はてなキーワード: 内地とは
太平洋戦争の最中、じいさんは広島県の呉にいた。海軍のパイロット養成校(予科練と言っていた)に所属していたじいさんは、パイロットではなく整備工になるために入ったらしい。
呉は今では見る影もないが、当時は軍港としてかなり栄えていた。有名な大和と武蔵もその目で見たらしい。建造していることは内緒だったが、あんなでかいんはバレバレじゃ、と笑っていた。武蔵は山口の沖ですぐ沈んでのう、と目を細めながら言っていた。何人か、同期も武蔵と一緒に沈んだとも。
整備工になるために予科練に入ったじいさんだが、残念ながらじいさんが最高学年に上がる頃には戦況は悪化していて、訓練機すら飛ばせない状況だったらしい。
じいさんはその頃から毎日毎日、軍事工場で飛行機を作っていた。
元々、機械弄りは好きだったじいさんは飛行機を作るのは楽しかったらしく、メキメキと腕をあげたようだ。あまり戦争のことは話したがらない人だったが、海軍の飛行機がいかに苦心されて作られていたかは楽しそうに喋っていた。
戦争に負けるな、とは何となく感じていたが、上官が怖かったし、そんなことを口に出せる空気ではないころ、呉にアメリカの飛行機が不時着してきた。
勉強がてら、じいさんは同期と連れだってアメリカの飛行機(グラマンといっていた)を見学に行った。
そこでじいさんは「あぁ、この戦争は負ける。」と確信したそうだ。
「わしらはな、飛行機を手でネジを締めて作る。アメサンのはどうじゃ。リベットうちじゃ。ダダダダダ、と作るわけじゃ。作る数がそもそも違う。こんな戦争、勝てるわけがない。」
グラマンがそもそも内地まで飛んで来とる。本土決戦で、みな死ぬ。
それが、17歳のじいさんの太平洋戦争に対する結論だった。死にたくはないが、死ぬしかない。
昭和20年8月6日、じいさんは工場でいつも通り、朝の体操をしていた。突如として、工場のガラスが、ビリビリ、と音をたてて鳴った。なんだなんだ、と外に出ると、有名なキノコ雲が広島の街のほうにあがっていた。
原爆だ。
じいさんの生死を分けたのは、宇品の工場に配属されなかったことだ。宇品に配属されていた同期は救出隊として投下直後の市内に入り、黒い雨を浴びてその後の10年でバタバタと死んだらしい。
運の悪い事にたまたま休暇で広島の市内に戻ってしまった同期は、大火傷を負って呉に帰ってきた。1ヶ月もしないうちに亡くなったそうだ。
そうして、知り合いや同期が死んでいく混乱のうちに、戦争は呆気なく終わった。
じいさん達の基地には進駐軍がやって来てキャンプをはったので、仕事もないじいさん達はキャンプに忍び込んでは物資をかっぱらい、闇市でさばいていたらしい。「あそこは元々わしらの基地じゃしのう。」とあまり悪びれずに言っていた。
実家に帰ってこないじいさんをひい祖父さんが連れ戻すまで、そうやって生計をたてていたらしい。
戦後、予科練は学校としては認められず、じいさんは小卒の学歴になってしまい、ずいぶんと苦労したらしい。職を転々としながら、職業訓練校に通って資格を手にし、最終的には水道工として定年まで勤めあげた。
飛行機を作っていた頃の経験が生きたのかは分からないが、子どもの頃のじいさんは自転車や草刈り機の発動機やら、何でも直せる人だった。
じいさんは戦争によって勉強することも出来ず、学歴も手にすることが出来ず、戦争を恨んでいたのだろう。戦争の話はしたがらず、呉には生涯、足を運ばなかった。
本当は、京都大学で物理学を勉強したかったじいさんは、自分の学歴の無さを生涯恥じながら、87歳でこの世を去った。
苦労しながら水道工として定年まで勤めあげ、身の回りのものは何でも修理できたじいさんは、恥ずべき事なく、立派な人生を歩んだと思う。
沖縄とかで台風やばい程度には北海道はちょくちょく大きい地震がある(内地のニュースでは取り上げられないけど
でも、震源地が沖合じゃなくてでかい大地震は元増田の倍以上は活きてるけど初めてだ。
電気はアウトだったけど、水とガスが壊滅的じゃなかったのが幸いか。
