はてなキーワード: 内地とは
アメリカが台湾出身の運輸長官を即位の儀に代表として送り込んだのは中国への単なるメッセージってだけじゃないだろうな。それを受け入れた日本も含め、米日同盟に台湾を本格的に組み込む下準備のひとつなんじゃないか。
それだけ中国の脅威がリアルで日本だけで背負うのは大きすぎるって事でもあるだろうけど、逆に案外沖縄の基地問題は遠からず解消される可能性が出てきたと思った。
沖縄に基地が集中しているのは日本の領内(それだけなら内地に作ればいい)を守るためだけではなく、表面上国交のなくなった台湾を守るという言外のメッセージを与えるためでもあるわけ。もしも台湾が落ちれば日本を海上封鎖するのが可能になってしまうので、わりと日本としても死活問題(いわゆるシーレーン防衛)。
だから、辺野古の県外移設みたいなことを進めれば「台湾は見殺しにする」という誤ったメッセージを与えかねないんで難しい。これ含め、民主党は外交のほとんどを二国間関係で捉えて、アジアの戦略地図が見えてなかったのが外交でミスりまくった原因のひとつだろう。
なので、沖縄から基地を無くすには「台湾を国家承認して米軍基地をそこに移設」が唯一と言っていい方法だと思う。その案なら台湾は喜んで受け入れるだろうし、最近の動き見るともしかすると既に話は始まっているかも知れない。
中国が少子化で落ち着いて拡大戦略を放棄するまではアジアで封じ込めを続けるしかない。それをやらないで拡大戦略を放置すれば、華僑だらけの東南アジアが一気に不安定化して戦争になりかねないから。
結局大きな問題は何でもそうだが前提条件が変わらない限りどれだけ反対しても動かない。逆に条件さえ変われば今までなんだったんだと思うほどあっけなく変わったりする。だから沖縄から基地を無くしたいなら台湾の国家承認と基地の台湾移転を求める運動すれば近道かも知れない。無理なのは解るけど。
うちの父はひとでなしではない。
ただ、怒りで我を忘れたとき、自制がきかなくなるだけだ。
その不安定さと、不安定である自分を黙認できてしまう狡さはどこから来るのか。
わたしはずっと疑問だった。
実際、なんでもない思い出話として、虐待としか言いようのないエピソードを聞いたこともある。
殴ることへの罪悪感の薄さは、きっとごく普通に殴られながら育てられたことによって生まれた。
当然のこととしてきた常識を、父は疑っていないだけなんだろう。
でも感情は納得しない。
わたしは再び、なぜと繰り返した。
なんでうちの父は殴られて育ったの。
そして、ある推察を得るに到った。
父を殴って育てた、祖父の推察だ。
若者というだけで召集令状が来るような頃、祖父は同年代より早く正真正銘の家長となっていた。
階級的にはたかが知れているだろうけど、ともかく内地で新兵の訓練に当たった。
祖父はどんなふうに訓練をつけたのだろう。
当時の軍隊では体罰が横行していたと聞くけれど、祖父も殴っていたのか。
そうして、お国のために玉砕しろと言って、新兵を戦地へ送り出したのか。
そもそも、友人たちが次々に出征していくのを、祖父はどんな思いで送り出していたんだろう。
今となっては分からない。
祖父は内地で終戦を迎えて家に帰ったけれど、祖父と同年代の友人たちはほとんど誰も帰らなかったそうだ。
