はてなキーワード: 神様にお願いとは
http://yaroneko.blog55.fc2.com/blog-entry-1850.html?sp
311 2016/03/1122:49 2 -
1c9b9e90.jpg
122.jpg
覚えてますか?
屋根犬20110402午後5時
o0333050011141395513.jpg
⇒ http://yaroneko.blog55.fc2.com/blog-entry-1145.html
が・・・
※宮城
⇒ http://sp.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151102_13013.html
それも事故で…
亡くなった時は5歳にもなっていない頃。
死ぬには若すぎる!
これから書くことで
もし気分を悪くしたらごめんなさい。
読むんじゃなかった。
だって…
嫌なんだもん、この記事!
img_2.jpg
1343-1cb3e0a7-a1d2-47bf-b0d7-2a779fcf220e.jpg
※【動画】海上ガレキ漂流後奇跡生還犬:「飼い主と再会できたバンちゃん」
https://youtu.be/ZZaMbI1WVSY @YouTubeさんから
o0384021611145490330.jpg
※【動画】3週間漂流犬飼い主と再会。 https://youtu.be/YxZQBU_-Mi4 @YouTubeさんから
なのに、そのバンが無残な最期を迎えたというのにまるで他人事のような言い草。
お前のせいでバンは死んだんだよ!
お前が適切な飼い方してないから!!
外で放し飼いしてたんでしょ?
たとえ復興事業の車両が昼夜構わずひっきりなしに通る道沿いにお宅があるとしても
この飼い主には二度と動物は飼ってほしくない(もう次の子飼い始めたようですが)。
せめて今度こそ、行政主導で講習か何か強制的に受けてもらって、適切な飼養方法をしっかり学んでいただいた上で、次の犬を飼っていただきたかったですね。
でなきゃまた同じ間違いを繰り返すだけじゃないですか。
その後たった1年で飼われることになった柴犬だってバンと同じ目に遭わせてしまう危険性大ですよ。
たとえ寂しかろうと(該当記事はすでに消えてたけど、新しい犬を飼った理由は寂しかったから!)
バンをあんなひどい目に遭わせておいてよくもまぁたった1年で別の犬を飼おうと思えるね。
それもその柴犬、ペットショップで買った1歳弱のまだ子犬らしい!
http://www.j-cast.com/2015/11/02249623.html @jcast_newsさんから
やっぱり放し飼い!!
たとえ震災時に奇跡的に助かったのは鎖に繋いでなかったからだとしても、今度は震災前のような穏やかな自然たっぷりの平穏な頃と違って、復興のためお宅の前を大型車両がひっきりなしに通る環境に変化してるんだからさ、ちょっと考えたら以前と同じ飼い方したら、バンにとってどんな危険なことが起きるかわかりそうなもんでしょ?
奇跡的に助かった命なのに
あんなに再会を喜んでたのに
バンの分までしっかり長生きして、ご長寿で、天寿を全うできますようにと祈ります。
検索かけて関連記事を読み漁り、詳細が明らかになるにつれ、この飼い主に益々怒りがこみあげてくる!
全く懲りてないよ、この飼い主!
どうすればこれが美談になるの?
今日は、今日だけは静かに穏やかな心で祈りの気持ちでいたかったのに…
あぁ…気分悪い!
※別の参照記事
【訃報】未曾有の大災害 東日本大震災を生き抜いた『漂流犬・バンちゃん』復興事業関連の車両にはねられ・・・・(涙)【事故】 - 『徒然と』・・・道楽 http://blog.livedoor.jp/dourakukousuke/archives/1094278.html
種は違えどうちにも同じ名前の猫がいるんでね
他人事とは思えなくって。
だからね、あまりに悲しい最期だったから私、バンのためにお話を書きました。
「バンに捧ぐ」
だけど、死ぬ間際、朦朧とした意識の中で必死に神様にお願いをしたの。
「神様、お願いです。このまま死にたくない。もう一度だけ飼い主に会わせてください。」
神様もバンを可哀そうだと思し召し、願いを聞き届けてくれました。
一つ条件付きで。
「バン、お前はすでに死んでおる。だから長くこの地上にはおられぬぞ。
そして、この世を去ったものが再度死ぬのだから、それなりの別れ方をせねばならぬ。
今より辛く苦しい思いをせねばならぬがそれでも良いか?」
そして再び期限付きの命をもらってあのがれきの上に立ち、助けを待ったのです。
だからこそ私たちが首をかしげ、奇跡と呼ぶほど傷一つなく、あんなに元気だったのですよ。
そのあとのことは報道で伝えられた通り。
が、その幸せは長くは続かなかった。
飼い主は無意識のうちにバンを震災前と同じ放し飼いにしました。
「バン、時は満ちた。別れの時だ。」
柵を超え道路に出て、
近づいてくる車の前に身を投げ出しました。
だって願いが叶ってもう一度、愛する飼い主と再会し、共に暮らせたんですもの。
それがどんなに短い間であっても。
再び巡り会って3年も暮せなかったけど。
飼い主とまた再会するまで
candle01.jpg
皆さんはじめまして。Twitterで「レンタル数学教える人」を名乗っている者です。つい今月の初めに、「そうか!だから小学校の算数においてはかけ算順が大切なんだ」と目からうろこが落ち、そのことを夜中のうちにTwitterに書いたところ、朝になったら見たこともない数のリプや引用がついて驚いた。その内ほとんどが「バカ」とか「アホ」とか「クズ」とかの類の言葉でした。それで怖くなりました。「この程度」とか「周回遅れ」とか誹謗中傷まで酷いものでした。
その中でいくつかやり取りするうちに、これは一人一人返信してもらちが明かないから、カリキュラムの順番含めて整理してTwitter内に投稿しよう、と思いつきました。
何でかけ算導入時において順番が大切なのかを教えてやる
2年で「乗法の意味」→「乗法の場面を式に表す」→「乗法の交換法則」
と段階を踏んで学ぶ。ポイントは「乗法の場面を式に表す」だ。この単元を学習中に式の順番が問われるわけだろ。その後に交換法則。計算しやすければ交換してもよいという話
勝手に交換法則使って計算しろよ。ただし場面に合った式を書きなさいと言われている所に、一つ分×いくつ分の順番を無視した式を書くんじゃねえ!という話。途中式間違ってるけど答えはマルもらえるって中高生でも普通によくある話じゃない?
