はてなキーワード: 最近とは
オナホっつうのは身体的快楽とレジャー的な楽しさで半々なんだよ
心も体も満たされる、それはセックスを超すもんはねぇ。確かにそうだ。
だけどよ、いつでもセックスができるわけじゃねぇんだ。精神的快楽を得るのには精神的な苦労もかかる。身体的な快楽を手っ取り早く、かつセックスする時の身体的快楽にできるだけ寄せようっていうのがオナホだ。
んで、レジャー的快楽っていうのはな、オナホは所詮人工物だ。神は万物を与えないが、人間はオナホに万物を与えることができる。いろいろなギミックや硬さや構造を生み出し、一つ一つ違った感触やフィーリングを得ることができる。最近はどのオナホも一定の気持ちよさを兼ね備えてるから、色々買って違いを楽しみ、趣味にすることができる。そう言った面で言えば、オナホっていうのはな、趣味なんだ。遊びなんだ。セックスとは違う、でも割と楽しい営みなのだ。
元気よく大きな声で、いらっしゃいませー!とかありがとうございましたー!とか
そういうとこで、バカでかい声でごちそうさまでしたー!っていうのが最近の俺の中の流行り
入店時には油断させるためにボソボソ話すのよ
お待たせしましたー!とか元気に言われても基本はぃってちっちぇー声でいうだけだし
なんなら頷くだけで済ます
これで店員に暗くて元気ない奴って印象付けるわけだな
でまぁメシは普通に食ってさ、帰る時になるわな
元気がいい飯屋っつってもさ、常に100パーじゃないわけよ
のれんに腕押し感があるから店員もそこにリソース使いたくないのよ
そこに俺のバカでかごちそうさまでしたー!をぶち込むわけ
どうなると思う?
まぁ店員によるわな
ひるむんだよな
そこに変な間があくわけ
なんなら店員も笑っちゃったりしてさ
そしたらもう勝ちよな
ざまーみろって思いながら店を出てくんだ
その背中にでかくて元気なありがとうございましたー!を背負いながらよ
気持ちいいぜ〜
和田アキ子が北口榛花選手に対して「トドみたいで可愛い」と言った発言が炎上して、これについてSNSで議論されてるけど「トドが可愛いって言うけど、じゃあ豚が可愛くても豚みたいって言われて嬉しいの?」とか「ゴキブリが好きな人にゴキブリみたいって言うのも良いの?」みたいな意見をよく見るけど、何でいちいち別の事に喩えるの?
なのに自分の意見を通しやすくしたいのか、別の喩えを出して論点をずらす。
自分が上手い喩えを言ったった!ってこと?
この和田アキ子の問題に限らず、他の問題について意見してる人のコメント見るとみんな本題と違う別の喩えをする。ただ、何かに喩えてるだけで結局何が言いたいのかハッキリ言わない。
「〇〇(本題)は××に例えると〜」と喩えて終わり。それに対して「その例えば違う」と反論しても「いや、同じだから」と平行線になって結局喩え話で議論し合う。不毛すぎる…
普通に本題の題材を使ってその上で自分の意見を言えば良いのに何故喩える?自分の意見に説得力を持たせる自信が無いから論点ずれた喩え話をするの?
少なくとも本ではあるのだから最低限数百ページの文章を読む能力やある程度の日本語能力はいるし、それがある人間はそもそもそれなりの教養は持ってるんじゃないかと思うがそういうレベルの話じゃないのか?
