はてなキーワード: ありすとは
http://anond.hatelabo.jp/20150622080104
・35歳独身 実家に寄生 家事は母親まかせ でも、男に対してマザコン!とわめくのが好き
・年収400万円以上でそこだけがプライドw (高収入女性は例外なのにそれが平均的だと錯覚してそれを基準に語る馬鹿が多い)
・駅弁マーチレベル卒以上の高学歴だが、文章を感情で書くので中学生男子のような稚拙な文章が多い
・フェミニズムに興味があるが、研究者の本は読まない、でも性格はもろにフェミで男を見下すのが大好き
・リア充・サブカルに対しては「自分もそっち側」というスタンスで話す
・ジムにはそもそも行かない、運動大嫌い、だからネット常駐してるんだしw
・英語を学ぼうという気持ちはある 日本男は草食でダメ! 白人紳士様は素敵!
マスゴミに騙されて「女性の年齢を気にしない(そんなわけないw)素敵な白人様と結婚しよう」という願望ありw
・ブログを書いている
・短大を下に見ている
・釣りを見抜く力には自信がある (というか自分にとって都合の悪いものはすべて釣り認定w)
(だからネットオタクの恋愛感覚は「婚活の条件」が基本で現実の恋愛と差がありすぎるw)
(よくあるのは「結婚は金!」)
腕毛とかワキ毛とか顔毛とか眉毛とか腕毛とか耳毛とか毎日剃るとかありえない
月に一回流血しないといけないとかありえない
2時間おきに起きて乳咥えさせないといけないとかありえない
ナプキンとかストッキングとか化粧水とか乳液とか洗顔料とか美容液とかファンデーションとか消耗品多すぎありえない
朝起きたら毎日顔に油性の粉を付けないといけないとかありえない
ションベンしてるの気付かれないように音姫流すとかありえない
無いおっぱいを大きく見せようとしないといけないとかありえない
疲れていても夜は気持ちいフリをしないといけないとかありえない
答えのでない話を延々としなくちゃいけないとかありえない
ミュールとかアンサンブルとかコスメとか知らない言葉ありすぎありえない
犬を見たらかわいいって言わないといけないとかありえない
ホットドッグ食べたいのにクレープ食わなきゃいけないとかありえない
なんで女の人はこんなハードなこと出来るんだろうか
自分が女なら自ら死を選びそうでゾッとする
http://anond.hatelabo.jp/20150628150952
まず、なにから考えていくかというとやはり椅子じゃないかと思う。
学生であれ社会人であれ、プライベートな時間を削ってでも机に向かわねばならない時がある。
ハーマンミラーまで手を伸ばさなくとも、ホームセンターの安椅子でで済ませたくはない。
購入にあたっては、幅ばかり気を取られるが、高さと奥行きをよく考えて購入に踏み切るべきだ。
ぶっちゃけ、姿勢のほとんどは机の高さと椅子の高さのバランスで決まる。
理想のすわり心地の椅子を手に入れたら、その椅子にピッタリの高さの机を選ばねば、椅子を選んだ意味が無い。
OAチェアの多く高さ調節ができるが、それでもなお机の高さにはこだわる必要がある。
一人暮らしでデスク、ダイニングテーブル、応接テーブルを独立して用意するのはあまりにも面積をとりすぎる。
いいとこ、そのうち2つくらいまでだろう。
部屋が狭ければ、そのうちの1つで3つの役割を担わせるしかないだろう。
たとえば、ダイニングテーブルをデスク代わりに、自分はOAチェアに座り、客にはダイニングチェアに座らせて接客するしかない。
食事もPCデスク、余暇もPCデスク、勉強もPCデスク!っていうのも有りだろうが、それだとたまにくる客をどこに座ってもらうかが難しい。
客なんかこないといったって、まれには来るはずだ。
一番少なかったとしても、いま住んでる部屋を引き払うときに、引っ越しの見積にやってくる引越し屋の営業くらいは家の中に入ってくるだろう。
パソコンデスク、テレビ台というふうに、電化製品の名前を冠する家具については、新品を買うべきかと思う。
中古で買うと、ろくなことがない。
理由は、昔に比べるとパソコンの形状が変わり、テレビの形状も変わったからだ。
上の屋根みたいなところにプリンターを乗せるタイプのパソコンデスクなんて、液晶がこんなに巨大化することを想定して作ってないので、窮屈だ。
