はてなキーワード: あまつさえとは
「◯◯力」ってのがマスコミでさかんに使われるようになった切っ掛けは故・赤瀬川原平の「老人力」とは思うけれど、あれも思えば単純な誤用がまかり通って妙な気分になったものです。
女子力ってのも、元はと言えば女性の地位向上や自立(ようするに闘い)よりも旧態依然の玉の輿的な所を目指した戦略を取る女への揶揄として生まれた言葉のように認識しているけれど、あっというまにポジティブな意味で流通し始めたのはむべなるかな。
旧態依然なんだから新しい名前を付けること事態無駄なんだが、新しい名前を付ければ新しいキャンペーンが打てる。それも色んな会社が。
どうしたって1行で表わせるほうがマスコミの受けは良い。あまつさえマーケティング的にも有効となればこれを止める力は何処からも働かない。
今日、ぼくは、とてもひじょうにおもしろい本をずっとよんでいました。
おかげで、ばんごはんもたべていません。
そして、自分が、じいしきかじょうでごうまんな上、
こんきょのない自信、というかもはや過信をもっており、
なおかつ、ふんさいされるべきそれを、まもらんがために、
にげつづけつつ、その自信のもとにしかせいりつしない、
かちかんを、あらゆるモノよりだいじにする、という、
きわめて後ろむきで、だからこそのがれられないらせんの中に身をおいたまま、
ぬくぬくと他者をへいげいするような、ひどくきもちの悪いそんざいであることを、
あらためてかくしんし、でありながら、それでもいいと開き直るようなたいどを、
取りつづけている自分をきゃっかんししたうえで、
あまつさえ、そのこと自体にもまんぞくしていることにきづきました。
これは、「はっけん」というより「強いさいにんしき」なのですが。
そういうものをくれる、とてもひじょうにおもしろい本が、まだたくさんあるのだろうなぁ、
という、ぜったいのじじつを思うと、うれしくてしょうがない気分です。
ちょっとおさんぽでもしてこようかなぁ。
実は騒音おばさんは被害者で、創価学会の勧誘を断ったことをきっかけに隣人含めた学会員に集団ストーカーされてキチガイに仕立てあげられてた~みたいな説。
妄想戦士さゆりや平野容疑者なんかを筆頭にした統失コミュニティを知ったとき、当時のアレはこういう存在がまだあまり認知されていなかったときに
統失コミュニティの中の人が作って流してたんだろうなーと思うとすっごく合点が行った(隣人の悪行?一覧コピペにある悪口広められたとかライトの点滅攻撃とかまんまアレだし)
この噂が流れていた当時中学生だった僕は恥ずかしながらこの噂を鵜呑みにしてしまって、あまつさえ家族や友人等に自慢気にこの真実(笑)という奴を
「テレビじゃ報道されないこともあるんだよな~」とか言いながらドヤ顔でひけらかしてしまった。
というか当時の2chとかはてなとかのログを見てみると、この話を語る大体の人がこれを信じていて、
少しでも反駁しようものなら創価の工作員だ!まともなソースが見つからないのは創価の情報操作の所為だ!とか、大体どこを見てもそんなノリだったようで、
今ならソースもなしにこんな荒唐無稽な妄言どこで出しても一笑に付されそうなもんだけど、そう思えるってこと自体ネットも自分も進歩したなーってことなのかなぁ。
というか当時の僕や周りの人は何故にこんな妄言を本気で信じちゃってたんだろうと今思うと本当に謎。。。
容疑者の男は生活苦から犯行に及んだというが、生活苦に陥ったきっかけが携帯電話ゲームの課金だという。
携帯電話向けのゲームは、携帯電話の高性能化が進んだゼロ年代後半より徐々に普及している。
現在はパズルとRPGを組み合わせたゲームや、アイドルを育成するゲームなどが人気を博しているという。
しかし携帯電話のゲームはゲーム機でやるゲームと異なり、ゲーム性に乏しいものが多い。
また、勝つためにはゲームの技量を磨くのではなく、単に多くの金を投下する必要性があるという。
技量を磨かなくていいので勝っても大した達成感も得られず、ギャンブルのように課金して勝てば現金や景品をもらえるわけでもない。
既婚三十路女増田です。夫と二人でノホホンと生活してるんだが。
が。
同僚の男友達を異性としかみれなくなってしまい、顔を直視するのも恥ずかしくなってしまった。
今日も一日、イベントに駆り出されて一緒に仕事してたんだけど、その人の前でうつむいて、目すらあわせられなかった。
私はすぐ感情が顔にでるので、その人を見たら、顔が赤くなってとりかえしのつかないことになりそうで怖い。
掃除をこまごましている私に対して「そういえばお前はなんでそんなに掃除するの?」と男友達がきいてきた。
自分が酷いアレルギーもちであること、アレルギーがひどいと喘息みたいな症状がでてきて苦しいのでこまごま掃除していること、寝る時が一番しんどいので小さい頃から家族にも一定の配慮をしてもらう必要があること答えたところ。
ふと「そういうの、守りたいなあ」といわれた。
しらふで。
男友達は男女ともに友達の多いタイプで、同僚とはいえむこうは大学院卒なので年は上。遊びなれている人だと思う。
女性にそうした言葉をいうのなんてたやすいことなのかもしれない。
お酒の席で「今日の恰好ドキドキするわー」とかいわれたことはあった。
あーぜったいこいつ遊びなれてるなー酒の席だから仕方ねえなと思って、間に受けることはなかった。
それから、目があわせられなくなった。
