はてなキーワード: 和室とは
朝早くに出発して、昼過ぎくらいに着く 平日だからあんまり人はいない その辺にある海鮮丼が有名な店に入って海鮮丼を食う 魚介類はそこまで好きじゃないんで多分あまり嬉しくないだろうけど、旅行らしさは大事だ
チェックインの3時まではまだ時間があるんで街をうろうろする 観光案内所に入ってパンフレットを見てみるんだけどあんまりパッとしなくて、そぞろ歩きって感じで行くことにする
風情はあるんだけどまあ所詮日本だし、たいして感受性もないんで飽きてくる チェックインまであと40分とか微妙な時間になっちゃってるし、もういいやと思って宿の近くで座れるところを探して時間を潰す
宿に入る 部屋はまあ特別でかくはないけど狭くもない オーソドックスな和室で、広縁がある 小さい冷蔵庫の中身をなんとなく覗いてみるけどビールとかしか入ってない 酒はあんまり飲まないんでウーンと思う
窓から外を見る ショボい川の特にショボい部分が見える 家から見えるのよりはさすがにマシな景色だけど、絶景とかでは全然ない せっかくなのでしばらく見るが、飽きっぽいので時間にして20分もあればいいところ
来たはいいが疲れているので外に出たくない 内湯がもう入れるっていうので入ろうと思うが、部屋から出るのもめんどくさい
4時半くらいになってやっと風呂に向かう 人はいない 脱衣所でちょっとおどけたポーズをとってみたりする まあいい風呂だけど、その辺の銭湯とどう違うかと問われたら多分答えられない 備え付けのシャンプーリンスから嗅ぎ慣れない匂いがする
風呂から上がって涼む この辺で他の客が来て、ちょっとガックリくる まあ仕方ないと思いながら部屋に戻る
…なんなんだこの妄想 もう嫌!
2/5
灰色で狭い食堂にいる。テーブルがいくつか並べられていて何人か座っている。ここは宿泊施設らしい。夫は従業員に何か話しかけている。「今日は地震が起きるらしいです。」私は急にテーブルの上に置いてあったおしりふきに話しかけられて驚いた。「今はおしりふきもしゃべるんですね。」周囲の人たちは当たり前のことに驚く私を無視した。食堂から部屋に戻った。和室。広い窓から外の景色がよく見える。外は森で鹿が歩いていたので子供に鹿がいるよ見てごらんと促した。そのうち森は動物園に変わった。私の部屋の真下はコアラのおり。それからまた動物園は広い座敷に変わった。座敷の奥の方に子供が遊びに行ってしまった。向こうには虎がいるのに!私は子供を呼んだ。子供は部屋に帰ってきたが今度は津波の気配を感じた。早く逃げようと思ったが、さっき帰ってきた子供がまた帰ってきた。同じ子供が二人もいるはずがないのであなたの部屋は隣でしょうと言って隣の部屋へ追い返した。津波はどんどん窓から迫ってくるので階段をかけ降りて玄関に向かった。テレビがおいてあって安部首相が「被災者支援として一年間スリッパの貸し出しをするように施設へ要請する」と言っていた。それを聞いた私はスリッパを履いて玄関を出た。玄関を出たら入り口のあたりで(白い砂利が敷いてあって広い)従業員や他の宿泊客か不安そうに顔を見合わせていた。◯◯(食堂にいた女性)という従業員がいないそうだ。私は、そういえば夫はどこへ行った?と思った。そこには白い看板が立っていて被災者名簿が張り出してあった。夫の名前があった。私はシングルマザーになるのは大変だろうなと思った。そしてそれが現実かどうか疑った。このあとは目が覚めた。
畳マットとか和室とか。
