はてなキーワード: 実践とは
という本を、北海道新聞に載っている広告を見た父が、母に買ってきた。
もともと母親は血圧が高く、薬を飲むべきレベルにいる人なのだが、薬に対する抵抗感から医者にも通わなくなったし、薬ももちろん飲んでいない。
ちょっとAmazonのレビューを見ただけでも、著者が医者でもない「薬剤師」であることや、エビデンスに基づいた本ではなさそうなことは分かる。
フジテレビのホンマでっか!?TVのように「諸説ある事柄に対するあくまで一つの意見です。」ということを、理解できないレベルの人間は一定数いる。
うちの母親も多分そうだ。
きっとこの本を読んでより「薬は飲まなくても良いんだ。」という持論が強化されることだろう。
これが宗教じゃないだけ、まだマシなのかもしれないが、
この本に限らず、金儲けのためにテキトーな本を売る人間や、その本の広告料で稼ぐメディアが大嫌いだ。
実践することで寿命が縮んでも、この国では自己責任で片付けられるだろう。
どうしたらよいものか。。
東京には凄い人が沢山いる。一流のクリエイター、スタートアップ企業でバリバリ働く人、大企業で大きな仕事を成し遂げる人、一流大学に通っている学生、センス良い暮らしを実践している人、その趣味の第一人者... 皆切磋琢磨しながら輝いていて、東京の人って感じがする。東京に暮らすべき人って感じがする。
一方で東京で暮らしているにも関わらず、どうでもいいような仕事をしている人、ダサい生活を送っている人、薄い趣味しか持っていない人、知的好奇心の薄い人も多々見かける。こういう、東京に暮らしているのに輝いていない人って自分の生活に場違い感を感じていないのか不思議だ。この人たちってなぜ東京に住んでいるのだろう。高い家賃払って狭い部屋に住んで、何も生み出さない人たち。東京に住んでいるにも関わらず何も成し遂げていない、"東京の輝いていない人"って、自己肯定感をどうやって創り出しているのかとても不思議である。輝いている人に囲まれて死にたくならないのかな?
囲碁は理解できない、どう打ったらいいかわからないというコメントが散見される
そこで自分が囲碁を完全に理解するまでにどのような過程・経緯を辿ったのか、経験を記したいと思う
プロの対局などを見て狙いや見どころがなんとなくわかって楽しめる
という定義とする
自分は田舎ゆえに教室も師匠もなくほぼ独学だけで上達したので、独学で上達したい人には参考になるはずだ
もちろん教えてもらう環境にある人はどんどん教えを請うのもありだ
NHKで対局シーンを見たことはあったが、何をやってるのかわからないし
白と黒を使っててオセロっぽいのにどうやらオセロじゃない、盤面が木の定規みたい、とても奇妙なゲームに思えていた。
このゲームがなんなのか、とても盤面からルールを類推できなくて、自分にとって理解できないものは不愉快だった
オセロっぽいのにオセロじゃないなんか得体の知れない気持ち悪いゲーム
途中、小学生の時にヒカルの碁ブームもあり友達が一人ハマっていたがやはりルールを説明されてもよくわからなかった
囲碁のルールを知ったのはずっと後のことで、15歳の時だった。
自分は囲碁のルールをとても難解なものだと思っていたので入門書の薄さにまずびっくりした。
勝手に囲碁の入門者は六法全書のような難解な厚さだと思っていた
手に取ったのは梅沢由香里・著『よくわかる・すぐ打てる みんなの囲碁入門』
あまりの薄さに興味を惹かれ、よくわかる、すぐ打てる?嘘つけと思い立ち読みしてみると
たしかにルールが少なく簡単ですぐ読めそうだったので、子供の時分からわからなかった囲碁をとうとう知る時が来たと
本を買ってその日のうちに読み終えた。
自分は囲碁というものを勝手に極限にルールが複雑なものと誤解していた。
囲碁のルールの単純さと、その単純で最小限のルールから導かれる二眼の生きや手筋などの美しさや不思議さに感動を覚えて、囲碁についてもっと色々知りたくなった
その日以来、途中ブランクはありつつも20年来の趣味となっている
入門書の次に買ったのは詰碁だったと思う
基本というタイトルに釣られて買ったがよく見ると初段~2級と書いてあった
入門者の自分にできるのかと思ったが意外と解けた
この詰碁をやることで「急所」というのがなんとなくわかるようになった
ウチ欠き、ホウリコミなどの手筋も覚えられた
考えてわからないものはすぐ答えを見ても問題なく、囲碁における変化のパターンを知ることが重要
そこでまずゲームを買うことにした
http://www.success-corp.co.jp/software/sl2000/igo/
COMと9路盤で繰り返し対局することで2線のハネツギのあとは守らないと切られて取られることや
当時のコンピューターは激弱だったのでそこそこ勝てたが、19路になると茫漠としていてどう打っていいのかわからなかった
知識が不足しているらしい
9路盤が打てるようになっても19路となると途端にわからなくなったので棋理や格言などが書いてある本を買った
・実利と厚み
・囲碁十訣
・その他格言や手筋
読む前よりはなんとなく19路の考え方をつかめたがやはりこれだけでも足りなかった
特に囲碁の格言はケースバイケースで字面通り実践しても逆にひどい目に遭い役に立たないことが多かった
ツケにはハネよ
ハネにはノビよ
二目の頭見ずハネよ(見てる暇あるならさっさとハネろ)
ここらへんを鵜呑みにしたら大変なことになった
棋譜もNHK杯のテキストや、秀策など江戸時代の棋譜を買って並べた
見ているうちに自然と頻出する定石や変化、筋が知識と入ってくるようになったり