「何を褒められると嬉しいですか?」っていう固定の質問リクエストを送ったら
「そうゆうのめんどくさい」ってわざわざ回答されたのが今日のハイライト
笑顔で挨拶されたからこちらも笑顔で返したら、カッターかコピー用紙で地味に痛みが続く傷をつけられた感じ
ブロックして、「あいつはもう関係ないからどうでもいい」って10回口に出して
スーパーに行って、レジの人に目を見て「ありがとう」って言って
台風のあとの空ってきれいだよなって思いながら、不審に思われないかなって思いながらでもきれいだから写真を撮って
「みんなどうやって折り合いつけてんだろうな」ってセリフがあるんだ
教えてほしいわけじゃない。どうするんだろうなって考えただけ
ホットエントリにあがってきてても開かない
まともに考えてレスしてくれてる人を馬鹿にして楽しむという人間ばかりになったように感じる
前なら、余所に書いても読んでもらえないような気持ちを書き込む最終目的地のような感じだったのが、
今では、最初から見た人を罠にはめるために書いたのではというものばかり、
議論どころか会話もなりたたないような
相手を不快にさせることだけを目的にしたような書き込みばかりで
そんな書き込みばかりになった。
どんな場所でも長く続けば続くほど、
最近は腐っていく速度がどんどん速くなっているような感じがする。
タイトルに簡単に言えば「趣味的な本屋の販売量だけでは、現在のシステムを維持出来ず書籍文化が崩壊するから」という事になる。
これは他の経済活動でも同じで、趣味で採算度外視、あるいは薄給でもやりがいだけでやっています、と言うようなものが蔓延ってしまうと、後は滅ぶしかない。
一度滅んだ後に残存者利益が出てくると、改めて採算が取れるようになるのだが、その時は今の豊富で豊かな出版文化はなくなっているだろう。
と言うわけで、いただいた反応の中からいくつか補足としてワイの考えを述べておく。
上客、太客だから。
書店の顧客は、他の小売店と違い、売上の8割を2割の客が買っている、と言う極端な構造がある。色々な調査でひとりあたりの本の購入量の統計を取ると、左に大きなピーク、右に小さなピークの崩れたM字型になることが知られている。一つ目が年に数冊しか本を買わないライトユーザ。そしてもう一つが欲しい本があれば、後先考えず際限なく本を買ってしまう病人である。つまりワイら。
そして、わざわざリアル書店で客注を出すような顧客というのは、大抵後者なのだ。
「 客注は最速でも2,3日かかるのならば、ネット書店に勝てないのではないか」という話もあったけれども、こう言う後者の顧客は、あえて意識的にリアル書店を使っている。そしてお願いした本を仕入れてくれるという体験を求めている。
確かに単体では儲からないが、その先にある最も儲かる「コンスタントに本を買ってくれる客」を育てる事に繋がるから。
客注というのは今も昔も単体で儲かる仕事ではない。しかし、顧客サービスとしてはコスパが良いのだ。
日本の書店は委託販売という仕組みであり返品が自由、在庫リスクがない一方で、利益率がかなり低くなっている。概ね売価の7割から8割ぐらいが仕入原価で、20%~30% ぐらいが小売店の取り分になる。ここから店の運営経費を賄うことになり、概ね原価率は9割を超える。一般の食品スーパーで利益率目標が2割以上を指向することを考えると、利益率は低い。
そのため、一冊売る程度では全然儲からない。文庫本1冊注文されても仕入原価-売価が100円であり、客注対応の為に店員をひとり増やしたりすると赤字、と言うレベルである。
が、当然ながら、人件費は固定費に近い性質を持つのでこんなにシンプルではない。例えばコンビニで郵便はがきを売る・宅急便のサービスをするのは、それらを利用するお客はついで利用を促すことが主だが、似たような性質と言えばイメージしやすいだろうか。
さて、ネットの方が早いし面倒がない、と考える方の意見が多く見られており、これは事実である。増田をみる様なユーザであれば尚更だろう。しかし、ネットとリアル書店の間の配送期間というハンデがほぼ同じになる瞬間がある。
それが「新刊」である。新刊の発売日は統制が進み、現在ではネット書店ではフライング発売はほとんどない。
習慣的に本屋に行き、あるいは新刊が出ると、とりあえず自店で購入してくれる顧客をどれだけ確保できるかが店の成否に繋がるのである。
