はてなキーワード: 初詣とは
見ました。レポートありがとう。(わりと少なめの文字数でわりと多くの情報を伝えるスキルを感じた)
自然体で楽しめたという感じなんだね。よかったね。
増田は素直な人で、素直であることで誠意を伝えるタイプなのかなって思いました。とても素晴らしいことだと思います。
ただじゃっかん繰り返しで申し訳ないけど、気持ちが溢れてしまってアンバランスにならないように、相手の気持ちの大きさもよく観察してください。
彼に会ってもらってるとか話相手をしてもらってるとかっていう感覚にならないように、あまり下手(したて)に出ないようにしてほしいです。相手も楽しんでくれてるはずだし、感謝もしているはずです多分。基本的には健全な恋愛は対等な相手とするものだと思うので。
適度な間隔で忘れられないように連絡するというのは、相手の好みもあると思うので正解はわからないなー。
なんとなく自分の場合を振り返ると↓な感じですかね。。(恥ずかしいので後で改変するかも)
(1)季節ごとに一緒になにかしようみたいなことを決めておいてそれについての相談をする、みたいな。
初詣→花見→花火→紅葉→イルミネーションとか、それか、おしるこ→桜餅→柏餅→スイカ→かき氷→ビアガーデン→焼きいも→鍋 とかそんな感じ。もっとマニアックなイベントでもよいかも。
2人でブレストして決めたりしたら楽しそう。で季節が近づいてきたら「お花見どこいきますかねー」みたいに連絡できそう。
(2)2人とも好きな映画監督とか俳優とかバンドとか、そういうのの最新情報を交換する、みたいな。
そこからまた映画いこうとかなりそうだよね。最新情報いち早くお届けbotみたいになりそうだからそれだけ気をつけよう
(3)「こんにちは。覚えていますか…?」「元気?今度ご飯いこー!」みたいなノリ
おじさんがやったらウザいやつ。以前、半年にいっかいくらいこういうのくれる女の子がいて、自分的には印象はわるくなかったです
(4)共通の友人知人がいると巻き込むとバリエーション増えそうだけど、いまいないなら難しいですね。無理に作る必要はないです
(5)あとはもう酔っ払った勢いで連絡しちゃうとか。自分は別件で飲んだ帰り道とかにメールしてしまうことが多かった気がします。
そういうときの内容はてきとーです。そこそこ親密なら「さみしくなったのでメールしました/電話しました」みたいなのでも
バイバイのときの別れがたい感じいいよねキュンとする。読んだ感じだと、そのタイミングで挨拶ぽい感じで少し手を握ってバイバイってするのはありなのかもと思った。無理することでもないけど。
次会うのは年明けくらい?クリスマスの約束してもよかったんじゃないかと思ったけど、焦らなくてもいいのかもね。見てないからそのへんの感じはわからないや。
とりあえず振られたのがこの増田じゃなさそうでよかった。
同僚と年越しそばは何時ごろに食うのかって話をしてたんよ。
元々俺の実家では大晦日だからってそばを食う習慣なんてなかったのね。だいたいはナマ物は一切乗ってないちらし寿司、昔は年末に良さそうな生鮮品はなかったからね。それが夕飯だった。でも俺がどっかから聞きかじってきた「年越しそば」ってのをを食いたいと言い出して、それからそばを食うようになったわけ。当然夕飯として出てくる。その習慣を今でも俺は受け継いでたのさ。
したらその話を聞いた同僚笑うわけよ。お前は7時ごろに年越すのかって。日付が変わるあたりで食うから年越しだろって言うのさ。真夜中にそばを食うんだと。消化できないまま寝るのはダメだろと言ったら初詣に行かないのかとまた笑うわけよ。腹立ったけどさ、実際俺初詣なんざ行ったことないから何も言えんかったわ。
そんな話してたら何か馬鹿らしくなってきた。なんで俺大晦日だからとか言ってそば食うんや。せいぜいが言葉遊びの下らない話でしかないわけだし。別に俺そば好きなわけでもないし。もう年越しそばやりたくない。
↓の記事を見て思った
http://eikaiwa.dmm.com/blog/26789/
(この記事はあくまできっかけで、以下の内容は上記記事のみに対する反論ではない)
以下のようなことを書いてある記事をたまに見かける。
何故、外国の人の反応を気にして主義主張を曲げないといけないのか?