イベントで同じフロアに友達が入ってくるだけで、すぐ腕や足に目が行ってしまった。
うつむき加減にちょっと笑ってあるくから、こういう表情してるんだろうというのが目に浮かぶ。
顔が上げられない。
ただ、セックスしたいとは思わない。
セックスしたところで泥沼になることは見えているのもあるけど、別に性的なつながりがほしいというわけではないのだ。
でも何故か、そばにいて、手をつなげたらいいなとは思ってしまう。
三十路以上の会社の既婚女性の先輩方がアイドルにはまる理由がようやくわかった。
アイドルを好きになった方が「○○くんかっこい!!キャアアアア!!」とかファンミで騒げるから気が楽なんだ。
手に届かないことをしっていれば、それは健全だ。
今の私は健全ではない。
特定の民族や国民を指す用語「在日」、でも本当は「日本に在住する(韓国人含む様々な世界の)外国人」なのだけど
何故か「在日」という表現を目にすると大抵の意味とかニュアンスとしては「在日特権で違法に暮らしている特権階級の韓国人」というものになっている。
「在日特権」というのは多分「特別永住資格など必要要件を満たした諸外国人に特別な日本在住資格を与えられた公式の日本永住資格」という意味合いでなく、
「不当に住み着き、あまつさえ日本人以外で生活保護を受けて通名なども持って暮らす韓国人」という表現が多分正しい、という認識で彼らはやり取りしてるように見える。
「在日」は特定外国人を指す言葉でないにも拘らず、ネット上ではある種のスラングとして流通しているのか、いまだにこの誤りがどこかしこで見かける。
一つの強迫観念に縛られたかのように、日々「在日」という言葉が悪いように用いられている。
日本に住む韓国人が一体自分たちに何をしたのか、例えば犯罪事件を挙げる人達は、日本人ならそういった種の犯罪を行わないと何故断言できるのだろうか。
また、新大久保や鶴橋などのコリアンタウンで排斥デモを見かけるが、彼らは彼らの生活に「在日」による犯罪行為が為されたのか、行われたならそれはいつどこで誰が何の目的で
為されたのか一人一人答えるべきだと思う。
そもそもそういった所に住む韓国人あるいはアジア人が日本に住んでる以上ある一定以上の日本と文化を共有している、という点を無視していないのか。
確かにそのデモが行われるきっかけで、関西や関東の特定地域では在日コリアンの解放運動が小規模ながら行われているが、こちらはもはや日本における風物詩とさして変わりはない。
事実、そのデモにおいてデモを行う人による殺傷事件が発生したという話は、「在日」という表現がネット上で展開されてきた現代において殆ど聞いたことがない。
あるいは筆者が知らないだけでネット上では、報道されなかっただけで真実が存在するのかもしれない。
しかしながら、だから「在日」は優遇されている、に繋ぐのはあまりにお粗末というか強引だと言える。
何故なら、彼らの生活は彼ら自身が望まない所にある、という事実もまた、恐らく真実に違いないためである。
すなわち、人が「在日は優遇されている、在日特権」などというのはよく分からないが、少なくともそれを享受しているのが在日韓国人なのだと断言する所に違和感を覚える。
事実、大阪府で頻繁に逮捕されてる「在日」はその大半が「中国人」である。
こうした事実、ないし側面からはっきりしているのは、在特会やネットで言われる「在日特権」が必ずしも「在日韓国人だけが特権を持っている」わけではない事を証明するのだ。
そのために、日ごろネット上で「在日」という用語を目にすると、そこに書かれている内容問わず誤解が生じてしまっている、と感じてならないのである。
研究内容に似ているところがあるからと私を質問攻めにするのはやめていただきたい
もうほんと話してて思わず「知らんがな」って言いながら相手の股間を蹴りそうになる
そんなことも分からないのかと
ちゃんと調べられてないだけ、理解できてないだけで他人をすぐに頼ろうとする人はすごく嫌
私だけじゃなく周囲の人に、あまつさえ後輩にすら質問しまくって、みんな迷惑そうにしてるのに気づかないかな、気づかねえだろうなあ
アドバイスもらったらもらったで聞いてなかったりするし
先生はこの人に根気強く付き合ってる(付き合わなきゃいけない)と思うとマジで尊敬する
他の同期が言ってた「自分の頑張りとあの人の頑張りが同じ修士号として認められるのは納得行かない」ってまさにそれ
「これができないと留年と言われた」って後輩には申し訳ないけど正直すりゃいいと思ってるよ
あと体臭がきついよ
この程度のdisでも、よっぴーから削除要請があれば削除されるんだよ?
削除されずに、あまつさえ本人からのブコメまでついているっていう今の状況がすでに甘えであることに気づいてないんだね。
孫悟空みてーによっぴーの手のひらですでに転がされてるだけの状況であるっていう自覚もったほうがいいよ。
増田でかみつく程度のチキンでしかない飛沫IDが何ほざいても負け犬の遠吠えでしかないの。
かわいそうな人間。
俺もよっぴーの、背高イケメンマッチョのくせにこんなバカなことやっちゃう俺ってすごいでしょ面白いでしょってのがクソ妬ましくてムカつくけどね。
増田風情でよっぴーに上から目線で講釈垂れるのはお門違いだからてめーこそ消えろ。
そんなに言うならさぞてめーは知る人ぞ知るテキストサイトを知ってんだろうな?