その状態で、待たせていた妻と幸せな家族を築けと求められことは、どんな気持ちになるのか。
祖父はひとでなしではない。
孫にはやさしい祖父だったし、昔のひとには珍しく体調不良の祖母に代わって父の弁当を作ることもあったそうだ。
自分だけ生き残って、未来を生きていくことを、祖父はどう感じたのだろう。
耐えがたく、許されないことに感じられたとしてもおかしくはない。
そのくせ、出世話で自尊心を満たし、死を免れた我が身の幸運をひけらかす道を祖父は選ばなかった。
祖父の目にはどう映ったのか。
殴って、殴った自分を許容させて、ほら俺は悪いことなんかしていないと自己正当化したくてたまらなくなった夜。
そういう夜があったとしても、理解はできる。
酒に溺れ、妻子に手を上げた理由を察することができる。
今ならば祖父に何が起こっていたのか説明してくれる言葉がある。
当時はなかった。
第二次大戦が終わったばかりの日本で、戦争の精神的な後遺症は見逃された。
少なくとも、祖父は見逃された。
誰も祖父を、父を、救わなかった。
誰もそんなことは追求せず、もはや戦後ではないと言われ、時が流れた。
わたしは殴られて育った。
もはや戦後ではないんだろうか。
本当に、戦後ではないんだろうか。
それなら、なんでわたしは殴られたの。
この身を苛む恐怖はなんなの。
誰のことも責められないで、わたしが悪かったのかと疑いながら生きていくの。
私が高校時代通っていた吉野家がつい先日なくなった。これで最寄りの吉野家が120キロ以上離れたことになる。
かの有名な「ジャスコ釧路店110キロ先」より遠いと言うと、どのくらい遠いかが…わからない気がする。
ちなみにその吉野家は「ジャスコ釧路店」こと「イオン釧路昭和SC」ではなく5キロほど例の看板側に移動したところにある「イオン釧路店(通称ポス)」のすぐ近くにあって私の帰り道になっていた。
未だにほぼ同じ値段だったインデアンでなく吉野家に寄って帰っていた理由はわからないが多分そんな時期だったのだろう。すき家もあったのでチーズ入りが食べたければそちらに行くこともあったが吉野家信者だったので大抵吉野家に行っていた気がする。でも今日言いたいのはそんな個人の趣味ではない。
今自分はその気になれば吉野家もすき家も松屋もあるしマックもモスもロッテリアも行ける生活をしてるけど自分ができるだけチェーン店の世話になろうとしない生活をしていたのはチェーン店が少ない街に住んでいたからなんだろうと思ってる。でもいくつか知るとちょっと勿体無かったと思ってもいる。
ここまで書いておきながら本題に入るのをすっかり忘れていた。なんで吉野家がなくなったことをわざわざここに書こうと思ったかというと衰退する釧路の風景をまた1つ見せつけられた気分になったからだった。生まれてから大学で内地に行くまでずっと釧路で生きてきた。その間進歩したことと言ったらせいぜい高速が伸びたことくらい(阿寒までつながったは最近のことだが…)で丸井はなくなるし駅前通りの衰退はリーマンショック以来酷いもので遂には広大な敷地にセブンができてしまった始末だ。あれもなくなりこれも無くなり新しい何かは出てこない。せいぜい春採湖畔に本屋ができたことぐらいではないか?