2に関しては、これが当てはまる日本人も確かに少なからずいるとは思う。
が、当てはまらない日本人も多数いると思われ、1の主張を補助するためのこじつけ感が否めない。
大多数の日本人が正月に神社にお参りに行くのが、大多数の日本人が神道を信仰している証拠だ! とか言われる。(ちょっと極端にしてるかもしれないが)
だけど、本当にそうなのか?
確かに、お参りに行ってお賽銭投げて手を合わせたときに、心の中で本当に真剣に神様にお願い事をしている人に関しては、「意識していないだけで神道を信じている」と言えるかもしれない。
でも、ただの付き合いだったり、お正月暇だったり、「ただなんとなく毎年行っているから」という理由で初詣に行って、特に真剣にお祈りすることもしない人たちも大勢いるはずだ。
それを「初詣に行っているから、神道を信じている」というのは、「クリスマスパーティーをやっているから、クリスチャンだ」というのと同じくらい暴論だと思う。
日本人の文化や倫理観に、神道や仏教の影響が強いことは否定しない。
が、それが即ち、平均的日本人の多くが神道や仏教を信仰している、としてしまうのは、宗教がないことを恥じた故のただのこじつけだ。
一昔前ならどうだか知らないが、少なくとも現代の日本においては、あまり正しいとは思えない。
夏になり、もうすぐ8月になろうとしている。多くの商業施設が沢山の来場客を見込み、また期待に胸を膨らませるのはゲーム業界も同じである。携帯端末の普及により、顧客(となりうる人たち)が増加し、今まででは考えられないスピードで新たなゲームたちが生まれ、その速度と同じくらい飽きが生まれ、開発企業、ゲーマー共に「新しい」ゲームを求めている。
ここに寄稿するのは初めてだが、この状況は書くべきだろう。いいや、書かなくてはならない。DMMについて。
「擬人化された女の子たちと戦うゲームは?」と、聞かれれば、まず最初に思いつくのは「艦隊これくしょん」であろう。2015年にサービスが開始されたこのゲーム、旧帝国海軍艦船を擬人化し、その彼女たちと一緒に自身は「提督」として、海に乗り出し戦うものである。サービス開始後物凄い勢いで人気が上がり、現在では多くのプラットフォーム、媒体を通して発展した結果となった。特に戦艦や軍事に興味がなく、なんとなく始めたと言う人も、その可愛さやゲーム性から、軍事や歴史が好きになったと言う人たちも多い。
擬人化を通してその先にあるものをプレイヤーに見せた功績は、高く評価するべきだろう。
しかしこれと同時に、DMM含め多くの開発側は知ってしまった。擬人化の力を。
では今、彼らが次に女の子にしようとしているもの、それは何だろうか。神社である。
神社と言えば日本には馴染み深く、その神々の歴史は建国まで遡る。初詣や七五三も神道のイベントであり、仏教と共に日本人の生活に根付いている。
そんな神社神道をターゲットにした"例の"ゲームサービス発表は、今年3月に行われた。
「社(やしろ)にほへと」と称されたそのゲーム、ゲームの内容としては、日本中の神社の建物(この建物であると言う点が重要。)を女の子にして、よくわからないものたちと戦う、と言う設定だ。
筆者も公表がされたその日に、事前登録を済ませ、正式サービス開始を楽しみにしていたが、正直そのとき思った感想が「そう来たか。」である。
艦これの前例の様に、上手く行けばもっと多くの人たちに神道に興味を持って貰える、今回は実際に存在している場所なので、ファンたちが聖地巡礼として実際に多くの神社を参拝してくれるかも知れない。そう個人的には期待していた。他の事前登録者たちも、今までにない宗教を対象にしたゲームである事に様々思いつつ、運営の次の出方を待っていた。
しかし、私たちは突然、何の説明もなく、運営に待ったをかけれる事になった。
事前登録を済ませた待機者たちには、「事前登録おみくじ」が引けるようになっており、それぞれには初期メンバーの女の子が割り振られており、一日一回ランダムで大吉から凶までのおみくじが引けた。最初暫くはまだ安定して引けていたが、4月25日から、今まで行われていたおみくじが全てストップする。