誰もいない実家に帰ると、ねこはいつかと同じところで同じポーズで寝ていた。いや、こないだとは少しだけ場所がズレているか。障子の隙間から差す日が少し傾いて照らされる場所が変わって、ねこのお気に入りの場所も日時計の差す時刻のように移動している。和室の一角は日焼けして藁のような色だ。なんとなく私もねこの隣に横になってみる。なるほど、畳が温い。ここがいいとちゃんとわかっているのだ。
い草の匂いはとうの昔に褪せて、湿気の匂いがした。隣に横になった拍子で、ねこはその振動に反応して半眼になって、二ヶ月ぶりに会った私を見て、ああ、お前かと安心したように黄色い目を閉じた。ゴロゴロと喉を鳴らす。ギブアンドテイクが当たり前のこの社会に揉まれて命からがら帰ってきた私は、何もしてやっていないのにただ横に来ただけでそんなに幸せそうにしてくれるねこを見て感傷的になってしまうのだ。どうしてそんなに私に懐くのか。お前を拾ったのは私じゃなくて妹だろう。餌は小さい頃から母がやっていたろう。まともにトイレなんか綺麗にしてやったことはなかったろう。実家にいた高校を卒業するまでの私は、家に帰った時にせっかく出迎えに来たお前を置いて部屋に閉じこもっていただろう。
それなのに。お前は私の気持ちがわかったみたいに、でも人のいい友人のように同情した風でもなく、純粋に私のことを好いてくれる。
なんだか切なくなって、罪滅ぼしの気持ちで頭をわしゃわしゃ撫でてやる。ゴロゴロが大きくなって、ねこはぎゅっと目を閉じた。だから、私も同じように目を閉じてみる。ここが耳で、ここが鼻。寝ているから鼻がカラカラに乾いていた。幾度となくこいつを撫でてきたから、触れるだけで良かった。
私は、手の感触でねこのシルエットを想像しながら色んなことを考えるのだ。
なぁ、ねこ。ここ最近、私は初めてお前のように生きてみたいと思ったよ。私はねこがすきだけど、もともとはねこになりたいなんて無責任なことを言うやつが嫌いだったんだよ。
お前はお寺の近くで、拾ってくださいという札を首にかけられて彷徨っていたね。いつお母さんと離れ離れになったんだよ、かわいそうに。そこから、得体の知らない私たちに拾われたね。運の悪いことに、うちは住宅地だし車が多く通るから外には離してあげられない家だった。いつも窓から外を見て、小鳥を見るとちょっとだけ切ない声を出す度、私も切なくなるんだよ。
そんなことを考えたこともないのかな。
毎日同じ餌ばかりだけど、お前はいつも美味しそうに食べて。何もない休日も、同じところを初めて歩くみたいにして歩いて、またよっこらしょと横になって。みんなが夢中になっているテレビというものはわからないだろうし、本に向かっている人間の気持ちはもっとわからないからとりあえず読んでいる最中の本の上に乗ってみたりして。
いつも喧嘩が絶えない家だったけど、頑張って一緒に乗り越えてきたよね。お前はどんな風に見てた? 大きい声が聞こえると、お前は自分が怒られたと勘違いしていつも部屋の隅に隠れて大人しくしていたね。八つ当たりされたこともあったか。めちゃくちゃになった家族をなんとか落ち着けて、皆が寝静まった午前1時、突然虚しくなって悲しくて一人で泣いていたこと、親や兄弟とかの人間たちには隠したけど、たまたま隣にいたお前だけには隠せなかった。お前は私の気持ちを知って膝の上に乗ってきたのかい? どっちにしても、上から降ってくる涙が冷たくてごめん。
家族がバラバラになった今、一番家にいるのは間違い無くお前だけど、私に気づかなくてお前が気づいていることってある? みんなをどうやったらもっと幸せにできると思う?
他にもいっぱい聞きたいことはあるけどさ、どうやったらお前みたいに強く生きられる?
