はてなキーワード: ときとは
そもそも「表現の自由戦士」という言葉自体、自称ではなく蔑称で実態と離れてるからややこしいんだけど
いわゆる表現の自由戦士と呼ばれる人たちの多くは、「問題だと思うなら法規制」と言い出す
元増田はそういう話はしようとせず、あくまで「Mrs.GreenAppleの表現は何ら問題ないのだ」という完全勝利方向で戦おうとしてる
24時間テレビと連動して24時間セックスをしてみない?と彼女に打診したことがある。
彼女は首肯した。
その時の青春を取り戻そうとするみたいに、俺たちは24時間セックスをすることにした。
当日、俺たちは馬鹿みたいに食料を買い込んで俺のアパートに帰ってきた時には17時過ぎで、18時過ぎから始まる24時間テレビに合わせて風呂に入った。
二人で狭いシャワーを浴びて、8帖の狭いリビングにあるのはベッドとテレビぐらいなもので、俺たちは缶チューハイを飲みながらベッドに腰かけるとテレビをつけた。
24時間テレビがはじまり飲みかけの酒をテーブルに置くと、俺たちはベッドに寝転んだ。
テレビではタレントがガヤガヤと喧しく喋り、24時間テレビの開始が宣告させると俺は彼女を愛撫し始める。
セックスは遅々として、それでいて朗々としていた。
ゆっくりと。ときにはげしく。24時間のセックスということを念頭に置けば当然のことだった。
それでも熱が入ればすべてを忘れて没頭し、俺たちは獣のようにセックスした。
あの時は常に息遣いが聞こえた気がした。息切れのような、興奮するような、相手を探し求めるような。
何をしても満たされない。こんなものかという落胆と絶望。恋人は幸せの極致で、セックスは天国じゃなかったのか。
俺たちは休憩し、服も着ずに酒を飲み、空のチューハイを増やし、24時間テレビのくだらない企画に爆笑した。
だんだんと夜が更けていき辺りに静けさが増していく。俺は座ったまま窓辺に目をやり、カーテン越しに広がる明かりは既に消えていた。
彼女はベッドに寝っ転がり俺は背中越しに彼女の視線を感じていた。
振り返ると彼女と目が合った。頷く。もう一度しよう。そう訴えかけるように。
俺は最初の時のように彼女を愛撫し、それからゆっくりとセックスを始めた。
まるでメビウスの輪のような倒錯感。最初に戻りそれは最後でそしてそれには終わりがない。
気付けば彼女は寝息を立てていた。俺はテレビを見た。確かに3時24分だった。今でも明確に覚えている。
不思議と眠気はなかった。疲れているはずなのに。
俺は明かりを消し、暗がりの中でテレビをじっと見つめた。くだらないバラエティが始まり、彼らは楽しそうで、夜の存在なんか信じていないようだった。
俺は少し泣きそうになる。ベッドから出て冷蔵庫を開けてチューハイを取りだすとすぐに開け、一気に飲もうとしたところで喉に詰まり嗚咽した。
長い長い夜だった。
俺はベッドに戻るのが急に怖くなった。
女々しくもベッドの傍に座ると膝を抱え、酒を飲みながら泣いた。
やめとき後悔するで
夫が食後に具合悪いを全面に出して何度も何度も何度も測っていた体温をご覧ください→我が家の旦那すぎてww
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2384268
平熱ツイで話題の夫、妻の方が遥かに稼いでるのに家事育児せず生活費六万しか入れずFXに金を溶かし壁に穴を開け妻に暴力を振るい夜中にピアノの音を響かせていた。それでもDVと認められず離婚できないらしい… https://togetter.com/li/2384694
ちなみに、弁護士や警察に相談しても妻の方が稼いでいるのがネックになってかえって離婚できないという八方塞がりな状況らしい
女割()
「体調不良=発熱」という思い込みだけなら、単に知識のことだと思うが、全般、人情に欠けていることが気になる。万が一仮病だとしても、仮病をするだけの何らかの理由があり、そこにはツラさがあるのではないか。
かつて、女性に優しく、夫婦が揉めていれば必ず妻の味方をすると語られていたはてブ。
それは間違いだったのか、それとも、変わってしまったのか。
はてブ民曰く、妻の方が遥かに稼いでるのに家事育児せず生活費六万しか入れずFXに金を溶かし壁に穴を開け妻に暴力を振るい夜中にピアノの音を響かせる夫が「体調不良を訴えても妻に労わってもらえない可哀想な夫。これだから男は辛い。男性差別」であって、
それに日々耐えながら病院行けと勧める妻は「体調不良の夫を労わらず笑い物にする冷酷非道な男性差別者」らしいぞ
まずlady-jokerさんが逃げずに応答したことに敬意を表したい。
これだけではてな民の中の最良の人であって、
人格的にも能力的にもはてブ民の代表選手と見なしてよいと思う。
またこれ以前から人格的にはてなの中では抜きん出た人だと感じている。
印象としては
及第点は7と言う感じ。
>「考えるべき」ってのは具体的に何についてどんな思考をすることなの?
