はてなキーワード: 助長とは
知り合いにブラジル系の日本人が多いんだが、ブラジルから帰化した人って二重国籍解消できんのでしょ?それなら、二重国籍を問題にするよりは国籍放棄の意思表示を認定して国籍の問題はクリアできるようにしていいんでないかね。じゃないと、帰化ブラジル人は政治家になれない。そういう構造的な問題ははっきりしておいてもらいたいもんだ。
ただ、戸籍の公開を求めるのが差別を助長するってのがよくわからん。政治家じゃない時代に台湾人でもあるって自分で言ってたから疑惑を持たれて、それが事実無根ならまだしもその通りでしたって話。しかも、自分のミスや勘違いでおかしな説明したことも認めてる。そこからどうミスを修正したのかって経緯の公開を求めるのって差別かね。出自を明らかにしてやろうなんて意図なんてこの経緯からはありえないでしょ。もう、全部明らかになってるんだから。
科学的には死刑が凶悪犯罪抑止にならないとされてる。個人的には科学が億単位の国民の凶悪犯罪と死刑の関連を証明できる段階にはないとは思ってるけど。
と言っても、科学先生の方が個人的な感想よりはマシなのは間違いないだろう。
ただ、死刑が凶悪犯罪抑止に繋がるように啓蒙して、結果抑止につながる可能性ってのはあるんでないか?日本で、死刑廃止を訴えたって実現の可能性が少ないのは廃止派の人が一番よく分かってると思う。
実現不可能なことを考えるよりも、今ある制度の中で凶悪犯罪抑止の可能性を高めるようや方法を考えるってのはあかんのけ?
【追記】たくさんブクマが付いてたので、気になったのは返信していくぜ
※なんかあんまり伝わってない感じがしたので内容に付いて補足説明
啓蒙っていうのは、死刑があるから日本では凶悪犯罪なんて割にあわんと周知するイメージ。方法はなんでも良い。宗教、映画、言論、死刑のドキュメントなんかでも。これは性犯罪が厳罰化されたから、厳罰を強調して性犯罪がちょっとでも減ったらいいなと一緒だと思ってる。そんなおかしいけ?
id:t-tanaka 個人的には同意。刑罰は被害者の報仇感情の充足ではなく,犯罪の抑止を目的に課されるべきだ。死刑を存続させるのならば,その抑止効果を証明し続け,また高め続けなければならない。
→今のところほぼ唯一の賛成意見。俺が言いたいのはこれ!かしこいひとの言葉は違うな。
id:FTTH 死刑が凶悪犯罪抑止に効果がないことをお前に啓蒙したとして、「なるほど死刑に効果無いですね」って考えに変わることに現実性感じるかね?
→全然変わる可能性はあるな。大麻がドラックだと思ってた時期もあるし。そう思えないのは、本文とトラバ参照。
id:teebeetee 「悪いやつは死んで当然」みたいな浅い正義感が公的機関から肯定的にばらまかれてる社会のほうが、一人ひとりの殺人への抵抗感は薄れるんじゃないか。
→なんでそんな浅い正義感ばら撒くの?凶悪犯罪をしたら死をもって償わなきゃいけなくなるとかでいいんでない?
id:ChieOsanai 広場で処刑を見世物にしてた時代でも凶悪犯罪バンバン起こってたからなぁ
id:IkaMaru 死刑廃止が実現する可能性が低いという理由で、もっと実現性のない提案をする意味がわからない。
→そこまで実現性ないかね。解明はできないだろうけど色々な啓蒙活動が凶悪犯罪を予防してることがありそうだけどな。
id:oka_mailer いやーこれ、啓蒙してでも死刑に意義を持たせたい、存続したい、みたいな話になってるで。
→意義っていうのが、凶悪犯罪の予防効果ってことならその通りやで!存続については、自分の思いとしては死刑の肯定に予防効果あんまり関わってこない。
id:sangping 本来抑止力のない死刑に運用次第で抑止力を発生させることができるなら
→できるってより可能性があるくらいにしか思ってへんな。なんで、死刑を絡めるかはトラバ。
id:kimitama74 なぜそこまでして殺人を肯定する理由を探すのか。殺人が禁忌であることを理解させるには死刑ですら許されないことを教えるべき。
→死刑を殺人を一緒にする部分に違和感。懲役を監禁強制労働と言わないの同じ。あるいは、正当防衛をした人に殺人者と言わないのとも似てる。
id:megazalrock その論理だと死刑になるために凶悪犯罪を起こす人間を助長することになっちゃうよ
単純に行われている行為だけ見たらどちらも暴力だが、SMは当事者間の合意があって、むしろ被害者がそれを望んでいるという点がDVとは違う。