地震に限った範囲だと、阪神淡路と東日本が大きいけど、新潟とか広島とかも結構きつかったけど、世間の取り上げ方の温度感は周知のとおり。
関東圏でも箱根の噴火はやばかったけど、首都圏への影響がほぼなかったから。
札幌周辺とかでも清田の辺りの液状化はやばいやつだと思うけど、道民はのんびりしてんのかね。
本州の大きな地震だと、避難所に避難した住民の悲痛な叫びとかこぞったように流され続けるけど、今回のは内地の報道ではあまり見ない。
海藻。松穂(マツボ)とも言う。
味噌汁の定番食材だが関東以西では食べられることがほとんど無い。
ガゴメコンブよりも強い粘りとガゴメコンブよりも味にクセのある昆布。
クセが強いため乾物屋に行っても扱ってなかったり、店頭に並んでなくて言わないと出てこなかったりすることがよくある、ある意味で幻の昆布。
ただ、そのクセを活かすことが本領であり、自家製とろろ昆布の材料にしたり、昆布酢の材料にしたりするのに向く。
水曜どうでしょうブームあたりから全国でも認知が広がってきた感のある秋鮭ジャーキー。
美味い鮭とばの判別方法は触ったときに硬いグミのような反発力があるもの。反発力がない乾燥しきったものは3流以下の鮭とば。
北海道でいうところのツブとは、全国的に知られる「真ツブ(エゾボラ)」よりも小型のヒモマキバイやエゾバイのこと。
北海道漁師の間では大型のツブは大味という評価がなされる傾向があり小型のツブが好まれる。
北海道漁師の評価はハナサキガニ>ケガニ>ズワイガニ>タラバガニ>ワタリガニという順。
内地(道外)の人間はズワイガニやタラバガニを美味いと言っていて本当に美味いカニを知らないと思ってる。
ちなみにワタリガニに関しては本物を見たことすらない北海道民が多く、小さすぎて食べる方法も不明なため不当に低い評価がされているのでワタリガニが名物の地方は怒って良いと思う。
アイヌネギとも。
私の旦那は北海道の今では限界集落指定されているド田舎出身だ。
旦那のご両親へ挨拶するとき空港から自動車で4時間かかり、最後の15分くらいはコンクリート道路ですらなく「私はどこに連れて行かれるのだろうか?」と不安になった思い出がある。
逆に旦那は本州(旦那の言う内地)へ出てきたときに驚いたのは「内地はどんな山奥でも木が真っ直ぐなってるの見てなんまら驚いたっしょ」と言っている。
本州出身だと気付きにくいけど、本当のド田舎の森や山はまったく人の手が入ってない原生林で、真っ直ぐ生えていることはないのだ。林業の人たちってスゴイ。
そして先日、旦那が言うのだ「内地の小学生は仲良いべな。毎日みんなで登下校してんべ」と。
私はアレ?っと思って「旦那クン、集団登下校って知ってる?」と聞くと「知らん……いや道新(北海道新聞)で10年くらい前にチラッと読んだような……あっ!」という怪しい認識だった。
「旦那クン、お察しの通りアレは集団登下校であって仲が良いから一緒に登下校してるわけじゃないんだよ。集合場所があって時間までにみんなで集まって登下校すんの」と説明した。
すると旦那は「何で内地はそんなおっかないことしてんだべか?」と純粋な疑問を持った表情で私に言った。
私は「危ないことないよ。むしろ上級生の子が車通り多い道を教えたりして安全に登下校させるためにするんだよ」と教えた。
「たぶん田舎では近所の兄ちゃんさ教えてもらえる山の歩き方みたいなもんだと思うけんど、それと子っこが固まるのは別だと思うっしょ」と旦那はいう。
ちょっと納得いかなくて「えっどういうこと?」と聞くと、旦那はすぐ「子っこが固まってたらクマの良いエサっしょや」と笑って返してきた。
旦那の言葉にビックリしていると続けて「子っこは大人の集団の中に居るから守られているべさ。子っこで集団作っても的が大きくなるだけっしょ。だからおっかないなぁと」という。
私はハッと気付いて「本州にはヒグマなんて居ないからね?居てもツキノワグマ。それも私見たことないし」と言うと、旦那は「内地には変態さ居るんだべ?アレは獣と変わらんべさ」と返してきた。
