はてなキーワード: 受診とは
どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。
これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人の自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。
・生い立ち
私はごく普通の環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分は一言でいうと優等生気質だった。学校の勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプの人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。
小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋な身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からはブラスバンドをやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。
中学では周りの部員が吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽室から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師が黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔な信者であり、親や先生にほめられている優等生の自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間性からどこかで破綻すると思っていた。
高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラルや教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校の部活は軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問が専任を希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプの人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力。中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人にアプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験はもっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力の限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しかし高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生からも勉強ができるという認識をされていた。
3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本や演出を担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通に大学に行くねとなった。
問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。
「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」
親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊な制度をもつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内の大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。
1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。
「大学では勉強、サークル、恋愛、バイトのうち2つしかできない」
勉強は好きではないので、サークルとバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオで個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金がショートした。親にバイト禁止されていたため練習や交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。
大学の授業はひどく不親切であった。大学のレベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義で解決してしまうものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかりやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間の無駄に思えて次第に講義も休みがちになった。
それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなものが大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。
・崩壊
初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生を謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義も存在しない。正義と道徳に立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。
そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから、黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分の無能さを騙して生きていたのかもしれない。
さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費の負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動は事実上全部やめ、バイトと勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情を説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。
人にやさしく優等生してきた自分の生き方への批判と自分が仲良くしている人たちへの非難のダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。
数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルやバイト、恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分の無能が隠せなくなってしまったのである。
3年目は再びバイトを禁止した。クラスでの試験対策の仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだり大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分で学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境のサポートがあって自分で勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。
公正世界仮説、評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学のいじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。
・専攻決定
4年目にして2年生。この年は諸々の事情でクラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。
そして、4年前に選択を先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強は面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職は卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。
理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学のシステムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間に選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。
このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。
5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。
3年生の必修は実験だけだったので、他の単位を犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単な文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。
溜まりに溜まったレポートは夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。
4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続きと入試勉強、足りなかった単位の試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。
学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力が要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。
親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなたは世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般の評価が邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。
やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークルで作曲を体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。
・進学と私
大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部生時代に夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたからである。研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないから就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。
私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。