お前ほど辛くはないけど、私も結構似てるところがあるんだよ。僕も物心ついた頃、お母さんが病気になったせいで両親から離れ離れになってあまり話したことのなかった祖父母の家で育てられてさ。祖父母は仕事とテレビと新聞ばかりでちっとも取り合ってくれなかったよ。理不尽な叱られ方もした。少し大きくなると親も少し元気になって、ようやく両親の元へ帰れて、その頃お前と出会ったんだよ。でも知っての通りずっと喧嘩が絶えなくて、その怒鳴り声を聞いて、また家族が離れ離れにならないか怯えてた。時々酔った母が暴れて殴られたこともあった。今思えば、なんにも悪いことしていないのに生きてるだけで罪悪感に押しつぶされそうで、部屋の隅で耳を塞いで泣いてたよ。実際家族はバラバラになって、そのまま私は出来るだけ親に迷惑をかけないようにそつなく生きたよ。勉強もそこそこ頑張ったつもりだよ。そのまま実家を旅立って、今は一人暮らしになって、単調な日々を過ごしてる。同じ時間に起きて同じところを歩いて、キャットフードよりはバリエーションがあるけどぶっちゃけ毎日毎日同じようなものを食べてる。お酒っていうマタタビみたいなものに溺れる日々で、少し頑張ってみてもすぐ疲れてしまうし、人一倍寝るのが好きだよ。なんだか、色々とお前と一緒だね。
というか、お前を可哀想ということで自分が可哀想と思いたいだけなんだろうね。わかってる。
でも、お前とは違うんだよ。お前と違って私は、時々過去を思い出して、心の傷とか変われない自分とかに悩んだりして、虚しくて泣いてしまうんだよ。今までは生きるのに必死だったけど、突然に単調な日々に取り残された今、全てに取り残された気分だよ。毎日がつまらなくて、生きるために生きていた頃と違って、なんのために生きているのか本当にわからなくなって、笑ってもこころがスカスカで、何故だか生きるのが辛いよ。まだまだ到底、お前のようには生きられないんだよ。今だって閉じたまぶたの端の方から涙が漏れ出してしまいそうで、必死に目を閉じて蓋をしているんだよ。
私も捨て猫みたい?
ねこになりたいって言うやつが嫌いなのはそういう理由だよ。ねこの拾われる前の壮絶な人生と、その後の退屈で虚しい人生を想像できないやつは嫌いだよ。
ねことか私のことを見て、のうのうと生きてていいなと思うだろうから。
私はお前の気持ちがそこらの人間よりはわかってると思う。でもだからこそ、純粋なお前に純粋に憧れるんだよ。お前を見ているとお前のようでありたいと思う。ただ、お前のような強くて優しいこころが欲しい。お前は、変えられない過去なんか振り返らないし、おそらく変わることのない未来を嘆いたりしない。ちょっとずつ変わり続けるだけの今を黄色くて丸い目でじーっと見つめて、いつも全力で飛びかかる。だから、ちょっとした季節の変化で寝るところを変えてその温かさに目を細めたり、食卓から盗んだお刺身一切れを幸せそうに食べたり——そんな儚いだった一瞬の幸せを絶対に絶対に逃さない。
だからお前は、美しい。ただ生きているだけで、見るものを幸せにするんだね。
お前と比べて、私はダメダメだね。
あ。ねこはそんなことも思わないのかな。きっとお前はほかのやつと幸せを比べたりもしないよね。外にいる野良猫を見て毛を逆立てて、フーッと威嚇して怒ることはあっても、あいつは自由でいいなと羨むことはない。
この先どうなるんだろう、とか。
生きるって何、とか。
認められたい、とか。
そんなことより、日で温もった畳って温かくていいな、なんて思っているのかな。
私がこんなことを考えているうちにも、ねこはずっとゴロゴロと喉を鳴らし続けているのか。なるほど。つまりはそういうことなのかな。
ねこでありたい。
→制服による。営業マンならクリーニング必須だし自宅洗いならノーアイロンウォッシャブルワイシャツ買い揃えたらアイロンいらなくね。
・冷蔵庫
→野菜室要らないのは男性らしい。冷凍庫おおきめかむしろ冷凍庫+ペルチェで寝室ビールという手も。 耐熱天板って普通そうだろ
→男性は揚げ物が好きだろうから最初からヘルシオにしたら電子レンジもトースターも揚げ物マシンも1台ですむけど
・カーペット(2階なので防音)
→掃除機しっかりかけようね たまに連れ込んだ女の長い髪の毛はすぐ繊維にからみつくぞw あと夏は暑いぞ
遮光しすぎると日周期リズム崩れるからあけしめ楽なやつね、雨戸きちんとあけしめするならレースの目隠ししか要らないという話もある
・机・ハンガー・タンス・本棚は生活が落ち着いてから買う(大きすぎて邪魔・小さすぎて買い足すような羽目にならないようにする)
→インスタントカップ麺のためのティファールポットも余ってたらもらってこい
以上が必需品?
