はてなキーワード: ゴシップとは
あの日、神に願いを託したのは、ある一人の男だった。
「この世の性欲と撮り鉄欲を、どうか交換してください…!」
男は名を田中健二、30代後半に差し掛かった独身男性で、いわゆる“撮り鉄”という部類に属する。
鉄道を撮影することが何よりの生きがいで、日々全国を渡り歩きながら、名だたる鉄道をカメラに収めるのが彼の生涯の目的だった。
しかし、その情熱を周囲に理解してもらうことは難しく、家族や友人からは「どうしてそんなものを撮るのか」と常に冷たい視線を浴びせられていた。
女性との出会いはあったものの、彼の会話の半分以上が「今日の特急あずさの迫力」や「新幹線の美しい流線型」についてだったからだ。
テレビをつければ性欲を煽るような広告が流れ、街を歩けばラブホテルの看板や恋愛を謳う雑誌が彼の視界に入ってきた。
性欲を抱くことが当然で、むしろそれがないことが異常とされるこの世界に、彼はひどく疲れていた。
そんなある日、鉄道の神社に参拝した彼は、思い余ってその願いを口にしたのだった。
「どうか、性欲と撮り鉄欲を交換してくれませんか?」
撮り鉄欲なんて、そんなのが性欲並みに強力なものになるなんて、あり得ないと思っていたのだ。
しかし――彼の願いは、なぜか神に届いた。
翌朝、健二が目を覚ました時、世界は一変していた。
彼が最初に気づいたのは、スマートフォンの通知がやけに多いことだった。
何事かと思って画面を確認すると、SNSには膨大な数の撮り鉄動画が投稿され、YouTubeのトップページも鉄道関連の動画で溢れていた。
何より奇妙だったのは、それらのほとんどに「年齢制限」がかかっていることだ。
健二は頭を掻きながら、YouTubeを開いてみた。
「この動画はセンシティブな内容を含んでいます。18歳以上でないと視聴できません。」
表示されたのは、ただの電車が駅に滑り込む映像。それがなぜセンシティブなのか、健二には理解できなかった。
「めちゃくちゃ良いシーン。完全にアウトだろこれ」
「バンされる前に保存しとけ!」
いつもの撮り鉄の動画が、まるでアダルトコンテンツのように扱われ、視聴者たちも異常に興奮している。
どうしてこんなことに?
混乱しながらも、次に目を向けたのは、街中の広告だった。
以前なら恋愛ドラマや化粧品の広告が目立っていたはずの看板には、なぜか鉄道写真のポスターが貼られ、キャッチコピーには「最高の瞬間を捉えろ!」や「巻頭グラビア芋坂跨線橋!」といった文字が躍っていた。
さらに、健二がコンビニに立ち寄ると、週刊誌のコーナーも異様だった。
普段はファッション雑誌やタレントのゴシップ記事が並ぶ場所に、まるでポルノ雑誌のような過激な鉄道写真集が置かれている。
「な、なんなんだこれは…」
すぐに理解できたのは、健二の願いが本当に叶ってしまったことだ。
性欲と撮り鉄欲が入れ替わり、世界中の人々が鉄道を撮影することに異常なまでの情熱を抱くようになっていたのだ。
それは健二にとって、ある意味理想の世界かもしれなかった。だが、次第にその異様さが浮き彫りになっていった。
街を歩くと、至る所で人々がカメラを構えて鉄道を撮影している。
どんなにささいな路線でも、彼らは真剣な眼差しでシャッターを切っている。
昼夜を問わず、鉄道の動きに敏感に反応し、駅のホームは常にカメラを構えた人たちでごった返していた。
「現在、撮り鉄欲による社会的混乱が拡大しています。専門家によると、この現象は世界的に見られ、既に政府は対策を検討中です。ネット上では過激な撮り鉄動画の規制が進んでおり、多くのサイトが取り締まりを強化しています。」
なんと、撮り鉄動画がアダルトコンテンツとして規制されていたのだ。
YouTubeだけでなく、他の動画共有サイトでも同様の対応が取られており、過激な鉄道撮影はすぐにバンされる。
それでも一部の愛好者たちはこっそりと鉄道動画を共有し、アダルトサイトでは“禁断の鉄道映像”が取引されていた。
完全に狂っていた。
街角の書店に寄ると、性教育のコーナーは消え、代わりに「撮り鉄マナー教本」や「鉄道撮影の基本」などの書籍が並んでいた。
学校でも、保健体育の授業で「撮り鉄の心得」や「撮影の倫理」が教えられている。もはや性教育ではなく、撮り鉄教育が標準となっていたのだ。
健二は家に帰り、ぼんやりと窓の外を眺めた。
外では、鉄道が走るたびにカメラを構える人々が見える。シャッター音が響き渡り、その度に興奮した叫び声が上がる。
「どうしてこうなったんだろう…」
彼の願いは叶ったはずだった。
だが、これは本当に望んでいた世界だったのか?