Twitter公式アカウントによると、「不具合」が、発生したようである。筆者はそのような企業システムに詳しくないので、勿論最初は「ああ、いろいろスタートアップっで忙しくなって、改善の為に一度止めたのだな。」と、思った。プレイヤーも始まったばかりの企画のそのような自体の発生には慣れているので、特に大きく騒ぐ事なく復旧を待っていた。しかし、不思議、いつまで経っても治らない。そろそろプレイヤーも不安になってくる。
この当たりで、匿名掲示板等である噂がささやかれ始める。それは、「神社側の許可を取っていなかった。」と言うものである。
有り得ない。そんな馬鹿な。そうかも知れない。様々な意見が飛び交う中、公式からは何の追加情報もない。そして、筆者も思うようになった。本当にそうかも知れない、と。
最初の匿名掲示板の、このゲームのスレッドが立ってから、今現在までも書き込みは続いている。はっきり言って事実だと断言できる答えはない。しかしながら、運営は何かを隠している…。大型アップデートのサプライズにしては不自然過ぎる。
無許可説浮上については、全くの事実と証明する事はできないので、その疑念があくまでも仮説として話を進めていく。
もし企業側、開発が、本当に神社本庁及び初期メンバー対象の神社に何の許可、趣旨の伝達、商業的利用の許可を取っていなかったとしたら、これは大変な事である。将来的に初期に約束した通り正式サービスに移行できなかったとしても、その神社をキャラクタとして使うのだから、ひと言あって当然だ。事前登録した人たちも、そのゲームの将来性に期待して柱の一本になったのだから、開発続行が危うくなりそうな事態が起これば、Twitterなり公式サイトなりで事情を説明するのが当たり前である。新着ゲーム一覧から消したりYouTubeの公式PVを非公開にしたり、そう言うみみっちい事は素早くやったのに、するべき事はしない。それでいてTwitterアカウントは残したままと言う謎である。
擬人化の手法は、受け手に取ってはとてもわかりやすい。なにせ自分と同じ人間のひとりになるのだから、会話もできるし、感情移入もし易い。又、擬人化の対象も限定しない。石ころもできるし、車からビル、太陽系外惑星もできる。しかしながら、ひとつ絵を書いて名前をつければ、「かわいい。」の原理の前にもう何も考えなくて良い。そして、今回のこの事件は、森羅万象美少女化主義の事故だと考える。事態の進展は全くわからないが、最早ここまできて正式サービス開始したら、間違いなくDMMは神の民間企業である。彼らの前に吸収されない物事はない。
ポンと結論を書く終わり方にはできなかったが、皆様には筆者と共に、事の成り行きを見ていて欲しい。行き止まりまで行かないと、自分が袋小路を進んでいた事すらわからない場合もあるから。
http://anond.hatelabo.jp/20170101084606
あの日の初詣、直前まで心の中で恨み節を唱えながら、いざ両手を合わせ願ったのは「世界平和」だった。
誰も傷つけたくない、誰も不幸にしたくはないのに、自分の無能のせいで、生きているだけで誰かに迷惑をかけてしまう。
ろくでなしの自分にとって、あたりまえの生活が苦痛でしかない。
あいかわらず死にたい気持ちはなくならず、めんどくさい毎日を過ごしている。
だがひとつ成長できた点はある。
夫の母が旅行へ行く日を見計らって、私も1日だけ外泊をさせてもらい、子供と夫だけで1日を過ごしてもらったのだ。
夫には、今まで家のことなにもしたことなくて、もしひとりになったら心配だから、母も妻もいない生活をちょっと試しておいてほしい。それに、正直かなり育児疲れだから、たまにはひとりで静かに眠ってみたいと伝え、許してもらった。
私が外泊へ行く前日、夫は真面目な顔で、子供の世話について1日の流れを確認していた。
そのあまりの不器用な手つきに、もし自分が死んだら毎日こんな感じなのかと思うと、胸が苦しくなった。
そうまでしても、私に1泊の暇を与えようとしてくれる夫の気持ちがとても嬉しかった。
夫は私を愛してくれている。
私も夫を愛している。
無能ゆえに、いかに世間に迷惑をかけず生きるかと悩む私と、無能のくせに人様の迷惑も気にせず我が道を行く夫。