テレビ台もそうだ。
やはり、家電を使うための台となると、たとえ安物でも、現在の家電に合わせたものでないと意味が無い。
安物でしのいで、数年で買い換えよう。
何度か引っ越しをすると、本棚だったカラーボックス(あるいはメタルラック)が、他の収納用途になったりする。
そんなときに、カラーボックスだと背面が抜けてないので、ゲーム機やルーター、AV機器を置く場にできない。
巨大な本棚は圧迫感があるが、メタルラックだといささかそれが薄い。
オーブンレンジだとか蒸し器だとかノンフライヤーだとかいろいろと出てきたが、結局のところフライパンと鍋、単機能の電子レンジしか使いこなせない。
キッチンワゴンやキッチンカウンターと称して、キャスター付きの収納が売られているが、まず移動させない。
そんなわけで、意外にも、レンジ台や食器棚は、高級品を選んでしまえば案外と一生モノになるかもしれないので、一人暮らしでも思い切って奮発するのもアリかも。
起きて最初にすることは
ってやつ。
いや~ひどかった。
BLの才能はないと思ったけどネットで感想探すと好意的なのが多いんだよな。
その後でよしながふみのBLマンガを読んだけど、よしながふみだとそこまでの生理的嫌悪感はなかった。
まあきのう何食べた?でもともと耐性があった作者だったからってのもあると思うけど。
BLマンガを読んでると世の中ゲイだらけみたいに思えてくるわ。
まったく想像がつかない。
作家がヤバい発言して問題になってる沖縄の新聞事情について昔の思い出を書く。
都会に住んでる人はいわゆる全国紙(読売/朝日/毎日/産経/日経)だろうし、地方紙が強い地域もある。
圧倒的に強いなんてレベルじゃないぐらい地元の新聞だらけなのだ。
一時期沖縄にIT企業が集まってた頃がある。2004~06年ぐらいがピークだったかな。ITって言っても儲かってるwebデザイン企業が沖縄支社出したりとか、あとコールセンターとかそういうのね。地価が安いんで一時期沖縄は重宝されてたんです。人材が糞すぎるのと物理的な距離が東京大阪からありすぎるので今は廃れたけど。
オレも一時期沖縄支社で働いてた事がある。初代支社長みたいな立場で赴任したんよ。
で、新聞をやっぱりとらないとなと思って日経と読売だけとることにした。
無難な選択に思えるじゃん?来客用のテーブル近くに置いてたんだけど、ある日地元の商工議会所の人らがうちに見学しに来て、新聞を見て怒りだした。
「これだけですか?なぜタイムスも新報も無いのですか?」って。
新報ってのは琉球新報でタイムスは沖縄タイムスのこと。沖縄の二大新聞だ。
「はあ、本社がこの2つですから」と気の抜けた返事を返したのを覚えている。それが余計に癪に触ったのだろう。
「本当に沖縄でビジネスするつもりがおたくらにあるんですか!?」と、いきなり声を荒げて怒り出した。
その場はもう一人の若い人がうまく取り繕ってくれて収まったんだけど、後日呼び出しをくらって向こうの事務所で説教された。
ありえないと思うでしょ?いや実際ありえないですよこんな世界。日本じゃない。取ってる新聞ごときで一企業に対して説教する連中がいるっていうのはもう日本じゃないですよこれ。
後から調べて知ったのだが読売新聞のシェアは0.1%で朝日が0.2%という異常な数字。
多分これらの全国紙をとっているのは企業、あるいは一般家庭でも日経+沖縄タイムスみたいに2つ新聞をとっているところだけなんだろう。
全国紙だけをとっている家庭なんか無いだろうし、企業や公的機関もほぼ0なんだろう。
だから今回の作家の発言は単に左翼リベラルを刺激したって以上に、沖縄県人からすれば相当精神的なところを突かれてるんだと思うね。
ほとんどの日本人がみそ汁とか天皇とか富士山を外国人から馬鹿にされたらイラッとくるのと同じぐらい沖縄人にとっちゃ地元新聞は大事なんだよね。
心の拠り所みたいになってる。
沖縄に最低1年でいいから住んでみたらなぜみんな基地に反対するのか理解できます。
心の拠り所の新聞が反対してるんだから、そりゃ反対しますよ。そこはもう理屈じゃない。お金じゃない。心の問題。それを政府与党はわかってない。
高山みなみ=神説を推したい。
最初、高山みなみが唐突にでてきて「誰だよこの高山みなみ!?」って思うじゃん?
