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2018-12-17

武井俊輔議員へ 何を仰りたいのか全くわかりません

https://www.facebook.com/100002110983459/posts/2131123246968021/

読解力には自信ある方なんだがマジで何言いたいのかわからない。

仕事でこんな文章上げてくるやついたら一年目の新入社員でも赤ペン入れまくってしばきます

国会議員自民党先生と言うのはこんなクソ文でオッケーなんでしょうかね。




武井 俊輔

12月15日 6:35 ·

【なぜこの時期に訪韓したのか】※長文ご注意

長文でもいいんだよ。

内容があればね。その文字数必要だったと納得させるだけの内容があれば。

日韓議連全日程が終わりました。参加すれば当然厳しい意見はあろうかと思っておりました。帰ってくるな!裏金をもらっているのか!売国!ガン!落としてやる!...なかなかなものです。

一つひとつに何か申し上げる気はありませんが、改めて私個人という意味においては、合理性という観点でみるならば、確かに極めて非合理的だったかもしれません。しかしそれでも行って良かったとも思っています。なかなか不思議感覚です。

不思議感覚です」じゃなくて、

それでも行って良かったと思えるのは何故なのかの理由を書こう?


ていうかもうこの時点で文章無駄にダラダラしてるんだが

「改めて私個人という意味においては、」「合理性という観点でみるならば、」とか、全部要りませんよね。

こういう馬鹿学生レポート文字数稼ぎみたいな無駄なセンテンスもずーっと続くので見て行こう

そもそも今回の訪韓は党から議連からも経費も出ません。全て自弁です。従って行く義務もまったくありません。しかも行き先は温暖なリゾート地でもなんでもない氷点下10度にもなる厳寒のソウルです。

この「僕個人は損をしてるんだ」(だからどうした馬鹿が)という同じ話がこれから何度も何度も何度も何度も出てきます


しかし私には私なりの思いがあって訪韓しました。私はいま国政の一席をお預かりしていますが、それまでに私は2度と会社を辞め、それなりに安定した生活を捨てて政治の道を歩んでいます。もちろん様々な葛藤は日々ありますが、その中でも自らの信念として歩むべきことは歩まなければ、政治家になった意味価値もありません。

私の事務所には小村寿太郎侯のポスターを貼っています。わがふるさと宮崎県の生んだ大政治家です。

小村がポーツマス条約を締結し帰国したとき日比谷焼き討ち事件が起こりました。日露戦争勝利したにも関わらず10年前の日清戦争と異なり賠償金が取れなかったことについて、国民の怒りとそれを煽動した者によって起こされた新聞社などへの放火を伴う暴動です。

しかし時の桂太郎内閣も、小村自身も当時の日本の戦力、ロシアの戦力を考えれば講和しかないと確信していました。(このあたりに興味のある方は吉村昭の『ポーツマスの旗』をぜひお読み下さい)

小村は当時の人、特に政治家には珍しく日記つけませんでした。歴史は後世が評価するという思いからだといわれていますが、小村の交渉術、成果はいまなお歴史においても、外務省においても高く評価されています

しかし私には私なりの思いがあって訪韓しました。」から

その思いと言うのが具体的にどういうものかについて全く説明が無い。

から長々書いてるけど内容が何も無いすごい駄文


なんで突如長々と小村寿太郎の話が始まるんだよ。

それよりお前がお前の現在の行動について説明するんじゃないのか。

するんならしろよ。それだけだろ。


話が逸れましたが、いまの訪韓がいま厳しい評価を受けることはやむを得ないと思いますしかし今回の対応、文大統領発言対応などについては一定の成果があったと思います

大統領公式に面会をするという一事は極めて重いことですし、それを額賀会長が直接伝えたことは意味があります総理からメッセージが出なかったのは事実です。しかしそれも含めての額賀会長発言であり、外交の極めて微妙駆け引きとはそういうものです。

からその一定の成果ってなんだよ。

大統領から現在の懸案についてなんか具体的な提案や表明を引き出せたの?

ないよね。

公式に面会したからなんなのw

ただの定例行事だよね。

「文大統領に会った(いつものこと)」

微妙駆け引きをした(具体的な報告は何もできましぇーん)」

これさあ、何の成果も無いのにわざわざ行ったっていうだけのことだよね。


どうしてこんな時期に行ったのかの説明も出来ず、

行ったことで獲得した成果の報告も何も出来ず、

まりやらなくてもいいことをやったってだけだよね?