上記に記した「非人間化」のプロセスが我々の内面に存在していることを知り、その危険性を認識することであろう。
このような思考を積み重ねることで、己の内面において非人間化が発生した場合にはそれを検知し自省する、
他者において発生した場合には、その思考を思いとどまらせるために働きかけるなど、行動面においても変化が起きれば尚良いだろう。
「虐殺の歴史の本から我々人類の内面のおぞましきプロセスを学んだことで、
己の内面にそれが現れた時は検知して自制し、
他者に現れた時はそれを制して変化を促す行動を起こせる。」
とのこと。
パッとみ大変立派な感じだが
残念ながらそのような思考の積み重ねで人間の頭や人格が良くなることはない。
(これは後で具体例とともに説明する)
まず我々自身の心の悪い動きはそんな本をいくら読んでも検知できるようにはならない。
行動面の良い変化についても期待できない。
「「コロンブスのコスプレMVをしたミュージシャン」というその問題とかけ離れた対象にぶつけている。
どう考えてもあのミュージシャンの内面にあなたの言うようなおぞましいプロセスは生じてねーだろ。
あれを見る視聴者にしても同様。
あなたはいま歴史上の虐殺について頑張って抽象化してみせたのに
その抽象化を目の前の現実に当てはめる努力か才能が全く足りてないために
人類普遍の良くない心の動きがあると本を読んでわかった!恐ろしい!我々に出来る抵抗と警戒は?
「同じような帽子をかぶってる奴」「同じような衣装をまとってる奴」「同じ名前の奴」をキャンセルする!
これはアホと言わず何と言えばよいのか。
その内容について頑張ったであろう抽象化を並べて、
そのアウトプットがこれなんだから、残念ながらあなたが読書にかけた期待は間違いだ。
全く違う。
ウイグル話法と言うのは簡潔に
・ 「日本の左派は中韓への批判は避ける」という前提(偏見?)に立ち
・ 日本の左派がどこかの虐殺を批判したら「でもあなた方は中国によるウイグル虐殺はスルーですよね?」と言って当て擦りをしよう
「なんでアメリカ大陸入植者のおぞましい歴史への憎悪や批判の気持ちを日本人コスプレMVに向けてるのですか?」
「どうしてもその憎悪で現代の人を裁きたいなら、アメリカの人や国土の方がまだそれにふさわしいのではないですか?」
「ていうかあのバンドがネイティブアメリカンにどんな虐殺や収奪をしたっつーの?」
というツッコミ。
見てわかるように、
lady_jokerさんは「ウイグル話法」と言う概念は仕入れたものの
その咀嚼や抽象化に失敗したため自分で使える道具になっておらず、
「「~なら先にこちらを批判しろ」のような末端の表象だけで話法を判別・検出している。
lady_jokerさんの知的レベルや認知のクオリティについての重要な手がかりだと思う。
(繰り返しになるが、この人ははてな民平均よりはだいぶ頭がいい。)
しかしその本で学んだことを目の前の現実に適用したいとなったとき、
虐殺の歴史のお勉強をして義憤によって現代の誰かを殴りたくなったとき、
その本来コンキスタドールへのものだったはずの憎悪と非難が向かうべき先としてより適切なのはどちらか?