それとは別に疑問点として、
・2LDKだが、1ルームは和室なのでどう使う?(和室は完全に生活空間として使い、洋室は書斎(?)として使うか?)
→倉庫になる
→10センチ角の板をどこからかもらって足に敷く なければ100円ショップで探す
・引っ越しの挨拶はした方が良いか?また、どういったものを持っていけばよいか?(「洗剤・食品はNG。商品券とゴミ袋のような消えものが定石だ」と聞いたことがある)
アラサー男が初めて一人暮らしするにあたり、必要なものってなんだろう?
・洗濯機(安物で十分・それよりきちんと畳んだりアイロンを忘れないことを重視すること)
・2ドア冷蔵庫(霜取り芙蓉・容量160L±20L・耐熱天板)
・電子レンジは割とよく使う。オーブンは使いそうで使わない。というわけで電子レンジ(フラットテーブルの単機能の安物で十分)
・衣類乾燥機・物干し竿(仕事上汗と油で服が1日でだめになるので)
・机・ハンガー・タンス・本棚は生活が落ち着いてから買う(大きすぎて邪魔・小さすぎて買い足すような羽目にならないようにする)
以上が必需品?
それとは別に疑問点として、
・2LDKだが、1ルームは和室なのでどう使う?(和室は完全に生活空間として使い、洋室は書斎(?)として使うか?)
・引っ越しの挨拶はした方が良いか?また、どういったものを持っていけばよいか?(「洗剤・食品はNG。商品券とゴミ袋のような消えものが定石だ」と聞いたことがある)
里帰り出産のため、実家に帰っている。和室にベビーベッドと私の布団をおきたいと思っていた。リビングにあるソファーが壊れていることを知り、まだ壊れていない和室に置いてあるソファーと入れ換えてリビングのソファーを捨てたらどうかと親に相談した。和室からソファーがなくなれば和室がスッキリして私も助かる。
父親は了承した。
伯父に軽トラを出してもらって運ぶということになり、母親とずっと和室を掃除していた。母親が和室からソファーを出せる段階になってから伯父に相談すると言われた。伯父だって用事があるから前々から相談するべきなのではと言ったけれど、母親が伯父に連絡しないのでひたすら和室の掃除をした。準備を整えてから伯父に相談すると母親は言った。お盆休みに妹が来てくれるから人手が増える。もし伯父に協力してもらえばソファーを移動できると思っていた。
一生懸命、いらないものを捨てて整理したのに、母親から急にソファーを入れ換えるのは後々(両親の老後の意味?)になってからじゃないとできないと言われた。伯父だって、お盆は忙しいかもしれないと。じゃあなんで前々から伯父に相談しなかったんだろう。それに、軽トラさえ貸してもらったら父が運転して父親、母親、妹で協力してソファーを運ぶっていっていたのに。
急に裏切られた気持ちになった。
和室からソファーがなくなる。リビングの壊れたソファーも捨てれて、実家が整うと思っていたのに。
母親はそれまで、ソファーをうまく運ぶプランの話をしていたのに急にできない話をしだした。
そういう展開もあるのかなと考えた。
実家は私の部屋ではないし、もう好きにしろよと思った。うちのリビングには四つ立派な時計があるが、そのうち時刻が正確な時計は1つだけ、来客はうちの時計を見て、混乱することが多い。壊れたソファー、使われないマッサージチェア、時間が合ってない立派な時計、溢れる不要品、この家のリビングに招かれた客は「この家の住人は知性がない」と思うだろう。
母親は60歳を越えてもフルタイムで働き続けるらしいので老後の掃除というものはできない。今家の大掃除ができているのは私が里帰り出産のために帰省しているから。特別なきっかけでもないと実家を大掃除する必要はない。老いた両親の二人暮らしだし、父親は全く家事をしないし、母親は週6のフルタイムの仕事と日常の家事に追われて、細かいところまで気を回す余裕はない。
