもしょうがないわけです。平積みにされて、多数の人が「おお、漫画もハードカヴァーになる時代なんだな」と認識することが重要であって、消費物としてではなく作品としての漫画、芸術としての漫画という意味合いを一般化したのは手塚がやはり尖兵であったという、そういう話です。「火の鳥」と「のらくろ」のどちらが先なのかは分かりませんが。
赤塚さんはあと、コロコロでは「花の菊千代」を連載しています。その後、ボンボンでも何作か連載していますが、知る人ぞ知るという程度の作品で、連載作家として仕事はしていたわけですが、雑誌の主力になるようなパワーはなく、その仕事自体が大御所としての余暇的なものであったと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20130510192931
「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。
また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。
ブコメで「サンコミックスが昭和40年代に出るまで単行本はハードカバーが普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります。
80年代の記憶でいえば「のらくろ」の復刻版がハードカバーで出てました。
たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイが本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチは岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。
「漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったものと想像します。
いやまあ「一般雑誌」は週刊朝日、週刊新潮、週刊文春のみというなら別ですが。
このエントリを書くにあたって事実関係を調べるためにWikipediaの手塚治虫やその作品、藤子不二雄、赤塚不二夫などの項目を読んで懐かしい気持ちになりました。赤塚不二夫のコロコロコミックの連載が「チビドン」だなんてすっかり忘れてましたが画像検索で思い出しました。
「日本人は共同幻想体をシェアしてた」という表現はまさにその通り。
元増田がどういう心境で元のエントリを書いたのかはわかりませんが、この年になるとこうやって昔をふり返るのも悪くないものです。
最近iOS、Android向けの「神界のヴァルキリー」というゲームをやっている。いわゆる「ソーシャルゲーム」に属するもので、数百枚に上るカードを武器に一本道のシナリオをこなすというタイプのゲームだ。これが最近バージョンアップしたのだが、その中で、今まで無制限に上昇可能だった能力値を19999に制限するという措置がとられることになったのだが、ところが、この際に既に制限値を超えたプレイヤーに付いては値を引き下げないと発表した。まだ始まってそれほどでもないゲームだが、このために、スタートダッシュでアイテムを購入して能力値を上げた一部のプレイヤーが事実上最強の状態にとどまることになり、単に強いだけならともかく、ランダムマッチのPvPや魔女を倒す協力プレイがあることなどから、プレイヤーの間で反発を買うことになった。通常こうしたゲームでは、最初にある程度制限を行い、徐々にそれを解放していくのだが、サービス運営側はなぜか最初に制限を設けておらず、その点は十分問題がある。ただ、これは、そもそも運営の問題ではなくて、ゲームの仕様の問題ではないかと思うのだ。
先日App Annieというサイトが発表した数字で、日本のガンホーによるパズルズ&ドラゴンズが売り上げ一位になったと話題になった( http://blog.appannie.com/app-annie-index-social-networking/ )。ここで二位になり、その前までは一位だった"Clash of clans"は、日本で流行っている(とされる)カード収集型ソーシャルゲームとは全く違う。プレイヤーは防衛用に街を作り、兵士を生産し、その兵士でゴブリン村攻略のシナリオを進めたり、ランダムマッチのPvPを行う。いわゆるFree2Playなので、参加は無料だが、ゲーム内通貨であるGemを有償で購入することでゲームを優位に進めることが出来る。ただ、ゲームに出てくるキャラクターはバーバリアンだとかアーチャーだとかごく普通のものが10種類ほどあるだけ、街作りも壁や砲台を立てる地味なものだ。ゲーム開始当初の難易度は高くなく、設備や兵士の生産は短い時間で出来る。レベルが上がれば利用できる設備も増え、その代わり時間もかかるようになる。基本的に無料でも進められるが、Gemを利用するとこれらの生産が短時間に行えるようになるという仕組みだ。逆に言えば、Gemにはそれしか機能がない。レベルが上がると街作りに必要な条件が厳しくなるのでGemが必要だが、それ以外は特に利用することもない。ランダムマッチもレベルに合わせて行われるし、選択権もあるので、突然強いプレイヤーを倒さなければいけないこともないし、そこからの修復も簡単に出来る。要するに、金をかけた所で、他のプレイヤーを圧倒することはほとんどないのだ。