順番なら2であって、
と言っている。
別に反米しようぜとかさあ2を殴ろうとか言ってるんではなくて、
「2すら殴ってないのに1を殴るあなたはなんかおかしくないですか、再検討をお願いします」と言っている。
日頃から2を殴りまくってる人が1すら許さんぞと襲い掛かっていくなら
やべー奴な気はするけど一貫した美しい狂人だと思う。
それはせいぜい思考の混乱しきった愚図か、殴りやすいものだけを狙う卑怯者ではないですか?
こんなツッコミは虐殺と虐殺をぶつけて相殺を狙うようなwhataboutismではないですよね。
「「あんたがたは頭悪いか卑怯もんかどっちかではないですか?」と指摘しているだけ。
これは良くも悪くも(多分悪い方向に)ウイグル話法と一ミリも関係ない。
また私は過去のブコメにおいて、繰り返し非人間化のプロセスを取り上げ、その文脈でコンキスタドールの入植についても言及している。
これはある意味で一番ひどい。
同じ0点でも上2問とは深刻度合いが違う。
増田の話
「過去の「おぞましい歴史」「暗部」に関連付けて現代の誰かを殴る行動は何の意味があるのか」
「どうしても殴りたいなら一番の関係者はアメ公であろう、コスプレMVなんかに八つ当たりしてんじゃあないよ」
本当に真剣にやってる誤読なのか故意の詭弁の遁辞なのかちょっと悩むが
これ国語の点数いくつだよ。
はてな民の中では頭がいい方であるlady-jokerさんですら
抽象化とか認知と言う能力について相当ヤベーという事を見てきた。
世間的には十分知的な方の人であって問題意識もって本を読んでる人だ。それでこれ。
誰かにまとめてもらったテキストから抽象化してなお現実への適用に失敗する。
何かの「悪」の概念を憎んで闘争しようと思っても、実装としては無関係な人間をリンチに掛けるぐらいしかできない。
これはあなた方の人格が悪いからでもなく、不真面目だからでもなく、能力的な限界なんだと思う。
MVを声高に批判した人達に「どこが問題なの?」と聞いても答えが返ってこない。
具体的な説明からも、MVの内容の批評からもひたすら逃走する。
代わりに言い返せることは
「コロンブス自体がタブーだから」「バッファローの骨はシンボルだから」「常識だから」
「アメリカでそう決まったから」「不勉強」「「そんなことに疑問を持つなんてこれだから〇〇は」
(ちょっとしつこく聞いてるとどんどん差別的な悪罵になっていく。)
これらが村の迷信深い古老の警句に酷似しているのは、脳の同じ部分を使ってるからだと思う。
ガバガバフィードバックで表象を吉兆凶兆として祝ったりリンチしたりすることしかできない。
コンキスタドールの侵略と征服に宗教が重要な役割を果たしたことは
本を読むことだけは得意な人なら大体知っていると思う。
その目にはたとえば異教のアイコンなんかはさぞ忌まわしく禍々しく映っただろう。
ネイティブインディアンのトーテムなんか見た時彼等がどんな感情に襲われたか。
「なんでそんなものを拝んでいるのか」
「常識として何が正しいかわかってるはずなのにトーテムと縁を切ろうとしない」
自分達の"常識的感覚"に疑義を呈されると不快でたまらなくなってしまう者、
こいつらどう見てもコンキスタドールと同じ脳波を出してるだろ。
な?出来てないだろ?
