はてなキーワード: 侮蔑とは
発起人に盲従する人間が減った事がそれを示している
・監査が入って不備が指摘され
・おそらく要件も変わっている
なんでか、これをなかった事にしたい人が多いみたいだけど
大山鳴動して鼠一匹ではない
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20231019/1697642206
そうだね、その通りだ
だから、不正(要件・条件での虚偽)が発覚すれば「制度」はそれを許さない
(あれが本当かわからんが)オンブズマンが利益相反するからやらないとも言わんだろう
ただ単に入口でチェックしなかっただけで
後からチェックしてるから(一部とはいえ)不正が明るみに出てる
これを例示するのって、個人的には彼が擁護したいと思ってる界隈への侮蔑ではなかろかって思ってしまうんだよね
まぁもちろん、不正の取り扱いに対して、不備の取り扱いが大きすぎるという「ただそれだけの」例示って事なんだろうけれど
そんなの世の中を見ればいくらでも溢れてるだろう
温泉むすめとかさ
トーン・ポリシングだ、と言う側も本来のテーマと異なることを言ってる時点で論点ずらし乗ってるし、
トーン、ポリシングだ、と言ってる側って主張内容は別としてその表現方法に明らかな侮蔑やらが含まれていたりして、そもそも話し合いのスタートラインに立ってないイメージがある。
能力がある程度高いわりに外見に全く気を使わない、コミュニケーションに難がある人間に困っている。ブサイクでチビにも関わらず清潔感や話し方や相手の立場にも気を配らないので最悪だ。
彼は、彼しか知らない知識があり、そこそこ頭もいい。そして、そうした状態を用いて侮蔑混じりの発言をすることが多い。
典型的なブリリアントジャークだと思う。ただしそこまでブリリアントだとは考えておらず、社内知識を一般知識だと考えていることが多いように見えている。
そういう扱いを受けることが気に食わないので、温和に排除しつつ撤退する準備をとっているのだが、それでもストレスがかかっているので困る。
まず相手に対する初見の印象がよくなかった。外見が嫌いで、話し方が嫌いで、話す内容が嫌いとなってしまい、嫌悪感が高かった。そのせいか自分でも知らず知らずのうちに軽視する姿勢が出たのかもしれない。
最初はそれでも調整して普通に接していたが関係が継続するにつれさらに嫌悪感が高まったため、自分の平穏のために彼を非人間だと仮定し、そのように接することにした。
ただしそれでも、嫌いなので話を聞きたくないと無意識に感じる。もし同じ情報を得るならその相手ではなく別の人間に聞きたいと思うわけだ。自分から彼に話しかけることは無い。
驚くべきことは、自分でもその人の話をまともに聞いていないことがわかることだ。よく観察すると相手は比較的重要な話をしているが、自分はそれを重要なことでないとみなしている。
ここで「比較的重要」という言葉を使っているのもそうであり、まず相手の話を重要だとみなしたくないという心の動きがある。「それは比較的どころか結構重要度が高いのではないか」と言われても、いの一番に思うことは「いやいや、それは違うのだ」という感想である。そのあとで、なぜそれが違うのかの理由を探そうとしてしまうのだ。
「重要か否か」を判定する前に「この人が言うことは、どうせ重要なことではないだろう」という先入観があり「この人が言うことの99%ぐらいは重要でない」とみなしている。その上でどうしても自分に損害があるような重要なことのときだけ、渋々受け入れるといった状態になっている。
一方で、自分はルッキズムは良くないと感じている。しかしどうもなんというか、単純接触効果の逆効果というらしいが、接すれば接するほど嫌いになっていくのだ。そしてその人固有の行動そのものも嫌いになっていく。