徐々にいい形や勘所がわかってくるようになった
ダッシュ囲碁(現・東洋囲碁。旧タイゼム)で対局をしたこともあったのだが、いかんせん当時は有料だったので高校生の自分には荷が重かった。
本格的にネット対局をしだしたのはKGSと2ch棋院を知ってからだった
KGSがよかったのは無料であることと、部屋という独立したチャット部屋のあるコミュニティ機能があることだ
当時の2ch棋院は人が多く賑わっていて対局したり色々教えてもらった
当時は他にもiGO棋院など有力な対局サイトが複数あり、そこそこ人も分散していて使い分けていた
VIPでも囲碁スレが立っていたりしてiGo棋院が現役のときはたしかVIP囲碁部の活動はiGo棋院で行われていたと思う
その後とても優秀な棋書と出会い一気に棋理に明るくなった
おそらく19路を打つための指針・棋理で一番上達に役立ったのはこの2つかもしれない
依田ノートで生きている石の近くは小さいことや、序盤の手の価値の大小を知った。
厚みに近づくなというのは前述の『ことわざ・格言で強くなる!! マンガ囲碁必勝法』にも書いてあったことだが
その真の意味するところを知ったのはやはり依田ノートのおかげだろう
その後はしばらく休んだり再開したりを繰り返して今にいたる
再開してしばらくは忘れていて前より弱くなるが、少し慣れてきて新たにいろんな知識を身につけると前より強くなりやすい
復帰した後のほうが確実に前より強いのを実感している
また自分で打たなくてもプロの碁を眺めてるうちにいろんな知識が入ってきて勝手に強くなる
囲碁を覚えるまでにこんな過程をたどった自分だが、自分の経験から今ショートカットをオススメするなら以下のようになる
動画やSNS、アプリを活用することで自分が習得したスピードよりはるかに速く"理解"できることだろう
ソシャゲとかが好きな人は『囲碁であそぼ』(iOS/Android)がいい
https://www.nihonkiin.or.jp/news/release/_1220.html
ただ幼児向けな部分が強く、設問が丁寧すぎるので、要領のいい人には簡単すぎてまだるっこしく感じる
この二人の他の著書もオススメ
など
碁会所などのある都市圏にいる人は実際の教室や指導碁、囲碁イベントなどに行ってみる事もオススメする
実際の碁盤で打つのはパソコンでポチポチしてるより100倍楽しいし仲間ができて交流にもなる
純碁は初心者向けに簡略化されたルールで、オセロのように置いた石の数のみを競う。得点のために石を埋めていく過程で死活も理解できるようになるので入門にはオススメだ。
上の3つで小路盤になれたら『みんなの囲碁』や『JustGo』で19路のスパーリングをするといいだろう
『みんなの囲碁』では9子置かせて始めて徐々に石を減らしていくのが良い
『JustGo』にはパワプロのサクセスモードのようなプロ棋士として出世していく「キャリアモード」という一人プレイモードがあるので、COM対戦が好きな人にはオススメだ。名局観戦や問題集、AI解析なども充実している。実写と見紛う美麗なグラフィックも見どころだ
https://store.steampowered.com/app/1862520/_/
対局した後わからないことがあれば棋譜を晒して増田かTwitterで聞こう、囲碁タグをつけてつぶやけば誰かが教えてくれる
Gokibitzというサイトもあり、そこに棋譜を上げると外国人が勝手に怒涛の添削をしてくれる https://gokibitz.com/kifu
ぶっちゃけ囲碁は観てるだけである程度勝手に棋力は伸びるので観る碁をするのもいいだろう
囲碁は有限
今すぐにはわからなくても頭の片隅に入れておけばいつか、あーそういうことかと合点の行く日が来るはず
> 死活がぜんぜんわからない。生きてる所の盤面が自陣の色に変わったらわかりやすいのかもしれないけど。
あるよ
睡運瞑菜(すいうんめいさい) の教えをその友人に伝えるのだ。
宇宙関係の人間の本音としては、正直なところ故障解析手法や大規模プロジェクトマネージメント手法は何十年も前から宇宙開発業界が牽引してきた自負があるので、素人ごときが「失敗と認めないと前に進めない」とか言っても誰に何をほざいてるんだとしか思えないし、言われなくてもお前が想像してるよりもずっと緻密な分析と改善をやるし、それは打ち上げの中止とか成功とか関係なくどんなフェーズでも息をするように日々やってるわ、という感じ。
補足すると、故障解析やプロマネは米国を中心に宇宙業界で研究・実践され、それは国際プロジェクトで各国の宇宙開発機関で共有され、またそのノウハウは後から他業界へ広まっていったという経緯がある。
おばさんと一緒に実践しよう♥️ちゅ♥️
鎌倉時代の僧侶、法然は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、人々は救済されると唱え、多くの民衆から支持を集めました。
現代の聖人 xevra は、「睡運瞑菜(すいうんめいさい)」こそが、人類を救うという教えを広めました。
https://xevra.hatenablog.com/entry/2019/01/03/234125
https://anond.hatelabo.jp/20190118204653
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/komei48/status/996028624749772800
はてな村流の精神安定術の「睡眠運動瞑想野菜」(睡運瞑菜)とは?
