はてなキーワード: 足枷とは
26歳、女、経験人数は40人
これが多いかどうかは知らないが、
私はセックスが好きだから、気持ちを入れることなく、男性とセックスできると思っていた。
もちろん、最初はそんなこと無かったが、いつからかこう思うようになっていた。
性欲も強かったし、今日どうしてもやりたい、と思ったら、マッチングアプリで適当な男性に声をかけてセックスをして用が済んだら帰ったり、
固定の何人かのセフレをやりたい日に呼び出したりしていた。
ある日を境に、あんなに強かった性欲が全然湧かなくなってきた。
セフレと長く続いて仲良くなりすぎて、セックスのためだけに呼び出すのに罪悪感を感じたり、
コロナでマッチングアプリで適当な男性に声をかけづらくなったりしたのも関係しているかもしれない。
週1でセックスしていたのに、気づけば2ヶ月以上セックスをしていなかった。
今更この年で、別に先にセックスしたっていいじゃない、とは思うけど
私は付き合ってない男性にセックスを誘われてしてしまうと、もうその人をチンコとしてしか見れないし、今まで私がヤリモクで会ってきた男性たちと同じように見えてしまう。
そもそも、夜になってホテルに誘ってくるのは、もともと相手がヤリモクだからかもしれない。
そんなふうに考えると少し傷ついた。恋愛しようとした途端、今まで私が好き好んでしてきたセックスが足枷になり、自分を傷つけるものになっている。
いつからか、ヤリモクで男性とセックスできるようになっていたけれど、これは私がセックスが好きだからではなくて、自分を守るためだったのかも知れないと思った。
下手に気を入れたら、そこに漬け込んで利用されてしまうから。心を無にして、セックスをするだけ。
私は胸が生まれつき大きい。これは私の武器だけど、男性といい感じになっても、この胸を見て皆頭がチンコになってしまう気がする。
ここまで相手にセックスに誘われるのだから、たぶん私は胸以外にも顔つきや話し方など、いわゆるヤれそうな女、なんだと思う。
今まで良いなと思っていた部分がすべてリセットされて、この人もまた、チンコか。と思ってしまうのはとてもつらい。
胸でもマンコでもなく、私という人間を見てほしいのに。無理なのだろうか?
私は、セックスが好きで割り切ってやってると思ってたけど、それは自分を守るための鎧で、
道を歩けば全員振り返ったり、TikTokで可愛い友達枠として出演しおすすめにのるような顔ではない。しかし、別に『ブサイクの写真貼ってけ』みたいなスレで貼るほどブスではないし、おっぱいも盛れば視線をゲット出来るくらいはあるし痩せ型だし、むしろ狙えば大抵の人と付き合えるくらいの容姿はある。しかも声も喋り方も可愛いので、外見とかイメージみたいな部分でさほど苦労はしない部類ではある。
でもお笑いキャラっていうのはよほどな才能がない限り、顔が良くないとか、声が低くてしゃがれてるとか、そういう特徴がないとなかなか難しい。私の顔とこの女の子らしい声では、みんな『面白いこととか言わないしツッコミとかしたら壊れちゃいそう』みたいなイメージを勝手にもたれて"おもしろの振り"を全く貰えないし、自分からボケても『え…どしたの汗』みたいな反応をされてかなり辛いのである。
私はどんどんボケたいしツッコミされたいし…イジリも歓迎だし。
でも世間は、私のような女の子には、常に微笑んで男性からのボケにはあはは…と口に手を添えて笑い、動きのあるボケにはちょっとびっくりし、下ネタ寄りの話には恥じらい、流れ的にツッコまざるを得ない時には『なんでぇ〜』と特に内容のない言葉を発し、ちびちびとカシオレを啜り…ということを無限に求めてくる。
だから私は、大好きなカシオレを封印し、永遠にビールを飲み続け、声を出来るだけ低くし、うんちちんちんという下ネタには爆音で笑うようにした。私は、あなたたちが思っているような人ではありませんよ、ということを示すために。
でも、それにもなんだか疲れてしまった。
どうすれば、私のことをお笑いキャラと認めてイジったりボケを振ってくれるの?
お笑い芸人も結局は同じで、よほどの才能がない限り女芸人は太ってるとか突き抜けたブサイクとかがないと難しい。言わずもがな、声も可愛いだけじゃ全くダメで、可愛い系なら嫌悪感を催すような行き過ぎた声じゃないと難しい。
お笑いライブをして渾身のネタをしても、アンケートの半分くらいは、私が可愛かったとか、声が可愛くて好きとか、いつもそんなのばっかり。一応褒める言葉ではあるので、周りは良かったね!と言ってくれるけど、別に嬉しくない。
しかもお笑いの世界というのはゴリゴリのホモソーシャルなため、他のコミュニティより、私にお花のように居ることを求めてくる。多少はお笑いに寄った話ができても、芸人同士だとみんな面白い奴ポジションを勝ち取ろうとするので、相対的に女であり可愛い私はお花のようなポジションに無理やり追いやられるのだ。
また、ここでもか…と、悲しくなった。
私はこの可愛いというディスアドバンテージを埋められるほど才能がなかったので、芸人を諦めた。
可愛いなら、それを武器にやればいいじゃんと言う人もいると思うが、だいたい女芸人というのは、
顔が可愛い→声が汚い
声が可愛い→顔が汚い
のどっちかではないだろうか?