そこそこでかい病気をしてしまってしばらく実家から通院してたんだけど、仕事に戻るために東京に帰ってきた。
でも東京の病院はいま混んでるみたいで全然予約取れなくて、予約取れたのずっと先で、受診までに薬なくなっちゃうんですけどって言っても前の病院に相談してくださいって一点張りでさ。実家は飛行機の距離だから、気軽に薬もらいに行くとかできないし。実家の方の病院に相談したら薬を送ってくれるって言ってくれて、それはなんとかなったんだけどさ。
なんかさ、適切な医療を受けられないじゃん、東京。って思った。
持病持ちが暮らせる土地じゃねえよ。
カウンセラーじゃないんだからもっと優しくしてほしい〜とか言うのはお門違いだってわかってるけど、それでも、病人にとっては病院から突っぱねられたらなんか見捨てられた気持ちになっちゃうんだよ。こんなん理屈じゃないけどさ、なんかもうちょっとさあ、って。
いま病院がめちゃくちゃ忙しいだろうってのもわかるし、わりと日本死ね案件だとは思うけど、いや〜〜病人こんなところで暮らせねえ……って思っちゃった……。東京に仕事があるから諦めて暮らすけど、もはや適切な医療を受けたいと思うのは贅沢なのか。
健康診断で数値が悪いところがあったから近所のデカい病院で見てもらおうと予約しようと電話したら受け付けのひとに「カルテに診療拒否って書かれてる。だから受診できません」って言われた。
理由は、11年前の日付で「予約をしたのに来なかったから」と書かれているそうな。
なんとなく覚えてる。
むかし夜中に体調おかしくなって車でそこ行って夜間診療を受けた。
その時に検査をして、結果あるから来週来てくださいって言われて、そのとおり次の週に行って説明を聞いて終わった。
ここから俺と病院とで食い違うんだけど俺はそこで診療が終わったと思ってた。
病院(というかカルテを書いた担当医)は次の週もう一度予約をしたという。
覚えてないし、もしかしたらそのとおり俺が予約したのに来なかったのかもしれない。
そこは内科なんだけど一般受付でもそうだし、救命救急でも出禁なので行けないそう。
それ以外の科はその時々の判断によるらしい。
直接的に困ることはないけどなんか怖いな。
受診させた方がいいぞ
私のケータイ(スマホ)にはワンセグ、フルセグが付いていない。
購入当初、当然その機能が付いていると思っていたので驚いた。
がしかし、「ケータイに受像機能が付いてんだったら、TV(受像機)持ってなくても受診料払わせるぞ!」の一件以来、
無くなったんだなと理解した。
そして昨日の夜中の地震、NHKの大罪を改めて思い知らされた。
停電していた地域の人達で、私と同じようなケータイを持っていた人たちは、
情報収集に困った事だろう。
「いや、だから、こういう時のためにこそ、受信料払えよ」とでも言いたいのだろうか。
碌でもない番組にお金をかけ、見る事のない人たちにその金を払わせ、
NHKの職員が高給を得る仕組みに我々は何故付き合わされなければならないのか。
腹立つなー。
今年度、畑違いの部門の管理職になって、上司はパワハラ気質なのもあり、
仕事は早々に行き詰まりを感じ、さらに上司が感情的に怒るの繰り返し。
半年くらいは耐えていたが、だんだん辛くなってきて、不眠に加えて、
精神的な落ち込みがひどくなり、休みたい、会社辞めたい、なにもしたくない
とうつ状態が強くなってきたので、このままだと本当に動けなくなると感じて、
自宅からさほど遠くなくていける範囲のクリニックを探して電話をしたのが土曜日。
予約が2週間先とかがざらっていわれてたり新患受付してないとかあるとかも
ネットで調べてた時に目にしたけど、運良く日曜日を挟んで今日受診することができた。
電話では体調や精神状態がどんな感じかとか今どんなことに困ってるかとかを
すごい親身に話を聞いてくれた。
■受診当日
クリニックの入り口に消火設備がどうのとか非常口がどうのとか貼り紙がしてあって、
そういう追い詰められた人が来るところでもあるんだなとも感じた。
診察では、先日の予約電話で話したことの他に、今の生活の状況とか症状、
心理テストみたいなのもやって、中等度のうつ状態っていうことで、
なんとなく実感とあってる感じだった。
で、そのあとはカウンセリングとは違うんだろうけど、
仕事の話とか仕事でどんなことがしんどいかとかをじっくり話を聞いてくれた。
途中で長いなぁとも思った(学歴とかキャリアのことって関係あるのって気がして)けど、
自分のつらい症状とか困ってることを親身に聞いてくれたことはとてもありがたかった。
ひとまずは生活を整えること、とりわけ睡眠をちゃんととるように(とれるように)とのことで、
うつの薬の処方はなく、睡眠のお薬を1週間分処方してもらった。
1週間薬を飲んで、薬が合うかどうかとまたお話を聞かせてくださいとのことで、
お薬が無くなる前の日程で週末に次回の予約をした。
今日から睡眠の薬を飲んでみるけど、劇的な変化があるとは思えないけど、
そして、来年度は異動願いをきちんとしたためよう。
・これまで大きな手術の経験なし
11月はじめ 左と比べて右の玉が大きくなり、かなり痛くなる。痛み止めを処方してもらい痛みはなくなったが、大きさは変わらず大きいまま。痛くなくなったので放置した。
精巣腫瘍の可能性ありということで大きな病院を紹介してもらう。
3月はじめ 大きな病院で検査して精巣腫瘍の可能性が高いという診断。いわゆるがんマーカーの数値や、CTの結果では転移なしの診断
明日 手術。取るらしい。
来月 取った玉を検査して結果がわかるらしい。
ネットでは10万人に1人レベルだけど20代30代には多いって書いてあって、良くも悪くも最近話題になった乳がんのポスターみたいに当たっちゃった気分です。運がいいのか悪いのか、見える範囲で転移してることはなかったようなので、このまま定期的に通院検査して早めに対処していけば元気に生きていけそうなのは本当によかった。。
ただ、3ヶ月前にちゃんと病院行っておけばよかった。もし悪化した場合後悔すごいと思うので、もし少しでも気になることがある場合は若くても遠慮なく病院行ったほうがいいということを学んだし、周りにも大きな声で広めたい。精巣腫瘍に関しては奥さんや彼女が見つけることも多いらしいです。(見られる人いないし自分で見てわかりましたが……)
