はてなキーワード: 勲章とは
追記(意図しない読み取られ方があるので前に移動しました、誤解を招く表現だったことおわびします)
私は、書き忘れていたが、日本国憲法第14条に規定される属性による区別は当然のことながら差別だと考えている。私があげた絶対不可能な属性による区別の話は憲法上規定されていない属性に関してそれが差別かどうかを判断するガイドラインとして扱ってほしい。
日本国憲法14条
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
社会的身分には職業が含まれると考えるのが相当であるので、私も職業差別には反対の立場であることは変わりない。
そもそも先述のガイドラインにたどり着いた理由を説明すると、すべての人には自由があり、差別として行為の禁止を行う余地はできるだけ小さくしておくべきという私の価値観がある。ただし、生来変更不可能な属性に基づく差別は第三者による救済が難しいものが多いため、差別禁止によってもたらされるデメリットよりもメリットのほうが圧倒的に大きいのはほぼ間違いないであろう。一方で生まれてから少しでも選択の余地のある問題に関しては差別を禁止するよりも、その人が選択できる余地を増やすことを通した救済が比較的行いやすい。そのためそのような問題に関しては差別の撲滅に注力するよりもより救済を行う方へ注力するほうが望ましいと考えている。
加えて合理性を求めるひとがいるが、およそ全て人間はバイアスを経て観測した世界に対して最も合理的な行動を常にとっている(たとえそれが周囲に人間にとって不合理に見えたとしても)。合理性は客観的なようでその人の価値判断や目的などに左右されるきわめて主観的なものである。この文章は私にとっては合理的に思えるが、読む人にとってはそうは思えないかもしれない。合理性とはきわめて主観的かつ相対的なものなのである。ただ、社会的な意味での合理性は人々の議論を通じたコンセンサスの形成によるものであるので、成熟した議論を経た後での差別の描像がはっきりとより多くの人に共有されることを望んでいる。
追記ここまで
中学受験に関しての増田を端に発した議論がはてな界隈で盛んになっている。
大方ブクマカのダブルスタンダードを批判したものであるが、そもそも差別がはてなーすべて同じ意味で使っているとは思えない。例えば公立中学に通っていたことを黒人になぞらえて批判しているエントリがあったが、肌が黒いことと公立中学に通っていたことが全く同列に扱われるべきものとは現在の社会通念に照らしてもあまり一般的な考えではないと私は考えるが、その増田にとっては同じようなものとして考えていることは明らかである。その是非はともかくとして、現状においては差別は各人それぞれによって定義されるものといって差し支えないため、さまざまな形態の区別を明示し、その日本の社会およびはてなでの受容のされ方について考えるとともに同時に私見を述べてみたい。なお、どこから差別と考えるかは各人に委ねたいと思うのでここから先ではあえて「区別」という言葉を使う事にする。加えて強調しておくが、これはあらゆる社会通念に照らして問題とされている差別を肯定するものではない。差別とは何かを考える指標としていただきたい。
これははてなーはもちろん、現在の社会通念上認められていないといって差し支えない。特に性別についてはこれを支持する判例も存在し(e.g. 最判昭和56年3月24日民集35巻2号300頁 いわゆる日産自動車事件) 、これはおそらく論ずるまでもなく明らかである。ただし憲法の私人間効力については間接適用説が主流となっているため、例えば三菱樹脂事件のような判例も存在する。ここでは憲法の議論を意図したものではないのでこれ以上は触れない。
これは最近聞かれる医療従事者への偏見にも関連している。社会的な建前としてはおそらく差別だと認定されているが、実際としては差別だとする意識が1.ほど完全に浸透しているとは言い難いところがあるだろう。おそらくはてなーに聞いてもこれは差別だと(それが建前であっても)答えると思う。なお、実際にHIVについては陽性者に対し無断で検査を行い陽性だったことを理由に解雇した事件についてはその解雇が無効であるとした判例も存在する(千葉地判平成12年6月12日労働判例785号10頁)。
このあたりから判断が難しい。現在、社会的に定年制は受け入れられている(是正しようとの動きもあるが)ため、年齢”差別”という言葉が社会的にまだ受け入れられていない可能性は高く、受け入れられるにしても近い未来ではないだろう。おそらくはてなーでもこのあたりから認識が分かれ始めると思う。以前あった私立医科大学が女子生徒と多浪生を意図的に排除していた問題にあってはこれを問題視する風潮がはてなにはあったのは覚えている方は多いと思うが、定年制への問題視はあまりなかったように思える(これは自分の印象)。なお、判例においては定年制は公序良俗には反するとは言えないとの判例が出ている(東京地判平成6年9月29日判時1509号3頁)。