しかし、「合意を強制されたのではないか?」「望んでいないとは言い出せない状況に置かれているだけではないか?」という疑いも生じる。
第三者がこういったDVから被害者を救出しようとしたら、本当に合意があったSMも客観的にDVと区別するのは不可能だから、巻き添えで妨害せざるを得ない。
SMを肯定的に扱うポルノもDVを助長する表現として規制すべきなのだろうか。
逆に、当事者間の合意があるSMは許容するとしたら、被害者が自ら訴えることすらできないDVは放置せざるを得ないのだろうか。
「差別を助長する行為」への抗議が「根本的にどうでもいい事」なんだったら蓮舫の時も黙ってろよダブスタ野郎
という話じゃないの
元増田ですけど、ナンパ目的だろうがそうじゃなかろうがこちらが一人で楽しんでる空気出してるのにしつこく話しかけてくる人は死ねばいいと思ってるんだよね。
なので、2の煽りに3と答えたことに関して矛盾だと思ってないんだ。酒場でのコミュニケーションだというのに、こちらが出してる空気読まない馬鹿が一定数いて、そういう勘違い馬鹿を助長するのがあのサントリーのCMのイヤなところ。
こちらの、当たり障りのない雑談で切り上げたろという空気を読まない馬鹿=下心野郎だってのは、2と3を矛盾だと言う増田が複数も居ることですでに存在は証明される。
各章が独立していた内容なので、どこから読んでくれてもかまいません。
要するに、今回の件の批判者の主張は「少年誌にふさわしくない」と「このような構造の表現は好ましくない」の2点に大別できます。そしてこれへの真っ当な反応としては表現媒体や販売場所の適不適に関する議論か、どこまでの表現なら現状の媒体で可能かといった議論しかありえません。
性被害を肯定的に描いているのは、たしかに問題表現です。しかし、それを少年漫画に載せるのが不適格なのかと言うと、簡単な話ではありません。
例えば正義のために暴力をふるうアンパンマンも、私刑を肯定的に描いたという意味では問題表現だと言えます。また、サザエさんでは家事育児が女性の仕事とされていますから、これも女性差別を肯定していると解釈することができます。こうなると、あらゆる漫画に問題表現を見出すことが可能であって、どこで線引きをすればいいかは難しいです。
そもそも少年ジャンプに載せたらダメなのか、巻頭カラーで載せたからダメなのか、それとももっと読者層の年齢が高めの漫画雑誌に載せることもダメなのか。ジャンプ編集部に判断を迫るのではなく、批判者たちも責任を持ってその提案をすることが望ましいです。
それに、出版社に対して自主規制を求める活動というのは、仮に権力者ではなく私人がやっていることだとしても、一歩まちがえると危険を伴います。
例えば「LGBTは不快だから表に出てくるな」「反戦漫画を子供に読ませるな」という"批判"をしている人たちだっているでしょう。かつて性描写や暴力表現を潰そうとしていたPTAも今回の騒動とおなじ手法で、やたら大声で騒ぎ立てて世論をかきたてたり、出版社に要望を出してその世論を忖度させるという手口だったんじゃないですか。昔のことはよく知りませんけどね。そして、これが公権力と結託すると恐ろしいことになります。
自主規制の是非については、あくまでもケース・バイ・ケースですが、「世論に押されて自主規制に追いこまれるのも表現規制の一形態だ」という理解は持っておくべきだと思います。
つぎに二点目の「このような構造の表現は好ましくない」という批判ですが、これは非常に厄介です。かりに『ゆらぎ荘の幽奈さん』を年齢層が高めの雑誌に移籍させたとしても、この批判を免れることはできません。
このブログ主さんは触れていませんが、「このような構造の表現は好ましくない」というのは単に論評をしただけではなく、「好ましくないからゾーニングしろ」「好ましくないから内容を変えろ」という含意があることも多いです。
オタクは規制されそうになったり、ゾーニングを求められたりして、いつもピリピリしているんです。だから、作品名を名指しされてそんな批判を浴びせられると、オタク側が過敏に反応してしまうのは仕方ない気がします。
また、批判者は作品内容を論評するにとどまりません。「こんな好ましくない表現のある漫画を作ったり消費している奴らはクズだ」という侮辱をされることもあります。
