はてなキーワード: 最近とは
友人同士の貸し借りもあっただろうけど、同時に当時すでに大人になった人間の中にもゲームを趣味としている人が大勢いたわけでな。
そう考えていくと、シリーズのどれか一つの作品を取り出した分だと若年層のうち半数にも行き渡っておらず、シリーズ全体で考えても、やはりプレイヤー比率が過半数を超えたことなど一度もないと考えるほうが自然なんじゃないだろうか?
インベーダーやUFOキャッチャーのようなどこかの旅館で気まぐれに遊べるようなものならともかく、自分の部屋に腰を落ち着けて文章をじっくり読んだりレベルをちまちまと上げて何十時間もかけてクリアするようなゲームが人口の大部分に波及していたことがあるというのは思い込みにも程があろう。
もなーのAA ( ´∀`) が、大股を広げて、 うんこなんだあ、と言いながら、脱糞する、AAが昔はあったが、段々無くなって来た。
豚をぶったたく 命ある限り
といったスレッドばかりで過疎地域となっている。 2ちゃんねるは、 弁護士の間では、 遠隔操作事件があった頃から、過疎になっているという弁論が多くなっており、最初は
立野玄一郎医師のときは心神喪失、 書くべきときが来たら書きますけどあなたのいいなりにはならないよ、ということもあったが、飯沼病院には全く関係が最近ないので
令和3年11月5日
フトスギ係長は、 地区担当日報に、大承認、と書いただけの職員だが、 建造物は施錠してあって、103号室に森が住んでいることしか分からないので
二杉の親戚だと思いますが、
登大遊っていうけしからんおじさんが、日本とアメリカでは「エンジニア」って言葉の意味が全然違う、日本では「言われたものをつくる人」だけど、アメリカでは「ソフトウェアが使われるであろう全ての領域についてだいたいなんでもわかっていて、自分で決める人」だと言ってたのを思い出した。
https://www.youtube.com/watch?v=Uww1CZTXfXs&t=1459s
ITがつまらなくなったってよりは、ITなんてものはもともとつまんないよ。
ITがなんでつまんないかというと、(自分たちの課題がなんなのかもよくわかっていない阿呆な)顧客に要求されたものをつくるのが仕事だから。
それが90年代くらいからなんでおもしろくなったかというと、「IT」をやめたから。
コードを書ける程度に頭の良い人たちが、他人に言われた通りにコードを書くのではなく、自分たちで自らビジネスを営むことに目覚めたから。
「ビジネスパーソン」が試しもしなかった新しいやりかた + 動くコード で古いビジネスの習慣をどんどんディスラプトしたから、シリコンバレーみたいな面白いうえに儲かる世界ができあがった。
これは「テック業界」みたいな言葉で、(特にSIer的な意味での、顧客に要求されたものをつくることが仕事の)従来の「IT」とはやんわり区別されてることからもわかる。
つまりコードを書くことを「IT」だと思ってて、「IT」を一瞬面白いと思って、今は「IT」がつまんないと思うようになった元増田は、もともとつまんない奴だったわけ。
(余談だけど、ここ2,3年のシリコンバレーの崩落も、儲かった結果「ビジネスパーソン」の割合が増えちゃって、「他人の言う事を聞かず自らビジネスをやる、コードを書ける人たち」の割合が減っちゃったからかもね)
せっかくソフトウェアを書く能力を持ちながら、その能力を僅かな給金で他人に売り渡してしまうのは勿体ない。
だいたい、ソフトウェアについて知らないどころか、普通のビジネス日本語会話ですら怪しい阿呆な「ビジネスパーソン」の要求通りにソフトウェアを書くのって苦痛じゃない?(それについては元増田も同感のようで、マネーの虎だとか胡散臭いだとかさんざん馬鹿にしてるけど。このへんに関しては自分も結構同感で、最近はほんとつまんないtoB SaaS増えたなって思う)
最近では「つまんない「IT」」の象徴だったデカいSIerですら、「顧客に言われたとおりにソフトウェアをつくる」のではなく、「顧客と一緒に課題を深堀りして、新たな価値を創造する」を商売にするところも増え始めた。
かつてはスタートアップの専売特許だと思われてたリーン・アジャイル・デザイン思考を使いこなす大企業も増えてきた。
この先鋒にはみんなが馬鹿にしてるデジタル庁や東京都デジタルサービス局の姿がある。
つまり、かつて「スタートアップ的」とされてたツールやマインドセットが浸透するところには浸透してきて、世界が「大企業とスタートアップ」ではなく、デカい小さい若い年寄政府民間に関係なく、シンプルに「面白い奴とつまんない奴」って構造になってきたってわけ。
元増田の言う通り、つまんないものはつまんない。なぜならばそれは偽物だから。
メスガキの魅力を最近知った
最近のニュースってネットの声とかSNSの反応っていう、たった2、3人のど素人の発言を
あたかもそれが世間の反応かのようにして記事にすることで金儲けをするコタツ記事が多すぎる
ネットから都合のいいコメントだけ適当に拾ってつくった結論を情報源にするのは禁止にしたほうがいい
記事書いてるやつと、そのコメント書いてるやつが同一人物の自作自演だってある
ちょっと性格のキツい上司(Aさん)がいるんだけど、多分今年の新卒の新人くんが気に食わないのか特に当たりが強いと感じている
先日も、ちょっとしたミス(管理表に記載する様式に一部記載ミスがあったっぽい?)で滅茶苦茶新人くんを怒鳴り散らしていて新人くんは最後には泣いていた
いくらAさんが女性とは言え年齢が倍以上離れた上司から一時間近く怒鳴られ続けた後「今日は仕事するな!立って反省してろ!」なんて言われて
デスクの側で罰ゲームみたいに立たされ続けていたらそりゃ泣いちゃうよね…正直周りも気まずいしさ
お前のミスで周りに迷惑かけたから全社員に謝れって社内を謝罪行脚させられたりして、あまり強くは言えないけどあれは頭を下げられる周りも気まずいものがある
明日から盆休みだけど新人くんは全日出社して反省文書いたり社内を隅々まで掃除してろって指示されてたけどどうするんだろうね?
