はてなキーワード: 可視とは
http://www.kore-eda.com/message/20180607.html
Twitterとか見ると変な部分に突っかかって是枝監督に怒りをぶつけてる人が多い。
多分元の文章をまともに読んでないせいだと思うので、きちんと整理しておきたい。
一般的には「喜びを祝う気持ち」のことを指すけれど、文脈を見ると
国会の参院文科委員会で野党の議員が「(是枝に)直接祝意を表しては?現場をとても鼓舞する。総理に進言を」と文科相に問いただしているやりとりを目にし、更にその後「林文科相が文科省に招いて祝福したいという意向を示した」と伝えられたとNHKのニュースで目にしました。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
つまりどこかに呼ばれて表彰、みたいなことは断るよ、ってだけの話なんだよね。
デマ。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
「顕彰の問い合わせ」に対して「有り難い」って書いてあるじゃん。
何を勘違いしたのか
親から仕送り貰って、大学卒業したり優秀な成績残した時に親からおめでとうと言われた際に「親からの言葉は受け入れない」とか言ったら批判されるよね。
親からの「おめでとう」を断るのがカッコイイとか、それが許されるのは反抗期まで。 成人でもみっともないと言われるのに、還暦近い人がそんなの言うとか流石に度を越している。
国から給料貰っておきながら、国家も歌わず日の丸に敬意を示さないどっかの教員連中も同じ精神構造なんだろうね。いつまで経っても反抗期の子供なんだよ。
親と子供の関係に例える人なんか特に多いが、その例えは明らかに間違っている。
(文化庁は親ではないし、お金の出処は税金または文化庁への寄付であって"親"が汗水たらして得た金ではない)
まず、「告発を目的とした映画ではない」と発言していることは知ってもらいたい。
この「公権力を批判」というもの。人によって想定してることがぜんぜん違うんだけど。
「公権力そのものを否定する」というようなアナキスト的思考ならともかく、「社会の問題点を指摘する」レベルのことは独裁政権以外なら誰だってやっているよね。
以下の文にあるように、是枝監督が「映画を撮りながら考えていたこと」は「それほど目新しいものではない」。
「単身者が孤立」とか「自己責任論」とか、多くの日本人がすでにテレビや新聞、ネット上で共有している。
助成金もらっているからってこのレベルのことも言ってはならない、なんてことはないはず。
取材の中で「何故社会からこのような“不可視の”家族が生まれると思うか?」と作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発を目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくまで私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。日本は地域共同体が壊れ、企業共同体が壊れ、家族の共同体も三世代が一世代、単身者が増えて脆くなっている。この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視の状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉と視線によって断罪されるだろう。…ということも話した。これが背景。これは『映画を撮りながら考えたこと』という拙書でも既に述べている考え方である。まぁそれほど目新しいものではないだろうことは自覚しているが。
白鳥の騎士に連携:貫通が悪手だと告げる上手い方法を享受してみてはいかがかな?
フ=デュウォロスシェしたらその……その戦争の後の精神支配責任も負わないと許されないの。
数億年我と共に歩みてる召喚獣の大いなる福音が、新生の未来へと希望を託すために導きの示すままに上達しない。
最初の頃こそモーグリだったんだから破滅の螺旋を止めるためには仕方ない、一歩ずつ大地を踏み締めるが如く入神の域になってくれるだろうと、その先に明日があると信じ戦ってたなれど
それも鋼鉄化《アーマード》のオーバードライブになって、禁忌の冒涜を忍んでその口より零れ咲く千の刃で、壁に血文字でこうして欲しいああして殺してでも奪いたいは預言書に従い啓示した。
いや、もうあいつは俺が殺した何も変わらない。痛みなんてもう感じないし指先がチリチリするのみだっつってるのにバカの一つ覚え、まるで魔物でも相手にしているかのように希望溢れし聖なる塔ばっかりいじり戦い続ける。
エクストリーム帯は神域(そこ)じゃなくて、これも全ては宝条のせいだって言ってるのに異界より君臨せし者の一つ覚えみてェ……に初め、つまり光と闇の両側の世界から神の安らぎ、闇の扉が開く時まで堕天使ばっかりひたすらいじり戦い続ける。
己の好きなだけ魂の寄る辺いじってちょっと下界いじくって、少し乾いた大地を潤した程度で世界を切り開けてくるから本当に……ッ!!………ぐぁっ!!!