しばらく見続けて「あーこれ未来の穂乃果ちゃんの姿的なやつか」って思うわけ。
でも、二度目の邂逅のシーンで高山みなみは水たまり?を跳んでみろというのね。
(冒頭のシーンと同じように!!!)
穂乃果ちゃんの幼少期の思い出?と同じことをさせる。
んで穂乃果ちゃんは目を覚ました後、すぐに神田大明神にお参りに行くわけよ。
多分、穂乃果ちゃんはこの時点でなんとなく気づいちゃったんだろうね。
(と同時に私も気づく。)
大体、よくわからないのがあの冒頭。
この映画は「前回のラブライブ!」的なものでなくていきなり幼少期のシーンから始まる。
(おそらく「前回の~」に近いノリをを期待した人も多かったのでは?)
その上、直後には穂乃果が高校生に戻って全然関係ない話をはじめてしまうため、前後のシーンとのつながりも(上述の二度目の邂逅のシーンまで)わからない。
「どんなことも諦めない」という穂乃果ちゃんの精神性を表したかったとも見て取れるが…、視聴者のほとんどは穂乃果ちゃんのその性質を知っているだろうし、いきなり冒頭で幼少期を描写する意味もない。
そして穂乃果ちゃんが跳んでみせるシーン。
謎の音楽を耳にするとともに幼少の穂乃果ちゃんの脚力は驚異的な向上をみせ、見事水たまりを飛び越えてしまう…。
なぜ?どうして?こんな描写を?冒頭に?
…思うにこの冒頭のシーンは「起点」なのだと思う。
作中通して圧倒的なカリスマ力を発揮し、無理が通れば道理が引っ込むを地で行く太陽少女穂乃果ちゃん。
彼女が「やるったらやる!」といえばライブは大成功だしたいていのことは上手くいく。雨もやむ。
そんな穂乃果ちゃんは、おそらく、おそらくだが、あの謎の音楽を聞いて水たまりを跳んでみせたシーンから、これまでずっと、
「神に愛されていた。」
あの冒頭のシーンで跳躍力強化を施されて以来、穂乃果ちゃんはずっと神様に愛され、加護を受け続けてきたのである。
各種あるラブライブ批判の中には、何でもかんでもうまく行きすぎとか、跳躍力ありすぎとか、車道でダンスはどうなのとか、みんな穂乃果の言うこと聞きすぎとか、さすがに雨が止むのはちょっととか、1期最終話の時系列おかしいだろとか、いろいろなものがあるが、
そんなふうにして、幼少期より穂乃果ちゃんの周りの不可能を可能にしてきた神はついに映像の中に姿をあらわす。
高山みなみボイスと大人びた穂乃果ちゃんっぽい姿をとって、劇場版という晴れ舞台で。
彼女は溺愛している穂乃果ちゃんに「あの時のように跳んで」と成長を促すとともに、視聴者へのある種の回答を携えてやってきた。
今回の劇場版も輪をかけてタイムラインの考察が難しいことになっていると思うが、
いいいじゃん、気にすんなよ、神田からNYまで迷子保護に行く神様がいるんだからなんとでもなっちゃうさ、と。
げに恐ろしきは、神様まで魅了する穂乃果ちゃんのかわいさである。
以上、書くところが無いため書き散らした劇場版ラブライブ考察でした。
※1 この文章は制作側への皮肉として書いているわけではない。
むしろ、細かい設定なんか気にせず突っ走る脚本を私は愛している。
殴ることそのものを否定したら、状況によっては他者に一方的に虐げられるよ。お花畑のなかにずっと生きるならいざ知らず。
あなたが自分の大切な何かや誰かを守るために、拳を握ることを否定して、自分が対峙する何かに一方的に蹂躙されることが望ましい形だというなら、なかなかの平和主義者で集団自殺志願者だよね。
問題なのは、正当性なく、思慮なく、節度なく殴ることで、私利私欲のために、他者を虐げるために殴ることだろう。
まあでも好き嫌いは個人の領分だし、そう感じてしまうのも仕方ないのかもね。
単に殴ることを嫌悪する気持ちは、それが身近にないか、あるいは歪んだ形で身近にありすぎて、触れることを生理的に拒むという感情的反応ゆえのものだと思うので。
論理は正しいけど、感情は心地よいから、そして人間は刹那的だから、どうしても感情に身を委ねるよね。人間らしくて素敵だよね。