旦那は思い出を「俺のガキの頃は近くで熊出たなんてなったら鉄砲撃ちの爺ちゃん父ちゃんたち総出で熊追いしたもんだべな。いやぁなんまら美味かったぁ……」と語った。
「いや!熊食べてるし!!」
確かに集団登下校は普段は安全なんだけど、頭のおかしい変質者に対しては良い標的すぎる。
まず、木古内というのは、北海道の南、函館と松前の間くらいにある小さな町です。
少し前に北海道新幹線が開通し、駅前はガラッと変わって整備され、
特徴を上げるとすれば、そんな感じの田舎の町なのです。
僕はここに20年近く住んでいます。小学校から、今は無き高校にも通いました。
人口はどんどん減ってく一方で、お年寄りはどんどん増えていくような、そんなところ。
でもローソン、セコマ、セブンイレブンとコンビニがそろってる上に、
病院とスーパーも2件あって、昔ながらの商店も、飲食店も銀行もある。
個人的にはとりあえず住む分には不自由しないかな、とは思っています。
日常生活を送る分には十分な規模の町です。
いたとしても、近隣の町からスーパーに買い物に来たり、病院に通う程度。
新幹線が通るまでは、そんな感じでした。
知内のカキニラ祭りに行ったり、松前に花見に行ったりするときに通りすぎるだけの町から、
通り道だしついでに寄る、道の駅があるし行ってみる、車を止めて新幹線で内地に遊びに行く、
そんな町に変わりつつあるような気がします。
駅前を歩く観光客だとか、駅から歩いてきたような人たちがみそぎ浜にいる、なんて光景、
少なくとも新幹線が通って道の駅ができるまでは、あんまり見かけることがなかったのは事実だと思うんですよね。
僕個人の体感であって、正確な統計なんかはないからなんとも言えませんが。
まあ、そんな感じで、賑わいとまではいかないまでも、
以前よりはお客さんが増えつつあるこの町に、ホテルが建つらしいのです。
個人的には「いいじゃん!」と思っていたのですが、
家のポストに反対運動チラシが入っていたり、SNSでも微妙な反応を見てしょんぼりしつつ、
記するというよりは、所感を散文したという感がありますが。
新幹線開通の時にも色々ネガティブな話はあったような気はします。
まあ確かに、こんな田舎に新幹線が通ったって誰も乗らないんじゃないか?って一理ある。
木古内町から新幹線に乗って、青森・仙台には何度も足を運んでいます。
青森には世界で一番美味しいと思えるアップルパイがあり(個人の感想です)、
仙台の牛タンは一食2,000円とか強気だなと思いつつも、美味しいから惜しまずお金を払ってしまいます。
木古内から新幹線に乗って内地に行けることの一番のメリットは、
行きはともかく旅行帰り、空港に帰ってきてそこから車で木古内まで帰るのは、ちょっとしんどいものです。
話はそれましたが、そんなふうに僕は木古内町に新幹線がやってきた恩恵を、
思いっきり受けている人間なので(台風で飛行機が欠航し、新幹線乗り継ぎで大阪―木古内へ移動もしたことがあります)
新幹線ホームに自分以外の乗車客がいないと寂しいと感じはしますが、
新幹線については無駄だったとは思わないし、これから未来も、必要性もあると考えています。
積極的に宣伝なんかを続けていかないと、在来線みたいに廃止になっちゃうかも、
さて、ここでホテルのこと。
正直、木古内町に住んでいてわざわざ宿泊施設を利用することはないけれど、
付き合いなんかで中を見たことはあるので、どんなものかは知っています。
木古内町の宿泊施設はこれまで観光客をメインに泊めて来たわけではなく、
工事関係者なんかの寮みたいな感じで使われることが多いとは思うのですが、
それにしても、新しい宿泊施設ができて、そっちにお客さんを取られてしまう!という気持ちは、
でも、そこで町を叩くのは違うんじゃないか?と思ったわけです。
むしろ町はこんな田舎によくホテルなんか誘致したな!どうやったんだ?!と思うのですが、
反対運動のチラシには、町民の税金をどうのこうの、と書かれていました。
でも町が完全にお金を出すわけじゃなく、
資本金は町内の企業が集まって設立した会社から出るのですよね?