「場面を式に表す」が課題なのよ。段階的ってこと考えよう。
3年で「整数の乗法」だ。数を抽象的なものとして計算するわな。結合法則・分配法則も習うから計算の工夫をしてスマートに解いてみやがれ!かけ算に慣れてきた頃に「除法の場面を式で表す」をやる。何を何で割るかよく考えろ。割られる数、割る数っていう区別(順番)が理解をスムーズにしてくれる。
ここでワケも分からず前から数字を順番に入れて式を立てる奴がいたらどうなる。解答欄の「□÷○=△」穴ポコに順番に入れたらどうなる。かけ算だったら答え合ってて良かったね。
それ習慣ついてたら割合の単元で地獄を見ることになる。ったゆうか現実としてすでに地獄だけどな。
4年で「長方形、正方形の面積」だ。お待たせしました。なんか知らんけどかけ算順番の話してるとすっ飛んでくる輩が「縦×横と横×縦は違うんですか?」ってドヤ顔で聞いてくる。うるせえ。交換法則しとけよ。場面を式で表すとは状況が違うんだから好きにしろ。こちとら「卵10個が3パック」の話してんだよ
この前spaceで聞いた知見を共有する。面積ってのは「1㎝×1㎝の□が何個分」ってところから考える。縦に3個、横に5個、なら一個ずつ数えてもいいが3×5で出してもいい。「1つ分はいかようにも取れるんですよ?」のドヤ顔勢が言いたいのはそれだろ。勝手に5×3やっとけよ。
あのさ、面積ってのはそうやって丁寧に学習していくんだよ。「そもそも面積とは〜積分の考え方を使っているのであり〜」とか言う自称理系人間。アタマおかしいと言わざるを得ない。お前小学生相手に何言ってんの?中学生ですら錐の体積や球の体積を厳密に理解できない。そうやって積み上げていくんだろ
僕がずっと違和感を持っているのは、なぜ掛け算順を認めない人はこのように必死にTwitter内を警備し、いきなり引用リツして人格否定的なことを繰り返してしまうのかということです。バカとか洗脳とか悪影響とか「理由を説明してください」という謎のエンドレス質問。そしてそのような人はいつも同じメンツで、仲間同士でコメントを付けあっている。「井超算数」というタグをつけるのが彼らの仲間を呼び寄せるシグナルのようです。以後、この一派のことを「超算数警察」と呼称します。
逆に、いつも虐められている(ように見える)人は言葉使いが丁寧で、明らかに教育現場にいる率が高い。誠実な教育者であることが見受けられた。懇切丁寧に掛け算順の必要性を説明しているのに、いくら必死に説明しても聞かないうえに暴言を吐かれる、謎のエンドレス質問返しで、いつの間にかダンマリになっていく。この誠実な教育者たちを「掛け順派」とします。
■■■
恥ずかしい告白をします。僕は半年ほど前まで「掛け算順序否定派」でした。くだらねえ理由で減点して子供が可哀想と思っていました。「バカな慣習だ」と暴言を吐いたこともあります。ただし、ここからが重要。耳かっぽじってよく聞け。Twitterで「掛け順必要派」の人に対して凸撃とかしなかった。極めて一般的に、まともな大人は、フツーの人間は、Twitterで自分と反対な意見の人をわざわざ見つけて攻撃したりしない。時間的なヒマもない。
だってその人にリプを飛ばして考えを改めさせるなんてことができると思うか?まあ出来なくはないんだけど、現実的じゃない。しかし超算数警察は平気でやる。まあしつこい。相手がブロックするまでやめない。結局は見下してバカにしていい気分になりたいだけだろう。同調者が表れて良いキモチ。ちなみにこの人たちは「ブロックされたこと=論破した」と定義している。世間一般的にはそうではないが、超算数警察の中ではそうなのだ。スクショ付きで「逃げやがった」「やっとブロックしたか」が決め台詞である。
実は僕がTwitterで意見を投下し始めて、あまりに暴言がひどいので反論の意味で多方面に暴言を吐いてしまったところ、ある方に批判された。対話を重ねていたら、その方はスマートな教育をされ、学校に期待しすぎないで家庭と学校で協力していけばいいという考えの持ち主だった。
「あなたがスマートな教育をされていることは分かった。学校の先生も必死でやっているんだ。掛け順間違いでバツされたことなど、学校ってそんなもんだよなと受け流してくれればいいのに」
と伝えたら、そこで衝撃の一言「とっくにそうしている。はじめから掛け算の話などしていない」と。僕は冷や汗をかいた。
そうなのだ。始めからそうだった。そしてそうやってある種諦めの境地でもって受け流し、家でも教育しておけば良いというバランス感覚こそ僕が求めているものだった。それこそ思想転向のずっと前から。
