はてなキーワード: 放擲とは
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0846 安倍晋三🏺 (ワッチョイ c196-AzOG) 2023/10/20(金) 13:14:01.23
ふたばみたいな「としあきは全員無職童貞だぞ俺」なんてミーム本気で信じて
現実でやるべきこと一切やってこなかったか真性の知的障害や精神障害で手帳持ってる、選ばれしエリートネトウヨガイジが多い場所での暇アノンならいざ知らず
はてなの暇アノンはかつて2010年代初頭webバブル時代に、プログラミングスキルさえあれば統合失調症でも発達障害でもガイジでも性犯罪者や刑事犯罪で前科がある奴であろうとも仕事させる、という時代に
何のビジネススキルを学ばされることなく放擲された層のなれの果てなので、なまじ成功体験?の様なものがある分、現状のコンプレックスと社会や女性への憎悪もひとしおなのが怖いね
興行でやっているキャラクターや実在の人物は、多くのファンを構築してサービスの対価でお金を稼ぐ。
ここには多くの人が不可解に感ずるであろう点がふたつあるように思う。
一つ目は多くの人に発信をしている対象を、ある1人が独占できるわけがないこと。
二つ目はその人間が対象を独占した時に経済的に支えられないこと。
ただ、誰しもがちょっとは「あの人を独占したい」と心の中で思うことはあるだろう。
そして、それと同時に「うん、そんなのは無理だな。みんなと一緒に応援しよう」と想像する。
同担拒否は程度の差こそあれその辺りの想像に何らかの短絡が起こっている。
ただ可能性はある。
すなわち面倒を見ることを前提に買い取るのだ。
同担拒否を貫徹するのであればライブで隣に同担が被るとかどうとか細かいことは放擲するべきだ。そんなことは気にすんな。
堂々と事務所に行って金か石油か有価証券かわからんが支払って身請けすればいいのだ。
社長になって金を稼いで身請けすればいい。
ネットのトレンドはよく知らんが「学歴差別は差別ではない」なんて理論は聞いたことないな。そもそも、能力主義批判なんて左右ともにほとんどやってなくて、極レベルの低いものか、極レベルの高いものが散発的に現れてるだけだと思う。
自分の知っているもので言うとイヴァン・イリイチの『脱学校の社会』が1971年に出てる。「階級社会を放擲するために制度としての学校を排除せよ」という主張はあまりにラディカルすぎて、この議論はそれほど発展しなかった。もちろんイリイチはゴリゴリの左翼。
最近でも、中学生のYouTuberが登校拒否宣言して、批判したのは左右に限らなかったと思うので、状況はそれほど変わっていないんじゃないだろか。どちらかと言うと保守系の方が批判が苛烈だった気さえする。
図書館に入るなり全面に広がる明るすぎず暗すぎない雰囲気が好きだ
そうか、こんな世界があるのかと感激したり、難しいことも面白いことも教えてくれるすごい場所だ
そして、程よく人がいて本を読みたいという同じ目的を共有しながらも、互いに無関心な空間が居心地いい
すっと息を吸い込むと、紙が古くなったなんともいえない心地よい香りが体いっぱいに広がる
まだ見ぬ本との出会いへの期待と限られた読書時間への不安が入り混じる
さあどこから見ていこうかというワクワク感でいっぱいになり、本棚をざっと目で追っていった
ただし、気に入った本を探すためにはそれなりの経験も必要だけれど、はずれに当たったら容赦なく返却すればいい
書店で本を買うと、「お金をはらったから読まなきゃ」と意気込んでしまって全然読書が捗らないけど、図書館なら読めなかった本は返却すればおさらばできる
10冊借りて、2-3冊面白ければそれで大きな収穫
最後に、読んだ後は手元に本が残らない
買ったけど読んでない本がたまると、積まれた本に物理的にも精神的にも圧迫されるので、別れが必然の読書がいい
感動して手元に置いておきたいと思ったら、その時買えばいい
自宅の本棚は「そのうち読む(今はもう読む気力を失った)リスト」じゃなくて「最高の名作リスト」にしていきたい
昨今の邦楽事情はてんでわからない。ロックの何たるかを語るだけの知識も素養も持ち合わせていない。だがしかし、一つの時代がまもなく終わる、と言っても過言ではなかろう。