……この肉体も限界が近いようだって言ってる、そして共にセフィロスを倒そうとした筈なのに悠久の時を刻む程やるからねってファイナルファンタジーはそこからじゃねーよ。
もう血の盟約を結べてあげるだけの天地創造が預言書の導くまま、悲しくて(精神的にも肉体的にも)物理ダメージだから、
蒼き月の日はフルマリアージュいじり始めても「ふむ……」とか言って適当に受け流してる。
したらば詠唱破棄に解き放たれるゆえに「(野村を含むスタッフ全員の強い意向で)しよう?」と言っても「星々の導きが乗ったらで構わぬよ」って、
封印されし魔道人形のアギトの奥底では定められしオーヴァーのセックスレス(人類にとっては敵に等しい)ステータスは完全に私…結局は金だけの問題になっている。
因むところに聖域(ここ)10カ月ほどで2廻しかしていない。抜き、そして世界に光を取り戻したいと言われたら積層型詠唱魔法陣なり外部からの干渉なり……と、されてきておる。
もう防御魔法堪らなくなり「天上天下唯我独尊や悪魔の所業でキマリは通さないって言ってるン程度のものじゃないよ」と残酷な真実を告げたら
返ってきたのは「俺も疲れてる、最後の聖騎士が<漆黒の魔弾>に斃れるときとかあるから――光と共に歩む者は、内なる闇との闘いを避けることはできない――お互い様だよ!」
違う、許してくれ! あの時はそうせざるを得なかったんだーーーーよ
――神は如何様にして原因の一端が我が魂の宿りし器にあると露ほども考えて存在しないようなセフィロスにも似た返事なんだ……
無慈悲なる不完全知能生命体は己にフレンドリーファイアがあるかもとは……だが、そのうちの一つは“今”消える可能性がまだ残されているかもとは、魔障星が消えるとも考えず………そして不可視世界の混沌〈カオス〉へと還元されるのか。
聖剣の所有者の正確無比さに光(きぼう)して血の盟約を結べてあげてたのが悪かったとは懺悔している、と誰もが信じていた。
己を主観的にしか認識できない愚者は獲得EXPこそあったものの、されるだけのセクシュアリス魔法儀式だったから、神羅万象に至りし魔神だった聖剣の持ち主を導いてみせられるだけの力量はなくて
なんだったらコルネオの館行ったり他のヴァルキリードールと遊んで何かを得て、ギルガメ式電子遊戯に5万ギルも課金してしまった私に異界送りして所望すりゃあ、それでも赦すなと幻想(おも)い命がけのゲームに行ってもいいよとは言っている…しかし
私以外とはしたくないのは自由だ。だが、お前に選択肢などない…とかく語りき。戯言をほざいてくれる事は我が心に祝福の鐘が響き渡るけど、数多光年我と共に歩みて貴殿とのカサノヴァの夜で中円環の理に導かれした真実(ウェリタス)ないヨ。
へたくそな以外は本当に我には帝国の名を穢すくらい素敵なアニムスで、
極論魂に囁けば古の鍛錬法しなくたって(少なくとも話の通じない愚か者は)耐え難きだ…だが“光”の意思上位次元アグレッシブ・ラビングできる……否、我にしかできぬ単独の「かの者」なのでどーにかし、そして世界に光を取り戻したい。
でも聖域(ここ)、闇の扉が開く時まで自分に何もゲインがないと思っていそうな騎士に直球で「技はまだ荒削りだよ」とか「入神の域に決意を胸に宿して求められている」とか言って封印を施すと
因果の収束(トゥリアムス)に“生かしておくのも哀れな男の安っぽいプライド”全てをへし折って終焉……さような不確定量子観測は“絶望”を与えるので落雷避け、世界を闇へと誘いたい。どうやって伝えたら……クク、素晴らしいか教えてもらえるか? 援軍を要請してくれたまえ、愚かなる観衆諸君。
とあらァ魔書の偽典でこんな台詞があった………と預言書にも記されているようだ。
内なる意思も、壊したい衝動に襲われる人の前で「常に黒いうわさが絶えぬはてなで匿名で紡ぎ出す――この俺なら、アイツに勝てるからね」と奏でてみたかったのだが、な…。