そして、たくさんある書店の中から自店を選んでもらうには、価格統制がされている書籍では「体験」を育てるしかなく、客注とはそのための重要な機会なのだ。ネットで買えばすぐに届くし、そうでなくてもコンビニコピー機で注文すれば早い事を知りながら、あえて書店を使う顧客を捕まえるチャンスなのだ。
これはほとんどの場合間違っている。利益はでない。と言うのは、以下の様な性質があるためだ
またイベントを開くと
しかし、これらを承知の上で、上客を得るために実施するのは悪い事ではない。
が、それはいつもちゃんと本が買える、要望に応えてくれるという基礎があってこそであるので、そこを蔑ろにしたままやってもよくない。
さらに言うと、いつもちゃんと本が買える、と言う事に対して、イベントを開催するというと言うことは対立してしまうことがある。
本屋とは、ものすごい指向に幅があることを扱っているのが通常だから。指向に合わないイベントをやっていると邪魔に感じることすらあるので結構気をつけなければならない。イベントで顧客をゲットと繰り返したら、そのイベントの指向が自分にあわないと、居心地が悪く感じて顧客が離れてしまうと言うとは、残念ながらよくある話なのだ。
大手書店が専用のスペースを設けるなどして、かなり気を遣っているのはこのためである。
出版社や書店がフェアやイベントに消極的だ、という事ではない。売れない事が問題なのだ。売れずにやりがいだけを消費してしまって持続性がないことが問題なのだ。
これはそう。
でも、Amazonの一番早い便でも半日後であることに比べると、本屋の店頭で買うのは見てすぐ実物を手に取れるので最速だし、本を読みたい欲を一瞬で満たしてくれるのはメリット。
ん?電子書籍? んん?ヨドの店頭受け取りだと30分でいける? まぁそれはそう。
Amazonやヨドと比べられるとそれはそうなんだが、これでも他の小売業界向けの卸としてはめっちゃ早い。
Amazonやヨド、紀伊國屋などが取次在庫ありの場合、即配サービスより早いのは、彼らは自社で取次の倉庫まで取りにいっているからです。そこまでの出荷は一緒です。
それから、大都市圏だと、午前中に出した客注が当日出荷になって翌日に届くことも仕組み上あります。
新刊の配本のうち8割以上が既にパターン配本でなくなっているので、認識がだいぶ古い。
パターン配本の批判が強まり、出版社が指定した配本が行われるようになった。
が、結果から言うと、返本率が増加し出版社も在庫を抱える事になった。
そこで現在、取次は出版社や書店に積極的にデータを開示し、配本を支援するシステムを用意して提供するようになった。取次のパターン配本だけに頼るのではなく、自分たちでも判断してもらおうと言う事である。
これによって、中小の出版社側もその注文に乗っかって大丈夫かと言うことをシステム的に判断するようになりつつある。
この状況で本が来ないと言うのは、出版社が数を減らしていると言う事だ。
結局は自分の店で売れるものは入荷するが、売りたいだけで売れそうにない本は入荷しないというだけ。出版社はベストセラー倒産などしたくはないのです。
ただ、最近は買い切りの条件で注文数そのまま出荷する取り組みをやっている所も無いわけではないが、広がってはいない模様。
これはもう間違い無い。
一般小売で考えると、趣味でやっていてきちんと経営していない店相手であると、卸売り業者は普通ここまで付き合わないが、取次という業態、あるいはその出自から考えて、半公共団体のようになっている面があるから今まで付き合ってたわけだが、それが限界に達しているのが今だ。
利益率という点では、実は取次の取り分(仕入原価-卸売り価格)は書店よりもさらに低く、5~10%程度だと言われている。ここから経費が引かれて利益率になるとすると、一般卸売業者の利益率の半額程度になってしまうと言う状況だ。
統計に寄れば、書店の販売額は立地と坪数でほぼ決まると言われている。好立地の所では、ひと坪あたりの月商が13万円だという。仮にこれで15坪の小規模書店とすると、約200万円の売上げになる。さて、この書店から取次が得られる粗利(諸経費を一切含まない)は20万円が最大と言う計算になる。アルバイトひとりも雇えない金額だ。ここから、人件費、運送費、配達比、様々なリスク費用、システム費用などを支払って利益になる訳がない。