手術や入院に入るにあたって待ち時間がかなりあったので書いてみました。手術については1時間位らしいけど全身麻酔やその後の疲労感や痛み、仕事すぐ戻れるかなど結構心配です。
とはいえ、今のところも元気だし、お話聞く限り現状できる検査の結果上はそこまで進行してなさそうなので、あまり気にしすぎずやっていければなと思います。たまに会ったときは話しさせて〜〜
諸々の日程が定まったので上司へ連絡
人事にも連絡
喉に若干の違和感、少し咳が出る
喉の違和感は弱くなっていて咳もほぼ無し
十中八九風邪だろうけど念のため予約無しでPCRも受けられるクリニックへ行く
体力の回復を図るため午前は寝て過ごす
午前3時に起床
37.3度、頭痛がひどい
昼には解熱し36.6度、頭痛が少し
下の子の鼻水がひどいためかかりつけ医へ連絡するが保健所に聞いてくださいとのこと
忙しいであろう中こちらから連絡するのは迷惑かなと思ったがとても懇切丁寧に対応してくれた
ただしホテル療養の場合は濃厚接触者の外出禁止期間短縮(接触していないから)
両親ともに発症している場合は往診を手配しているが、片方が未発症であれば通常通りの受診をお願いしていますとのこと
でも薬局には薬を取りに行っていいとのこと(処方箋は病院から薬局へ直接渡してもらえる)、あまりwebの意味がないのでは?
一刻も早く上の子を保育園へ登園させないと家庭が崩壊するためホテル療養を申し込む
名前生年月日住所検査した医療期間基礎疾患これまでの体調等を確認される
先程と話が違い、濃厚接触者の健康観察及び外出禁止期間は9日まで、10日から外出可能とのこと
私「私が自宅で過ごしていても日数は変わらないんですか?」
職員「変わりません」
私の発症日が2日だとしても10日間はウイルスをばらまき続けるわけだから濃厚接触者の外出禁止期間の起算日は10日間更新され続けるのでは?
ホテル療養については制度を案内されたが食配には何も触れず(パルスオキシメータがないと健康観察できないのでは?)
早口で、疲れている印象を受けました
保育園に連絡
私「2日に発症して3日に陽性判定でました。保健所は10日から登園可能と言っていました」
園長「確認の結果受け入れOKでした、10日から登園してください」
いいのお?
健康状態を入力するがパルスオキシメータがないので血中酸素濃度は未入力
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00060.html
よくある質問の1によると登録できなければそれはそれでよいらしい
なるほど
20時に起床
夕食入浴
13日以降はホテル療養させてあげたい
薬を飲んで横になる
鼻がつまって眠れない
夜の方が体調悪い
朝は体調が悪い
36.5度熱は無し、息苦しさと倦怠感
妻が様子を見に着たので体調が悪いと伝えるとぶちギレ
ホテル療養決定の連絡
明日午後に迎えがくる
「はてな匿名ダイアリーを使ってるという時点で精神病患者なのは明らか」
もともと特別仲が良かったわけではなくて,よく空気のような存在とか言うけど,いなくては寂しいけど一緒にいればそれなりに喧嘩もして,なんとなく一緒に暮らすようになって,親も結婚結婚と煩くなり,半分以上はそれが原因で,のこりは不安定な関係がすこし落ち着いて,その空気に近いようなものになるのを期待して,俺から言い出して結婚した。彼女はその後しばらく無理やり結婚させられたと言っていたけど,子供が生まれた頃にはそれもあまり口にしなくなった。彼女はもともと精神的に不安定な人で,気分が悪いといって連絡もせずに仕事を一週間くらい休むようなこともあって,そんなに調子が悪いのなら医者にかかってはどうだというと医者は嫌だ自分で治す,自分は自律神経失調症でたぶん精神科にかかることになる,そうすれば薬漬けになる,私はそういう人を知っている,薬で常にぼうっとしている,自分はそんな風になるのは嫌だと言われた。子供が生まれた後は輪をかけて不安定になって,俺もそれほどストレスに強い方ではないから,お互いにつらい思いをしたんだと思う。俺は俺で仕事が上手く行かなくなり,家に帰れば彼女がそんな状態で,ある日突然職場に行けなくなり,職場から精神科の受診を薦められて,うつの診断を受けた。彼女が言ってた薬漬けの状態になり,仕事は休職して,自宅で過ごすことになった。仕事というのはそれなりに精神力を使うものだったようで,自宅でなにもしない生活をしているうちに,復職が怖くなってきた。休職と復職を繰り返すようになって,結局その職場は退職することになった。彼女は生活に不安はあったものの,やり繰りの能力は俺よりはるかに高かったから,半年は凌げるからとりあえず心配しなくていい,自分にあった仕事をさがしたらと言ってくれた。辞めて半月もしないうちにたまたまあまり変わらない条件で雇ってくれるところがあって,うつであることを隠して就職した。新しい職場は勢いもあり,上司も俺を買ってくれていたので,忙しいながらも充実した毎日だった。妻もその時期は比較的安定していたようだったけど,働き始めて半年後,その上司が突然亡くなった。職場の体制も代わり,それまで期待されていたのが傍流になり,また仕事が辛くなってきて,ほとんどやけでお義理程度の仕事をして過ごした。すさんだ気持ちが家での態度にも出ていたんだろう,彼女にも相当のストレスをもたらしていたようで,そのことを何度か口にしていた。それまでは彼女と子供と一緒の部屋で寝起きしていたのだけど,なにかのきっかけで俺だけ別の部屋で寝起きするようになり,彼女と子供の寝室に入ろうとすると嫌がられるようになった。そのままだらだらと何年か過ごしていたのだけれど,ある日役員から呼び出しがかかり,職務態度を理由に降格か自主退職を迫られ,不服もあったけど職場での自分の態度も好きでは無かったし,たいして思い入れのある職場でもなかったので,何も考えずまた退職した。ただ呼び出しがかかった時点ではなんとなく退職を迫られるのではないかと思っていて,それまでそれなりに安定していた精神状態が一気に不安定になって,職場から彼女に退職することになるかもしれないと電話をすると,思い込みだけでいちいち電話して来ないでくれと言われた。