撮り鉄という趣味が尊重されることは嬉しいが、それが人々の生活を支配するようになるとは思いもしなかった。
欲望というものは、どれも程度を超えれば狂気に繋がるのかもしれない。
そしてふと、彼は気づいた。
撮り鉄欲が支配するこの世界では、性欲を持つ者はほとんどいなくなっていた。
もはや人々は鉄道を追いかけ、カメラを構えることに夢中で、恋愛や繁殖を考える余裕などなくなっていた。
「俺がこんな世界にしたんだ…」
健二は深い罪悪感に襲われたが、同時にどこかで安堵している自分もいた。
少なくとも、誰も彼を「なぜ鉄道を撮るんだ?」と不思議がることはなくなったからだ。それが、彼の心の平穏を保っていた。
人類の存続を危ぶんだ科学者たちが、性欲を取り戻すための研究に着手したのだ。
だが、一度交換された欲望は、そう簡単には元に戻せるはずもない。
プロジェクトのリーダーを任され、プロフェッサーと呼ばれていた男は自宅のPCから鉄道ポルノが見つかり解任された。
人々は撮り鉄に狂い、既に撮り鉄欲を手放すことはできなくなっていた……。
周りが結婚し始めて久しい。子どもが2人3人の友人も増えてきた。
私も過去お付き合いした人と結婚を考えたことがないわけではない。それと同時に、結婚やパートナーが全てだとも思っていない。
それでも、友人との付き合いの中で、友人といるのにひとりであることを痛感させられることが極めて増えた。
ひとつは話題が合わないこと。子どもの話題になったとき、月齢どのくらいで何ができるとかはむしろ友人たちの子どもと接して詳しくなったが、所詮他人であり二人称で関わる彼らと雲泥の差である。その話題に入るつもりもない。
子どものない二人暮らしの友人であっても、家具のこと、日々のごはんのこと、一人と二人では置かれた状況の違いから同じ地平で話せない場面もある。
もうひとつがでかくて、友人付き合いが基本パートナー同伴がちであること。
家に遊びに行く、飲みに行くとき一緒に来る、もうこれは基本当たり前である。恐らく私が大人数のコミュニティより少人数で人と親しくしてきたことや、割とオープンマインドなスタンスなことにも起因してるという自覚はあるものの、もうパートナーが来ないことが少ない。
オープンマインドだからって、私は今日目の前の友人と飲みながら、追ってるアイドルは相変わらず元気かだとか、今年のクリスマスコフレは何が気になるかとか、そんな話でくだをまいてたいのだ。仕事も忙しくなって話せる日が減ったからこそ、そんなくだらない積もる話をしてたいんだ。
それでもパートナーは来る。ひまだというのに断る理由もない。さすると自然に二人の生活の話や、最近の私の話になる。これは集団で飲んでてみんなパートナーがいるときにもよく起こる。
私の話を求められると、自分の心としては真面目に向き合ってうまくいかなかったような話もすぐネタとして昇華してしまう。むしろ結局人間はゴシップが好きだから、ひとりの私に薄っすらと無意識下にゴシップを求めてる人もたまにいる。そして応えようとなんか頑張って疲弊する自分がいる。
ある種の摂理だと頭でわかりつつ、その友人ごとその日が少し苦い思い出になりそうになるのがつらい。
前にツイッタランドで「『友人は季節に咲く花だ』という言葉がある」みたいなことを見た。人生の置かれている状況が変わり、一時は会わなくなっても、また季節が巡れば会うようになる、的な素敵な言葉っぽい響きに感じた。
きちんと調べたら、これは深沢七郎の「人間滅亡的人生案内」(※以下、"〜"は同書引用)という「話の特集」の誌面で受けた人生相談をまとめた本で見ることができる、"友達というものは花のようなものです。"という言葉のようだ。
その後に続くのは以下のとおりである。
"そのとき、そのときの時季、状態で友達はそこにあるから眺めたり、飾りものにするのです。友達などというものはそのときどきに自分のために存在するのだからそんなものに負担を感じたり、たよりにしようと思うことは悪いことだと思います。"
要は友達は自分の都合で生じる存在だから、気にしすぎず捨てるなり飾るなりすればよいという、まあ突き放した感じだった。けど、そんな捉え方もアリだなって少し気が楽になった。
大事に愛でつつ、でもそれを理由に傷ついたり凹んだり無理したりする必要はない。当たり前っちゃ当たり前だけど、孤独故にたまに違えてしまっていたような気もする。
旧い友人でも双方の認知が一致することなど極めて少ない、人間と関わる限りう〜〜〜〜んという瞬間は尽きない。友人と会うときにこれからもパートナーは同伴率高いだろうが、途中合流にしてもらうとか2人まとめて仲良くなるとか、私の心地よく生きられるよう頑張らないよう努めたい。
百条委員会でも立証されて無くて、それは証拠隠滅したから、なんだっけ?
