はてなキーワード: 貧富の差とは
こういう中低所得層あるいは自称高所得層が思考停止で自民党に投票するのは破滅的だと思う。あるいは富裕層の自民支持も含めて。なぜなら現政権による貧富の差の拡大は、中低所得層に直接不利なだけではなく、資本主義市場経済の維持を危うくするという点で、そこから利益を得る富裕層にも歓迎すべきものではないからだ。
37歳男性、既婚子持ち、夫婦フルタイム、年収2000万円超、自己認識は中産階級上位層の一般労働者(労基法的意味で)
所得再分配を軽視しすぎている。逆進的な消費税を増税しつつ所得税法人税を据え置く、日銀マネーを野放図に相場に投入して投資家を優遇する、その割には経済的弱者への財政支出に消極的、など。
貧富の差の拡大がこうした税財政政策の影響だと論証するのは難しいけれど(グローバルな人や資本の移動は一国主義的介入を難しくするので。cf.国際金融のトリレンマ)、少なくとも貧富の差拡大の流れに抗い、弱者を救済しようとする意思が見られないのは大きなマイナス。
なぜ貧富の差が拡大すると困るのか
中低所得層にとって貧富の差が拡大し、自身の購買力が下がることをネガティブなものだと捉えることにあまり異論はないと思う。ではなぜ自称を含む富裕層にとっても貧富の差の拡大は避けるべきものなのか。
第一に、資本主義市場経済から最も利益を得る層として、それを弱体化するような行動をとるべきではないから。このまま貧富の差が拡大し、人口的には圧倒的多数を占める層の購買力が下がれば下がるほど、経済活動が縮小し、富裕層の取り分も減っていくのは当然だろう。
次に、そもそも資本主義市場経済が維持可能なのか、という論点がある。市民の遵法意識が高く、良くも悪くも飼いならされている日本ではあまり心配ないかもしれないが、このまま少数の富裕層が富の大部分を握る構造が強化され続ければ、人口で多数を占める層が現状破壊的政策を志向するようになるかもしれない。共産主義の恐怖は終わったと言われているが、サンダースやコービンは一部で熱狂的な支持を獲得。日本でもれいわ「新選組」が奨学金「徳政令」を掲げた。いずれ令和の「打ちこわし」を扇動する可能性も想定しておいた方がよい。万一そうなる前に、現状を壊さない程度の再分配を進めておいた方が安全。
最後に、治安的な意味での安全のため貧富の差は避けた方がよい。この点も日本人の遵法意識からか路上のひったくりなどはあまり心配ではないけれど、巻き込み型の自滅的加害、流行りの言葉でいえば「無敵の人の自爆テロ」(私はテロという呼称に反対だが)は本当に恐ろしい。
個人的にはこうした犯罪は自己承認の低さや社会的排除がもたらすものだと考えており、経済的支援で直接なんとかなるものではないと思うが、お金で得られる承認や人間関係もあると思っていて、再分配政策とそれに伴う社会的包摂(どちらも自民は弱い、というか伝統的家族観に寄りすぎ)の強化で間接的に抑止していけるものと考えている。
以上、富裕層にとっても貧富の差の拡大は厄介であるとの私見。本邦の自称富裕層やノブレスオブリージュを解さない成金が、現政権による弱者切り捨て政治をごく短期の利得から肯定するのは本当にアホ丸出しだと思う。
財政赤字が拡大してくると、政府は貨幣を発行して支出に充てる。貨幣を大量に発行すると市場には金があふれ、金の価値が低下してインフレが起きる。これがこれまで主流の経済の考え方だ。実際にジンバブエやベネズエラではやりすぎてハイパーインフレーションを起こして経済が大混乱に陥っている。MMTでは「財政赤字」と「民間の富」は借方と貸方のような関係なので、民間が豊かになるにはそれと同じ額の財政赤字を抱えているのが普通である、だから財政赤字を嫌がって財政支出を制限する必要はないと考える。MMT擁護派の一部の人達は「財政支出をどれだけしてもいい」と言っているがこれは誤解である。。MMTの特徴を理解してもらうためにあえて強調しているのかもしれないが、そんなことをすれば反発を生むだけだ。MMTでは「市場に存在する資源や労働力などの価値」と同じだけの財政赤字を政府が抱え、それと同じ額が民間の資産額となる。資源以上の貨幣を発行するとインフレが起きるので、インフレターゲットまで物価が上がってきたら追加発行を止めなければならない(貨幣を発行しすぎるとインフレになるという考え方は主流派経済学と同じ)。デフレの起きている現在の状況では財政赤字が膨らむことを恐れて緊縮財政にする必要はない、だからインフレが起きるまでは財政支出しろ、というのが正しい理解である。そしてこの考え方は正しい。ただし、50年前までなら。