テストで不本意ながらバツをもらってきた子供に対して、親としてもし、その採点に納得がいかないのなら「これは学校のテストにおいてのみ守っておかなければならないルールで、数学的には答えが合ってるから、まあ気にするな」と教えてやればいいのだ。僕だったらそうする。
実際、社会に出たら本当にどちらでもいい問題だ。よくある例としては「個数×単価」のような書き方がある。英語圏では「〇倍した□」といった言い方が一般的だ。だから僕はあくまでも日本国内での「算数ルール」「小学校ルール」と言っても良いと思っている。
冒頭の固定ツイと内容が被るが、僕自身は掛け算の順序を丁寧に教えていくのは極めて有用だと思っている。それは日本語的な感覚という意味でもだ。「●個が〇セット」、割合の単元なら「▼の□倍」という語順がしっくりくる。まだ抽象理解や言語の運用がいまいちな低学年にとってはなおさらだ。
■■■
超算数警察は厄介なことに、叩ける相手だと認定したらとにかく他のどんなことでもツッコめる穴は無いかと探し始める。たとえば僕は連ツイの最後に「面積の学習は丁寧にやっていく。そもそも面積は積分の考えを使っているので~とか言うな。中学生ですら錐の体積や球の体積を厳密には理解できない」と書いたら、まあそこに食いつく食いつく。一言言わずにいられない馬鹿どもが。
「中学生に球の体積の理屈くらい教えてあげないのは怠慢、講師失格」
などという酷い言われようだった。まったく現実を見ていない、好き勝手な意見だなと思うわけだが、一方でそんな教え方ができるのであればすごいことだ(たとえ受け手側に理解するポテンシャルがなかったとしても)と思って、全員に「中学生でも理解できる球の体積の考え方を教えてくれませんか?」と聞いた。
もう大半がヘンなリンク送ってきたり、有名な説明だから今さらする必要なしとか繰り返すだけで、何の益もなかった。30人くらいいたかな。そんな中で2人だけ実際に説明を書いて送ってよこしてきた。2,3分でササっとかける代物ではない。余裕で中学生で習う範囲を超えている。しかし素晴らしいと思った。
僕からするとそもそも僕が主張したいことと話がズレているし、それを活用できるほどの力量もないので、それをどうこうはできない。それは2人にとって肩透かしだったと思う。そもそもこちらは煽られてスタートしているのだ。「できるものならやってみろ」とは言ったが、本当にやってきたのならば敬意を表するほかない。そう。これなのだ。数学を愛し、数学を嗜んでいるのなら、自分の手を動かしてみろっていうんだ。超算数警察みたいに「数学は答えがあってればマル、ウソを教えるのは迷惑」とかいってTwitter内でクソリプ飛ばしてないでさ。んでマウンティング、グルーミング。それの繰り返し。
超算数警察は、小学生も学校の先生も、そもそも全部ひっくるめて公教育というものが人間社会のなかで行われているということを忘れている。自分の大好きな数学の美しさに惹かれて、極めて抽象的で、この世界中どころか宇宙全体に通用する法則をはやいとこ小学生にも教えてやれと言っている。んで「合ってるのにバツされるのは可哀想」という。だからもう一回思い出してくれ。こちとら小学校低学年を相手にしているし、そもそも「算数」の授業をしているんだって!教科名が「数学」じゃないことに注意。段階を踏むってことが彼らには理解できていない。
超算数警察は「美しさ」にこだわっているんだと思う。掛け算は順序を問わないのだから、式が逆なくらいでバツされている答案が目に入るのが耐えられないんだ。現実には日本中の小学校で丁寧に式の立て方から指導している。「一つ分×いくつ分」も「○○の□割(倍)」もとても重要視されている。だって最初に「3+3+3+3+3のことを3×5だって説明しているんだから。そりゃ5×3って書いたらバツでしょ。お前思いついた順に数字を書いてんじゃねえよ!って言いたくなるでしょ。「一つ分」を先に書けと言われているのだから。
Twitterで見かけた例を拝借すると、二つの倉庫があって「右の倉庫にはボールを、左の倉庫にはバットを入れてな」と決めてそれを周知したのに、逆に入れるヤツがいたら説教したくなるでしょ。右がボール、左にバットなんていう必然性なんかない。ただそう決めただけなんだが、決めなきゃしょうがねえだろ。そのきめたルールが無くなることはないと思うぞ。調べたら100年近くやってるらしいじゃん。じゃあお前らは永遠に不満を持ってTwitterで吹き上がるだけの人生だぞ。超算数警察たちは、ごく普通の人間たちの営みを否定している。だってようやく数字という概念を学び始める準備段階の子供を相手にしているんだぞ。ムチャ言うな。
なあ、そんな理論通りの、全てが数式通りに記述された、超算数警察が理想とする美しい世界が実現するにはどうしたらいいか教えてやる。「この世界から人間がソックリいなくなる」しかないんだよ!
