はてなキーワード: 教養とは
私は、修士課程のころ、指導教員の印鑑を勝手に買って使ったことがある。
他人の印鑑を勝手に使用することは有印私文書偽造罪と立派な犯罪だが、なぜかバレなかった。
その研究室は、専攻分野の中でも際立った研究をしており、かなりの実績を出していた。
担当教員もかなり力のある人物で、設備も充実していたことに魅力を感じた。
研究テーマも、他の学生と全く異なるものを任せてもらい、やりがいもあるだろうと思っていた。
そこで論文執筆や国際学会発表をたくさんこなして博士課程まで進み、アカデミックに残りたいと思っていた。
だが、研究室に入ってすぐ、そんなことはできるわけがない現実に直面した。
まずコアタイムが厳しく、コアタイム外のゼミ会が毎週あったり、それ以外の時間も暗黙の了解で残らせるところだった。
夏休みも学部生が1カ月以上あるのに対しこちらは長くて1週間、春休みはなし。
書かれていないことは暗黙の了解に過ぎないと無視していたら、指導教員直々に「お前やる気なさすぎ」とまで言われた。
雑用当番や研究室行事も頻繁にあり、ただですら研究で疲弊しているところに追い打ちをかけるようだった。
また、研究室が優秀ならメンバーも非常に優秀ですぐについていけなくなった。
そんな中、研究成果をうまく出せず、指導教員に叱責される毎日を送っていた。
指導教員は言うことが頻繁に二転三転するうえ、こちらの意見は全く聞き入れられず、ストレスが溜まっていった。
うまくいかない実験に関しこちらが改善案を出しても一切認めず、ただやり直せと言うのみでにっちもさっちもいかなくなった。
学生相談制度で別の教授と会ったときも「ここまで緩い研究室すら無理なら退学すべき。就職も今は人物重視だから問題ない」と言われた。
学内の相談員も同様に、遠回しな言い方ではあったがやたらと退学を勧めてきた。もしかしてそういう校風だったのだろうか。
そしてある日、ついに限界を迎えてしまい、半ば喧嘩別れの形で研究室を飛び出してしまった。
その後は好きな講義を受講するなど学部生に準じる生活を送っていた。
ところで、私は学内で国際教養を認定するプログラムに入っていた。
それは対象の講義をいくらか受講し、さらに留学すると大学から認定証とともに国際教養のお墨付きがもらえるというものだ。
もちろん国家資格とかじゃないからこれで食えるわけではない。ゆく先々話のネタにはなる程度だ。
ちょうどお金もたまっていたのでそれに応募しようと思った。
しかし、大学院生は何をするにも教授の許可がいる。授業の履修だけでなく休学・退学ですら例外ではない。
もちろん留学にも指導教員の許可が必要で、願書には指導教員の記名押印をもらう必要がある。
しかしその時の私は指導教員と仲違いしており、のこのこと研究室に出て「ハンコ下さい」なんて言うわけにもいかなかった。
実際、これまでのことを謝罪しに行ったことはあるのだが、取り付く島もなく追い返された。
となるとどうにかして印鑑を押してもらったことにするしかない。
研究室へ行くとバレてしまう。ならば指導教員と同じ苗字の印鑑を買って押すしかない。
ダメで元々店に赴くと、かなりメジャーな苗字だからか簡単に入手できた。
指導教員の名前はWordで印字し、買った印鑑を押したら問題なく受理された。
(後で知ったが「記名押印」は印鑑さえ押していれば氏名は印字やハンコでもOKだという。氏名も手書きが必要なのは「署名捺印」)
申し込むとすぐに「学内選考合格。返済不要の奨学金付きで先方に推薦するので応募手続きを進めるように」という返事が来た。
そのまま応募手続きを進めたところ、留学先による選考にも合格してしまった。
ちなみに、一番大変だったのは英文の履歴書と志望理由書の作成だった。インターネットで調べて何とか出来たが。
留学担当部署へ合格を報告すると、選考だけでなく留学にあたり書く申請書にも指導教員の印鑑が必要だとわかった。
ここまできて引き返すわけにはいかないが、同じことをすればいいので良心の呵責はなかった。
こちらの行動がバレるきっかけはいくつかあったが、追及は全くなかった。その原因を考えてみたい。
まず印鑑を使った段階についてだが、これは簡単だ。印鑑を買って押したところは目撃されていないのでわかるわけがない。