自分ができもしねーくせに文句だけいっちょまえになりやがって。
内容については伏せておくが、話の内容も結構面白く、また主役のキャラクターを演じる女性声優の演技力も相まって非常に魅力的な作品であった。
しかし例の深夜アニメは、政権や経営者団体の意向を伝えるためのプロパガンダという側面の強い作品であった。
例の深夜アニメの具体的内容は伏せておくとは先述したが、作品を読み解くためのキーワードとして「生きづらさ」と「自己責任」の2つがある。
「生きづらさ」に関してだが、主人公は人間関係などに困難という「生きづらさ」を抱えている存在として描かれていた。
もちろん人間関係に困難を抱えた主人公は古今東西多くの作品に登場し、またプロパガンダ目的以外の作品にも「生きづらさ」を抱えている主人公が登場することも多い。
従って、「生きづらさ」だけを以てプロパガンダと認定するのは乱暴である。
もう一つのキーワード「自己責任」についてだが、例の深夜アニメは主人公が抱える「生きづらさ」を嘲笑する作風であるように感じられた。
また、話の内容も「生きづらさ」の根源を徹底的に自己のパーソナリティに求めるものである。
これらを踏まえると「生きづらいのはそれを感じるあなたが悪いのです。社会や制度は何も悪くありません。だから自分を変えてね。」という自己責任イデオロギーが例の深夜アニメの底流を流れているといえよう。
さて、例の深夜アニメは「経営者団体の機関紙」と揶揄される大手新聞社と資本関係を結ぶ放送局が制作に関与していた。
また、
・「経営者団体の機関紙」は社会保障のスリム化と自己責任イデオロギーの吹聴を主張として行っている
このの3点を踏まえると、政権や経営者団体の意向が例の深夜アニメにも反映され、結果政権や経営者団体のプロパガンダとして例の深夜アニメは制作・放送されたということが推測される。
一見魅力的な話もキャラクターも、実は政権や経営者団体の意向を視聴者にインプリンティングさせ、思想を誘導させるための装置の一つでしかなかった。
作品の政治性という物語の根幹に目を向けようともせず「キャラクターが魅力的だから」「話がおもしろいから」という枝葉末節に眩惑され、
あまつさえ映像ソフトやキャラクターの人形、出演者の声優が登場するラジオCDなどを嬉々として購った、己の軽佻浮薄さと愚鈍さに慄然とした。
そして過日、アニメの映像ソフトや人形、女性声優が登場するラジオCDなどを全部処分した。
ただ例の深夜アニメ以外にも、政権や経営者団体のみならず、右左問わず様々な政治団体やロビイストのエージェントが、テレビや漫画、小説、ポピュラー音楽、映画といった
ポピュラー文化を通じ人々を特定イデオロギーに染め上げようとしていることは容易に想像される。
もちろん接触者が全員特定イデオロギーに染め上がるといった、皮下注射モデルが妥当であるとは思えない。
しかし例の深夜アニメのように魅力的なキャラクターやプロットで人々を眩惑し、徐々に思想やイデオロギーをインプリンティングさせることは十二分に考えられる。
これを踏まえ、今後はテレビや漫画、小説、ポピュラー音楽、映画といった娯楽にはなるだけ目を向けないように心がけていきたい。
勿論「だからあなたたちも娯楽には目を向けないでね」と言いたいわけではないし、思想やイデオロギーを読み解いたうえでいったんそれを相対化できるなら娯楽を楽しむのもありだろう。
ただ枝葉末節に幻惑され、思想やイデオロギーに目が向かなかった己の愚鈍さを鑑みた場合、娯楽から遠ざかった方がベターだと判断しただけだ。
ついでに例の深夜アニメは映像ソフトも全く売れず、一部マニアから「爆死」と揶揄される作品である。
ちゃんと思想やイデオロギーを読み解いたうえで、一旦それを相対化できるリテラシーは多くの人に備わっているのかもしれないと安心した。
傍で観ていて、ああ、こういう人が60年前にチューリングを殺したんだなぁと実感した。
odakin氏がアニメファンであるということから彼を批判し、反論すれば絶交宣言をした上でセクシストでペドフィリアで性犯罪者だと罵り、あまつさえ公職から追放するべきだとすら言う。
自分を肯定する意見をRTしてリプライの形で非難し続ける。はっきり言って集団サディズムが聞いて呆れる。
こういう人が言うことは決まっていて正義だから、だ。被害者を守らなくてはいけないからこれは正しい行為、だ。
差別の直接の被害者をなくすことは重要だし社会的地位においての平等は重要だと思っていたとしてもアニメファンであればその内心にズカズカ土足で踏み込んで
「この野蛮人が!」
と言ってのける。素晴らしい正義だ。集団サディストはみんな自らを正義だと思っている。
こう言うと彼は、この意見をくだらない相対主義だと言うだろう。
ここに書いたことを彼は卑怯だと指弾するだろうが、私は寛容でなくなった彼があまりに怖いので直接やりとりは出来ない。
書かずにいようと思ったが書かずにおられなかった。恐怖にかられてさっき匿名ダイアリーの使い方を調べて今書いている。
この恐怖はきっと誰かを殺すだろう。
Twitter を見てると、太陽系の天体が螺旋運動するこのデマ動画が、いまだにRTされたりして拡散しているのでうんざりしてきた。
「太陽系 公転」「太陽系 運動」「太陽系 移動」「太陽系 回転」などで検索すると、この動画を真に受けて紹介しているブログなどが検索上位にヒットしてきて、さらに誤解を広める一因となっている。
あまつさえニコニコ動画にも転載され、字幕までつけられている。
結論から言うと、これはトンデモ信者が思い込みだけで作った信憑性ゼロの動画である。映像の出来だけはよいからか、昨年の3月頃からかなり広まっており、天文学者フィリップ・プレイト氏がブログでその間違いを指摘した記事を出している。プレイト氏は『イケナイ宇宙学 間違いだらけの天文常識』の著者で、世にはびこる間違った天文・宇宙ネタを斬って解説するブログ Bad Astronomy で知られている人。