オタクはこの侮辱に対して、どのように応答すればいいのでしょうか? 頭を下げて、「この漫画は性被害を肯定的に描いた作品です。こんなものを楽しんでいる私たちは罪悪な人間です」という懺悔をおこなえばよいのでしょうか? さすがにこの対応を求められるのは屈辱的だし、ハラスメントではないかと言いたくなります。
もちろん批判に応答する義務はないですから、黙殺しておくのが一番だと思いますけど、それはそれで「オタクは社会的責任を果たしていない」という攻撃材料を作ってしまいそうです。
(ところで、『ゆらぎ荘の幽奈さん』の件とは異なりますが、成人指定がかかっているエロマンガに対しても、「このような構造の表現は好ましくない」という批判をすることが可能です。しかし、その批判を名指しでやることは、嫌がらせ以上の意味があるのでしょうか。製作者側も好ましくないと思ったから成人指定にしているわけですし、仮にその批判を向けられたせいで炎上案件になってしまったら困ります。)
また規制を進めようとしているのはフェミニストではありません。第一日本国内のフェミニストはそこまでの政治権力を持ち得ていません。日本において議会の多数派はほとんどの場合右派(というか極右)が占めており、規制も彼らの手によるものです。
もしフェミニストが規制を進める権力がないのだとすれば、オタク側はフェミニストからの批判に耳を傾ける必要がなくなります。権力のない者からいくら批判を受けたとしても、こちらは黙殺か冷笑をしておけばいいんです。
ただし実際には、自民党が表現規制をおこなおうとするとき、リベラルやフェミニスト等の左派勢力がそれに加担・黙認する恐れがあります。こうなってしまうと、民進党、社民党、共産党がいくら反対をしたくとも、その足場が揺らいでしまいます。
オタクは普段、左派勢力からの批判をちょっとはまじめに聞き入れておかないと、いざというとき彼らに助けてもらえなくなるのです。
リベラルやフェミニストは、オタクが自分たちの批判を聞き入れようとしなかったり、自民党や山田太郎を支持している姿を見ると、激怒するでしょう。そうなると次は報復感情が芽生え、批判を押し通すために権力を頼ろうとするのが当然のなりゆきです。
その意味でリベラルやフェミニストは、自民党や右派勢力ほどではないですが、オタクにとって油断ならない存在です。
もっとも、オタクが彼らの批判を聞いたところで、批判は次から次へと出てくるし、あげくのはてに土壇場で裏切られる可能性があります。
自民党が表現規制をやるとすれば、その大義名分は、「性暴力を肯定している漫画はけしからん!」「こういう漫画が流通しているのは女性差別だ」というものになるでしょう。左派政党はともかくとして、その支持者たちがこの問題で自民党に加担するのは、けっこう容易に想定できる事態だと思います。
例えば自民党が、「少年誌から不健全な性表現(=女性蔑視を促すもの)を追放する」という法案を出したとすると、それは今回の騒動でジャンプ編集部に自主規制を求める人たちの目的と合致するものです。このとき、リベラルやフェミニストが「自主規制には賛成だが法規制には反対だ」という峻別をする人ばかりだとは限りません。
あーね、あとは、「リベラルがオタクの支持を集めそこねたのは、リベラルがクソすぎる責任もあるのに、その反省はないのか」とか、「"表現の自由戦士"みたいなオタク像ばかりを見ていて、このブログ主の現状認識もおかしいんじゃね?」とか、いろいろ言いたいことはあるけれど、そこは私もろくに把握できていないので語るのはやめておきます。
このブログ主は、『ゆらぎ荘の幽奈さん』が批判されているのはエロだからではないと言っていますが、それは違います。
絵としてエロいものだからこそ、我々の感情をゆさぶり、批判のやり玉に上がっているのです。その証拠に、私刑の暴力を肯定している『ジョジョの奇妙な冒険』等は、エロくないから批判のやり玉にあがりません。
今回のような批判が起こっているのは、この漫画の絵がエロく見えるからに他なりません。
もし視覚的には欲情を誘わない絵柄とか、エロくは見えない描写方法を採用していれば、女性蔑視・性被害うんぬんという指摘があったとしても、それが大勢の人たちを巻きこむ炎上案件にならなかった可能性が高いです。
今回の件で、はてなやTwitterのリベラルは「エロは問題ない」と繰り返していました。
しかし、私はそう思いません。
リベラルが褒め称えるような"エロ"ならば、それをどんどん子供に見せてよいですか? それを公衆に向けて掲示することは、ポリコレに沿っていると言えますか?