痴漢や女性専用車両の問題を語る時、二言目には「冤罪がー」と言う輩がいる。私はこの様な輩をただのミソジニーのアホなんだと思っていたが、もしかするとここにはある種の内実が有るのかもしれないと思ったのでそのことについて綴りたい。断っておくとこれは私の思いつきであり具体性は無い、形而上の上滑りした話であることは初めにお断りしておきたい。フェミニスト及び親フェミニズムな方に問いたい問がある、以下の様なものだ。
『痴漢冤罪による男性への暴力は女性の権利として正当化されるべきであろうか?』
前提として私は男性であり異性愛者である。痴漢は(主として)男性から女性に齎される暴力で、これは擁護の余地のない加害行為であると考えている。また痴漢冤罪の問題は極めて刑事司法上の問題であり、そこで行われている「人質司法」や「自白強要」などは痴漢という犯罪に於いてのみ特異な事柄では無いので、ことさら痴漢という犯罪についてだけ冤罪の問題を声高に叫ぶのはおかしいと思っている。前提終わり。
この問題について常々疑問だったのは、「なぜ女性は痴漢問題に於いて冤罪の事を持ち出す人間を批判しないのだろう?」ということだった。これは私の観測範囲であまり見受けられなかっただけで実際にはそのような議論をものしている方もおられるのだろうとは思うが、兎に角私にはそう思えた。先にも述べた通り痴漢と冤罪は全く別の次元の問題であり、痴漢被害を受けた、受けたと思い込んでいる、受ける可能性に晒される事を甘んじて受け入れねばならぬ満員電車に乗る女性が負うべき責任では無い。であるがしかし、昨今痴漢冤罪は結構メディアを賑わせているトピックであるし、殊に痴漢という罪に於いては証拠など無くとも「弱者」である女性の告発が事実上強いパワーを持っているように見える構造があるのが現実である。この様な現実に対しては女性側から「確かに冤罪の問題は解るがそれは刑事司法の問題で、痴漢の問題とは別に議論すべし」と宣言する事が必要であるように思うのだが、その手の言説は痴漢問題のたびに「冤罪!冤罪!」と喚く輩と比すれば余りにも少ない。
痴漢と冤罪の問題を切り分けないといつまでも男女の溝は埋まらぬよな、と思う私はこの時ふと思いついた。これは恥ずかしい話本当にただの直感なのだけれど、もしかするとある種の女性の側こそが痴漢と痴漢冤罪の接近を温存したいと言う理路もありうるのではなかろうか?言うまでもなく痴漢という犯罪の前にあって女性は被害者である。被害者である女性が被害事実を以って加害者を告発するのは当然の権利である。痴漢という羞恥させる類の犯罪では泣き寝入りも多いであろうから成る可く告発し易い土壌作りも必要である。しかしそれも行き過ぎれば毒となる、痴漢冤罪に於いては刑事司法制度上被害女性を手厚く遇しすぎている面が拭い難くある。そして人は被害者であるが故に加害者になるということをとても容易に行う。戦前のドイツが、日本が、部落解放同盟が、中国韓国の一部の民族的イデオロジストが……etcetc、様々な場所や時代に於ける「弱者」がそうであるように思う。
痴漢の疑いをかけられたものが雪冤を果たすのがどの程度難解なのか、本当のところは解らない。特に昨今はメディアで痴漢冤罪が取り沙汰されることも増えてきているので、完全に否認している人間を捕まえてそこまで強引に長期拘留などということも出来なくなりつつあるのが現実ではなかろうかとも思う。しかし世間一般に流布されているイメージは違う。
「否認などしようものなら長期間の拘留により必ず社会的地位を失陥する」
「疑いをかけられた無実の人間が選ぶ最も賢い行動はその場からの逃走である」
これらは必ずしも真実では無いかもしれない。しかし現代の神話として男女問わず相当な信仰を得ているストーリーではある。この現代の神話に於いて男性は男性であるというだけで例え無辜であっても常に社会的地位を一瞬に失うリスクに晒されており、彼が男性であるが故に弁明も許されず、出来ることはその場からの遁走だけであるというのだ。これは凄まじい「パワー」であると言わざるをえない。(何度も言うがこれが事実かどうかはこの場合関係がない)「被害者」で「弱者」である女性がこの「パワー」を欲していると疑うのは穿ち過ぎだろうか?この「パワー」を以ってして「加害者」である男性に隠微な復讐を企図していると考えるのは私の被害妄想だろうか?