昭和の時代、国民の大多数がマイホーム・マイカーローンで家計のやりくりにあえぎ、余裕がでればテレビ・洗濯機・冷蔵庫を買っていた。1960年(昭和35)に公務員の大卒初任給が12,000円の時、電気冷蔵庫は60,000円した。5倍である。現代の初任給20万円とすると冷蔵庫が100万円する計算だ。当時は氷を使った冷蔵庫が一般的だったし、洗濯はタライで、掃除はホウキとチリトリでおこなっており、家事を劇的に改善してくれる家電製品はみんな欲しがったのである。ご存知の通り、この時代は10年で物価2倍のインフレだ。公共事業で民間に金を落とし、経済が活発化し市中に出回る金が増えればインフレになったのである。公共投資も、例えば道路の舗装化や高速道路であれば流通の効率をあげ、上下水道や団地を整備すれば人が集まって地域が活性化したのだ。
現代はどうか。日銀はずいぶんと財政緩和しているがデフレが長いこと続いている。今は公共投資をするといっても、一通り需要の有りそうなところの道路は舗装されていて、道路を舗装しても流通効率はあがらない。既にある道路の水道管補修などでは利便性に変化がないので、経済の活性化には貢献しない。上下水道や電気もあって当たり前の時代だ。公共投資で市中に金を落とすことで若干購買意欲を高めることはできるがそれだけでは弱い。文化的にも成熟してきてマイホーム・マイカーを信奉するような時代ではなくなった今、多少金銭的な余裕ができても大きな買い物などはあまりしない。製造や流通も効率化され、安く生活しようと思えば100円ショップやスーパーの衣料品などでずいぶんと安く生活できるようになった。年金の先行きは不透明だし貯金がないと老後が不安である。このような状況では貨幣の供給が増えても、その分貯蓄に回るだけで経済は好転しない。
また、貧富の差は大きくなっている。戦後はGHQによる財閥解体などがあったが、基本的には金持ちはさらにお金を儲けるために金を使うので、富めるものはますます富むのである。貧するものは生きていくために悪条件でも仕事をせざるをえず、なかなか裕福になるチャンスは得られない。これは資本主義経済が抱える根本的な問題で、過去には革命や敗戦などで富の再分配がされることはあったが、平和な現代ではその圧力も少ない。いや戦争で殺し合いが起こるよりは遥かにマシではあるが。
19世紀からこの問題の解決策を提案していたのはドイツ人マルクスであるが、マルクスのとなえた共産主義は失敗に終わった。ソ連は崩壊したし、中国も私有財産を認めて経済に関しては自由に商売をさせ、社会主義の名の下に共産党一党独裁体制を敷いて反抗する企業は締め上げるという独裁ぶりである。大きな組織に強い権力を持たせると、腐敗して独裁化して富と権力を独占化してしまう。理想をもって最初に体制を作った時は良いかもしれないが、指導者が数回交代した後には無様なものでる。
人間が欲をもった生物である以上、これは避けられないのではないだろうか。
貧富の差が根本問題である以上、是正するには富の再分配しかない。しかし例えば巨大企業を国有化してベーシックインカムで再分配しようなんてことになると、これは失敗した共産主義の後追い自殺になるのではないだろうか。国有企業は競争原理がうまく働かず効率化されずに無駄が多くなったり、働いてる従業員がなぜか自分個人が偉いと勘違いして業務が怠慢になったりする。ベーシックインカムを行うための企業だけが富を独占化し、そこの社員でないものの人権が蹂躙されるという社会主義国家になるのではないか。
財政的にはベーシックインカムも可能かもしれないが、導入後50年100年経った後の日本は競争力をもった国でいられるだろうか。リン鉱石でベーシックインカムをしていたナウル共和国では、国内の農業・漁業が衰退した後にリン鉱石が枯れて経済的に立ち行かなくなり外国からの援助に依存している。