結局思い込みでもなんでも無かったのだけど,前の転職より条件は悪くなるだろうから,今より狭い部屋に引っ越さなくてはならないかもしれない,そうしたらまたみんなで一緒の部屋で寝起きするようになるかもしれないけどどうすると聞くと,仲がいいわけでもないのに一緒に寝起きできるわけ無いよねと言われた。この言葉にはさすがに俺もショックを受けて,もう何もかも嫌になって,内服をさぼって大量に手元にあった精神安定剤20錠くらいを酒で流しこんで,あやふやになる意識で,このまま救急車で運ばれて,その先で死んだらなんにも考えなくていいなあなんてぼんやり考えていたら,どうやら自分で救急車を呼んだらしく,気がついたら部屋で寝ていて,腕には採血されたらしく絆創膏が貼ってあって,彼女から薬を飲んで自分で救急車を呼んで近所の病院に運ばれた,救急隊員に昔の職場に運んでくれと言っていたらしい,連絡先がわからず実家に連絡が行き,病院に親と兄弟が呼ばれて,そのうち彼女に連絡が取れたらしいのだけど,過去に辛いことがあると何度か大量に薬を飲んでフラフラになっていたのを知っていたので,また俺の嫌がらせだと思って今すぐ行かないとだめかと答えた,来ないと困ると言われたので子供と一緒にタクシーで迎えに行った,医者はこの程度の量ならたいして問題ないと言われたので連れて帰ってきた,近所は何事だと思っているだろう,という説明をされた。その頃からもう家族である必要もないしたぶん別れたほうが楽だろうなと思い始めた。友人に散々諭されたので,それから大量に薬飲むような事はしていない。彼女は働いていないし,家に金を入れずに何ヶ月も過ごすほど余裕も無かったので,知人が紹介してくれた,それほど興味もなかった職場に入職した。給料が下がって生活も苦しくなったので,どうも彼女も危機感を感じたらしく,働き出したようだ。保証人になってくれと言われたのでなにか書類を書いたのは憶えているけど,どこで働いているのか,いつ働いているのかも知らない。そのうち家で一言二言交わしてた会話も全く無くなり,ここ数ヶ月は全く口も利いていない。大体帰ると彼女らの部屋から彼女の子供を叱る声が聞こえてきて,一度それがストレスになるからもうすこし声を抑えてくれと言うと,必要だから叱っているのでそれは無理だと言われた。子供はなついてくれてて,俺が帰ってくると俺の部屋に来て,その日あったことを一通り説明して彼らの部屋に帰っていく。食事は用意してくれている。一度当直のときは言ったほうが良いかとメールで聞いても返事が無かったので,食事が不要な時も何も伝えていないから,家に帰ろうが帰るまいが用意しているのだと思う。用意しなかったときは食事してきてくれとメールがあったけど,夕食は家で取らないからもうメールはいらないと返事すると,それ以降なにも返事がなかった。でも相変わらず夕食は用意されている。もう彼女と俺との関わりはこの夕食だけで,もうそれすら俺は嫌になっている。子供に対しての叱り声やあきれたような声は相変わらず聞こえてくる。声が大きくなると俺はそれに合わせてオーディオの音を大きくする。そうしないとやりきれない。退職を機に再発したうつで精神科からもらっている薬を飲む。それでもちっとも変わりゃしない。俺の残りの人生はたぶんこの繰り返しだろう。もう生きるのが面倒くさい。同じくらいに離婚も面倒臭い。いいことなんかあるはず無いし,あったとしてもたいして興味もない。今日寝てそのまま目が覚めなかったとしても,後悔することが何もない。子供はかわいそうだけれど,母親にはとてもなついているし,まだ小さいので,父親がいなくなるのは早いほうが多分いいだろう。傷つくとしても小さくて済むと思う。生活は遺族年金があるだろうし,俺の生命保険もでるだろうから,相応の生活は送れるんじゃないだろうか。だから家族のことも心残りにならない。仕事はもとからどうでもいい。友人とはしばらく会っていない。俺が死んで困る人はいないと思う。誰かが悲しむことも想像できない。むしろ望まれているようにすら思う。一番望んでいるのは俺自身だ。ここまできたら死ねばいいと思うけど,怖くてなかなか死ねない。歩道を歩いてて車が突っ込んでくれるとか,そういうのを毎日期待して過ごしている。もう残りの人生は心の底から要らない。そして,なんでここにこんな事を書いているのかもわからない。
心療内科の選び方ってどうすればいいんだよ。
いろいろな症状を単なる甘えの可能性を捨てきれないと思えど、行ったらなにか楽になるんじゃないかって思えて医者に相談できるところで相談して、近くに病院あるかを調べてみたけど、意味わからん。
初診は絶対対面らしいけど、どういうところがいいのかわからないし、外出するのが怖くて受診したいのに遠出するのも馬鹿らしいし、かといって近場が自分に合ってなかったらと思うと、もうそれだけで嫌になる。
死ぬ勇気はないけど、頑張るくらいなら死について考えているほうが楽。
賃貸の借りている部屋だから実行したら迷惑かかるけど、交通事故とかの事故だったらお金かかんないのかな。
楽しいと思うこともあるから鬱とかじゃなく単なるメンヘラだと思うけど、コロナ禍でたくさん出かけてコロナになって死んでおけばよかった。
ウクライナの死にたくなくて行きたい前途有望な人たちじゃなくて、私みたいな死にたいと思うもできない人間が死ねばみんな助かるのに。
痛いのも苦しいのも嫌だけど、もし私に兄妹いるか小さい頃の自分を最初から育てなおせるか受精卵がなんか違うなりすれば、もっとちゃんとした人間になっていた気がする。
とりあえず今年中に死にたいと去年も思って今年もできないままなんだろうけど、私じゃなければ親にとっても子供にとってももうちょっと誇らしく生きやすく平穏な人間になっていたのかな。
都内30代共働き、息子2人保育園、親はワクチン2回済み、上の子だけ陽性で10日の隔離+最終日から7日の自宅待機中。先が見えてきたので書いてみる。疲れたよ旅行行きたいよ行けないけど!
注:たまたまごく軽症だったけど、コロナは風邪派ではないよ!結果は運ゲーだよ!!後遺症も気になるし打てるようになったら子にもワクチンすぐ打つよ!