これは今渦中にある問題である。実際として就活においてはいわゆる学歴フィルターは存在しないと断定することはできず、存在するものと考えるべきだろう。しかも厚生労働省のガイドライン(https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/saiyo1.htm)にも採用の可否を決める要素となってはならない項目の中に大学名・学校名に該当する項目は存在しない。少なくとも採用の場においては大学名のみによる扱いの差を設けることは認められているといって差し支えないだろう。私の周りを見渡しても実際学校の評判とそこへ通っている生徒への評価が関連づけて語られることも多く、私的な場においてもこれがタブーとされているとは到底言えないであろう。実際はてなーでも公立中学を「動物園」とまで評する向きもあることからそこまでのタブー視もはてなーの中にはないと言える。
いわゆる「オタク差別」などを念頭にしたものである。これを例にとると過去には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件などに端を発したいわゆるオタクへの偏見があった(が、現在の社会では薄いものとなってきていると私は感じており、マクロな視点に立つならそもそも区別が存在しなくなってきているのではないかと考えている)。これの社会的な受容を考えてみる。個人のミクロな視点にたつならそういった嗜好を理由にハラスメントを受けた例はあるだろう。ただ、それは嗜好を理由にしたハラスメントが問題とされるのではなく、そのハラスメント自体が問題とされる(ことが多い)ため、おそらく社会的な問題視はあまりないであろう。ただ、そもそも属性による区別はその属性をもつ者がある一定程度存在しないと成立しないものである(その嗜好を持つ人が単独ないし少人数でしか観測されなければ単なる変人として扱われるだけで、それは区別とはよべない)ため、嗜好による区別に接する機会がすくなく、議論の俎上に上がるレベルにすら到達していないかもしれない。これはぜひ読んだ方に該当する例とその社会への受容のされ方を考えていただきたい。
と思いつくものを上げてみた。どれが差別に当たるかは皆さんに考えて、議論していただきたい。正解は存在しない。なお、私の中での差別の定義は「絶対に選択不可能な属性・事実に基づいて行われる区別」と考えている。これに立脚するなら1-3までが差別に該当し、私は公立中学に関して「動物園」と評するなど、悪い評価を与えるものについては差別的表現ではないと考えている。なぜなら公立中学に進むかの選択は自由意志に基づくものである(経済的な事情などにより私立への進学は到底不可能な方がいるのは重々承知している。その実態はともかく)からだ。ただ、その表現は褒められたものではないのは確かで、やはりひどい公立中学の現状があるのだとしてもそれへの是正措置に関する言及があるべきだっただろう。つまりこれは差別の問題として扱うのではなく、公的な機関からの財政的支援などによる学習の機会均等や学習環境の改善の問題に還元されるべきである。これを差別であるからと現状への批判を封じるのは実態への改善の議論を封じることになり、好ましくないと考えている。ただ、度を過ぎた中傷は理由の如何を問わず控えられるべきであることは注記しておく。
また、学歴の問題は、生来変更不可能なものではないのでこれもまた差別ではないと考えている。ただ、大学の再入学を経た後の不利な扱いは年齢差別として問題視されるべきだとも考えている。年齢への差別に関してはこれを問題視し、排除へと議論がより進むことを期待したい。
ここまで様々な属性への区別について述べてきたが、おそらくそれぞれの考える差別があったことだろう。ただ、差別の問題を考える際に忘れてはならないのはそこへの是正措置である。公立中学の問題に関してもそれを差別であるからと議論の提示を封じるのではなく、ではそこにどのような是正措置が行えるだろうかと考えてもらいたいのである。なぜなら本来の理想の状態であれば誰でも自由にその中学に行くか選択できるから、そのような偏見など生じないからである。偏見や差別は現在の不完全から生まれる。差別の問題はセンセーショナルになりがちで議論している双方が異なる差別の概念を持っており、話がかみ合わないという事はありふれたことである。そうなりそうなときには一度立ち止まって双方が差別の概念を共有するよう歩み寄ってもらいたい。以前として世界にはびこる差別への問題提起および是正のきっかけとなればうれしく思う。
事務所の近くにマンション風の建物の1階にひょいと仕出し弁当という看板があったので、
えいや!と暖簾をくぐってみたの。
実際には暖簾なんてないんだけど、
私の心の覚悟的な心理描写として心理暖簾があったってことだからね!