Aさんは自分とそんなに歳が変わらないのだけれど、自分が最近体調が思わしく無かったりやたらと暑がる様になったり感情が不安定になったりで、結構大変で
旦那や母親からは更年期障害の疑いを指摘されたので今度診察を受けに行かなければならない
Aさんが怒りっぽくなったのも(元々キツめの性格ではあったけど)ここ数年だし、同じ様な悩みを抱えているのかな…と勝手に思っている
そう言えば自分が新人だった頃も上司に怒られて泣かされた事もあった事を思い出した
その時は凄く辛かったし苦しかったけど、正直自分でも後から考えて酷いミスややらかししてたから(桁を二桁間違えて請求、お客さんからの連絡を
すっかり忘れてて怒られるのが怖くて放置して更に怒らせる、保管すべき重要書類を誤って他の書類に混ぜてシュレッダーかけちゃったとか)
怒られてもしょうがなかったと思える様になったし、今は怒鳴っていた上司と同年代になってしまったので、上司側の気持ちも少しは分かる様になった
Aとは歳も近いし一時は割と仲良く飲みとかでつるんでた時もあったから(独身時代とか)一度相談に乗ってあげた方が良いのかなと思っている
客注分が取次倉庫で止まったままで客にキャンセルされたnoteの件。
それとそれへの反駁の増田に付いたブクマで正気を疑うコメントに星が集まっている。
ひとりの書店主として、伝えたいこと とうとう危惧していたことが現実になってしまった。|二村知子 隆祥館書店
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/ryushokanbook/n/nb27594fcfa61
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240816112133
こ、これを書いてる人は働いた事はおありで?
普通流通商売上では「プロパー」な取引経路というものがあって、その中で勝負するもんなの。ってかなんでこんな事大人に対して言わなきゃならないの?
ましてや紀伊国屋書店は小売りだ。小売りが小売りで仕入れてどうするんだよ。
例えば他業種に限るが、問屋からの仕入れ値以下で捌くって事はある。客寄せとか不良在庫とかね。
小売りで買って同価格で小売りしたら粗利ゼロだ。問屋からの仕入れ値で売り捌いたのと金額的には同じだ。
だがこの二つを「同じ」と考える人間はいないだろう?なんで発想がせどりなんだ?
品薄新ゲーム機を小売店で仕入れて転売するのと小売りは一緒と言っている大経済博士の大池信大先生と同じこと言ってるぞ。それって実経済に無知って事だぞ。
あと本屋の場合忘れてはならないのが再販制で、新本屋は取次以外から仕入れて売っちゃダメなの。
そんな事をしたらそれこそ問屋、この場合取次から取引切られる。バカやって問屋から切られるヤバさって判ってないんか?
新本屋に本を卸した時点では取次は金を請求しない。売れたり万引きされて在庫が無くなっていたりで返本されない場合に取次の営業がチェックして計上し、請求するの。
こんな特殊な慣行の信用取引で変なとこから仕入れてたら取引停止になるだろって。
そもそもプロパーな経路で品が滞っていたらクレーム入れる権利があるに決まっている。
だからなんで発想がせどりなんだよ。なんで人前でこんな意見を堂々と言えるんだよ。
このコメント印刷して会社の人に見せられる?「お客さんの前で雑談しないでね」って言われて社外の人に電話もメールも禁止されそうだが。
それからAmazonはもう翌日には届かないよ。数日~1週間待たされるのとかザラになってる。
沢山居るが、はっきり言うが君は阿呆だ。資本主義の仕組みが判らない阿呆だ。世の仕組みも分からず会社から養分だけ吸い取ってる寄生虫だ。
あのね、Amazonは本を無料で、最短なら翌日で届けてくれるよね。最近は配送が遅いけど。
ではあのね、街中の本屋が無くなったら、Amazonはそんなサービスを継続する理由があるかい?