どっちも可愛い私には無理だった。
何度も言うが突き抜けた才能があるなら別だ。
しかし、男社会であるお笑い界でやっていくには、上記のどちらかのイメージを勝ち取って『女捨ててます』アピールをしないと、芸人のくせに色付きやがって…と間違いなく言われるし、なによりもあと単純に客が笑ってくれない。
だって可愛いんだもん、お花みたいにニコニコしてて欲しいよね。
激しい例えツッコミとかして欲しくないよね。
わかるよ、その気持ち。
でも、自分としてはこれが辛い。
しかも、可愛いから成功できない…なんて言うのは口が裂けても周りに相談できない。
その後、アイドルは全員つまらないのでアイドル界でお笑いポジを目指すべくアイドルデビューすることになるのだが…これはまた別のお話。
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皆様コメントありがとうございます!思うところを書きます
A: その通りです。それは何度も書いてますが、その方には容姿云々が霞むほどの才能があったはずです。
芸人とかアイドルとか色々芸能の道を目指したことが経験があり思うのは、ある程度成功する人って才能があるんですよ。
滑り芸も才能の一つですし下ネタで笑いをとれるのも才能の一つです。
よければ下北とかでやってる小劇場の駆け出しのお笑い芸人のライブ見に行ってみてください!
めちゃくちゃ面白い人たくさんいて、何で売れない??と思う人もたくさんいます。
思うんですが、例えばお笑い芸人は面白いだけではスターになれません。運とか、カリスマ性とか、時にはお金とか学歴とか…そういう面白い以外の部分もある程度重要になってくるんです、そういうのを全部ひっくるめて才能と呼ぶのが良いのではと考えています。
そういう"才能"がある人は可愛くても売れます。
でも、才能も無くて、何もなかった私は売れませんでした。
これまでの経験とか、言われた言葉とか、全部ひっくるめると、中途半端に可愛かったのが足枷になったと思わざるを得ないのです。
A:その通りです。つまらなかったんですよ、端的に言うと。
でも、同じネタをもっと"可愛さ"から離れた女芸人がやればもう少しは上手く行ったのではと思ってしまうんです。それで、この自分のことを好きになれなくて、許せなくて、でも、可愛いから悩んでるって相談なんかできないんです。
Q: 何故ブスに整形しないのか
あれ、時間もお金もかかるし、痛い思いはするし、ブサイクにしてくださいって言ってそれを叶えてくれる医者っていますかね?
あと、整形は多少の変化はできても、一般の人が思ってるように全くの別人になれることは少ないんです。
とにかく、整形ってすごく大変なことです。
あと、何より言いたいのが、私は自分のアイデンティティを無理やり無くした状態でも売れたいとは思いません。
自分は自分のままで、人に笑って欲しかったんです。整形で無理やり自分を変えても、意味ないんです。
"お笑い"というものに蔓延る強烈なジェンダーバイアス、ルッキズムへの反感
ということをうまく伝えられていませんでした。
子供を産む/産まないで長年付き合った恋人と別れた、産みたくない方の話。
結論、マッチングアプリで良い相手は見つかりそうにない。なぜ無理なのかという話。
女性/ 29/ 首都圏在住/ 在宅勤務/ 年収600万/ 外見は武器にも足枷にもならない程度(だと思いたい)
「本と映画が好きです」系インドア無趣味。子供を望まない人にはなにかしら変わったところがあると思っていて、私のそれは多分欲求のなさ。
むかし書いた「無趣味」というエントリ(https://anond.hatelabo.jp/20180704200955#tb)を見返して、ああ無理だと思った。
...この条件を満たす人はPairs上に70人。アクティブじゃない人(プロフに休会中と書いている人やほとんど何も書いていない人)を除き、自分が相手の好みでなさそうなケース(私はお酒が飲めない、食べ物とスポーツに興味がない、旅行が苦手)を除き、理解できない自意識を持つ人(気取りすぎ/気にしなさすぎの写真とか、文字での表現の仕方とか)を除き、気づく、ああ私別に、この残った人たちの誰のことも好きじゃない。彼らだって別に私のこと好きじゃない。話して、共通点を見つけて、沈黙を分け合えるように支えあえるようになるかもしれないけど、そこにはなにもないなと。無理だ。
自分が好きなものがマイナーなものにカテゴライズされる傾向は偶然にしろ確かにあるんだろう
逆に言うなら、自分が好きとか面白いと思うものは売れない、疫病神みたいな傾向もあるのかもしれない
そういえば、庵野氏も似たこと言ってたけど、売れるものを作るのが命題だと精神的にキツいかもしれない
自分が反吐が出るほど嫌いでも世間で売れるなら、というのはモチベーションとしては社畜サラリーマンと変わらない
例えば、作品自体には愛はないけど、制作スタイルとかワークフローを構築したいとか、
視点を変えることで選択権のない仕事を少しでも面白くすることはできるように思う
例えばクトゥルーネタを持ってくると売れない、みたいなのがあったけど、
ニャル子で確実にそれは覆された感はある…
え?ニャル子はメジャーではない?