からもっともらしく装った口調で

こんな内容皆無の水ぶくれした文章書いてんだよ。


その上で、いまの訪韓国益に反する、との意見について申し上げます

そもそも私達は勝手政府与党の反対を押し切っていったのではなければ、隠密裏に行ったのでもありません。

そもそも、いつ、誰が行くかは公知の内容であり、私自身も岸田会長にも報告して参加していますそもそも自民党で最も多く参加していたのは幹事長派閥二階派です。

もし我々の行動が本当に国益に反すると政府与党判断があれば、表裏問わず勧告”があったはずです。超党派ですから、極端な話、わが党が全員出なくても成立するのです。

しかしそのような動きは全くありませんでしたし、また当日の開会式には長嶺駐韓大使も出席頂きました。この議連活動問題があれば、現場のロジ(足回りのお世話)はともかく大使が出席することにはなりません。

なんだこりゃw

「強く止められなかったか責任は党にあるんだもん!」ってか。

マジで1年目の新入社員みたいなやつだな。

お前の判断についてと、その判断理由と、お前の行動成果とを報告するターンだろ。


「行って良かったと言う不思議感覚

「僕は批判覚悟で行ったんだ」

「成果は微妙駆け引きだ」

自民党が止めなかったもん!」

お前さあ、何年目の何歳だよ?

こんな奴が議員でいいのか?自民党さあ。


批判される方はこのようにご説明しても批判されるとは思いますが、かくの如きをみても、政府与党としてもこの議連一定の意義と期待を持ってのことであろうことは、元外務政務官としての経験から確信を持っていえます

「僕達は期待されてたんだもん!」

「強く止められなかったのがその証拠!」

本当に重要役割として期待されてるならそれこそ

党の偉い誰かから「頑張ってきてほしい」「こういう交渉してきてほしい」とか激励なり指示なりなんかあるもんじゃないの?


「具体的に誰にもそんなこと言われてないけど外務政務官としての経験でそう思うんだもん」

話にならねえなこいつ。

冒頭に合理性と述べましたが、合理性だけを問えば東京に残って部会で厳しい発言をすることが費用対効果的にも最も合理的です。それだけで産経新聞評価してくれますし、こんな発言しました!といえば一定賞賛は得られるでしょう。

しかし逆に訪韓すれば冒頭のごとく叩かれますし、わが党の議員でもツイッターで煽るような意見を述べる方もいました。(それはそれで構いませんが、同じ党の議員なのですからネットに書き込む前にぜひ直接聞いて頂ければとは思いますが)

しかし、このような厳しいときこそ足を運ぶというのは私の政治的信念です。

私は日中次世代交流委員会という超党派議員団で毎年訪中しています公明遠山清彦代議士団長に私は副団長を務めていますが、今年で6回を数えます

6年前、初めて訪中したとき政権交代直後ではありましたが、野田政権での尖閣国有化の余韻が冷めやらず、極めて厳しい対応、いわゆる”塩対応”でした。第1回は日中国交回復35周年の年で、団として訪問したのは私達だけでしたし、訪中自体に厳しい意見も多く頂きました。

しかし私達はとにかく毎年、誰に会える会わないは問わず訪問するということで、訪中を続けました。

からその「政治的信念」って具体的に何よ?

そしてその信念でどんな成果を挙げてきたのよ?

それを説明・報告してくれよ。


Q「その行動の理由は?」

A「僕の信念です」

 「僕個人の損得ならこんな行動はしないのが合理的でした」

Q「うんそっか、で、行動の理由は?」

 「信念が理由ですじゃ説明になってないよね。あと君の信念って具体的には?」

 「んでその信念の行動でどんなよいものを獲得してくれたの?」

A「先輩も強く止めなかったですよね」

 「社が僕に期待してることははっきりわかりました」

 「成果は特にありません」「微妙駆け引きとだけ言っておきます

Q「お前ぶっ飛ばすぞ」

 

ってなるやろ。

こんなわけわからん会話が成り立たないやつ1年目のガキでも嫌だわあおれ。

指導したくないわあ。

会話通じないやつにはどうしてもキレ気味ぽくなっちゃうもん。


そしていま、まだまだ課題はあるもの安倍総理訪中、そして習近平国家主席訪日視野に入るまでになりました。いまは政治においても双方多くの交流が続いています。厳しい時期でも訪問を続けたことは間違いはなかったと思っています

から関係が非常に厳しくてボール相手にあるときに出向いていくのは

間違ったメッセージを送ることになる、って言うのがよくある批判の声だよね?