父親は母親より物が捨てられない性格で、本当にいらないものを集めたがる。琉球グラス、カメラ、本、パソコン、時計、フィギュア
綺麗に並べるわけでもなくただ無造作に置かれているだけで、父親はコレクションが減っても気づかないだろう。
断捨離、ミニマリストとは真逆の住民が住む私の実家はこれからも、きっとこの不要品をずっと貯めながら生きていくんだ。虚しいと思う。
私の父親は車を二台所有している。通勤用と娯楽用。母親も車を一台所有しているので二人暮らしなのに車が3台ある。当然車検代や保険代の費用が発生する。先日実家のコンロが壊れて十数万の費用が発生したが、最大限の回数でローンで支払うことにしたらしい。良い歳の老夫婦なのに十数万円のお金も一括で払えない経済状況だ。コンロを修理してくれた業者は「おたく立派な車を持ってますね」と明るい話題をふってくれたが、私は「この人にはうちの両親が良い暮らしをしてるように見せかけて実は貧困層ってことがバレちゃったな」と気まずくった。
私も両親の血を引いていて、なかなか物が捨てられない女だし、部屋を汚くして夫を怒らせてしまったけど、これからはもっとミニマリストになって、自分の子供には不要品に囲まれたゴミ屋敷での生活をさせないようにしようと思う。
長くなります。文章は書き慣れていなくて、ぐちゃぐちゃだけど、誰かが見てくれますように。
わたしは、小学1.2年生くらいから3歳上の兄から性的虐待を受け、小学校卒業あたりまで性的な目で見られていました。
まずはお風呂で性器や胸を見られ、触られるところから始まりました。
まだ幼かったので、それが性的なことだとは理解できませんでした。
兄は必ず、わたしがお風呂に入るとついてきて、そのようなことをしました。
何故かだんだんと怖い気持ちになって、お風呂に兄がついてきそうなときは、父親を呼んで3人で一緒に入りました。
ある日、兄と2人きりでお風呂に入ってしまい、「胸を吸わせてほしい」と言われました。
嫌だと言いましたが、何度も言われるので、応えてしまいました。
これは駄目なことなんだと察し、わたしは怖さと気持ち悪さを感じました。
何日後かにあったピアノの発表会の帰り道で、そのことを思い出して震えて動けなくなったことも今でも覚えています。
わたしは汚いんだ、と思うようになりました。
母にも心配されましたが、本当のことは言えませんでした。
しかし、兄がお風呂についてくるのが耐えきれず、 ついに母親に「お風呂にお兄ちゃんが入ってくるのが嫌だ」と打ち明け、お風呂に兄がついてくることはなくなりました。
小学2年生か、3年生の頃です。
わたしが和室で本を読みながら眠ってしまい、ふと目を覚ますと、兄がわたしの服に手を入れ、「(わたしの名前)、起きなよ、起きなよ」と言いながら胸を揉んでいました。
寝起きで上手く声が出せず、息が苦しくて、足で兄を蹴って抵抗しました。
ほんとうにこわかったです。
ずっと覚えてます。
うたた寝すらもできない、
気付かなかっただけで、今までも寝ている間に何かされていたのかもしれない。
兄と自分に対する嫌悪感と気持ち悪さ、不安、そして自分は汚れているという感覚でいっぱいになりました。
でも、性的な目では小学校卒業くらいまでずっと見られていました。
わたしは小学生の頃から胸が人よりも大きく、目立っていました。
小学校高学年くらいから、兄に「(自分の名前)は、胸が大きいよね」と言われてきました。
その頃、同学年の男子からも同じようなことを言われ始め、「わたしはそんな目でしか見られないんだ」と悲しくなりました。
普通は気にすることではないのかもしれませんが、兄とのことがあったため、妙に気になりました。