だとすると、それはそれで残念な気もするが、
それよりも平成ライダーとかガンダムではなかったか?という気がしなくもない
クトゥルーネタだと売れないジンクスは、どちらかと言うと映画の話であって、
サム・ライミのキャプテン・スーパーマーケットもその前作も、
最近のCGなりでダンウィッチの怪をやってもいいような気がするんだけど、
そのバックグラウンドというかスターシステムみたいなのが面白いわけだけど
日本のインスマスを覆う影と異なる脚色で、アクションなりエロなりを盛り込めたと思うけど、
あれはあれで、なんか長くない?という気がしないでもなかった
そう考えると、やはりインスマスは佐野史郎のあれがベストであって、
あれを観たのは自分がまだ子供で親戚の家に泊まっていたのだけど、
周囲からすれば迷惑だっただろうけど、テレビの前でワクテカして待機してたのを覚えてる
ネットはまだなかった気がするのだけど、
インスマスをテレビでやるという事前情報だけはキャッチしていた子供だった
佐野史郎もインスマスとか怪奇路線は本人も大好物のはずで、幻想文学が好きなはずだけど、
佐野史郎本人までバッシングされたぐらいだったように記憶している
冬彦さんブームというか、宅八郎と宮崎勤のような偏見や差別をマスコミも醸成してた気がする
結論としては売れる話とクトゥルーネタがまったく相容れないというか水と油なだけなのかもしれない
ラブロマンスな話を考えるとしても、彼女が半魚人とか、不死の恋人が登場するとか、そんな感じだろうか
そもそも、ラヴクラフト縛りみたいなのが足枷になっては良くない気もする
いずれにせよ、基本どうやったってホラーになるんだよなあ
日本人は経済という悪魔の祭壇に、捧げてはいけないものまで捧げてしまったんだと思う
持続可能でさえない、異常な価値観を親が子供に強いて、社会がそれを許容するような社会は、早晩立ち行かなくなって壊れる
少なくとも、そう思う
発達障害や愛着障害やパーソナリティ障害で、ジャックハンマーみたいに薬をモリモリ飲んで
冷静に考えたって、そんな人生や願望かなえるには犯罪でもやらないと無理っていうようなネットの病んだ価値観に狂ってその矛盾と苦しみを背負ってカーツ大佐みたいに悩んだ挙句、統合失調症みたいになったネット民や増田は
ある種で言えば、父祖の代の被害者と言えるのかもしれないし
まあ、彼ら彼女らはプライドだけは王侯貴族のように高いから、救いの手を差し伸べられることすら見下されてると怒り狂ってさらに精神を病むわけだが…
JRの車椅子乗車拒否の記事を見て、内容的にはあまり関係ないが思うことがあった。
私が入学した高校の1年生のクラス、出席番号後ろの子が車椅子ユーザーだった。先生からはその子の身体障害についての説明と、高校生活での関わり方をクラス全員に話された。
その子にはヘルパーさんが付いており着替えやトイレの補助はヘルパーさんがしてくれる。だか常にヘルパーさんがいる訳ではなく、移動教室などは生徒が手伝う必要があった。
入学して1週間後、クラス内のグループもある程度できた頃、先生に移動教室の補助を手伝うよう言われた。出席番号が前後で授業で関わることも多かったからだろう。グループの友達2人も着いてきてくれて、4人で話しながら移動教室へと向かった。
それから自然とヘルパーさんのいない時の手伝い=私となった。最初のうちは嫌でもなく、むしろ他の生徒とは違う選ばれた私、のように愚かにも優越感を抱いたりしていた。しかし、それも1ヶ月、2ヶ月、半年と続いていくと次第に疲れというか面倒くささが湧いてくるようになった。初めは一緒に居てくれた友達も、「先行っとくね」と言うようになった。移動教室にはエレベーターを使うのだが、東棟の奥にしかないため移動に時間がかかるのだ。予習や課題を授業前に慌ててするタイプの友達にとっては煩わしい時間だっただろう。もちろん私だってそういった時間が欲しかったが、他の子に頼もうにも厄介者を押し付けるようで気まずかった。その子は私以外にあまり話す人がいなかったのも一因ではあるが。