書類を受理した側についても、建前上指導教員の許可が必要としているが、実際は印鑑の有無を事務的に見るだけだからだ。
銀行ではないのだから印鑑登録をしたり、その真正性の判定や所有者への確認はしない。
もし不備が見受けられるのなら書類を突き返して作り直しを命令するだけでよい。
受理された後も、書類は関係する諸手続きにしか用いない。つまり用が済んだら即時破棄が普通だ。
そこで一番バレる原因になりそうなのが教授会だ。
国際教養プログラムの担当教員によると、プログラム修了認定の議題を教授会に出したという。
となると、配布資料または口頭で私の名前が出ており、それを指導教員が認知しているはずなのだがなんの追及もなかった。
不思議に思ったので原因をいくつか考えてみた。
私としては、ありそうなのは順に③、①、②だと思う。
確かに指導教員の許可を要する物事は数多く存在するが、そうでないものも多い(証明書の発行、通学定期の購入など)。
従って、国際教養プログラム参加には指導教員の許可は不要と思っていた。
当然、私が無断でやったことにも気づいていない。
講座の受講や留学には指導教員の許可として記名押印が必要である。
指導教員は許可などした覚えがないのに私が勝手に受講を始めてプログラム修了まで至っている。
しかしながら、それを立証する証拠がない。留学の応募書類などを開示してもらうことはできるがこれでも立証は難しい。
(なお、卒業生については事務局が学位・単位の修得状況だけ保有し他は破棄するため、現在は教員による立証は不可能)
私を呼び出して話を聞こうにもいくらでもすっとぼけられてしまう。教授会の開催も私の修了間近と追及する時間的余裕もない。
もし事前に立証できているなら、学科内のエライ教授に話をつけて懲戒処分に持っていけるはずである。
とはいえ、私がこんなことをしていようとも指導教員自身や研究室には何の実害もない。
それに、ヒエラルキーの非常に強いアカデミックの世界だ、こんな不確かなことで騒ぐのはもったいない。
下手に騒いだせいでお偉いさんに目をつけられるとキャリアが台無しだ。
特に、私を大学から追い出さないといつまでも居座られる。ならば研究成果が不十分でも修了判定を出すしかない。
(一応、学生を放置することで在籍可能期間を満了させて除籍に持ち込むことはできそうだが、問題になるのだろう)
大学教員は如何に予算を取ってきて研究成果を出し出世するかが大事。
こんなことどうでもいいし、私がやったことについて調べるのも面倒。
帰国後は残りの単位を修得し、国際教養プログラムの認定要件をクリアした。
学内カウンセラーの方に仲裁してもらい、無事研究室にも戻れた。
研究室には指導教員とは別にもっとエライ教授がいたが、私が不在にしている間、何の前触れもなく退職した。
私以外のメンバーにも退職日や理由などを事前に知らされなかったそうだ。
そういえば私が研究室に入る前、その教授は「近い将来指導教員を独り立ちさせる」と言っていたので、それ絡みだろうか。
研究室に来なくても研究を進められるようになった。連絡は口頭でなくチャットソフトを使うことになった。
研究や生活面、あらゆることでこちらを詰めてきたはずの指導教員も対応が事務的になった。
今までは研究報告でさんざん貶されていたところを、提出したらすぐに「よいと思います」と言われるようになった。
高圧的に命令してきたところが、丁寧語で提案するような口調になった。
「どんなことよりも研究を優先せよ」だったのが、「やりたいことがあるならそちらを優先した方がよいです」と言うようにもなった。
ただ、「発言が二転三転する」と言われたのが心外だったのか、何度も「研究ですので変更もありえます」と言うようになった。
発表資料も何度も突き返されたところを、指導教員が大枠を作り、こちらはデータだけ書き加えればよいことになった。
雑用当番やゼミ会、研究室行事も免除となり、学部生に準じる夏休みももらえた。
修士論文は序論として先行研究に続いて自分の研究背景をまとめ、あとは研究報告書を要約していけば完成した。
その代わり、
・私の研究ポスターや発表実績を外部(研究室ホームページや研究棟の廊下など)に公開しない