街中で本が買えなくなったら一冊あたり500円取ってもいいし、配送が2週間後になってもいいんだよ。だから今の尼の本のサービスが維持されるのは街中に本屋がまぁまぁあってそこでも買えるという、古くからの商習慣が残っている間だけなの。
そしてAmazonの本配送無料サービスは実は一部切り上げられている。
以前は、サービスインから15年来、購入品目に本が入っていると金額にかかわらず送料無料だった。
でも今は本だけを買った場合は送料無料のままだけど、本に同梱される品物には送料が掛かるのだ。(3500円以下の場合)
これは恐らく送料無料の閾値が3500円に変わった時の変更だと思う。
ブコメで「本屋がいよいよ終わりでサービス悪くなった」と書いてる人も居るが、そうじゃない。ずっと昔からこのままなの。
40年前から客注は2週間掛かっていた。
そこに1980年代になると、日本の本でもISBNコードが付くようになった。
更に1990年頃にはOA化が進み、90年代にはISBNにバーコードが付くようになり、NTTがISDNを始めて端末で発注できるようになった。
2000年代にはPC POSが一般化して小売りでも在庫確認が容易になった。
これだけ進化してるのに客注の遅さは全く改善されてきていない。今までの時間とテクノロジーはどこに行ったの?
しかも東京の真ん中で発注しても同じなのだ。それって拠点から拠点への路線トラックで遅延してるという事ではないという事である。旧ソ連のごとくの流通システムだ。
そこにAmazonだ。旧市場のパイをテクノロジーで奪う動機を持った組織にこんなのが敵うわきゃないのだ。
因みに増田はこの取次の怠慢が不愉快で、本の取り寄せが必要な時は神保町の古本屋に行ってしまっていた。利用者としても愛想が尽きる問題だ。
ちゅー訳で、やる気がある本屋の愚痴と業界知ってそうな増田の反駁で止揚された意見が書き込まれるかと思いきや、キョウレツなちょっと正気を疑うブコメばかりに星が集まっているので書いてみた。
今日もまた、SNSに何かをつぶやいてみたが、反応はなかった。フォロワーはそれなりにいるはずなのに、まるで誰も見ていないかのようだ。この無反応が続くと、自分の存在が薄れていくような感覚に襲われる。
最近のSNSでは、反応を稼ぐことが目的化しているように感じる。いいねやリツイートの数が、その人の価値を測る指標になっている。しかし、こんな文化は本当にクソだと思う。人々は数字に踊らされ、本当に大切なことを見失っているのではないか。
この無反応の中で、私はSNSを続けることが無駄だということに気がついた。反応を求めることに疲れ果て、心の底からの表現ができないのなら、わざわざこの場で自分を消耗する必要はない。SNSは、結局のところ空虚な承認欲求の場でしかないのかもしれない。
世の中は、表面的な反応に満足し、深い対話や本質的な価値を追求することを忘れてしまっている。こんな社会に落胆せずにはいられない。何かをつぶやいても、結局は誰の心にも届かないのだとしたら、一体何のために言葉を紡いでいるのだろうか。
今日もまた、私は虚無感に包まれている。何をどうつぶやいても無意味だと感じる日々が続く。反応を求めることに疲れた今、私はただ静かに、この静寂を受け入れるしかないのかもしれない。
よく知ってる相手に対して優位性を保つために、精神的に痛めつけてしまう。
例えば、その人がかつて他の人から言われて嫌だったと話してくれたことを、わざとその人が俺に言うように仕向ける。俺はその人がかつて言った内容をそのまま返答する。自分が傷ついたことを違う人にやってしまうことに反省するタイプだから、しんどいだろうな。
その人が俺によく言ってる文句をそっくりそのまま言ってみたりもした。顔真っ赤になって言い返してきたけど、その後1人で反省するだろうことも知ってる。
俺自身は明確な言葉で責めることはないし、なんなら文句言われたらすぐに謝ってる。
というか、俺は嫌なことをされてんだから周りに対しては被害者ムーブができる。実際に念のため先手とって周りに相談はしてある。
https://anond.hatelabo.jp/20240816213820
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
最近のアンパンマンの話、どれも似たり寄ったりで正直つまらなく感じる。
昔は、バイキンマンと戦ってカレーパンマンが助けに来たりすると、「スゲー」って思ってたけど、今となっては、いつも同じパターンでワクワク感がなくなった。なんか、同じお話を何度も見せられてる感じがして、もう飽きちゃった。