担任との面談の機会も何回かあったが、その子の補助係については何も触れられなかった。大変だね、ともいつもありがとう、とも。逆にそう言う事でその子を差別している事になると思ったのだろうか。そういえば担任は、健常者が障害者を補うことが当たり前になって欲しいと入学当初語っていた。私がその子の補助をすることを、喜んでまでとはいかないが、まさか嫌がっては無いだろうと思っていたのだろう。面談で補助係嫌です。疲れました。と言えたらよかった。言えなかった。言ったら差別になるから?不親切不道徳?わからないけど、他者からの評価は悪くなるだろうという事は悪い頭なりに理解していた。別の日に、周りの子に手伝い大変だね、と言われたことがあった。そこでもそうなの!本当はやりたくないのに押し付けられてるの!と言ってはいけないこともわかっていた。愚痴る事すら憚られた。相手が社会的弱者でこっちは強者だから。
私の高校は3年間クラス替えが無かったので、結局私の補助係は3年続いた。
文化祭で、3年生は体育館で出し物をするという伝統があった。私たちのクラスはダンスがしたいという話になった。しかし、出し物は全員参加のため、ダンスだと車椅子の子が参加出来ないという事で却下され、結局舞台劇をする事になった。
これには本人も申し訳なさそうにしていた。決してその子の存在が悪いんじゃない。けれど、結果としてその子がクラスの足枷になってしまった。
私だって移動教室の前に購買に駆け込んでパンを買いたかった。友達とだらだら話しながら歩きたかった。小テストの勉強をしたかった。高校のこともその子のことも嫌いではないが、どうしても私は3年間"貧乏くじ"を引かされたような気がしてならない。きっとその"貧乏くじ"を引くのは誰でもよかった。健常者なら。それが今の社会である。
最近は社会が"差別"に非常に敏感になっていると感じる。障害者差別、性差別、人種差別…etc 弱者側に目を向けるのはいい事だと思う。差別を無くそうとするのも。けれど、その差別に敏感になるあまり、"強者側"の権利が虐げられるのはどうなんだろうか。
(自分の書いた文を読んで思ったが、1番差別に囚われてたのは私かもしれない。思い切って補助係を断ってもよかったのかも。てへ)
追記 4/6
沢山の反応があってびっくりしてます。私は障害者の否定や差別がしたいわけじゃないです。ただ高校でこの様な経験があって、障害者の存在を疎ましく感じてしまったことも事実で、これ以上このような出来事が増えないといいなと思っています。綺麗事じゃない、経験した人にしかわからないことを伝えたくて書きました。今思うと高校かなりクソだな。学校のあり方社会のあり方個々人の意識を変えてかなくちゃならないよね〜〜
一つ訂正すると、その子は一応自分でも車椅子は漕げました。けど万一こけた時とかの為に誰かが傍にいる必要があったんです。坂道や段差もあるし。実際その子が漕ぐのと私が押すのは半々くらいだったかな、これについては私の書き方が悪かったです。その子が漕いでる時は周りからしたらよくある友達同士の移動中の風景に見えたかもね。。。
最初に言っておくけど特定の誰かの主張をレッテルを使わずに批判するのは問題無いです
いま"弱者男性論"でググってみたんだけど、
ちゃんと内容の整理された理論として確立されては無いよね弱者男性論って…
その時点で「弱者男性論を主張する人達」というのは使う人によって
都合よく定義をコロコロ変えられるレッテル以上の物にはならないよね?