国も道も金が無いと妄想に基づく救い難い言い訳して無策を貫き通しているし万が一のことがあれば鉄道すら消えるかもと言われている。そんな中での吉野家閉店なのだ。私には希望や発展が奪われ続けているようにしか見えないのだ。
私が高校時代通っていた吉野家がつい先日なくなった。これで最寄りの吉野家が120キロ以上離れたことになる。
かの有名な「ジャスコ釧路店110キロ先」より遠いと言うと、どのくらい遠いかが…わからない気がする。
ちなみにその吉野家は「ジャスコ釧路店」こと「イオン釧路昭和SC」ではなく5キロほど例の看板側に移動したところにある「イオン釧路店(通称ポス)」のすぐ近くにあって私の帰り道になっていた。
未だにほぼ同じ値段だったインデアンでなく吉野家に寄って帰っていた理由はわからないが多分そんな時期だったのだろう。すき家もあったのでチーズ入りが食べたければそちらに行くこともあったが吉野家信者だったので大抵吉野家に行っていた気がする。でも今日言いたいのはそんな個人の趣味ではない。
今自分はその気になれば吉野家もすき家も松屋もあるしマックもモスもロッテリアも行ける生活をしてるけど自分ができるだけチェーン店の世話になろうとしない生活をしていたのはチェーン店が少ない街に住んでいたからなんだろうと思ってる。でもいくつか知るとちょっと勿体無かったと思ってもいる。
ここまで書いておきながら本題に入るのをすっかり忘れていた。なんで吉野家がなくなったことをわざわざここに書こうと思ったかというと衰退する釧路の風景をまた1つ見せつけられた気分になったからだった。生まれてから大学で内地に行くまでずっと釧路で生きてきた。その間進歩したことと言ったらせいぜい高速が伸びたことくらい(阿寒までつながったは最近のことだが…)で丸井はなくなるし駅前通りの衰退はリーマンショック以来酷いもので遂には広大な敷地にセブンができてしまった始末だ。あれもなくなりこれも無くなり新しい何かは出てこない。せいぜい春採湖畔に本屋ができたことぐらいではないか?
国も道も金が無いと妄想に基づく救い難い言い訳して無策を貫き通しているし万が一のことがあれば鉄道すら消えるかもと言われている。そんな中での吉野家閉店なのだ。私には希望や発展が奪われ続けているようにしか見えないのだ。
麻生氏が札幌を「奥地」と表現、というが、記事にあるような引用ができないなら表現なんて成り立たない。たとえば「○○氏は女性を『産む機械』と表現されたが」という前提の上で「女性は『産む機械』ではない」という表現に問題があるなら、全ての報道機関はこれを報道できない。こんなことに噛みついて、道民の票が得られると思わない方がいい。
そもそも、道民は北海道以外の日本のことを「内地」って呼んでんだぞ。「内地」というのは「内地(本国)/外地(植民地)」という二項対立で用いられる言葉だぞ。「奥地」なんてまだ本国内じゃんか。たとえ無意識であれ、道民のこの屈折した自意識を理解もしないで「奥地」なんて表現に噛みつくあたり、北海道のことをほんと何も分かってないんだな。
5年ほど東京に住んでいたこともあるのだが、その頃は「ただのあんころ餅だろ」としか思わず、興味がなかったのだ。土産で持ってくる人もいなかったので食べる機会もなかった。
ネットやメディアなどで絶賛されている様子を頻繁に見聞きするようになったのは、北海道に戻ってきてきてからだ。
「土産で貰って嬉しいものナンバーワンは赤福」「あんこは嫌いな方だったのですが、人生で初めてあんこを美味しいと思いました」「まさかここまで旨い餅がこの世に存在するとは」「新宿の百貨店で赤福を購入して持ち歩くと通りすがる人が片っ端から『どこで買ったのか』と訪ねてくる。みんな好きなんだな」とか、赤福の話は必ず絶賛である。
様々なご馳走をたらふく食っているであろう芸能人ですらも、「結局一番好きなのは赤福」という。
なんだ?ただのあんころ餅ではないのか?俺が思っている「あんころ餅」のはるか上をいくあんころ餅がこの世に存在するのか?
赤福こそ食ったことはないが、あんころ餅なんて何度も食ったことがあるぞ。だけど、「極上にうまい」なんて一度も思ったことがない。
そこまで皆が美味い旨い言うのなら、騙されたと思って一度だけでも食べてみたい。そう思って「こういう時のネット通販だ」と赤福公式サイトを開くと、
「お届けできない地域」
なんと、俺の住む街はお届けできないというのだ。北海道は札幌近郊しか送らないという。40年間も製造日偽装してたくせに、何言ってんだ、ちくしょう!
いてもたってもいられず、地元で売ってるあんころ餅を買ってみたが、そこまで美味しくない!想像通りの味!
