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はてなキーワード: カテゴリとは

2021-06-01

anond:20210601094907

てことは「強者のくせに傷ついたとか俺を守れとか言い張ってる自称弱者男性」と同じカテゴリってこと?

文系バカにしてるが、自衛隊がやってる軍事学文系のものじゃん

anond:20210529135456

理系的なことは外部の民間企業がやって、自衛隊がやってる軍事学文系カテゴリ

法と命令服従人間集団でどう動くかなんて完全に社会科学の分野

砲弾レーダーの具体的な構造理系だけど、そこの理系的な部分は自衛隊は一切担当してなくて自衛隊の外の民間研究者職人が作っている

自衛隊担当してる兵器操作人員の配置は人間の動きだから自然科学でなく文系学問

2021-05-31

anond:20210531233814

「申す」の未然形「申さ」+尊敬ほかの助動詞「られる」が付いた「申される」は、現在謙譲語尊敬語の混用とされて、明確に(辞書的な意味で)誤りです。

しかし、「申す」は「言う」の丁寧語でもあった時代がありました。というか、そうであった時代の方が、謙譲語一択になった時代よりもよほど長いのです。

例えば、「平家物語」の巻一・鹿谷には「新大納言成親(なりちか)の卿もひらに申されけり」(新大納言成親卿も(欠員の左大将の職を)ひたすら(ご所望なさると)おっしゃられた)とあります

その他にも用例は多々あり、つまり中古中世近世を通じて、「申さる」は「アリ」な使い方だったのです。

近代になって、明治期の標準語政策が始まると、「日本語の統括的な文法」というもの必要になってきました。ここで初めて敬語には三つのカテゴリ(言うまでもなく尊敬・謙譲・丁寧ですね)があると定められ、「申す」は謙譲語であるとされたのです。

ことここに至って「申される」は規範文法的には誤りだということになり、戦後教育では教科書にも明記されるようになり、現代に至ります

ですから現在でも60代以上の方には、この言い方に違和感のない方も多いのです。数年前の「国語世論調査」で、「『申される』という“誤った”敬語を使っている人は高齢者層に多い」というリポートがありましたが

それはそうで、彼らの感覚にしてみればアトヅケで「間違ってる」と定められた使い方なのですね。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1496376054

だって

anond:20210529215116

一般常識じゃなくてジェネレーションギャップじゃない?年寄り舞台ある程度好きな人間は知ってるのかもしれんけど、若者舞台興味ない人には意味不明単語カテゴリとしては舞台なんだから2.5次元みたいな?っていうのでも間違ってないっしょ。

2021-05-30

はてなスーパー

はてなスーパーの夢を見た。はてな運営しているスーパーだ。

はてなスーパーに入ってまず思った。狭い。ローソン以上セブンイレブン未満と言ったところか。そして客の平均年齢が高い。60代から70代がメインで、若くても50代だ。男性はいない。見た感じインターネットをやってそうな人はいない。ただ店員はみんな20代だ。

サッカー台の所にはてならしい要素があった。はてなブログの料理カテゴリ今日話題日記一覧が印刷され張り出されている。はてなスーパー言及している記事の一覧もあるが、これは2016年で止まっている。

自分野菜の良し悪しを見分けるのがあまり得意な方では無いが、これは一目見て悪いと分かる。トウモロコシの先端がみんな黒ずんでいる。ニラも萎びている。そもそも品揃えが良くない。この店に並んでる野菜カレーを作れそうな気がしない。

せっかくここまで来たのだから記念に何か1つ買って帰る事にした。インターネットらしいヤツがいい。そう思って長ネギを探した。初音ミクっぽいから。しか長ネギは売り切れていた。仕方がないので雑誌コーナーで文藝春秋を買った。

