2018-11-05

じいさんの経験した太平洋戦争

太平洋戦争最中、じいさんは広島県の呉にいた。海軍パイロット養成校(予科練と言っていた)に所属していたじいさんは、パイロットではなく整備工になるために入ったらしい。

呉は今では見る影もないが、当時は軍港としてかなり栄えていた。有名な大和武蔵もその目で見たらしい。建造していることは内緒だったが、あんなでかいんはバレバレじゃ、と笑っていた。武蔵山口の沖ですぐ沈んでのう、と目を細めながら言っていた。何人か、同期も武蔵と一緒に沈んだとも。

整備工になるために予科練に入ったじいさんだが、残念ながらじいさんが最高学年に上がる頃には戦況は悪化していて、訓練機すら飛ばせない状況だったらしい。

じいさんはその頃から毎日毎日軍事工場飛行機を作っていた。

元々、機械弄りは好きだったじいさんは飛行機を作るのは楽しかったらしく、メキメキと腕をあげたようだ。あまり戦争のことは話したがらない人だったが、海軍飛行機いかに苦心されて作られていたかは楽しそうに喋っていた。

戦争に負けるな、とは何となく感じていたが、上官が怖かったし、そんなことを口に出せる空気ではないころ、呉にアメリカ飛行機が不時着してきた。

勉強がてら、じいさんは同期と連れだってアメリカ飛行機(グラマンといっていた)を見学に行った。

そこでじいさんは「あぁ、この戦争は負ける。」と確信したそうだ。

「わしらはな、飛行機を手でネジを締めて作る。アメサンのはどうじゃ。リベットうちじゃ。ダダダダダ、と作るわけじゃ。作る数がそもそも違う。こんな戦争、勝てるわけがない。」

グラマンそもそも内地まで飛んで来とる。本土決戦で、みな死ぬ

それが、17歳のじいさんの太平洋戦争に対する結論だった。死にたくはないが、死ぬしかない。

昭和20年8月6日、じいさんは工場でいつも通り、朝の体操をしていた。突如として、工場ガラスが、ビリビリ、と音をたてて鳴った。なんだなんだ、と外に出ると、有名なキノコ雲が広島の街のほうにあがっていた。

原爆だ。

じいさんの生死を分けたのは、宇品工場に配属されなかったことだ。宇品に配属されていた同期は救出隊として投下直後の市内に入り、黒い雨を浴びてその後の10年でバタバタと死んだらしい。

運の悪い事にたまたま休暇で広島の市内に戻ってしまった同期は、大火傷を負って呉に帰ってきた。1ヶ月もしないうちに亡くなったそうだ。

そうして、知り合いや同期が死んでいく混乱のうちに、戦争は呆気なく終わった。

じいさん達の基地には進駐軍がやって来てキャンプをはったので、仕事もないじいさん達はキャンプに忍び込んでは物資をかっぱらい、闇市でさばいていたらしい。「あそこは元々わしらの基地じゃしのう。」とあまり悪びれずに言っていた。

実家に帰ってこないじいさんをひい祖父さんが連れ戻すまで、そうやって生計をたてていたらしい。

戦後予科練学校としては認められず、じいさんは小卒の学歴になってしまい、ずいぶんと苦労したらしい。職を転々としながら、職業訓練校に通って資格を手にし、最終的には水道工として定年まで勤めあげた。

飛行機を作っていた頃の経験が生きたのかは分からないが、子どもの頃のじいさんは自転車草刈り機の発動機やら、何でも直せる人だった。

じいさんは戦争によって勉強することも出来ず、学歴も手にすることが出来ず、戦争を恨んでいたのだろう。戦争の話はしたがらず、呉には生涯、足を運ばなかった。

本当は、京都大学物理学勉強たかったじいさんは、自分学歴の無さを生涯恥じながら、87歳でこの世を去った。

苦労しながら水道工として定年まで勤めあげ、身の回りのものは何でも修理できたじいさんは、恥ずべき事なく、立派な人生を歩んだと思う。

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