・修了間近に私のデスクを片付けに行ったら、そこが荷物置き場になっていた(最も、研究室を飛び出す前からよくこうなっていたが)
など、私をいなかったことにしたいようだった。
学位記授与式を過ぎ離籍しても、就職先への出社日前日まで研究をさせるところだったが、私は修士論文を出した時点で解放された。
(本当はこれ、部外者を研究に従事させているので万が一のことがあった時を考えるとマズいことなのだが…)
結局、修士の学位記と認定証、そして「修了おめでとうございます。さようなら」とそっけない言葉をもらい大学から去った。
(なお、博士課程については、1年次後期の時点で指導教員直々に「テメーはダメだ」と言われたので断念していた)
何のつもりか研究室からの寄せ書きもくれた。数人はメッセージなしか当たり障りのない内容だったけど。
一応研究ノートとかは返してないが、こちらも特におとがめなし。まぁ「門外不出にする価値もない」ってことなんだろうけど。
研究室に感謝する義理もないので、研究室のパソコン内のデータや研究実験用ソフトなどを全消しするプログラムを仕組んでおいた。
バレにくくするため、研究室を去ってから数か月後に全消しプログラムを作成してから消えるパッチファイルだけ入れておいた。
全消しプログラム生成からさらに数か月後、そのプログラムが作動しパソコンがダメになるというわけだ。
今頃どうなっているか気になるが、今は部外者で研究室とも仲が悪かったため覗きに行くことができないのが残念だ。
ところで、私が去った後の研究室や専攻の方針がどうなったのか気になるところである。
私のような学生のニーズに最大限配慮した研究・進路指導をするようになったのか。
そうだよ
訳のわからない非科学を広める人と真っ当な科学的知見を言う人の区別がつかないし、Twitterで暴れてるバケモノと真っ当な社会正義を遂行しようとしてる活動家の区別もつけられないからね
ホッテントリ見るとここ1,2週間毎日Colabo関連の記事が出てきて辟易してる。
ミュートすればいいじゃんと言われたらそれまでなんだけどこの騒動の行方に興味がないわけじゃないのが辛いところ。
なのでホッテントリに入ってくる記事を読んでしまうのだが、擁護側も批判側も党派性臭がすごくて辟易としちゃう。
僕自身、あまり会計の知識がないため「問題だ!」「言いがかりだ!」の言い合いのどっちが正しいんだがよくわかってないんだけども
それでも批判側、てか暇空氏の記事はもうこじつけが強くてきついし(多分、暇空氏はわざとやってる)
一方、擁護側の記事(や特にtweet、ブコメ)はまず批判する人たちをミソジニーだとか表自とか決めつけてレッテル張りから始まってるので
これまたきつい。
汚い言葉でもうしわけないけど議論ではなく、うんこの投げ合い見せつけられてるという感想。
なのでColaboの弁護団が出てきた時、これで収束するかなとちょっと期待はしてたんだよね。
が、、、
粛々と暇空氏がやっていることが侮辱及び業務妨害であることの事実を提示し、会計に瑕疵があれば是正して、なければないと言い切るだけでいいのに
リーガルハラスメントというフレーズに始まり、都は認めてるという重要な一文をしれっと消して何も報告ないし(あったらすまん)、
司法試験受けてきちんと教養と品位があるはずなのに暇空氏と同じレベルまで降りてきてしまってる。
(弁護士だからといって品位があるとは限らないと言われるかもだけど倫理規定には品位を損なうような行動をしてはならない、という一文があったはず)
もう泥試合。
(多分、裁判としては暇空氏に勝つかもしれないけどColaboという団体についたマイナスイメージを払拭するのにはだいぶ時間がかかることになると思う)
なのでまぁ、中立、っていうのは難しいかもしれないけど相手に対してレッテル張りをせずに冷静かつ品位をもって事実をまとめてくれる記事誰か書いてくれ
のうのうとサラリーマンを続けてると、自分が腐っていくのがわかる。
勉強するのに遅すぎることなんてないといわれても、例えば今から歌舞伎について学び始めて、歌舞伎役者になれるとは思えない。
自分のスキルのポートフォリオとのシナジーで、少ない労力でなんとかとしたいと思う。