■■■
今から30年ほど前に超絶ヤバ集団がいたことを覚えているな。「オウム真理教」っていうんだけど。ムチャクチャへんな主張をするカルト宗教でメディアは面白がって、バラエティ番組なんかにも出ていたな。あれのトップが何て言っていたか知っているか?
「近いうちに日本の人口が十分の一になる」って言ってたんだぞ。これが何を意味しているか分かるよな。それがどうだ。東京のど真ん中の地下鉄でサリンがまかれた。彼らの母数が大したことなかったから、同時多発的にってところまではいかなかったけどな。
そりゃ今だって「地球環境を壊さないためには」とか「埋蔵資源を枯渇させないためには」とか「海や山の生態系を守るためには」とか考えると、人間がいなくなるしかねえ!って結論になるよな。ま、それを言っちゃおしめえなので・・とスルーされるのが常識的な流れなんだけど。
しかし超算数警察よ!お前らがやっていることはそれに近い。すべての人間が「極めて忠実に数学の美しさを体現するためには」なんてことをやっている。無理だよ。この世界にはとんでもなく計算が苦手だったり、日本語が通じなかったり、中学生の半分が教科書を読めていなかったり、高校生で「数学を捨てる」なんて発言がまかり通っているんだから。中学を卒業したら数学というものから離れる人だって多い。そういう人がどれくらい数学が苦手か分かるか?そういう多くの人たちをとりあえず一斉に教えるために作られたカリキュラムだ。ちょっとやそっとじゃ揺るがねえよ。
掛け算を逆に書いてしまったものを慈悲深い心でマルにしてもらえたら、彼らは数学を好きになれただろうか。小学校のカラーテストで、本来だったらもらえてた(とおまいらが主張する)5点を取り返したところで、その後の人生に1ミリも役に立たねえよバカ。
んで超算数警察の口癖、「掛け順教」。数学的に正しくないウソを教えている宗教って言いたいんだろうけど。あのなあ。宗教って言葉が相手をバカにする言葉に使えると思っているところが人間のことを分かってねえっていうんだよ。もしかしてお前らって「もともと存在しない神とかいうものにすがって、科学を否定してきた宗教というもの信じてるヤツってバカ」ってシンプルに思ってない?でなきゃ「掛け順教」なんていう言葉が気軽に出てこないと思うんだけど。
それこそ人間社会のことを分かってないってことの証左なんだよ!人間はこの世界のよく分からないものに暫定的な解を与えるために宗教というものを生み出した。それがよりよく生きるための術だったからだ。もちろんそれが命の奪い合いを引き起こすこともあるがな。現代の日本だって神様にお願いしたり、クリスマスを祝ったり、葬式したり、全部宗教だろが!そのことを分かってないで「自分は無宗教なんで」とか言ってる。んでここ100年とかで明らかになってきた科学的な知見をかってに借用して、「今どき宗教にハマってるなんてプギャー」とか喚いてんだろ。お前たちは人類の先輩たちが大切にしてきた偉大な宗教というものもコケにしているんだよコラ!
この世界のことが科学的に説明できるようになっていることは事実だろう。それと、人間の認知機能が一気に進化するってことは話が違うだろが。お前らは数学の美しさ(数式は場面を捨象するからこそ美しい、程度の知識)を知ったからと言って強化人間にでもなったつもりなんだろう。んで科学の知識を得た我々は、次から次へとニュータイプが生まれてくるとでも思っているんだろう。そして、現行の算数教育はそのニュータイプの育成をジャマしていると。
バカ言ってんじゃねえよ。そんな簡単に人間が進化してたまるか。お前らなんか強化人間にすらなり切れていないし、だいたいジャレドダイアモンド先生が言う「認知革命」が起こって以来、人間なんか大して成長してねえわ。ホモサピエンスは昔も今も、ちょっとずつ日常の数的感覚(自然数)から、抽象的な理解に至っていくんだろうが。小学校6年間は、まず数学に入る前の準備段階だって決まってんの!それを数学的な知識を先取りしたうるさい大人たちがエラそうに・・・
俺たちは真っ当に義務教育の中で算数指導をしているだけなんだよ!
■■■
お前らが何と戦っているか教えてやる。
僕は超算数警察を見ていると「進撃の巨人」11巻で「敵は何だ!」と喚いてユミルにたしなめられているエレンをいつも思い出すよ。
お前らには見えていない。お前らはお前らが言うところの「掛け順教」と戦ってんじゃねえ。Twitter内にいる「掛け順教」をやっつけて終わりだと思ってんのなら・・そりゃ・・大きな勘違いだ。
お前らは「敵は何だ!」と問うだろう。
そうして僕はこう答える。「そりゃ言っちまえば・・世界だ」と。
お前らが数学が得意で数学が好きでその魅力にヤラれちまっているのは認める。そしてそれは素晴らしいことだ。んでハッキリ言うとくけど、世の中の人はそんなに数学が好きじゃないし、数学に興味がない。
数学が好きならお前たちそれくらい分かんだろがよ。数学者列伝とか読めば明らかだろうがよ。数学を専攻する人間なんてのは奇人変人だと相場が決まってんだよ!