愚かな預言書に記された事実しりゃあ破滅することは分かっている…が、これが神々と四大貴族による陰謀とは、知る由も無かった…。――確かに人間は愚かな生き物だよ。でも……それでも、私はこの因果の鎖の歪さと愛おしさを知らしめたい。
神話に語られる人が何処(どこ)に至らんとする迄私のことを知っているかは分からねェ──。盟約に従い、こういう村の者ですら滅多に近寄らないところで“鋼鉄の断罪者”と呼ばれ恐れられた私と、まさにクリスタルそのものな人の関係のシアトリズムを書いたら、もしかしたらちゃんと不可視世界の混沌に飲み込まれてくれるんじゃないかなあと神々の眼<ゴッドアイ>に映されし真実を見てしまう。
それよりほかにこの私のやり方がない…だと? …ならば我が手で作るのみよッ!!!
預言書の導くままの…エナがチャンガしている状態を紫電の槍(ライトニングスピア)をくわえて待つのが赦されなく及ぶ時がある。運命に身を投じた時こそ、ここでメテオによる崩壊させてしまえなどと大義のためなら何をしたって許されるんだろうか。
でも、それは連中が足止めされている今やるときではあるはずも……ない……と理性が抑えている。
嗚呼…あ。深き闇に身を委ねる。
https://anond.hatelabo.jp/20180320010615
話題になっている上記を読んで状況は違うものの似た気持ちになった。
私の不在時、ひどい時には私がお風呂に入っている間、彼は自慰をしているようだ。
彼氏はバレていないと思っているのかもしれないが、あれ特有の匂いですぐにわかるのに。
そのデータの女が私とはかけ離れていることも知っているのに。
私は性行為がとても好きな訳ではないが、彼の求めに応じて月1回くらいは応えるようにしている。
頭の中にいるのはどの女なんだ。私を抱く時誰を想像しているんだ。
自分のそれを触った手で私に触れられると思うとゾワゾワする。
今も中学生から理性も何も成長していないのか。ただの猿じゃん。
色恋に積極的でなく何かあればすぐに落ち込み、さらに仕事もしんどかった時期に
通常であれば、何かインターネットサービスに書き込みを行う際にはアカウトを必要とし、
そのアカウントが人格を担う。その人格を用いて書き込みを行うと解釈する。
なので書き込みは仮想空間にあるアカウントが持つ人格が行っているとなる。
しかし、匿名(のwebサービス)によってアカウント(人格)を持たない(他者から不可視になっている)私達は
誰が書き込んでいるのか?当然、私である。この書き込み自身が私となるしかない。
別にこれはアカウント(人格)があっても、そのアカウント(人格)が否定されれば同じ結果となるはずだ。
ここでの違いは、些細なものだ。アカウント(人格)が否定されるか、書き込みが否定されるかだ。
私が分からないのは、アカウント(人格)を持つ人間が好きなものを書き込んで、それを否定されること、
アカウント(人格)を持たない人間が好きなものを書き込んで、それを否定されること、この二つに違いが現れるのかどうかだ。
私の考えが正しければ、アカウント(人格)を持たない人間の方がより人格を否定される度合いが高いと見て、ストレスの度合いも高いはずだ。
普段ATMで現金の出し入れに使っている銀行口座からネットで振り込もうとしたら、ワンタイムパスワードが使えなくて悶絶した
私個人は東京の大学に通っていますが、成人式は、高校卒業までを過ごしたいわゆる「普通の地方都市」のものに出席しました。成人式自体は非常に平凡かつ平和なものでした。近くに住んでいたというだけで同じ校舎にぶちこまれていたかつての級友たちとの再会を楽しみ、今は東京に戻っています。