俺は、別に和菓子は嫌いではない。むしろ、あんこは大好物である。おはぎ、おしるこには目がない大の甘党である。
それなのに、である。あんころ餅は見た目以上のインパクトというか、見て想像した味を超えてきたことは一度もない。故に美味しいと思ったことが一度もない。「ま、こんなもんだろ」としか思わないのである。
それが赤福はどうだ、みんながみんな一致団結して絶賛である。唯一まずいと酷評してる奴は、大概「そもそも甘いものが好きではない」ときた。そら、お前は美味しいと思わなくて当然だろ。
どうにも気になって【赤福】という二文字だけが頭の中をぐるぐると回り続けて終わらなくなってきた頃、朗報を耳にする。
再来週か…
来週札幌への出張があるのだ。だが、再来週は出張の予定は1件もない。
赤福だけ買いに札幌に行けばいいじゃないかと内地のおめーらは考えるだろうけどな。北海道とはクッッッソ広い大地だ。試され続けてきただけのことはある。
うちから札幌まで、JRで往復6000円だ。高速バスなら往復4000円だが、この積雪が酷い今高速バスに乗るなんて馬鹿のすることである。自殺行為である。
うーん、あんころ餅買うだけに往復4時間6000円…いや、雪が酷い今は往復6時間だ。
札幌に親しい友人が住んでりゃいいが、札幌の友人は皆上京してしまった。しかもみんなエリートときたもんで、海外出張ばかりでそもそも日本にいない連中ばかりである。
なんでエリートに囲まれた俺だけ北海道の田舎で安い給料でヒイヒイ言ってるのか理解できないが。
それにしても、近くにあるようで中々手に届かない赤福。
食べたいのに食べられない、どうしようもない歯がゆさだけを抱えて時間が過ぎてゆく。
なあ、赤福ってそんなに美味いんか?
そもそも皇室は大陸から渡来した農耕・騎馬民族の子孫で、日本全土が侵略で得た征服地。
被征服民は、やがて皇室に連なる『天孫民族』と同化し農耕民族となり、同化を拒否した一部被征服民が被差別部落民となった。
中世以降も南北に着々と侵略を進めていき、明治になってアイヌや琉球王国を併呑し、内地における侵略を完了させた。
このように、日本国の歴史はまさに侵略と搾取の歴史に他ならない。
このような侵略の伝統があるからこそ、日本によるアジア・世界侵略が起こったのであり、日本の民衆も所詮は「犯罪国家・日本」の構成員にすぎず、アイヌや琉球民族の犠牲の上に生活が成り立っている。
だからまずこの邪悪な日本を民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志たちが滅ぼし、反日闘争に協力しない全ての日本人を殺すことによって悪の歴史を捨て去るべきだ。そう思わないかい?
そんなことは読み取った上で、このツイートは母親への同情を上回るだけの理屈がないから母親への言及が大半を占めてるの。
「北海道のコメのまずさと内地のコメのうまさの違い。リソースを何に集中すべきか」と「母親がかわいそう」を天秤にかけて100文字のリソースを母親に集中させただけ。
なんでもそうだが、感情以外の部分で人を動かすには説得力が必要だ。ハテナ民は感情を優先させすぎだとよく言われるが、この一連のツイートには感情を押し止められるだけの中身がないんだよ。
に続く言葉が以下。
「それなら「ああいう属性の人種は滅ぼすべきだ」となったら「はい分かりました」と効率的に殺戮する技術を生み出す知性が奨励されるようになるのではないかと。」「僕は北海道米の美味さが怖い」
なんだこの話の飛躍は。この人は一つ前のツイートで「コメのようなものを寒冷な北海道で作ることがそもそも合理的だったのだろうか」と言っているのに。頭にブーメラン刺すの早すぎ。
このあたりで、この人は哲学的なことを言ってみたいだけで深くは考えてないんだろうなと思ってしまう。
自分の意見を補強するための道具に他者を使う時点で印象が悪いが、この人は他者の良くない点を指摘するどころか「僕は北海道米の美味さが怖い」と良い点を貶める方向で話を進める。