というと、金融、法律、筋肉、ITなんじゃないかと思う(このへん、識者の意見を聞きたい)。
全部やるのもだし、手っ取り早そうな、IT系の勉強を始めてみた。
こういうと怒られるが、今から行政書士を目指すとか、税理士を目指すとかよりは楽そうじゃん?プログラマーとSEの違いすらわかってないんだけど。
そんなわけでとりあえず、ここ1年ほどで以下の資格は取ってみた。
Python3エンジニア認定データ分析試験は、たまたま最初に選んだのがPythonで、Pythonはデータ分析でもてはやされてるらしいので。
統計検定は、ITとは関係ないけど、データ分析を勉強したら統計検定は取っとけみたいなことが書いてあったので。
バイオインフォマティクス技術者認定試験というのは、中途半端なIT知識と、統計知識に、学部の教養でやった生物学を足したら手っ取り早く取れそうとおもったので受けただけ。
なんでも、なにをやるにもSQLというのがわからんとだめらしい。バイオインフォマティクス技術者認定試験にもSQLの問題が出てきた。解けたけどいまいちまだよくわかってない。
データベーススペシャリスト試験というのがあるらしいから、来年に受けてみようと思う。
他何か、おススメがあったら教えてほしい。
匿名で、かつパーマネントリンクのある書き込みができるという、ある種画期的なシステムの「はてな匿名ダイアリー」別名「増田」。しかし、そこには議論が追いにくいという構造上の欠陥がある。
それは何か。
それは男女間の憎悪が渦巻き社会的地位の格差から罵詈雑言が溢れているというものだ。
そこでわたしは2006年の書き込みを読んでいたのでここで紹介しておきます。
■一部のはてなダイアラーの特徴
『はてな』(はてブ、スタッフのパロディ化)やネットコミュニケーションに関する話題が好き。ダイアリーでよくネタにする。
ライトノベルやエロゲーが好き。2次元キャラクターが好き。いくばくかの恥じらいがあっても2次元が好きな自分に誇りを持っている。
知識は新聞や書籍ではなくGoogleや、はてブやブログから要領よく手に入れられるものと信じている。百歩譲っても、教養なんて新書を読めばサクっと身につくと考えている。
コンピュータ関連の技術にあこがれている。習得したい。モヒカン族になりたい。
「いまはまだその時ではないけど、このままブログを書き続けていれば、やがて誰かが自分のすごさに気づいて取り立ててくれる」とぼんやりと期待している。
実年齢は大学生から社会人(30代)ぐらいだが、精神年齢は高校生(注1。
注1)リアル高校生で精神年齢が中2だったり、リアル中2ということもあるだろう。メタ談義好きのクラスターに参加しようと、簡単なことを言うためにわざわざ小難しい表現を使って背伸びするんだけれど、テキストの端々に学校生活臭。
これを読むと2006年当時のはてな界隈が想像できるんじゃないか。
フェミや政治ネタなんて無いただ単純に技術的な話ができる場所であったようだ
。(ニワカだとしても)
海賊版サイトでfakku等によって原本から翻訳されたものが幅を利かせせているので、本来なら原本を買えば済む話なのだが、とにかく日本人側は翻訳版の再翻訳をしなければならない歪んだ状況に立たされているという話になっていた。
そういう話の流れで出たのが双龍の漫画「こういうのがいい」ってどの言語でも訳せなそうだよねという話だった(あえて言い古された「ちんちん亭」には触れない)。
もちろんこれは「こういうのがいい」の翻訳版を謳うものが出た場合は既に元の台詞回しのニュアンスが壊れているはずなので、また原本の日本語自身が独特なので、元の台詞を復元することは困難であるという含みもある。
台詞回しの一例をあげてみよう。
女:ワキガチェックしてくれたまへ
男:剃り残しがございます
女:うむむ…永久脱毛の金を稼がねば…って違うぞ違うぞぉ?臭いはどうなんじゃ
男:…なんか甘いんだが
女:スイーツだと
文章の随所において終助詞など細かく拘られていて、独特のテンポが形成されている。
ただ何より注目すべきなのは、このピンクの美少女が「違うぞぉ?」とか「どうなんじゃ」とか中性的かあるいはどちらかといえば男性的な口調でものを言っていることだろう。