そんなはずがありません。どれだけ適切に描こうとも、やはりエロはゾーニングの対象にするべきです。
ところで、欧米の基準に従えば、二次元と三次元を区別せず、「児童の水着姿をエロティックに描くことは児童ポルノだ」という論を立てられると思います。
今日の日本のリベラルやフェミニストはまだこの基準を採用していないようですが、萌えキャラは童顔ばかりだし、それが水着姿になっている漫画はアウトだという意見が主流になる日が来るかもしれないですね。
女性が性被害を受けることをを肯定的にかいたというのは、じつは問題の本質ではありません。
例えば『ゆらぎ荘の幽奈さん』で、胸を強くさわられた女子が痛がっていたり、そのことで心が傷ついたシーンが描かれていれば、何も問題はなかったということでしょうか。
そういえば、この前に炎上していたクジラックスの漫画について、リベラルやフェミニストがどう思っているのかを知りたいです。
あの漫画はポルノとしては珍しく、レイプを正当化できない悪として描ききっていました。つまり、「レイプは被害者を傷つける暴力だ」「レイプをやる奴は卑劣な犯罪者だ」という認識を貫徹していたのです。
作中での性暴力の取り扱いが肯定的か否定的かということだけに注目していると、レイプ=悪という認識を徹底させたこの漫画が一周まわって健全だということになってしまいます。
これは私見になりますが、萌えという欲情を誘う絵柄で描いた漫画である以上、性被害は抜きどころです。
ストーリー上でいくら否定的なものとして描いていたとしても、それは性的消費の対象となります。
女キャラが性被害を受けているとき、その肉体が露出していると、男性読者はそれを見ながら欲情してオナニーするのです。
胸や性器の露出がなくても、その瞬間の女キャラの顔の表情を見るだけで、男性読者はきっとオナニーすることができるはずです。女キャラが恥じらいの表情ではなく、嫌がっている表情を浮かべているとしても、それはそれで抜けます。
これではどうやっても、「女キャラが性被害を受けている場面を男性読者が娯楽的に消費する」という構図を脱することができません。
この構図をなくしたい場合、萌え系の絵柄の漫画では、性暴力・性被害を作中で取り扱うことをやめるのが一番です。
また、該当箇所の絵を省略して、そういうことは文字で伝えるという方法もあるかもしれません。(しかし男性読者は、作中では省略された性被害の場面を勝手に妄想するし、あるいは性被害をうけた女性という属性に興奮し、それをオカズにしてオナニーすることができるでしょう。)
フェミニストが彼らの言うところのエロを批判するのは、主に女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化といったことを肯定し助長すると認識しているからです。フェミニストがエロを憎んでいるように彼らに見えるのは、彼らの認識するエロが女性を独立した人物としてみなさないものであるからです。その前提をクリアするのであれば、むしろ女性の独立の証として肯定するフェミニストも大勢います。
この指摘は、いちいちもっともな話だと思うんですが、「そんな批判をされても知らんがな」という反発をしたくなります。
フェミニストが女性の独立の証として肯定するエロとは、どれだけ素晴らしいものでしょうか? "女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化"を解消したとしても、今度は女性が男性に向かってそれをやり返すだけです。
例えば女性が自分の好みで男性を自由に選ぶということ、それは女性の権利です。しかし、その権利を行使するときの女性は、きわめて動物的な性欲を発揮しています。金、地位、容姿、安定感、人格、優しさ、そこには微塵もポリコレなどというものは存在しません。
パートナーに人格や優しさを求めるのは人間的な営みだと言われそうですが、じつは全然そうではありません。女性が恋愛において男性に求める人格や優しさとは、それはそれですごく動物的なものです。まるで獣のメスのようにオスを選別しているのです。女性が恋愛やセックスで感じる幸福も、すべてはこの獣性に支えられています。
いずれにせよ女の性欲も、男と変わらず獣のそれと同然なのであって、どこまでいっても身勝手で汚らわしいものなんです。性欲は、社会正義を求める意志とは根本的に矛盾しています。
こうなると結局、エロの正しいあり方というのは分からなくなります。表現物において女性キャラクターの主体性を重視すればポリコレに適するかといえば、すでに述べたとおり、決してそうではありません。
一つ言えることは、お行儀のよいエロ表現なんか絶対に楽しくないってことです。
