はてなキーワード: 社会貢献とは
https://anond.hatelabo.jp/20190718170026
この増田のトラバを読んでもブコメを読んでも、KKOがますます殴られていると思ってしまう。
それで、自分と比べてしまい不幸な気持ちになって、本当の幸せの定義に躍起になってくる。
だから、「それぞれの幸せ」を認めるために、周りの人々に強者に対するマイナスイメージを植え付けたいという強迫観念に駆られる。
でも、ふと思った。
強者にマイナスイメージを植え付けることは「それぞれの幸せ」を否定することであると。
逆に強者をリスペクトしたとしても、弱者を卑しめることには繋がらないのではないだろうかと。
それどころか、強者へのリスペクトという気持ちが、強者のみならず社会全体による弱者へのリスペクトを呼び起こすのではないだろうかと思った。
KKOによるべらぼうな金持ちへのリスペクトが、KKOへのリスペクトを生むということだ。
トラバやブコメのリスペクトを見たときの自分の気持ちを眺めてみてそう思った。
依存症から金を巻き上げたり、法の穴を掻い潜って人から大金を騙し取ったり、枚挙にいとまがない。
べらぼうに稼ぐためには搾取に手を染めなければならないかもしれないという不安に駆られてしまう。
もし搾取に手を染めているのなら、当然リスペクトの対象からは離れてしまうのだ。
KKOとして生きていると、金持ちの世界を知らないためにこのような漠然とした不安を拭い去れない。
そして、自分の活動のベクトルを高収入へと向けることに不安感を感じてしまうのだ。
KKOの中には少なからずこういった感覚を持つ者もいるのではないかと思う。
したがってKKOとしては、願わくば搾取のない世の中を実現したい。
社会貢献度と収入が限りなく綺麗な相関を描くようになってほしい。
本当にかわいい。
そんなかわいい子供のために、少しでも日本っていう国を良くしたいなと思ってる。
だけど社会実業家になったりとか、社会貢献のためにボランティアで
はちゃめちゃに頑張りたいっていう意気込みまでは無い。
ただ、なんとなく生活する上で国のためになるようなことをしたい。
些細なことでもいい。募金とか安易にお金を出せば解決する方法以外で考えたい。
ちょっとした心がけが、気づいたら国を良くしているような。。。
ほどよく消費活動し、よく食べよく寝てよく遊んで学んで子供を育てる。
たまに地域のボランティアをお手伝いするぐらいか。選挙はもちろん行くぜ。
それで十分と言われればお終いだけど、本当にそれだけじゃ衰退していくんじゃないの?
なんとなく地域や町、国を良くしたいって思う人はたくさんいるだろうけど
じゃー個人レベルではなにすればいいのさって思う人も多いと思うんだよな。。。
くすぶってるというか、なんというか。
ひとまず俺はしばらくしたら少子化対策として、
嫁と相談してもう一人愛する子供ができるよう頑張ろうと思う。子供かわいいしな。
穴があるだけなら単に選ぶ側であるというだけのこと。貢献はない。しかし本人の意に沿わない理由なら責めることもないというだけ
追記2
僕も偉そうに意見をいえるほどプレゼンがうまいわけではないのだが
話始めとして、「監視カメラ」「全席が優先席」というキーワードを持ってきちゃうと、精髄反射でそれぞれのワードに反感をもって話を聞かない人が出てくるので、
もったいない気がする。
例えば
""
「手助けを必要とするひと」には多様に種類があるということが明らかになってきた現在において、
女性専用車両は「手助けを必要とするひと」を女性に限定しまうことで、いくつかの不具合を抱えてきてしまっています。
""
↑(どう言う考えから始まっているか、抽象的なところから伝える。かつ女性専用車増強版でもないよとアピールする)
""
そこで、女性だけでなく「手助けを必要とするひと」全員が安心して利用できるような車両「思いやり車両」の設置を提案します。
この試みは、乗客に新しい選択肢を提供する共に、鉄道会社とその車両のスポンサーに社会貢献によるブランドイメージの向上をもたらすことが可能だと考えています。
""
↑(あんたの顧客にもあんたにも多分利益あるってことを伝えとく)
くらいから始めて、
↓
↓
「監視カメラ」「この車両では、それぞれの方の必要に合わせて、手助け・譲り合いをお願いします」のステッカー。
(全席優先席っていう言葉は 優先度がどれもMAXで優先順位がわかんなくなるので僕はあまり好きではないです)
↓
みたいにしてったらどうかしら。
子供は就職しないうちは親のお金も時間もマイナスになる損な存在でしかない。
貧困層~中流階級の親はどうしても子どものために自分の娯楽費被服費食費が犠牲になる
中流階級の夫婦二人だけの家族ならそれなりに贅沢して旅行に行ったり高くて美味しいものを食べに行ったりできるが
子供ができると学費やらなんやらで一気にお金が子どもの方に流れて贅沢ができなくなる。
親の生活やお金や時間が犠牲になって子供が育つ。覚悟はしておかないと。
子供ができて住宅ローン組んだら親の「楽しみ」が失われるんだなと思う。
これを払拭するくらいの「良い子」に育ってくれたらいいけど
もう目が当てられない。
もし自分の娘が、田舎から東京の学校に行かせたのにホストに貢ぐために学校を中退して風俗堕ちするような娘に育ってしまったら毎日悲しすぎて号泣する自信があるし