この言語的倒錯が生むチャーミングさといったら一体どう翻訳すれば保存できるのだろうか。
たとえば英語圏にも男性口調とか女性口調の区別は確かにあるのかもしれないが、ただ女性に男性口調に相当する言葉を言わせる「ずらし」でそれは再現可能なのか。
上記の男口調は、俺妹にも拙者が一人称の男言葉を使う女はいるが、あの口調ともまた、それが放たれたときに読み聞きした側が感じる空気感というか味わいといったものが異なると思う。
つまり同じ言語内における言語的倒錯についても、ずらし元とずらし先の違いによってそうしたニュアンスが異なってくるのに、その各ニュアンスを別言語において再現可能なのかということだ。なかなか難しいものがあると直感される。ちなみに現代の女性が「たまえ」というだけでも面白いがそれが「たまへ」と表記されたときの独特の滑稽味もまた再現し難いだろう。
もう一例あげておこう。場面は風呂場の脱衣所で男女が裸になっているという状況だ。
女:ふいータオル貸してー
男:いいよーっておいそれ昨日使ったやつだぞ洗ったのあるよ
女:いいよ別に乾いてるし
女:むっ雄の香り
男:えっ?酸っぱい?お酢?
女:ちゃうオスメスの雄w
やや育ちの悪そうな自然体の男女カップルの会話が自然に、あるいは少し技巧的過ぎるかもしれないが、素晴らしい具合に再現されている。ちなみにネカマするならこういう本からこそ口調を見習うべきだろうとも思う。
後半の雄とお酢の畳みかけは、男の受け答えが女の意図したいことに対してあながち間違っていない(絶対酸っぱい匂いがするという意図もあったはず)という点も含めて言葉遊びとして面白い。
しかしこうした言葉遊びの翻訳は後述するが映画翻訳業界では十八番のようなもので、比較的なんとかなる類のものかもしれない。
さらに続きを見てみよう。
女:乾かして―
男:なんで至れり尽くせり体制なん
女:頼むぅいいじゃんよぅ
男:だが断る
女:えぇなんでー面白いのになー
女:でも勃起サイズアップするらしい…ってあれあれ~?復活ですかー?
男:いや刺激与えたらそりゃな?
もはや語尾の小文字と長音符の使い分けなど、この作者の文体の妙を説明するうえでは些末な類だろう。
「至れり尽くせり体制」などの日本語母語話者が談話においてしがちな咄嗟な造語はどう訳せばそのニュアンスを海外の読み手にも届けられるのか。
伏字になってない伏字も面白味があるがこれは比較的なんとかなりそうだ(相変わらず女の使う「だぜ口調」が翻訳の難所になろうが)。
男がジョジョの言葉を使っていることも注目しておきたい。誤用であるかもしれないことは作者も承知している可能性があるのであえて触れないとして、こういったものはどう訳せばいいのか。
そもそもこういった台詞は元ネタを知っているかしないかで同じ日本人でも読んだときの感覚は異なっているだろう。
結局ジョジョが世界的に有名な作品なだけあって、その言語圏で出版されているジョジョの該当セリフをそのまま引用してあげれば割とスムーズに我々が感じているニュアンスを届けてあげられるのかもしれない。
・
ある言葉が翻訳可能かについては、そもそも出版や映画の世界の翻訳技術の長年の蓄積があるのだから、薄っぺらなのは承知でこれらにも触れておく。
先述したが言葉遊びの部分を別の言語に落とし込むことは映画翻訳が得意とするところである。
その言語の音韻体系でしか成立しないだろというものもうまく落とし込まれているものである。ぴんと来ないなら参考にtedの生音声と字幕を比較してみることをおすすめする。
「ぼくのワンダフルジャーニー」の原題は"the dog"である(the objectを「遊星からの物体X」と訳すのとは似て非なる事情だと思う)。
素人目にはどうしてこんなアクロバティックな翻訳な成立するのだろうと思わずにはいられない。
逆に向こうの人にとって"the dog"という訳はどういう印象を持っているのか?個人的にはお堅い文学的な味わいすらも感じられるが、それを母語とする人にはひらがなで「いぬ」と書いた程度のニュアンスまで幅広くカバーしているのかもしれない。
「いぬ」と「ぼくのワンダフルジャーニー」なら、まずまず対応していると言えなくもない…か?