来月をもって、チャットモンチーというロックバンドが「解散」する。本人たちは解散を「完結」と称している。当初はこの表現にうすら寒さを覚えた。なにカッコつけてるんだよ、脂がのってきたのになんで辞めちゃうんだよ、という憤りが先走り、サムいと思った。
それでも、彼女らの系譜をたどり直し、彼女らの音楽を改めて聴いてみた。すると、今回の件はまったく「完結」としか言い表せないこと、さらには「チャットモンチーは既に終わっている」としか解釈できないことがわかってきた。
チャットモンチーへの弔辞と、メンバーへのはなむけの言葉として、思うところをつらつら書いてみる。
昨年1月、松居大悟監督の映画「アズミ・ハルコは行方不明」を観た。地方都市の倦怠に呑まれながらも強かに戦う女子たち。その生き様を暴力的な鮮やかさで映してみせた傑作だった。大都会トーキョーで漂泊していた俺には特に身に刺さるところが多く、新宿武蔵野館で悶絶したことを覚えている。
この映画の主題歌が、チャットモンチーの「消えない星」だった。https://www.youtube.com/watch?v=EUin6rB1Yxw
”不安を言葉にかえて 言葉をくちづけにかえて 夜の永さ 見ないように 待つことにした”
チャットモンチーというのが、かように豊饒な言葉を紡ぐバンドだとは知らなかった。松居監督のオファーを受けて書き下ろしただけあって、女の子の儚さと逞しさを描いた映画を締め括るのにふさわしい曲であった。シビれた。
それからYouTubeでチャットの曲をザッピングし、程なく「シャングリラ」をヘビロテするようになった。
それまでの俺の中でのチャットのイメージは、「数多くの流行りのバンドの一つ」であり、言うなれば「あっち側」の存在として勝手に押し込めていた。おそらく、「風吹けば恋」の(表面的には)爽やかな印象が無意識のうちに刷り込まれていたのだろう。2008年だから俺が中3のときだ、この曲が制汗剤のCMに使われて流行っていた。
”走り出した足が止まらない 行け! 行け! あの人のところまで”
俺にはほぼ縁がなかったピュアピュアな恋愛に胸を焦がす、爽やかな汗が夏空に飛び散る、隣のクラスが運動会の応援歌に使う、スクールカースト上位層の女子たちがカラオケで歌ってやがる……
ここまで読んでピンときた方もいるだろう。中学の時分といえば、流行ものに必死に抵抗するイキった奴がクラスに一人はいたものだ。ちっぽけなアイデンティティーを保つため、そして劣等感を秘匿するために。そいつが俺だった。
ましてや小学5年以来の筋金入りの中島みゆき信者ときたら、もう手の施しようがない。ステージ4の中二病末期患者である。かくして俺はチャットモンチーなぞに目もくれず、ポータブルMDプレーヤーで「旅人のうた」を再生して感傷に浸るのであった。
それから10年を経て、チャットモンチーへの偏見が解けることとなる。件の「風吹けば恋」を聴いてみよう。のっけから衝撃的な歌詞である。
“はっきり言って努力は嫌いさ はっきり言って人は人だね”
スポ根とか精神論は俺が最も嫌うところだ。かつ、そんな奴らへの醒めた目線。メラメラやキラキラを放擲すれば、ひとまず自我は保たれるし、自我の肥大化に慢心もできる。しかし歌詞はこう続く。
“だけどなぜ窓ガラスに 映る姿気にしてるんだ? だけどなぜ意地になって 移る流行気にしてるんだ?”
そう、そうなのだ。「これでいいんだ文句あっか」と居直るには、まだあまりに青すぎた。情熱や栄光を諦めるには、まだあまりに若すぎた。後半の歌詞は、「多少無理してでも流行へのアタッチを試みる」とも、「意地張ってるけどやっぱり流行ものは気になる」ともとれる。いずれにせよ、羨望と嫌悪がないまぜになることはしばしばある。冒頭十数秒でこれほど揺さぶりをかけてくる音楽があるだろうか。
この葛藤をくぐり抜けた先に、前掲のサビが拓かれるのだ。故に、サビだけ切り取って堀北真希を先輩のところに走らせるあのCMは罪深い。「でもやっぱり」を捨象して、さも純情な青春ソングであるかのように仕立て上げている。
さて、資生堂への怒りとともに考えた。お前はどうなんだ。「走り出した足が止まらな」くなることはなかったのか?いやあっただろ!恋に恋していただけだったとしても、どうしようもなくどうしようもないことをしていた。肥大する自我に執着しつつも、何か圧倒的な他者の介入によって自我が瓦解することを待ち望んでいたのではなかったか?