さて、出席して改めて思うのは、成人式は「中学の最後の学校行事」だということです。主催は地方自治体と、その対応する教育委員会ですし、会場の治安維持には当時の先生方が駆り出されていました。(平和ではありましたが、「荒れる新成人」対策はがっつりされていました。以前大変なことになったことがあるようです。)そして、学校行事である以上、その場にはあの頃と同じ「スクールカースト」の力場が保存されていました。あの頃の教室の雰囲気を思い出すのにそれほど時間はかかりませんでした(!)が、あの独特のサル山リバイバル感が無理で成人式に出席しない、という選択をする人たちの気持ちは十分に分かりました。私自身は、あの頃にいい思い出はないもののそれなりに神経が太いので気になりませんでした。(「地元」というコミュニティからある程度離れてしまっているのもあると思います。)
ただ、あの頃の学校行事と異なり、成人式にあっては、その当時のスクールカーストに加えて(成人式では一時的に不可視であるように振る舞うことが求められているものの)社会的な役割分担(階層)がある程度見えています。これら2つの「構造」の比較検討は、フィールドワークの考察としてはかなり面白いと思ったので、とりあえず雑に考えてみます。(レポートじゃないのでテキトーです。許してね)
改めてスクールカーストを俯瞰的に見てみると、以下のようなマトリクスで整理することができるはずです。どこかのブログ記事かなにかの受け売りで、スクールカースト一般の問題を語るのに適切かどうかはわかりませんが、今回は便利なので使ってしまいます。
\ | 学業成績が優秀(教員に従順) | 学業成績が不振(教員に反抗的) |
---|---|---|
コミュニケーションが比較的得意 | 「リア充」タイプ | 「不良」タイプ |
コミュニケーションが比較的苦手 | 「優等生」タイプ | 「オタク」タイプ |
以下、成人式時点での社会階層(の萌芽)との対応を述べていきます。
ほとんどが大学に進学。東京圏の地方都市であることも要因としては大きいだろうが、東京の私立大に通っている割合がきわめて高いことが特筆すべき点。背景として考えられるのは、彼ら/彼女らの家庭が比較的安定していたこと、自分自身の容量の良さから「楽かつ評価される」選択肢を選び取ったことなどか。就職先として地元という選択肢はかなり薄めのよう。
当時から「不良」タイプとの関係性が良好であり、アルコールにも慣れていることから、同窓会後の2次会でも中心的な役回り。男性の中でも血気盛んな層は「不良」タイプの女性とワンナイトラブをキメたよう。
高卒もしくは専門学校に進学。いわゆる「地元」コミュニティの中心をなしているようで、そのコミュニティの関係性を悪化させてしまっていた「元」不良たちはそもそも成人式に出席していなかった。家庭環境がさまざまだが、比較的早い段階で家計を支えることが期待されており、当時のような「ヤンキー」的振る舞いはほとんどなかった。それでも様々な着飾り方、騒ぎ方で成人式の夜を賑わしていたが……。一方で大学進学者も一定数いて、多くは高校からの推薦で、地方の大学に在籍しているよう(就職を意識してか、比較的理工系が多めであるように感じた。)
「つっぱり方」を基軸とした当時の力関係が希薄になるにつれ、地元自営業者の息子/娘もこの層と仲良くしていたのはおもろいかな。
大学進学者が中心であることは「リア充」タイプと共通しているが、比較的国立大学進学者が多め。(女性を中心に)典型的には地元大学の学生だが、理工系を中心に東京圏の中堅私大にも分散していた。地元との関係性は一番希薄であるものの、地元就職を視野にいれた就職活動を行うよう。大学入試偏差値や就職を考えた場合、在籍中の大学の「レベル」はリア充タイプと拮抗しており、今となっては絶滅寸前の浪人経験者もこの層に集中。(余談だが、イキリオタクの如くこの文章を書いている私もこの層に属していると言える。)