それでも我慢して、何かしら論理的な意見がこの後出てくるんだろうと読み続けたのに
「グルーバル・スタンダードとしては、塩やスパイスの効いた汁をかけて食べる方が正統的で、コメそれ自体の美味さを求めるのは、これはやはり信仰と呼ぶべきものの帰結だったのだろうと思う。
"お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな" でしかないじゃないか。
そしてあなたは、ツイート主は反省してるじゃないかと言う。確かに、
僕は憑き物が落ちたように大人しくなった。(中略)母は「もうあなたには何も言わない」と。(中略)母は「この家は昔からそうだ!」と吐き捨てた。
という母親側からの話も書けるあたりに、やはり反省してるのかもと一瞬思った。が、ツイートの端々から「あの時は反省したが、よく考えてみたら俺は悪くない」「母親やきららを作った人たちのような情熱や感情などというものは価値が低い。世の中を正すためには私のような感情に流されない人物が必要」という意識を感じてしまう。上にも書いたが、自分を良く見せるためには他人を利用することを厭わないサイコパスぽい雰囲気を感じた。これは完全にゲスパーだけどな。
こんな話しか聞けないのならそりゃあ
増田やブコメを書きに来る人は、皆なるべくきちんと自分の意見を表明したいんだよ。(大喜利は大喜利として楽しめばよいが)
「北海道の米うまくなりすぎワロタwwwww」というわりとどうでもいい一言と、増田のブコメにもある「やっぱりカーチャン不憫」という一言のどちらを書き込むか。そりゃあこういう結果になるだろうよ。
※※※※※※※※
読解力にハンディキャップのある人が数人いるのは日常のことだけど、スターついてるトップブコメが軒並みハンディキャップってどういうことだよ。
tetsuya_m 母親が気の毒。コシヒカリやあきたこまちも物凄いリソースをかけて作られた物なのに何を言ってるのか不明だし
chikoshootchikoshoot 母親が不憫すぎる。
murasakizarumurasakizaru 家計の範囲で食事作り頑張る母親に毎食「マズイ」アピールするのが「戦争」って認識なのか、、許されるの幼児のイヤイヤ期までだろ
morimariimorimarii まずこの人の学生時代の行為は母親にも生産者にも最低な行為だと思うし個人的には米を等級ではなく銘柄で評価する人は信用しないようにしている
母を泣かせてしまったあと憑き物が落ちたように大人しくなったって言ってるんだから、
自分でも異常な行為だった。母にひどいことをしてしまった。って思ってることが読み取れないの?
なおかつそのストーリー自体は話の枕で、北海道のコメのまずさと内地のコメのうまさの違いを誇張して表現しているだけだということも理解できないの?
北海道の米うまくなりすぎワロタwwwww こんな寒いところでwwwwうまい米つくるとかwwwww農家の人ヤバスギwwwww 米がまずけりゃ塩とかスパイスとかwwwwwかければいいのにwwwwwかければいいのにwwwww すごいとか通りこしてwwwwwもう怖いwwwww作れって言われたらwwwww兵器でも作りそうwwwww とにかくおまいらはもっと北海道の農家のすごさを知るべきだと思います
くらいの感じだろ。リソースを何に集中すべきか、っていう問題提起もちょっとはあるかもしれんけど。
あなたたちは
じょーじ・わしんとんは、おとうさんがだいじにしていたさくらのきをきってしまいましたが、しょうじきにはなしたのでゆるしてもらえました
っていうおはなしを聞いて、父親が不憫。ワシントンは父親にも植木屋にも最低な行為をした。一生斧研いでろクソ野郎。っていうのか。
言いそうだな。言いそうだ。
可視化されただけなのかもしれないが、文章を読む力が日本人から失われているように感じる出来事が多い。