筆者個人としてはもういい年齢なのでベーシックインカムもらって引退したいところではあるが、未来の日本が衰退して行くのは忍びない。ホリエモンはベーシックインカムを導入しても、もらえる金額が今の年金より少ないのでみんな頑張って働いてもっと稼ぐよ、という意見のようである。果たしてそうだろうか。彼自身はは思春期に高度経済成長期を経験しているし、才能もハングリー精神もあるから成功しているんだろうが、現代の若者のどれくらいの割合の人が同じように考えるのか。働かずに生きていけたら贅沢しなくていいやっていう人は昔より増えている。ベーシックインカム二世や三世の世代にはさらに労働意欲がなくなっており、ナウルのようになってしまうのではないか。
厚生年金の標準報酬月額みたいななんの生産性もないクソみたいな事務は一切なくしてベーシックインカムに一本化して、公務員や生産性のない事務員の人数を減らしてもっと生産的なことに時間を割いてもらうっていうのは良いことだ。生産的なことが苦手で定形作業しかできないような人もいるが、定形作業自体はなくならないだろう。AIやRPAで減ってはいくだろうが。
不況を改善するために「財政赤字を気にせず財政出動する」というのは資本主義が成熟した現代では解決策にならない。財政赤字はある程度あって問題ないが、破綻したときに爆発する爆弾を抱えているようなものであり小さいに越したことはない。破綻時には財政赤字相当額の民間資産が消えるのである。問題は貧富の差にあり、平和的公平的な解決策は今のところない。俺はベーシックインカムが欲しいが、国の制度として導入するのは日本の未来の為にならないと思う。
平日にもかかわらず、結構人がいるのだ。
日によっては満席になることもある。
勉強の合間に休憩室に行くと、学生さんと思しき若者たちの話が聞こえてくる。
塾には自習室があり本当はそっちに行きたいけど、経済的な理由で通えないため、図書館で勉強する子が多いようだ。
どうも若者たちの話では、席が空いておらず、家で勉強することも多いと。
でも家だと、どうしてもはかどらない。
わかる。
家には誘惑が多い。
ちなみに俺はサラリーマン。
やっぱり自習室は集中できる。
俺が勉強を続けられているのは自習室のおかげと言っても過言じゃない。
でも金土日や学生さんのテスト期間中は、満席になるため、足が遠のく。
空き待ちと思しき人もチラホラいる。
自習室に通えなくなり、勉強の習慣を辞めてしまう人もいると思う。
社会人専用席というのもあるんだけど、そこに学生さんらしき若者が座っているのも珍しくない。
パソコン専用席というのもあるけど、普通に勉強している若者もいる。
けどまあしょうがないと思って見ている。
トランスジェンダーにおけるトイレや銭湯の利用についてのあれこれ。
長文も苦手だからシンプルに書くけど(差別だと取られる可能性も高い)、
ここやツイッターを見るだけでも
・統計的にはトランス女性の方が性被害に遭っているから男子トイレに放り込むのは差別
・(トランスの意見として)誰でもトイレがあると助かるが利用する際に身障者等に会うと気まずい
他にもたくさんの意見が飛び交っていて、正直一生解決する見込みはないと思う。
じゃあトランスジェンダー全否定なのかというと、もちろんそういうわけではない。
自分の性をこうだと認識し、それらしく振舞うことは自由だと思う。
だけど一生解決しないこの問題を目の前にしたとき、選択すべきは
「与えられた性別は表面上受入れ、事実上変えることは不可能」という決まりを設けることじゃないかな。
それを差別だとか人権侵害と言われるなら、もうこの世から色々な定義の「差別」は絶対になくならない。
性別以外にもこの世には生まれたままを受け入れなければならないことなんて山ほどある。
それを途中で変えたところで、過去に、生まれつきそうであった事実は残る。
普通の家庭で育った人間が突然天皇陛下になれることは絶対にないし、
貧困な家庭に生まれてしまえば富豪に比べて明るい未来の選択肢は少ない。
どうしようもないこと、この場では「その性を持って生まれたこと」を、
「自分の考え、行動を万人に受け入れてもらう」ことは諦めるべき。
局部だけは変えないでほしい。
可哀想、と言い出したらキリがない。
そうとは限らないよ。移民が来てスラムを形成すると治安が悪くなって、下町で買い物できないとかになる。