笑っちゃうんすよね。
以上から、
あなた方は論客ごっこをしなくてよろしいと思う。そんな能力はないから。
あなた方の直観やガバガバモラルなど社会に何の良い影響ももたらさないから。
それはあなた方の人格や姿勢が悪いんじゃなくて単に能力の問題だから、別に恥ずべきことでもない。
そういう出来もしない大それたことよりも、
そういうことがあなた方を社会に参加させるしあなた方を善良な人にすると思うよ。
そういう人を尊敬する。
大事なことなので最初に言っとくけど、オレは学生時代の彼女と結婚して婚活はしたことないから一般論でしかないです
営業だろうと婚活だろうと、初対面で重要なのは自分を知ってもらうこと
そういう営業もいる
でも、やっぱり会社じゃなくて個人として認識してもらえてる方が、人と人との付き合いになって、何かあったときの対応がお互いにやりやすい
初対面の相手の話に興味を持つ人は少ないし、押し付けられる話は頭に入ってこない
いちばんすんなり受け入れてもらえて、かつ、記憶に残るのは、自分との共通点があるときだ
知らない人はあちら側だが、共通点がある人はこちら側になるのが人間の心理だ
相手の外見、年齢、性別、勤めている会社などから、ある程度相手のことを推測し、その人が語りたくなる話題を振る
そして話を聞きながら自分にも引っかかるところを探して、タイミングよく自分を開示することで共感を得る
オレは婚活はしたことがないが、初対面で関係性を構築するテクニックなので似たようなものだろう
婚活系増田を読んでいて、相手に好印象抱くパターンが話が合うとか趣味が合うとかだったので、おそらく大きく外れてはいないと思う
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
こことか社会で自分の想いを話すとだいたい「友達いなさそう」と言われる
煽りに負けてなるものかと思って「いないよ?」って答えると「お、おう」ってなるか
子どものときから俺が近づくと磁石のN極同士のように人が離れていく
最近は離れる速度を楽しんでいる。お、今日の離脱スピードは大谷以上だ、世界記録も近いなwとか
人として接しろの話でAさんBさんと個人に向き合えと言われたがそもそもファーストコンタクトが成立しない
友達作りの本はできた友達を保つ方法がほとんどで最初にどうすればいいかは書かれていなかった
そもそも友達って何なんだろう。俺のイメージではセックスとか金銭関係とか一切の打算なしで成立する人間関係だが
みんなそんなにいっぱい友達いるんだろうか。ここまで来ると今さら友達を作ってどうするのかという気持ちもある
日本の福祉は俺みたいな「手遅れ」の人には無力だ。だから無敵の人が増えてるんだろう
カウンセリング受けろとか言われるだろうがいつもいっぱいですって断られるんだがみんな本当に受けてるのか?
1490年のコロンブスが改心間に合わなくて100年後も続いてるイエズス会がそのときになって奴隷反対とか言い出したとしてそれらを比較していいのかという
時流に乗っただけでは?
ぶっちゃけMrs.グリーンなんちゃらっていうクソダセえバンド名ですわ。
言っとくけどバンドじゃなくてユニットだよとかそんなツッコミは要らんぞ。
J-POPの流行ってるやつらときどき何やねんっていう名前のやつらいるよね。
ポルノグラフィティとか。Mr.Childrenとか。笑 (古くてごめん)
というか、もし世界進出したらやべえことになるバンド名とか他にあるのかな!?
逆に知りたくなってきたわ。
コロンブス騒動のコメントで、新しいものに触れたとき、知ってる物に引き付けて考えるのがすげー老人っぽいな、というのを感じた。
GReeeeNじゃないの、とか、しゃかりきコロンブスとか、エジソンは偉い人とか、精一杯知ってるワードを並べること。
自分もその気持ちはわかるから、若者と会話するときやらないようにしようと思った。
こういうの親と会話するときやられて嫌だった思い出ない?
大変だったんですな。
あと、よく頑張ってたんですな。
傷つける意図はなかったです。
ただ、元増田さんの記事に付けるコメントとしては、傷つける要素があったので、書いてしまいました。
ここからも、少しでもこのコメントがいいものになるようにって思いで書くんですが、
「うるせぇ」ってやってもいいです。それは自由なので。
私の体感として、
理解しようとするつもりがない人を理解させるのはほぼ無理です。
出来なくないけど、コスパはかなり最悪です。
それより、理解しようとしてくれる人が多い場所に、自分が行く方が断然早いです。
普通の振りと書いてましたが、
発達でのお困りを解決する手段を講じることを習慣とすること、ですよね。
それは努力ってやつで、きっとずっとやってきて、それで鬱になったのだと思います。