論理的で合理的な自分は彼をそれなりに有能で熱心な人間だと認めているが、彼への総合的な評価にはこういった観念はあまり寄与せず、ただただ不快なモンスターと接しなければいけないという気分がある。
困っていることは、そうした不快なモンスターからの発言に対してストレスが入ることと、平穏に大人の対応をするにはどうするべきかあまりわからないことだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210810181919
https://web.archive.org/web/20210810225700/https://anond.hatelabo.jp/20210810181919
原著の刊行は71年、当時の部落解放同盟書記長の中山氏とともに長野県内の被差別部落の古老たちを訪れて聞きとり調査したもので、現代よりずっと差別が苛烈で激しかった時代や大正デモクラシーの波にのった解放運動の記憶もまだ生々しく覚えている人が多く、本当に大変貴重な証言ばかりだった。
(まず基礎知識ですけど、部落をよく知らない人はなんとなくイメージで、関西にしか無い、関東は関係ないと漠然と思っている人が多いみたいですが(私もそうでした)葬儀や処刑人、農村で使ってる牛馬の解体処理など死に関わる仕事(ケガレの仕事)全般を請け負っているので、基本的にどこにでもある(最北端は旧松前藩あたり、最南端は奄美大島らしい)。私も北海道には存在しないと思っていたが間違いのようです)(被差別部落の中でも同和事業を適用される同和指定地区をうけなかった地区も多いのがこのような認識を生んだ理由でしょうか)
この本はまず信仰の話から始まるんだけど極貧の生活のためか日頃より信仰心が篤いのに死んだら畜生と同じ埋葬方法で墓が作られても墓地の北側の日のあたんねえ所とか、雑で差別的な戒名つけられたり、それでも檀代は一般(部落外)より高い額ふんだくられてたりもうさんざんで、序盤からひどい話ばっかりなんだけどこのあともひどすぎてこれがジャブ程度に思えてくる。長野といえば教育県を掲げているけど部落民は一般と同じ学校に行かせてもらえない、行かせてもらえても徹底的なイジメが待っている、教師すら[チョオリッポをチョオリッポと呼んで何が悪い]と差別に荷担する。さらに生活苦ゆえに家の仕事を手伝わなくてはいけないといった理由も加わってまともに学校通った人の方が珍しくて、聞き取り対象の老人のなかにはいまだに文盲の者も少なくない。それから公衆浴場も別々で回り風呂といって運搬が可能なお風呂が部落じゅうを回ったりしてたらしい。ケガレの仕事だけでなく、今でいう巡査や牢屋の見張りのような危険な仕事を押し付けられたり、農家の手が足りないときだけ日雇い従事したり季節労働をやったり等収入が安定しない..
もう要するに公権力が徹底的にそうやって差をつけている。また、同じ人間であると思わせないためか、部落民は睾丸が四つある、あばらが足りない、血の色が違うなどいわれのない身体的特徴をでっちあげられてそれを理由に侮蔑される。今でこそ誰もが馬鹿馬鹿しいとわかるけどこんなことが真剣に信じられていたんである。
それから今でこそ同和事業で部落のインフラが整備されて、見かけは一般と変わらない町並みになり、住民の流出・流入が容易になり、その結果元々部落だったと知らずに引っ越してきてずっと知らない人などたくさんいるけど、明治の末ごろの話だけど比較的裕福だった部落の老人が一般の大通りに家を建てたら村じゅう大騒ぎになって、
村役場が主導して執拗な嫌がらせを開始。果ては物理的に家ぶっ壊されて(!)老人は訴訟をするけど村役場が殺し屋を差し向けてきたり費用の問題などで訴訟断念するしか無かったらしい。役人が殺し屋を雇う???????????????? ???????