超算数警察は一般人相手に「それ数学的に間違ってますけど!」とか言ってないで、自分で数学的な真理を突き詰めたらどうだよ。ただしそれは生きるか死ぬかのイバラの道だと心得よ。フェルマーの最終定理を証明したアンドリューワイルズ先生は10年間誰とも連絡を取らずに、生きてるか死んでるかも分からないような状況に追い込んで偉業を成し遂げた。ワイルズ先生が必死こいてTwitterでクソリプ飛ばしてたらとか考えると笑えるよな。あ、コイツ生きてるなって安心できるよな。やってるわけねーよな。
つまり人のことを気にしてる暇があったら、自分のやるべきことやっとけってこった。だから僕に対して自筆の証明を送ってきた二人以外のお前らは、どっかからリンク引っ張ってきた以外になんか生み出したか?
■■■
君たちは三重の壁の外に、バカも天才も秀才も凡人もひっくるめた人間社会が営まれているということを忘れちまってる。Twitterの中でお仲間を見つけて、自分たちだけが世界の真実に気づけていると思って正義感に燃えているんだろう。それをあの頃のエレンだって言ってんだよ。
エレンは壁の外にいる巨人をすべて駆逐すると誓った。そして裏切り者だった同期生を許さねえと言った。しかしやがて真実にたどり着いたエレンは全てを理解したよな。そしてそんな風に怒り狂っていた自分を恥じた。そうか、みんな同じだったんだって。それは壁の外に出たからだ。外に出るという強い意志を持ったからだ。
超算数警察よ。君たちはいつまでも三重の壁の中に閉じこもって、つかの間の楽園を享受しているんだ。とことんまで抽象世界にもぐりこむのも良い。ただそれは浮世離れした人生を歩むことを意味する。それがイヤだったら、人間たちの世界に戻ってこい。人と心を通わせることを選択しろ。三重の壁(心の壁)を壊して外の世界に出るんだ。
コロナの数年前、たまたま、さいたまスーパーアリーナでチケットを売ってるのを発見してライブに行ってから、ファンクラブに戻ってライブのチケット争奪戦に参加してライブに行って元気もらって仕事頑張ってライブ行ってを続けてた。
コロナでライブできなくなった時、配信してくれてやっぱり寂しかったけど、それでも元気もらうことができた。
んで、なんで喧嘩してるのかいうとaikoは有料のラジオでコロナが収束してみんなが大手を振ってライブに来れるようになるまでライブやらないと言っていたのにライブをやると言ったからだ。
フジロックに行った人と同じようにチケット争奪戦に勝ってチケット取れた。コロナ禍で回り回ってチケットとらた日がツアー初日なった。
いろんな神様にお願いしたけどコロナは収束する事なく、なくなくチケットをリセールした。
私の中ではライブしないって言ったじゃんという気持ちが強い。だから、勝手に怒ってファンを辞めている。
でも、aikoがみんなが大手を振ってライブがこれる日までライブをやりたくないというその時のファンへの思いりや気持ちは本物だと思ってるし、大人(お金)の事情があるのもわかる。
じゃぁそれがファンのためだったのだろうか。
ようするに
・神様を信じるってことは神様にもこっちを信じてもらうために(その神様目線からいえば)いい子にするってこと(大まかに信仰のありかた)
・どの神様が何していいとか何しちゃだめとかいろいろ決まりがあるけど日本人はそれ守る気はない(逆説的に上記の神様に信じてもらうためというのを否定してる)
学校教育が「日本においてあるべき情報の基礎」と思われるくらい義務化されてるから、宗教が文化で情報の記録で教育で治世的なものであるという役割を捨ててる
道徳も倫理も「学校で学んだろ」って言葉で完結してしまうし善悪の基準は「世間さま」
神ってものが何なのかよくわからないけれどもおなじ立ち位置に「みんな」「世論」「世間」とかを据えてる
さらに
・神様にお願いする行為はなんでもするけど、神様がお願いしてる事(禁則事項)は守る気はない
神様はえらいからうちら庶民のことなんかとりたてて監視しないしそんなきついこともいわんやろ、けど神様が基本的人権について忘れてそうっておもったらすごい勢いで呪う
概念や想像の範囲内はすぐ頼るけど、それに到達しないと現実のなにかをめっちゃ攻撃する
駅に階段しかなかったら駅員を晒すし望みのレストランに入れなかったら晒す 運を神様が操って自分にだけカスタマイズされた試練だとは思ってない
でも運よく予約がとれたら日頃の行いっていうしスムーズに事が運べば神様に感謝して実際の関係者には感謝しない
構造的に一番安上がりな事をするというだけ
受験勉強を寝ずに毎日頑張るのよりも小銭で絵馬を書いて願掛けしたら匹敵するかもって期待しておちたら学校制度を呪うし合格したら何らかの実力を誇る
という理由で神の座がないってことやね
池江さんがオリンピック代表に内定してとのことで、おめでとうございます。
大病を患い、一年以上、競技を離れながら、強う意思と不断の努力によって競技に復帰するだけでなく日本にトップに返り咲くなど、多くの人に勇気と感動を与えてくれました。
と、テンプレートの祝辞を述べた後に本音を書きたいのだけど、僕は池江さんを応援できない。池江さんを応援できる人は、池江さんに自分自身を投影している人だけだと思う。