でも、結局のところ、相手を変えるのではなく、自分でできることと言ったら、
鬱になってしまうことがあったとしても、
こういう時の論点としては、不幸の評価や、相対的な評価はあまり意味がなくて
②ではそれを最小限に抑えるにはどうしたら良いか
の2点のみだと思ってます。
で、結構真面目に振りをしていて、
かつその振りを頑張ってることを、周りにたまにぽそっと話したりしてると、
(ここの具合は絶妙で、聞かれたら応えるくらいじゃないと引かれる。バランスとる)
その内、理解しようとしてくれる人が現れるので、
これが私の解決策でした。
鬱はいつでも横にいて、
体は今日も重いです。節々が痛い。
防げたら鬱になんかなってないので、
「仕方なし」として、鬱になった自分を許します。これでいいのだ、って設定で休むことに専念します。
鬱明けのじり貧戦中は、努力にもコスパのいい努力とそうでない努力があることを念頭に入れて、
「どうしたら、今より楽になるんだろう」って真剣に考えて戦略をもって、
その内、いい「場所」が出来上がってくることもあるので
見つけたら、そりゃあもう大切にします。
…
でもまぁ、増田に書く元気があるのであれば、
傷つけただけで終わりたくなかったので、書きました。
考えてみたんですが、
外で語られにくい不幸達の内、
たぶん大切な人の死って、ほぼ全員がタイミングはどうあれ経験するので、
共感できる人が多いのでしょうね。
たくさんあるのだと思います。
共感できる人の多さ、かわいそうさ、に寄るのかもですね。
まぁ事実なので「仕方なし」として、
何かと比べても
なるべく。(たまに鬱屈としちゃうときもあるので、その時は何も考えないようにぼーっとしてます)
丁寧に書きましたが、
あ~~~~~~~楽に生きてぇ~~~って気持ちでいっぱいです♪
まず、遺骨を持ち歩くことが気持ち悪いなんて思わない。
次に婚活始めることが気持ち悪いだの、他に見せてしまうのが気持ち悪い、全く思わない。
受け取る言葉は選ぶべきで、全部素直に受け取ったらしんでしまいます。
もしかしたら、そのブコメを書いた人は2番手にされたことがあって腹が立ってて、八つ当たりに書いてる人もいるだろうし、
若くて10代とかで、しあわせな保護された暮らしだけしてて、想像力が圧倒的に欠如してるのかもしれない。
どれも、一度耳に入れても、すぐ聞かなくて良いフォルダに仕分けすべき話です。
言葉というのは、その人がその時に抱えてる背景から出てる事が多いので、
相手のことを思って発されるだけではなくて、
(その点私の言葉も同様です)
なので必要なのは、それを仕分けして聞くことです。増田さんは今とことん弱ってる気がするので、普段できてたそれができなくなって、受け取ってしまったのだと思います。
なので代わりに外部から、1ミリも気にしなくていい言葉です、と断言します。
次に、私は親友がちょうど5年くらい前に亡くなりました。闘病は5年くらいでしょうか。合計です。
親友は、病気がわかる前に婚活をしていて、とても良い人に出会えて、このままゴール?というところで、病気がわかりました。その中でも相手の方はプロポーズしてくれて、結婚してくれました。
親友は、その相手の方にいつも感謝してて、笑いながら色んな思い出話をしてくれました。
これは私の話ですが、増田さんも絶対にその方とのたくさんの背景があるはずです。
それが増田さんを作ってきたはずです。
それを急に、外的な何かに合わせて、消すこともないと思います。消したら、大きな喪失感と、自分が自分じゃないような気持ちでいっぱいになると思います。実際構成してきた考えや経験を捨てることになります。
やめたほうがいいです。
大切な人の死別を経験した人にしかきっとわからないことなので、それは仕方ないことだと思います。
まとめると、
気持ち悪いという感覚は、正直何もわかってない人のコメントにしか見えません。
事実としては、大切な方との思い出はしぬまで大切にすべきことなので、その方法として骨をお財布にいれるなんて、全然問題ない。
ただ、一緒にやっていくのだし知っておいてほしいと思ったときに、これを理解できる人とできない人に分かれてしまうのは事実としてあるのだと思います。
個人的には知っておいてほしいと思っても、受け入れられる打率は五分くらいなので、たぶんヤケクソでどう思われても良い人とか、時間をかけてもいいから理解して貰おうと考える人か、どちらかじゃないと言わないかもですね。増田さんは後者のような気がします。
世知辛いですね、本当に。
その中で婚活をし、前を向く。
増田さんがそこまで大切に思う奥様なら、
奥様のためにも、しあわせになるしかないんじゃないかなと思います。ファイトですね。
長々としましたが、
気にすんな、元気が1番!です。
ご自愛を!