容姿が悪くて差別されるといえば、「美人だって差別されているの いい?不細工のほうが楽よ」
などというのを遠回しに書いてあるWEBの記事や書き込みが散見される。容姿が醜い人間としては、これはごまかしである。
美人なんていつでもやめれるものである。そんなに苦労しているなら顔に熱湯をかければいいだけだ。
どうせかけないのだから、苦労なんて言い訳にしか聞こえないものだ。
自分も含め、容姿が悪い人間は容姿の良い人間にはなれないのだ。
自分が通う学部にはとてつもない不細工がいる。SF小説で言えば、接続された女のP・バークという女レベルに醜い。
世の中の美的感覚の正反対だ。千年に一度の容姿の醜さとでも言おうか。声も、授業中の行動も、ネイルも、体の指も、書いている小説もなにもかもが醜い。頭も悪そうだ。
この女の悪口を書きたいのではない。
美人の苦労なんて、どうってことがないことがこの醜女を見ていれば分かるのだ。
あまりに容姿が醜いために、友人も一人いるかいないかで、男と話した様子は一度もない。
就職だってできるかわからない。京都でも東京でもあれほどの醜女が働いているかといえば怪しい。
しょうもない会社で採用に関わっている自分の父親はあの醜女は採用しないだろう。
いや、赤坂の某ラーメンチェーン店に居た。凄く醜かった。他の店員からも客からも嫌われていた感じがする。
整形や化粧なんて焼け石に水だ。自分もだが。
こんなに醜女が可哀想なら、お前が救ってやれよというかもしれないが、容姿が同じくらいかそれよりはちょっとだけましなくらい醜い容姿の自分だってあの醜女に金を使いたくはないし、向こうもお断りだろうがセックスなんかしたくない。
それはやっぱり容姿が醜いからに限るのだ。これは自分 つまり雄ゴブリンがあまりの容姿の醜さに雌ゴブリンを忌み嫌う様である。これが美男美女同士 エルフ同士だったら美しい物語だ。
なんとなくだけど、女性の社会進出などで男女ともにより容姿が問われる気がしそうだ。ビジネスの最前線にいる不細工で腎臓病の頭が悪い子供を作った父の雰囲気から感じるだけだが。
学歴よりも、資産よりも、容姿の良し悪しが人間の価値を決めていくかもしれない。