運営はホテルの業者に委託するみたいですが、町が緩和する固定資産税?だったかは、
木古内町に移住する人ならだれでも受けている恩恵のはずですし、
町に来てもらうために手を貸す、というのはおかしなはなしではないと考えます。
すでに木古内町にある宿泊施設からしたら、新しい所にお金を出して、
そこは平等に町もどうにかすべきなんじゃないかと思っていたら、
生き残っていけるよう頑張るだろうし、
どうにか知恵を絞りだして頑張るしかない。
個人的にはお互いこう、
協力していけたら一番なんじゃないかなあと思うのですが、
仲良くとはいわないまでも、うまくやっていけないもんかなあと思います。
すでに述べた通り「いいじゃん!」と今でも思っています。
よくある駅前のビジネスホテルよりも劣っていると感じているからです。
駅接続とか、徒歩1分以内!などの一等地のホテルを示しているわけではなく、
駅から徒歩10分、ネットでホテルを探すとき「価格の安い順」検索をして、
上の方に出てくるような、そこそこ安価なビジネスホテルと比較しています。
もちろん、従業員の人柄やおもてなしなんかで満足度は大きく変わると思いますし、
そこは満足してもらえるよう頑張るしかないのかな、と思うのですが、
僕は経営の専門家ではありませんので、このあたりは控えさせていただきます。
でも、新しい施設でなくたって、繁盛しているところはたくさんありますよね?
僕個人の気持ちとして、もし遠方からの知人や友人を招いたとき、
見栄じゃないんですけど、そしてきっと、
「なんてことを言うんだ!」とお怒りになるのも覚悟のうえで述べますが、
今ある宿泊施設に友人を泊めて「こんな程度のところしかないのか」と思われるのが、
ちょっと恥ずかしいなと思うのです。
いや、だからと言って、新しいけど単なるビジホに友人を泊めて、
「どうだ!僕の住んでいる町はいいところだろう?!」と胸を張れるかというと、
それは否、なのですが。
言葉を飾らずに言うと
「都会ほどのものとは言わない、まともなビジホ一軒ぐらいあったほうがいい」
身銭を切って投資をしなければ、今後落ちぶれていくだけです。
どうにかして、道の駅だけでなく、木古内町に訪れてもらうきっかけを作ろう。
そう努力している町は頑張っていると思うし、
そこに手を上げた企業の方々は、これから頑張ってほしいと思います。
これからも頑張ってほしいな、と思うのです。
非難の声を上げるだけではなく、前向きに受け止めてほしいな、と。
ぷよぷよのプレイヤー、通称【ぷよらー】は今、ネットプレイヤーがゲーセンプレイヤーに進出するなどリアルを求めた活動を行うようになりました
それは、ぷよぷよ2ちゃんねるのような対戦相手が【匿名の存在】という概念から外れるとともに、SNSの利用によってこのゲーム以外の交流・中には結婚される方もいる等【現実世界の知り合い・友人】への変化も見られるのです
貴方にとっては単なるネットプレイヤーの一としか思っていないぷよらーであっても、貴方の周囲のぷよらーにとっては【現実の知人ぷよらー】かもしれません
このように、ACグループとSNSグループの垣根が曖昧になってきている事を前知識として説明しましたが、ここまで説明したにも関わらず、周囲に攻撃性を撒き散らす危険な性格のぷよらーがTwitterには潜んでいます
矛先が向けられたり、炎上の飛び火を浴びないためにも2つの例を紹介します
Twitterは140文字の制限があり、140文字間近まで文章を詰め込む事には賛否両論があるかと思います
しかし、ただひたすらに
「あの戦略は成長しない」
ビジネス心理学によれば、こういう体系の方々は、ドリームキラーに分類される方です
これらの方々は貴方の上達等気にはしていませんし、批判により自身が上位の立場であろうとするプレイヤーです
この手の人は、このゲームの強さを頭の良さと相関関係があると主張する癖があるので発見しやすいです