明治といえばその初頭に四民平等令、部落解放令がやっと出た時代なのに..この解放令ってやつもうほっとんど意味なくて、差別は続いて、でも以前は免除されていた税金が一般と同じように徴収されるようになっていっそう生活が苦しくなっただけらしい..てかまじ、体制側が一市民に殺し屋を差し向けてくるとかまるでフィクションの話みたいであまりに信じがたくてここ読んだとき一日くらいずっとポカーンとしてた。殺し屋て…殺し屋て..明治の末とかって歴史上からみたらほとんど最近じゃん 最近の話じゃねえか ひでえやばすぎる。どーなってんのよ
どこそこの地域が部落みたいな程度の浅い知識ならネットでちょこっと調べれば出てくるけど、こういう具体的な差別事例ってこんなふうに本でも読んで能動的に調べないとわからないんだよね、、まぁこういう時代からは随分ましになったとはいえいまだに部落の人にたいして暴言吐く人、差別する人はゼロにはなってなくて、全然過去の問題じゃないんですけど、同じ部落の人のなかでも[部落問題を知ってほしい][寝た子を起こさないでほしい、学校なんかで教えるから差別が再生産されるんだ][もう差別なんかないんだからほっとくべきだ]とさまざまに意見が分かれていて人間だから当然と思う。
でも悲惨な歴史にふたをして忘却してしまうと過去の人々の苦しみまで無かったことになってしまわないか?というのと、現代の人間が過去から教訓を得られなくなってしまう、それと苦しみだけでなく部落にも豊かな文化と生活があり、(著者は部落の文化遺産と呼んでいたが)文化そのものも葬られてしまう。そういう理由から、現在の、部落の[ぶ]の字すら言ってはいけないようなタブーの空気はいやだなと思うので積極的に気軽に部落の話をするようにしてる。
でも後述するけどこのタブー化が差別の緩和に繋がったわけで、でもそれを加味してもやはりもうそろそろタブ一の段階は終わっていいだろうと思う。
私は部落民ではない女性なんで女性差別にしか興味がありません。主にどうして被差別部落がここまで差別を打破できたかの部分に興味があって調べておりその歴史に女性が差別に対抗するすべを学べないかとそう思い何年も前からあれこれ勉強しています。
はっきり申し上げておきますと部落差別より女性差別のほうがひどい。上記にあげたような苛烈な差別事例を知った上で言うことです。その理由のひとつに無徴の存在である部落民に対して女性は有徴の存在であり、部落差別から逃げるために素性を知られてない遠方に引っ越すという手段もあり実際多くの人がそうしていたようですが、女性が女性であることから逃げる手段は自殺しかありません。
(当然、無徴ゆえにだれも[被差別部落][部落民]とはなんなのかをはっきりと定義できないゆえに権力側に恣意的に身分を決められていた歴史もあるでしょう。それも知っています。でも、なお..なのです。ちなみに、部落民とは一般と先祖やルーツが違う別人種なのではと思う人もいるでしょうが、一般人でも部落民になったりするし、どうもそのへんあいまいというかはっきりしていないようです。本書には、とある部落民にむかって自分たちは先祖が同じだ]と言った一般民がいたという証言もあります。差別の根拠など全くないのです。さらに言うなら死にまつわる仕事がケガレというのも恐らく権力が恣意的に決めたことがし、ケガレの仕事ではない、たとえば内職などしかしない部落民も沢山あってケガレともイコールで結びつかないのです。)現在進行形でさ女は毎日女ってだけでなぐられ殺され犯されおとしめられてんだよ
家から一歩出るだけで醜いおっさんがジーロジロ品定めここから逃げる手段ないんすよ
女性の参政権だってGHQの鶴の一声であって日本の男はんなもん女に与えてくれたこと無いんですわ
すいません話それました!
国を動かしての解放令発布でもやむことがなかった差別が現在ここまで緩和されもはや部落問題を全く知らない人も多くなった、その主たる理由はやはり水平社(のちの部落解放同盟)の強硬な、時には暴力的な闘争姿勢によるものだったのではと思います。著者の柴田いわく、長野のなかでも東信地方は寒風が吹きつけてひどく底冷えがする地域で、昔から気骨のある男、気性の荒い男が多く、それが東信で水平運動がさかんだった理由ではないかと分析しています。逆に寒さがゆるやかな地域では[寝た子を起こすな]の論調が強かったり水平社よりも穏健だった同仁会がさかんだったらしい。でも同仁会も交渉の場では「水平社の連中よぶぞ]が殺し文句だったらしく虎の威を借りてたとか..そして水平社と同仁会、歴史に名を残したのはどちらかというともうこれは言うまでもありません。ふだんから竹槍の戦闘訓練も行い、武力闘争も召さなかった水平運動こそ歴史を変えた。彼らが起こした暴力事件の仔細はネットでも簡単に読めます。部落民は乱暴だ、奴らは犯罪者だといった風評も辞さない徹底的な闘争で、部落は怒らせると怖いと、部落がなんなのかよく知らない人すら何となく感じて、アンタッチャブルな話題だと感じる。タブーだと思う。その空気を牽引したのがテレビ等マスメディアの徹底的な自主規制でしょう。部落解放同盟ににらまれたら厄介だという理由で前述のように部落のぶの字も出さない、触らぬ神にたたりなし。先日もエタヒニンと発音しただけのアイドルが活動自粛に追い込まれたけどそういう過剰なまでの自主規制が、差別の存在そのものを透明化した。長い間メディアは頼まれてもないのに四本指の表現すら自主規制していた。
そのような、暴力や脅迫で勝ち取った自由の歴史を勉強していると、心底彼らがうらやましく、やっぱり権力もなにもあてにならずとにかく徹底的に相手に恐怖という根源的感情を植え付けて支配するしか対抗の方法は無いのかなと思ってしまう。なんだかわからないけど女性差別問題は怖いから少しでもセクハラと誤解される表現は自主規制しよう、万が一表に出てしまったら即座に責任者の首とばそう、そんなふうになってくれたらいいのにと夢見て泣きそうになります。
しかしながら水平運動に加わった男たちがそこまで暴れることができたのも男という性別ゆえかなと、同時に諦念を抱きます。
女はやさしさや思いやりといった(あえて言いますが)宿病をかかえています。それは先天的なものか、それとも後天的なものか、両方だろうか?とにかくフェミニストを自称する人たちすら、女性は優しくなければ、人の気持ちが分からなくてはという教条に縛られているので、そういう人たちと肩を並べて武力闘争が可能かどうかはあやしいものです。ねえ、やりすぎは良くないよやめよう、とお目目ウルウルのいい子ちゃんが必ずまざってしまい男たちはそのすきをついてくる気しかしません..
