高山みなみ=神説を推したい。
最初、高山みなみが唐突にでてきて「誰だよこの高山みなみ!?」って思うじゃん?
しばらく見続けて「あーこれ未来の穂乃果ちゃんの姿的なやつか」って思うわけ。
でも、二度目の邂逅のシーンで高山みなみは水たまり?を跳んでみろというのね。
(冒頭のシーンと同じように!!!)
穂乃果ちゃんの幼少期の思い出?と同じことをさせる。
んで穂乃果ちゃんは目を覚ました後、すぐに神田大明神にお参りに行くわけよ。
多分、穂乃果ちゃんはこの時点でなんとなく気づいちゃったんだろうね。
(と同時に私も気づく。)
大体、よくわからないのがあの冒頭。
この映画は「前回のラブライブ!」的なものでなくていきなり幼少期のシーンから始まる。
(おそらく「前回の~」に近いノリをを期待した人も多かったのでは?)
その上、直後には穂乃果が高校生に戻って全然関係ない話をはじめてしまうため、前後のシーンとのつながりも(上述の二度目の邂逅のシーンまで)わからない。
「どんなことも諦めない」という穂乃果ちゃんの精神性を表したかったとも見て取れるが…、視聴者のほとんどは穂乃果ちゃんのその性質を知っているだろうし、いきなり冒頭で幼少期を描写する意味もない。
そして穂乃果ちゃんが跳んでみせるシーン。
謎の音楽を耳にするとともに幼少の穂乃果ちゃんの脚力は驚異的な向上をみせ、見事水たまりを飛び越えてしまう…。
なぜ?どうして?こんな描写を?冒頭に?
…思うにこの冒頭のシーンは「起点」なのだと思う。
作中通して圧倒的なカリスマ力を発揮し、無理が通れば道理が引っ込むを地で行く太陽少女穂乃果ちゃん。
彼女が「やるったらやる!」といえばライブは大成功だしたいていのことは上手くいく。雨もやむ。
そんな穂乃果ちゃんは、おそらく、おそらくだが、あの謎の音楽を聞いて水たまりを跳んでみせたシーンから、これまでずっと、
「神に愛されていた。」
あの冒頭のシーンで跳躍力強化を施されて以来、穂乃果ちゃんはずっと神様に愛され、加護を受け続けてきたのである。
各種あるラブライブ批判の中には、何でもかんでもうまく行きすぎとか、跳躍力ありすぎとか、車道でダンスはどうなのとか、みんな穂乃果の言うこと聞きすぎとか、さすがに雨が止むのはちょっととか、1期最終話の時系列おかしいだろとか、いろいろなものがあるが、
そんなふうにして、幼少期より穂乃果ちゃんの周りの不可能を可能にしてきた神はついに映像の中に姿をあらわす。
高山みなみボイスと大人びた穂乃果ちゃんっぽい姿をとって、劇場版という晴れ舞台で。
彼女は溺愛している穂乃果ちゃんに「あの時のように跳んで」と成長を促すとともに、視聴者へのある種の回答を携えてやってきた。
今回の劇場版も輪をかけてタイムラインの考察が難しいことになっていると思うが、
いいいじゃん、気にすんなよ、神田からNYまで迷子保護に行く神様がいるんだからなんとでもなっちゃうさ、と。
げに恐ろしきは、神様まで魅了する穂乃果ちゃんのかわいさである。
以上、書くところが無いため書き散らした劇場版ラブライブ考察でした。
※1 この文章は制作側への皮肉として書いているわけではない。
むしろ、細かい設定なんか気にせず突っ走る脚本を私は愛している。