それを乗り越えるためのやり方みたいなのは元増田だったらたくさん勉強していると思う。
なんだっけ?ランニングをするのではなくてランニングする服装に着替えてシューズを履くところまでを目標にしましょう、とかそういう感じのtipsみたいなやつ。
なんか知識としては知っていても実際にはやってないやつもたくさんあるだろ?
って感じでそういうやり方をホッテントリなんかで読んでも
昨日話していて、いわゆる「エモい」シナリオを好んでやる人が感じるような、シナリオ内のPCの個性が発揮される盛り上がりどころが、実は自分と全く真逆なんじゃないか、という話になった。
まず前置きとして「エモシ」の盛り上がりどころを整理しておく。
僕の観測する限り、「エモシ」「タイマンシナリオ」「うちよそシナリオ」の様なものは、何か決定的な断絶、齟齬、障害などがあって、その上で、「自分がいかに考えているか」「自分がいかな覚悟であるか」「あなたの気持ちをどう受け止めたか」みたいなことを思い思いの形で精一杯RPして、それが何かEDだったり、その後のPC間の関係性に寄与していく、みたいな形式を実質的に取っているものが多いように感じる。
次に、こうした盛り上がりどころが、実際の時系列の中でどのように展開するかについて話す。これは分かりやすい所があるだろう。つまり、「何か気持ちを表明する」シーン(シナリオ内の要請)があって、次にそれ以外の日常がある。それが経過すると、また「何か気持ちを表明する」シーンに導かれていく。「エモシ」に複数行くような探索者はそうした構造を取っていると思う。
これを盛り上がりどころとして捉えている人からすれば、探索者の日常は以下のように整理できるだろう。
__/\__/\__/\__/\__
山になっているところがシナリオであり、「盛り上がりどころ」であり、言葉での表明である。そして、それ以外の所が幕間になる。
最初に真逆と言ったのは、このことだ。これが僕にとっては、以下のように見えているのだ。
/\__/\__/\__/\__/\
つまり、「その後の日常」こそが「盛り上がりどころ」であり、「何か気持ちを表明するシーン」は幕間に過ぎない、ということだ。
ここで疑問に思う人もいると思う。「なぜ日常が盛り上がりどころなのか?」と。全然盛り上がっていないじゃないか、と。最もだ。これを説明するために、「盛り上がりどころ」とは何なのか、という話をしたい。
ここで言う「盛り上がりどころ」とは、必ずしもストーリー上でテンションの上がる瞬間のことではない。PLが、真に価値があるとみなしていて、PCの行動のここだけは見ておきたい、と思う様な、その行動を見ればPCについて分かる、と確信できるような瞬間の事なのだ。
つまり平たく言うと、「エモシ」を好んでやる人は「探索者が自分の胸中をカミングアウトし、言葉によってこの先の展望を語る」シーンに魅力を感じているのに対し、僕は「それが全て終わった後で、実際に探索者がどのように動いているか」が確認できるシーンに魅力を感じているのだ。もちろん、僕も探索者が胸中を語るシーンに魅力を感じないわけではないし、逆もまた然りだろう。ただ、相対的にどちらに価値を感じ、どちらが「おまけ」であるかという点において、両者は明確に別れるのではないだろうか。
僕がなぜそのように思うのか、を先に話しておくと、「言葉で語った内容と、それが言葉通りに実践されるかは全くの別問題である」「むしろ、PCの胸中が『どのように実践されたか』が重要なのであって、それを言葉に出す必要はない」「それどころか言葉にすればするほど、特に安易にシナリオの要請によって言葉にすればするほど、それは陳腐なものになってしまう」と思っているからだ。実際にどんなドラマティックなRPをしていたかよりも、胸中が実際に行動やRPに「にじみ出る」瞬間の方にはるかに価値を置いていて、積極的に表出する必要性を感じていないということだ。
このような背景事情があるから、僕はシナリオ内で「探索者の覚悟を聞かせてくれるように」シナリオが要請するシーン――例えば、シナリオのキーマンにクリティカルな問いを問いかけられるようなシーンや、PCやKPCに自分の胸中をカミングアウトしなければならないようなシーンなどだ――をあまりシナリオの面白い瞬間として感じてはいない。しなくてもよければしないほうがいいし、するにしても必要最小限にとどめたい、というのが本音だ。それ以降感じていることは、PCの行動から読み取ってほしいと思う。
しかし、おそらく「エモシ」を積極的に楽しめる人――TLの多くの人は、そう感じない人が多いのではないかと予測する。ここで、話していた相手から面白い指摘をもらった。要約すると、「女性の場合、期待や理想を胸中に描く傾向が強いので、『RPでその胸中を強く示された』ならば、それが理想的な形で実行される(つまり、その後の『どのように実践されたか』の部分)のは当たり前のことであり、確約されていることだ。だからこそ、『どのように実践されたか』ではなくて、『どのように確約してくれるのか』の方に興味があるのではないか」というものだった。
目から鱗が落ちる思いがした。僕は今までずっと疑問だったのだ。「なぜ安易な形でシナリオに『決意』を吐かせられるようなシナリオを好むのか?」「そうして吐き出した『決意』の分だけキャラが薄くなっていくのではないか?」「なぜ、そうした『決意』なき形でのRPでのキャラ性の表出(自他問わず)は汲み取ってもらえないことが多いのか?」という様な疑問だ。(悪い言い方をある程度はしている。申し訳ない)