批判オンリー、名指しで他者へのネガティヴな発言を繰り返すプレイヤーをフォローしますとやる気の低下にも繋がりますし、楽しむためのゲームで余計な心労を抱えかねません
このような方には、貴方のツイートを読ませない方が賢明ですのでこっそりブロックをお勧めします
冒頭に説明しましたが、ネットぷよらーは匿名の存在ではなく、他のプレイヤーを経由すれば何処の誰かまで判明しかねない現実の相手なのです
それを踏まえた上で、真剣な場で「〇す」などと発言できてしまうプレイヤーがいるのです
アカウント削除される程のペナルティを受けても、まだ自身の凶暴性に気付いていない人がいます
このような暴力的な性格を制御できないプレイヤーは、ネットの相互フォロワーやACメンバー、他のAC団体、リアルの知り合いにも容易にその牙を向けるでしょう
何故なら普通のプレイヤーは、冗談でも真剣な話し合いの途中で【脅迫】など考えもしないからです
1はやる気に関わる話、2は説明不要かと思いますが命に関わる話です
もしもこういう方がACに参加しているなら、表面上だけの交流に留めTwitterでもフォローバックせず放置で良いです
この文章を読んで顔真っ赤にしている方がいたら、読んでる貴方にはその覚えがあるのでしょうね
批判し続けた相手や「○す」をリプライした相手ぷよらー達が、近い内地元の大会に遠征してくる事になった時、何が起こるのか、どこまで一般人を巻き込むのか気になってたまりません
詳しくはココ。
→2枚のガラスの間に断熱性の高いアルゴンガスを封入したサッシ。ドイツではシングルガラスのサッシが禁止されて久しいので、もう複層の方が安い。歴史的建造物の復元とかでシングルガラスが使われるときはなかなか手に入らんで大変とか聞いた。
・外断熱というのは具体的にどういうものなのか
→簡単に言うと建物の躯体を断熱材ですっぽり覆うもの。外の気温の影響が小さくなるので躯体自体の温度の上下幅が少なくなり、夏涼しくて冬暖かくなる。躯体が雨風に晒されないので寿命が劇的に伸びる。木造日本家屋でも外張り断熱の技術が完成している。
→複層やと、アルゴンガスの断熱性で内側のガラスが冷えないので、結露しない
・湿気に強いってところ
→内断熱やと、夏に冷房で躯体の内側に結露するので、湿気がどんどんたまって、内装がカビたりダニが繁殖しやすい。外断熱やと、内外の温度差は建物の外にあるので、内側に湿度はたまらない。ただし、断熱層と躯体の間に通気層が必要
→縁側があって広くひらく開口部があって通気性を大きく取るのが日本の家屋という先入観か。外断熱は夏に弱いという誤解か。ともかく、北海道では夜のうちにストーブが切れることは凍死を意味する時代もあったわけで、チョー切実な問題やったてことやねん。と言っても、北海道ですらあんま分かってない建築士も多い。技術屋とは建築士や設備設計士のことです。
・一体日本のどこなんだ
・あとFITというのも俺は初耳で
→自然エネルギーの固定価格買い取り制度。feed in tariff。風車とかの設置費用が高くて普及しないのを解決するため、風車で作った電力をペイする金額で一定期間高く買い取ることを約束する制度。必ず儲かるのでバンバン普及→規模の経済が働いて風車が安くなる→さらに風車が増える→…。ただ、高く買い取る分を誰と誰がどんな割合で負担するか決めたりとか安くなっていく分を正確に見積って適時に買取価格を下げたりとか大変。
みんな外断熱+熱交換器+low-e複層ガラスの優秀さが分かってない。技術的・商業的には既にゼロ・エミッション住宅は完成してるのに。結露や夏場の暑さ、湿気にも強いのに。
内地の建築士は特に意識が低い。北海道の技術屋は「吉田兼好の呪い」といってる。
札幌市では、小学校の体育館をまるまる外断熱施工して、人の体温だけで暖が取れるようになってるとこもある。大災害時の避難所になるから。