生きるのがつらい私と、人生を楽しむ夫。
夫に尽くして生きるだけならなにも悩まない。
問題は、子供にとって、無能な両親の元に生まれ、育てられ、社会的に生まれながらの底辺であることが不憫で仕方ないのだ。
夫のことは愛しいのだけれど、子供のことについては譲れない思いがあるのだ。
私が死ねば、外泊したあの日のように、夫は今より真面目に子供と向き合ってくれる気がするのだ。
しかし果たして、夫が家のことに熱心になることで、子がよりよくなるかと言えば自信もない。
子供にとって、何が幸せに結び付くのか、わからなくてもがいている。
「無能は子を生むべきではない」それは私の思い。
まるで男の子のようなショートカットの髪、金八先生に出ていた時の上戸彩みたいにCUTEな美少女だった。
ぼくの君に対する第一印象はただひとつ「胸がでかい」それ以外のことをぼくは何一つ思いつかなかった。
小柄なきみのカラダに不似合いなほど、その胸の隆起は際だっていた。
きみは一時期、ぼくと同じ学年の男子と付き合っていたね。
そのときぼくは思ったよ。
「あいつはあの大きな胸が目当てなのか」と。
もちろんそんなことはなく、彼は知的でCUTEなきみが好きで胸なんかはただのおまけだったのかも知れない。
しかし、どんな言い訳をしたってきみの第一印象が胸であることは疑いのない事実なのだ。
それに「どうせ胸が目当て」だなんて高校生の言うセリフじゃないだろう。
自慢じゃないがぼくのいた公立高校は男子童貞率96%、つまり非童貞はクラスに一人くらいしかいなくて、
しかも在学中に処女童貞を失った場合の浪人率は100%という恐ろしい世界だったから、だから禁欲=正義だったんだ。
もちろんぼくも受験勉強に精を出し、オナニーで精を出す一人の純朴な高校生だった。
受験勉強の甲斐あってぼくは現役で大学に合格し、その喜びもつかの間、片想いの女の子にはあっさりとふられ、童貞期間更新中だったぼくは、翌年の春にきみが関西のある有名私大に合格して大学生になったことを知った。
当時のぼくは手紙をよく書いたよ。在学中にちょっとした面識があったのできみにも合格のお祝いと自分の大学生としての近況報告のような手紙を書いた。そうしたら一度京都を案内して欲しいという返信が来た。そしてぼくは思いがけずきみとデートできることになったんだ。
「えっ、こんなところから胸がはじまるのか!」と思うほどにきみの胸の隆起はクビのすぐ下からはじまっていた。
ぼくはきみの目ばかり見て話をしていたが、視線を下に落とせばそこには胸があった。
向かい合ってる男が自分の顔ではなく胸を見ながら話してるなんてすごく不愉快じゃないか。
だからぼくはいつもきみの目を見て話をしていた。視線を伏せることなんてできなかった。
今思うとなんてもったいなかったのかと思う。サングラスでもして視線を隠して、思う存分胸を見ればよかったじゃないかと。でも、当時はそんな才覚はなかったんだよ。
京都でのデートの後で、ぼくは卑怯にもきみへの手紙の中に「好きだ」というフレーズを書いた。
しかし、そのときのぼくは本当にきみが好きだったのか、それともきみの胸が好きだったのか、正直言ってよくわからない。
ぼくは知的でCUTEなきみを本当に素敵な女の子だと思っていた。
しかし、その100倍くらいぼくはきみの胸が好きだったんだよ。そんなこと手紙に書くはずないけど。
秋になって、いろんな大学の学園祭の季節になって、ぼくはMを伴ってN女子大の学園祭に出かけた。
高校で同じクラスだったことがある仲間由紀恵みたいな黒髪の純日本風お嬢さんに誘われたからだ。
実はぼくはその仲間由紀恵のこともかなり好きだった。もしもその美女を射止めることができたならば、ぼくは同じ高校のあのさえない童貞軍団を見返してやることができたはずだし。そう、ぼくのあこがれの大本命は実は仲間由紀恵であり、Mの存在価値は「自分とつきあってくれる女」という点にあったわけだから。
N女子大学の模擬店でぼくは仲間由紀恵にMを紹介した。仲間由紀恵はMをみて、Mの胸をちらりとみて、それから妙につっけんどんな態度になった。
「あなたはこんな乳のでかい頭の悪そうな女が好きなのね!」と仲間由紀恵は思ったのかも知れない。