この本書のなかにはある村の一般の村長が出てきます。彼は比較的リベラルで、部落の子でも学校に入学できるようはからったとのこと。そのせいで彼は妻の実家の敷居をまたぐことを拒否されるなど反発され、水平社の者も彼のそのような行いを知っててもそれでもダメな所は徹底的に糾弾したので、「両方から突き上げ食らってもうさんざんだ]といったことを自嘲してるんですけど女性たちも同じように全く糾弾の手を緩めないってことが可能かと考えると難しい。
痴漢の手に安全ピンぶっさそうという(本来痴漢は殺されてもいいくらいなのだから穏当すぎるくらいなのに)呼び掛けにすらいい子ぶりっこがそういうのよくないよとたしなめるしまつ。
繰り返すけど殺されてもいいのに。
やさしさというのは女たちが生まれつき体に埋め込まれた起爆装置なのだろうか?差別に抗戦しようとした瞬間、それは作動し、女の体は爆発四散するのでしょうか?
この本の巻末、作者の生前の夫だった人による復刊によせての解説で言及されてた2014年の長野県連続差別事件がやばい。部落民の女性に対して、真ん前に引っ越してきた男が差別語連発で罵倒するのをやめない。裁判所から禁止令が出てもやめない。逮捕されても執行猶予で、けっきょく彼が万引きという別件で再逮捕され収監されるまでの2年間なにも解決しなかったそうです。
昔も今も権力なんてなんのあてにもならないどころか被差別階級にとっては敵でしかないんじゃないのとますます不信感がつのります。2014年とか最近じゃん昨日じゃんか
みんな本気で、ハッシュタグ(笑)だのツイッターデモ(笑)なんかで女の現状が救われるとおもってんのかな..こんなのなんにもならんってうすうす気づいてるんじゃないかな。男に殺される女が一人でも減るかそんなんでって思う。やってる感だけ得られたらいいんすか? けっきょくレベルを上げて物理で殴るしか無いんじゃないのか。それもわたし一人がやったところで社会的にインパクトないから組織だってやるしかないけど、以下ループ
水平運動の男たちは献身的に支えてくれる妻がいてそれで運動なりたってた部分でかいと思うけど女には妻おらんのですよな~
暴力ができないならせめて男がみんな自分に正直にホモ願望を解放してホモセックスし、抑圧している内的女性を現実の女性に投影するのをやめればミソジニー無くなって平和になると思うんですけど、でこう書けばホモは差別語だから差別はいけませんとかほざくぶりっこがフェミニズムの邪魔をしてくるのでもうどうしようも無いです! バーカ!ちんこ—
それで思い出したけど水平社=部落解放同盟は徹底したシングルイシューで在日朝鮮人を差別して反省しなかったり、男と女で日当に差をつけて差別してたという話も聞きます。イシューを抱え込まないことがやはり運動の成功の秘訣のひとつであったのかと感じますが女性は女性というだけでやはりシングルイシューではいけないといった脅迫をされます。色々な差別問題に敏感ではなければいけないような圧力にかかって、あらゆる差別に眉をひそめなきゃなんないあの感じ、全ての弱者のために涙しなきゃいけないような義務感、女だから聖母を求められてるんですよね。それもバーカ死ねでございます。女性差別以外知ったこっちゃねーでいいんだお
ところでこの本の作者柴田道子は童話作家で部落民じゃない一般です。長野市に引っ越してきて被差別部落と接触し、興味を持ち、この本を上梓したあとは狭山事件の被告のサポートに尽力、当該事件の本を執筆中わずか41歳の若さで急死したとか。