これらはすべて違ったのだ。むしろ、周りの人間にとっては、『胸中』と『その行動の反映』が完全に紐づいているのだ。そうだとするならば、『胸中』さえ明らかならば未来は約束されている。
これはちょうど、「二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」の部分の話だと感じた。シンデレラがどのように王子様と結ばれたか、白雪姫がそのように王子様と結ばれたか、というのさえわかれば、その後の「めでたしめでたし」は確約されるのだ。逆に、そこがうまくいかない人魚姫は水の泡になってしまう、ということだろう。
そこを僕は「でも王子様も、シンデレラの事なんか何も知らないんだから、その時にいくら愛情を表明しても持続するとは限らないよね」と思ってしまう。「めでたしめでたし」を信用しない気でいる。そうした期待や理想をあまり強く持たないからこそ、あるいはその理想は行動によってしか反映されないと思っているからこそ、「行動」の部分を説明したくなってしまう。
逆に周りの人にしてみれば、ドラマチックで最もおいしい部分を飛ばして、「めでたしめでたし」の部分だけに注目しているように映るのだろう。そりゃつまらないに決まっている。
僕が「うちよそシナリオ」「タイマンシナリオ」に行きづらいと思っていることについて、かつて「探索がしっかりしていてシナリオ強度があるシナリオなら行ける」と言ったことがあるのだが、これはこの話に直結している。「『安易な』RPでの『表明』を求められないシナリオがよい」ということだ。
であるから、ここには(まだこれを男女差と断じるには早いとは思うが)かなり大きな趣味の断絶があると感じた。人間のペルソナの切り取りをシナリオで行っているとするならば、おいしいと思う部分がそれぞれ違う、どころか、むしろ必然的な興味の差によって、背反の形で別の部分を切り取り合っていたのかもしれない、と思ったからだ。
これを読んでいる人がまだいたら(よく長い文を読んでくれたなとも思うが)、そうしたこの人にとっての「RPの骨子であり、味わいどころ」はどこなのか、ちょっと探ってみると、気持ちのいいRPがし合えるんじゃないかと思う。相手の面白いと思うところはちゃんと汲み取ってあげたいし、同様に汲み取ってほしいからね。
最後に、僕に今まで「決意や胸中を表明させる」シナリオを回してくれたKP諸君や、同卓者諸君に。面白いシナリオ体験だったと思っています、ありがとう。
肩書がないと自信がもてなくて異性をはじめ人間関係を作れないことが人生の選択肢を狭めている。そこのところは本や情報漁るなり実践するなりして課題として解決していかないといつまでたってもうまくいかないと思う。
司法が現実的に可能性あるなら必死で頑張ろう。就職は誰しも苦労するし、レール外れてからだと尚更大変なのは確か。正念場と思ってやるしかない。司法が現実的でないなら仕事探すしかない。最初からすごいところとは思わず目標のところに人脈でステップアップできそうなところを狙っていく。
親とネットしか人との関わりがない環境だと思考が偏ってくる。コミュニティなりバイトなり公的な相談窓口を活用するなりしながら、何が自分に向いているか、現実的にどういうステップを踏んでいけばいいのか整理しよう。
知的作業の本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学、もっと一般的に言えば、純粋に記述的なレベルよりも高いレベルで経験を解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。
ほとんどの人が、数学は経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学の技法とはいくつかの決定的な点で異なる方法で実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。
まず幾何学。力学や熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンのプリンキピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的な形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定を裏付ける物理的な洞察と、定理を裏付ける実験的な検証が存在する。
ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理が疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験的性格にあった。数学的論理的な分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである。
ボリャイ、ロバチェフスキー、リーマン、クラインが、より抽象的に当初の論争の形式的解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論が発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋に数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解を修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学と一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。