そんなことはないんだ。Mは決して頭の悪い女なんかじゃない。
とっても聡明で話していて退屈しない女なんだ。
でもそんな言い訳をするチャンスはなかった。
だって仲間由紀恵はその後ぼくに手紙をよこさなくなったし、彼女が風の噂にお医者さんと結婚したと聞いたのはその数年後のことだ。
N女子大の学園祭の後に控えていたのは京都大学11月祭だった。ぼくはそこでMと腕を組んだり、手をつないだりして歩くことができた。
普通のカップルのように彼女と学園祭デートをするなんて幸福をぼくは手に入れた。
しかし、ぼくは手をつなぐ以上のセクシャルな領域に足を踏み入れることはどうしてもできなかった。
その理由は簡単だ。ぼくは童貞だったから。どうやってその先に進んだらいいのか、ぼくは全くわからなかったのだ。
手を伸ばせばいつでも触れられるような距離にありながら、その胸はぼくにとって相変わらず不可視のものであり、かつ不可触のものであったのだ。
そのままお正月が過ぎ、春になった。ぼくはMと初詣に住吉大社に出かけ、そこから阪堺線のチンチン電車に乗って浜寺公園に出かけた。
潮の香りのするコンクリートで固められた護岸の上の散歩道をのんびり歩き、座って話をした。おだやかな一日だった。
あの頃ぼくたちはいったいどんな話をしていたのだろう。
そうして休日には手をつないで歩き、一緒に映画を見たりしたぼくたちはまぎれもなく「つきあってる」という状態だった。
しかしぼくにとってきみの胸は相変わらず不可視のものであり、かつ不可触のものであった。
どうすればぼくはその二つを可能にできたのだろうか。
まだ20歳にもならない自分はその方法を何一つ知らなかったのだ。
もしもできることなら今の自分が当時の自分に憑依して、知りうる限りの恋の手練手管を用いてその困難を可能にしてあげただろうに。
ぼくは免許を取り、中古車でいすゞジェミニを買った。それでMとドライブすることになった。
Mに向かって「どこに行きたい?」と聞いたら「鞍馬」という意外な答えが返ってきた。ぼくたちは鞍馬のおもちゃみたいなケーブルカーに乗った。
汗ばむような陽気の中で、同じようにデートしているカップルが居た。
ぼくは赤面した。
キスとは、ああキスとは、それは限りなく遠くに存在する行為じゃないか。
まだぼくは胸を見たこともないのに・・・・
いや、それは違う。少なくとも胸を見るという行為は、キスという行為のさらに先に位置するものであるはずだ。
ということは、自分が胸を見たいとか触れたいと思っていたことは根本的な間違いであり、それを実現させたかったら
先にキスという段階をクリアしておかなければならなかったのだ。キスとは、胸を見るための必要条件である。
もちろんキスをしても胸を見るところまで到達できない場合もあるだろう。しかし、キスをしないで胸を見るなんてことはどう考えても変だ。
つまり自分は、「胸を見るためには先にキスをしなければならない」という恋愛の発達段階の重要な法則をそのときに発見したのだ。
ストレートに胸に到達しようと思っていた自分が間違っていたのだった。
ぼくはその真理をここに理解したのだった。
その二人のための貴重な日曜日を、Mはこともあろうに私ではなく神に捧げてしまったのだ。
ぼくは一度Mにくっついて教会に一緒に行ったことがある。Mのスクーターの後を、ぼくは実家にあったヤマハパッソルで追走した。
当時はまだ原付にヘルメット着用の義務はなかった。そうして教会に出かけたのも一度きりだ。
ぼくにはきみの胸を見たいという願望があったが、教会で聖書を見たいとは思わなかった。
僕に必要なのは聖ではなくて性であり、聖書ではなくて早くぼくを童貞から卒業させてくれる性書こそがぼくにとって必要な書物であった。
「汝、姦淫するなかれ」という神の教えは、その反動でぼくの心をますます君の乳房への思いでいっぱいにした。
ぼくは教会についていくのを止め、ぼくたちの仲は自然消滅した。
そのとききみはブラウスのボタンを二つもはずしていたから、ぼくは思わず「うっひょ~」と心の中で叫んだ。
そのとき、きみのオッパイはぼくの心の中で永遠の憧憬になった。あれから34年経つけど、今でも君の胸は成長を続けているのかい?