下町の公立学校のレベルが下がってお金持ちは私立に流れて格差が拡大する。貧富の差が固定化する。
いまだとそれほど住むところで生活レベルや市民サービスに格差はすくないけど。
田舎だと自治体が維持できなくなって村が竹林に埋もれてしまう。山里に夜盗が住んでいた戦国時代に逆戻りする。
数が出なくなるといままで売ってたものが「もうからないからやめる」となってなくなったりする。
オイルマネーの約230兆円の運用残高というのは投資銀行にあるものだけですが、おおむね年率10%以上で運用されています。
2008年に米国の銀行への増資が報じられましたが、たとえばシティへの増資では 11%という破格の金利を払わせることを約束させています。
11%という金利では、7年で資本が2倍になります。そして彼らはオイルというインプットをもっているので投資に回すお金は何かの担保にしているわけではない、すなわち純粋の余裕資本です。
230兆円は今後20年で等比級数的に1500兆円以上にふくれ上がるでしょう。
そうなると先進国の負債の大部分を支払える程度のキャッシュが集まることになり、彼らは世界のGDPの1割以上をノーリスクで金利として納めさせる体制を作り上げることができてしまいます。
通常資本主義では、相続税などのあらゆる粗税によって富の再分配が行われるので、
長期的にみれば貧富の差は拡大しないことになっていますが、国家間ではそのようなメカニズムはありません。
したがって、一旦富が蓄積しはじめると、破綻するまで膨張します。
従来は戦争という方法でこれを阻止していましたが、そろそろ戦争という手段では抑えられない水準になってしまいました。
今後は、国家という壁を取り払って富を再分配する必要が生じます。
そのためには世界国家を作らなければならないと考えますが、増田の皆さんは世界政府についてどのようなお考えをお持ちでしょうか?
東大京大は、才能のある人間をできるだけ漏らさず発掘できればそれでいいのだ。
才能は貧富の差にかかわらず分布していると考えられており、学習指導要領にしたがった公立学校の勉強をしっかりやれば、才能があれば東大京大くらいは普通に受かるようになっている。授業料の無償化くらいのセーフティーネットもある。
雑魚が中高一貫私立などで受験対策をやって合格しても、東大までの人になってしまうが、そういうひとは民間に就職するので、それはどうでもいい。
それによって有利な就職をしたとしても、それは単純な階層の再生産であって、財産の相続とあまり変わりがない。
高齢者が運転している車で若い人が亡くなった。若い人は高齢者への怒りをあらわにする。
女性の地位の向上について目に見えた結果はなかなか無い。女性が苦しみを訴えると男性にも苦しみがあると語り始める。
政治家への不信は尽きない。
労働時間は長いし、過労で亡くなる人もいる。
自ら死を選ぶ人もいる。
他になにがあるだろ。
忘れてることもあるんだろう。
探せば枚挙にいとまがない。
僕は、
性的マイノリティの方がいることを知る事ができた。
家事の大変さを知る方ができた。
女性が苦しみを抱いていることを知る事ができた。
男性にも苦しみがあることを知る事ができた。
上にいる人の悩みだって聞く事ができた。
いろんな人がいるんだと知ることができた。
今日は
ありがとうございますと返ってきた。
枯れかけだったオブツーサは徐々に元気になってきた。
スマホを拾って届ける事ができたし、
たくさんの問題が見つかったけど、
僕らが誰かが火をつけたわけじゃ無い。
あの問題たちは目に見えないところでくすぶり続けていたんだ。
僕らが誰かが火をつけたわけじゃない。
むしろ、僕らは火消しを続けていくんだ。
悩み、苦しみ、世界も日本も悪くなっているように感じるかも知れない。
そんな時は音楽でも聞こう。
ビリー・ジョエルのwe didn't start the fireはかっこいい。これを書くきっかけだ。
ベアネイキッド・レディースのThe Big Bang Theory Theme Songは、全てのことがビッグバンから始まったという曲だ。
本でもいいしTEDを聞くのもありだ。
こんなのが見つかった。
スティーブン・ピンカー: データで見ると、世界は良くなっているのか、悪くなっているのか?