そういう良くある批判に対する反論説明すらないのかよ。

だめな企業サポート以下か。


かに今回の訪韓超党派ゆえの難しい部分もありました。一部政党幹部の方の文大統領をはじめとする先方に対する発言分科会での主張などは相手にわが国の主張の一貫性を誤解させる危惧も感じました。

しかしそれは超党派性格上やむを得ない部分でもあり、それは改めて政府与党が正確に伝えておかなければならないと実感しました。

こいつ駄目な点はわかってるのに

そこの説明になると自分意思判断希薄化させて

自民党が強く止めなかった」

超党派性格上難しい部分があった」

みたいに他人事っぽくまとめるのな。


その危惧デメリットが見えてた行動を敢えてとった理由説明

そこまでしたからには当然何か手柄をたててきたのだろうからその披露を頼むわ

って言うのがお前に今求められてることだろ。

そこについてはなんにも説明できないか意味不明な冗長駄文で逃げ回ってるわけだろ。


お前が今回の行動にきちんと説明できるものなんかもってないこと、

何かを誤魔化そうと言う邪心があることは逆にはっきりわかるわ。


その上で、ですが、もちろん私達の訪韓で劇的に変わることはないでしょう。課題は引き続くと思いますし、厳しい局面もあると思います

しかし、日韓引っ越しできない永遠隣国です。訪日韓国人は過去最高を記録していますし、ミョンドンを歩いても日本観光客が回復しつつあるこを実感しています政治が厳しいときなればこそ、経済観光役割果たして行かなければなりません。

わがふるさと宮崎アシアナ航空イースター航空と2社がソウルと結んでいます。この時期は温暖な気候を求めて、特に多くのゴルファーが訪れます。国と国との関係が厳しい時期なればこそ、しっかりおもてなししたいものです。

冒頭にも述べましたが、今回の訪韓は私個人合理性を考えればまったくメリットはありませんでした。しかし国政の一席を預かる者としての役割は果たすことができたと確信しています

から具体的に言えよ。

何をしてきてどんなよいものを獲得したのか。

何回も内容の無い言葉を繰り返すな。

胡散臭いやつだって自分からばればれにしてるだけだぞ。

また、私は安易アジテーター扇動者)にはなりたくありません。小村はけしからん擁護する新聞社けしからん!と煽れば、それは暴動になるのてす。

政治は常に抑制的でなければなりません。

あーあ。結局そんなことが言いたいのかよ。

「ぼくちんを批判するのは扇動者だーー!」「暴動こわーい」ってか。最低だな。

暴動が起きるほど注目される大物かよお前は。

んで、普通に非難されてるだけなのに「暴動だ!」とかいって被害者ぶるのは卑怯だろ。


そうやってひたすら言を左右にしたり暴動(笑)被害者ごっこまでしながら

あくま自分の行動や意思については新入社員レベル説明と報告もしない・出来ない・逃げ回るってことは

これはよっぽどやましいやつかよっぽどの無能ってことだろう。


前歴が外務政務官だってうから実務能力はあるのだとすれば

これはやっぱりなんか筋の悪うい人物なのではないかな?



私がお世話になっていた宮崎交通創業者である岩切章太郎言葉を集めた『無尽灯』(むじんとう)にこんな言葉があります

宮崎交通”が”あってよかった。宮崎交通”で”あってよかった。そんな会社になりたい。』

私も、たけい”が”いてよかった。たけい”で”よかった。

そう思われる政治家であり続けられるよう、精進して参ります

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

あーはいはい

小村寿太郎だの岩切章太郎だの人の言葉引用ばっかりで

自分の行動を自分言葉説明することは全く出来ずに逃げ回るやつなんだってことはよくわかったよ。

自民党という党のレベルもよくわかった。

2018-06-14

anond:20180614185723

黒船って内地に引きずり込んで肉弾戦やったら勝てていたのでは

だったら小村寿太郎はいなくてよかった

2014-04-17

TPP

牛肉関税なくせとか言ってるけど

アメリカは車の関税なくすわけ?

ただの平成不平等条約で、

また陸奥宗光小村寿太郎みたいな人が

あとで変えないといけないわけ??

