時々、カップルがくるがお互いの容姿を吟味してくっついているようだと感じた。
どこでも感じるけど。
自分のようなゴブリンにはゴブリンがくっつくべきなようだ。ゴブリンがかわいそうだ ゴブリンとくっつくのがお似合いで エルフになれなくて。でもゴブリンの僕はエルフとセックスしたいんだ。金を払わないで。エルフになりたかった。
丸善に行く前に、大学で受けたジェンダー論は世の中には建前ではなく、実態による序列、秩序があると講師は言っていた。
それらが密接に絡みついてジェンダーの問題があるということだった。
自分が考えていたことと非常に近かった。容姿が悪くて、体がよくなくて、頭が悪い京都のゴミ大学の学生には非常に深刻なのだ。
丸善に戻そう。
小説の良いところは相手の容姿をぼかすことができることなのだけど、自分が生きてきた中では、美男美女でなければできないことだらけなことが小説の主人公には起こるのだ。
美しい女 アンナ・カレーニナとか言ったらもうそれはやっぱり、美人なのだろう。
ブスを突き放す。
では、容姿が悪い人間が小説に出てきたときはどうなるだろうか?しっかりと容姿の醜さが表現されている男女は。
まぁ、現実と変わらない。
結局、文学とは美男美女がどうこうってお話になることがほとんどだ。
たとえ、美男美女だと書いていなくても、行動で容姿が良い人間だとわかる。
丸善でうじうじと小説とか頭の悪い大学の授業の参考書を読まないで、変にジェンダー論とか考えないで、例え授業の成績がCでもおっぱいがおっきい可愛い女の子でセックスに不自由しないで、楽に楽しく生きることができた方が絶対にいいというのは丸善に行く前から気付いている。
そっちの方が京○銀行とかにも簡単に就職できる。生まれつきの問題で。
本には容姿が悪い人間がどうやってこんなひどい状態から解放されるか勝利するかは書いていない。
ないからかもしれない。
一言でいうとネガティブだ。 もしお前の見た目が下の下だとして、 中の下になっても同じようなこと言って下向いてるだろう。 そんな奴は誰からも相手にされないので、「あーあ上の...
この京都のゴミ大学氏は、まあ上の上のエルフにならない限りそうなんだろうけど、 下の下と中の下じゃたぶん相当違うだろうにね。 下というのはゴブリンというかオークというか、と...
シラノ・ド・ベルジュラックでも読めば