マンションの1階風の普通の住宅の感じにしか見えない仕出し屋さんがそこにあるとは誰も気付かないレヴェル。
実際には(揚げるのに10分)まで含めるのが正式名称のようで、
その心理的な描画とは裏腹に、
サクサクをじゅわっと包む餡が出汁が利いてて美味しかったわよ。
結構ガチ定番の心の心理描写っていちいち言うのはもう面倒くさくなってきたけど、
適当に私が思い付くお弁当のラインナップで打線を組めそうなほどのメニューは揃っているのよ。
だから、
結構この一見マンションの1階にある普通の住宅の窓にひっそりと仕出し弁当という
この「仕出し弁当」の木の看板は道場破りの勲章として持って行かれるんだなーってテイストの看板で
ちょうどここ2~3日私は日替わりという日替わり探検家として晴れ晴れしいデビュー戦を飾った、
あのブリ大根を優勝ベルトにした細かくディテールを再現したあの味を味わって以来、
日替わり冒険家と名乗るようになったんだけど、
ここも日替わり弁当があって、
日替わり冒険家欲をぞくぞくとかき立てるのよ。
でね、
本格前日予約に加え、
な、なんと!
前々日予約しか受け付けていないと言うデラックス極まりないお弁当も結構ラインナップがあって、
これでパリーグの指名打者制度の番付というか打順も決めれるほど、
ピッチャーはバッティングの練習をしないでいいぐらいなラインナップなのよ。
チラシもらったんだけど、
実際に見たときにガッカリするタイプじゃなきゃ良いんだけどなぁーって思わせぶりなそのチラシを私は1枚もらって帰ってきたの。
イースのアドルの書いた本が一体何冊あるんだよ!って思わずツッコみたくなるような、
何故イースたとえするかというと
今普通にVita版のイースやってからよ!っていう伏線も回収しつつ、
私はそのお弁当のメニューがフルラインナップ紹介してあるチラシで紙飛行機を作って飛ばしてみたの。
ああ!やっぱり超美味しい仕出し屋さんのチラシは紙飛行機にしたら良く飛ぶというジンクスを軽く超えるぐらいの距離を飛んで行ったわ!
だから私はその仕出し屋さんのチラシの一章を刻むために
チョップスティック!
つまり箸を握ったってわけなのよ。
まあそんな具合で
思わずワンコインだからって2つ買ったら食いしん坊さんに思われちゃうところがたまに傷だけど、
べ、べつに一人で2つお弁当を食べるんじゃないんだからね!って
しれっと「あ、同僚に頼まれたんです」って小芝居を打ちつつ涼しい顔の鈴木蘭々顔して
今度は2つ買えるかな!って思ったわ。
うふふ。
レモン炭酸水に追いレモンしたレモン果汁たっぷり炭酸ウォーラー。
この時期は白湯と言っても
沸かすのに茶がヘソだから
時間がかかるし、
飲んだら身体を目覚めさせるはずよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
昨日、アメトークを見た。
スニーカー芸人という企画だった。数年前にも一度放送していて、今回は第二弾。
第一弾を見た時は気にならなかったのだが、今回は転売について当たり前のように語られていたことが気になった。
番組では、転売によって手に入れる、高騰した価格を「プレ値」と表現していた。
物によっては、発売当時は人気がなかったけど後年になって人気が爆発してプレ値になることがあるようで、まあそれは理解できる。
しかし、話題作で発売のときから抽選販売で、消費者の手に渡った瞬間からプレ値になるスニーカーを芸人の一人が紹介しては、他の芸人が「数十万出して買った」「欲しいけど手に入らない」などと楽しそうに団欒している。
欲しいスニーカーがプレ値になれば「高くて困っちゃいますよハハハ」と言いながら買うし、自分の持っているスニーカーの価値が上がれば勲章になるくらいに考えている。
だが確実にその裏にはあわよくば転売で稼いでやろうという悪どい人間がワラワラいるわけだ。
昨日の企画を見ていると転売ヤーの存在がどうしても気になってしまった。
この企画に出ていた芸人は皆売れっ子で金を持っているから基本的に買う側、数十万に値上がりしたスニーカーを大金払っても良いから手に入れたいという人達だろうから、おそらく直接的に何か悪いことをしている訳ではない。
(金持ちだから欲しい物なら金を積むのは厭わないとはいっても、やはり可能ならば定価で手に入れたいという想いはあるようだった。)
そういう世界も有るのは理解できるし好きな人は満足しているのだろうが、転売を肯定するような内容をテレビで大々的に扱わない方が良いのでは?と感じざるを得なかった。
極論ってのは、たとえ相手が極論を言ってる状況で正面からぶつけても対消滅して0になったりはしない。
「相手が沢山人を殺していて、放っておいたら沢山殺すので、結局死ぬ人数は減っているから殺人数的には実質マイナスだしなんの問題もねえだろ」みたいな感じのことをな……今のはてなーは平気で言うんだよ。
そしてそれにコレでもかってほどのスターが集まる。
これでスターが集まる構造ってのは、2つあって、1つは日頃抑圧されていた部分に合致するコメントが来たからスターを入れるパターン。
もう1つは、表立って自分がその意見を言いたくはないから、口の軽いやつを神輿にして自分は安全な所からその意見を実際に口にしたらどうなるか観察したいから馬鹿をおだてるためのスターを入れるパターン。
スターってのは社会的な価値としてはゴミと一緒だが本人にしたら価値がある。
そんなわけだから、承認に植えている人はスターを投げられると次々に極論を口にするようになる。
でも極論を口にするのはヤバイことだって内心では気づいているので、自分への言い訳が始まる。
それは得てして「相手のやってることと差し引きすれば、トータルではバランスが取れるだろ?」だ。
「極論が夜に広まるとヤバイから、逆方向からの極論によって、対消滅させる。俺は世の中に間違った考えが広まるのを防いだので、正しいのだ」
いいや、間違った極論が1つから2つになって、自体を悪化させただけだぜ。