人権や平等という正しい理念を詰めこんだエロ表現があるとすれば、おそらく私はそれを(ポルノ的な意味では)評価できないし、その偽善には吐き気を催すほどの不快感に見舞われるでしょう。私にとってのエロとは、どこまでいっても女性蔑視や暴力性と切り離せないものです。
お行儀のよいエロは、ジャンプを読んでいる子供にもウケが悪そうです。子供は不謹慎なもの、下劣なものが好きなのだし、性描写もそっちの方向でなければ楽しく受容されないでしょう。エロが野蛮さと結合してこそ楽しめるという子供の感性は、なまじそれを否認してみせる大人より正鵠を射ています。この感性のあり方は否認せず、内心の自由として尊重し、一方でこの野蛮さを制御する文明的な理念について子供に啓発することができるならば、多分それが最適解だと思います。
少年誌といえども、子供はその本を自発的に選んで買っているわけです。これを「少年誌にふさわしくない」と批判して自主規制に追いこむのは、子供の権利を奪っているのではないかという疑念があります。
これはゾーニングにおける根本的な問題ですが、「子供の目に入らないように大人が配慮する」と、「子供が自発的に見ようとしているものを大人が妨害する」を混同してはダメじゃないかと私は考えています。この配慮と妨害は重なる部分がありますが、前者が積極的におこなうべきものであるのに対して、後者は抑制的におこなうべきものでしょう。
今回は巻頭カラーだから目立っていて、その点は大人が配慮をせずに子供に見せつけたと言えるかもしれません。しかし、子供はこの雑誌が以前からこういう作風の漫画を連載したものだと知ったうえで購入しているのですよね? それがあくまでも子供の主体性の発揮だということは、議論の際にもっと考慮に入れるべきだと思うのです。
(なお、確か少年ジャンプの読者層は高校生~成人が大半、残りは中学生だったりするので、小学生の10歳以下となると、ほとんど読んでいないはずです。それを一律に"子供"扱いすることには違和感があります。)
訳あって女一人で旅行・出張などがあるし食いしん坊なので、あのサントリーのCMは迷惑。
一人でうまうまと酒を飲んでいると必ずと言っていいほどオッサンに声をかけられるのだが、そういうファンタジーを助長しないでほしい。
オッサン好きする店(日本酒旨いとか魚が旨いとか)が好きで行くので仕方ない面もあるし、店の空気悪くしない程度に無視するけど面倒くさい過ぎる。
サントリー扱ってる店は避けようと思うぐらいムカつくわ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/mubou.seesaa.net/article/451671716.html
のブコメを見ていると、「住んでる世界の違い」ってものが現れてるよなあと思う。
このブログ主は意識高い世界に住んでるんだろう(医者だしさ)けど
世の中そうではない世界もあるよね。
放置親が溢れて学校は学級崩壊しているような地域にこれを求めても無理がある。
「あの程度の漫画の何が問題あんの、今の子供なんてネットでもっと過激なエロいくらでも見てるだろ」
って人は、小学生の子にネットを自由に扱うような事はさせない家庭は異常だと思っているんだろう。
でも「それは親として当然の事で、それをしない親は放置親」って世界もあるわけだ。
「子供の読む漫画を親が取捨選択するのはおかしい」「子供の友達を親が選ぶのはおかしい」ってのも同じ。
「意識の高い」世界なら、それは当たり前のようにやっている事だが
しかしこの手の話で「親が自分で教育すればいいだろ」としか言わない人が
「他所の放置子がそれを読んで真に受けて現実で実行してうちの娘に被害が及んだら困る」という前提の人を想定しないのが不思議だ。
これは「親の教育」じゃどうしようもないんだよね。他所の子までは教育出来ないから。
サントリーCMのhttps://anond.hatelabo.jp/20170709001129の増田が
女性は「ワンチャンあるかもオジさん」からのアプローチをリアルに受けているので、そんなものを助長するような映像を広く流さないでくれと言っているのだ。
そうなると「嫌なら見なきゃいい」という話には収まらない。「そういう価値観を広めるのはやめてくれ」という話なので、中止してくれ、という要求も出てくるのだ。
と書いていたが、これと全く同じ構図。
というわけでこないだ1.5章アガルタの女をクリア。感想やら考察やらを見てました。
するとフェミニスト界隈がわりとザワザワしてる。
なんでかなー?と思っていろいろ読んでみたら
「あの結論は男根主義的。結局、『女は男が愛してやらなきゃな!』ってことでしょ?」
との意見がおおかった。