解説文でだんなさんが男社会のなかで女性としてうけていた差別があったから部落問題に熱心だったのでは的なことかいとるけどんじゃー女性差別問題に集中すればよかったのでは、女なら自分が当事者である女性差別問題に注力すればいいのに、しろよと思ったし、そうすべきだろがいすら思うんだが、そういった、正しくない女柴田の正しくない思いで発刊された、正しくない存在である力作のこの本によって後世の人間である私が歴史を知ることができたわけで、そしてこれは間違いなく後世に保存し読みつがれるべき大名著なんです!!!何が正しいか間違っているのか、どう思うべきか、どう行動すべきかって本当は一切なにもないのかもしれない。なのでフェミニストならこうすべきだ、こう思うべきだ、こう感じるべきだみたいな考えに固執している人はちょっと考え直したほうがいいな、正しいか間違ってるかなんて時代によって基準がぐにゃんぐにゃんで明日にでも真逆になるけど、なんか結果だけ見て、他人がジャッジしてもシャーナイつか、結局ね、なにかに汗かいて真剣にがんばったりさえして、懸命に生きさえすれば、それはもう…だれにも、文句は..まあいいや
弱者性って強力な武器にも盾にもなるから、拡大解釈してでも自分を含めたくなるんだよね。
オラオラ!ワイは弱者様やぞ!差別すんな守れ配慮しろ!ってやりたいよね。
だから際限なくずるずる広がっていく。
アラフォー、弱者男性予備軍、オタクリタイア、ロリコン、♂×アストルフォ程度ならBLいける、ブリジットはそんなに好きじゃない。
本題
ジャニーズ事務所問題でキムタクの契約を切ったマクドナルドに怒りが湧いた。
週に数回マクドナルドに通っているが、
受け取ったハンバーガーを叩きつけポテトをまき散らし、コーヒーをカウンターにぶちまけてやりたい衝動に駆られた。
だが俺は社会人だ、怒りを一瞬で飲み込み今日もマクドナルドで静かに食事した。
俺は、別にジャニヲタでもないし、キムタクファンでもない、リアルゲイでもない。
だが、俺にとってジャニーズは一流のかっこいいお兄さん達なのだ。
小学校の頃は、憧れのお兄さん
高校の頃は、まだ頑張ってるんだこいつらwと蔑む
キムタクは別格だ、ドラマは最近の教場くらいしか知らないが、やっぱりキムタクは一流なのだ。
情報を食っていると言えばそうだろう、俺たちの世代にとって憧れのお兄さんはキムタクなのだ。
最近のちょいマックCMのカッコいいんだかダサいんだか、でもニンマリしたくなるキムタクの仕草がどこか好きなんだ。
解散騒動や今回の炎上もダサいけど、まあキムタクなんだよなと許してしまった。
どこかほっとしたものを感じていた。
認知が歪んだ判官贔屓か、ねじ曲がった同胞愛か、わけがわからない怒りの感情が湧いた。
俺は普段社会正義を強く意識してきた、与党に声を上げ、ゆ党に怒り、野党を叱りたいそんな鬱屈した正義マンだ。
俺はジャニーズのアイドルがキャンセルされていく事に許せない感情があった。
自分が賢く進歩的だと密かにうぬぼれていたが、それは誤りだった。
だから、ジャニヲタを笑わないで欲しい、彼ら彼女らもこんな怒りが湧いて
わけもわからず理論武装して、めちゃくちゃになっているだけだ。
そのめちゃくちゃな理論武装で誰かを傷つけているのは明らかだが、怒りは論破しても収まらない。
このわけわからない怒りをもっと解き明かしてくれ、そして対立より解決を生んでくれ
そして俺はやっぱりキムタクに惚れているのか。