某カルト宗教2世の漫画がTwitterで話題になっていたので。。。
かなり放任主義だ。
私やほかの兄弟は
中学生になったある日、インターネットが気軽にできる環境になった。
でも、それを受け入れていた自分もおかしかったということに気付いて
かなりショックを受けた。
某学会に入っているというだけで避ける人もいるんだと。
突然一人暮らしを始めてみたりもしたのに
それに行かなければ母親のご機嫌はとれない。
今年も行かない家族がいて
なだめるのが大変だった。
私は今年結婚するので
この点に関してはどうしても無理だ。
京都やヨーロッパが好きで、神社もお寺も教会も見に行くのが大好きだ。
同じDNAを半分持っていたって、信じるものが違ったっていいじゃないか。
どうしたらうまくできるのだろう?
年末年始は絵かきたいなーとかぼんやり思ってたけど結局ゲームして終わった
番外編とかラズベリルとか終わらせてトラペ100Fまで育てて一人分だけ複製してバール倒せた
もう新しいイベントあるわけじゃないから修羅とか裏面まではしなくていいかな
3ヶ月で1234と一気にやってきたけど、
ストーリーは1>4>3>2
キャラ1>3=4>2
って感じかな
2ヶ月以上積みゲーしてたけどよーやく終わらせた
ほんとあっさりだったな
でもダンガンロンパとか逆転裁判ほどのゲーム性がなくて、あまりにもゲームとしてはしょぼすぎた
シルの件は野崎まどのknowかよと思った
女の子おさわりイベントも、キャラが変わる前のお姫様なり俺妹っぽいキャラの方でやりたかったなあ
素になった後のもっさい全然萌えないキャラでおさわりやってもぶっちゃけ微妙
結局プロローグで止まっちゃってるな
ノベルゲーをやるきになれなかった
プロローグの船の中ではあまりにも移動とカメラワークがクソすぎて、この調子で移動とかバトルやるならクソゲーだと思ってたけど、
ふつーのまちとだんじょんのRPGってイメージしかなかったからこんなのもできるんだすげーってなった
セルセタはやってないけどすげーなー
背景がんばったらフルボイスできなくなったらしいけどもうほんと大正解だよ
ランスと一緒だわ
あとで見返してもなんとも思わないやつだわたぶんこれ
人生は苦しい。
そのあまりの苦しさから、人はみな「億万長者になりたい」と願う。
例に漏れず、私も早速「億万長者になりたい!」と初詣で願ってきた。
また、そのための取り組みをしていないこともない。
だが、最近は『億万長者になったつもり生活』をしてみてもよいのではないか、と思えてきた。
そもそも、私の考える億万長者とはなにか?