この記事の和訳版が以下にあり、大変ありがたいのだが(動画が話題になってすぐのタイミングで和訳まで出たのは本当に感謝している)、残念なことに誤訳が目立つという指摘があり、いまもって修正されていない。
翻訳が不自然な箇所を以下にテキストで逐一指摘してくれている方がいたが、行きつ戻りつ確認しながら読むのが大変なので、勝手ながら指摘箇所を中心に翻訳を修正して以下にまとめ直した。いまだに信じて動画を広めてしまっている人に「それ間違いですよ」と指摘しようにも、記事の誤訳が多かったりするとちょっとなぁ、となるので。
なお、もし元の翻訳記事が適切に修正されれば本記事は消すつもりだが、和訳した方は当時Twitter で指摘されてこの校正テキストを読んだはずなのに、もう1年半ほど放置されているのであまり期待していない。
間違いを打ち消すために、まともな太陽系の公転運動を描いた動画があれば知りたいものである。
なめらかな動きでコンピューターアニメーションが太陽の周りを周る惑星の動きを、天の川銀河を周る太陽軌道のように解説する動画について、ツイートやメールがたくさん来ている。とてもきれいな動画に、説得力のある音楽、ていねいな作りの画像。
しかし、問題がひとつある。間違っているのだ。間違いは表面的なものではなく、間違った前提からきた根本的なものだ。中にはいくつかの有益な視覚情報があるが、私は(銀河サイズの)話題のタネだと思っておくよう警告する。
なぜか? 彼の主張の基礎は、「惑星は太陽中心の軌道を描いているのではなく、銀河の周りを渦巻き状に移動している」というものだ。
私は普段、こうした話題の間違いを暴くような面倒なことはしない。奇抜な主張はいつでもあるし、たいていは自滅していくからだ。しかし、この件についてはたくさんの人が私に知らせてきたし、明らかにかなり人気を博している――たぶん表面上は正しく見えるし、画像も大変きれいだからだろう。また、科学を知りつつもそこから離れて久しい人たちによって広まっているのではないかと見ている。このような話題を扱うときには、いつも少し深く掘り下げる手間がかかる。
そこで、シャベルを取り出してみよう。
動画の作者DJ Sadhuは明らかにコンピュータグラフィックスの才能がある。しかし科学は……まあ。私にはすぐさまこの動画が何を目指しているのかわかった。彼は率直に、太陽系の太陽中心モデルは間違っている、と述べている。しかしながら、この Sadhuの主張ははなはだしく間違っている。重力は存在しないと言っているようなものだ。
地動説とは、太陽が太陽系の中心にあるという考え方で、惑星はその周りを周っている(他にもいくつか大事なことがあり、たとえば惑星の軌道は楕円であるとか、軌道は同一平面上にあるのではなくて互いに傾いているとか)。この考え方は、地球が太陽系の中心だという古い天動説にとってかわった。天動説は、それをちゃんとした物理のモデルだと考えると、あらゆる種類の奇妙な仮定をしてやらないとちゃんと機能しない、とてつもなく複雑で考えすぎの物理モデルになってしまう(タイレノールなどの頭痛薬があるなら、epicyclesの項を見てみよう)。地動説はそれよりもずっと物理的に正しいし、ずっとうまく機能している。
私は、どちらのモデルにもそれぞれの使い道があると言いたいのだ。もし特定の惑星が天のどこにあるのか知りたいなら、天動説の座標を使うことになる。われわれは地球に住んでいて、地球は動かずに天の車輪が頭上を回転して動いているように見える、それは理にかなっている。しかし、もし惑星へ宇宙探査機を送りたいなら、太陽中心のシステムが必要なのだ。地球も惑星も両方とも動いていると考える方が、はるかに計算は簡単になる。
Sadhuは、地動説が間違っていて、実は惑星は渦を描きながら太陽を周る動きをしているのだと主張している。彼が実際に言わんとしているものは、渦ではなくらせんである。この2つは名前が違うだけでなく、物理的な動きもその特徴も全く異なる。らせん軌道を描く粒子は、太陽系のようにお互いには干渉していなくてもよいが、渦を描く粒子は抗力と摩擦を通じて互いに干渉している。
しかし、意味論的な論争はよそう。もう一度動画を見てみよう。Sadhuは太陽が惑星を先導しているかのように、太陽が惑星よりも前方に出て銀河を回っているかのように描いている(2番目のビデオだともっとそれは明白だ)。これは単に誤解を招くだけでなく、完全に間違っている。惑星は、われわれが銀河系の中を巡るとき、ときどき確かに太陽の前に出たり、ときどきその後ろをついてゆく(太陽を周回する軌道上のどこにいるかによる)。実際に夜空の惑星を見たことのある人にとっては明白な真実である。なぜなら夜空の一部は、地球や太陽が銀河系を周るときの進行方向にあたるわけだが、惑星はその部分にだって観測されるのだ。
ここでも、細かいことをあれこれ議論するのはやめよう。後述するように(「こうした考え方はどこからもたらされたのか?」の項)、惑星が銀河系内を動くときに太陽の後ろをついていくという考え方は、Sadhuがらせんについて述べるときの思考基盤となっている。しかしまずは、もうちょっと見てみよう。
太陽が銀河の中を移動していく様子を示している、彼が二番目に公表した動画では、もっとひどい状況だ。
公平のために言うと、今回彼は惑星の動きについて「らせん状」だと正しく記述している。しかし、まだ惑星が太陽の後ろをついていくように描いていて、これは間違っている。また特に動画の冒頭では、太陽中心モデルと、らせん運動についての彼の説明を具体的に比較しており、誤った「太陽主導」の考え方を補強している。