こんなのは岡目八目で見れば、分からねえはずがないほどに明確なのだが、承認に酔ってしまうと全くソレが見えなくなる。
お前ら、一度落ち着け。
極論は逆張りであっても使うな。
使うにしても伝家の宝刀をチラ見せする感じで抑えろ。
ソイツを抜いたらお前の魂まで腐り果てるぞ
「エロくない」
→今回は絵柄ではなくシチュエーションと構図の問題だと思う。萌え絵好きな女も多い(多数派かは別として)
「男に見向きされない女の嫉妬」
→これ、性的に見られることを勲章だと捉えてる男性が一部に居て、そこで食い違ってる気がする…。
・もともとタイツフェチに向けたブランドなら問題無いプロモーションだった。
・学校の制服業者が同じプロモーションをやれば同じように燃える。
・でもZoffがメガネ男子プロモをやったら燃えないかもしれない。
・ガリガリ君のプロモで、溶けたアイスがおっぱいにかかってたら燃えると思う。
・下着ブランドで同じことをやったら燃え…るかもしれない(ブランドによる)
・アニメ系の絵柄はやっぱり苦手な人もいる、女性向けのファッション誌ではシンプルな絵柄が好まれる(肉感的ではない、スタイルがいい、)
新型コロナウイルスで暇だったので増田に記事をいくつか投稿した。
増田で投稿し、それらの記事たちが受けて、はてブで3桁ブクマ貰ったのでその経験と感想をまとめようと思う。
自分が書いた記事が受けてブクマが付いて色んなコメントが付くようになる。
自分の考えとは違う真逆のコメントもあったりするが、あまり気にならない。
ブクマのコメントで色々言っていても、記事を投稿した自分の方が大量にブクマされてる時点で影響力があって勝っている感じがある。
色々言う人間もいるが、そう思うんだったら増田にまとめればいいのにと思ってしまう。
世の中にアウトプットできてない時点でブクマのコメントで言っているその他大勢は好きなことを言っているように見えるが世の中に影響力を与えられない脆弱な何かに感じられた。
自分の書いた記事が受けるようになって数回経験するようになってくる。
実はもうこの頃には飽きてきている。
凡人の平凡なコメントが並ぶ。
ツマラナイ。
それが正直な感情になってきた。
はてブがいっぱい付いて日本全国に見てもらった、影響を与えた。
ブクマのコメントでもちゃんと文章を読めない短絡的な文盲がいる事に気付く。
日本語読めないのは大変そうだと溜息が出る。
これだったらブログやnoteに書いた方がマシかもしれないと思うようになってくる。
はてブを見ると自分の書いた増田記事よりもブクマ数が少ない、だけど良質な記事や重要な報道があったりする。
正直言ってこれはおかしいと思いはじめる。
どう考えても俺の書いた増田記事よりも、この記事の方がこの報道の方が世の中にとって意味がある内容なのにだ。
結局俺は増田で受けること、ブクマをいっぱいもらう事に価値を感じなくなった。
はてブのブクマカのバカどもは喜んで、自分が面白いと思った増田にブクマを付けていってるがその増田よりも価値がある情報や重要な報道にはたいしてブクマをつけない。
俺は気付いた。
はてブでブクマ数が多くてもその記事の有意義性を示してるわけではない。
俺ははてブと増田の滑稽さに気付いて、増田が受けているはてブとブクマカ共がどうしようもないバカがどうも多いようだとアホの勲章を捨てる事にした。
大衆に受けてるからといってその情報が真に価値があるものかは関係がない。
『BADDAY』『星逢一夜』『金色の砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。
『金色の砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。
それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?
『金色の砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方(昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京と労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。
ブラームスのイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学の気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。
それから、ビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。
自分の携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。
あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ、交響曲1番1楽章とか激しい。
まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家。
シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分の体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。
ヨハネス・ブラームス、クララ・シューマン、ロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム
知ってる人らだからと油断していたら名前わからなくなった罠。ヨハネス、クララ、ロベルト、ヨーゼフ。
ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。
【】翼ある人びと