株をたくさん持っているおじさんであり、
要するにサラリーマンのように週5勤務でなく、年収300万円程度の生活を維持でき、
望まなければ人に会わなくともよい生活を送っている人たちである。
「じゃあ初めから仙人になりたいと言え!」という話だが、私はたとえ7億円を手にしても
15:00 バスで繁華街へ。無駄にカフェへ入りカフェインをとる。
18:00 野菜炒めセットと豚バラ、スーパーマリオRPGの中古を買って帰宅。
20:00 ゲームをする。大人になってからやっと回復系キャラの重要さを知ることができた。
00:00 就寝。
といった生活を送るにちがいないので、
ここでは「億万長者 ≒ 無職やニートと同じような生活を送る人」とさせてほしい。
本音で言うと「人がこわい」だが、建前を話しておくと、
とある精神疾患を発症してしまい、世間一般の生活を送ることが難しいからだ。
そんな夢のある夢のような夢でしかない夢を実現するには、たくさんのお金を持つしかない。
そう考えていたし、今もそう考えている。
世間から離れたいのに世間一般の考えを引っ張ってくるのは癪だが、
億万長者になることは難しい。というかほぼ無理である。
会社勤めで目指すなら、年収1,000万は必要だろう。キツい。そして飲み会に出なくてはならない。
起業をしても望みは薄い。部活でさえ後輩を持ったことのない人間に、果たして上司が務まるのか。
ならば相続はどうだ? 奨学金なしで大学に入れてくれた親父には本当に感謝しているが、おそらくそれほど遺産はない。
よし、株だ! 始める前から長期投資派なので難しい。FXは言わずもがな。
現在無職。雇用保険を計算に入れると、あと1年は慎ましい生活を送れる貯金はあるが、
実用的な資格もなく、実務経験もほとんどない。そもそもフルタイムで働けない。
「アフィ」という文字列を見ただけで、激昂する読者もいるかもしれない。
アフィリエイトの悪評はご存知の通りである。ここではあえて弁明もしない。
だが、そんなアフィリエイトでさえ、月10万円の生活費を稼ぐのは至難の業だ。
事実、開始4ヶ月目での収益はたったの1,000円である。お年玉の方がまだ高い。
実際、そのほとんどの時間は様々な学習に割かれており、実作業時間を考えれば、
また有象無象のアフィリエイターたちの数ヶ月目の報酬実績を見れば、悪くない滑り出しではある。
1年後にはなんとか10万円ほどをコンスタントに稼げているであろう。
そんな生活を送っているためか、最近は『億万長者になったつもり生活』を夢想している。
それはなぜか?
私は先ほど、人に会わない理想の生活を書き記したばかりだが、本気の本気で億万長者になった妄想を
眠りに落ちる前にひたすら繰り返す生活を何年も続けた結果、このような知見が得られた。
「寂しい」である。
そう、億万長者は寂しいのだ。
アーリーリタイア、つまり30代40代半ばで隠居生活に入った人たちのブログを読んでも、
なぜか?
「寂しいから」だそうだ。
会社へ行かなくていい生活とは、つまり会社へ行かない生活であるから、
町内会にでも参加しない限り、同人活動を行わない限り、人に会う機会がほとんどない。
だから、億万長者には「(そこまで稼げないが)人と会うことができ、楽しく続けられる仕事をする」人が多い。
これを億万長者でないままやってみよう、というのが『億万長者になったつもり生活』である。
そのメリットとはなにか。
億万長者なのだから、投資や貯蓄のための余剰資金をガンガン稼ぐ必要はない。
億万長者なのだから、絶えず話の行方に気を使い、いつ応答を求められるかに怯える飲み会に出る必要はない。
億万長者なのだから、資産を減らさない程度の、寂しくならない程度の仕事でいい。
スーパーマリオRPGだって100周くらいしてもいいのだ。
あいかわらず人は怖いけれども、週5フルタイムでないのなら、いくらか続けられはするだろう。
なんてことを言いつつも、なったつもりにもリスクはあるし、
踏ん切りだってなかなかつかない。
「え? 今さら?」
「もうみんな知ってたぜ!」
「義務教育で習っただろう?」
物事を始めるのであれば、できるだけ早いほうがいい。
そして正直、私はまだ若い。
時間というチャンスがある。
なったつもり生活とは、そのチャンスをみすみす捨てることだ。
もったいない教の信奉者でもある私にとって、これほどもったいないことはない。
「し、しかし……」と思い悩みながら、その悩みをこうして長文にしたためながら、
そのてんびんを私はひたすらに凝視している。そろそろ目が痛くなってきた。