彼の動画における太陽中心モデルの動きを注意深く見てみよう。銀河を周る太陽が動く方向は、惑星の軌道平面と同じに描かれている。しかし、こうではないのだ。太陽系の平面は、車の前方への動きに対してフロントガラスが作る角度のように、銀河系に対して約60度で傾いている。
これは本当に重要な点だ。らせんモデルでは、銀河を周る太陽の動きにあわせて、太陽を垂直に周回するような惑星が描かれている。お好みなら「正面向き」といってもいい。これが間違っている。なぜなら、惑星の軌道は60度で傾いていて、90度ではない。惑星はときに太陽の前に、ときに後ろになる。これだけで、らせん描写が正しくないことがわかる。地動説という現実のモデルにおいても、順行-逆行運動というものは存在し、現実の空できちんと観測できる〔訳注:詳しくはこちら参照〕。
しかしそれだけではない。動画では、太陽が銀河を周ることを見せていて、らせんに沿って上昇、下降している。最初の動画のように、一部正しいところもあるが、大方は事実からかけ離れている。
われわれの銀河は、中心部が膨らんでいる平たい円盤で、端から端まで約10万光年の距離がある。この円盤は無数の星を内包し、その重力が合わさって、銀河中心を周る軌道に太陽を留めている。ちょうど、太陽の重力が惑星を軌道に留めているのと同じだ。
太陽が銀河系を一周する軌道の長さは、およそ2.4億光年ではない。銀河を周回するときには、だいたい動画にあるように、太陽は実際ぴょこぴょこアップダウンを繰り返している(とはいえ大体1周につき4回ぐらいなのに、Sadhuは動画内で数十回もアップダウンするように描いている)。〔訳注:太陽系が銀河系内を周回する軌道の図参照(垂直方向は強調されている)〕
このような運動が起きるのは、銀河円盤での重力の働き方のせいだ。ここが非常にクールなところだ。円盤よりほんのわずか上にあるものは、円盤に向かって全体的に下へと引っ張られる。円盤が巨大な物質の板であると想像してみて、太陽がその円盤よりも上にあるとする。円盤の重力は太陽を下へと引っ張る。星と星の間は遠く離れているので、太陽は円盤の間を通り抜けて下へ降りていく。そうすると今度は、下に来てしまった太陽を円盤がまた引っ張り上げる。このとき、太陽の動きはだんだん遅くなり、そして止まり、向きを逆にしてまた円盤へと急激に突入する。太陽は、銀河円盤の中心から上下にそれぞれ200光年ぐらいの浮き沈みをするが、円盤は1000光年の厚みをもっているので、結局私たちは銀河円盤の中にしっかり留まっている。しかしこうした摂動は永遠に続き、太陽は大海のコルクのように浮き沈みを続ける。
太陽は銀河を周回しているので、合わさった動きはすてきな波のパターンになり、浮きつ沈みつ回転木馬のようにまわり続ける。ゆえに、Sadhuはこの部分に関しては(多かれ少なかれ)正しい。
だいたいはね。しかしここに3つ目の要素が加えられている。ひねったらせんを描く太陽の道筋を、彼は歳差運動の性質だとしている。この部分は間違っている。非常に間違っている。
歳差運動は物体が回転するときにてっぺんをぐらぐらさせる動きで、回転の中心軸からずれた向きの力をてっぺんに加えたときに起きるものだ。コマのてっぺんを突くとぐらつく、それが歳差運動だ。地球自身も太陽と月の重力に引っ張られて歳差運動をしており、その軸の1回の揺れ周期は2万6000年だ。
明らかにSadhuは、動画の中でこれを表現している。しかし、ぐらつきは太陽にまったくなんの影響も与えていない。それはただ、地球が何かしているだけだ。しかし、Sadhuは銀河を周る太陽の動きに付け加えていて、それは意味をなさない。動画では銀河を周るコークスクリュー(コルク栓抜きのような螺旋運動)を描いているが、ときには銀河の中心に寄り、ときには遠くへ離れる動きを何度も何度も繰り返している。回転木馬のたとえでいえば、馬が真ん中で回って、上下に、また左右に動いているようなものだ。しかし、それは太陽の本当の動きではない。左右の運動なんてない(軌道ごと何度も銀河の中心に向かったり離れたりするなんて)。Sadhuの示すコークスクリューパターンは、間違っているのだ。
動画と解説文において、Sadhuはかなり頻繁に、座標系と力と運動を混乱させている。
彼はなぜこんな正しくない運動を描くのだろうか。それを掴むため、彼が元にした文献をあたってみた。
動画と彼のサイトによると、SadhuはPallathadka Keshava Bhatという人から学んだそうだ。Bhatによる「らせんの渦巻き:太陽系の動的プロセス」(“Helical Helix: Solar System a Dynamic Process”〔リンク切れのためこちら参照〕)と題された文章にこの考え方はすべて説明してあり、細かすぎる点は指摘しないが、ちんぷんかんぷんなものだった。まじめな話、どれもまったく意味をなさない。Bhatは地動説は間違っていると主張しているのだが、その主張を補強するために、虚偽のアイディアを次から次へと用いているのだ。彼の主張の間違いを暴くためにページを割くこともできるが、ここは短くまとめてみよう。
私はBhatの主張を何度も読んで、可能な限り好意的に考えようとした。私がかき集めたところでは、彼が言っているのは、太陽の動きによって、太陽を先頭にして惑星が後をついていくという形で、惑星は銀河系内でコルク栓抜き状のらせん運動をする、よって地動説は間違っているというものだ。Sadhuの動画の解説文によると、こうした動きをうまく描いているという。しかし、どれも完全に間違っている。もしそれが正しいのなら、外惑星(太陽から地球よりも遠くにある、火星や木星など)は太陽の反対側に遠く離れて見えないだろう。しかしいつだって、私たちには見えている。