2021-05-29

[] エクセル スキニーリッチシャドウ SR03

メーカー : エクセル

商品名 : スキニーリッチシャドウ

型番 : SR03

価格 : 1650円

カテゴリ : メイクアップアイシャドウパウダーアイシャドウ

購入場所 : Amazon

きっかけ : 初心者おすすめと聞いて

星 : ★★★★☆

一番初めに自分で買ったアイシャドウ。いわゆるプチプラコスメ

自分メイクをするのがかなり遅く、20代中盤になって化粧を始めてみたいけども何を買って良いかからなかった時に初心者おすすめのまとめの中にあった一つ。

ちなみにこの時に合わせて買ったメイク道具一式

・これ

キャンメイクマシュマロフィニッシュパウダー

エクセル パウダーアンドアイペンシル アイブロウEX

ヘビーローテーション カラーリングイブロウ

キャンメイク グロウフルールチーク

・ザ セム カバーパーフェクション チップコンシーラー

オペライラッシュアドバンス

キャンメイク ステイオンバールージュ

この8点、約8000からメイクを始めた。下地は親がくれたものを使っていた。

この中で今も使いたいと思うのは今回のスキニーリッチシャドウオペラのマイラッシュくらいで、他は一応捨てずにとってはいるけども全然使ってない。

はいわゆるデパコスブランドアイシャドウちゃんとしたブラシを使ってメイクするようになったけども、スキニーリッチシャドウの左上のハイライトカラー涙袋にほぼ毎回入れてしまう。時間がある時はちゃんとしたブラシで涙袋用のアイシャドウを引っ張り出してこれるけども、このアイシャドウチップでさっとやるだけでもなんとなく下瞼もメイクしてる感じが出るので未だにここの部分だけかなり愛用している。昨日本当に時間がなくて4色で全部仕上げたけども、しっかりグラデーションが出来てやっぱり良いアイシャドウだなと思った。

2021-05-28

カタカナファンタジーが苦手である

 昔から個人的に、日本語カタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説映画漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくま個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝りますすみません

 日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。

 海外SF周辺の作家作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きであるものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編魔法を売る店』も好きであるSF作家視点から魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバートシェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である

 日本を含めて世界的に『ハリー・ポッターシリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズ劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画ジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズシリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。

 「剣と魔法系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビビデオで観た『アルゴ探検隊冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである

 『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才モテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長あんな依怙贔屓をするような人間からスリリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえギリシア神話英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。

 LoTRが苦手なのは正義の側のキャラクター白人ベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種イメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。

 こんな感じでカタカナファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルクである

 外形的には、人知を超越する異形の存在怪物魔法などが存在する世界舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語ファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」であるハリー・ポッターLoTRファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。

 ゴットハンド名前(スラン、ユービックヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将名前(ボスコーン)からは、作者の原体験SF作品が有ったことは想像に難くない。だからベルセルク物語世界では「魔法のような人知を超えた事象存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家SF視点から魔法存在する世界舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。

 少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンコントスーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから不思議世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである

 話を戻すと、『ベルセルク』の物語魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公ガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンド召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルク物語における魔法人知を超えた異形の怪物ほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドー養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである

 それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンド召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラドリーム状態を実現した、ハンサム野比のび太である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である

 こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロファルネーゼセルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士魔女による魔法サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。

 長い長い時を経てキャスカ正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太物語を、作者は描いてくれる。長期間休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。

 私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身ペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。

 このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。

 人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズ引用するぐらいしか出来ない。

 「風が、旅の終わりを告げていた」と。

2021-05-27

「死ななきゃつまんなーい」

ゴジラS.Pの感想で「被害者が出ないと緊迫感がなく面白くならない」というような感想がそこそこある

まああれか、ゾンビ映画で襲われたシーンがちっともないみたいなもんか

怪獣特撮作品」というカテゴリで見てるんだろうな

カテゴリで枠に嵌めて見ると毎週20分で大量消化できるので正直個人的気持ちはすごくよくわかるのだが、ゴジラという名前はなかなか重い


タイトル世にも奇妙な物語「大予言」より。ラストのここのシーンだけ傑作

2021-05-26

はてブの「暮らしカテゴリの「掃除整理整頓」をよく読むが。

最近ダイニングというキーワードに引っ張られて、グローバルダイニングの休業要請拒否記事がいっぱい紛れており、なんとも言えない気持ちになる。

anond:20210526073432

和服洋服ってどっちも着るもの着物なのに、なんで別カテゴリ区別されてんの?