みたいな微妙な感じの発言内容はあったけど、それが証拠隠滅とかに繋がってるんだっけ
「見聞きした」
マスコミは知事のおねだりとかチャットで時間外に指示とかのゴシップネタばっかりやってて
肝心の二人の自殺者に関与してる具体的なパワハラ証拠とか、その他のパワハラ・セクハラ系の話とかも全然無い
音声ファイルも副知事のしか出てこないし、疑惑の周辺で騒いでるイメージ
自動販売機に自分の音声を喋らせてる時点でこの知事がヤベー奴っていうのは良く分かるんだけど
「なぜ辞めないのか」
みたいに断定出来る人って何を持って辞任すべきと思ってるんだろうか
そう
というか顔や胸すら割とどうでもよく、ある程度若い素人ならそれでいい
その上旧ジャニーズのKAT-TUN中丸や数々の芸人がいい例だが、有名芸能人や有名事務所所属だと不倫ゴシップが金になるから常にマスコミに張られており、相手や内部や周辺からのチクリも多いから女遊びはリスクでしかない
平均以上の身長で顔がまともな男がわざわざ芸能界を目指さないのは、廃業やバイト率が高く不安定な業界だというのもあるが他にもいくつも理由がある
なので全国区の知名度を得ない限り相手にされない低身長男性ばかりが芸能界に入りたがる
平均以上の身長で顔がまともな男は見向きもしない芸能界や音楽界を根拠に「チビは女に受ける」と主張するのはいかに虚しいかがわかる
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
①萌えに逃げない
④敵とのフィジカルバトル展開に逃げない
⑤ボケはあっても声色じゃ分からないほどあっさり。ツッコミ的なものは皆無
⑥登場人物同士の掛け合いやなれ合いでテンポが悪くなっている作品が極端に少ない
⑦どれだけ制作費がかかっていようが判子絵(ゆえに顔芸的な場面がある作品を見たことがない)
⑧ストーリーの続きが気になってむさぼるように延々見てしまうほど面白い作品の出現頻度が日本よりもかなり落ちる
⑨持ってたグラスを怒ってるわけでもないのにカジュアルに地面に放り投げて割ってしまい、それを別に意に介してないシーンが1シーズン1回は見る(まさかリアルのアメリカ人こんなことしてないよな?)
正直①~⑥を満たしているアニメを観るのはここまで快適なのか、体力を削がれないのかと衝撃だった。
まるでアメリカのアニメは見ててお茶を飲んでるような気楽さがある。
対する日本アニメは好きでもないドクペをどうにか飲んでるような感じ。皮肉にも逆。
⑦はすぐに慣れる。
⑧はストーリーがとにかく平板なせいだと思う。朝の連続テレビ小説くらいペラペラ
⑨は日本のアニメや漫画で言うところの「めっちゃ急いでる登場人物が自転車でAKIRAの金田みたいにドリフトしながら止まる、曲がる」的なお約束の表現みたいなもんなのか?
【追記】
追加
「これシュールだろ?笑ってー。ちなみにこのキャラ、あとで説明無しにちゃんと無傷で現れるから安心してねー」みたいな感じでエグいグロ描写を突然繰り出してくる場面が頻出
⑪ 木多康昭作品くらいの手数で、唐突に、無遠慮に芸能人やゴシップを皮肉るネタを「視聴者の属性の別なくこれはさすがにみんな分かるだろ」と言わんばかりにぶち込んでくる
⑫恐らくだが、ダジャレがイケてる笑いであるという文化がある。
「Holy Crap! He is a cripple!」
「Holy Crip! He is a crapple!」
と言い間違えてしまうシーンが某アニメであるのだが、涙流して動けなるくらい笑ったあの伝説的なブラックジョーク、くらいに絶賛されてredditで未だ語り継がれてるくらい