あるいは端からニュアンスを丸ごと保存しようとは翻訳家も考えないものなのかもしれない。
その文章の文体やテンポが、鑑賞者にとってのニュアンスや味わいに対して重要な要素としてどれだけ影響を与えているか、支配しているかということは弁えているものなのかもしれない。
たとえば注意書きの文章をテクニカルライターとして翻訳するにあたって、日本語の注意書き、特に箇条書きが持つ淡泊さを独特のニュアンスとして捉えその存在性を肯定することはできるかもしれないが、日本人が注意書きを読むにあたってそのニュアンスを重要としていないのと同様、そのニュアンスが保存されているかどうかにまで気配りする必要はないだろう、という具合だ。
とっくの昔に源氏物語が様々な言語に翻訳されていることも押さえておくべき事実だろう。
これもまた古文が持つ独特の味わいをどう翻訳しているのか、あるいは翻訳を放棄しているのかという話になる。
日本人の心には中等高等教育を経て古文単語に対して、仰々しさをはじめとした独特の感性が培われている。
その感性を通してこそ「変態糞中納言」は独特のギャグとして成立するわけだ。
しかし源氏物語にはギャグの要素はあったとしても重要ではないだろうし、結局助動詞とか係り結びに使う助詞が持つあのニュアンスは全部放棄しているのだろうか。
アーサー王物語時代の古英語でも使えばあるいは教養ある英語話者に似た味わいを感じてもらえるかもしれないが、これは英語圏の人間に限られる手法となってしまう。汎用的な手法を見出せないものか。
ところで海外の人が日本のアニメを字幕付きで見るということが大いに行われている。
主観になるが吹き替え版は可愛くない。仮に可愛いのだとしても、少なくともそれは日本人声優の演技とは別質のものである気がする。そのあたりにもなにがしかのニュアンスが宿っているかもしれない。
そのニュアンスは非言語的な要素が持つものであって話がずれていると言われればそれまでだし、因果関係上は先に生の動画があってその日本語が分からないから字幕をつけているというものに過ぎないわけだが、とにかく日本人声優の演技というのも、字幕の持つニュアンスを補うための日本語の音声という側面があると私は解釈している。
私なりに長々語って来たわけだが、私の関心はあくまでこうした「多言語に訳せない言語」が日本以外に諸言語にあるか、それにはどういった事情があるかなどといったことであって、巷で言われるような「日本語は難しい」的な自言語を特別視する態度は持ち合わせていない。
むしろ浅学でわずかな日本語と英語の例で比較したり考察したりすることしかできないのが嘆かわしいぐらいである。
戸田奈津子や村上春樹や、最近だと東大に40言語話せるハイパーグロットがいるらしいが、彼らに自分が「訳せない言葉」と思うものを持ち込んで翻訳をお願いし、その翻訳作業をじっくり見学したいものである。知見も深まるというものだろう。
教養に性ラベルつけて優位性持たせて差別しようとする差別主義者、本当嫌い。人間として最低。
私は米国のある分野で有名な企業に勤めている。誰もがどこかで聞いたことある所だが職階も低く裁量も持たされていない。1980年生まれである。
ある概念の言葉をカタカナに次ぐカタカナの言葉が繋がるのはまだ良い。何が酷いのか。すでに日本語で概念に対する適切な単語があるのにも関わらずそれを用いず英語の動詞を自分の発音のカタカナ語に書き換えて提出してくる。かくして、ルー語の塊のような顧客向けの文書が出来上がり星条旗をつけて日本の会議室で文章から音声として展開される。
こんなものに理解を追いつくことが現代人の教養である昨今に些かの寂しさすら覚える。物珍しさで優位性を持たせようた暴力的なカタカナ語に翻弄され、明らかに元の英単語と違う含みで復唱し頷く人々。契約は締結され、また新たな米国製の商品が不思議な日本語で梱包されて世の中に出回る。