よくわかんね。

米は、山岡さんに任せろや(美味しんぼ)。

外人料亭接待ね。

2012-10-23

日露戦争の和平交渉から戻った小村寿太郎は、迎えにあらわれた息子の顔を見て、

なんだ、お前、生きていたのか、といった。

一族剿滅、子供が殺され、自分死ぬ覚悟のない奴は政治家になるな。

水戸藩なんざ、粛正の嵐、政敵の年端のいか子供まで血祭りにあげて、

維新成就の暁には、名の通った人間は残っていなかった。

「俺の子供はどうなる?」 そういう奴は普通に一般市民してろ。

大の為に小を殺すのが政治家仕事だろう。

おまえらふだん、何人見殺しにしてんのかわかってんのか。

自分家族安全で当然とか、ふざけんな。

2010-08-31

http://anond.hatelabo.jp/20100831224651

伊藤博文合併反対を2年で翻したのを確定事項のように言ってるが「そういう説もある」程度の話だぞ

近年の伊藤博文研究で最も熱心なのが瀧川一博先生

最新刊が四月に出たばかりの、中公新書伊藤博文』。

伊藤之雄先生も昨年本を出してるけど、こっちは不勉強でまだ読んでない。

瀧川先生伊藤をよく弁護してるよ。「ヤヌスの顔」、硬軟両面があったって。

韓国での「文明」を推し進めたって。

議会も設置して、自治をうながそうとしてたんじゃないかって。

でもさあ、あなたのような事実の認定は、してないな。

伊藤が二年で併合策に与した、という箇所は、この通り。

 伊藤が翻意して併合を認めたのは、一九〇九年四月である。この年の三月三十日、

小村寿太郎外相は桂首相に「対韓大方針」および「対韓施設大綱」を提出した。

それは「適当時機に於て韓国の併合を断行すること」を掲げ、韓国併合閣議決定を迫ったものだった。

桂としては異存はないが、懸案は伊藤の意向だった。桂と小村は、

伊藤が併合に反対であることを熟知していたのである。

 二人は伊藤に併合の直談判を行うことに決し、四月一〇日、相当の覚悟をもって上京中の

彼のもとを訪問した。だが、伊藤はあっさりと併合を承諾し、桂と伊藤は肩すかしを食らった(『伊藤伝』下、八三八頁)。

こうして最大の障害が取れて、七月六日に韓国の併合が正式に閣議決定されるのである。

あなたは、最新の研究でも支持されている、伊藤暗殺前に韓国併合に同意していたという物の見方を、

「『そういう説もある』程度の話」と一蹴するけれど、

では別の見解をいう研究者論文は、具体的にどんなものがあるのだろうか?

ぜひ見てみたいから、教えて欲しい。見てみないとわからない。

伊藤・桂・小村の会談の事実は、伝えられているものと違うだろうか? 

あるいは、伊藤が表向き続けていたかもしれない併合への慎重な態度の方こそ、

本心だったといいたいのだろうか?

そりゃあね、ここからの判断は、史料を読む側が決めることかもしれないよ。

だけど、総理大臣外務大臣の訪問を受け、同意をあたえたというのは、よほど重い決断じゃないの?

俺だったらそっちを取るよ。

伊藤があくまで併合反対に固執するなら、閣議決定につながる言質をあたえるようなことは、するわけないんじゃん?

あとさ、高宗を退位させたのも伊藤でしょ?

いくら併合に慎重な姿勢をとってたからって、植民地経営の矢面にたって色々せざるをえなかったんだから、

恨まれて当然じゃない?

仮に、山県なり桂の方が併合推進派だった、と安重根が知ってたとしても、やはり伊藤を狙ったんじゃないか。

ネームバリューが違う。初代韓国統監で初代総理大臣近代日本建築の立役者。

一泡吹かせるのが目的だろうに、山県有朋じゃ役不足だろう。

2008-11-05

日本は侵略国家であったのか」を読む 補遺

http://anond.hatelabo.jp/20081101232814

 こんにちは元増田です。

 その後、台湾外交部からも抗議声明が出されたようです。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm

 しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、

http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm

とおっしゃっておられるようであり、

近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm

という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。

日本は・・・(中略)・・・相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」のか

見出し引用の出所は、田母神俊雄日本は侵略国家であったのか」2008年

http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。

古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫山室信一編、吉川弘文館2001年、をPDFHTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 まず、日露戦争後の日本中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。

日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。

 後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。

それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約ロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。

このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。

日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。

 実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 上記のような「条約よりも既成事実押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。

軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。

軍だけに責任を負わせることはできません。

安奉線が朝鮮半島満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。

 つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権拡張を図ることは不可能になっていたと言える。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。

 つづいて、中華民国期に入ります。

ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。

この間〔引用者注革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。

 まず、陸軍少尉中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。

 軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。

 古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。

 交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。

 つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。

第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツ軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国ベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。

 そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。

中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html


 このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。

しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。

 それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制意識が形成され、大衆呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権独立と、国内における大衆中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。

 さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。

 ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。

 その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。

しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本マスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動対象であったわれわれ外国研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか

江田憲治「民衆運動ナショナリズム1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf

 私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。

またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。

 
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