言いたくなる彼女らの気持ちもわからないではないけど、フェミ女の私から見て、アガルタの女は「男女の問題」にかなり深く切り込んでいる点で良作だと思ってるので、
ライターさんすごくがんばったなぁという思いをこめて、見解をちょっと書いてみようと思う。
※以下ネタバレ有り
◼︎アガルタの女のテーマは、「これから男性はフェミニズムや女性とどう向き合っていくべきなのか?」
この設定をどうとらえるかによって、アガルタの見方はかなりかわってくると思う。
男女平等の考えが広まってきている今の世の中、女性はかなり自由に活動できるようになっている。(社会参画とかの面においてはまだまだだし、他国になるとさらに権利は少ないけど)
一方、女性の自由な発言が増えたことによって肩身がせまいと感じる男性は少なからずいるよなー、と自分は思っている。
「女は男に従え!」的発想の人の動きが抑えられるのはいいけれど、そうではない男性まで窮屈な思いをしているんじゃないかな、と。
特にFGOプレイヤーである10〜30代の男性たちは、家庭内などで「女のほうが強い場面」を生まれた時から見ているし、大半は生まれた時から「女性は大事にしようね」とも教わってもいるので
「女性は男性に搾取されている!」とか言われてもなかなかピンとこなさそう。
フェミニズムを前にした時、「女性より男性のほうが肉体的にも社会的に有利とか言ってるけど、だからってそう男叩きしなくても……」と戸惑いを覚える人のほうが多いのではないだろうか。
結果、「フェミニストって自分たちの権利ばかり主張する自分勝手な女集団」と思ってる人も少なくない気がする。(本当はそうじゃないんだけどね)
そんな考えを念頭においてアガルタの世界を見ると、なるほどと思えるところがどんどん増える。
主人公一行は女の治める三つの国を巡ることになる。この国々を簡単にまとめると
お察しのように、これは「歴史上で、男が女にしてきたこと」だ。
さらに一歩踏み込むと、「これから、女が男にしていくだろうこと」でもある。
最近じゃ女性から男性へのセクハラもあるし、ホストやチンパブなどで性的に男性消費もできる。
一方で「男性性欲は存在が害悪そのもの!」と声高に叫ぶ人もいる。
この三つの国は、男性にも女性にも警告をしているように見える。
「異なる性を追い詰めていないか?」と。
今回「追い詰められた者であり、追い詰めている者」が不夜城のキャスター・シェヘラザードだ。
かつて男(であり服従を求める王)から攻撃され、それによる死を恐れるあまり、必要以上に男を攻撃している。
◼︎フェルグス→無垢な少年が、「被害者であり加害者でもある」女性をどう受け止めていくのか
アガルタでキーマンとなるのは、本編で男性性欲の塊のように扱われているフェルグスだ。
フェミニストからしてみれば、女性を性的嗜好品としてみているような彼が好かれることは少ない。(私は大好き!!!)
今回あらわれた幼いころの物腰柔らかなフェルグスは、自ら剣を手にするような「強い女性」に対してどう出ればいいのかよくわからないでいる。
この少年フェルグスは、いわゆる「フェミニズムをかさに着て攻撃的な態度をとる女性を扱いかねる男性」そのものだ。
彼は旅の中で二つの疑問にであう。
・王として、民を幸せにする国を作るにはどうすればいいのか?
・個人として、死を恐れるシェヘラザードの苦しみを癒すにはどうすればいいのか?
これに対する結論の詳細はプレイした人はもう読んでいると思うので省くとして、
コロンブスのように女どころか男までもモノあつかいするのではなく、かといって一方的暴力に対する従順な奴隷となるのでもなく、ただ目の前の人間と向き合うことが必要だとフェルグスは学び、死ばかりを見つめるシェヘラザードを救うことに成功する。
加えて「異性によって傷を負った人を男性性(女性性)が導き、対等に向き合うことを可能とする」ことも伝えてます。
簡単に言えば、「キモい死ね」と異性に言われ呪われたら、やっぱり異性に「そんなことない」と言われることこそ呪いの解除にもなるってことかな。
「性的」であることは決して悪いことじゃなくて、なにより性の差異があるからこそ産まれるものがあるという結論が、すごく心地よかったなあ。
(「男女がいれば子供が産まれる!」とフェルグスは言ったけれど、あれは何も子供に限ったことではなくて、「異なるものが交わる時今までなかったものが産まれる」って意味だとも思うのです。)
最後、彼の武器カラドボルグが大地を割って人々は救われるわけだけれど、カラドボルグは漢字で書くと『虹霓剣』つまり虹の剣。
LGBTを指すレインボーとかけていると考えると、「男女にかぎらず全ての性が力を合わせることで全ての命が救われる」というメッセージにも読み取れて、なかなか深い話になっている!