私は今まで痴漢問題に於ける女性の立場を「女性は被害者であり被害を訴えているだけである」と、とても単純に考えていたのだが。これほど痴漢冤罪ということが取りざたされる様になって来て、女性がその裏にある「パワー」について全くイノセントでいられるのだろうかと考えると、流石にそのような見方は無理がありすぎるような気がしてきた。むしろ女性を馬鹿にしているとすら。勿論本当はそのような「パワー」などありはしない、ただたまたま警察の取り締まり方針の転換と中世さながらな刑事司法制度が組み合わさっただけである。だが、「そのようなパワーがあると思いたい」という点に於いてある種の男性とある種の女性の間で利害が一致している、と思うのだがいかがだろうか?この「被害者であるが故に加害者にすらなる」という問題について、フェミニズムは何か解答を持ち合わせているだろうか?それともフェミニズムとはジェンダーという枠組みから解放されることを目指すのではなく、女性が「パワー」を獲得して男性に対して下克上を果たす事を目的とした運動なのだろうか?是非お伺いしたい。
最近の悩み。
私は、口下手だ。
自分の感じたことだが、頭で整理をして、口に出して話すことに、自信が持てない。
適応障害(うつ状態)になって、昔の友人から、職場の人から色々と悩みを聞いてもらっている。
話をしている。
悩み事を人に打ち明ける。
「あなたのお父さんが亡くなられたことは、知っていたけど、まさか、死因が...そういうことだったとは、知らなかったよ」
そんな(ある種、期待通りの)温かい言葉を掛けて貰えると、嬉しい、話して良かったなと思う。
私としては、ほっとする。
口下手なりにも、通じて良かったなと。
でも、その後のアドバイスが、
「色んな人と話した方がいいよ」とか
「頭を整理するには、人に話す方がいいよ」とか
「機能不全家族の下に生まれた人でも、大人になってから克服は出来ると思うの。だから、話してね」
なんか、結局、話せって言われる。
もちろん、今まで、人に症状が軽い段階で、話すことが出来ていたならば、状況は変わっていたのかもしれない。
私一人の力では、にっちもさっちも、いかなくなったので、適応障害になった。
いざ、病気になっると、周りも理解を示してくれて、私の話に耳を傾けてくれるようになった。
そこで、話すようにしているのだが。
サボってた訳じゃなのに、な。
かなり整理して、良く考えてから話をしているつもり。
(だから、以前とは、違った回答や反応も、もらえている。)
勇気を出して話したのに、これで、終わりたいと、思ったのに。
また、色々な人に口下手だと悪口を言われて傷つくリスクを犯したくはないのだ。
これ以上の失敗はしたくない。
これ以上、傷つきたくないから、話をしたくないのだ。
話題としては、自分の家族の重い話でなくとも、世間話でも結構、気を遣う。
そう、私は、世間の人に気を遣って生きてきたのだ。
それなのに、報われないのは、コミュ障だったからだと、気がつき始めた。
何か、良いことを陰で行っても、見ている人は見ていたのだが、
報連相が出来る方が、やっぱり、いいのだ。
ちょっとした立ち話で、打ち合わせを、さっと済ませることの出来る器用さが、重宝されるのだ。
でも、私にとって話すということは、困難を伴うことなのだ。
前は、口下手だったのに、良くなったねって言われたいのかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150614234615
この記事のブコメやトラックバックをしていてエビデンスが取れた。
モテと非モテの間で「告白」という言葉の定義に乖離がありすぎる。そして、「告白したら気持ち悪がられた」という声があがるのはそのためだ。モテはそこで「何で気持ち悪がられるの?」と疑問に思ってしまう。告白の定義が違うからだ。
女性をデートに誘い、気分良くさせたあとで、合意の「最終確認」で行うもの。
「きみを抱いていいの?いいよね?」の言い換えとして行われるものである。
女性をデートなどに誘ってもいいか、「最初の確認」として行うもの。
ここに大きな意識の差がある。非モテは告白しないとデートに誘ったりしてはいけないと思っているらしい。
これは普通、せいぜい高校生辺りまでの恋愛観である。大学生からは告白しなくてもデートなどをしたりするものだ。