ってお前は疑問に思う?

anond:20210525105310

知らんVTuberの聞いても楽しくないのにランキングに長く残って邪魔なので、早く増えて別カテゴリになってほしい。

PCWatchで中華製品ニュースにするのやめてほしい

MINISFORUMとかAnkerとか

まあAnker非情機器だし興味ないからいいのだが、

中華PCを堂々と日本サイトニュースにするな。

もれなくスパイウェア入りでw買うつもりもないしクリックすらしないのだが。

せめて中華製品Watchかいカテゴリに封じ込めてくれw

こんな堂々とやってんのPCWatchだけだよね。売国メディアかな。

anond:20210526094806

アニメ版シンデレラガールズ大衆向けであることと、アイマス本編が気持ち悪いことは両立するぞ

アイマス(ロボ)があるからってアイマスというコンテンツ全体がロボカテゴリに入らないのと一緒

2021-05-23

anond:20210523132925

女を理想化しすぎ。

多数を占める人格障害女は弱者男性なんて存在してないと思ってる。

女の世界観存在する「男」は「イイ男」と「クズ男(ヤリ目)」だけ。

弱者男性が属するカテゴリは「男」ではなく「不審者」になる。

2021-05-22

anond:20210522195054

批判側・擁護側にかかわらず分量の概念無視している奴はどっちもアホだろ

例えばwikipediaを見ると

アメリカ食品医薬品局も、グルタミン酸ナトリウムGRAS (Generally Recognized As Safe) として、食酢食塩と同じ安全性カテゴリに置き、その根拠としてFDA調査を依頼した米国実験生物学連合英語版) (FASEB) の「3g以上の摂取をした人のうち頭痛などの軽い症状を起こしたものがあるが、一食当りの典型的なMSGの使用量は0.5g以下である」との報告を出している

…等々とあり、要は過剰摂取しなければ安全ちゅうこっちゃ

2021-05-21

苦手な漬け物を克服したい

子どものころから漬け物が苦手で、カレーに添えられた福神漬けはもちろん、その色素で赤く染まったごはんさえも食べたくないと駄々をこねる子どもだった。コマーシャルで「きゅうりのキューちゃん」とか「しば漬け食べたい」とか聞くたびにおぞましい気持ちになった。ハンバーガーピクルスはいつも抜いてもらった。出されたおにぎりの具が梅干しと判明したならおなかがいっぱいだとウソをついた。

現代社会になるにつれて漬け物は消えていくかと思いきや世の中はひどいもので、高菜チャーハンだの豚キムチだのキムチ鍋だのが流行りの食べものとして出てきた。注文したことも食べたこともない。幕の内弁当はいつもご丁寧に漬け物が添えられる。いつも残してきた。昼飯をぼーっとして食べていて、弁当デザートパイナップルが付いてる!と喜んで食べたらたくあんだったことがある。人前だから吐き出すわけにもいかず間違えた自分を呪った。

何がイヤって酸っぱいのが嫌いなのだ。酢のにおいが大嫌いで、寿司屋そばを通るときだってこっそり鼻を抑えているくらいだ。理科実験酢酸を扱ったときなんかは本当に最悪だった。CH3COOHは憎しみとともに覚えている。酸味が嫌い、酸っぱいにおいも嫌い。そんな感じで30数年生きてきた。