こうも理論が整理されてない現状では仮に弱者男性論という理論を述べる人がいたとしても
だからその人を弱者男性論という言葉を使わずに批判した方が余計な議論をしなくて済むよね
改めて言っておくけど自分は弱者男性論を述べている人を批判する事については何も言ってない
「お前を倒すためにオレは生まれた! だから、お前を倒すことができる!」
戦うこと、目の前にいる“この個体”を倒すこと。
母に怪我を負わせたために廃棄されたロボットは、ここにきて母を倒すために生まれ変わった。
シックスティーンは人だけではなく、利己的にロボットの運命まで翻弄するんだ。
しかし、それでも詰めは甘かったといわざるを得ない。
今この場にいる母の覚悟を、シックスティーンは甘く見すぎである。
「確かに表面は固いけど、中身はどう? 間接部にも配線はいっぱいあるでしょうね」
「そこを狙うことくらい予測済みだ! 素手で引きちぎれるほど、俺のコードはヤワじゃないぞ!」
母は両腕を振り上げた。
「なにっ!?」
データには存在しない攻撃方法に、大型ロボットの対処が遅れる。
その隙を逃さず、母は攻撃を加えた。
「な、なんだそれは! 知らないぞ」
「今まで使える場面が無かったからね」
高速機動と空中旋回を可能とするブースター、日常生活において全く必要のない超音波ブレード。
戦いのために準備をしていたのは、何もシックスティーンだけじゃない。
この時、母の身体は医療用に施されていたパーツはなく、もはや完全に戦闘用だった。
「調理器具とかって、良いもの買っても持て余しがちよね。よく料理をする人でも、使う包丁は3種類くらいで落ち着くんだって」
「なんだ、何の話をしている」
「“専用包丁を使えるキカイがあって良かった~”って話。あなたのAI(お頭)で理解するには、ちょっとハイコンテクストだったかな」
「……侮るな! まだ左腕が動く」
「根性は認めるけれども、時間だから今日は終りね。お金には困ってないけど、1玉70円のキャベツは見過ごせないの」
その後もシックスティーンは大型ロボットの改良を重ねたが、いつも勝てそうで勝てなかった。
それもそのはず、母の体にはラボハテの最新技術が根付いている。
レギュレーションの問題はあったが、立場も状況も違う母にとっては関係のない制約。
同程度の実力なら、よりアドバンテージがあるか、足枷の少ない者が勝つのが道理だ。
世間一般から見れば、母の体は枷だらけかもしれないが、この戦いにおいては誰よりも自由といえた。
ちょっと本気を出せば勝てるだろうと思っていた相手に勝てないのだから。
これから書くことは、すべて本当のことです。
嘘をつく人が嫌いでした。しかしながら、人間だれしも嘘をつく生き物でありましたから、僕は億劫でなりませんでした。この世界には、いったいどれほどの嘘があるというのでしょうか。それとも、嘘というものは、人間が人間である以上、離れることのできない、いわば、足枷のようなものではないのか、などと考え、毎晩、眠ろうとも眠れぬ気持ちに駆られて、それから、戸棚の天板を外し、隠していた薬を口に運んで、それでようやく眠れる、というような生活を続けていたのでした。困窮した作家というのは、概してそのような生活をする生き物なのです。
知り合いの大塚くんが、わざわざ電車とタクシーを乗り継いで、東京の郊外にある小さな学生向けのアパートの一室にやって来て、金が無くなった、3万でいいから貸してくれ。貸してくれなければ、僕は明日にでも死んでしまうだろう、というのです。分かりきった嘘でありました。ははん、きっと彼は僕の弱さに付け込んで、競馬か、あるいはパチンコの軍資金を手に入れようとしているに違いない。僕はそう踏んで、やれ、お前のような人間に貸す金は、一円だって無い、と突っぱねました。しかし、大塚は酷くやつれた顔に、今にも死にそうな、それこそ、病床に伏した末期がんの患者のような姿で、半分泣きながら、僕にそれをねだるのでした。僕には、それを断る勇気がありませんでしたが、しかし、彼のそれを嘘であると見抜く自分の目が、また自分に嘘をついているのではないか、という疑念に駆られて、ひどく怖くなるのでした。
とうとう、僕は彼に金を貸す決意をしたのでした。いいえ、正確には、彼の求めた額の、ほんの数分の一でしかありませんでしたが(何しろ、このときの自分も、金には困っていたのです)、しかし僕は、その、天性のだまされやすさ、とでも言うべきか、はたまた、お人よしとでも言うべきものに従って、彼にそれだけの金を、預けたのでした。そうして、しまいには、雨の降る寒空の東京に、感謝の言葉……それも、見え透いた嘘でした…を口にしながら、いそいそと出ていこうとする彼を見て、僕は彼に、
といって、小さくお礼の言葉を繰り返しながら、彼の背中が消えていくのを見送る始末なのでした。