それから月日が経ち、兄は性的な行為や発言をすることはなくなりました。
なるべく、会話もしないようにしていたし、関わることも少なくなりました。
あれは幼くて、善悪の判断がつかなかったから起きたこと、性的な好奇心からの出来事だと思うようになりました。
兄は、その時のこともきっと忘れているんだろうな、と。
そう思うと、前よりは普通に接することができました。
兄から「一緒に寝てほしい」と言われました。
「一人だと寂しくてたまらない」と。
なんとなく昔のことを思い出して断ると、
兄は言いました。
「小さい頃みたいなことはしないから。」
聞いた瞬間に背筋がゾワっとしました。
やっぱり、まだ覚えてたんだ。
忘れてなかったんだ。
「絶対に無理だから」と言い、わたしは自分の部屋に戻りました。
この時、兄は笑っていました。
この人にとっては、そのくらいの出来事だったんだ、と。
そのとき、わたしは一生このことに縛られて生きていくんだな、と思いました。
兄の少し肩が触れただけで、目が合うだけで鳥肌が止まらなくなります。
自分はきたない、価値がない、知られたら気持ち悪がれる秘密がある、
自己肯定ができません。
もっと酷いことをされた人もいるのに。
しかし、そのこととは裏腹に、異性との距離感がわからず、どこまで性的なことに及んでいいのかもわからないでいました。
何故か、いけないことの区別がつかないのです。
むしろ、わたしは性的なことをするために生まれた人間なのだと思うようになりました。
兄との記憶や、兄の手や舌の感触を別の人で塗り替えたくてたまりませんでした。
こんなわたしが純粋に人を好きになるなんて気持ち悪いことで、本当は駄目なことだと思う。
中学生の頃に好きな人と性的な関係になってしまったり、高校に入っても何人かから同じ扱いを受けました。信頼していた男友達に襲われた時から、人を心から信用できなくなりました。2.3人とお付き合いしましたが、わたしは依存されやすいようで、いい思い出はありません。
わたしは断れない性格なので、相手だけが悪いわけではありません。
もう、抵抗の仕方を忘れていました。
痛くてしょうがないのです。
初めても、無理矢理されて血がたくさん出て泣き叫びました。
今は優しい方とお付き合いしており、その人以外と性的な関係になることはもちろんありません。その人のおかげで、悲しい記憶も、思い出さない日はないけど、少しずつ薄れています。
本当の自分を見せたいけど、見せたら彼の負担になってしまうのではないかと。
母に「見送りに行かないの?」と聞かれました。
行けるわけがありません。
一刻もはやく離れたいのです。
母に、行かないと言うと
そんなに冷たいなんて。」
しょうがないの。
ごめんね、親不孝で。
本当に無理なの、
責めないで。
思い出させないで。
こんな娘でごめんね。
涙が溢れました。
部屋にこもって泣きました。
ここに書いてないことや、今までのことをひとつずつ思い出しました。
生きるのはすごく難しいです。
自分を大切にするのは、すごく難しいです。
わたしは自分を肯定できない代わりに、わざと明るく振舞うときの自分を愛します。
周りの人を愛します。
すごく長くなってしまいました。
ぐちゃぐちゃな文章でごめんなさい。
読んでくれた人がいたら、本当にありがとう。
異物感がすごい。
和室の隅に本場ブラジルのサンバダンサーが鎮座してるみたいな。
やばい。
キスをしたりする?うそだろ・・・犬としかしたことない(くさい)・・・
えっ・・・無理・・・18禁BLの知識しかない・・・これ役に立つ?多少の汎用性ある?
嬉しいけどありがとうだけど・・・和室の隅のサンバダンサーにどう接したらいい???