その一方、「神界のヴァルキリー」や、それに近いゲーム(この前に「海賊ファンタジア」という、同じくカードの強さがものを言うゲームもやっていた)は、金をかけた分が、そのまま強さに反映する。通常入手できるカードはほとんど能力が無いに等しく、R(レア)とかSR、HSRと呼ばれるカードを入手するかしないかが、プレイヤーのゲーム進行を左右することになる。「神界のヴァルキリー」に至っては、強化用のアイテムも有償で購入することも出来る。強力なアイテムの入手はプレイヤーのレベルと関係なく機能するため、ゲーム開始時点からいきなり最強になることも可能だ。
こういう仕様は一見筋が通っているように見えるが、課金システムとゲームが強く絡んでいるため、一歩舵取りを間違えるととても面倒なことになる。レベルの解放やカードの入手率の変更が、そのままダイレクトにプレイヤーに影響を与え、どういう変更を施そうが、大抵の場合に有利/不利がどこかで発生してしまう。発生するだけならまだしも、有償サービスの利用者まで巻き込んでしまうため、センシティブな不満が出やすくなる。つまり、ゲームの仕様変更で不満が出るのは、単に「運営が悪い」という話だけではなくて、ゲームの根本的な所に欠陥があると思わざるを得ないのだ。
正直言って、こういうゲームばかり開発されている現状は、少し心許ない。パズドラをやれば認識は変わるのかもしれないけど、それでも、しばらくこの波は止まりそうも無いし、こうした欠陥に気づかない限り、残念ながら疲れるような騒動はしばらく続くのだろう。
ネットイナゴの攻撃から身を守るための対策を考えてみた。ここでのネットイナゴというのは、揚げ足の取りプロで矮小化の天才で炎上の愛好者で、でもあんまり賢くないので劣等感を抱えている人間を想定してみる。いるのかそんなやつ。
まずは、真っ白で格式が高い権威。格式が高いのが必要で真っ白が条件。脱税とかセクハラした経歴があるともうダメ。 噂でもアウト。そういうはひたすら突っ込まれる。主張がいくら論理性・妥当性の点で堅牢だとしても、人間的欠陥がある時点で却下される。そういうのあまりにもバカっぽいけど考えないためには便利な方法。というか、最強の詭弁の一つだと思う。権威に関しては、東大アレルギーの人間がちょこちょこいるので、海外の大学や東大以外の高学歴だとなおさら良い。「海外の大学」とかいってる時点で俺の知性が疑われてしまう。マカチューセッチュ……そういうのしらねーもん。自分で頭髪を整えているという茂木さんは典型的な被害者。美容室にいこうよ。まあ煙が立っているだけでも推定有罪で突っ込まれるから、むしろ有名人はネットイナゴを飼い馴らす遊びを覚えた方が楽しそう。その気持ちは百鬼久作。ケサランパサランなんていなかったんや!
次に 、主張が分かりやすくないこと、隙のある大ざっぱなフレーズを使用しないこと。普通、本質さえ押さえていれば分かりやすいことに越したことはないし、例えちょっと粗雑でも核心を突いたフレーズは良いことだと思うんだけど、ネットイナゴはそういった脆い部分を狙ってくる。「○○○だってよww」と説明がないと誤読されるような主張、三行以内でまとめられるな主張はダメ。ひたすら論拠と長文と数値とソースを読めで埋める。岩石の巨兵のように攻撃力を捨ててまで防御に徹するのだ。ゴブリンの突撃兵の出番はない。例えが懐かしいですね。
おまけに、はてなダイアリーか個人ホームページなどに引っ込む。匿名でのコメント欄は廃止する。でも、Facebookの社交的なコメントは目立つように表示する。twitterはちょっとダメ。うかつに発言するとtogetterが容赦なく編集してくる。晒される。石を投げられる。しかも、あそこはみんなと一緒ならデマでも踊れる愉快な人間が多い。赤信号は渡れないくせに! しかも、中にはフォロワー数を戦闘力として判断する過激な戦闘民がいたりするし良いことない。はてブは俺にとってはトラウマなので論外。由来、ネットでの論争は観客の「なんとなく」の印象で決まってしまうから、その印象を(俺にとっては)頭が良い人ばかりのはてな民に任せるのが良いだろう。大型掲示板の原住民や話題に飢えているついったらーよりかは幾分かは公平な審判を下してもらえると思う。ピエルルイジ・コッリーナさんほどのジャッジは期待できないとしても。
それと、あんま露出しない。露出するなら身だしなみに気を付ける。人間像は浮びあがらせてはいけない。ハゲてもいけない。仮想敵にすらなり得ないようにする。facebookは活用してもfacebookに登録するな。あんなのリア充の巣窟だ。全く批判されないような美男美女とかガッキーとか佐々木望とか向井理以外にはありえない。俺はというと、伊東遥が好きなのですがね。お世話になっています。
しかし、この防御策は大手まとめブログに扇情的にまとめられたら意味ない。そもそも扇情的にまとめられないことはあんまりない。だから、敬愛する岩崎夏海さんはもう僕たちだけのハックル先生ではなくなった。まとめブログのサーチライトに照らされてしまうと、ネットイナゴが呼吸ができないほどに周囲を覆い尽して、可愛い顔したハムスターが美しくない溝鼠を総動員させてくるから、そのときはパソコンをそっと閉じてコーヒーでも淹れて飲むことにしよう。窓を擦る夕日はいつでも綺麗でその美しさを奪うような虫はそこにはいない。