そんな小さな嘘をつく日々が、やがて行きつけの喫茶店のツケの催促状となって、僕の生活を、ゆっくりと侵食し始めたのは、今年の夏になってからのことでした。ちょうど、大陸産の……はて、確かなんとかという、新種のウイルスだったと覚えています……が、巷の人々の生活を、ゆっくりと変えていくのと同じくして、僕の生活も変わっていきました。
まずは、ある風俗嬢の話をしましょう。僕が住んでいる町は、決して良い場所ではありません。いや、僕の住むアパートの窓から、きれいな太平洋の姿が見えることを除けば、とても人が住む場所とは言えないのです。人気のない、寂れた街。住んでいるのは老人ばかりで、皆、学生運動の時代の人々です。僕のような若い人は、確かに住んでいるのもいますが、しかし、数は、とても少ないでしょう。そんな場所で、僕はもう3年も住んでいます。住めば都、とはよく言ったものですが、あれがもし日本の都であるというならば、この国は、もうおしまいです。
そんな街にも、歓楽街はあるのでした。僕はそこにある風俗店の、とある嬢と関係があって、それも、お金を払わずとも会ってくれるような、いわゆる「セックスフレンド」というやつでした。髪の毛を長く伸ばした、雅な彼女は、僕のことを襲っては、あなたとならどこまでも行きたい、というので、僕は困っていたのでした。僕からすれば、自分の欲求を満たせさえすれば、他のことはどうでもよいのでした。それに、彼女もきっと、自らの境遇を少しでも良くするために、僕にすり寄っていたのです……いや、しかし、作家と生活するというのは、彼女の生活よりも、はるかに地獄らしい地獄であることは、言うまでも無いでしょう。
浮浪者の数、それが増えたという些細な事実に神経が過敏に反応したのは、その彼女が、ひどくやつれた顔で、いつもは情熱的な行為も半ばに、半分泣きながら、僕の方によりかかってきた時だったのです。
「どうした?」
彼女は、僕に抱き寄りました。乳はそれほど大きくありませんでしたが、悲しくありました。華奢な体が、いつの間にか、皮膚と骨だけのようになっていました。寒かったので、リモコンで暖房をつけました。部屋は暗く、ぼんやりとしていました。
「仕事……無くなりました」
「お金か?なら僕が」
「いいえ、いりません」
貧乏な人。
僕はその言葉に、ただぽかんと、宙を見つめることしかできませんでした。
「そうか…」僕はそう言って、立ち上がろうとしましたが、彼女が僕の男根を触ってきたので、そのまま動かないようにしました。
彼女は、一流でした。芸術家でした。きっと、マネも、ゴーギャンも、彼女を見たら、モデルにしたいと思うでしょう。僕は彼女のなすがままに、身を任せました。気が付けば、僕の横で、彼女が倒れているのです。そう、一流の芸術は、それを見ているときには、芸術とは思えないものなのです。すべてが終わった後になって、それがそうだったと気が付いて、それで、唐突に称えるものなのです。
だから僕は、称えようなどとは思いませんでした。同時に、彼女を貶めようとも思いませんでした。ただ、せめて何かの助けにならないかと、思ったのです。僕は、彼女が一流の芸術家であることは知っていたのです。僕は、隣で静かに眠る彼女を起こさないように体を持ち上げると、枕元に、なけなしの現金を添えて、着替えをして部屋を出ていきました。ホテルの受付で、彼女がまだ寝ていることを告げ、足早に去りました。
寒い朝でした。僕の心も、冷たく冷え切っていました。口から吐く息が白く濁って、真っ白な東京に溶けていきました。きっと、その息の中に、僕の魂も溶けているのでしょう。あと何十万回と息を繰り返せば、僕はやがて倒れてしまうのでしょう。そんなことを思いながら、僕は行きつけの喫茶店へ向かいました。毎朝、彼女と寝た日の翌日には、その店で一杯のコーヒーを飲んで、焼き立ての目玉焼きを食べるのが習慣でした。
もともと、払う金もなかったのだそうです。部屋で、薬を飲んで死んでいたのでした。ベッドの上で。僕は、そう、きっとあの時、僕が目覚めた時には、彼女は部屋で、既に死人となっていたのでしょう。「この世で最も重いものは、もう愛していない女の体である」という言葉は、案外的を射ているのかもしれません。実際、彼女の体は、ひどく重かったのです。あんなに華奢で、弱弱しかったのに、です。
彼女の体重は僕が最後に彼女の…生きている彼女…つまり、生き生きとしているという意味での…彼女に会ったときよりも、20キロも痩せていました。彼女の住んでいる安アパートの大家さんも、同じことを言っていました。僕が作家であると言って、なけなしの三流小説のいくつかを持っていくと、取材とのことであれば、と言って大家さんは僕を家に上げてくれました。初老の女性でした。しわの多い、低い声の、優しそうな老婆でした。
「過食症ですよ、ご存じですか」
「いいえ、まったく」嘘。この春、僕もなったばかりでした。