なぜ高校生までは告白が先行するかというと、「お前ら何で2人でいるの?」というクラスメートの冷やかしを回避するためであり、クラスがなくなる大学生からは冷やかしを気にしなくていいので、そんな手順を踏まなくていいのである。
しかし、非モテはその変化に気づいていない。だから、気持ち悪がられてしまうのだ。最終確認である告白をいきなりしてしまうので、女性からしてみたら出会い頭に「セックスしよう」と言われたようなもので、オッサンからセクハラされたのと同様の嫌悪感が湧くのである。
http://anond.hatelabo.jp/20150614100601
http://anond.hatelabo.jp/20090622091939
18歳から28歳の一番いい時を吸い尽くされた元嫁さんはどんな相手と結婚するんだろうね。
俺だったら、子どもを育てるためだけにそんな女と結婚したくないな。
異性の価値は若さ、人間の価値は経験~10代から30代まで付き合ってみて
http://anond.hatelabo.jp/20090622081819
真っ向から批判するコメントやブクマコメントが多いことにすごくびっくりした。
そんなに触れちゃいけないタブーだったのか。
http://anond.hatelabo.jp/20090621154203
同じ女性と、10代から20代という変化の多い10年を共にすごした経験から言わせてもらうと、
「女の価値は若さ」というのは、一面的ではあるが絶対的な真実だ。
もちろん逆説的に言うなら、「人間の価値は経験」というのも真実である。
10代のガキよりも、30代のお姉さんの方が、深い話をするなら絶対に面白い。
でも、それは人間として、なんだよね。
恋愛対象の異性、という、センチメンタルかつ性的なニュアンスを含む場合、
やっぱりピークってのは、10代後半から20代前半なんじゃないかと思う。
デートのドキドキ感などは、新しい相手と付き合えば、確かに毎回味わえる。
でも、若い時にしか経験出来ない人生のイベントってのは間違いなくある。
そのイベントの多くは、若さと恋愛とセックスが微妙に重なり合った部分にある。
もちろんセックスへの貪欲さも、感度の良さも、開発された30代の方が素晴らしい。
でも、初々しさから貪欲さへの飛翔、好奇心と恐れの板ばさみからの脱却、肌の手触りの変化、
現在進行形で育って行く身体、セックスの成長を共に味わうこと、などは10代の処女の時代から30代近くの
成熟する時代までを、1人の(もしくはそれぞれ同年代の複数の)女性と共にすごさないと、味わえない。
女性の変化のダイナミズムを味わうなら、10代後半から20代後半の間だと思う。
細かいことは省くが、圧倒的な真実としてひとつだけ言いたいのは、肌の手触りの変化。
元嫁が20歳になってしばらくしたある日、肌の感触が今までと明らかに変化したのに気づいた。
それまで、しっとりと吸い付くようだった肌触りが、べつに吸い付かなくなった。
最初は体調かなんかのせいかと思ったくらい、ある日突然起こった劇的かつ不可逆的な変化だった。
これは、女性自身の方が良くわかる感覚なんじゃないだろうか、例えばシャワーの水が
肌で玉になって転がる時代があったということに。
異性として、より生物的な価値、もっと言えば恋愛市場での商品価値としては、
何故なら男性は金や権力で、恋愛市場での自らの商品価値を引き上げることが
自分と元嫁とは、お互いの若さに惹かれて付き合っていたんだと思う。
元嫁は、夢を語り、追いかけ、実現して行く俺の姿に惹かれていたと思うし、
俺は、色んなことを吸収して、日々変化し、成長していく元嫁が魅力的だと思った。
そして、セックスも存分に楽しんだ。お互いの若い身体をむさぼった。
でも、色々なことを経験し、色々な人に会って、若い時と目線が変わった今は、それぞれが
別の道に歩き始めるようになったし、人生の伴侶となる異性に求める条件も変わった。
人生におけるマクロな価値観と、ミクロな生活感覚が近いかどうか。
違っていたとしても、お互いに認め合い、尊重し合えるかどうか。
元嫁とは今も仲がいい。
でも、マクロな価値観も、ミクロな生活感覚も、10年の間で徐々にその差が開いて行った。
人生の中でももっとも劇的に変化する10年を超えた時に、お互いの人生の立ち位置が
同じままってのは、本当にありえない奇跡なんじゃないかと思う。
自分たちの場合は、それが少しづつ変化して行った。バンドなら、音楽性の違い、だ。
だから、別々の道を歩むことに決めた。