その私が、最近、もしかしたら変われるのかもと思いはじめた。きっかけは奈良漬けを食べたことにある。普段法事で出されても手を付けずにきたのだが、去年は法事のものがなくなって、代わりに奈良漬けが送られてきたのだ。いらねー!と思ったが捨てるわけにもいかないとも思って、粕をぬぐったその切れ端をおそるおそる食べてみた。意外なことに食べられた。酸っぱくないからなのかはわからないが、初めて漬け物をすすんで食べたのは良い経験になった。

それから周りに酸っぱくない漬け物を教えてもらうようになった。全然酸っぱくないと勧められた中にはかなり酸味の強いのがあったりして、他人の味覚を信じきることはできないなと思いながらも少しずつ食べるようになってきた。それで今、もうちょっと酸っぱいのにチャレンジしてみてもいいのかもしれないと思っている。今興味があるのはキムチなのだが、はたしてこれはちょっと酸っぱいのカテゴリなのかわからないでいる。最終目標は酢で締めた魚を食べられるようになることだが、これは無理だろうと思っている。

2021-05-20

深めのフルシティあるいはフレンチロースト一歩手前くらいの焼き加減

カテゴリとしてはフレンチローストなんだろうけどフレンチローストほどの焦げ感がなくて、フルシティ特有の香ばしさと強めの苦みがある状態

狙って焼くのは難しいけど個人的マンデリンでこれが再現できると一番うまい

2021-05-17

はてブカテゴリについて

エンタメの中のジャンルで、サッカーはあっても野球がないんだけど

野球ってそんなに人気なくなっちゃったの?

2021-05-16

路上飲みのイラストいらすとや

https://www.irasutoya.com/2021/05/blog-post_11.html?m=1

てっきり「違反カテゴリに含まれるのではと思ったけど、そうはならなかった。

代わりに「マナーカテゴリに含まれているところにいらすとやさんの迷いと優しさがあるのかもしれないなー

2021-05-15

メモ選手応援したいがオリンピック続行はヤバいというジレンマ

これはある意味典型的認知的不協和なんだろうな。

あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手応援したい、というジレンマ

全国的感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。

wikipediaによると以下。

認知的不協和とは、人が自身認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語アメリカ心理学者レオンフェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和典型例なんじゃないだろうか。

しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。

例としては、うなぎ大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみ規制すべき等も思いつく。

自分欲求社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分なかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。

うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。

うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共判断は成立しない。

うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法ひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的制度設計だ。

しかし、人間心理矛盾をなんとか解消

公共的な意思決定は、決して個々人の選好の集合や多数決ではない。

そう考えると、現代民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。

個人的には好きではないけど自分社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。

そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。

近代民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカ建国者のひとりジェファーソンは、

公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共課題自分欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政必要市民資質だと考え、他方、代表者議員)に必要資質アリストクラシー自然的貴族)と呼んだ。

しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。

社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき

ふつうの人々は、自分内面を整理するために、どちらかの認知一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知修正してゆくことになる。

今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。

オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。

社会規範に合わせて自分に対して一貫性要求しがちな日本人特に自分欲求我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。

別の例を挙げれば、60年代セクト化が加速したサヨクの動きが典型例。

エスカレートした「総括」要求など。

また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知一貫性他人に求める一例。

サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。

自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。

まさにこれが心理学が扱う認知的不協和テーマなのだろう。

党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、

それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。

ますます両極化が進んでいき、相手方一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやす立場の人とと

そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。

認知的不協和を解消しにくい人々。解消しやすい人々。

コロナ対策では人流の抑制課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。

しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、

次第に言葉の力は失われ、今では行政政治家も口にしなくなってしまった。

もっとも同時に、自粛警察あんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。

ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。

思い出すのはベトナム反戦運動ベトナム反戦真っ盛りの60年代アメリカブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たち

反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。

コロナ禍でのステイホームムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。

自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしま業界

それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。

オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会安全自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。

以上の話は、人々のジレンマ構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、

自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在自分社会立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、