「食べては吐くのです。精神的な病です。この前、私のところで、彼女のために飯を作ってやったのです。彼女は一人で、5人前も食べましたが、その後すぐに、全部吐き出しました。きっと、胃袋の中身は空っぽなのでしょう。私はそれを全部ふいてやって、それから、今日は遅いから早く寝なさい、と言いました。彼女も、いくらかそれを理解したようで、その日は早く眠りました。えぇ、目の色が、死んでいましたよ。あぁ言う人は、良くこのアパートを借りるんです。きっと、そうして、死ぬのです。ここは、自殺の名所なんです。あの樹海なんかよりも、ずっとね」
いつの間にか、僕は老婆の話に聞き入っていました。滅びゆく人間の話を聞くのが、好きだったのです。枯れていく花を見つめるのを、趣味としていた僕にとって、それは当然でありました。
「ほかにも、死んだ人が?」
「いますよ。伝染病が流行ってから、もう3人目です。みんな孤独ですから、私が代わりに葬式に立ち会っているのです」
一人は、サラリーマンでした。職を失って、いわゆる、リモートワークというやつになったのだそうです。画面越しに仕事をしているうちに、あぁ、彼は、自分が、他人に見られない場所にいられることに安堵したのだ。そうして、ふと、見られないならば、死んでもいいと思ったに違いない。アパートの二階で、首を吊ったらしい。大家の話によれば、彼の部屋に入ると、糞尿を垂らしていたという。きっと、すべてをあきらめた死刑囚と同じ気持ちだったに違いない。
もう一人は、哀れ、まだ若い女子大生。彼女は、部屋のドアノブにひもを括り付けて、死んだそうです。生気を失った人というのは、ちょうどゴム人形のようなのだとのことでした。体液で、部屋の床が変色するのです。皮膚は、とても冷たい、冷たい。彼女の遺言は、ただ一行だけで、それ以外には、何もなかったといいます。
寂しい
この一行に、どれだけの言葉がないまぜになっているのか、きっと君ならわかってくれるはずです。僕も、同じことを、何度思ったのか分かりません。
彼女は、卒業を間近に控えていました。卒業論文を書けば、良かったのです。しかし、彼女は、家庭の都合から、泣く泣く大学を辞めたのだといいます。僕とは大違いです。たくさんの猶予をもらった、モラトリアムな人間とは大違いです。彼女はまじめで、多くの人に悲しまれたといいます。それも一度だって彼女のことを見たことのない人も。
特に、テレビの報道はひどいものだったといいます。僕は、もうずいぶん長いこと、テレビなんて言うものは、俗悪で、卑猥なものと一蹴して、見てもいませんでしたから、そんなニュースを知りもしませんでした。彼女の死は、政権批判のタネにされたのでしょう。大家も、今の政治はだめだ、と漏らしていました。その言葉を聞いて、僕は悲しくなりました。
一人の死です。これほどまでに、あっさりと、人が死ぬのです。
僕は、大家に礼を言って、その帰りに、例の少女の墓を聞きました。近くの霊園にありました。立派な墓だったのです。きっと、僕は死んでも、こんな立派な墓は立ててもらえないでしょう。立ててもらえるとしても、僕は断るつもりです。
雨が降っていました。カエルが、一匹、彼女の墓石にできた水たまりで、ゲコゲコと鳴いていました。名前は、よく見えませんでした。僕も泣いていたのです。帰り際に、僕は一輪の花を見ました。何の花かは覚えていません。でも、とても、寂しいことだけは、覚えています。
*
949。
この数字が、何を表すのかは、ご想像にお任せします。きっと、僕のこの文章を読んだ人の多くが、ピンと来るはずです。だって、あんなに毛嫌いしていたテレビが嫌でもついていて、そうして、毎日のように流れてくれば、誰だって敏感になるのですから。
僕は狭い6畳のアパートにいます。学生向けの小さなアパートです。大の大人が、借りているのです。近所の人はみんな、学生です。
若い人というのは元気です。今日は、お隣の音楽学校の生徒が、バイト先の人たちと、ちょっとした遊びをしに行くのだといいます。僕がそれを知っているのは、アパートの部屋の壁が、とても薄いからです。前は、男と女の、汚い喘ぎ声が聞こえて、僕はいつも、すぐに部屋を飛び出して、近くの銭湯へ行き、用もないのに、やれ、世間話に花を咲かせる老人たちと、碁を打ったりしたのです。ですが、ここのところは、彼女たちの電話する声しか、聞こえてきません。あるいは、その、例の「リモート授業」とでも言うべきものを、受けているのでしょうか。
コロナ禍において[判読不能]、あるいは、私たちは自覚を持つべきです。若者が[判読不能]なことをしているために・・私たちが悪い…また今度。
そんな内容のことを、表では言いながら、例の、「遊び」には、行くのです。きっとこう書いて、そう、君、この文章をネット上で見つけた下世話な君は、ここだけを切り取って、「若者の乱れた考えが云々」という、お決まりの文句を言うのでしょう。僕がこう言っても、きっとそういうに違いない。お好きにしてください。僕は何もしませんし、それも見ませんから。
大人には、彼らの気持ちが分かるはずありません。きっとあなたは、この文章を読んで、そんな気持ち、皆同じだ。お前だけ特別なことのように語るな。それに、何だこの下手糞な文章は。お前は、太宰治にでもなったつもりか、というでしょう。