僕は冴えない社畜なので、オリンピック代表になれなかった候補者に自分自身を投影する。
池江さんに負けた選手は何も悪いことをしていない。オリンピック代表候補になれる人は、池江さんと同じくらい努力をしているはずだ。
彼女が病気と戦っている間もオリンピック出場を目指して、素人には想像もできないような辛い練習をしてきたのだと思う。
それが、一年間ブランクのある選手に抜かれてしまった。練習量だけいけば池江さんよりも圧倒的に多いのに。練習効率だって、科学的な練習が広まり、コーチや協会で共有されている現在、それほど違いはないと思う。むしろ「池江さんがいないから出場できた」などの下らない後ろ指を指されないために今まで以上に努力をしてきたのだろう。それなのに負けた。「努力する天才」には勝てなかった。負けた理由は「天賦の才」の違いだ。
オリンピックを開催に関する議論の中で無観客でやった方がよいとう議論がある。
この論陣を張る人は「選手はオリンピックに出るために数年間頑張っており、オリンピックに出て、メダルの色でその後の人生が変わるため」と主張する。
オリンピックが金メダルを目指して頑張っている人のためのものであるというのであれば、池江さんに負けた選手はここで既に人生が暗転してしまった(3年後のパリオリンピックを目指すという選択肢もあるが、年齢的に今年が最後の人もいただろう)
負けた選手は、何か悪いことをした訳ではない。同時代に「天才」がいた。
池江さんのオリンピック出場からわかることは「努力する天才」には勝てないということ。
努力すれば報われるとか努力すれば夢が叶う。とかは周りに「努力する天才」がいれば実態を伴わない空虚な言葉に早変わりする。
オリンピックが開催されるかどうかわからないが、開催されるなら池江さんには頑張ってほしい。池江さんが頑張ることで同じ病気の人で苦しんでいる人に頑張ろうと思う気力と勇気を与えることができるから。これは池江さんにしかできない。
10年くらい前に接客業で働いていたときの先輩の言葉を年末にふと思い出した。
今になってみてもたしかにそのとおりだなと思えたので、思い出しつつ書いてみる。
思い出したきっかけは、母親が初詣に行くといって聞かなかったのを今年はやめておこうと説得したことだった。
先輩が言うには、人は、問題が発生すると原因を考えて行動(解決)しようとするという。
そしてこれは、串にささった団子のように一直線に並んでいるらしい。
図にするとこんな感じだ。
問題に触れて、原因を予測して、行動に移すという、物事に触れる順番とは異なる。
時系列で言えば、もともと原因があり、問題が発生して、解決が必要になるからこの順番なのだそうだ。
そして、多くの場合、人が人を説得しようとするとき、この行動に対して説得を試みるのだという。
今回の場合、母親が初詣に行くのは、このコロナ騒動が一日でも早く収まってほしいからと神様にお願いしに行きたいという気持ちからだった。
もしそれを説得する場合、以前のわたしなら、今の時期における初詣の危険性を山程並べて母親の説得にあたっただろう。
この問題にあたる部分は、比較的に視覚化されていることが多く、また、皆が問題を共有できていることがほとんどらしい。
それなのにも関わらず、行動という点において、かたや母親は「初詣に行く」、かたやわたしは「初詣に行かない」として行動が分かれてしまったのはなぜだろうか。
母親は母親の思考において、一直線に原因、問題、行動が並んでいる。
そしてわたしも、わたしの思考において、それらは一直線に並んでいる。
その2つを重ねてみると、ちょうど問題を中心として、クロスするかのように角度が違っているの状態にあるのだ。
それならば説得を試みるのは行動ではなく原因の方で、原因さえ互いに共有できれば、自ずと行動も変わってくる=団子の角度が一致するというのが先輩の話だった。
そこで母親に、新型コロナ感染拡大の原因はどこにあるのかを聞いてみることにした。
母は、人の心の乱れが一番の原因だと言った。
なるほど。たしかにそれはそうかも知れない。人の心が乱れれば、規律を守らず身勝手な行動が増え、そしてそれが結果的に感染拡大にもつながる。
それならば、人が集まることを禁止している指示を破り、人混みの初詣に行くことも、身勝手な行動ではないだろうか。
そういうと母親は一理あるといった顔をしてうーんとうなずいた。
今できることはなにか。それを母親と話し合った結果、3が日がすぎて落ち着いた平日、日中に初詣に行くことにして、それまでは神様に待っててもらおうということで決着がついた。
おそらく、母親の行動を否定し続けていても、一時的な行動の中止はできても変化までには至らなかったはずだ。
そしてもしわたしの説得によって行動の中止をした場合、本人が納得できていない以上、行動を中止された恨みはわたしに向かう。
相手に良かれとやったことでいちいち恨みを買っていたのではたまったものではない。
そして面白いことに、初詣には行かないと決めていたわたし自身の考えにも変化が起きた。