ある種の歴史認識が転換された。勝手に頭の中で理屈をこねくり回してあの不可解な時期を言語化してるきらいは否めない。それを差し置いても、俺のパラダイムシフトを惹起するだけのパワーを与えてくれたのが、チャットモンチーだった。(自己史認識の転換を迫るという点では、「majority blues」も凄まじい。こちらは橋本江莉子作詞。“みんなと同じものが欲しい だけど みんなと違うものも欲しい” https://www.youtube.com/watch?v=xVi0jwNXe3A)
中学ン時、誰か無理やりにでもこの曲を通しで聞かせてくれる奴がいればよかった。チャットモンチーそのものはもちろんのこと、「風吹けば恋」を作詞した高橋久美子との邂逅がえらく遅れてしまった。
後に俺は、10年間のすれ違いをひどく悔やむことになるのだった。
90年代から00年代にかけて、さんざん「巫女」「メイド」を記号的、かつ無意識に消費してきたんだから、陳腐化するのも当然なのだと思う。
「巫女」「メイド」に関心を示した層(あえて「オタク」という表現を避ける)は、何も考えず消費していた。だからこうなる。後述するとおり、これは仕方がないことなのだけれど。
この消費が続くとどうなるか、「巫女」「メイド」を扱う作品がどうなっていくのか。それをあの時代に考えていた者は少なかった。
未来視をせず、まったくただ消費するだけだった。焼き畑農業に近い。
自らの髄脳をただ刺激し、そのニューロンと、「巫女」「メイド」の記号とを焼き切ってしまって、10年代を迎えた。
あの時代に「萌え」という風が吹いていた点が、この問題を助長していると感じる。
「萌え」は思索をある種放擲する営為だ。何も考えず、リラックスして作品やキャラクターに触れる。ストレス社会&大きな「物語」が消えた社会に生まれた、ふわり、とした感覚。
雨後の竹の子のように現れた「メイド喫茶」では、ふわふわのオムライスが尊ばれたという。
これは、脳をふわふわさせて無意識に快楽を得られる「萌え」の具現化として、妙にしっくりきていたと、今更ながら思う。
擦り切れた「巫女」「メイド」へのキャラクター付けをどうするか。あるいは昨今流行している「記号」をどう大切に扱うか。
大衆社会の個人に出来ることは存外少ないのかも知れない。今も「萌え」の風はどこかで吹いていて、無思想的快楽へ私たちを誘っている。
この記号が、数年後どうなるか? 作り手側はどう考えているのか? なんてことをちょっと心の片隅で考えながら、作品に触れるのが、視る側としてインスタントに出来る効果的な姿勢なのかも知れない。
ある日、定期テストの点数の目標点を書かせるシートが配布された。
五教科その他、それぞれ書き込む欄がある。それぞれの目標点を書き込む。
定期テストはすべからく100点を目指すべきではないか。そう思っていた。
授業で覚えるべきことが定期テストでは出題される。
そして、授業で習ったことは、基本的にすべての内容を覚えるべきだ。
だからして、テストというものは当然100点を目指すべきものだ。そう考えていた。
友人は苦手教科を50点とか、得意教科を90点とかにしていた。
これは絶対におかしいと思った。苦手でも得意でも100点を目指すべきなのだ。
授業内容を100パーセント理解してほしいと思っていないのだろうか。
はじめから70点だとかなんとかだとか、生徒が授業を完璧に理解していないことを目指せ、目標とせよ、と言っているに等しいのだ。
ふざけるなと思った。何のための授業なのか。授業を完全に理解することを否定するようなものだ。
もちろん、現実的に100パーセント理解する、というのは困難だ。実際的には80点、70点とか、それぞれの実力に合わせた点数になる。
だが、はじめからそれを目標にするのはおかしい。100点目指して、満点目指した結果、80点とか70点となるべきなのだ。
なぜはじめから満点を放擲するのか。はじめから「目標点」を設定するのに、何の意味があるのか? そう思っていた。
だから私は、すべての欄に100と書いて、速攻で提出した。
すべて95点にして出した。それでも駄目。
適当に85~100点の間にばらけさせた結果、提出が許された。
おかしいことは、私は言っちゃあなんだが成績は優秀で、どの教科もぶっちゃけ100点近く出せる脳髄を持っていた。
だからぶっちゃけ理由なんかなくたって目標を100点にしてよかったのだ。上の段落で屢々述べてきたことがなくたって、100点と書いてよかったはずだ。
だけど駄目だった。
定期テストでは、見かけ上であっても100点を目指すべきなのだ。
憤った私は、定期テスト12科目のうち5科目100点、残りをすべて90点台にしたことを覚えている。
そうして次の「目標点」記入シートで何も考えずすべての欄に100と書くことを押し通した。実力行使だ。
センター試験ではさすがに満点は無理だった。確か770点だった。
でも、全部満点取る目標は変わらなかった。これで800点台だせたらかっこよかったんだけど。
それぞれの科目で満点取るために、どのように得意分野で時間短縮して、どのように苦手分野に時間を割いて、どのように解いていくか……などなど。全体から見てどう考えるか。
今は社会人になって直接点数で結果が出ない社会にいるけど、いつだって、気概だけでもベストを尽くして頑張りたい、と思っている。
だったらいっそ「タイトルは釣りでした」くらい言ってくれたほうが真面目に読む気になる。気がするな。俺個人は。
まじめな賛成派としては、反対派の論理を放擲したデマ攻勢ですでにお腹いっぱいなんだよ。
まじめな反対だったらむしろ歓迎なんだけど歓迎している分、害が低そう・議論に益しそうだと判断すれば、斜め読みですませてしまう。
一つだけ伝えておきたいのは自衛隊は組織だ。機械ではないということだ。そこに属する自衛官もまた日本国民だ。君や俺のような文民だけが日本国民なのではない。軍事同盟である日米同盟と憲法九条の硬直的解釈の間にある空隙を彼らの生命を危険にさらすことによって埋めようとするのは神風攻撃隊と同じぐらいに非人間的だ。彼らはその訓練を繰り返させられているはずだ。その胸中に思いを致してほしい。
まあいいや、俺は休みの間他にやりたいこともあるし、安保法制はほっといても成立する。俺自身はもう読まないかもしれないが、事実と根拠をもとに誠実に議論してくれるなら、結果がどうあれ日本国の利益だ。頑張ってくれたまえ。