断熱厚さ300㍉のゼロエミ住宅を見学したことあるが、外は氷点下10度なのに15人ぐらいで内覧してたら暖房なしでどんどん暖かくなり、みんなコートを脱いだ。
千歳の外断熱改修した分譲マンションは、1月で寝る前室温26度に上げて、暖房切って寝て起きたら21度ぐらいやと。
課題はコストだが、普及すれば劇的に下がる。やり方は簡単で、新築にlow-eと外断熱の断熱厚さを義務付ければよい。効果はEUで証明されてるし、FITより楽チン。
制度化できないのは、普及させたくなくて抵抗する業界が強力だから。具体的には石油・電力・ガス
https://anond.hatelabo.jp/20170901172529
私よりずっとこのような事件に詳しい2氏ならば「6000人にはこんなにしっかりとした根拠がありますー! バーカバーカ!」と
が、それをせずに迂回した。
これはたしかにダセエ。ダセエのでブコメで端的に指摘しておいた(b:id:ss-vt)。で、ここでも書いてみる。
すでにBuzzfeedでも報じられているように、古賀議員は都議会において、大正9年の国勢調査をひいて関東地方の朝鮮人人口の少なさを指摘している。
が、この当時朝鮮人の内地への渡航は急増していたのである。大正9年の国勢調査では、内地の朝鮮人の総人口は40,755人。いっぽう同年12月末現在の内務省警保局による調査統計では30,189人となっているが(多くの要因で数字に大きな差がある)、内務省統計を年次ごとに追うと大正10年38,651人、11年59,722人、震災の起きた大正12年末には80,415人に至っている。これには朝鮮の植民地化に伴う小作農の貧窮化や、第一次世界大戦後の好況に伴う内地の工業化・都市化の進展、また大正11年末の渡航自由化(大正8年以降、三・一独立運動の影響で朝鮮人の内地渡航は制限されていたが、企業は日本人よりも安価な労働力として朝鮮人を求めた)など、複数の要因が影響している。
東京府 2,485人、
埼玉県 78人、
千葉県 40人、
神奈川県 782人、
合計3,385人。
震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆 / 山田昭次 / 日本史 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/society/14990
から大正12年の数字を引用して、古賀議員の発言形式に合わせると、以下のようになる。
東京府 8,567人、
神奈川県 3,645人、
合計12,840人。
「工業化・都市化の進展」に伴って多くの朝鮮人が労働力としてやってきたため、東京・神奈川といった都市部や工業地帯に集中しているわけだが(横浜での虐殺目撃証言の多さにも反映している)、少なくともこの時点で、
とは言えなくなる。
また自分が直接参照した一次資料として、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている『在京朝鮮人労働者の現状』(東京府学務部社会課、1929年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445292 には、大正12年の「在京朝鮮人労働者」は5,347人と記されており(警視庁調べ)、アジア歴史資料センター所蔵の『在京朝鮮人状況』(朝鮮総督府警務局東京出張員、1924年5月) http://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B03041602800 によれば、「八月末震災直前の見込綜数は八千人を超へ」ていたという。
繰り返しになるが、とりあえずこのあたりで「6000人という数字は当時の関東の朝鮮人人口より大きい」とは言えないことをご理解いただけるだろうか?