取次が利益を上げるには、仕組み的に規模の商売を追求する一方で、流通コスト削減(これには返本率を下げる、と言った活動も含む)ぐらいしかやりようがない。小さな書店が商売できる様に支えるのはほとんどボランティアである。
儲かっていたころは良かったが、限界が近付く中、少なくとも黒字になること、自社が用意したサービス(即配や、データドリブン経営を行うシステムの提供など)をきちんと使いこなしてくれる事を条件に、それ以外の自然淘汰を止むなしと考えているのはそうなのだろうと思われる。
この取次の利益率が固定されている中で、一般流通流通のスピードを上げろと言うのは無理だ。物流のコストが上がりすぎているからだ。中小書店への配送を維持しつつコストをどう下げるか、そのためにはサービス水準を下げることもやむを得ないだろう。
そのような状況下で、その代わりに用意した早く配達するサービスも、追加で送料を負担せよと言うことも難しいと言われ、さらに即配サービスについて暴利を貪っているかのように言われるなどの状況で、手の打ちようがないことも理解してほしいところだ。
取次は多くの書店の親会社でもないし、経済的合理性を考えた時には付き合う必要は全く無いのだから。純粋に儲けるだけなら小規模書店を全部捨てた方がよいぐらいの状況だ。
そう考えている人は少数派でかもしれない。市場の動きは違うようだ。
まず、ユーザー数、習慣的に有料の電子書籍を購入するユーザは30%~40%ぐらいが限度で、これ以上は伸びないことが知られている。
日本の統計も、アメリカ・ヨーロッパなど先に普及した統計などを見てもこの傾向で、電子書籍の市場はほぼこれで大きな変動なく推移すると言われる。
また、販売量としても、雑誌を除く印刷書籍の販売量はじわりと減っているが大幅な減少がみられない。特にコミックスを除くと、ここ10年ほどは横這い程度だ。
電子書籍が増えている、好調だ、という事の正体は、雑誌の減少と、それを補う電子コミックの伸びによるもの。電子書籍が印刷書籍を置き換えると言う動きにはなっていないのだ。もちろん数十年単位ではわからないが、ワイは現在の話をしているつもり。
具体的にどこの書店のことを言っているのか分からないのだけれど(少なくともワイの文章は特定の書店を念頭に置いたものではない)
勝手にどこかの書店を想定して、事実の説明に対して、勝手に怒る方がよほど失礼では?
おそらくはちゃんと内容を読んでいないし、構造も理解できてないからこういった結論になるのだろうと思うのであまり説明しても仕方が無いのかなと思いながら、なのだけれど、以下は一応認識しておいていただきたい。
趣味でやっている・やってないにかかわらず、取次が消えたのに、中小書店が残ると言うことはない。
同時に出版社の多くも吹っ飛びます。こちらは中堅どころまで存在できなくなる。
Amazon・ヨドバシ・紀伊國屋も維持できなくなります。特にAmazonは取次を通さないイメージを持っている人も多いようだが、実際には取次在庫への依存度は高いまま。
もちろん数十年単位での緩やかな変化の先にはありうると思うが、この話は現在の話をしているつもり。
出版業界なんて残さなくていい、町の書店なんていらない、滅ぼしてしまえばいいと言うなら、Not for youですね。それこそ客じゃないのでお呼びじゃないです。客目線で話をしているので。自分が客じゃないと言う認識をしてほしい。
それは、そう。
普段は私が料理してるのだけど、大型連休とかで時間ができると作りたがる家族がいる。
でも正直まずい。料理の名前と目の前にある皿の中身の乖離ぶりに困惑する。
どうしてカレーライスにダシダとか鶏ガラスープの素とか小瓶のスパイスをゴチャゴチャ入れるの?塩気と辛さの突出ぶりが怖いよ。
どうしてゴーヤチャンプルーがつゆだくビシャビシャなの?ゴーヤの切り方が厚すぎてボリボリ噛んでるけど疑問に思わないのかな。
どうして鶏の照焼がつゆだくになってるの?照焼なのに全然照ってないよ。モサッとした食感のやたらニンニク臭い鶏肉が茶色い汁に浮いてるよ。
揚げ物を作るのに油切りバットを使うのはいいけど、揚げたものを積み重ねてたら油はちゃんと切れないんじゃないかな。