それに、私たちは何度もほかの惑星へ宇宙探査機を送っていて、どれもいまだその軌道上にある。もしBhatがいうように地動説が間違っているのなら、探査機はいつになっても目的の惑星に到達できない。探査機を送るための軌道計算が間違っていることになるからだ。探査機の道筋を計算するときに銀河を周る太陽の動きを考慮する必要なんて全くないから、Bhat氏のいうことは正しくない。
太陽が太陽系の先頭で、惑星はその後ろをついていくという主張も、明らかに間違っている。太陽は、Bhatが主張し(Sadhuが動画で示して)いるように、銀河系を突き進む弾頭のように太陽系を主導したりしていない。惑星は太陽の周囲を周り、全体が一つのユニットとして銀河系を60度の傾きで移動している。これは、銀河の軌道に沿って惑星はときに太陽の前になり、ときに後ろに続くということだ。
これはそう、道を歩くあなたの頭の周りを、端にボールの付いた紐がぐるぐる周っているようなものだ(この円は60度傾いている)。ボールはときに頭の前になり、ときに後ろになる。道を歩くときには常にあなたと一緒だが、歩く速さには関係なく、相対的にはあなたと同じ速さでいつも移動している。あなたが自分の動きを線で表すとすると、ボールは傾いたらせんを描くだろう。これこそBhatとSadhuが説明しようとしたことなのだが、しかし間違った説明になってしまった。
Bhatは、その文章の中でいくつもの間違いと論理的誤ちを犯している。たとえば、Sadhuの地球歳差運動の誤用についてBhatが何と言っているか読み取ろうとした。しかし、とても不明瞭で(それに単純なミスもあり、彼は歳差運動の周期を22万5000年としているが、実際には2万6000年)ゴルディアスの結び目を解いているみたいだった。まだほかにも。彼は、もし地動説が正しいなら、日食は1カ月に1回起きなければならないと考えている(46ページと134ページを参照。ちなみに日蝕が一ヶ月に1回起きないのは、月の軌道が傾いているため)。また、彼は「太陽中心軌道は不可能であると意味しなければならない」と結論付けた部分で、地球が太陽の周りを周る回転について根本的な勘違いをしているようだ(文書の30ページを参照のこと)。実質、私が読んだ文章の1ページごとに基本的・根本的な間違いがあった。
そしてこれが、Sadhuの(間違っているにしてもステキな)動画が基礎としているものなのだ、いいかい? いっておくが、もしSadhuのサイトをのぞいてみたら、あらゆる種類の……んー、おかしな陰謀論……9.11陰謀説から、ケムトレイルから、デイヴィッド・アイク(本気で爬虫類型異星人がデンバー空港の地下に住んでいて世界を支配していると主張している)が怒り狂いそうなのから、名前しかない程度のものまで見つかるだろう。私は、彼のほかの考え方を念頭に置くことにした。
DJ Sadhuの動画は、とてもステキで、そのうちいくつかは真実を元にしたものだ。しかし、私の意見ではBhatのゆがんだ宇宙に対する見方のせいで、その核心が失われてしまっている。
彼の動画は正しいように見える。クールであるように見える。ものごとはこうでなくっちゃ、というセンスに訴えかけるものがある。しかし、物事がどうあるべきかと、実際にどうなのかということはいつも重なり合うわけではない。宇宙は本当にクールな場所で、とてもよく出来た一連の法則に基づいて動いている。私たちはこうした法則を「物理」と呼んでいて、それは数学で記述されている。そしてそういうこと全部を理解しようとする試みが、科学である。
クールなものがすべて科学ではない。しかし科学の全てはクールだ。これは普遍的な法則ではないかもしれない。けれども、私の見てきた限り、これは真実なのだ。
昨日は忙しくて増田を書く時間がとれませんでした。すみません。
丁寧に読もうとしてくださって嬉しいです。
本来なら一つ一つお答えしていきたいのですが、説明のために単純化したり敢えて不正確な表現をしたりした点を捉えて批判のタネとされても嫌なので(無論あなたに、ではなく一部ブックマーカー等に、ということです)、核心的な部分についてコメントするにとどめさせてください。
feitaさんが悪いとかそういうことではまったくないと思っていて、彼に対して、何かを求めたり、あまつさえ押し付けたりしたことなんて無かった、ということですよね。
「私がfeitaさんに対してとった行動とは何か」。
「feitaさんのはてブが非公開になった後に」「feitaさんが悪いわけではまったくないことを強調しつつ」「自らの所感を述べた」
これだけです。
feitaさんに非がないことを強調した点ももちろん重要ですが、はてブが非公開になった後に、という点も留意していただけると嬉しいですね。
つまり、feitaさんのはてブ非公開化に対し、私は直接的にも間接的にも、一切の影響を与えていないということです。
本来ならば「私はなぜすがすがしい気持ちになったことに驚いたのか」「私がfeitaさんのファンであったことがあるのか」といったポイントの方が分かりにくく説明が必要だろうとは思うのですが、冒頭に述べた趣旨から省略します。申し訳ないです。
さて、いわゆる粘着増田についてどう思うか、とのご質問ですが、私はいわゆる粘着増田についてきちんと追っているわけではないので、彼に対する評価はできません。
ただし、一般論として、罵詈雑言を用いずとも批判したり意見を伝えることはできる、ということは言えると思います。
たとえば、「弁えるということ」(http://anond.hatelabo.jp/20140721234430)を読んでいただくと分かると思いますが、この文章では誹謗中傷の類と見うるような表現は一切用いていません。