子供を産むのは親のエゴでしかないし、親がいなくてもしっかり生きていけるように育てたい。
世間から見たら「子供を生む→将来の納税者を育てる→親は社会貢献している→親はエライ」ように見えるだろうけど、
子供から見たら、親の都合で勝手にこの世に産み出されたに過ぎない。だから食べ物を食べさせてもらえなかったり、お金が足りなくて望んだ進路に進めなかったり、虐待したりする親はクソでしかない。
むずかしい
みんなどうしてるの?じぶんがヘタクソなだけなの?
あまり考えがまとまっていない、雑なやつ
noteは広告がなくて落ち着いてるから難しい話やポエムをするのに向いてる。
twitterやヤフーコメント欄などの「速度の速いSNS」は政治系・言論系には適さない。さんざん懲りて辟易したので、その辺の話題はもっとスローで巧緻な媒体でやったほうが良い。
ニコニコはネガティブな視聴者が多いが、インターネットノリは良い。
等々、たくさんある。
「誰に対してどこまで話すか取捨選択するのが難しい」
言い換えれば、「このハンドルネームのキャラ設定はどうするか」「キャラ崩壊しない運用」に悩んでいる。ということ。
1. 自分がやりたいこと・言いたいことがこれだけあって(リストアップ)、
2. そのためには、このハンドルネームからはこのアイテム、あのハンドルネームからはあのアイテム、を分担する。
という戦略を立てるわけだけど、キャラ設定が壊れがち。めんどくさくなって素が出てくる。そもそも演技が苦手で下手なので、あまりハンドルを細かく分けるのに向いてない自覚がある(ちゃぶ台返し)。
また「この話題はどこでアウトプットするか」を悩んでしまって、アウトプット自体が面倒になる。そうやって溜まってる記事や企画が山ほどあって腐らせて旬を逃してもったいないと思う。そもそも、処理能力に対してやりたいこと(要求)が多すぎるのも問題だと思う。
というか、仲良くしたい・気に入られたい相手がいる場では、ネガティブなイメージを抱かせてしまいかねないことは言いたくないんだよね。でもそれ以外のどこかで言いたいんだよね。という、取り扱いが面倒な話題の需要が自分の中にある。
何か、その辺のガイドや指南してる本とかある?有料のネット記事でもなんでもいい。
「この話題はここなら話し相手がいる、あの話題はあそこなら話し相手がいる」という状態に持っていきたい。
独り言が多いのがさみしい。言い換えれば、「この話題について話せる相手・場を確保できていない」ことがちょっとつらい話題がある。ということか。
「SNSにネガティブなことを書くな原理主義」の人もいれば、ネガティブなことも書くけど上手くやっていけている人もいる。ネガティブな話題にアレルギーのるある人は、ネガティブなことを書く人からは離れていく。それは、政治アレルギーとほぼ同じで、政治的なことを書く人からサーッと離れていく人と似ている。
だから、自分はどうしたらいいのか?よくわからない。あちらを立てればこちらが立たず。
ネガティブな発言・話題で盛り上がってるクラスタに参加してみたら、ポジティブなクラスタから離れて敬遠されてしまうのがさみしい。
ネガティブな発言を減らしてポジティブにすり寄ってみたら、今度はネガティブな話題で会話が成立してるクラスタが羨ましくなり、「自分は能天気な話しかしない人だと他者から見られているのでは」と気になったりする。
「自分はどうしたいか」と問われれば、「ポジティブなこともネガティブなことも、難しいこともとりとめもないことも、言いたいことは全部言いたい」です。
二兎を追う者は一兎をも得ずなのか・・。
べつに特別なことをしているわけではないと思っている。
インターネットがない時代でも、ハンドルネームでなく本名であっても、親に見せる顔、勤め先に見せる顔、友達に見せる顔、子供に見せる顔、・・・それぞれ違うわけでしょ、それと同じだと思う。
なぜかインターネットと比較するとリアル顔の使い分けはうまくいっている。と思う。比較的。
父はオタク趣味を毛嫌いしていて兄弟にもブチギレて映画のパンフレットビリビリ事件を起こした前科があるため、無意識にオタク趣味やエロゲ方面などは出さないように気を付けている。というか意識しなくても、無意識のうちに脳内金盾が発動している感じがする。
会社にはわりとオタクな話してる人を見かけるのだけど、なぜか自分のオタク趣味を話したことがない。なんでだろうか。やっぱお金を稼ぐ場なので、お金を稼ぐのに問題が発生しうるかもしれない余計なことを言わないようにする、というリスク回避意識があるのかな。あるぽい。(というか、そもそも会社に雑談できる人があんまりいない・・)
一般論の「酒の席では野球・宗教・政治の話はするな」ってやつだ。
でもインターネットでも、「身バレ・住所バレ・特定されないように気を付ける」というのは無意識にできてるなぁ。といってもリアルで会ったことある人は複数twitterでつながてるけど。
今の仕事一本で生きていけるのだろうか、という疑問は常にある。だから、何らかの生活費を稼げそうなスキルを伸ばすとか、仕事がもらえそうなスキル持ってますアピールをするとか、再就職に有利に働かないかなー?と思ってるんだけども。どうなのかな。
大学生は逆に「SNSでの活動はネガティブ要素になる」と判断しているようで、むしろ就活に見せないようにしてるみたいだけども。
お金を稼ぐ以外の欲求の充足。恋人とか結婚とかは想定してないです。自分の人生にはもう無関係だろうとおもっているから。
将来の不安。
というと大げさですが、自分が提供できる有意義なことはやっておきたい。自分が調べた情報をまとめて公開するとか。ボランティア。アンケートにちゃんと答えるとか、クラウドファンディングをやるとか、知り合いの宣伝をリツイートするとか。
『キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
ほどよく100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。
MCU(マーベルヒーローの映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションやCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。
『キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点だから全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。
でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃんと言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。
いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。
ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者はヒーローに感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍を他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。
アイアンマンやキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面の孤独や、大切な人を失ってしまう絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人が生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローはヒーローでありつつ僕らと同レベルの人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。
マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品の性質上、ヒーローの専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。
その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係のコンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。
そういう内面的な危機を乗り越えた「から」精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。
言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。
この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議な出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。
この構造において、ヒーローの内面的な資格は「不幸とその超克」だ。
でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。
ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。
主人公キャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88の風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女の内面の悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。
クリーの指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐の意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。
映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女が内面的な意味でヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画は破綻してないしちゃんとドライブされている。
これってどういうことなのか? 内面の葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーローの資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?