問題を中心として、わたしの団子も母親の団子に引き寄せられるように角度が変化したのだ。
自分の考えだけが正しいと信じることは、それはそれで危険なのだ。
お客様が持ち出してくる何かしらのクレームは、つまり行動の部分にあたるという。
例えば製品に問題があったとして、それをもとに原因をお客様なりに考えて、それにふさわしいクレーム(要求)をしてくる。
もしそのクレームが対応するべきものではないとした場合、そのクレームがふさわしくないことをいくら説得しても無駄なのだという。
製品の問題はともに共有しやすいものだが、その原因と考えている部分の認識がずれたままなら、いくらクレームに対応しようとしても無駄だからだ。
お客様からお客様の考える原因を聞き出し、その上で相手と正しい原因を共感することで、はじめてふさわしい要求は何かという話し合いができるのだという。
それに、もしそれでも過剰な要求をやめなかった場合は、それはもうお客様ではなく問題あるクレーマーとして切り分けができるのだとも言っていた。
事実、この先輩は、一回一回の対応は決して短いものではないが、全体を通すとほぼ最短で解決に結びつけていたし、その後にクレームが再燃するようなこともほとんどなかった。
クレーム対応として正しいかどうかは別として、自分ならそういう担当にあたってほしい思えるような人だった。
ちなみに、この論法を教えてもらってから、マスコミの薄汚さがよくわかった。
マスコミは問題に対して原因を曲げて伝えることで、行動をコントロールしているのだ。
わたしたちは、その問題が、果たしてマスコミがいう原因によって引き起こされているのか、考える必要が求められている。
と、ここまで書いて、もともと団子よりも羅針盤の針になぞらえて例えたほうがわかりやすいんじゃないかってことに気がついたけど、もうまとめ直す気力はなくなってしまった。そのうちまた。
薬飲み始めて全然減らなかった体重が減って、70kgになった。
薬飲み始めたらすぐに痩せた。
今までどこに行っても「食生活だ」とか「運動しないからだ」とか
「本人の努力不足でデブるんだ」「意識せずに食いすぎ」じゃないわ。病気だわ。
「太る病気(代謝が減る病気)とかじゃない?」みたいな事言ってくれたの、親友と家族だけだわ。
薬を飲み始めたら痩せた、免疫系の持病のせいだったと言うと
「事前情報が無かったんだからしょうがない」と言って謝罪もしない。
悪かったとも思ってないでしょう。口先だけの人間はみんなそう。
余計なことに口突っ込んでくるくせに、間違いに気づいたら謝罪もせずに逃げて相手の問題にする。
神社等でお祈りするときに、神頼みするのがなんとなく嫌だった。下品というか、おこがましいというか、神様にお願いする前にもっと努力をできないかって思ってた。
母親が新興宗教にすがって、色んなものを完全に壊してしまったことを間近で見ていた。だから神様、占い等の非現実的なものに寄りかかりたくないのだ。
神社で参拝するときは抽象的なお願いをする。叶っても叶わなくても、結果がわかりにくいものだ。アウターゾーンの猿の手のエピソードに影響されていると思う。
ずっとそんな感じだったのだけれど、最近変わった。
嫁さんのお腹に新しい命が宿っていたのだ。これからずっと、母子ともにどうか無事でいて欲しい。そんな気持ちで毎日何かに祈っている。
今まで足りなかったのは、がむしゃらに守りたいものだったのかもしれない。
まだまだ若いころ、お呼びがかかって初めての参拝をした。
ようやっとるやないかと声をかけてもらい、神様からプレゼントをもらった。
和田の足が大きすぎてアメリカでないとサイズの合う靴がないという噂を聞いた神様が、
アメリカで大きいサイズのヒールを買いプレゼントしたが、和田には小さくて入らなかった。
仕事が落ち着いてきたころに、またお呼びがかかって二度目の参拝。
今度は、足の大きさは合っていたがベルトの長さが足りず履けなかった。
神様がわざわざ毎回用意してくれるプレゼントが自分のサイズに合わないことを申し訳なく思った和田は
「靴はもういいです」と神様にお願いした。
キャリアの終わりを意識し始めたころに、またお呼びがかかって三度目の参拝。
辛かったことや励まされたことなどの昔話に花が咲く中、プレゼントのヒールが入らなかった話にも前線が及ぶ。
すると神様がプレゼントがあると言い出す。もしかしてまたヒールじゃないかと慌てる和田。
神様が取り出したのはなんと、綺麗なヒールの形をした瓶に入った、大好物のお酒でした。
それを喜んだ和田は周囲にこの話をし、和田の亡きあとはその偉大さを称えるため、
周年忌に靴で酒を飲む風習が広がりました。それ以来、
毎年5月になると、靴の形をしたコップにストロングゼロを注いで一気に飲み干す奇祭、
「てつこ祭り」が催されるようになりましたとさ。
↓の記事を見て思った
http://eikaiwa.dmm.com/blog/26789/
(この記事はあくまできっかけで、以下の内容は上記記事のみに対する反論ではない)
以下のようなことを書いてある記事をたまに見かける。
何故、外国の人の反応を気にして主義主張を曲げないといけないのか?