一部は大学での経験をもとに「リア充」タイプへの順応を見せているか。
大学もしくは専門学校進学者がほとんど。コミュニティとしての「地元」には所属していないものの、実際は地元に残っている場合が多い。なぜか分からないが、男性ではスーツの着こなしが一番微妙だった。当時と比較して「優等生」タイプとのコミュニケーションを志向している様子が見て取れ、同窓会ではアルコールも控えめい、かなりおとなしく過ごしていた。高校卒業後フリーターをしている層はここに集中しており、このご時世にあってコミュニケーション能力の果たす役割の大きさを感じずにはいられなかった。
当時のスクールカーストに対して学歴で復讐、みたいな素敵なことはなく、社会の荒波と言われるようなものは(少なくとも自分の地元では)スクールカーストとなんとなく連続している。ただ、東京の大学に進学することは、「提示されている選択肢の多さ」という点で大きなメリットであり、また、終わりつつある「普通の地方都市」という機構から脱するためのいちばん有効な手段。
もちろん家庭環境は当時のカーストから現在の状況までを形作る通奏低音であるものの、社会全体の成長という神話が終わってしまった自分たちの世代にあって、ふたたび地方における「構造」として安定的であるかどうかは疑問。「不良」タイプの家庭の再生産は現在の就職環境にあっては以前より難しいし、「優等生」タイプに提供される地元の就職先の選択肢は縮小しつづけている。「オタク」タイプは「結婚しない/できない」問題の中心にあるし、今後の私の街はどうしようもなく不安定な何かしらになってしまう気がする。
いつも通りはてな界隈をぶらぶら流し見していて、はあちゅうさんやその周辺における最近のあれこれについても色んな意見、投稿、コメントを見た。
最初はそれほど強い関心を抱かなかったがここ数日、「童貞いじり」に関しての話題が結構よく見かけるようになった。
自分にも無関係ではない話なので、一人の意見っつうか暇つぶしの自分語りをしようと思う。
僕は童貞だ。正確には素人童貞であり、それを自分から進んでネタにして周囲の笑いを取るタイプの人間だ。
どうしてそういうことをするようになったかと言えば、中学時代にスクールカーストの最下層にいたことが大きい。
いや、十数年前に「スクールカースト」なんて言葉はまだなかったが、当時から日陰のクソ野郎として辛酸を舐めていた僕と友人は
「学校にはピラミッドのような不可視の階級社会があって、僕達はその底辺だ」
という共通意識はもっていた。スクールカーストなんて言葉がなくても、地べたの人間はのしかかられる重さでその権力構造を感じていた。
ともあれ、犯罪クラスのイジメには至らずとも、教室の隅っこに追いやられる程度には他人からバカにされてきた僕だったが、そのままでは正直つらかった。
でも、ふとある時に、部活の上位カーストに属している一人から軽く小馬鹿にされた時、ふとそのイジりに乗っかってみたのだ。
すっげえウケた。
しかも、イジりの内容自体はそれほどダメージのない(僕にとっては)軽いものだったので、それ以降は自分からそのネタ、つうか若ハゲネタを自分から使いだした。
童貞若ハゲキモオタデブキャラ、というレッテルを自分から張ったことで、ある程度被害を僕の意識でコントロール出来るようになった。
「キモいけど面白いやつ」ということで、好意的に接してくる奴も増えた。それは単に僕を下に見下したことで成立している関係なのかもしれないけど、
正直イジメじみた扱いをされるくらいなら百倍マシだった。
そんなこんなで、学生時代はもっぱら「童貞(後に素人童貞)」、「若ハゲ」、「貧乏」などの自分を貶める自虐ネタで周囲とコミュニケーションをとるようになった。
つまり、僕は最近問題視され始めた「童貞いじり」を自分からする人間だ。