私がその種の表現を排除するのにどれだけ注意を払っているかということは、私に対する罵詈雑言や品位を欠く表現の立ち並ぶブコメ群と対比すれば、一層明確になろうかと思います。
そして、その種の表現を用いずとも、人の心を波立たせることができる、ということは、当該記事についたブックマークの数が物語っているのではないでしょうか。
俺も幾度となく罵声を浴びせられました。コメントしている人は軽い気持ちであおっているだけなのでしょうが、数の暴力があるので、受ける側は四面楚歌な気持ちになります…。
頑張って書いた記事に、そういう反応が混じっていると、とても凹みます。
性根がポッキーな俺はそのたびに枕を濡らしていて、そうするしか無いと思っていました…。
はてながあなたの気持ちを汲んでくれることを祈っています。もし叶わなくとも、この一件が奔放すぎる一部のブクマカーの方々への牽制になればと思います。
時間をかけて、お書きにになった記事を読んでみました。浅学にして読解力がないので、理解に自信のないところがあります…。
しかし何はともあれ、私と粘着増田とが同一人物ではないかという疑いは払拭することができたのですから、はてなに対応してもらえなくとも、「通報しました」と述べることには、戦略上一定の意味があったものと考えます。
「通報しました」と述べることで、元増田さんと粘着増田さんが同一人物ではない、ということを伝えたかった。賢明にもそのような戦略を選んだ、ということでしょうか。
「私はfeitaさんに何かを押しつけたり求めたりしたのか」あるいは「私がfeitaさんに対してとった行動とは何か」
インタビューに応じて自分語りしてしまう自己顕示が不愉快だったことはあるけれど、
feitaさんが悪いとかそういうことではまったくないと思っていて、彼に対して、何かを求めたり、あまつさえ押し付けたりしたことなんて無かった、ということですよね。
「私がfeitaさんのファンであったことがあるのか」
自信がないのですが、”feitaさんの書くブコメは好きだった。”と仰るところから察するに、元増田さんはそれなりにはfeitaさんのファンだった、ということでしょうか。
ただ、"インタビューは読んだが、内容は覚えてなかった"、"ブログも見てなかった”、くらいなので、元増田さんにとってfeitaさんは特に重要な人物じゃなかった。
だから、
「私はなぜすがすがしい気持ちになったことに驚いたのか」
今回のfeitaさんの決断に対して動いた自分の気持ちに、『驚いた』。
そういうことですね。
これが俺の理解です。もし間違っていましたら教えてくだされば幸いです。
ところで、元増田さんは、粘着増田の行動をどのようにお考えですか。
実は俺もまた、粘着気味な性格なんです。だから彼の気持ちは多少分かるつもりです。
冷静な元増田さんと粘着増田の中間くらいの考え方をしていると思います。
俺の視点からでは、彼の行動はちょっとやり過ぎに見えました。 今回の一件で溜飲を下げてくれているといいと思うのですが…。
「毎日のように自分のIDが書かれた記事が、ネットニュースのトップに上がってくる」
というのは気が滅入ってしまうと思うのです…。
学校の廊下に、「XXX(自分の名前)はゴミ!」って書かれたポスターが貼られるみたいですよね。そして剥がしても剥がしても毎日貼られている…。
もし誰かが彼の代わりに、多くのネットユーザーにすがすがしい気持ちになってもらう為に、積極的に何か行動する、としたら、
考えをお聞かせくだされば、嬉しいです。。
俺は35歳のおっさん。
男の性欲は女には理解不能な程切迫したものだ、ということは改めて言うまでもないと思う。
若い童貞ともなると生身の女とやりたくてやりたくて気が狂いそうになるのは、たぶん普通。
8割ぐらいの男はこの「気が狂いそう」という感覚が理解できると思う。
普通の性欲でこれなんだから1割ぐらいの男は実際に気が狂って事件にならない程度に犯罪は犯してると思う。
(犯罪率高過ぎだろうと思うかもしれないが、認知されてない数を入れたら、そこまで外してないと思う)
やりたくてやりたくて仕方がないのにやれない状態が続くと「なんで女は俺にやらせてくれないんだよっ!!」という怒りさえ抱くことがある。
女児をさらってきて調教してあまつさえその性玩具と結婚したいって妄想を抱く男が居ても不思議ではない。
童貞は「可愛い彼女ができたら、この地獄から抜けられる」と思ってる。
でも実際に可愛い彼女ができても、この地獄からは抜けられません。
童貞のつらさは2種類あって、それは世間体的なつらさと肉体的なつらさだ。
「もう20歳なのに彼女がいた経験もなければセックスした経験もない」というのは恥ずかしいもの。
このつらさは確かに彼女が出来たら消える。
この感覚は童貞や理想的な女と付き合ったことがない男や女性には理解するのが難しいと思う。
そこそこの彼女ができた時も「彼女が可愛かったらなぁー」と思ってた。
そんな俺にも奇跡的におっぱいが大きくて顔も可愛い、俺にとっては理想的な彼女ができたことがある。
どれぐらい可愛いかというとこのぐらい。
http://livedoor.blogimg.jp/kinisoku/imgs/3/2/32c89d6b.jpg
この写真を見て昔のことを思い出したのがこの増田を書くきっかけになった。
嬉しくて嬉しくてしょうがなかったし、最初はサルのようにやりまくってた。
童貞をこじらせてる時期にエロテクニックの記事を読みまくってたので、彼女も満足してたと思う。
(毎回何度も何度もイカせてたし、窓を開けてるから声出すなって言ってるのに抑えきれなくて喘ぎまくってたから演技ではないだろう)