もう何もわかんねえ・・・
喪女だらけのツイッターでは言えないから吐き出させてもらいました
28まで喪腐でも彼氏できたよ私にはもったいないくらいの良い人、しかも犬好き
たしかに彼氏ほしくてオシャレも化粧もがんばってきたけどいざ出来たあとのことをまったく考えてなかった
挿入されるより挿入するほうがまだ経験あるからやれそうな気がする
もう何も・・・・・アレクサと付き合えばよかったのかな・・・・
でも彼氏ができたのはうれしい
郡山は雨だ。
文字通り真っ暗な車窓に、水滴が張り付いている。
少しでも遅れると困る。このまま大宮まで在来線を乗り継いでいかなければならない。
グーグルからの通知で、宇都宮から遅れているとの情報を受け取る。
日付が変わる頃には家に着いていたい。
土曜の7時過ぎ、平日なら都内の方面へ向かう大宮駅の在来線ホームにいるはずだが、この日は打って変わり、新幹線ホームにいた。
金曜の夜のうちに、鳴子温泉の宿を取っていた。
昨晩熟睡できたおかげか、頭はすっきりしている。
少なくとも午前中には宿に着いてしまう、余裕を持ちすぎた旅程だった。
出発の5分前に新幹線は入線した。構内のブックエクスプレスで買った本を読みながら発車を待つ。
雪が降っていた。
西口のペデストリアンデッキの隅々には黒く汚れた雪がそこかしこに避けてあった。
本来なら、鳴子温泉にまっすぐ向かうのであれば、古川行きの特急券を用意するのが一般的だが、気分の変わりやすい私は、なんとなく先のことを見越して仙台行きでやめておいた。
別に、仙台から東北本線、陸羽東線を乗り継いで行っても問題ない。
また、結果的にその通りになったのだが、仙山線に乗り迂回しながら鳴子温泉にも行ける。
コートのポケットの中には行き先指定の乗車券ではなく、乗り降り自由の周遊券が収まっている。
これでふらふらと時間の許す限りどこまででも行ける。
雪を見たら必ずどこかに行きたくなる。
仙台に降った雪にそそのかされ、仙山線で山寺を目指すことにした。
山形県境を超えると、雪が濃くなった。
車窓には白色が占める割合が高くなり、車輪が雪を踏みしめる音が聞こえる。
私は学生の身分から社会人になったが、仙山線のこの風景は何も変わってはいない。
立石寺までの道のりや、参道の茶屋の雰囲気、何もかもそのままだ。
昔のことを考えていたらなぜか気恥ずかしくなり、1時間半滞在した後、すぐに山形方面を目指した。
あの頃は、貧乏学生で新幹線なんて使えず、全て鈍行での旅程だった。
駅前では旅館のおかみさんがボートを手に掲げ、待っていてくれた。
一晩お世話になる宿は、とても素晴らしいものだった。
なによりも、お湯が最高であった。
鳴子の湯は、湧き出る箇所によってその特色が全く異なる。
今回の宿は、これでもかというほど白く濁りきり、硫黄の匂いで脱衣所どころか、宿全体が溢れていた。
2階建てですべてが和室。こたつにストーブ。更には湧き出る源泉の温度を利用したヒーターが備えてあった。
夕食後は湯に浸かり、酒を飲んで、気付くと朝を迎え、あっという間にチェックアウトをしていた。
かつての震災。実家が青森の私は、知っておくべきことではないかという観念があった。
整然としている。真っ先に思い浮かんだ感想。
列車の中で見た女川までの車窓は、やはり想像していたとおりだった。
復興の力とはすごいものだ。震災直後の町の有り様は、詳細には私にはわからないが、一つだけ言えるのは、さっきまで見ていた車窓とは全く異なっていた、ということだ。
これこそが活気だと感じた。
だか、確実にここには人が住んでいる。そういう気分にさせた。
私はその後、今日何度目かの温泉に浸かり、土産を買い、ただの観光客という身分でそこにいた。
観光客でいられるということは、よく考えてみれば、それはもう立派な町だ。
間違いなく東北は立ち直ってきている。一部分の一瞬を切り取っただけを見た私が言うのは甚だ軽薄で軽率であるが、そう思わずにはいられなかった。
一年前、仙台から鈍行で東北本線を上ったことがやけに懐かしくなり、私は300km超の道のりをゆったりと列車に揺られている。
残りの時間は少し眠ろうと思う。仙台で少し買いすぎてしまった酒がもう底を尽きた。
なんとまあ奔放で堕落した2日間だっただろう。
5月15日当日は日曜日で、銃殺された犬養首相は終日官邸にいた。
第一組9人は、三上卓海軍中尉、黒岩勇海軍予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人を表門組、山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入。表門組の三上は官邸の日本館の洋式客間で、警備の田中五郎巡査を銃撃し重傷を負わせた(田中五郎巡査は5月26日に死亡する[1])。
表門組と裏門組は日本館内で合流。三上は日本館の食堂で犬養首相を発見すると、直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたが[注釈 1]たまたま弾丸が装填されていなかったため発射されなかった。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動する途中に大声で全員に首相発見を知らせた[2]。客間に入ると首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。
しかし一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸宏が突然「問答無用、射て、射て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩勇が山岸の声に応じて[3]犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った[4][注釈 2]。
それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。