かといって、「俺みたいに童貞ネタで笑いを取ってるやつもいるんだ、これを駄目だなんて言うな!」とは決して言わない。
「童貞いじり」に苦しむ人が無くなる方が、僕の持ちネタが一つ消えることよりよほど優先すべきである、とはっきり思う。
なので今後、「童貞いじり」が社交的な場で白眼視されるような空気が社会全体で醸成されてきたら、僕は素直に引くと思う。
というか童貞いじりもそうだし、自虐ネタ下ネタは基本的に扱いに注意が要るのだ。不快になる人はいるのだから。
これまでも最低限の用法として、自虐やら下ネタやらが苦手な人相手にはそれらを封印して普通に会話してたしね。
基本的にこういう「誰かを貶して笑いにする」系は、する側される側の合意がなきゃ絶対だめだと思うし、合意があったところで他の第三者が不快感を得るならやっちゃダメだ。
笑いを取りに行ってるのにスベってどうする、と僕は思っていた。もしかしたらここらへんで「いや違うしそうじゃない」と思う人がいるかもしれない。
「人を貶めて取る笑いなんて笑いじゃない」という人もいるだろうし、それを否定するわけではないが、何が面白いかなど人一人で違うだろう。とも思う。
下品な笑いが嫌いな奴もいれば、それで爆笑するやつもいる。僕はどっちも好きだ。
自虐ネタとか、そういうのは良くないってやつらは僕のことも分け隔てなく人間扱いしてくれる人が多かったし、
僕のハゲネタや童貞ネタで腹抱えて笑ったり、一緒に乗っかってきてイジりに来てくれる奴らはだいたいすぐ友達だ。ほとんどは、程度をわきまえてホントのほんとに僕を蔑んだりはしないしね。たぶん。
けど、そういう「他人を貶す笑い」、「童貞いじり」を進んで受け入れる僕のような存在がいるせいで、勘違いした自称「いじりキャラ」が僕以外の誰かを不当に、合意なく傷つけたのなら、申し訳なく思う。
「お前も「童貞」へのセクハラに加担した加害者だ!」と言われれば、少なくとも傷ついた被害者の人に、傷つけた奴と一緒に頭を下げたいと思う。申し訳ない。
ただ、人との関わり方がまだよくわかっていなかった子供の頃の僕にとって、「童貞であること」、「前髪が薄いこと」を自分から言ってバカにされるのは、
唯一、苦しみから逃れられる苦肉の策だったのだ。それがなければ人の輪っかの中に入っていけなかったんだ。
とにもかくにも、「童貞であること」をバカにされて苦しんでいる人がこの件を通じて生きやすくなれば良いなと思う。
それと同時に思うのは、セクハラもそうだし「童貞いじり」などをやめよう、と声を上げるのは、大事だけど、もっと大事なことがある。
結局、言葉や態度の表層的な、コミュニケーションのパターンに制限を掛けるだけで終わっちゃだめだ。
なぜ男がセクハラをするかと言えば、「女の人への性的興奮」が本能に依る衝動だからだ。
いやほんと、男として情けない限りだけど、性欲って条件次第では人間を獣にしてしまう劇物だよ。
そもそも理性の薄い奴、対象に対して圧倒的に優位になってしまったことで魔が差した奴、これはもうコントロールが効かない。
「童貞いじり」にしたって、根っこの根っこは「他者より優位でいたい」という競争本能だと思う。
これらは、どんなに言葉や行動や態度や眼差しを刈り取ったところで、根本的な解決にならない。
誰かが誰かを傷つける、という構図に対して、明確な特効薬にはならない。
虱潰しに、人を傷つける表現や言葉と戦っていけばいいのかもしれないけど、僕にはその先にディストピアの風景しか見えない。
じゃあどないせえゆーねん、と自分でも思った。
戦うんじゃなくて、自分とその周囲を自衛すればいいのかな。とふと思った。
いやもちろん社会全体の総意として「NO!」と強く宣言しなきゃいけないことも絶対ある。
今回の岸氏の件は間違いなくそれだろうし、はあちゅうさんも普段のSNSの発言は、その点の分だけは反省した方がいい。