ちなみに6,000という数字の具体的な出所は、震災直後に在京の朝鮮人迫害事実調査会が独自に調査を行い、上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』に12月5日付けで発表された数字6,661人。この調査の10月末までの中間報告では2,613人という数字が出ていて(当時東京で催された経過報告会でも発表された)、その後さらに神奈川県で遺体を発見できなかったおよそ1,800人などが追加されている。シノドスの山田名誉教授は「追加合計数の根拠を今日解明することはできない」としていて、その点ではたしかに6,000人という数字の根拠は薄いのだが、同時に帝国政府がマトモな調査を行わなかったことにより、これをデタラメであると断ずる根拠もまた乏しい(はからずも、秦郁彦が『当時ロクに調査せず公文書も終戦時に焼きまくった以上、30万人に代わる数字を日本側から出すのは無理』と嘆いた南京事件と似ている)。少なくとも犠牲者数のもっとも大きな数として採用せざるを得ないわけである。
内閣府のホームページで公開されている、災害教訓の継承に関する専門調査会による報告書 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf で
殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。
という書き方になっているのは、そうした事情によるだろう。
追記
b:id:y-wood 8500人のうち6000人殺せるのか、すげー。『「6000人という数字は当時の関東の朝鮮人人口より大きい」とは言えない』
揶揄のたぐいだとは思うけど念のため。
「6000人」というのは虐殺犠牲者の総数である。東京府の朝鮮人人口と比較するのは不当。ついでに、古賀議員が何故か東京・神奈川・千葉・埼玉に限定しているのもいささか不当で(たとえば群馬でも、自警団が警察署を襲撃して朝鮮人17人を殺害した藤岡事件などが起きている)、山田名誉教授のシノドス記事によれば茨城・群馬・栃木を加えた関東地方1府6県の大正12年朝鮮人人口は14,144人となっている。
また、山田名誉教授の著書内容の、内閣府の報告書のコラム『殺害事件の検証』 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/22_column8.pdf からの孫引きになるが、例の「6,661人」のベースとなった在京朝鮮人側の調査では、東京府の犠牲者数はおよそ1,000〜1,400人。最終的に『独立新聞』に掲載された数は1,781人となっている。
y-wood氏の言葉を借りるなら
「8500人のうち1800人殺せるのか、すげー」
となるが、現実味は如何?
b:id:fu-wa 戦争知らないんだろうなあ。戦車でダーってやっても6000人殺すのってものすごく大変なんだよ。
ルワンダではそれこそカマとか棍棒とかのたぐいで、およそ100日で50万〜100万人が殺害されている。こうした事態と「戦争」を比較するのは不当。まして、繰り返しになるが「6000人」は関東地方1府6県の総数である。「戦争」を持ち出すなら、せめて戦域や作戦継続期間が同程度に及んだ戦闘でなければならない(それでも戦闘員vs戦闘員では不当だが)。
退避する。ではすまないだろう。放射性物質は存在する。地元を再建したいという気持ちも残る。
「お前たちも甲状腺がんになれ。子供と老人の命で私たちへの差別を贖え」という声が少なからず出るだろう。
危険性をシビアに見積もる人々は、こうした声を自己責任論で一蹴せずに応答できるだろうか。
沖縄の米軍基地について「引き取り論」(内地の人間が地元に基地も誘致せず、反対と平和を唱えるのは欺瞞的だという主張)が存在するのに、放射性物質に同様の議論が起きないという保証はない。しかもこちらには撤去(なくす)という選択肢は存在しない。
新潟日報は引き取り論を知っており、震災瓦礫にこれを当てはめたことが泉田おろしに加担する口実になってしまった(一番はレイシストをしばき隊シンパの幹部の言動がすっぱ抜かれたことだが)。彼らは鳩山政権崩壊後に新潟が普天間基地の移設先になったときどう行動するか、参院選候補に訊いて回っているのだ。
福島県と繋がる阿賀野川(このことが東北電力が新潟県を管轄する理由となっている)は放射性汚泥を運んでいる。つまり、すでに流域の下越地方は厳正な意見を採用すれば汚染されている。このことに現職の米山隆一は基本的に関心を示していない。
新潟市は国の基準に則って処理を進めたが、既に危険なものを少しでも分散してリスクの平等を実現することは同じ日本の住民としての連帯感情を示すものと言える余地はないのか(もちろん、私自身はこれは皮肉も含んで言っている)。
話を戻す。「拉致も原発も抱える新潟県民が何故、米軍基地を受け入れないのか」。こうした反基地活動家の声を、たびたび新潟日報が取り上げてきた。
ならばこの問いが可能か聞きたい。「がれきや汚泥の危険性や、原発の押しつけが差別だと解っているのに、なぜ放射性物質を受け入れないのか」と。前知事の泉田裕彦の言動を巡って、新潟県民と福島県民の間に同様の葛藤を見ることは可能なはずだ。