似た展開が繰り返されたりとか、男女どちらでもある主人公の動かしかたとか、気になる点もあったけれど、「全ての人間が性別に関係なくその歴史と差異を認めて前に進もう」という願いがこもったとてもいい物語だなーとフェミ的に思いました。
「お酒飲みながらしゃぶるのがうみゃあで」 サントリー「コックゥ~ん!」CMに「下品」「下ネタ」と批判相次ぎ公開中止へ
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/07/news096.html
この記事のブコメを見ていると、なぜこのCMが炎上したのか理解できていない人がいるようなので、ここに解説を書いておく。
まず、誤解している人がいるが、このCMは単にエロいからとか、下ネタだから炎上したわけじゃない。
このCMが燃えたのはそんな表層的な部分じゃなくて、シチュエーションの構造そのものだ。
このCMは地方でたまたま知り合った女性と居酒屋で飲む、というものだ。
女性は積極的に近づいてきて、甲斐甲斐しく料理を奨めたりする。これだけなら何ともないだろう。
だが、そこに「二人っきり」「彼氏と別れた」というフレーズを入れてきて、性的な匂いを出してくる。そこへ性的な語句と被せたフレーズを入れてくるのだから、これは「出張できた地方でワンチャンあるかも」というおっさんに都合のいい妄想を描いた映像でしかなくなるのだ。
資生堂のCMが以前燃えた。最近だと下心丸出しで女性にLINEしてくるSNSおじさんが燃えている。
今はこういう「おっさんの妄想」「おっさんの下心」は可燃性しかない。
「下心丸出しの妄想を外に出すな、気持ち悪い」ってわけだ。要は気持ち悪いのだ。それ以外にはない。
サントリーのCMではさらに女性が「え、一流企業」と言ったあと、しなを作ってカメラ目線になる。これは致命傷だ。
以前白人ナンパ師が「日本人なんてピカチュウと言っておけばヤレるぜw」と言って燃えたが、これと同じ構造だ。
「地方の女性なんてエリートサラリーマンが東京からきたらイチコロだぜw」と言っているの一緒だ。
「地方の女性なんて有名な会社名出せば色目使ってくるだろw」っていう蔑視が含まれているのだ。
こうなったら「女をバカにするな」という反発がきて当然だ。
「そんなところまで読み込めない」という人は、それが鈍感なふりをしたマウンティングじゃなければ、それはあなたが映像を読み取る力が弱いだけだ。
家じゃTVがついていて、外でもYouTubeやInstagramを見る現代人は、写真や映像から読み取る力に長けている、というただそれだけの話だ。
そして、女性は「ワンチャンあるかもオジさん」からのアプローチをリアルに受けているので、そんなものを助長するような映像を広く流さないでくれと言っているのだ。
そうなると「嫌なら見なきゃいい」という話には収まらない。「そういう価値観を広めるのはやめてくれ」という話なので、中止してくれ、という要求も出てくるのだ。
「自分はぜんぜんエロいと思いませんでしたよ。あなたは欲求不満なんですね」なんて嫌味を言うやつもいるだろう(現にブコメにいる)。一生言ってろ。今の時代はそういう価値観は可燃性があり、批判が集まるというだけだ。その現実は動かしようがない。
せいぜい自分が無意識にその価値観を丸出しにして、炎上しないことだな。炎上したら会社に損害は出るし、最悪クビになることだってある。
「そんなのは間違っている」と思うかもしれない。でも、どんなにおかしくても、事故が多発するカーブにきたら、減速しないと危険だ。おかしいからといって減速せずに突っ込むのは対策でもなんでもない。死を招くだけだ。然るべき対策はしっかり減速して曲がったあとにやるしかない。
おっと、この場合の「死」は社会的な死って意味だよ。メタファーがわからない人には、ちゃんと文字にしとかないと通じないからな。
企業の利益と対立することは、普通対話じゃ動かないというのはその通り。ただ、それは一般論であってバリアフリーに関しては、大分事情が違うんだよ。企業の利益と障害者の権利がぶつかって軋轢が生まれることがないように、バリアフリー法ができて差別解消の為の方針もすでに国で打ち出されてる。ググれば出てくるから確認してくれ。
例えば、いくらバリアフリーと言っても世の中の階段をすべてスロープに変えなければとはならない。それは、企業が行う合理的配慮というのは必要かつ適当な配慮であること、均衡を失さず過度な負担でないことと決められてるからだ。その基準には企業の財務状況も含まれてるから、過剰な設備投資になってビジネスモデルが崩壊するとなればそれは合理的でないということになる。今回のケースで言えば、一番いいのはバニラエア専用のブリッジを奄美空港に建設して他の空港同様車椅子に対応できるようにすることだけど、それは明らかに過度な負担になるからしなくて良い。
企業に罰則を設けるというの一見、障害者にとっては厳格で良いように思えるかもだけどベストではないと思う。利益の対立というのは絶対差別を助長する。「障害者の為に健常者の負担が増えんのかよ。ふざけんな」というのは今回の騒動で一番の醜い部分だと思う。差別反対、差別主義者がと罵って差別がなくなるならいいけど、実際はそんなことない。むしろもっと対立が深まる。
それなら、そもそも対立や軋轢を回避できるような制度設計のほうがベターだ。過去には、過激な政治活動に発展して関係ない人の生活を乱すことに繋がったこともあったしな。その点、障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本方針というのは上手くまとめられてると俺は思ったがいかがか?