1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』
1841年:シューマン『交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチ(メンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。
1846年:長男エミール誕生【秋音光】。シューマン『交響曲第2番 Op.61』
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1853年(ブラームス20歳、クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳、フランツ・ヨーゼフ1世23歳)
10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印(21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声の使用などの先見性が評価されるようになった)。
秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタ』シューマンは出版を提案するもブラームスの判断で破棄
11月:シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている
12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒゲヴァントハウス。シューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品を作品1として出版することを提案していた。
12月30日:シューマン『交響曲第4番(改訂版)Op.120』初演(現在一般的に演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)
2月27日:シューマン投身、エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。
春?:『ハンガリー民謡の主題による14の変奏曲 Op.21-2』
6月:四男(末子)フェリックス誕生【次男、花菱りず】。ブラームスが名付け親。ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。
夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。
1855年:クララを手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞の世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンフレッド序曲』を聞いて)。
1856年『フーガ』『前奏曲とフーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』
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1857年:『前奏曲とフーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』
1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルトと婚約。『セレナード第1番 Op.11』
1859年:結婚生活が音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄
1861年:『シューマンの主題による変奏曲 Op.23』ユーリエへ献呈。
1863年:エリザベート・フォン・シュトックハウゼンがブラームスに弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女のまれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。
1867年:オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生。戴冠式@マーチャーシュ協会のミサ曲はリストが作曲。
1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクララがイタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからのユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章)Op.53』を作曲(別のサイトの表現では、プロポーズを承諾したときににわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。
1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。
1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った
1879年:フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリン・ソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲。クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。
1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース(23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。