普通の片手鍋で作るお味噌汁にお玉てんこ盛りの味噌って本当にいるかな?出汁とか食材の旨味が行方不明でひたすら塩辛いよ。
突っ込みたいことは色々あるけど前に本人に言ったら物に八つ当たりとかしてそれはそれで面倒な目に遭ったから、最近は(まあ連休の時だけだし…)と自分に言い聞かせながら黙って食べてる。
自分で料理してる普段は全然健康なのに、大型連休の時は食後にみぞおちの辺りがキリキリ痛んだりお腹を下したりしてるから食事の大切さを痛いほど実感させられるよね。
確かに、リアル寄りのVtuberに興味を持つ人が増えてきていると思うよ。最近は技術の進化もあって、かなりリアルなアバターを使ったVtuberも現れてきているね。
海外でもそういったトレンドは確実に進んでいると思う。特にアバターのレンダリング技術やモーションキャプチャー技術が進化して、より自然な動きや表情を再現できるようになっているし。それに加えて、AIボットを使ったインタラクティブなコンテンツが増えてきているのも興味深いところだね。
具体的な名前を挙げると、海外でもバーチャルYouTuberとして活動しているLil Miquelaという存在がある。彼女はVtuberというよりもバーチャルインフルエンサーと呼ばれることが多いけど、彼女の見た目や動きは非常にリアルで、現実と見分けがつかないほどだよ。
将来的にはもっとリアルなVtuberが増えてくるんじゃないかな。どんどん新しい技術が導入されて、さらにリアリティが増すのが楽しみだね。
ぶっちゃけ働きたくないもんね
育児理由にして家にいて、乳児〜幼児のうちだけ会話通じねえけど頑張って耐えればあと小学校あがるともうちょい指示通るレベルになるし、そしたら自分の時間もうちょい確保できる
旦那の金だけで生きてたいし、ありがたいことに旦那の金だけでいま生活できてるし(子ども一人だし)、積極的に私が働く理由ないし〜って思ってるけど
働いてる独身の友人とか会話するときめちゃ気使ってるの感じる。
ご飯にしろ遊びに行くにしろ旦那の金だろうからあんま高いとこ提案できないよなぁ、急に誘っても日帝融通させるの難しいだろうなあって気を使ってるのとか、部下や後輩との関係とか言っても無駄だろうなみたいな……一瞬仕事の愚痴吐いても、あ、増田ちゃん無職だからあんま仕事の話すると悪いか、言ってもわからんか、みたいな空気感じる。
(ごめんね〜自分の話ばっかしちゃって…って言われる、謝られる…)
実際わからん、28で結婚したとき、みんな社会人としてのレベル同じくらいだった気がするのに、午後休取ったからランチ行けるよ〜って午前仕事してそのまま着た友人の身なり?とか、雰囲気とか、なんか、あ〜あの頃の社会人ではないんだな…とか感じた…
具体的に何がどうとは上手くいえないけど…
自分が仕事してないのは働きたくねえからなのに、コンプレックス持ってしまってんだろうな
独身の友人、あんまインスタとかSNS更新しないけど、月1くらいで最近行った場所〜みたいな感じで写真だけアップしてんの見るとさ、いろいろ感じることあるわけ。
人生選択なんて人それぞれだって頭で理解してるけど、私の人生の選択が昔で言ういわゆる『勝ち組』というか、社会に受け入れられる選択をしてて、間違いのない選択であって、独身貫いてるあの子たちは表立って揶揄されることは減っても後ろめたさがあるから自分たちの選択が正しいと必死にアピールしてるんだ!とか、私は友人たちと同程度、もしくはそれ以上に幸福なんだということをアピールしないと!的ななんかこう必死になるメンタルがガーーーーッてやってきていかれそうになる。
フワちゃんみたいな過ちは犯したくないな……
友人同士の貸し借りもあっただろうけど、同時に当時すでに大人になった人間の中にもゲームを趣味としている人が大勢いたわけでな。
そう考えていくと、シリーズのどれか一つの作品を取り出した分だと若年層のうち半数にも行き渡っておらず、シリーズ全体で考えても、やはりプレイヤー比率が過半数を超えたことなど一度もないと考えるほうが自然なんじゃないだろうか?
インベーダーやUFOキャッチャーのようなどこかの旅館で気まぐれに遊べるようなものならともかく、自分の部屋に腰を落ち着けて文章をじっくり読んだりレベルをちまちまと上げて何十時間もかけてクリアするようなゲームが人口の大部分に波及していたことがあるというのは思い込みにも程があろう。