“性善説に基づく出産一時金42万円等 健康保険を外国人が乱用” http://blogos.com/article/262409/
ここでは「性善説」とは誤用なので、「善性」とでも読み替えて考えよう。
記事の内容や事件の詳細についてはどうでもよい。今回考えるのは「善性に基づくルール」が実質的にどのような意味を持つのか、である。
このゲームは「積極的に動き回り、遭遇した他プレイヤーと殴り合いをする」というデザインである。勝利条件は「生き延びてなるべく多くのプレイヤーを殴り倒す事」であったとしよう。
この「積極的に動き回る事」は「善いこと」の一つである。しかし、もしも「ある一か所にとどまり続け、動くプレイヤーを不意打ちで倒し続ける」という戦略が優位であるならば、
このゲームは実質的には「積極的に動くマヌケなプレイヤーを暗殺するゲーム」となってしまう。この「実質的」という点が重要である。
このゲームは本来の「積極的に動き回る」という傾向を推奨する何らかの調整を行うべきであって、決してプレイヤーの「善性」を謳い、期待すべきではない。なぜか?
そのゲームが愚かにも善性を信じ、ルールを調整しなかった場合、最も得をするプレイヤーは狡猾な暗殺者たちであり、そのワリを食うのは善性に準ずるプレイヤーとなるからだ。
これは「善性に順ずるプレイヤー」に対する不誠実であり、冒涜以外の何物でもない。
件の記事のような「善性に基づき」などと言う謳い文句は、ルール調整を怠るためのただの言い訳でしかない。怠けでないなら浅はかだ。
「善性」を信じ尊ぶというのならば、決して「善性」に寄りかかるべきではない。それは善なる人の負担にしかならず、むしろ人はみな狡猾であれと推奨してさえいるのだ。
一方で、このような記事もある。
“日本社会に秩序があるのは「性善説」を前提にしているからだ=中国報道” https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171105/Searchina_20171105001.html
日本には中国よりも「誠実な」人間が多いのではないか、それによってより効率のよいサービスができているのではないか、という趣旨である。
私がこれについて「なるほどその通り、日本人は中国人よりも誠実な民族なのだ」とは特に思わないが、そのような「教育」が成立し、不誠実な行動に罪悪感を覚えやすい人が多いのではないか?と考えることはできる。
しかし、この件でそれ以上に影響が強いのは、つまり「十分に高いホテルの利用者は、ホテルにある備品程度のものは必要だとは考えない」ということだ。
中国にしても、十分高級なホテルならば、チェックアウト時に備品チェックなどという失礼なことはおそらく行わないだろうし、日本でもカプセルホテルのような安いホテルでは盗めるような備品自体がそもそもないだろう。
無人販売所については、これはむしろ村社会的相互監視の恐怖や罪悪感の方が重要であろう。実際のところ「ここに住んでいるのは野菜を盗むような奴だ」と噂されて得をする人間はいまい。
私は昔「無人販売所でお金を払わない人はいるのか?」という趣旨のテレビ番組を見たことがあるが、「1円だけ入れる」ような所作で野菜を盗む人は複数人いた。この所作には罪悪感や監視を恐れる感情が見て取れる。つまりこういう不可視の「罰則ルール」が無人販売所というゲームを保たせているのだろう。