みんなと同じ。
そうです。その通りです。僕は、みんなと同じです。みんなと同じく、孤独なのです。きっと、あの病院で遅くまで働いているナースの彼女も、同じです。きっと、街中へ出て、夜まで飲んでから帰る政治家も同じです。みんな孤独なのです。孤独だから、寂しいから、みんな、死んでいくのです。
みんな同じなのです。みんな同じ気持ちなのです。ですから、みんな同じなのです。
なんとか、なる。
そう書いた作家もおりました。みんな同じです。
みんなで耐えましょう。みんなで耐えれば、良くなります。今こそ、農村地帯の、あの共同で助け合う気持ちが、大切なのです。みんな、そういいます。
僕の故郷では、旅人が殺されたそうですよ。バレないように、死体は埋めたそうです。ドラム缶でよく燃やしてから、埋めたそうです。みんな同じです。
僕は作家です。ですから、僕は今、目の前で起きたり、耳で聞いたりしていることしか、書いていません。それ以外のことは、妄想は、一行だって書いていません。僕の知り合いが、首を吊りました。僕の知り合いが、電車に飛び込みました。もうすぐ、始まります。みんな、合掌しながら飛び込むのです。こんな世界に、何の希望があるというのでしょうか。
みんな「またいつか」と言って、去りました。そのいつかに、用があるのに。そのいつか、は、もうやってこないのに。
いつか、という言葉は、とても面白いのです。いつ、という疑問の言葉に、か、という呼びかけを付けるだけで、日本人は、未来を指せます。そして、いまでないどこか、今でないどこかに、この「現在」から伸びる直線上に、架空の点を置いて、それを呼ぶのです。ひもを引っ張り続ければ、必ず訪れる、「いつか」をです。
でも、これを英語で言うと、とたんに「See you again」という言葉になって、変わります。「またお会いしましょう」というのが、直訳です。また、というのは、いつのことなのでしょうか。僕には、わかりません。
経験は、僕と未来の僕の間に、差を作ります。もしも僕が生きていたとすれば、そこにいる僕は「彼は昔の彼ならず」という言葉通りになります。何か大きな災害が起きて、僕は死んでいるかもしれません。何か、特別なことがあって、僕は生きているかもしれません。
それでも、あなたは、大人という生き物は「みんなと同じだ、我慢しろ」というのですか。
僕はそんなこといいません。「僕も同じです」といって、そばにいます。
それが、今の僕が吐くことのできる、精いっぱいの嘘です。
生理って基本的に女性にとってはデメリットでしかない足枷的なものだと思うし、私自身もPMSで困ったり、腹痛も初日、二日目あたりは市販薬をたまに使うくらいあったりするんだけど生理と生理中が結構好きだったりする。
生理が好きってどういうことだよ、意味がわからないと大半の人は感じると思うので、私が生理が好きな理由を書きます。
※生々しくて汚い話なので注意してください。
■経血のにおいが好き
あの独特のにおいが好きで小学生くらいからナプキンを取り替えるときににおいを嗅ぐくせがあって大人になってもやめられない。
実はこれはネットで検索すると「経血を吸ったナプキンのにおいを嗅ぐのが好き」という書き込みがあったりするので自分だけじゃないとわかって安心している。
角栓や耳垢除去の動画を見てしまう心理に近いものなのかもしれない。
■メノフィリアの気がある?
自分の経血に興奮していることをメノフィリアと言って良いのかわからないけど、ドロっとした塊やたっぷり血を吸ったナプキンを見ると興奮というかちょっとした高揚感があるし、生理中は性欲が強くなりオナニーをよくしてしまう。他人の経血に対して興奮するかはわからない。
生理中の全体的に身体に重しがついたような感じが好きでベッドに横になってひたすらボーッとするのが好き。ただ思考力や集中力も低下するので外出や作業を強いられるのはつらい。
■そもそも血が好き
子どもの頃に針でちょっと指を刺してぷくっと血を出すのが好きだったし、包丁で指を軽く切ったときに真っ赤な血が出ると少しワクワクする。ちなみにリストカットはしたことがない(跡が残って半袖が着られなくなるらしいので)
■まとめ
自分で書いてて本当に気持ち悪いと思うし、ここまで読んだ人は男女問わずドン引きしていると思うが、犯罪は犯していないし自己完結している性嗜好なのでこういう女が存在することくらいは許してほしい気持ちがあります。
生理で苦しんでいる人を傷つける意図は全くないのでこうして綴っているだけでも罪悪感があるのですが、本当にただ存在しているだけなので許してほしい…
自分は異常者なのか?加害性のある嗜好なのか?と悩むこともあるのでこうして書くのも結構勇気がいりました。じゃあなんで書いたんだよって言うと共感してくれる人がひとりでもいたらちょっと救われそうだからです。いる?