自分自身党派性無自覚であってはいけない、

知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性アピールされているに過ぎない。

しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。

重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、

相手立場を知る、という機会自体重要なんじゃないかな。

オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、

そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。

飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。

タレコミも減ってきたという声もきかれる。

こうした寛容さは、行政飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。

人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。

しかし、人々の寛容が進めば、自粛警察抑止力を期待した政策は効力を失う

こうして考えてみると、自粛要請ベースとした日本流政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。

自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人メンタリティと、同じ社会構成員にも同じ一貫性要求したがる相互監視ムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルール判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。

ましてや大阪市市長さんのように、それを体現たかのように

感染者がいなければオリンピックもやっている。一生の思い出に残る行事実施したい

などと、都合のいい解釈認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、

人々は、ルールへ従うことの意味不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視機能せず、自分生活を変えることなコロナへの懸念自分認知のなかで両立させてゆくだけだ。

しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢限界をとっくに超えているしで、

人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。

自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナ心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。

本来政策というのは、そんな人々の認知世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。

例えば、自分の考えと相反していても、オリンピック応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、

あるいは、オリンピック懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。

「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元政策を決めるべきではない。

しろ個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民判断を見極めたほうがいい。

しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。

いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。

将来シナリオを示さない。予測分析を共有しないから、いつも唐突首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。

ある意味ガバナンスの基本ともいえる、こうした事柄に目を背け、

政策への信頼を、世論(最大多数の認知)で推し量ろうとする、その姿勢こそが日本ガバナンスのガンだと思う。

今日すっごい夢を見たんだが

昨日の夜、割と渾身の増田投稿した後に寝たんだよね

で、寝てるときふと目が冷めて「アレどうなったかな」って気になったら2ブクマくらいついてて、

まあまだこんなもんかって思ってまた寝て、でもすぐ目が覚めて

「さっき確認したアレまさか夢じゃないよな?」って思って見たら8ブクマくらいになってて、

「これでカテゴリトップには一応乗りそうだし起きたらどのくらい伸びるかなー」って思ってまた寝て、

でもあんまり寝付きがよくなくて、浅い眠りについてはすぐ起きてブクマ確認する、っていうのを繰り返してたらブクマトップに載ってから結構順調に伸びていって

最終的にド深夜ながら100ブクマくらいはついてた。

で今さっきまた起きてまた問題増田記事確認したら3ブクマだったんだ。ちなみに1つは自分だ。

「アレ夢じゃないよな?」って何回も確認したのも覚えてるのにそれすら全部夢だった。知ってるお馴染みのブクマカがクソコメ残してそれにやたらスターがついてちょっとイラっと来てたのも覚えてる。

「寝付きが悪くて深夜に何度も起きる度にベッドでスマホ開いて昨日増田投稿した記事ブクマ数を確認する」

こんな悲しい夢があるか?

2021-05-12

不潔な顔つきのお笑い芸人を見たくない。

 広告などで、松本人志とか、野性爆弾くっきーとか、小籔千豊とかが予期せず出てくるとウゲーッ!となる。文字通り、吐き気がする。見たくない人間が出ているテレビ番組自分の方から避けるから別に構わないのだけれども、広告などは不意打ちで目に入って来るから本当に困る。

 念の為に言えば、世間で「外見的な尺度於いて劣っている」というカテゴリに入れられているお笑い芸人全般のことが嫌いという訳ではない。私が見たくないのは「不潔さ」を覚えさせるお笑い芸人だ。

 漫画寄生獣』の登場人物パラサイトを見分ける能力を持つ凶悪犯罪者が、後藤を見ても直ぐには危険性に気付くことができなかった警察官(普通人間)に対して「アンタはアレを見ても何も感じないのか?」と言う場面が有ったが、私も似たような感覚を覚える。

 世間の人たちは彼らを見て、よくも平気でいられるものだなと不思議に思う。

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