御誂え向きかもしれない。
一頻り悩んだら今日も火消しに勤しもう。
明日はどの火が消えるだろう。
一ヶ月程度このWebサイトを利用した雑感をここに記す。
エキスパートユーザーから見ればおかしな点もあるかもしれない。
「はてな匿名ダイアリー」のユーザーは「増田」と呼称される。
まず「はてな匿名ダイアリー」が「アノニマスダイアリー」になる(なおアノニマスとは匿名を意味する)。
さらに「アノニマスダイアリー」を縮めて「マスダ」「増田」というなりたちだ。
「言及する」機能はかつては「トラックバック(トラバ)」と呼ばれていたらしい。
「日本死ね」で知名度を高めたためか、ここを告発サイトだと誤解している人がいるようである。
プログラミングやハイテク機器、アニメや漫画、学校や会社、政治や犯罪、貧富の差、性差、料理などの話題を好むユーザーが多いようだ。
また話題は「はてなブックマーク」のホットエントリー(ホッテントリ)とも連動しがちである。
このWebサイトは匿名だがコテハン的に存在を把握されているユーザーもいる。
彼らは基本的には名前を名乗るのでなく独特な行動から周知されている。
半角スペースを入れる。もしくは3回改行する。
(改行がないと見づらいので、これだけは覚えてもらいたい)
なお土日にはユーザー数が増えるかと思っていたが逆に減るらしい。
それによると1日あたりの投稿数はおよそ2000程度らしい。
そこから考えるに投稿ユーザー数は300~500人くらいだろう。
(少なくとも2000人以上の投稿ユーザーはいないということになる)
このWebサイトはそれなりに知名度の高いWebサイトだと思っていた。
そう考えるとこのWebサイトの訪問者は3000~5000人くらいではないか?
最初の投稿はある程度の文字数(400文字程度?)が求められる。
一時間に数回程度は数千文字単位の「渾身の増田」が投稿されることもある。
彼らは基本的に投稿したらおしまいで、あまり返信しない傾向にある。
文字数は多ければ多いほど良いとは限らず大抵の長文投稿はほぼ読まれない。
文章読解の難易度(可読性&文章量)が高くなると読まれなくなる傾向がある。
しかし、難読長文投稿でもなぜかヒットすることもある(この現象はいまだ解明できず)。
読まれる難読長文投稿と読まれない難読長文投稿の差はどこにあるのだろう。
正論は読まれないというのは、この手のWebサイトに共通するポイントである。
反応が欲しいなら正論でも暴論でもない絶妙なバランス感覚が必要となる。
ブックマークコメントは対話的な方法論ではなかなか得られない。
ブックマークコメントが欲しいときは「お題」「大喜利」を意識すると良いだろう。
(100文字までの文字制限があることも留意しなければならない)
文体が特徴的だったりすると「同じやつだな」と思うことがある。
同じやつが同じネタで投稿を繰り返して、たまたまヒットすることがある。
そういう時は「成し遂げたな」という気分になる。