第二に、微積分学から生まれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものである。ケプラーの最初の積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的に力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学的精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスやヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配が基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマンの科学的な性格そのものが、数学の二重性を最もよく表している例である。ワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学と論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想を払拭した。
ここで、第三の例。数学と自然科学との関係ではなく、哲学や認識論との関係である。数学の「絶対的」厳密性という概念そのものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学的抽象性以外の何かが数学の構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである。第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論が経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定は必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学の経験的起源は幾何学と微積分のような事例によって強く支持されるということ。
数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。
極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法で研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代の数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解に合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身の基準にかなり満足していたようである。
イクメンムーブを決めて世の父親に説教をして母親の味方を気取り、今は妻子を捨てて女として生きてるりゅうちぇる。
手のひらを返して、などと言われるが彼は一貫した考え方の持ち主だと思う。
女性たちから絶賛を集めたイクメンとしてのりゅうちぇるが世の父親に`こうすべき`と語ったものは家庭の側から見れば理想的かもしれない。
だが、家庭は社会の中で存在しており、最も家庭に利害関係のある社会である父親の勤め先からすれば各種メディアでりゅうちぇるが語った事を実践すれば迷惑な同僚になるだろう。
つまり、外の事はお構いなしに家庭という`自分たち`さえよければそれでいいという父親でいようと言ってるようなものだった。
日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。
私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。
ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。
私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。
淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。
当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。
すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。
かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。
君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。
淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。
君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。
「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。
君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。
私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。
ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。