たぶん、子供を産んで育てれば、半強制的にお互いの立ち位置は同じになる。
世の多くの夫婦は、意図的にせよ、無意識的にせよ、その道を辿る。
それは、凄く正しくて良い事だと思う。
自分たちの場合は、20代ではそれぞれの夢を優先させていたので、あえてそれをしなかった。
周囲の友人を見ても、子育ては人生中盤以降の最大のやりがいであり、楽しみだと思う。
個人的にも、自分の人生でその最大の楽しみ(苦しみも)が残っているのは、凄くわくわくする。
そもそも結婚って制度は、子育てをしないと何のメリットも無いし。
結婚ではなく、出産と育児で、今までの人生ってのは一度リセットされるんじゃないかと思う。
でも厳密に言うならば、夫婦間で「若さを消費する恋愛」の経験に大きな差がある場合、
それを後から埋めるのは結構難しいんじゃないかとも、ふと思う。
だって、それは人間の価値を決める「経験」の圧倒的な差でもあるわけで。
「若さ」という万人に等しく与えられた資産を、適切に自己投資して来なかった人なわけで。
それは、無駄な嫉妬や劣等感やルサンチマンや浮気や不倫や出会い系や風俗やスワッピングや
ロリコンへの傾倒や韓流ドラマブームの原因になるんじゃないかと思う。
ここらの暗いパワーを、持ち家のローン返済や子育てへの前向きなパワーに変換出来れば、
幸せになれるのかも知れないけど。
まあ、長くなっちゃったけど、一番言いたいことは。
「若い身体は素晴らしい。成熟した精神は素晴らしい。」ということ。
そして、もうひとつ。
「若い時の経験が違いすぎる人同士は、結婚しない方がいいと思う」ってこと。
いまさらそんなことにこだわるなんて馬鹿馬鹿しいことだからこそ、
逆に誰にも相談できずに悩むんじゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20090621154203
外見だけの話じゃない。
20代で散々遊びほうけてスレ切った女が、30代40代になって理想とする男は、遊ぶことを自粛してきた高学歴高収入の男。
全く反吐が出るわ。
そして思う存分若い女と遊べばいい。
接客のバイトしてるんだけど自分は常連客でも顔が覚えられない。
先輩はともかく後輩にも「しょっちゅう来てる客なんだからいい加減に覚えろよ」と怒られる。
顔をじっくり見て覚えようと思っても覚えられない。どうしても無理なんだ。
興味がない物に興味を持とうとしても無理な話だ。
客の顔を異常なまでに覚えてる先輩は「いつも来る○○さんが○○にいて○○してたよ」といちいち報告してくる。
そしてしょっちゅう客の悪口を言う。なんでそんな些細な事でイライラするのか意味がわからない。
他人に興味がありすぎるとたまにしか来ない客の顔でも覚えられるけど
そのかわりに詮索好きで他人の悪口を言いまくるのだろう。
これもこれで困ったものだ。
ほどほどに他人に興味を持つ程度がちょうどいいのだろう。
4年も片思いって、されてる側からしたら気持ち悪くて仕方ない。いやいやそれ、頭の中の妄想の私でしょ?と思う。
そう、頭ではわかってるけど辞められない。そうなんです。私は気持ち悪い事をしている。しかもアラフォーに差し掛かろうという女がだ。
初めて見たとき、彼は本当にダサかった。擦れた靴を履いて、靴下には穴が開いて、しなしなのジーパンを履いていた。頭が大きくて短足で、お世辞にもかっこいいとは思えなかった。
それでも何か気になったのは、私の父にそっくりな後姿だったからだ。
そのうち共通の趣味を見つけて話すようになった頃には、もう気になるを通り越して好きになってしまっていた。
ただ、当時私は人生唯一の異性の親友に死なれ自暴自棄だった時でもあった。急速に死に惹かれている時期でもあった。積極的に死にたいという訳ではないが、死んだ彼を「先に楽になりやがってずるい」と思っていた。そんな自分にとっては恋的な感情も苦行のひとつだった。さらに、同じプロジェクトで仕事するようになり、当時不器用だった彼は、趣味の話で打ち解けていた事など一切忘れたかのように、認識の違いがある度に衝突した。私も折れられない人間だったので関係性は急速に悪化した。
私は生きる活力が乏しい上にチームの方向性に違和感を持ちながらだったので、数年耐えたが、女性器系の病やら帯状疱疹やらでギブアップした。関係者に砂をかけるように異動願い。一方、彼はチームの水が合ったようで生き生きとしだし、所作がスマートになり、周りに感謝の言葉を口にできるようになった。大きな仕事にも呼ばれるようになり、自信に溢れた顔つきになった。男が仕事で化ける姿を初めて見たかもしれない。