1889年:フランツ・ヨーゼフ1世から「芸術と科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララは改訂版派だった)
1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。
1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナー校訂版出版、世に知られるようになる。
1893年:『シューマン全集』刊行(ブラームスとクララで編纂)
5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世の作品とみなされている。
5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。
6月:『11のコラール前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームスの健康は日に日に衰えていく。医者の治療を受けても病状は一向によくならず。
1937年:シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される
※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。
あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい
あと映画も
○ご飯
朝:なし。昼:ラーメン。夜:カップラーメン。間食:チョコ。ブルボンのプチシリーズのクッキー。(バカの食事じゃん)
○調子
お仕事はそれなりー。
自炊する力が湧かず、保存食を食べたら昼飯と被ってバカになった。
○プリコネ
恒常通常衣装キャラの星5が今の目標なので、ユニパイセンがハード落ちが嬉しい。毎日コツコツまわるぞー。
○グラブル
ドバの周回。天星器20個目標にしようと思ったけど、キッツイすわ。
ソロ団でやるこっちゃない気がするけど、団活するほどガチれないので、妥協点を考えておこう。
勲章交換に追加された終末五凸素材も喉から手がでる程欲しいけど、友達がいないからルシできないから欲しいのであって、友達がいないから勲章が貯まらないから、まあいいや。緩和をノンビリ待とう。
ありえなくないって言ってんのは10年後じゃなくて100年後ね
俺は今の「正しい」とか「結論」なんて100年単位で見たら脆いもんだと思うけどな
だけど、それが人類にとっての結論かっていうとそんなわけねぇよ
100年後に文明が崩壊してて、個人の権利なんて言ってられなくなってて、児童がレイプされようとそれは個々人の責任ですよとか、男にとって、力を持って支配するのが正義になってレイプした数が勲章になってるとか
もしくは文明が超発展した結果生まれた瞬間から責任能力を有するレベルの知性を持てるようになったらそもそも子供の定義ってそもそもどうなるんだよ
いずれにせよ絶対ないって言い切れんのって言ってんの
100年後無いとしてじゃあ1000年後はどうなんだよ。10000年後は?
超未来の話したら極論でどんな正論にも反対仮説なんて出せるんだよ
人類にとっての「正解」「結論」なんて存在しなくて、自分の価値観なんて刹那的なもんだって俺は言ってんの
核兵器も戦争も暴力も「正解」だった時期がつい最近まであったんだよ
今の我々から見たらどう考えても許せない悪でも未来にそれが正義になってるかもしれないじゃん
だからこそ我々は自分自身の価値観を常に監視しなくちゃいけないし、先入観を持たずにすべてのものに相対する必要があると俺は思う
ラブドールが云々とかずっと言われてるけどそれ以前に自分のヤバい性癖を公開するのって恥ずかしくないの?という疑問が拭えない。
そもそもオナホのレビューを、ネット上とは言え誰だか特定できるような人も居る場でやるのが解せない。
俺は自分の友人らにこのオナホを使ったとか今日はこれで抜いたとか全然知られたくない。恥ずかしくない?
増田でやるのはいいよ。というか恥ずかしいから増田でやるのはわかる。いいものを共有したいという感情は普通。
しかし事もあろうにこういうレビューってチンポを入れた感触から自分のチンポの弱点まで全人類へ赤裸々に明かすじゃん。
純粋にオナホというものの購買欲を高めたいという一心から来てるならもうしょうがないけど、果たしてそうなのか?
あとその上で決して人に喜ばれるとは言えない性癖を付加して公開するってもうなんなんだ。そういうプレイなのでは?
俺もあまりよろしくない性癖を多々持っているから、よろしくない性癖を所持する事を叩く気は毛頭ない。
俺も若い頃は中二病イキりオタクで、「俺リョナでしか抜けなくて~w」とか言ってる時代もあったけど、
やっぱそういう事言うと殆どの人はドン引きするんだよ。苦々しく重苦しい雰囲気を味わった事があるの。
倫理的にどう、とかじゃなく単にドン引きされるからやめよう、という防衛的な意識を捨てても叫びたいものか?
もちろんこっそりとそういう会話を親しい友人とするのはいいと思う。同士を増やしたい気持ちも否定しない。
でもレビューするってもう全人類見て!異常者が居ることを罵って!という行為でしかないし。
ついでにそれをツイッターでやるというのが更に解せない。
ツイッターは児ポめいたツイートをする事を禁止している。これは倫理とかじゃなくて禁止しているんだからダメなのではないのかな。
釣り禁止の防波堤で釣りしてるの怒られて自由がないとか騒ぐのは変じゃない?していいとこですればいいじゃん。
何度も凍結されることを勲章のように掲げている人が居るけど、どうしてそこまでして自分の性癖を主張するんだろう。
凍結されるといいねしていた料理のレシピとか全部消えて不便だぞ。自分がロリコンだという事を周知してもらうよりレシピを大事にしたいね俺は。