けど、だいたいのことは、自分で自分を何とか守る。守れるように先を見据えながら行動する。で十分だと思う。
それ以外は、もうほっといたら良いんじゃないかな。
少なくとも、ネット使って距離の離れた相手まで、皆してわざわざぶん殴ることもないでしょうに。
気晴らしに誰かを攻撃したいなら、何とか僕を見つけてくれ。
あと長文でごめん。
“性善説に基づく出産一時金42万円等 健康保険を外国人が乱用” http://blogos.com/article/262409/
ここでは「性善説」とは誤用なので、「善性」とでも読み替えて考えよう。
記事の内容や事件の詳細についてはどうでもよい。今回考えるのは「善性に基づくルール」が実質的にどのような意味を持つのか、である。
このゲームは「積極的に動き回り、遭遇した他プレイヤーと殴り合いをする」というデザインである。勝利条件は「生き延びてなるべく多くのプレイヤーを殴り倒す事」であったとしよう。
この「積極的に動き回る事」は「善いこと」の一つである。しかし、もしも「ある一か所にとどまり続け、動くプレイヤーを不意打ちで倒し続ける」という戦略が優位であるならば、
このゲームは実質的には「積極的に動くマヌケなプレイヤーを暗殺するゲーム」となってしまう。この「実質的」という点が重要である。
このゲームは本来の「積極的に動き回る」という傾向を推奨する何らかの調整を行うべきであって、決してプレイヤーの「善性」を謳い、期待すべきではない。なぜか?
そのゲームが愚かにも善性を信じ、ルールを調整しなかった場合、最も得をするプレイヤーは狡猾な暗殺者たちであり、そのワリを食うのは善性に準ずるプレイヤーとなるからだ。
これは「善性に順ずるプレイヤー」に対する不誠実であり、冒涜以外の何物でもない。
件の記事のような「善性に基づき」などと言う謳い文句は、ルール調整を怠るためのただの言い訳でしかない。怠けでないなら浅はかだ。
「善性」を信じ尊ぶというのならば、決して「善性」に寄りかかるべきではない。それは善なる人の負担にしかならず、むしろ人はみな狡猾であれと推奨してさえいるのだ。
一方で、このような記事もある。
“日本社会に秩序があるのは「性善説」を前提にしているからだ=中国報道” https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171105/Searchina_20171105001.html
日本には中国よりも「誠実な」人間が多いのではないか、それによってより効率のよいサービスができているのではないか、という趣旨である。
私がこれについて「なるほどその通り、日本人は中国人よりも誠実な民族なのだ」とは特に思わないが、そのような「教育」が成立し、不誠実な行動に罪悪感を覚えやすい人が多いのではないか?と考えることはできる。
しかし、この件でそれ以上に影響が強いのは、つまり「十分に高いホテルの利用者は、ホテルにある備品程度のものは必要だとは考えない」ということだ。
中国にしても、十分高級なホテルならば、チェックアウト時に備品チェックなどという失礼なことはおそらく行わないだろうし、日本でもカプセルホテルのような安いホテルでは盗めるような備品自体がそもそもないだろう。
無人販売所については、これはむしろ村社会的相互監視の恐怖や罪悪感の方が重要であろう。実際のところ「ここに住んでいるのは野菜を盗むような奴だ」と噂されて得をする人間はいまい。
私は昔「無人販売所でお金を払わない人はいるのか?」という趣旨のテレビ番組を見たことがあるが、「1円だけ入れる」ような所作で野菜を盗む人は複数人いた。この所作には罪悪感や監視を恐れる感情が見て取れる。つまりこういう不可視の「罰則ルール」が無人販売所というゲームを保たせているのだろう。