結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロル・ダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。
この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。
作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代の記憶としてカートレースの事故にあう。子供野球で三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。
そして彼女はなんだかんだ人生につきものの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロット(エリートの象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。
その実験部隊でトラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディ・ローソン博士を助けるために飛行任務に立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。
その実験部隊で同僚でもありキャロルの親友の黒人女性パイロット、マリア・ランボーのセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロットに立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友が主人公を思い返した言葉だ。
この立候補のとき、キャロルはスーパーヒーローの能力を持たない普通の地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである。
能力のみならず、内面の危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきものの特別な悲劇は経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷を帝国に焼き尽くされたりしていない。
この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。
つまりカートレースの事故から負けん気で立ち上がったとき、子供野球で三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロル・ダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーローの資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルはヒーローの能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのものは子供時代と変わらない。
あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。
それはつまり、主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇や喪失も必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数の普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。
これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマの構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。
そのチャレンジがとても良かった。
アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さらに子供をターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要なポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。
日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割の文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカやアイアンマンがいる。
人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。
近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。
『アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。
MCUにおける二大ヒーロー、キャプテン・アメリカとアイアンマンは「能力を持つものの社会貢献」をめぐる物語で対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。
その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女の提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。
困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇だから、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。
主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰に位置すると思うのだけど、政府の超人兵士計画で生まれたキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長で発明家で大富豪でちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面の姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。
その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。
環境が害をなすという考えは昔からあるわけでそういう固定的な位置にある設備や状況を忌場として社を立てたり祀ったりしたものはある
そこにいた人という流動物の時期的なものは碑を立てたりして記念したりする
たしかに傍観者が存命のうちには復讐することで自体を終息させる方法もあるだろうけどその場が再利用されることで再現される可能性を危惧されるから状況を保存して再現を防ぐべき事象にする
ガスがでてる洞窟があって中に入ったら死ぬって知ったら入るなって言ったり入らないほうがいいと指導したりはいれないようにするべき
そういう場を記念させて多くの人を入り口でなぐっては入れないようにする禁忌はありでしょう
ただ今回は自分が唆されてその穴に落とされたのか好きで入って住み心地を求めたが居住空間でなかったために居心地がわるかったのか
居心地を良くしたいのかよくあるべきという目標つまりメリットや社会貢献ほか後続の者に有益性があるかなどがずっかりなく
ただ自己満足したいためにその非難すべきなにかを非難している対象がその忌場でそのステージでさえなければ自分が輝いていたのか満足していたのか
それすらもわからないがとりあえず自分に関係のあった人間が自分に不利益を蒔いていたらしい感想だけ書き連ねているだけなので
当人自身がその忌むべき場所の地縛霊になっていることに気が付いていない
こうやって表に出てこないだけでそういう地縛霊みたいな人はそこそこいたろうけれどもツイッターなんかで発現する場所を得て意味もなく呪いを吐いているようにみえる
大所帯の研究室だが、自分がやっているのはその中で小さなベンチャー企業みたいな感じ。
だが、圧倒的に成果を出している研究室の中での、圧倒的に結果を出してる組織だ。
というか、気力がホボ折れかけている。
研究室にたどり着く前に、人生辛いことがありすぎて、もはや余生みたいな感じで生きている。
ようやく人生の勝負所にたどり着いたと思うけど、もう体力もやる気も人間性もホボ尽き欠けている。
研究に身が入らない。半分、研究とは関係ない趣味に走っている。
でも、趣味もないと研究だけだと多分、卒業までできずに狂ってしまうとも思うから、いいと思う。
アスペみたいな先輩が結構キツイんだけど、それでも毎回ディスカッションなどで成長できるから受け入れている。
先生や先輩方も、自分みたいな奴隷要員を使って、成果を出したいというスケベ心で自分を扱っているのはホボ確実だと思う。
何か言われても角が立たないように、へらへらして、「ありがとうございます、頑張ります」と言って、先輩方が気持ちよく研究に打ち込めるようにしている。先輩達が欲しそうな成果を出せるように頑張って、報告している。
自分は研究成果は出せなくても、一応奴隷要因として働けば、先生や先輩達の論文として、社会貢献できるんではないかなーとは思っている。
アカデミックに残るつもりはサラサラ無いし、つまらない仕事を田舎でやることで人生終わると思う(実家の稼業をつぐため)。
でも、自分が生きた証拠は、多分この研究室で奉仕したことだと思う。
あとの学生生活の時間、キッチリ耐えきって、コンスタントに奴隷やって終わりたい。
個人的な人間としての感覚でいえば、本当に嫌だし辛いし面倒くさい。でも、自分が触知できない、形而上の幸福がそこにあると思う。存在証明みたいな。