誰が翻訳しているのかというと、英語が分かって日本語がわかる日本人、ではなく、英語が分かる英語で育った日本語話者、が翻訳者にとても多い。父母が日本人であった、日本の大学か大学院に行った(中等教育までは全て別言語圏)日本語で小説が読め、契約書が読める、等。
その程度の日本語話者である。正直、彼らの語彙は舌を巻くレベルではあり経歴も大変優秀だ。文法も正しく用い、文章構成も理解しやすい。だが、ほとんど全ての彼らは過去の偉大な知識人たちが用いた日本語の底にある様な漢文の素養はほぼ持たず、古文についてもラテン語を習う感覚でほぼ用いられないものと考える人々の方が遥かに多い。恐らく明治時代に書かれた文章もそのままでは読めないものもいるだろう。違うんだ、その中にこそ、一般的な日本人が分かりやすく捉えられる言葉が眠ってたりするんだ。だが、彼らの中にあるのは現代日本語で頻出する語彙でその様な言葉は出てこない。
持たされる英語の文章の量は膨大であり締切は迫っている。そして新聞社や出版社の校正部の様に真っ当な日本語を司る期間も通らない。
しかし乍らある製品の説明として、物珍しく新しくて生かしてるカタカナ語を代理店の広報は選び、広告になり街に出てくる。
日本語育ちで日本でのみ教育しか受けてこなかった私でも、目を引き魅力的だと思う。
こうやって不思議なカタカナ達はやがて普通の日本語と変化する。
きっと私より20歳下の人々はまた違った世界が見えているのだろう。
更に20歳下の人々が言葉の潮流を作り出す頃には、案外中国語の簡体字を使う事が人目を惹き洒落て洗練されたものと扱われる様になるかもしれない。
きっと、その頃には我々はカタカナにもアルファベットを混ぜて使う事に飽き飽きしてる。
そうして出てきた中国語の単語の中にかつて我々が学んだ漢文と同じ単語が含まれていて、案外明治時代とそう変わらない意味で用いられたりしたら、なんとなく世界は面白いのではないかと思った。
明治時代に欧州圏の概念を漢字化し東亜圏に広めたのは当時の学者達でその言葉を我々はつかっているのだから。
アウフヘーベンについては小池百合子が言い出すよりも前に普通に小説や漫画で普通に使われていたのでそこにだけ元増田に違和感を覚えた。私は川原泉のフロイト1/2が初見だったので。
昔は、小学校でウサギを飼育して、ウサギには発情期が無くて、年がら年中発情状態であるということを学べたんだよね。
そして、ウサギの恰好をするということは、すなわち、いつでも交尾OKということを知らしめることなのだと理解できた。
ところが、
昨今では教員の労働負荷が異常に増大し、学校で動物を飼育する余裕がなくなってしまった。
その結果、さまざまな教養を学ぶ機会が激減した。
違うだろうか。
ある程度教養があればバニーガールが性的であるし性の象徴であるようなものだと知ることができる。
学力は大事だ。学力がないとPLAYBOYの意味もわからない。学力がないと英語で検索することもできない。
でも昨今のオタクはゾーニングがなされない二次元の中で生きているので(昨今、といっても涼宮ハルヒのバニーガールコスプレからだからアラサーあたりまでの範囲になるかも)バニーガールが日常に溢れているものとして認識しているのかもしれない。ハルヒのカオスなシチェーションを、日常として受け入れてしまったのかもしれない。
ここで日本の文化に欧米の文化が根付こうとしているのだと気づく。いつの間にか日本のほうが進んでいたはずの性的文化に欧米がいた。KPOPのようなものだ。
ただしかし欧米人はそいつ(バニーガール)が性的なものだと理解しているので、日本人!?ってなるだろう。
しかしバニーガール文化を日常に根付かせたはいいが、今後日本人はどうするのか。
切り捨てるのか。