2に関しては、これが当てはまる日本人も確かに少なからずいるとは思う。
が、当てはまらない日本人も多数いると思われ、1の主張を補助するためのこじつけ感が否めない。
大多数の日本人が正月に神社にお参りに行くのが、大多数の日本人が神道を信仰している証拠だ! とか言われる。(ちょっと極端にしてるかもしれないが)
だけど、本当にそうなのか?
確かに、お参りに行ってお賽銭投げて手を合わせたときに、心の中で本当に真剣に神様にお願い事をしている人に関しては、「意識していないだけで神道を信じている」と言えるかもしれない。
でも、ただの付き合いだったり、お正月暇だったり、「ただなんとなく毎年行っているから」という理由で初詣に行って、特に真剣にお祈りすることもしない人たちも大勢いるはずだ。
それを「初詣に行っているから、神道を信じている」というのは、「クリスマスパーティーをやっているから、クリスチャンだ」というのと同じくらい暴論だと思う。
日本人の文化や倫理観に、神道や仏教の影響が強いことは否定しない。
が、それが即ち、平均的日本人の多くが神道や仏教を信仰している、としてしまうのは、宗教がないことを恥じた故のただのこじつけだ。
一昔前ならどうだか知らないが、少なくとも現代の日本においては、あまり正しいとは思えない。
私はアラサー手前のお兄さんですが、柄にも無く賽銭を入れて手を合わせました。
今だに覚えているのは中学生の頃、今年こそは彼女を作ってヤらせてください、というものでしたが、
今思えばよく天誅が下らなかったと神の懐の深さにマジ感謝です。
そんな私も大人になって、どんな神頼みをしたのかと言えば、今年も健康に留意して過ごします、というものでした。
帰りに露天のバナナチョコを頬張っていると、一緒にお参りした中学の同級生から、どんなお願い事をしたの?と聞かれました。
素直に答えて、子供の頃みたいに神様にお願いするよりも、自分がする事を宣言するようになって来た、という話をしました。
相手は、大人になったね、なんて言ってましたが、そりゃアラサー手前、少しは大人になりますよ。
私が話すこともなくなり、今度は相手にどんなお願い事をしたのか聞いてみると、
「君と付き合えますようにってお願いしたの。でも君と違ってお願いだから子供っぽいね」
といっていました。
私の願い事の結果は分かりませんが、彼女の願いはお参りからわずか15分で叶ったようです。
新年早々惚気てすまん。
翌日から早速楽しくおしゃべりだ・・・マジかよ。向こうから話しかけてきた・・・。
でもね、短期三日のご利益じゃやなんだよ。
おかげで疲れた。
毎日、神様にごめんなさい、でもお願いします、ってお守り握りしめてた。
今も当然ながら目の前にある。
毎晩枕元において寝ている。
お守りが手元にないと不安。
あると落ち着く。
これが神様の力ならすごい。
けど、神様のご利益を1週間で使い尽くしちゃった気がしている。
今週もいったほうがいいのかな。
でも行き過ぎると、欲張りめ!って神様に嫌われそうで行けない。
お願いしすぎて、ご利益がありすぎて、でも結局どうしたらいいかわからなくて
とても疲れた。
週末は家でゴロゴロしよう。
http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/3992852.html
これを読んで、昔カーチャンに言われた話を思い出したから書く。
------------------------------------
生理痛っていうのはめちゃくちゃ簡単に言うと「子宮が超絶筋肉痛になる」という痛みで、
内部に溜まった血を一生懸命排出しようと子宮がこれでもかと伸縮を繰り返すから起こる。
この時点で
・どれくらい痛いのか
・なぜ個人差がもの凄く大きいのか
という、男なら誰でも抱く疑問が大体解決(?)する。
子宮は赤ちゃんを支えられるレベルの筋肉のカタマリだから、そんなのが全力で運動して腹ん中で筋肉痛を引き起こしたら
だけど知っての通り、筋肉痛には個人差がある。走り回った翌日けろっとしているヤツもいれば、動けないヤツもいる。
そして生理痛は、脳みそ的には筋肉痛というより内臓の痛み(胃痛とか下痢痛とかと同じカテゴリ)で認識される。
だからあの、「ぐぬおおおお痛い痛い痛い痛いけど痛い部分は身体の中だからどうしようもないんじゃボケエエエエ!!!」
って感じの痛みだし、女性ホルモン(これまた個人差が大きい)の影響も出る。
色々書いたけど、つまり「生理痛が重い人」(あくまで重い人)の痛みを言い換えると
立って歩けないような筋肉痛がそのまま内臓にやって来たレベルの腹痛
当時サッカーやっててしょっちゅう筋肉痛になってた俺は恐怖に戦慄した。
このことをまくしたてる母親の形相にも戦慄した。
------------------------------------
よく言われる、金玉蹴られた痛みと比べてうんぬん~ より「筋肉痛」の方が
男も女も知ってる痛みだし不毛な議論になりにくいんじゃね?と思ったので、書いてみた。
生理痛の原理なんてよく知らないし、ホントのところは分からないけど