それよりも、もう少し新しいキャラクターや、アンパンマンがもっと違う冒険をする話を見たいよ。毎回同じ流れで、最終的にアンパンチで終わるのって、さすがにマンネリだなって思う。
特に今年見た新しい話が、どれも過去に見た話と変わらなくて、途中で見るのやめたくなった。昔は本当に面白くて夢中で見てたんだけど、今は全然楽しめない。大人になったからなのかもしれないけど、本当に楽しめなくなった。
なんていうか、アンパンマンがどうやってバイキンマンを倒すかっていう話が、昔はすごくワクワクしてたんだけど、今はただ同じことを繰り返してるだけに感じるんだよね。もう少し新しい展開があってもいいのに、って思う。
それに、昔はアンパンマンを見て勇気をもらってたけど、今はどちらかというと、日常のちょっとした現実逃避をしたくて見てたのに、結局いつも同じ展開で、それがむしろ現実を思い出させる感じがする。アンパンマンを見ることで、昔の自分に戻れると思ってたのに、今はむしろ現実に引き戻される感じ。
大人になると、アンパンマンのストーリーが単調に感じるのかもしれない。「バイキンマンを倒したい」という単純な目標を持ったアンパンマンよりも、「もっと冒険したい」とか「新しいことに挑戦したい」という気持ちが芽生えてきたんだろうな。
結局、大人になると、アンパンマンのようなシンプルなストーリーよりも、もっと複雑で深い話を求めるようになるのかもしれない。だから、アンパンマンがつまらなく感じるようになったのかも。でも、もう少しだけ、子供の頃の気持ちに戻って、純粋に楽しむことができたらなって、ちょっと思ったりもする。
ヒロシのひとりキャンプのすすめで「涙腺崩壊アニソンランキング」やってたんだが(第二回かな?)
なんでこうも古い曲ばかりになるのだろうか(知らない曲が多すぎる。それらのアニメを見ていない。超有名作品だから存在は知っているが)
「ちょっと古い」のではなくて「思い切って古い」のだ。昭和40年代ではないだろうか。戦後20年でやってるアニメ。来年戦後80年だ
(たぶん50代以上。しかも50後半じゃあないか?アラフィフでもこのラインナップになるかあ?)
(でもヒロシもアラフィフだよな?50後半ではない。まゆたんだってアラフィフくらいだよね
まゆたんが古い曲知ってるのはアニメガチ勢だから「遡って視聴しているから」に他ならない。リアルタイムなわけない)
まあ…この番組に関しては「キャンプ」から遠ざかっているので、視聴者層は「アウトドア系おっさんバラエティ」が見たい人達だと思われるので
年代は「夜中に酒飲みながら昔のアニメを思い出したりしている」層になるのかな
「古い曲ばかり」つっても、自分にしたって最近のアニソンといって知っているものは「異常に有名な曲」くらいだ
今期は大変久しぶりにアニメを見ているから2期モノ以外はちょっと分かる
異世界失格のopはサブスクで高評価群に入れた。逃げ若のop/edも良い
あとなんだ。これからまた好きなのが増えていくかもしれん
女性権利の拡大のみにしか興味がなく男性蔑視にまで走ってしまう場合もあり、「フェミニズムはヒューマニズム」という声を聞こえないふりしている
穏当左翼言論にぬるっと乗り入れては日本共産党を持ち上げる傾向にある
最近は「日本共産党はリベラル」と発言したり、「日教組は連合から抜けろ」と主張したり、立民の泉と野田も気に食わない、野党共闘を激推しする
立憲民主党に期待を寄せるものの、はてサ(穏当)自身が「えっ・・・なんで・・・?」と呆れる行動を取る立民に困惑する日々を送る
連合に関しては是々非々で語る傾向があるものの、正直言って最近の立民の言動を見れば連合の対応も理解できなくはないと思ってる
オープンソースソフトウェアなどが大好きでMicrosoftやAppleをバカにするのが趣味、古いコンピュータや過去のネットワークコミュニティにも詳しい
元来は社会・政治思想に詳しいわけではないので新しい世代のはてサに押され気味、基本的にはリーナスやRMSっぽいことを喋る
はてなでコンピュータに詳しそうなのにMacやiPhoneを茶化しているのは大体この層
JTC勤めだけど、最近の商品サービス名がランダムワード下手くそダジャレみたいなのばっかりで昭和時代のような教養とか夢とかキラキラ感厨二病みたいのが全然感じられない。ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、古典中国語あたりの素養のある人が考えた良い感じのネーミング激減してもやっている。まあ登録商標回避の意味はあるのかもしれないけれど