しかし次第に「思ってたのと違う」ということが多くなっていった。
最初に違和感を感じたのは町で女子高生の短いスカートから伸びた白い太ももを見てムラムラした時。
「ああ〜、あんな子にこんなことやあんなことをしてみてぇー」って思った。
「あれ?」ってなった。
彼女が横で寝てる時に「ああ、こいつが居なければ、このエロ動画で抜けるのに」と思うまでに、そう時間はかからなかった。
可愛い女やエロい女を見るたびに「こいつとやりてぇー」ってムラムラすることに疑問を抱かなくなってた。
ふと「あれ、これって童貞の頃と何も変わってなくね?」と思った。
結局おとこって妄想の中でするセックスが一番で、現実ではどうしても満足できない。
いや、一時的には少しは満足するのだが、すぐに飽きるし、何かが違う。
いろいろと趣向を変えてもダメ。
どんな女でもたぶんダメ。
ぜったいどこかで妥協したり我慢してる。
美女を見かけたらすぐに犯せて、しかも女がその時の俺の気分に合わせた理想的な反応をするっていうあり得ない状態にならない限りたぶん満足できない。
大奥を使える江戸時代の将軍やハーレムを持つ王様ですらこの状態には程遠いだろう。
しかしこの理想的な状態になっても妄想オナニーが一番良い可能性すらある。
よってタイトル。
追記:
重要なことを書き忘れていた。
前述の理想的な彼女を落とす前は、その子で妄想して抜きまくってたけど、
実際にその子とセックスしたら「あれ?こんなもん?」と感じた。
正直その子で妄想オナニーしてた時の方がかなり気持ち良かった。
それでもサルのようにやりまくってたのは、その違和感を消したいということもあったのかもしれない。
俺の例を一般化するのは問題があるのかもしれないが、友人知人ネットの情報を見聞する限りにおいて、これは多くの男の正直な感想ではないだろうか?
性的な快感による満足度よりも「こんな子と付き合えている俺」という感覚の方が遥かに上だった。
その子とは別れるまでに百回以上セックスやエロいことをしているが、妄想オナニーを超えるような快感はほとんど感じた事がないし、
(一度だけデリヘルで来た女がめちゃくちゃテクニシャンで、かなり気持ちよかったことはあった。あれは確かに良かった)
ブコメで共感できないと言ってる人が居るが、性的快感だけについて言えば同意できないだろうか?
童貞の頃はイケメンや芸能人が許せなかった。「すげー美人と毎日セックス三昧なんだろクソッタレ!!」という感じで。
しかし、実際にその夢が叶ってみると、彼女がセックスしたがっているのに俺はゲームの方がしたい、みたいな事が普通にあって拍子抜けした。
性的快感については相手が美人かどうかより、自分の体調と相手のテクニックの方が重要だし、それでも妄想オナニーを超えるものはほとんど無い。
よってタイトル。
http://anond.hatelabo.jp/20140529201235の増田です
うちの近くでクエン酸粉末なかったので台所用クエン酸スプレーをほとんど一本吹きかけて半日おき、そのあと熱湯ですすぎ洗いしてみた。
結果
割といい感じだがまだにおう。
どぶみたいな臭いもするので、もしやドブ臭なのか?と下水用の炭酸塩素洗剤(タブレット)で洗ってみる。
結果
猫しっこに塩素系はだめなんだろうか。
やっぱりアドバイスどおりクエン酸粉末を探し出して洗うしかないのか・・・
追記
布団干してたら引っかけていったらしい・・・
クエン酸スプレーをかけてウェットティッシュでふき取り、ドライヤー熱で臭み分解を試みる
結果
くさい・・・
明らかにアンモニア臭
晴れた日に天日に干そうと思うが、冬になって布団に包まる季節になったら臭いが部屋や服に定着してしまう気がしてならない。
今のうちに何とかしたい(泣)
それで報酬100ポイント(100円!!!)だからねせいぜい。
だからあそこに来てる人たちは、純粋に好意でやってるんだけど、それを利用して商業利用したりあまつさえリンクも貼らないで自分がやったように見せかけたりするのはほんとうにひどいけど、けっこうあったんじゃないかな。
2chとかだったらただで情報持ってきてくれる人も居るわけで。
2chを毛嫌いする人もはてなーならQiitaとかなら納得するか?あれ、金にならんのだで?
それなりのメディアになれば商業利用してる奴なんてゴマンといるわけで。
益田にも連日の様に馬鹿みたいにサイト作りましたとか言うクズが湧くし。
ただ、お前の言ってる”検索”ってなんだ?
それ、お前の100%オリジナルか?そんなこと言い切れるのか?
お前は今までにネット上の物参考にしたこと無いのか?
お前がそれで100円貰ってるとしたら、それは許されざる行為じゃないのか?
http://b.hatena.ne.jp/entry/r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1358
ここでなぽりん先生がつぶやいてる(死んだ目で)。
自分も人力検索やってたが、何回かパクられた(それも丸パク)ことがあっていやになってやらなくなった。
あれけっこう手間かかるんだよね。少しずつ検索してると一週間丸々かかることもある。
それで報酬100ポイント(100円!!!)だからねせいぜい。
だからあそこに来てる人たちは、純粋に好意でやってるんだけど、それを利用して商業利用したりあまつさえリンクも貼らないで自分がやったように見せかけたりするのはほんとうにひどいけど、けっこうあったんじゃないかな。
ものすごく頑張って検索したものが丸パクされた時にはさすがにうんざりして告発する気にもなれなかったけど。
今のネットで自分の調べたこととか聞いてきたこととか発表する気にはとてもなれなくなっている。
悲しいことだけどね。