90年代から00年代にかけて、さんざん「巫女」「メイド」を記号的、かつ無意識に消費してきたんだから、陳腐化するのも当然なのだと思う。
「巫女」「メイド」に関心を示した層(あえて「オタク」という表現を避ける)は、何も考えず消費していた。だからこうなる。後述するとおり、これは仕方がないことなのだけれど。
この消費が続くとどうなるか、「巫女」「メイド」を扱う作品がどうなっていくのか。それをあの時代に考えていた者は少なかった。
未来視をせず、まったくただ消費するだけだった。焼き畑農業に近い。
自らの髄脳をただ刺激し、そのニューロンと、「巫女」「メイド」の記号とを焼き切ってしまって、10年代を迎えた。
あの時代に「萌え」という風が吹いていた点が、この問題を助長していると感じる。
「萌え」は思索をある種放擲する営為だ。何も考えず、リラックスして作品やキャラクターに触れる。ストレス社会&大きな「物語」が消えた社会に生まれた、ふわり、とした感覚。
雨後の竹の子のように現れた「メイド喫茶」では、ふわふわのオムライスが尊ばれたという。
これは、脳をふわふわさせて無意識に快楽を得られる「萌え」の具現化として、妙にしっくりきていたと、今更ながら思う。
擦り切れた「巫女」「メイド」へのキャラクター付けをどうするか。あるいは昨今流行している「記号」をどう大切に扱うか。
大衆社会の個人に出来ることは存外少ないのかも知れない。今も「萌え」の風はどこかで吹いていて、無思想的快楽へ私たちを誘っている。
この記号が、数年後どうなるか? 作り手側はどう考えているのか? なんてことをちょっと心の片隅で考えながら、作品に触れるのが、視る側としてインスタントに出来る効果的な姿勢なのかも知れない。
割と本当にそういうことかも。
ただ、例えばレイプもので、被害者がずっと嫌がっている描写なのに、最後のコマで「でも気持ちよかったし良いか」みたいな、加害者を正当化するような終わり方をしている漫画をみかけるとすごい違和感がある。
犯罪ものを扱うにしても、それが悪であるという前提は保っていて欲しい。
例えば、ルパンなんかでも、
盗みの対象は悪い政治家だったし、ヒロインも助けたから泥棒しても良かったよね。
っていう終わり方だったら、ただの犯罪助長アニメになってまうけど、銭形の「待て〜ルパーーン!」で終わるからこそ、
「美談にみえる内容だったけど、やっぱり泥棒はやっちゃ駄目」という常識が作者と視聴者で共有して終われて、違和感は残らない。
わざわざ注意書きを書かなくても、表現の方法としてやれることは色々あると思う。
デスノートにしても、「キラかっこいい!」だけじゃ駄目で、やはり「月に共感できる部分はあるけど、やっぱり人殺しはだめだろ」、っていう雰囲気が作中にあるから問題作にならない。
漫画アニメ以外でも、ビートたけしとか爆笑の太田とかが暴言吐いてもすぐにまともなツッコミが入るから笑いとして成立するわけで、暴言部分だけ切り抜いて放送したら苦情の嵐だろうな。
性犯罪ものの件でいうと、監獄にぶち込まれるという表現に限らず、加害者が悪であるという前提が共有できていて、被害者が可哀想にみえる状態のままで終わるだけでも、違和感は大分減ると思う。
前から興味があったのでこの機会にLO単行本と同人誌を買い使用した。一段落して確認したかったのはエロではなく巻末の但し書きである。
クジラックス氏の同人誌「がいがぁかうんたぁ」の最後のページにはこの4つの中の1と3と4は書かれていたが、2の犯罪を助長させない為の警告がなかったのである。
この穴があった為に警察が付け入るスキを生じてしまったのではないだろうか。既にニュースやブロガーによって著作権や官憲横暴云々、果てはコミケ準備会の話題まで出ているが、今一度、表現をするものとしてどのような対応をとるべきか考えたい。
P.S.この場合「かうんた警告」とでも言うべきなのでしょうか。LO単行本には「警告」といったお題はなく枠取りの中に1,2,3,4が書かれていました。