チームを離れて、少しずつ、生きている感触を取り戻しつつあった頃、そんな彼とまた趣味の話をする機会があった。楽しかった。いろいろありすぎた出来事も全てすっ飛ばして、楽しく話せてしまった。
そこで、好きだったなぁ。やっぱり好きだなぁと再認識した。でもその時点で出会ってから数年、今更何になろうというのか。
今思えば、単に逃した魚のでかさを惜しく思っているだけのようにも思う。ダサくて誰も目をつけていない時に何とかなっちゃえばよかったなぁとか。
彼が誰か他の女性と結婚したりしたら「私のほうが変わっていく彼を近くで見てたのに、あんたに何が分かるんだ」とか恨めしく思いそうで本当に自分がキモい。
なお、これまで一度も本人には告白はしていない。それで4年て。どんだけムッツリすけべなんだ私は。
でも、ここまで書いて思う。これだけ長い期間一緒にいて、チャンスが何度もあっただろうに何も起こらないという事は、ご縁がなかったのだよ。自分が行動を起こさなかったのもそうだけど、彼にとって私が同僚以上の関係になりたいとは思えない女だからなのだよ。
ここまで読んでくれた方いたらありがたいです。こんなくだらない自分語りを放流して、お目汚しすみませんでしたが私はちょっとすっきりしました。
本当に生きづらいし、息が詰まる。
頼まれてもいないのに「おれやっときますよ!」みたいなかんじ。
まじめというか頑固で融通がきかない。視野が狭い。
これは、こうあるべき、と認識したら曲げられない。
昔、「社長やってる人はみんなしっかりしてて奇麗な格好をしている」という話をしたら、
友達と議論になり、「全員が全員そうじゃないでしょwいろんな人がいるよwお前ほんと頑固だなw」と笑われた。
今思えば友達がもっともだ。根拠のない理想の正義で、これはこうあるべき。と自分に言い聞かせていた。
こんなんじゃだめだ、もっと頑張らなきゃ、と常に思っている。
だから周囲にも過度な期待をしてしまい、勝手に裏切られたと思ってストレスを感じる。
自分から手をあげて引き受けた仕事ですら、「なんでおれだけ…」とか思ってやってる。
ここから母の話。
こないだ職場でこんな会話が聞こえて来た。
「周りにも押し付けようとするようなねー」
ここでは俺のことではなく、ある人のことを言ってたのだけど、
あー俺そうゆうとこあるなーと思って聞いてた。
すると。
「そうゆう奴に限って、自分の権利に関しては興味なかったりするんだよねー」
「そうそう、周りばっかきにしてねー」
ん?
「でもなんでそうおもうんですかー?」
「だって、これはこうあるべきって正義感で生きてるやつは、社会とか会社の言いなりで、誰々はこういってるし、とかって意見に左右されてるってことじゃん。だからどこにいても都合良く使われる搾取される側なんだよ」
ん?
「子供の頃に親からガミガミ言われすぎるとそうなっちゃうんだよねー」
ん?
当てはまるところがありすぎる、というかまるで自分のことを言われているようで胸が痛くなった。
それと同時に、そうゆうことだったのか!と自分の性格の謎がとけた。
調べてみると、確かにそんなことがあるらしい。
うちの親が確かにうるさかった。
かなりヒステリックで、泣き叫びながら怒ったりするような人だった。
ひどい更年期障害だったんだと思う。
めちゃくちゃに殴られて育って、強い正義感と慈悲の心を植え付けられた。
誰も見てなくても、良い子でいないといけないんだと思ってた。
きっと誰かが見てくれていて、いつか評価されるんだと思ってた。
でも実際の職場ではそんなことはない。
でも長くはもたない。
どんな職場も長くもたない。
別に親のことは嫌いじゃなかったし、むしろちゃんと躾けてくれたと思ってたのだけど、
冷静に考えると色々とおかしい。
自分の心とは別に、自分の意志とは別に、根付いてしまった価値観に支配されている。
別に僕はこんな風になりたくなかったし、
こんなことしたくない、と思ってもやってしまう。
なんでこんな人生になってしまったのかと冷静に考えたりしてる。
正義とはなんぞや。
もし自分に子供が出来たら、何がなんでも自我を通せるようなめちゃくちゃわがままな子供に育てたい。
空気なんて読むな!と言いたい。
これについては兄がいたことも大きい。
人様には譲るもの、それが当たり前だと思ってた。
最高にうらやましい。自分もそうなりたい。
僕の意思とはなんなのか。